【徹底解説】ティツィアーノ・ヴェチェッリオとは?皇帝に愛された巨匠の人生と作品を解説!

【徹底解説】ティツィアーノ・ヴェチェッリオとは?皇帝に愛された巨匠の人生と作品を解説!
画像:『バッカスとアリアドネ』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはティツィアーノ・ヴェチェッリオという人物をご存知ですか?

ティツィアーノは16世紀のヴェネツィアで活躍した画家です。線で形をきっちり描き起こすのではなく、絵の具そのものを重ね、置き、こすりつけるようにして形と光をつくり出しました。その方法は「色で描く」と呼ばれ、それまでの絵画の常識を大きく変えることになります。

神聖ローマ皇帝カール5世、スペイン国王フェリペ2世、教皇パウルス3世。ヨーロッパでもっとも力を持った人々が、こぞって彼に肖像を描かせました。画家がまだ職人として扱われていた時代に、皇帝から爵位を授けられた数少ない画家でもあります。

本記事ではそんなティツィアーノ・ヴェチェッリオの人生と作品についてご紹介します。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオって?

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『自画像』(1560年代)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『自画像』(1560年代)プラド美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

基本情報

本名ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)。英語圏では「ティツィアン(Titian)」と呼ばれます
生年月日(没年月日)1488年から1490年頃(生年には諸説あります)〜1576年8月27日
国籍/出身ヴェネツィア共和国領ピエーヴェ・ディ・カドーレ(現在のイタリア・ベッルーノ県)出身。ヴェネツィアで活動
学歴モザイク師セバスティアーノ・ズッカート、ジェンティーレ・ベッリーニ、ジョヴァンニ・ベッリーニの工房で学んだと伝えられています(記録がなく、順序には諸説あります)
分野絵画(祭壇画、神話画、肖像画)、フレスコ画
傾向盛期ルネサンス、ヴェネツィア派
師事した人物・影響を受けた人物ジョヴァンニ・ベッリーニ、ジェンティーレ・ベッリーニ、ジョルジョーネ、古代ローマ彫刻、ミケランジェロ

ティツィアーノと関わりの深い画家や時代については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

【西洋美術】ルネサンス美術の歴史と代表作品を一挙紹介!

【徹底解説】ミケランジェロの人生と作品に迫る〜彫刻だけじゃないルネサンスの万能人〜

https://euphoric-arts.com/art-2/el-greco/

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ヴェネツィア派って?

ティツィアーノは、美術史ではヴェネツィア派を代表する画家とされています。

同じルネサンスでも、フィレンツェやローマの画家たちは「デッサン(ディゼーニョ)」を何より大切にしました。まず輪郭をしっかり決め、人体の構造を理解し、そのうえで色を塗っていくという考え方です。ミケランジェロやラファエロは、その頂点に立つ画家たちでした。

いっぽうヴェネツィアの画家たちが重んじたのは「コロリート」、つまり絵の具を塗るという行為そのものでした。輪郭線をあらかじめ決めず、色を置き、重ね、その積み重ねのなかから形や空気や光を立ち上げていきます。湿った空気に光がにじむヴェネツィアの風土が、この描き方を育てたとも言われています。

ルネサンス美術全体の流れについては、ルネサンス美術の歴史と代表作品の記事もあわせてご覧ください。

「小さな星々のなかの太陽」

ティツィアーノの評価の高さを示す言葉があります。1590年、画家で美術理論家のジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォは、ティツィアーノを「イタリア人のなかだけでなく、世界のあらゆる画家のなかの、小さな星々のなかの太陽」と書きました。

経歴と作品

カドーレの山村から、水の都へ

ティツィアーノは1488年から1490年頃、ヴェネツィアの北およそ100キロ、アルプスのふもとにあるピエーヴェ・ディ・カドーレという山村に生まれました。

生年がはっきりしないのには理由があります。晩年のティツィアーノは、スペイン国王フェリペ2世への手紙に「1474年生まれ」と書きました。この計算だと、亡くなったときには100歳を超えていたことになります。同時代の記録にも1473年から1482年以降まで幅があり、現在は1488年から1490年のあいだとする見方が有力とされていますが、確定はしていません。ロンドンのナショナル・ギャラリーも、公式サイトで「正確な生年を示す記録はいまだに存在しない」と記しています。

まだ幼いうちにヴェネツィアへ送られたティツィアーノは、まずモザイク師セバスティアーノ・ズッカートのもとへ、その後ジェンティーレ・ベッリーニ、さらにその弟ジョヴァンニ・ベッリーニの工房へ移ったと伝えられています。ただし同時代の証言は食い違っており、確かな記録は残っていません。

ジョルジョーネとの日々、そして独立

若いティツィアーノにもっとも強い影響を与えたのは、少し年上の画家ジョルジョーネでした。

1508年から1509年にかけて、2人はリアルト橋のそばに建つドイツ商人の商館フォンダコ・デイ・テデスキの外壁装飾を一緒に手がけます。ジョルジョーネが大運河に面した正面を、ティツィアーノが通りに面した側を担当しました。

このときティツィアーノが描いた部分が大いに称賛され、そのことがジョルジョーネをひどく不機嫌にさせたと伝えられています。壁画は失われてしまいましたが、若い画家が一気に世に出た瞬間でした。

1510年、ジョルジョーネが若くして亡くなります。翌1511年には同世代のセバスティアーノ・デル・ピオンボもローマへ去り、ヴェネツィアにはティツィアーノに並ぶ競争相手がいなくなりました。

1513年、ティツィアーノはヴェネツィア共和国の十人委員会に、ドゥカーレ宮殿へ大きな戦闘画を描かせてほしいと願い出ます。あわせて求めたのが、フォンダコ・デイ・テデスキの仲買人特権(センセリーア)でした。年120ドゥカートの手当がつく名誉職で、収入以上に「国が認めた画家」という意味を持つものでした。ただしいったん認められながら1514年に取り消されており、実際に効力を持った時期は、1516年のジョヴァンニ・ベッリーニの死の直後とする説と、1523年まで保留されたとする説に分かれています。

『聖母被昇天(アッスンタ)』(1516〜1518年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『聖母被昇天(アッスンタ)』(1516〜1518年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『聖母被昇天(アッスンタ)』(1516〜1518年)サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ヴェネツィアのフランシスコ会の大聖堂、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の主祭壇のために描かれた作品です。高さおよそ6.9メートル、幅3.6メートルの巨大な画面で、1518年5月19日、人が集まりやすい祝日を選んで公開されました。

画面は大きく三つの層に分かれています。いちばん下では、12人の使徒たちが腕を伸ばし、身をよじり、空を見上げています。中央では赤い衣に青いマントをまとった聖母マリアが、無数の幼い天使に囲まれて雲に乗り、両腕を広げて昇っていきます。そして最上部には、腕を差し伸べる父なる神の姿があります。

見どころは、この三層がひとつの大きな上昇の動きとしてつながっていることです。使徒の伸ばした腕が天使の身体へ、天使の身体が聖母の赤い衣へと視線を運び、金色に輝く天へと押し上げていきます。祭壇に近づいた人の視線が、そのまま天へ吸い上げられていくのです。

公開された当初は、ベッリーニらの静かな祭壇画に慣れた人々に戸惑いをもって迎えられたとも伝えられています。しかしこの絵はやがて、ティツィアーノをヴェネツィア画壇の第一人者へ押し上げた代表作となりました。画面下、使徒たちの足元にある石棺には「TICIANVS」の署名が刻まれています。

『ペーザロ家の聖母』(1519〜1526年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ペーザロ家の聖母』(1519〜1526年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ペーザロ家の聖母』(1519〜1526年)サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

同じフラーリ聖堂の側廊にある、高さ5メートル近い祭壇画です。7年をかけて完成しました。

注文したヤコポ・ペーザロは、キプロス島パフォスの司教であると同時に、教皇の艦隊を率いた軍人でもありました。1502年の対オスマン帝国の海戦での戦功が、この絵にも描き込まれています。画面左では、甲冑の兵士がターバンを巻いた捕虜を引き連れ、ペーザロ家の紋章を掲げた赤い旗を立てています。

この絵が美術史で特別に扱われるのは、その構図の思い切りのよさにあります。それまで聖母子は画面の中央に左右対称に置かれるのが約束事でした。ところがティツィアーノは聖母子を右奥へ寄せ、階段を斜めに置き、画面を貫く2本の巨大な柱を立てました。

結果として、見る人の視線は左下から右上へ、斜めに引き上げられていきます。中央には鍵を足元に置いた聖ペテロ、左下にはひざまずくヤコポ・ペーザロ、右下には一族の男性たちが並び、そのなかの少年がひとりだけこちらを見つめています。この斜めの構図は、のちのバロック絵画を先取りするものだったと評価されています。

フェラーラ公の「アラバスターの小部屋」

1516年頃から、ヴェネツィアの外からも注文が届くようになります。最初の大きな相手が、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステでした。

アルフォンソは宮殿に「アラバスターの小部屋(カメリーノ・ダラバストロ)」と呼ばれる私室をつくり、古代の詩に題材を取った神話画で埋め尽くそうと考えていました。ジョヴァンニ・ベッリーニも参加したこの計画に、ティツィアーノは3点の大作を提供します。

『バッカスとアリアドネ』(1520〜1523年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『バッカスとアリアドネ』(1520〜1523年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『バッカスとアリアドネ』(1520〜1523年)ロンドン・ナショナル・ギャラリー/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

アラバスターの小部屋のために描かれた3点のうちの1点で、現在はロンドン・ナショナル・ギャラリーの所蔵です。

描かれているのは、ギリシャ神話の一場面です。クレタの王女アリアドネは、恋人テセウスに力を貸したにもかかわらず、ナクソス島に置き去りにされてしまいます。画面左端で青と赤の衣をひるがえす女性がアリアドネで、水平線の彼方へ去っていく船を振り返っているところです。

そこへ、右から酒の神バッカスの一行が騒がしくやってきます。バッカスはチーターに引かせた戦車から、まさに空中へ飛び降りた瞬間です。ピンクの布をなびかせ、両脚が地面に着く前の一瞬で止まっています。後ろには、蛇を巻きつけた男、シンバルを打ち鳴らす女性、ロバに乗った酔っぱらいのシレノス、動物の頭を引きずる子どもが続きます。

この絵の魅力は、静と動がぶつかり合う瞬間にあります。左半分は静かな海と空、右半分は騒々しい行列。その境目で、2人の視線が初めて出会います。

左上の空に描かれた星の輪にも意味があります。バッカスはこののちアリアドネを妻とし、彼女の冠を天に上げてかんむり座にしたと伝えられており、その星座がすでに空に輝いているのです。

ヨーロッパの宮廷が注文主になる

1520年代後半の二つの出会いも、ティツィアーノの立場を大きく変えました。ひとりは文筆家のピエトロ・アレティーノです。1527年3月にヴェネツィアへ移り住んだ彼は、辛辣な筆で君主たちを震え上がらせた当代きっての有名人でした。ティツィアーノ、アレティーノ、彫刻家で建築家のヤコポ・サンソヴィーノの3人は、ヴェネツィアの人々から「三頭政治」と呼ばれるほど親しく、アレティーノの人脈はティツィアーノの名を国外へ運ぶ役割を果たしました。

そしてもうひとり、生涯を決定づけた人物が神聖ローマ皇帝カール5世でした。1530年にボローニャで初めて対面し、1533年、同じボローニャで皇帝の肖像を描いたあと、ティツィアーノは宮廷伯と黄金拍車騎士の称号を与えられます。画家が貴族に列せられるのは、当時としては異例でした。

皇帝はさらに1541年と1548年に年金を与え、その額はあわせて年200スクードになりました。それでいて宮廷に常駐する義務はほとんどなく、ティツィアーノはヴェネツィアの自宅に工房を構えたまま、他の君主の注文も受け続けることができました。

『ウルビーノのヴィーナス』(1538年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ウルビーノのヴィーナス』(1538年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ウルビーノのヴィーナス』(1538年)ウフィツィ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ティツィアーノの名を世界でもっとも有名にした1点です。ウフィツィ美術館は制作年を1538年としていますが、1530年代の前半に描き始められ、当初は別の人物のための作品だったとする見方もあります。

1538年1月、肖像画のモデルになるためヴェネツィアを訪れた、のちのウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレは、工房でこの絵を目にして強く欲しがりました。手紙では「あの裸の女」と呼び、他に売られてしまわないかと気を揉んでいます。数か月後、彼はこの絵を手に入れました。のちにデッラ・ローヴェレ家からメディチ家へ、持参金の一部としてフィレンツェに渡っています。

画面には、白いシーツの上に横たわり、まっすぐこちらを見つめる若い女性が描かれています。右手には薔薇を持ち、左手で体を隠しています。足元では小さな犬が丸くなって眠り、奥の部屋には2人の侍女がいて、ひとりが大きな櫃をのぞき込み、もうひとりが取り出した衣装を抱えています。窓辺には鉢植えが置かれています。

これらの小道具には意味が読み取られてきました。眠る犬は貞節のしるし、窓辺のミルテは愛の女神ヴィーナスと変わらぬ愛を表すとされます。ウフィツィ美術館の解説は、この絵を「これから婚礼の衣装を着せられようとしている若い花嫁」の姿として説明しています。ただしモデルが誰だったのかは分かっておらず、研究者の見方は分かれたままです。

何より新しかったのは、神話の女神を、見慣れた室内のベッドの上に降ろしてしまったことでした。この設定が、のちの西洋絵画における横たわる裸婦像の原型となりました。

『カール5世騎馬像』(1548年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『カール5世騎馬像』(1548年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『カール5世騎馬像(ミュールベルクのカール5世)』(1548年)プラド美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1547年4月24日、カール5世はプロテスタント諸侯の連合軍をミュールベルクの戦いで破りました。翌年、アウクスブルクの帝国議会に呼ばれたティツィアーノは、1548年4月から9月1日にかけてこの高さ3.35メートルの大作を仕上げます。

興味深いのは、勝利の場面らしいものが何ひとつ描かれていないことです。敵の軍勢も、旗も、打ち倒された人物もいません。あるのは、黒い馬に乗ってひとり林から進み出てくる皇帝の姿だけです。

身につけているのは、実際にその戦いで着用した甲冑です。深紅の馬衣と羽根飾りが、沈んだ色調のなかで強く光ります。半槍は斜めに構えられ、視線はまっすぐ前へ。背景の空は、夕暮れとも夜明けともつかない色に染まっています。

実際のカール5世は当時、痛風に苦しんでいたと言われています。ティツィアーノは皇帝を勝ち誇らせず、静かに前を見据える一人の人間として描きました。この絵は以後、ヨーロッパ中の君主の肖像画の手本となっていきます。

ローマへ、そしてミケランジェロとの出会い

1545年秋から1546年6月にかけて、ティツィアーノはローマに滞在しました。すでに50代半ばでしたが、ローマを訪れたのはこれが初めてでした。

この滞在中、ティツィアーノはミケランジェロとも顔を合わせています。ミケランジェロはティツィアーノの『ダナエ』を見て、色彩は称賛しつつも、下絵をきちんと描かないやり方には物足りなさを感じたと伝えられています。デッサンのローマと、色彩のヴェネツィア。二つの立場がここで正面からぶつかっていたことがうかがえます。

のちにヴェネツィアの画家ティントレットは、自分の部屋の壁に「ミケランジェロのデッサンとティツィアーノの色彩」という言葉を書きつけたと、17世紀の伝記作家リドルフィが記しています。二つの流儀をひとつにすることが、次の世代の目標になっていたわけです。

『パウルス3世と孫たち』(1545〜1546年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『パウルス3世と孫たち』(1545〜1546年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『パウルス3世と孫たち』(1545〜1546年)カポディモンテ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ローマ滞在中に、ファルネーゼ家の依頼で描かれた作品です。現在はナポリのカポディモンテ美術館の所蔵です。

中央の椅子に座っているのが教皇パウルス3世、画面左に立つ赤い枢機卿服の人物が孫のアレッサンドロ・ファルネーゼ、画面右で腰をかがめているのがもうひとりの孫オッターヴィオ・ファルネーゼです。

この絵がしばしば「恐ろしい絵」と評されるのは、三人の関係がそのまま画面に出ているからです。年老いた教皇は身をひねり、右から近づくオッターヴィオへ鋭い視線を向けます。オッターヴィオは深々と身をかがめていますが、その姿勢は敬意というより、うかがいを立てているようにも見えます。背後のアレッサンドロは動かず、黙ったままです。

画面左の赤い布をかけた卓には、砂時計が置かれています。教皇に残された時間を示しているとも読まれてきました。この作品は結局、仕上げられないまま残されました。教皇の右手など、いくつもの箇所が描きかけのままです。

フェリペ2世のための「ポエジア」

1555年から1556年にかけて、カール5世は各地の統治権を手放し、やがてスペインの修道院に隠棲します。後を継いだ息子のスペイン国王フェリペ2世もまた、父と同じようにティツィアーノを重んじました。

1550年代から1560年代にかけて、ティツィアーノはフェリペ2世のために6点の大きな神話画を描きました。自身がこの連作を呼んだ名が「ポエジア(詩)」です。古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』に題材を取った、絵で書かれた詩でした。

『ディアナとアクタイオン』(1556〜1559年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ディアナとアクタイオン』(1556〜1559年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ディアナとアクタイオン』(1556〜1559年)ロンドン・ナショナル・ギャラリー/ナショナル・ギャラリーズ・オブ・スコットランド(共同所有)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

狩人アクタイオンが、森のなかで偶然、水浴する女神ディアナとニンフたちの姿を見てしまう場面です。

画面左、深紅の垂れ幕をはねのけて入ってきた若者がアクタイオンです。足元には弓が落ち、猟犬が寄り添っています。右端で身をひねっているのが、髪に三日月の額飾りをつけたディアナです。

この一瞬のあと、ディアナは怒りにまかせてアクタイオンを鹿の姿に変えてしまい、彼は自分の連れてきた猟犬に食い殺されることになります。ティツィアーノはその結末をすでに画面に忍ばせています。柱の上に置かれた鹿の頭蓋骨と、そばに吊るされた獣の毛皮です。

ここでのティツィアーノの筆は、若い頃よりずっと自由になっています。水面も木の葉も布の襞も、近づけば素早く置かれた絵の具の斑点にすぎません。それが少し離れて眺めると、震えるような光と空気に変わります。

この作品はロンドン・ナショナル・ギャラリーとナショナル・ギャラリーズ・オブ・スコットランドの共同所有で、数年ごとにロンドンとエディンバラを行き来しています。

『エウロペの略奪』(1560〜1562年頃)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『エウロペの略奪』(1560〜1562年頃)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『エウロペの略奪』(1560〜1562年頃)イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

主神ゼウス(ユピテル)は、フェニキアの王女エウロペに恋をし、白い牡牛の姿に変身して彼女に近づきます。安心して背に乗ったエウロペごと、牡牛は海へ入り、クレタ島へと泳ぎ去ってしまいます。

ティツィアーノが選んだのは、その海の上の一瞬でした。エウロペは牡牛の背で仰向けにのけぞり、片手で角をつかみ、もう一方の手で赤い布を握っています。その布だけが風をはらんで大きく翻り、画面に激しい動きを与えています。上空では2人の小さな天使が弓矢を持って舞い、左下では別の天使が魚にまたがって併走しています。

左奥の岸辺には、置き去りにされた侍女たちが小さく描かれ、遠く霞む山並みへと視線が抜けていきます。画面左下には「TITIANVS P.」の署名があります。

この絵は1896年、美術史家バーナード・ベレンソンの仲介で収集家イザベラ・スチュワート・ガードナーが購入し、現在はボストンの同名の美術館にあります。

最後の10年と、自分の墓のための絵

80代に入ると、色数は減り、画面は暗く沈み、筆は荒くなりました。近づいて見ると、何が描いてあるのか分からないほどです。絵の具は筆だけでなく指でも扱われたと伝えられています。ロンドンのナショナル・ギャラリーは、この時期のティツィアーノについて「抽象の一歩手前まで絵画を押し進めた」と紹介しています。

1575年から1576年にかけて、ヴェネツィアをペストが襲います。ティツィアーノはそのさなかに、最後の絵を描いていました。

『ピエタ』(1575〜1576年)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ピエタ』(1575〜1576年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ピエタ』(1575〜1576年)ガッレリエ・デッラカデミア/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ティツィアーノの絶筆です。ガッレリエ・デッラカデミア(ヴェネツィア)の公式解説によれば、縦353センチ、横347センチのほぼ正方形の大作です。

この絵には、はっきりした目的がありました。フラーリ聖堂のキリスト礼拝堂に自分を葬ってもらう見返りとして描かれた、自分の墓を飾るための絵だったのです。ただし話し合いはまとまらず、絵は工房に戻されています。

画面は石造りの壁龕になっていて、中央で聖母マリアが息子の亡骸を膝に抱えています。左では黄色い衣のマグダラのマリアが腕を振り上げ、世界に向かって叫んでいます。右には赤い衣の老人がひざまずき、キリストの手に触れようとしています。

この老人こそ、ティツィアーノ自身です。所蔵館は、伝統的にニコデモ、あるいはアリマタヤのヨセフと同定されてきた人物だと説明しています。近年は聖ヒエロニムスと見る説も有力で、誰の姿を借りて自分を描いたのかについては諸説あります。ミケランジェロが自分の墓のためのピエタに自身を刻んだのと同じことを、ティツィアーノは絵で行いました。

周囲には救いを願う徴が置かれています。奥のモザイクには、自分の胸を裂いて血で雛を養うペリカン。左右には、台座に名の刻まれたモーセ像とヘレスポントスの巫女像が立っています。

そして1576年、ペストが猛威をふるうなか、ティツィアーノはこの絵を疫病よけの大きな奉納画に作り変えました。画面右下に加えられた小さな板がそれで、2人の人物がひざまずく姿が描かれています。

その祈りは届きませんでした。1576年8月27日、ティツィアーノは亡くなります。ペストによるものとされ、生年を1488年から1490年とすれば86歳から90歳でした。息子で助手のオラツィオも数週間後に同じ病で世を去っています。ペストの年にもかかわらず教会での葬儀と埋葬が特別に許され、フラーリ聖堂に葬られました。

残された『ピエタ』は画家ヤコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネの手に渡り、彼が最小限の手を加えて完成させました。画面下部中央には「ティツィアーノが未完のまま残したものを、パルマが敬意をもって完成させ、神に捧げた」と記されています。絵は1814年にガッレリエ・デッラカデミアの所蔵となりました。

ティツィアーノが残したもの

ティツィアーノの工房には多くの若い画家が出入りしました。少年時代のティントレットも一時期そこにいたとされますが、ごく短い期間で去ったと言われています。そして晩年のティツィアーノのもとには、クレタ島出身の画家ドメニコス・テオトコプーロス、のちのエル・グレコがいたと伝えられています。細密画家ジュリオ・クローヴィオが、ティツィアーノは晩年にエル・グレコを雇っていたと書き残しているのです。ただし実際に工房の一員だったのかは、意見が分かれています。

その影響は弟子という枠をはるかに超えて広がりました。絵の具の跡を残したまま形を立ち上げる描き方は、ルーベンス、ベラスケス、レンブラントへと受け継がれていきます。

そして19世紀。パリの画家エドゥアール・マネが、『ウルビーノのヴィーナス』から着想を得て『オランピア』(1863年)を描きました。両者の類似をはっきり指摘したのは、1897年の美術史家レオンス・ベネディットでした。2013年には『オランピア』がヴェネツィアに運ばれ、『ウルビーノのヴィーナス』と並べて展示されています。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、アルプスのふもとの山村からヴェネツィアへ出て、ヨーロッパ中の宮廷から求められる画家になったティツィアーノ・ヴェチェッリオの人生と作品についてご紹介しました。

『聖母被昇天』で人々の視線を天へ押し上げ、『バッカスとアリアドネ』で神話の一瞬を止め、『ウルビーノのヴィーナス』で女神を日常の部屋に降ろし、『カール5世騎馬像』で君主の肖像の型をつくり、最後に自分の墓のための『ピエタ』を残しました。

ティツィアーノがもたらした最大の変化は、絵の具そのものに語らせてよいと示したことかもしれません。形をなぞる道具だった絵の具が、それ自体で感情や光を運べるようになりました。

ヴェネツィアのフラーリ聖堂では、今も『聖母被昇天』と『ペーザロ家の聖母』が、描かれたその場所に掛かっています。

Euphoric " " の視点

ティツィアーノは、輪郭を先に引いてから色を置く、という当時の順序をとりませんでした。色を重ね、筆の跡を残したまま形を立ち上げていきます。

晩年の画面はさらに大胆になり、近くで見ると絵具の塊にしか見えない部分さえあります。それでも離れて見ると、確かに人がそこに立っています。

完成度とは、細部を詰めることだけを指すのではありません。どこを描き込まないかという判断もまた、力量の表れです。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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