こんにちは。ユアムーン 編集部です。
皆さんはルネ・マグリットという人物をご存知ですか?
マグリットはベルギーで生まれたシュルレアリスムを代表する画家です。
パブロ・ピカソの興したキュビズム、ジョルジョ・デ・キリコの興した形而上絵画に連なり、目に見えるままの風景を描くのではなく作者が世界をどう見ているかを重視した絵画のブームをより一層広めた人物です。
これによって絵画の鑑賞スタイルは変化し、現代アートに通じるものになっていきました。
本記事ではそんなルネ・マグリットの人生と作品についてご紹介します。
目次
ルネ・マグリットって?
基本情報
本名 | ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット (René François Ghislain Magritte) |
生年月日 | 1898年11月21日〜1967年8月15日(69歳) |
出身/国籍 | ベルギー レシーヌ |
学歴 | ブリュッセル王立美術アカデミー |
分野 | 絵画、イラストレーション |
傾向 | キュビズム、シュルレアリスム |
師事した/影響を受けた人物 | ジョルジョ・デ・キリコ、その他多くのシュルレアリスム画家 |
シュルレアリスムとは?
シュルレアリスムとは、日本語で「超現実主義」とも言われ、1924年にアンドレ・ブルトンが活動を始めました。
シュルレアリスムの絵画はアカデミーで培われた絵画技法を駆使して、不条理な風景や、非現実的な生き物を描き、自身に眠る無意識を表現します。ブルトンはフロイトの精神分析学を学んでおり、シュルレアリスムのコンセプトはフロイトから来ていると言っても過言ではありません。
多くのシュルレアリスト達は無意識の欲望は夢の中に現れると考え、眠っている時の記憶を便りに作品の制作に取り組みました。
経歴と作品
生まれと環境
ルネ・マグリットは1898年にベルギーのレシーヌで生まれました。父親は仕立て屋で、母親は帽子屋をしていました。このことはもしかしたら、マグリットがスーツにネクタイという姿で制作をしていたことに関係するかもしれません。
マグリットは生まれてすぐに家族と共にジリという街に移り、その後1904年にシャルルロワ近郊のシャトレに移り住みました。
中学生の頃からマグリットは芸術に興味を持ち、毎週絵画教室に通っていました。
のちにマグリットは子供の時に絵画に描いた印象について
絵画芸術はどこか魔法のようであり、画家にすぐれた力を与えてくれる
と述べています。
母親の自殺
1912年、マグリットの母親が水死体で発見されました。
厳密な原因は不明ですが、以前から自殺未遂を繰り返していたことから自殺と見られており、少なくともマグリット自身はそのように思っていたようです。
実はマグリットの母は敬虔なクリスチャンでしたが、同時に精神がとても不安定な人物だったようです。父は放任主義で、子供の世話をせずに金をやり、遊び歩かせていたことで幼い頃のマグリットと弟ポールは中学生にして娼館に出入りする不良少年でした。
このような放埒な家庭環境が自殺の原因だったのかもしれません。
川で見つかった母の体には白いガウンがかかっていました。このことが理由か、マグリットは後年、たびたび顔に白い布がかけられた人物を繰り返し描いています。
『恋人たち(1928)』
アカデミーへの入学
1916年にマグリットはブリュッセル王立美術アカデミーに入学し、キュビズム、未来派、ダダ、デ・ステイルなどの芸術運動と出会いました。彼はアカデミーに通いながらも生活費を賄う為に、グラティックデザインや広告ポスターの仕事をしていました。アカデミー卒業後は壁紙工場のデザイナーとなりました。
この頃に手掛けた絵画はキュビズムの影響を強く受けていたことがわかります。
『部屋の中の三人のヌード(1923)』
前衛芸術の技法に躍進
またマグリットは、前衛芸術の基本的な技法を独自の表現に発展させたことも功績の一つとしてあげられます。
「デペイズマン」という技法は、現在ではシュルレアリスムの基本的技法として知られます。フランス語で「人を異なる環境に置く」「居心地が悪い」という意味のこの技法は、その意味の通りモチーフを不自然な環境に配置し、違和感のある見た目にするというものです。
マグリットは言葉が非現実的なイメージを簡単に言い表せてしまうことに関心を持っており、それを絵画に取り入れる試みを後年行っています。
イメージの裏切り(The Treachery of images)
例えば、1928年から1929年に制作された『イメージの裏切り(1928〜1929)』という作品は、茶色のパイプが描かれていますが、「これはパイプではない」という文字が記載されています。
絵画と文字がお互いに矛盾するシチュエーションを作り、受け手に違和感を感じさせたり、「これがパイプではないなら何だろう?」と思わせるという働きをします。
このような手法は「言葉のコラージュ」とも言うべきもので、文学から始まったシュルレアリスムにおける、ある意味の原点回帰と表現することもできるかもしれません。
このような試みは、シュルレアリスム運動に長く参加していた中でマグリットが、自由であるべき前衛芸術に様々な規制があるという矛盾や、惰性を感じたことが原因といいます。
シュルレアリスムとフランス
1922年、雑誌に掲載されていたジョルジョ・デ・キリコ(1888〜1978)の作品『愛の唄(1914)』を見たマグリットは、絵画は見た目だけではなく、思考を揺さぶることで心に残るという一面を見出し、シュルレアリスムへのめり込んで行きました。
ジョルジョ・デ・キリコ作『愛の唄(1914)』
この後、1926年に描いた『迷える騎士(1926)』がマグリットの手がけた初めてのシュルレアリスム作品と言われています。
楽譜の描かれた柱のように見えるものはけん玉で、楽譜の描かれたモチーフは『夜曲(1927)』、『鳩(1961-1962)』などにも登場します。
一見突飛なモチーフに思われますが、実はマグリットは1924年から1938年にかけて約63点の楽譜の表紙デザインを手掛けており、このことから絵画に取り入れたものだと思われます。
このけん玉は、石化した生物のモチーフであったり、命を吹き込まれた無生物の視点であったり、男根のメタファーであったりと様々な意味を持たされるので、マグリットの作品を見るにあたってぜひ注目したいポイントです。
『迷える騎士(1926)』
1926年にマグリットはブリュッセルのアートギャラリーと契約を結び、翌年に人生初の個展を開催しました。その際に『迷える騎士』も出品されましたが、批評家に手厳しい評価を受けることとなりました。
同年に彼と彼の妻はフランスに引っ越し、その後3年間はアンドレ・ブルトンをはじめとするフランスのシュルレアリストたちと交流しました。
1929年にはパリ ゴーマンズ・ギャラリーにてサルバドール・ダリ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、フランシス・ピカビア、パブロ・ピカソ、イヴ・タンギーといった錚々たるメンバーでの展覧会が開かれました。
そして3年後にブリュッセル へ戻り、残りの人生を過ごしました。
他の作品
大家族(The Large Family)
この作品は1963年に制作され、日本の宇都宮美術館に所蔵されています。作品のデザインとしては、鳥の周囲はどんよりとした曇り空ですが、平和の象徴である鳥の中は青空が描かれています。
「空の鳥」と呼ばれるこのモチーフは、もともと広告や書籍の表紙などの仕事をしていたマグリットの仕事をサベナ航空会社が見て、エンブレムの依頼をしたことで広く知られることになりました。マグリットはこの仕事を「ホウレンソウに添えるバター」ほどと評していましたが、その意に反するように人気を博した作品です。
光の帝国(The Empire of Lights)
これは1953年から1954年に制作されました。光の帝国はシリーズ作品で、本シリーズはどれも空は青空で、家や通りは夜という矛盾したものになっています。
余談ですが、映画『エクソシスト』のポスターに使用された写真の構図は、監督のウィリアム・フリードキンがこの絵にインスピレーションを受けたものだと語っています。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
ルネ・マグリットを含めたシュルレアリストの作品は見る人独自の解釈が出来、芸術から様々な分野の人がインスピレーションを受けられると私は感じました。
マグリットの作品は日本の美術館でも見ることが出来ますので、機会があれば是非見に行ってみて下さい!