こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはエドヴァルド・ムンクという人物をご存知ですか?
ムンクはノルウェーを代表する画家で、橋の上で両手を頬にあてた人物を描いた『叫び』の作者として世界中に知られています。
幼いころに母と姉を病気で失った経験から、「病」「死」「愛」「不安」といった人間の内面を生涯にわたって描き続け、のちの表現主義(感情を色や形のゆがみで強く表す美術の流れ)の先駆けと言われるようになりました。
80歳まで生きたムンクの画業は、実は『叫び』だけではありません。明るい色彩の大壁画や、老いた自分を見つめる晩年の自画像など、60年以上にわたって作風を変え続けた画家でもあります。
本記事ではそんなエドヴァルド・ムンクの人生と作品についてご紹介します。
コンテンツ
Toggleエドヴァルド・ムンクって?
基本情報
| 本名 | エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch) |
| 生年月日 | 1863年12月12日〜1944年1月23日(80歳没) |
| 国籍/出身 | ノルウェー ヘードマルク地方ロイテン(Løten)生まれ、クリスチャニア(現在のオスロ)育ち |
| 学歴 | 王立素描学校(クリスチャニア) |
| 分野 | 絵画、版画 |
| 傾向 | 象徴主義、表現主義の先駆け |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | クリスチャン・クローグ(師事)、ハンス・イェーゲル、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ |
経歴と作品
母と姉を失った少年時代
ムンクは1863年12月12日、ノルウェー東部のロイテンという村で生まれました。父のクリスティアン・ムンクは軍医で、翌年には一家で首都クリスチャニア(現在のオスロ)へ移り住みます。
ムンク家には5人の子どもがいましたが、この家族を立て続けに不幸が襲います。
1868年、ムンクが5歳のときに、母ラウラが結核で亡くなりました。
母を亡くした子どもたちの面倒をみたのは、母の妹であるカーレン叔母さんでした。カーレンはその後、子どもたちの母親代わりとして一家を支えることになります。
しかし1877年には、ムンクが慕っていた1歳年上の姉ソフィーエも、15歳で同じ結核によって亡くなってしまいます。
ムンク自身も体が弱く、冬の間はたびたび病気で寝込んでいたため、学校に通えない時期もありました。
家族のなかにはその後も病と別れが続きました。妹のラウラは若くして精神の病を患い、長く入院生活を送ることになります。また、ただ一人の弟アンドレアスは結婚からまもない1895年に亡くなっています。
のちにムンクは、自分の芸術の目的について「私は芸術のなかで、人生とその意味を自分自身に説明しようとしている」という趣旨の言葉を残しています。幼いころから身近にあった病と死は、ムンクにとって絵の中で向き合い続けるテーマになっていきました。
画家への道と『病める子』
ムンクは1879年に技術学校へ入学し、はじめはエンジニアを目指していました。しかし体調を崩しがちで、1880年には学校を辞め、画家になることを決意します。17歳のころの日記には「画家になることを、いま決心した」という意味の一文が書かれています。
同じ1880年、ムンクはクリスチャニアの王立素描学校で学び始めました(入学を1881年とする資料もあります)。さらに仲間6人とともに市の中心部にアトリエを借り、そこで写実的な作風で知られる画家クリスチャン・クローグの指導を受けます。クローグはムンクの才能を早くから認め、奨学金の獲得にも力を貸した人物です。
このころムンクは、作家ハンス・イェーゲルを中心とする「クリスチャニア・ボヘミアン」と呼ばれる若い芸術家や作家のグループと交流します。彼らは当時の保守的な道徳や宗教に反発し、自由な生き方と、自分の人生そのものを表現することを重んじていました。この考え方は、若いムンクに大きな影響を与えたと言われています。
『病める子』(1885-1886)

『病める子』は、ムンクが画家として最初の大きな転機を迎えた作品です。
画面には、枕に背をあずけた赤い髪の少女と、その手を握りながらうなだれる女性が描かれています。この作品は、結核で亡くなった姉ソフィーエの記憶から生まれたものとされています。
ムンクは1886年の秋季展(クリスチャニアで毎年開かれていた芸術家たちの展覧会)にこの作品を出品しました。しかし、絵の具を何度も塗り重ねては削り取り、引っかき傷のような線が残る画面は、当時の人々の目には「描きかけ」のように映りました。批評家からは厳しい言葉が浴びせられ、擁護したのは師のクローグなど、ごくわずかな人だけだったと言われています。
それでもムンクはこの主題を手放しませんでした。のちの人生で何度も『病める子』を描き直し、版画も制作しています。形を正確に写すことよりも、そのときに感じた悲しみそのものを画面に残そうとしたこの作品は、ムンクの芸術の出発点と言えるでしょう。
パリ留学と父の死
1889年の春、ムンクはクリスチャニアで初めての個展を開き、これをきっかけに国の奨学金を得て、同じ年の秋から本格的にパリへ留学します。
パリでははじめ、アカデミックな画家として知られていたレオン・ボナのもとでデッサンを学びました。しかし色の使い方をめぐって考えが合わず、ムンクはしだいに教室の外で、同時代の新しい絵画から多くを吸収していきます。
当時のパリでは、印象派のあとに続く画家たちが次々と新しい表現を生み出していました。ムンクはこの時期にポール・ゴーギャンやフィンセント・ファン・ゴッホ、トゥールーズ=ロートレックらの作品に触れ、強い影響を受けたとされています。
ところが留学中の1889年の終わり、故郷の父クリスティアンが急死したという知らせが届きます。遠く離れたパリで、ムンクはまたひとり家族を失ったのです。
悲しみのなか、ムンクはパリ郊外のサン=クルーに移り住みます。そしてこの時期の日記に、のちに「サン=クルー宣言」と呼ばれる有名な一節を書き残しました。
もう室内画や、本を読む人、編み物をする女性を描くべきではない。息をし、感じ、苦しみ、愛する、生きた人間を描くのだ。
(1929年に公表された日記の一節。編集部による大意訳)
目に見える風景や日常をそのまま写すのではなく、人間の魂の状態、つまり愛や不安、死への恐れといった心の動きを描くこと。この決意が、ムンクの代表作が次々と生まれる1890年代の土台になりました。
ベルリンの「ムンク事件」と『叫び』
1892年の秋、ムンクはベルリン芸術家協会に招かれ、ベルリンで個展を開きます。
ところが、荒々しい筆づかいと暗い主題の作品は、保守的な会員たちから激しく反発されました。協会内で議論が起こった末に、展覧会はわずか1週間ほどで打ち切られてしまいます。
この出来事は「ムンク事件」と呼ばれ、新聞でも大きく取り上げられました。皮肉なことに、この騒ぎによってムンクの名前はドイツで一気に知られるようになります。さらにこの事件は、協会の古い体質に不満を持った若い芸術家たちが、のちの1898年に「ベルリン分離派」を結成するきっかけのひとつになったとされています。
以後ムンクは、1890年代の多くの時間をベルリンで過ごしました。「黒い子豚」という名の酒場に集まる芸術家の仲間には、スウェーデンの劇作家アウグスト・ストリンドベリ、ポーランド出身の作家スタニスワフ・プシビシェフスキ、ノルウェー出身の女性作家ダグニー・ユールらがいました。彼らとの交流のなかで、ムンクの代表作の多くが生まれます。
『叫び』(1893)

ここでご紹介するのは、ノルウェー国立美術館が所蔵する1893年の『叫び』です。厚紙にテンペラ(卵などで顔料を練った絵の具)とクレヨンで描かれた作品です(油彩やパステルも使われているとする資料もあります)。
この作品のもとになった体験は、ムンクが1892年1月22日に南フランスのニースで書いた日記に記されています。そこには、友人2人と道を歩いていると日が沈みかけ、空が突然血のように赤く染まった。自分は疲れを感じて柵にもたれ、友人たちが先へ歩いていくなか、不安に震えながら立ち尽くしていた。そして、自然をつらぬく果てしない叫びを感じた、という内容が書かれています。
ここで大切なのは、叫んでいるのは描かれた人物ではなく「自然」のほうだという点です。両手で耳をふさいでいる人物は、自然から押し寄せる叫びを聞いて身をすくめている、と読むことができます。実際、ムンクはこの作品をはじめ、ドイツ語で「自然の叫び」を意味する題名で展示していました。
舞台となったのは、オスロの町とフィヨルド(氷河が削ってできた深い入り江)を見下ろすエーケベルグの丘だとされています。うねるような赤い空と青いフィヨルド、画面を斜めに横切る手すりの直線、そして骸骨のように単純化された人物。現実の風景を借りながら、そこに走った不安の感覚を形と色に置き換えた作品です。
この1893年版には、左上の赤い空の部分に、鉛筆で「狂人にしか描けない!」という意味のノルウェー語の書き込みがあります。長らく誰が書いたのか議論がありましたが、2021年、ノルウェー国立美術館が赤外線撮影をもとに筆跡を調査し、ムンク本人の筆跡であると発表しました。1895年にこの作品が故郷で展示された際、ある医学生がムンクの精神状態を疑う発言をしたことがあり、それを受けてムンク自身が書き込んだものと考えられています。
なお、この1893年版の『叫び』は1994年2月に盗まれるという事件にも遭いましたが、同じ年の5月に無事に取り戻されています。
『叫び』はひとつではない
実は、ムンクの『叫び』は1点だけではありません。ムンクは同じ主題を、画材や技法を変えながら何度も制作しています。現在確認されている主な『叫び』は、次のとおりです。
- 1893年 テンペラ・クレヨン(厚紙) ノルウェー国立美術館(上でご紹介した作品)
- 1893年 クレヨン(厚紙) ムンク美術館
- 1895年 パステル(厚紙) 個人蔵
- 1895年 リトグラフ(版画) 複数の刷りが各地に所蔵
- 1910年ごろ テンペラ・油彩(厚紙) ムンク美術館
このうち1895年のパステル版は、色のついた4点の『叫び』のなかで唯一、個人が所有してきたもので、2012年5月2日にニューヨークのサザビーズのオークションにかけられ、約1億1,992万ドルで落札されました。これは当時、公開オークションで取引された美術作品として史上最高額でした。
また、ムンク美術館が所蔵する1910年ごろのテンペラ版は、2004年8月に『マドンナ』とともに白昼の美術館から盗まれました。2006年8月に発見されましたが、傷みが見つかり、修復が行われています。
日本では、2018年10月から2019年1月にかけて東京都美術館で開かれた「ムンク展 共鳴する魂の叫び」で、このムンク美術館所蔵のテンペラ・油彩版が来日し、大きな話題になりました。
『叫び』リトグラフ版(1895)

ベルリン時代のムンクは、油彩だけでなく版画にも本格的に取り組みはじめました。リトグラフ(石版画)や木版画は、同じ図柄を何枚も刷ることができ、より多くの人に作品を届けられます。また、刷るたびに色やインクの調子を変えるなど、実験的な表現を試せることもムンクを引きつけたと考えられています。
1895年のリトグラフ版『叫び』は白と黒だけで刷られていますが、空をうねる線やフィヨルドの渦巻くような線は、色がない分だけかえってリズムがはっきりと感じられます。油彩の『叫び』とくらべてみると、ムンクがこの図柄の「線の動き」にどれほどこだわっていたかがよく分かります。
ベルリン時代と「愛」の作品
1890年代のムンクは、『叫び』のような不安だけでなく、男女の愛、嫉妬、性の目覚めといった、人間の心の揺れを次々と絵にしていきます。
『タバコを持つ自画像』(1895)

ベルリン時代の代表的な自画像が『タバコを持つ自画像』です。
青みがかった暗い背景のなかに、タバコの煙に包まれたムンクが浮かび上がっています。顔と手は下から光を当てられたように明るく照らされ、こちらをじっと見つめる視線が印象的です。30代前半の画家の、自信と緊張感が入り混じったような姿を描いた作品として知られています。
『マドンナ』(1894)

『マドンナ』は、目を閉じて身をそらせる女性の上半身を描いた作品です。
「マドンナ」とは本来、聖母マリアを指す言葉です。しかしこの女性には伝統的な聖母像のような穏やかさはなく、頭のうしろには赤い光の輪のようなものが描かれ、体のまわりを波打つような線が取り巻いています。聖なるものと官能的なもの、生命が生まれる瞬間と死の気配が、ひとつの画面のなかに重ね合わされていると解釈されています。
ムンクは『マドンナ』も油彩で複数のバージョンを描き、リトグラフでも制作しました。
『吸血鬼』(1895)

『吸血鬼』には、男性の首もとに顔をうずめる赤い髪の女性が描かれています。
刺激的な題名ですが、ムンクが1893年にベルリンで初めてこの主題を発表したときの題名は「愛と痛み」でした。「吸血鬼」という呼び名は、作品を見た友人の作家プシビシェフスキの言葉から広まったものとされています。ムンク自身は、この絵は「男性の首にキスをしている女性にすぎない」と語っていたとも伝えられています。
「生命のフリーズ」とトゥラ・ラーセン
1890年代にムンクが描いた『叫び』『マドンナ』『吸血鬼』といった作品は、ばらばらに作られたものではありませんでした。ムンクはこれらを、人間の一生における愛と不安と死をたどる、ひと続きの連作として構想していたのです。
この連作は「生命のフリーズ」と呼ばれています。フリーズとは、建物の壁の上部を帯のように飾る装飾のことです。ムンクは1890年代からこの構想を温め、1902年のベルリン分離派展で、それまでの作品を「生命のフリーズ」としてまとめて展示しました。
一方、私生活では苦しい時期が続いていました。1898年、ムンクはトゥラ・ラーセンという女性と出会い、交際を始めます。トゥラは結婚を強く望みましたが、ムンクは結婚に踏み切ることができず、二人の関係はしだいにこじれていきました。
1902年9月、海辺の町オースゴールストランで二人が言い争いをしている最中にピストルが発射され、ムンクは左手の中指に大けがを負います。この出来事を境に二人の関係は終わりました。
『生命のダンス』(1899-1900)

『生命のダンス』(『生命の踊り』とも訳されます)は、「生命のフリーズ」の中心的な作品のひとつです。
夏の夜の海辺で、人々が踊っています。画面の中央では赤いドレスの女性と黒い服の男性が向き合って踊り、左には白いドレスの若い女性、右には黒いドレスの女性が立っています。海の上には、ムンクの作品にたびたび登場する、柱のように水面に映る月の光が描かれています。
白・赤・黒の3人の女性は、無垢な若さ、情熱的な愛、そして喪失や孤独という、人生の段階を表していると解釈されることが多い作品です。舞台は、ムンクが夏を過ごしたノルウェーの海辺の町オースゴールストランの浜辺だとされています。
1908年の入院と、ノルウェーへの帰還
1900年代に入ると、ムンクの評価はドイツを中心に高まっていきました。
しかしその一方で、ドイツ各地やノルウェーを行き来する落ち着かない生活と、長年の過度の飲酒によって、ムンクの心と体は限界に近づいていました。
1908年の秋、コペンハーゲンに滞在していたムンクは心身の不調に陥り、精神科医ダニエル・ヤコブソンの診療所に入院します。入院生活は翌1909年まで続きました。この間、ムンクは治療を受けながらお酒を断ち、療養生活のなかでも制作を続けたと言われています。
1909年に退院したムンクは、長く暮らした国外を離れ、ノルウェーに戻ることを選びます。はじめは南部の海辺の町クラーゲリョーに家を借り、そこで新たな生活を始めました。
この帰国を境に、ムンクの絵は大きく変わっていきます。1890年代の暗く張りつめた画面にかわって、明るい色彩と、のびやかで力強い筆づかいがめだつようになるのです。
『太陽』(1910-1911)

帰国後のムンクがもっとも力を注いだ仕事のひとつが、オスロ大学(当時の王立フレデリク大学)の講堂「アウラ」を飾る壁画です。
ムンクは1909年ごろからこの壁画のための制作を始め、1911年の設計競技(コンペ)で案を示しました。しかし大学側の意見はなかなかまとまらず、正式に依頼されたのは1914年のことでした。そして1916年、全11点の大きな油彩画が講堂に設置されます。作品が本来の場所に残っているムンクの室内装飾としては、現存する唯一のものとされています。
その中心となる作品が『太陽』です。ノルウェーの海岸の岩場の上に、まばゆい太陽が昇り、そこから放たれた光の帯が画面いっぱいに広がっています。ここでご紹介しているのは、ムンク美術館が所蔵する1910年から1911年にかけての『太陽』で、講堂の壁画と同じ主題を描いた作品です。
かつて『叫び』で赤く燃える不安な空を描いた画家が、ここでは生命の源としての太陽を、明るく力強い色で描いています。心身の危機を乗り越えたムンクの、新しい時代の始まりを象徴する作品と言えるでしょう。
エーケリーでの晩年
1916年、ムンクはオスロ郊外のエーケリーに、もとは園芸農場だった土地と家を購入しました。ここが亡くなるまでの終の住まいとなります。
エーケリーでのムンクは、アトリエを建て増ししながら、敷地の畑や果樹園、働く人々、周囲の冬景色などを描き続けました。また、若いころの主題である『病める子』や「生命のフリーズ」の作品を、新しい色彩で描き直すことにも取り組んでいます。
1918年から1919年にかけての冬には、当時世界中で流行していたスペインかぜ(インフルエンザ)とみられる病気にかかりましたが、回復しています(本当にスペインかぜだったのかについては諸説あります)。1930年には右目の奥で出血が起こり、一時的に視力が大きく落ちるという困難にも見舞われましたが、その後も制作をやめることはありませんでした。
しかし晩年のムンクには、時代の大きな波も押し寄せます。1937年、ドイツのナチス政権はムンクの作品を「退廃芸術」とみなし、ドイツ国内の美術館から撤去しました。かつてムンクを早くから高く評価したドイツで、その作品が否定されたのです。
1940年4月にはドイツ軍がノルウェーに侵攻し、国は占領下に置かれます。自分の作品の行く末を案じたムンクは、同じ1940年に遺言を書き改め、手元に残るほぼすべての作品をオスロ市に遺贈することを決めました。
『自画像、時計とベッドの間』(1940-1943)
『自画像、時計とベッドの間』は、ムンクが最晩年に描いた自画像のひとつで、現在はオスロのムンク美術館が所蔵しています。
年老いたムンクが、背の高い振り子時計と、ベッドのあいだにまっすぐ立っています。時計の文字盤には針が描かれておらず、ベッドには赤と黒の縞模様の掛け布が掛けられています。背後の部屋の壁には、ムンク自身の作品と思われる絵が何枚も掛けられています。
時計は流れていく時間を、ベッドは病や眠り、そしてやがて訪れる死を連想させるモチーフとして読まれることが多い作品です。その二つのあいだに、自分の描いた作品に囲まれながら立つ老画家の姿には、自らの人生と最期を静かに見つめるまなざしが感じられます。
1943年12月12日、ムンクは80歳の誕生日を迎えます。その1週間後の12月19日、オスロの港で大きな爆発事故が起こります。ムンクはこの出来事を水彩画に描き留めていますが、翌日にはかぜをひき、その後も十分に回復することはありませんでした。そして1944年1月23日、エーケリーの自宅で静かに息を引き取りました。
ムンクが残したもの
ムンクの遺言により、エーケリーに残されていた膨大な作品や資料はオスロ市に寄贈されました。ムンク美術館によると、その数は油彩画だけでおよそ1,200点、素描や版画などを合わせると約2万6,700点にのぼります。
この遺贈をもとに、ムンクの生誕100年にあたる1963年、オスロにムンク美術館が開館しました。2021年10月には、オスロの港に面したビョルヴィーカ地区に新しい美術館「MUNCH(ムンク)」が開館し、世界最大のムンクのコレクションを公開しています。また、1893年の『叫び』を所蔵するノルウェー国立美術館も、2022年6月に新しい建物で開館しました。
形を正確に写すことよりも、人の心の動きを色と線で表そうとしたムンクの絵は、20世紀初めのドイツ表現主義の画家たちをはじめ、多くの芸術家に大きな影響を与えたとされています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
幼くして母と姉を結核で失い、その悲しみを『病める子』に描いた青年時代。
パリで父の死を知り、「生きた人間を描く」と決意して、『叫び』や『マドンナ』、「生命のフリーズ」を生み出したベルリン時代。
心身の危機を乗り越え、明るい太陽の壁画と、老いた自分を見つめる自画像にたどり着いた晩年。
ムンクは生涯を通じて、自分が経験した病や別れ、愛や不安から目をそらさず、それを絵の中で見つめ直し続けた画家でした。
『叫び』だけではない、80年の人生をかけて描かれたムンクの作品世界を知ると、あの有名な1枚もまた違って見えてくるかもしれません。
参考(公式サイト)
本記事の作品情報は、所蔵館などの公式情報をもとに確認しています。






