こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは菱田春草という人物をご存知ですか?
明治時代に活躍した日本画家で、岡倉天心のもとで横山大観らとともに、新しい日本画をつくろうとした人です。輪郭線を使わずに色の濃淡だけで空気や光を描こうとした試みは、当時「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれて厳しく批判されました。
それでも春草は描き続け、最後の数年で重要文化財『落葉』『黒き猫』という近代日本画の代表作を残します。そして37歳の誕生日の5日前に、36歳でこの世を去りました。
本記事ではそんな菱田春草の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 菱田三男治(ひしだ みおじ)。辞典によっては「みなじ」とも読まれます。「春草」は画号 |
| 生年月日(没年月日) | 1874年(明治7年)9月21日〜1911年(明治44年)9月16日(満36歳没) |
| 国籍/出身 | 日本 長野県飯田町(現在の飯田市仲ノ町) |
| 学歴 | 飯田学校(現在の飯田市立追手町小学校)を経て、1890年に東京美術学校へ入学。1895年に卒業 |
| 分野 | 日本画(人物画・仏画・花鳥画・風景画) |
| 傾向 | 輪郭線を使わない「没線描法」。当時は「朦朧体」と呼ばれて批判されました。晩年は装飾性と写実を組み合わせた独自の画風へ |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 結城正明(狩野派)、橋本雅邦、岡倉天心。横山大観とは生涯の同志 |
経歴と作品
信州・飯田から東京へ

菱田春草は1874年(明治7年)9月21日、長野県の飯田町、現在の飯田市仲ノ町に生まれました。旧飯田藩士の家に生まれた三男で、本名を三男治(みおじ)といいます。名前に「三男」と入っているのは、そのまま三番目の男の子という意味だったようです。
飯田は、南アルプスと中央アルプスにはさまれた伊那谷の町です。春草は13歳まで地元の飯田学校(現在の飯田市立追手町小学校)で学びました。
絵の道を志した春草は10代半ばで上京し、狩野派の絵師・結城正明の画塾に入ります。上京した年については、1888年とする資料と1889年とする資料があり、はっきりしません。
そして1890年(明治23年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)に入学します。16歳でした。この学校は1889年に開校したばかりで、校長は岡倉天心、日本画を教えていたのは橋本雅邦です。上の学年には、のちに生涯の同志となる横山大観や下村観山がいました。
当時の日本は、明治維新から20年あまり。西洋の文化がなだれ込み、日本の伝統美術は「古くさいもの」として軽んじられていた時期でもありました。そのなかで、日本の美術をもう一度立て直そうとしていたのが岡倉天心です。春草は、その天心のもとで絵を学ぶことになります。
『寡婦と孤児』(1895年)

1895年(明治28年)、春草が東京美術学校を卒業するときに提出した卒業制作です。
画面には、赤ん坊を抱いた女性が座り込んでいます。足元には、よろいと刀が投げ出されたように置かれています。戦で夫を失った妻と、父を知らないまま残された子ども。よろいは昔のかたちをしており、画題は古典に取材したものと言われています。『太平記』に取材したとする説と、源義経の母・常盤御前(ときわごぜん)と牛若丸とする説があります。
描かれたのは1895年、日清戦争が終わった年でした。題材は古い物語ですが、戦で家族を失う悲しみは当時の人々にとって身近だったと思われます。
母親は赤ん坊に乳をふくませながら、視線を落としています。背景は薄い墨と淡い色でぼかされ、部屋の奥がどこまで続いているのか分かりません。悲しみを声高に訴えるのではなく、静かに沈んでいくような画面です。
この作品は、審査の場で評価が真っ二つに割れたと言われています。ある教授は「化物絵」だとして落第を主張し、一方で橋本雅邦と岡倉天心は最優秀を主張しました。最終的に校長である天心の裁定で優秀第一席が与えられ、決着したと紹介されています。
天心と雅邦が評価したのは、うまく描けているかどうかではなく、そこに「意味」の表現が認められたからだとされています。まだ学生だった春草が、技術ではなく主題の重さで評価された。これが春草の出発点でした。
卒業の翌年、春草は母校である東京美術学校の講師となり、古画の模写にも取り組みます。東京国立博物館には、春草が写した仏画などの模本が残されています。新しい絵を描く前に、まず古い絵を徹底的に写す。この時期の蓄積が、のちの仕事を支えることになります。
日本美術院の創立と、「朦朧体」という批判
1898年(明治31年)、東京美術学校で騒動が起こります。校長だった岡倉天心が排斥運動を受けて辞任し、大観や観山、そして春草を含む多くの教員がそれに続いて学校を去りました。
同じ年の7月、天心は在野の美術団体日本美術院を立ち上げます。春草もその中核メンバーとなりました。学校という後ろ盾を失い、自分たちの力だけで新しい日本画をつくっていく。ここから春草の本当の挑戦が始まります。
天心が彼らに投げかけた課題は、大きく言えばひとつでした。西洋の油絵が持っている空気感や光の表現を、日本画でもできないか。
それまでの日本画は、輪郭線でかたちを決めてから色を置くのが基本でした。線は日本画の背骨のようなものです。ところが春草と大観は、その線を捨ててみることにしました。墨の線を使わず、代わりに色そのもので形の境目をつくる。絵の具をつけていない乾いた刷毛(はけ)で色をぼかし、何層も重ねていく。こうして、輪郭のない、空気を含んだような画面をつくろうとしたのです。
この描き方は「没線描法(もっせんびょうほう)」と呼ばれます。理屈としては筋が通っていました。しかし実際の画面は、全体にぼんやりとほの暗く見えたのです。
当時の批評家たちは、これを「朦朧体」と呼びました。「朦朧」とは、はっきりせずぼんやりしている様子のこと。つまりこれは、春草たちが自分から名乗ったスタイル名ではなく、世間が揶揄するためにつけた悪口でした。東京富士美術館も、春草が没線描法の作品を発表したものの世間から「朦朧体」と揶揄された、と説明しています。日本画の節操を捨てるものだという批判もありました。
今では美術史の用語として当たり前に使われている「朦朧体」ですが、生まれた瞬間は批判の言葉だった。このことは、春草を理解するうえで大切な前提になります。
『水鏡』(1897年)

日本美術院ができる前年、1897年(明治30年)の作品です。日本絵画協会の第3回共進会に出品されました。縦が2メートル半を超える、かなり大きな絵です。
天女のような装いの女性が、水辺に立っています。手には紫陽花(あじさい)の花を持ち、視線は足元の水面へ落とされています。そして水面には、彼女自身の姿がぼんやりと映り込んでいます。
見どころは、この映り込みの描き方です。水の上の人物は細い線で丁寧に描かれているのに、水面に映った姿は輪郭がとけたように曖昧です。同じ一人の人物を、はっきりした描き方とぼんやりした描き方で描き分けている。線を消すという実験が、この時点ですでに画面の一部として始まっていることが分かります。
左右には紫陽花が茂り、青と緑の花が画面を彩ります。全体の色調はやわらかく、静かです。若い春草が、日本の伝統的な仏画や人物画の型を踏まえながら、そこから一歩ずらそうとしている。その手つきが見える作品です。
『菊慈童』(1900年)

1900年(明治33年)、日本美術院の時代に入ってからの代表作です。長野県宝に指定されており、飯田市美術博物館が所蔵しています。
菊慈童(きくじどう)は、菊の露を飲んで不老長寿を得たという中国の伝説に登場する少年です。能の演目にもなっており、日本画ではおなじみの画題でした。ふつうは菊の花と少年を画面いっぱいに大きく描きます。
ところが春草は、まるで逆のことをしました。慈童を、驚くほど小さく描いたのです。
画面の下のほうに、白い衣の小さな人物がぽつんと座っています。その周りを埋めているのは、霧にかすむ山と、茶色や橙色に色づいた木々です。主役であるはずの菊よりも、紅葉のほうがはるかに目立っています。手前には水が広がり、落ち葉がいくつも浮かんでいます。
色も暗く、全体がもやに包まれています。伝説の少年を描いた絵というより、秋の山の空気そのものを描いた絵に見えます。
当然ながら、この絵は批判されました。画題の主役を小さく描き、しかも暗い。飯田市によれば、慈童を小さく描いて菊より紅葉を目立たせた暗い色彩の表現は批判の対象になったとされています。線をなくし、霧や霞(かすみ)を描くことで空間を表そうとした試みが、伝統的な見方をする人たちには受け入れられなかったのです。
なお、この作品は2002年に、市民らの募金によって飯田市が購入したと飯田市は説明しています。ふるさとの画家の絵を、ふるさとの人たちがお金を出し合って取り戻した形です。現在は毎年1回、約1か月間ほど飯田市美術博物館で公開されています。
売れない絵と、それでも続いた実験
1900年前後の数年は、春草にとって苦しい時期でした。批評家からは朦朧体と叩かれ、絵は売れません。日本美術院そのものも経営が苦しくなっていきます。
それでも春草は、線を捨てる実験をやめませんでした。この時期の作品には、批判されながらもなお前に進もうとする気配があります。
『王昭君』(1902年)

1902年(明治35年)の作品で、重要文化財に指定されています。横が3メートル70センチもある大作です。
画題は中国の故事です。文化遺産オンラインは、この作品を「中国漢の元帝が後宮の美女王昭君を匈奴の王に送る哀愁惜別の情景を描いたもので、朦朧体といわれる没線法に精進していた頃の代表作」と説明しています。
王昭君(おうしょうくん)は、漢の宮廷に仕えた女性です。政治的な事情から、遠い北方の異民族の王のもとへ嫁ぐことが決まりました。この絵は、彼女が宮廷を去るその瞬間を描いています。
画面を見ると、右側に大勢の女性たちが密集しています。顔を伏せる人、涙をこらえるように目を閉じる人、隣の人に寄りかかる人。そして左側に、少しだけ離れて立っているのが王昭君です。
この左右の「すきま」が、この絵のすべてを語っています。まだ同じ部屋にいるのに、もう同じ場所にはいない。距離そのものが別れを表しています。
色づかいも見事です。女性たちの衣は白、水色、淡い黄色、薄紅と、ほとんどがやわらかい色で、輪郭の線はごく細く抑えられています。背景は上が金茶色、下が墨色で、ぼんやりと分かれているだけ。床も壁も描かれていないのに、広い空間があるように感じられます。
この作品は、1902年の第12回絵画共進会で銀牌第1席を受賞しました。批判のただ中にありながら、評価する人もきちんといたことが分かります。
同じ1902年には、足立美術館が所蔵する『紫陽花』も描かれています。足立美術館は、朦朧体と呼ばれた技法が非難されていた頃の作でありながら、冷静に計算された構図と抑えた色調によって洗練された一作になっていると説明しています。批判の時期の作品が、すべて迷いの産物だったわけではないのです。
インドへ、そしてアメリカ・ヨーロッパへ
1903年(明治36年)、春草は横山大観とともにインドへ渡ります。岡倉天心はその前年からインドに滞在しており、詩人ラビンドラナート・タゴールの一族との交流がありました。春草たちはカルカッタ(現在のコルカタ)に入り、現地で展覧会も開いています。
翌1904年(明治37年)2月には、天心、大観、六角紫水とともにアメリカへ渡航しました。ニューヨークをはじめアメリカ各地で展覧会を開き、その後ロンドンなどヨーロッパをまわって1905年に帰国します。1年半ほどに及ぶ外遊でした。
この旅で、思いがけないことが起こります。日本では散々に叩かれた没線描法が、欧米では予想外に好評だったのです。輪郭線に頼らず、色と空気で描く絵は、当時の西洋の人々の目にはむしろ新鮮に映ったようです。絵の売れ行きも良かったと紹介されています。
この経験は、春草にとって大きな意味を持ったはずです。ただし彼は、欧米で受けたからそれでいい、とは考えませんでした。帰国後の春草は、朦朧体をそのまま続けるのではなく、その改良に取りかかります。
五浦の日々
1906年(明治39年)11月、日本美術院の第一部が、茨城県の五浦(いづら)へ移転します。太平洋に面した、岩場の続く海辺の土地です。
この移転にともなって、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4人が、家族を連れて五浦に移り住みました。東京の画壇から距離を置き、海辺で新しい日本画をつくろうという、ある種の合宿のような暮らしです。
富山県水墨美術館は、この4人について「横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4人は、家族を伴ってこの地に移住し、新日本画運動の回生をはかるべく新しい日本画の創造に邁進しました」と紹介しています。そして大観と春草は、自分たちが生み出した朦朧体の改良に努力した、としています。
この五浦の時期から、春草の絵は変わっていきます。ぼかすだけではなく、必要なところには線と輪郭を戻す。そして色を、より鮮やかに、より装飾的に使う。線を捨てる実験を一度やり切ったからこそ、線を使う意味が分かるようになった、とも言えるかもしれません。
『猫梅』(1906年)

1906年(明治39年)、縦長の掛軸です。島根県の足立美術館が所蔵しています。
画面の下のほうに、白と黒のぶちの猫がうずくまっています。耳と背中と尻尾に黒い斑(ふ)があり、顔はこちらを向かず、少し伏し目がちです。前足をきちんとそろえて座る姿には、猫を見慣れた人なら思わず笑ってしまうような、あの独特の丸まり方が写し取られています。
上には、白い花をつけた梅の枝が伸びています。太い幹は墨の濃淡だけで描かれ、にじみがそのまま樹皮の質感になっています。
注目したいのは、猫と梅の描き分けです。猫の毛は、一本一本の細い線を重ねてふわふわとした量感が出されています。いっぽうの梅は、平面的で装飾的です。写実と装飾が、一枚の絵のなかに同居している。足立美術館も、この作品を写実と装飾が融合した初期の作例として位置づけています。
春草は猫の絵を数多く残した画家としても知られています。この『猫梅』は、のちの『黒き猫』の4年前の作品にあたります。
『賢首菩薩』(1907年)

1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品され、二等賞を受賞した作品です。東京国立近代美術館が所蔵し、1979年に重要文化財に指定されました。
文展は、この年に始まった国の美術展覧会です。それまで在野で活動していた日本美術院のメンバーも、この舞台に作品を送るようになります。
描かれているのは、賢首菩薩(けんじゅぼさつ)、中国・唐の時代の僧で、華厳宗の第三祖とされる法蔵という人物です。画面の上には、高い椅子に腰かけて説法する僧の姿があります。手には払子(ほっす)のような道具を持ち、口元はわずかに開いています。
そして左側の台の上に、金色の獅子の像が置かれています。これがこの絵の鍵です。賢首大師は、金でできた獅子の像を例に出して、難しい華厳の教えを分かりやすく説いたと伝えられています。抽象的な理屈を、目の前の物にたとえて説明した。その場面が描かれているわけです。
手前には若い僧が立ち、その後ろで年配の僧が合掌しています。聞いている人たちの表情や年齢の違いまで描き分けられています。
技法の面でも見どころの多い作品です。東京国立近代美術館は、この作品の特徴として、点描で彩色したうえに細かい模様を描き入れている点を挙げています。さらに、線を使わずに色彩の濃淡で空気や光線を表し、色調の微妙な変化で遠近感や立体感を出していると説明しています。
つまり、朦朧体と呼ばれた没線の考え方は捨てられていません。ぼんやりした画面ではなく、点の集まりで色をつくるという方法に進化しているのです。衣の柄や椅子の背にかけられた布の模様は、近づいて見ると驚くほど緻密です。批判を受けた技法を、批判されない強度まで磨き上げた。そういう作品だと言えます。
病と、代々木の雑木林
1908年(明治41年)、春草を病が襲います。慢性の腎臓病が原因となって網膜炎を起こし、失明の危険にさらされたのです。医師からは制作を止められました。
絵を描く人にとって、目が見えなくなるかもしれないという事態がどれほどのものか。想像するのは難しくありません。春草は五浦を離れ、東京へ戻って代々木に住み、療養生活に入ります。
ところが、この療養が思いがけない結果を生みました。散歩していた自宅近くの雑木林が、次の作品の画題になったのです。
『落葉』(1909年)


1909年(明治42年)10月、第3回文展に出品された屏風です。六曲一双、つまり6枚の面がつながった屏風が2つで一組。1つの隻(せき)が縦157センチ、横362センチという大作です。永青文庫が所蔵し、1956年に重要文化財に指定されました。
東京文化財研究所のアーカイブによれば、この作品は第3回文展の日本画の部で二等賞を受けています。所蔵する永青文庫は、これを第3回文展で最高賞を与えられたものと説明しています。
制作の経緯についても、永青文庫は興味深いことを書いています。網膜炎を患った春草は療養のために代々木へ転居し、半年間は絵筆をとることも叶わなかったといいます。そして締め切りが迫った頃に表具屋から新しい屏風を手に入れ、短期間で描き直して出品したのが、この作品なのだそうです。
画面に描かれているのは、ただの雑木林です。物語もなければ、人物も神仏も出てきません。
それなのに、この絵の前に立つと、林の奥へ歩いていけそうな気がします。理由は、木の描き方にあります。
手前の木は、幹のこけの模様や樹皮のひび割れまではっきりと描かれています。少し奥の木は、輪郭がやわらかくなります。さらに奥の木は、ほとんど霧にとけて、薄い影のようにしか見えません。手前から奥へ、少しずつ描写を弱めていく。ただそれだけの方法で、何十メートルもの奥行きがつくられています。
これは、西洋絵画でいう空気遠近法の考え方に近いものです。春草が10年かけて取り組んできた「線を使わずに空気を描く」という課題への、ひとつの答えがここにあります。
地面は一面の落ち葉です。手前の葉は形がはっきりしていて、奥にいくほど小さな点になります。そして画面のところどころに、緑が残されています。一方の隻には若い松が一本立ち、もう一方の隻には大きな葉を橙色に染めた若木が伸びています。また、枝にとまる鳥や、地面にいる小鳥の姿も描き込まれています。
すべてが枯れているわけではありません。落ちていく葉のなかに、まだ生きている緑がある。療養中の画家が描いたと知ってから見ると、この配置には静かな強さが感じられます。
なお、『落葉』は1点だけではありません。福井県の資料によれば、未完成のものを含めて5点が描かれています。六曲一双の屏風として完成しているのは、永青文庫のものと福井県立美術館のものの2点です。
この2点のどちらが先に描かれたかは、長いあいだ美術界の論争になっていました。決着がついたのは2014年です。春草の生地である飯田市で「製作控帖」が見つかり、そこには1909年9月から1911年5月までに受注した252件の受注年月日や画題、サイズ、代金、依頼者が記されていました。これにより、福井県立美術館のものは1909年11月の受注で、永青文庫のものより後だと判明します。100年以上あとになって、画家自身の帳面が答えを出したことになります。
『黒き猫』(1910年)
1910年(明治43年)、第4回文展に出品された作品です。永青文庫が所蔵し、『落葉』と同じ1956年に重要文化財に指定されました。
この記事では画像を掲載していません。ウィキメディア・コモンズにある『黒き猫』の画像は、出所がはっきりしないものや個人が撮影した切手の写真であり、当メディアの画像基準を満たさないためです。実物をご覧になりたい方は、記事の最後にある永青文庫の公式サイトをご確認ください。
画面には、柏(かしわ)の木の下にすわる一匹の黒い猫が描かれています。金泥や青緑を使って平面的に描かれた柏の葉と、写実的に描かれた猫。その対比が印象的な作品です。
とりわけ評価が高いのは、猫の毛並みの表現です。墨のぼかしだけで、思わず触ってみたくなるような柔らかな毛並みが表されています。黒一色で塗りつぶすのではなく、墨の濃淡だけで猫の立体感まで出している。発表された当初から高く評価されました。
この作品には、制作をめぐる話が残っています。春草はもともと、別の屏風作品を文展に出すつもりで準備を進めていました。ところが仕上がりに納得できず、制作を中断します。そして代わりに、わずか5、6日で描き上げられたのがこの『黒き猫』だったと紹介されています。
伝来もはっきりしています。この作品を真っ先に入手したのは、春草と親交が深かったパトロンの秋元洒汀(あきもとしゃてい/1869〜1945年)で、発表前にすでに売約済みだったといわれています。その後、大正期に入って細川護立(ほそかわもりたつ)の手に渡りました。永青文庫は細川家に伝わる文化財を収蔵する施設です。
そして2025年、制作から100年以上を経て、初めての本格的な修理が行われました。クラウドファンディングと国・東京都・文京区の補助によるものです。掛軸全体の波打ちや本紙のシミ、裏面の汚れや浮きといった傷みに手当てがなされ、修理を終えた姿が永青文庫の展覧会でお披露目されました。
36歳の死と、その後
『黒き猫』を描いた翌年、1911年(明治44年)9月16日、春草は東京で亡くなりました。腎臓の病気でした。37歳の誕生日の5日前、満36歳という若さです。
網膜炎からいったん回復して制作に戻ったものの、3年と経たないうちに病が再発したと紹介されています。『落葉』と『黒き猫』という2つの代表作は、亡くなる前のわずか2年あまりのあいだに生まれたことになります。
この時期の作品には、ほかにも見ごたえのあるものがあります。1910年の『春秋』は双幅の作品で、飯田市の有形文化財に指定されています。飯田市によれば、省略された背景、装飾的な樹木の描写、写実的な動物の描写という点で『黒き猫』と同じ画風を示しており、展覧会への出品作ではないものの優れた作品とされています。東京国立近代美術館も『秋木立』『雀に鴉』『四季山水』『梅に雀』といった晩年の作品を所蔵しています。
春草の死を、誰よりも惜しんだのは横山大観でした。大観は自分が日本画の巨匠と呼ばれるたびに、春草こそ本当の天才で、もし生きていたら自分よりずっとうまかっただろうという趣旨のことを口にしていたと伝えられています。ライバルというより、同じ課題に挑んだ同志だったのだと思われます。
なお、大観は1958年に亡くなっており、その作品にはまだ著作権が存続しています。本記事で大観の作品画像を掲載していないのは、そのためです。
現在、春草の作品のうち『王昭君』『賢首菩薩』『落葉』『黒き猫』の4点が国の重要文化財に指定されています。飯田市によれば、これは明治以降の画家では最も多い数です。36歳で亡くなった画家としては、異例の密度だと言えます。
春草が線を捨てて叩かれ、その線を取り戻しながら磨き上げた表現は、そのあとの日本画に受け継がれていきました。空気や光をどう描くか、装飾性と写実をどう両立させるか。これらは現在の日本画にとっても続いているテーマです。
生まれ故郷の飯田市は、現在30点の春草作品を所蔵しています。また、生誕150年にあたる2024年には、福井県立美術館で『落葉』の連作5点が一堂に並ぶ展覧会が開かれました。彼の絵は、没後100年を超えてなお人を集め続けています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
菱田春草は、信州・飯田に生まれ、岡倉天心と橋本雅邦のもとで学び、横山大観らとともに日本美術院で新しい日本画に挑んだ画家でした。
輪郭線を捨てるという実験は、当時「朦朧体」と呼ばれて笑われ、絵も売れませんでした。それでも春草は描き続け、インドや欧米での経験、五浦での改良を経て、点描や装飾性を取り込んだ独自の表現にたどり着きます。
そして病を得て代々木で療養していたときに、自宅近くの雑木林から『落葉』が生まれました。手前から奥へと描写を弱めていくだけで、林の奥行きと秋の空気を出し切った作品です。その翌年には、墨のぼかしだけで猫の毛並みを描いた『黒き猫』が生まれます。
『王昭君』『賢首菩薩』『落葉』『黒き猫』の4点が重要文化財に指定されている事実は、36歳で終わった画業の密度を物語っています。
春草の作品は、永青文庫、飯田市美術博物館、東京国立近代美術館、東京藝術大学大学美術館、足立美術館などで見ることができます。屏風や掛軸は展示替えのある作品が多いため、気になる方は各館の公開情報をチェックしてみてください。
Euphoric " " の視点
春草たちが輪郭線を抑えて光と空気を描こうとしたとき、世間はそれを「朦朧体」と呼びました。ほめ言葉ではなく、ぼんやりして見えるという批判でした。
それでも彼は描き方を変え続け、晩年の『落葉』では線を取り戻しながら、奥行きのある静かな画面にたどり着きます。批判を受けて引っ込むのでも、意地で押し通すのでもなく、試し続けた人でした。
新しい試みが最初に受け取られる言葉は、たいてい好意的ではありません。そこから先に何回手を動かせるかが、評価を変えていきます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






