【徹底解説】アルブレヒト・デューラーとは?版画で名を広めたドイツの巨匠の人生と作品を解説!

【徹底解説】アルブレヒト・デューラーとは?版画で名を広めたドイツの巨匠の人生と作品を解説!
画像:『Rhinocerus(犀)』/CC0/Wikimedia Commons

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはアルブレヒト・デューラーという人物をご存知ですか?

デューラーは15世紀から16世紀にかけてドイツのニュルンベルクで活躍した、ドイツ・ルネサンスを代表する画家です。長い巻き毛の自分自身を正面から描いた『自画像』、謎めいた道具に囲まれた『メランコリアI』、水彩の『野うさぎ』。どこかで目にしたことがある、という方も多いのではないでしょうか。

ほかの画家と大きく違うのは、版画という「刷って売れる作品」で、生きているうちにヨーロッパ中に名前を知られたことです。注文を待つのではなく、自分で刷って自分で売る。デューラーは画家であると同時に、出版人でもありました。

本記事ではそんなアルブレヒト・デューラーの人生と作品についてご紹介します。

アルブレヒト・デューラーって?

アルブレヒト・デューラー『自画像』(1500年)
アルブレヒト・デューラー『自画像』(1500年)アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

基本情報

本名アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)
生年月日(没年月日)1471年5月21日〜1528年4月6日(56歳没)
国籍/出身神聖ローマ帝国の自由都市ニュルンベルク(現在のドイツ・バイエルン州)
学歴父の金細工工房で修業したのち、1486年からニュルンベルクの画家ミヒャエル・ヴォルゲムートの工房で修業
分野版画(木版画、エングレーヴィング)、絵画(油彩、水彩)、素描、美術理論の著述
傾向ドイツ・ルネサンス(北方ルネサンス)、写実表現、人体比例と遠近法の研究
師事した人物・影響を受けた人物父アルブレヒト・デューラー(金細工師)、ミヒャエル・ヴォルゲムート、マルティン・ショーンガウアー(版画を通じて)、ジョヴァンニ・ベッリーニをはじめとするヴェネツィアの画家たち

デューラーが生きた時代の空気や、同じ時期に活躍した画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

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ドイツ・ルネサンスって?

「ルネサンス」と聞くと、多くの方はレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロが活躍したイタリアを思い浮かべるかもしれません。ただ同じころ、アルプスの北側のドイツやネーデルラント(現在のオランダ・ベルギーあたり)でも美術は大きく変わりつつありました。こちらは「北方ルネサンス」と呼ばれます。

イタリアのルネサンスが古代ギリシャ・ローマを手がかりに「理想の形」を探したのに対し、北方の画家たちは目の前にあるものを細部まで写し取ることに力を注ぎました。布の織り目、金属の照り返し、動物の毛の一本一本。この細かさを支えたのが、油彩画の技術でした。

デューラーが特別なのは、その両方を自分の中で合わせようとした点にあります。北方の画家として育ちながら二度イタリアへ足を運び、人体の比例や遠近法という「理屈」を持ち帰りました。

もうひとつ外せないのが印刷術です。デューラーが生まれる少し前、ドイツでは活版印刷が広まり、挿絵入りの本が大量に作られていました。デューラーは版画の需要が膨らんだ瞬間に、その技術を持って現れたことになります。

経歴と作品

金細工師の家に生まれて

アルブレヒト・デューラーは1471年5月21日、ニュルンベルクに生まれました。父親は同じ名前のアルブレヒト・デューラーで、ハンガリーから移り住んできた金細工師でした。

当時のニュルンベルクは、各地に通じる交易路が交わり、金属加工や印刷の工房が集まる商業都市でした。デューラーはまず父の工房で、細い彫刻刀で金属の表面に線を刻む仕事を覚えます。この修業が、のちに銅版画を彫る土台になりました。デューラーの銅版画が異様なまでに細かいのは、そもそも金属を彫る職人として育ったからと言えます。

やがて絵の道を選んだデューラーは、1486年、ニュルンベルクの画家ミヒャエル・ヴォルゲムートの工房に入ります。この工房は、1493年に出版業者アントン・コーベルガーが刊行した大型の年代記『ニュルンベルク年代記』の挿絵を手がけた大規模な制作現場でした。少年のデューラーは「本のために大量の木版画を作る」仕事のやり方を、ここで間近に見ていたことになります。

遍歴の旅と、最初のイタリア行き

修業を終えた職人が各地を回って腕を磨く「遍歴」は、当時のドイツでは一般的な習慣でした。デューラーも1490年ごろから旅に出て、コルマール、バーゼル、ストラスブールといったライン川沿いの街を巡っています。

出版の盛んなバーゼルでは、本の挿絵の仕事に関わったと考えられています。またコルマールでは、当時ヨーロッパ随一と言われた版画家マルティン・ショーンガウアーを訪ねようとしましたが、すでに世を去っていたと伝えられています。デューラーは修業時代からその版画を熱心に模写していたとされます。

1494年、デューラーはニュルンベルクに戻ってアグネスという女性と結婚し、その年のうちにアルプスを越えてイタリアへ向かいます。1495年にかけての、最初のイタリア旅行です。

この旅で持ち帰ったのは、作品そのものよりも「ものの見方」でした。アルプスの山々を水彩で描き留め、イタリアの画家たちが人体をどう測り、空間をどう組み立てているのかを観察しています。

『自画像』(1498年)

アルブレヒト・デューラー『自画像』(1498年)
アルブレヒト・デューラー『自画像』(1498年)プラド美術館(マドリード)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

イタリアから戻って数年後に描かれた、26歳の自画像です。板に油彩、52 × 41センチ。マドリードのプラド美術館が所蔵しています。

白と黒の縞模様の帽子に房飾りを垂らし、白いシャツに灰色の革手袋。窓の向こうには山と湖のある風景。職人というより、身分のある紳士の装いです。

当時、画家はまだ「手を使う職人」と見なされることが多い存在でした。そのなかで自分を貴族のように描くことは、画家の地位を引き上げようとする意思の表れだったと説明されています。

『黙示録』で、一気に名前が知られる

1498年、デューラーは『黙示録』という木版画の連作を自ら出版します。これがデューラーの人生を変えました。

『黙示録』は新約聖書の最後に置かれた書で、世界の終わりの幻視を語る劇的な内容です。デューラーはこれを木版画15枚にまとめ(のちの1511年の再版では図像入りの表紙が加わり、16枚になります)、紙の裏面には聖書の本文を印刷して、綴じて一冊の書物として売り出しました。

重要なのは、注文主がいないことです。教会や王侯の依頼ではなく、自分で企画し、自分の費用で刷り、自分で売る。当時としては相当に新しいやり方でした。

『四人の騎者』(1498年)

アルブレヒト・デューラー『四人の騎者』(『黙示録』より、1498年)
アルブレヒト・デューラー『四人の騎者』(『黙示録』より、1498年)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/出典:Wikimedia Commons(作品:パブリックドメイン、画像:同館オープンアクセス、CC0)

『黙示録』連作でもっとも有名な1枚で、「黙示録の四騎士」とも呼ばれます。

弓を引く者、剣を振り上げる者、天秤を掲げる者、そして痩せこけた姿で三つ叉を握る者。4人の騎者が画面の右上から左下へなだれ込み、地上の人々は逃げる間もなく馬の足元に踏み倒されます。左下では大きく口を開けた怪物が、司教冠をかぶった人物を飲み込もうとしています。

見どころは、木版画でここまでの疾走感が出せるのかという点です。木版画は版木の彫り残した部分にインクが乗る技法で、細い線を出すには彫り残す側を極限まで細くしなければなりません。デューラーはそれを、なびくたてがみ、渦を巻く雲、重なる衣のひだで実演してみせました。

この連作によって、20代後半のデューラーは一躍有名になりました。版画は何十枚でも刷れて軽く、商人の荷に混ぜて遠くまで運べます。デューラーの名前は、本人が動かなくてもヨーロッパ中に広がっていきました。

『自画像』(1500年)

この記事の冒頭に掲げた『自画像』は、1500年の作品です。菩提樹の板に油彩で描かれ、大きさは67.1 × 48.9センチ。ミュンヘンのアルテ・ピナコテークが所蔵しています。

正面をまっすぐ向いた顔、左右対称に流れる長い巻き毛、毛皮の襟を指でつまむように上げた右手。当時の肖像画では人物は斜めを向いて描かれるのが普通でしたから、この完全な正面性はきわめて異例です。所蔵館の解説では、この構図は救い主としてのキリストを描いた聖像の型を下敷きにしていると説明されています。胸の前に上げた手も、祝福の仕草を思わせます。画面右側にはラテン語で「われニュルンベルクのアルブレヒト・デューラーは、28歳の自分自身を、ふさわしい色で描いた」と記されています。

自分をキリストになぞらえたのか、画家という仕事の創造性を示したのか。解釈は分かれ、決着はついていません。ただ、画家が自分自身をここまで正面から、これほどの気迫で描いた例が、それ以前にほとんどないことは確かです。

草むらと、うさぎ

一方でデューラーには、徹底して小さなものを見つめるという顔もあります。

『野うさぎ』(1502年)

アルブレヒト・デューラー『野うさぎ』(1502年)
アルブレヒト・デューラー『野うさぎ』(1502年)アルベルティーナ(ウィーン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

水彩と不透明絵具で描かれた、25.1 × 22.6センチの小さな作品です。ウィーンのアルベルティーナが所蔵しています。耳を立てて座る1匹の野うさぎ。背景には何も描かれていません。

見どころは、毛の一本一本まで描き分けられた質感です。背中のかたい毛、腹まわりのやわらかい毛、耳の内側のまばらな毛。ひげは細い線で空間に伸び、右側には影が落ちています。

そして所蔵館が指摘する最大の仕掛けが、うさぎの瞳に映り込んだ画家の工房の窓です。背景を描かないことで、この一点だけが「この絵が描かれた場所」を示す手がかりになっています。

『Das große Rasenstück』(1503年)

アルブレヒト・デューラー『Das große Rasenstück(大きな芝生)』(1503年)
アルブレヒト・デューラー『Das große Rasenstück(大きな芝生)』(1503年)アルベルティーナ(ウィーン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

翌1503年の作品です。日本語では「大きな芝生」「大きな草むら」「芝草」などと訳され、表記が定まっていないため、ここでは原題を主に使います。大きさは40.8 × 31.5センチ、こちらもアルベルティーナの所蔵です。

描かれているのは、道端の草むらを、地面すれすれの高さから見た姿だけです。タンポポ、オオバコ、いくつかのイネ科の草。画面の下では土が切り取られ、根まで見えています。英雄も聖人も出てきません。

意外なのは、所蔵館によればこの絵が戸外での写生ではなく、工房のなかで組み立てられたとされている点です。「ありのままに見えるもの」が、実はよく考えられた設計の結果である。デューラーらしさがよく出た1枚です。

二度目のヴェネツィアと、人体の比例

1505年から1507年にかけて、デューラーは二度目のイタリア旅行に出て、ヴェネツィアに長く滞在しました。この滞在中には、ヴェネツィアのドイツ人商人たちが使っていた教会サン・バルトロメオのために、大きな祭壇画『ロザリオの祝祭』(1506年、現在はプラハ国立美術館蔵)を描いています。北方の細密な描写とヴェネツィア派の豊かな色彩を一枚のなかで両立させた作品です。

デューラーはこのころ、ニュルンベルクの友人に宛てた手紙のなかで、ヴェネツィア画壇の大家ジョヴァンニ・ベッリーニについて「彼はとても年老いているが、それでもなお画家たちのなかで最高だ」と書き送っています。

『アダムとイヴ』(1504年)

アルブレヒト・デューラー『アダムとイヴ』(1504年)
アルブレヒト・デューラー『アダムとイヴ』(1504年)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/出典:Wikimedia Commons(作品:パブリックドメイン、画像:同館オープンアクセス、CC0)

二度目のヴェネツィア行きの前年、1504年に彫られたエングレーヴィング(銅版画)です。国立西洋美術館も同じ図柄の作例を所蔵し、「アダムとイヴ」と表記しています(「アダムとエヴァ」とも呼ばれます)。

見どころは、人体のとらえ方がそれまでと明らかに違うことです。国立西洋美術館の解説によれば、ここでの人体は古代ローマの建築家ウィトルウィウスに従う比例を示し、イタリア古典主義の理想像に近づいています。デューラーがイタリアで学んだ「理屈としての人体」が、はっきり形になった作品です。

背景の森には、たくさんの動物が隠れています。手前の猫とネズミ、足元のうさぎ、右にいる牛とヘラジカ、崖の上のヤギ、左上の枝にとまるオウム。これらの動物は、当時の医学や哲学で語られた人間の「四気質」を表していると説明されています。

アダムが左手でつかむ枝からは小さな板が下がり、ラテン語で「ニュルンベルクのアルブレヒト・デューラーが作った 1504年」と刻まれています。署名を作品のなかに堂々と組み込むのも、デューラーらしいところです。

皇帝マクシミリアン1世のもとで

1512年ごろから、デューラーは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の仕事に関わるようになります。やがて皇帝はデューラーに年100グルデンの年金を認め、宮廷画家に近い立場を与えました。

この時期の最大の仕事が『凱旋門』です。皇帝の功績をたたえる巨大な門を、石ではなく紙の上に木版画で建てるという前代未聞の企画でした。190枚を超える版木から36枚の紙に刷り分け、壁に貼り合わせると高さおよそ3.5メートルの門が現れます。石造りの記念碑は一か所にしか建ちませんが、紙の門なら何組でも刷って各地に配れます。皇帝が版画に目をつけた理由も、そこにありました。

『Rhinocerus(犀)』(1515年)

アルブレヒト・デューラー『Rhinocerus(犀)』(1515年)
アルブレヒト・デューラー『Rhinocerus(犀)』(1515年)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/出典:Wikimedia Commons(作品:パブリックドメイン、画像:同館オープンアクセス、CC0)

1515年5月、リスボンに1頭の犀が到着しました。古代以来はじめて、生きた犀がヨーロッパの土を踏んだできごとです。犀はやがてローマ教皇レオ10世への贈り物として船に乗せられますが、その船は途中で沈んでしまいました。

デューラーはこの犀を一度も見ていません。リスボンから伝わった手紙とスケッチだけをもとに、この木版画を彫りました。

そのせいか、描かれた犀はどこか甲冑のようです。体は板金を重ねたような皮膚に覆われ、うろこ状の模様が並び、肩には実際の犀には存在しない小さなねじれた角が生えています。画面上部のドイツ語の説明文には「まだらの亀のような色をしている」「象でさえ歯が立たない」といった記述が見えます。なおこの文章の冒頭には「1513年」と読める年号が入っていますが、犀がリスボンに着いたのは1515年5月とされています。

興味深いのは、この版画が「本物より有名になってしまった」ことです。実物の犀は船とともに失われ、その後ヨーロッパの書物には、この図の犀が長く引き写され続けました。

三つの傑作「マイスターシュティヒ」

1513年から1514年にかけて、デューラーは3点のエングレーヴィングを立て続けに発表します。後世に「マイスターシュティヒ(傑作版画)」と呼ばれる作品群です。いずれも注文によるものではなく、デューラー自身の考えから生まれたと考えられています。なお日本では、この3点に『アダムとイヴ』(1504年)を加えて「四大銅版画」と呼ぶこともあります。国立西洋美術館も同作を「デューラーの四大銅版画のうち最も時期の早い」作品と説明しています。

『騎士と死と悪魔』(1513年)

アルブレヒト・デューラー『騎士と死と悪魔』(1513年)
アルブレヒト・デューラー『騎士と死と悪魔』(1513年)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/出典:Wikimedia Commons(作品:パブリックドメイン、画像:同館オープンアクセス、CC0)

甲冑に身を固めた騎士が、馬に乗って岩場の道を進んでいきます。国立西洋美術館の作例は24.6 × 19.0センチです。

騎士のすぐ後ろには、砂時計を掲げた「死」が、蛇の絡みついた冠をかぶって痩せ馬にまたがり、残り時間を見せつけています。その後ろには、豚のような鼻と曲がった角を持つ「悪魔」が得物を握って付いてきます。足元には犬が走り、画面の左下には頭蓋骨が転がっています。それでも騎士は、脇目もふらずまっすぐ前を向いています。視線の先、岩山の上には城がそびえています。

見どころは、金属の質感です。甲冑の板金の照り返し、馬具の細工、馬の毛並み。すべてが細い線の交差だけで彫り分けられています。金細工師の息子として育ったデューラーの技術が、もっともよく現れた1枚です。

『メランコリアI』(1514年)

アルブレヒト・デューラー『メランコリアI』(1514年)
アルブレヒト・デューラー『メランコリアI』(1514年)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/出典:Wikimedia Commons(作品:パブリックドメイン、画像:同館オープンアクセス、CC0)

デューラーの作品のなかで、もっとも多くの解釈を生んできた1枚です。国立西洋美術館では「メレンコリア I」と表記されており、同館の作例は23.9 × 18.9センチです。

翼を持つ女性が、頬杖をついて座り込んでいます。手にはコンパスを握っていますが、使っている様子はなく、視線は何も見ていないようです。周囲には道具が散乱しています。かんな、のこぎり、釘、定規、るつぼ。石臼の上では小さな子どもが何かを書きつけ、左には多面体の石の塊、足元には球体と痩せた犬。壁には砂時計と鐘、そして数字を並べた魔方陣が掛かっています。この魔方陣は縦にも横にも足すと34になり、下の段の中央には制作年である「15」と「14」が並んでいます。

「メランコリー(憂鬱)」は、当時の医学では体液の偏りによる気質のひとつとされ、同時に創造的な人間にともなう性質とも考えられていました。測り、数え、組み立てる道具に囲まれながら動けずにいるこの姿は、考えることを仕事にする人間の行き詰まりを描いたものだと長く読まれてきました。デューラー自身の精神的な自画像だ、という見方もあります。

ただし、デューラー本人が意味を書き残したわけではありません。500年を経たいまも解釈が定まらないことが、この1枚の強さを物語っています。

『書斎の聖ヒエロニムス』(1514年)

アルブレヒト・デューラー『書斎の聖ヒエロニムス』(1514年)
アルブレヒト・デューラー『書斎の聖ヒエロニムス』(1514年)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/出典:Wikimedia Commons(作品:パブリックドメイン、画像:同館オープンアクセス、CC0)

三つ目の傑作版画は、『メランコリアI』とほぼ正反対の空気をまとっています。聖書をラテン語に訳した4世紀から5世紀の学者、聖ヒエロニムスの書斎です。奥の机に向かって光輪を負った老人が黙々と筆を走らせ、手前の床では、ヒエロニムスの象徴であるライオンと小さな犬が安心しきって眠っています。

窓からは午後の光が差し込み、格子窓の丸い模様が壁に落ちて、光の輪を描いています。壁に掛かった砂時計と枢機卿の帽子、天井から吊るされたひょうたん、窓辺の頭蓋骨、ベンチの下に脱ぎ捨てられた履物。すべてが穏やかに収まっています。

『メランコリアI』が考えても答えが出ない苦しさを描いたとすれば、こちらは静かに仕事に没頭できる幸福を描いています。

ネーデルラント旅行から、最後の仕事まで

1519年、後ろ盾だったマクシミリアン1世が亡くなり、年金の支払いは宙に浮いてしまいます。

翌1520年の夏、デューラーは妻アグネスとともにニュルンベルクを発ち、ネーデルラントへ向かいました。目的は新しい皇帝に年金を認め直してもらうことです。10月23日にアーヘンの大聖堂で行われたカール5世の戴冠式に列席し、そののちケルンで年金の継続を取り付けています。

デューラーはアントウェルペンを拠点にブリュッセル、ヘント、ブルッヘなどを回り、出費と収入、売った版画の枚数、会った人、見た作品を書き留めた記録を残しました。原本はごく一部を除いて失われましたが、16世紀半ばの写しが伝わっています。帰国後は体調を崩しがちになりました。ゼーラント地方で打ち上げられた鯨を見に行った際に熱病にかかったことが原因だと語り伝えられていますが、確かなことはわかっていません。

そのころ、ドイツは宗教改革の渦中にありました。1526年、デューラーは2枚組の大きな板絵『四人の使徒』を完成させ、故郷ニュルンベルクの市参事会に贈ります。左の板にヨハネとペテロ、右の板にマルコとパウロ。それぞれ2メートルを超える立ち姿で、所蔵するアルテ・ピナコテークの解説によれば、4人の顔立ちは人間の四つの気質になぞらえて描き分けられているとされます。

目を引くのは、画面の下に添えられた文章です。ルター訳の聖書からの4つの引用が記され、世俗の為政者に対して聖書の言葉に耳を傾け、偽の預言者に惑わされないよう呼びかけています。所蔵館は、デューラー自身も支持していた宗教改革の道から市参事会が外れないように、という意図があったと説明しています。

晩年のデューラーは、絵を描く以上に書く仕事に力を注ぎました。1525年には『測定法教則』(Underweysung der Messung)を刊行し、コンパスと定規による作図、遠近法、文字の設計、建築の比例までを体系的に説明しています。この本は「画家だけでなく、金細工師、彫刻家、石工、大工など、測ることが役に立つすべての人のために」書いたと本人が述べています。

1527年には築城についての書物も刊行しました。そして1528年4月6日、デューラーは生まれた街ニュルンベルクで56年の生涯を閉じます。その数か月後には、人体の比例を四巻にまとめた大著『人体均衡論四書』が出版されました。太った人、痩せた人、赤ん坊から大人まで、さまざまな体つきを測って比較したこの本は、当時としてはきわめて独創的な試みでした。

デューラーが1509年に買い取った家は、いまもアルブレヒト・デューラー・ハウスとしてニュルンベルクに残り、ドイツで最初期の芸術家記念館のひとつに数えられています。

日本でデューラーに出会う

デューラーの作品は、日本でも見ることができます。国立西洋美術館(東京・上野)は、『アダムとイヴ』(1504年)、『騎士と死と悪魔』(1513年)、『メレンコリア I』(1514年)といった代表的な銅版画を所蔵しています。

また同館は、デューラーが自ら刊行した木版画の連作、いわゆる「三大書物」(『黙示録』『大受難伝』『聖母伝』)を長年にわたって収集し、2022年に完了しました。2025年10月から2026年2月にかけては、これらをまとめて紹介する展覧会「物語る黒線たち デューラー『三大書物』の木版画」が開催されました。

版画は光に弱く、常設展示されにくい作品です。展示の機会があれば、実物の線の細さをぜひ間近で見ていただきたいと思います。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、ドイツ・ルネサンスを代表する画家アルブレヒト・デューラーの人生と作品についてご紹介しました。

金細工師の家に生まれ、版画という「複製できる作品」を武器に自分の名前をヨーロッパ中に広げた画家。イタリアに二度渡って人体の比例と遠近法を学び、それを本にまとめて後の世代に手渡した理論家。そして、うさぎの毛と道端の草むらを、聖書の場面と同じ真剣さで描いた観察者。

この三つがひとりの中に同居しています。技術と理屈と、目の前のものへの尽きない好奇心。500年前の人物でありながら、その仕事の組み立て方はどこか現代的にも感じられます。機会があれば、ぜひ実物の版画の前に立ってみてください。1枚の紙の上に、これだけの世界が彫り込めるのかと、きっと驚かれるはずです。

Euphoric " " の視点

デューラーの名がヨーロッパ中に広まった理由は、絵の質だけではありません。版画という複製できる形式を選び、自分の記号を刷り込み、作品を遠くまで届けたからです。

描く力と、届ける仕組み。デューラーはその両方を自分で設計しました。500年前に、すでに現代的な発想があったことになります。

良いものを作れば伝わる、とは限りません。届け方まで含めて作品だと、彼の仕事は語っています。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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