こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはメアリー・カサットという人物をご存知ですか?
アメリカに生まれ、人生の大半をフランスで過ごし、印象派の展覧会に出品した唯一のアメリカ人画家として知られています。母と子を描いた画家として紹介されることが多いのですが、それだけではカサットの半分も説明できません。
彼女はオペラ座の桟敷席で「見られる女性」ではなく「見る女性」を描き、1890年にパリで開かれた日本版画の展覧会に打ちのめされて多色刷りの版画10点を独力で作り上げ、シカゴ万博では巨大な壁画を引き受け、さらにアメリカの富豪に助言して、いまメトロポリタン美術館にある印象派コレクションの土台を築きました。
本記事ではそんなメアリー・カサットの人生と作品についてご紹介します。
コンテンツ
Toggleメアリー・カサットって?

基本情報
| 本名 | メアリー・スティーヴンソン・カサット(Mary Stevenson Cassatt) |
| 生年月日(没年月日) | 1844年5月22日〜1926年6月14日(82歳没) |
| 国籍・出身 | アメリカ合衆国/ペンシルヴェニア州アレゲニー・シティ(現在のピッツバーグ市の一部)。1870年代半ば以降はフランスを拠点に活動 |
| 学歴 | 1860年代前半にペンシルヴェニア美術アカデミー(フィラデルフィア)に在籍。1866年からパリで、ジャン=レオン・ジェロームらに個人指導を受ける(当時のエコール・デ・ボザールは女性の入学を認めていませんでした) |
| 分野 | 絵画(油彩)、パステル、版画(ドライポイント、アクアチント、ソフトグラウンド・エッチング) |
| 傾向 | 印象派。同時代の女性と子どもの日常、劇場、室内。1890年以降はジャポニスム(浮世絵の影響)が色濃い多色刷り版画 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ジャン=レオン・ジェローム、シャルル・シャプラン、トマ・クチュール、コレッジョとパルミジャニーノ(パルマでの研究)、エドガー・ドガ、喜多川歌麿をはじめとする浮世絵師 |
カサットを取り巻いた画家たちや、彼女が学んだ浮世絵については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
印象派のなかの、ひとりの外国人
1874年にパリで始まった印象派の展覧会は、国が主催する公募展「サロン」に対抗して、画家たち自身が開いた独立の展覧会でした。審査員がいない代わりに、費用も評判も自分たちで引き受ける仕組みです。
この輪の中にカサットが入るのは、1879年の第4回展からでした。合計8回開かれた印象派展のうち、彼女が出品したのは1879年、1880年、1881年、1886年の4回です。
当時のパリにアメリカ人画家は数多くいましたが、そのほとんどはサロンでの成功を目指していました。体制の外側に立つ印象派の側についたアメリカ人は、カサットひとりです。しかも彼女は、外国人であり、女性であり、生涯結婚しませんでした。
その位置から彼女が選んだ主題は、戦争でも神話でもなく、自分がほんとうに近くで見ることのできる世界でした。劇場の桟敷、居間のソファ、庭、お茶の時間、そして子どもを抱く腕です。19世紀の中流以上の女性は、男性のように街を自由に歩き回ることができませんでした。カサットが描いた室内の多さは、当時の女性が置かれていた生活の範囲そのものでもあります。
経歴と作品
鉄道王の妹として生まれて
メアリー・カサットは1844年5月22日、ペンシルヴェニア州のアレゲニー・シティで生まれました。現在はピッツバーグ市の一部にあたる工業都市です。
父ロバート・シンプソン・カサットは株式仲買人と土地投資で成功した人物で、家は裕福でした。兄のアレグザンダー・ジョンストン・カサットは、のちにアメリカ最大級の鉄道会社ペンシルヴェニア鉄道の社長になります。つまりメアリーは、絵が売れなくても食べていける家に生まれました。この余裕は、彼女が注文仕事に頼りきらずに、自分の見たいものを描き続けられた理由のひとつです。
カサット家は子どもたちの教育のために数年間ヨーロッパに滞在しており、メアリーはロンドン、パリ、ベルリンで暮らして、ドイツ語とフランス語を身につけました。
15歳前後で画家になることを決めたとき、父は強く反対したと伝えられています。当時のアメリカで、裕福な家庭の娘が職業画家を志すのは、たしなみの範囲を大きく踏み越える選択でした。
「教えというものがなかった」学校を出て
1860年代の前半、カサットはペンシルヴェニア美術アカデミーで学びます。同時期の学生には、トマス・エイキンズがいました。
しかしカサットはこの学校に満足しませんでした。のちに彼女は、そこには教えというものがなかったと振り返っています。女子学生は男性の裸体モデルを使った授業から外され、石膏像の模写が中心でした。技術の核心に触れさせてもらえない、という不満です。
そこで彼女は1866年、母と付き添いの知人とともにパリへ渡ります。当時のエコール・デ・ボザールは女性の入学を認めていなかったため、正規の学生になる道はありません。彼女が選んだのは、有名教師の個人指導を受けながら、ルーヴル美術館で名画を模写し続けるという方法でした。女性の画学生にとって美術館は、数少ない公認の勉強場所であり、同業者と知り合える社交の場でもありました。
師についたのは、精密な仕上がりで知られたジャン=レオン・ジェローム、優美な女性像を得意としたシャルル・シャプラン、そしてマネの師としても知られるトマ・クチュールでした。
サロンでの出発と、スペイン、パルマ
1868年、カサットの『A Mandoline Player(マンドリンを弾く女性)』がサロンに入選します。24歳での公募展デビューでした。
その後、普仏戦争を避けて一度アメリカに戻りますが、描くための環境も見るべき名画もない日々に苦しみ、1871年、彼女は再びヨーロッパへ向かいます。
転機になったのはイタリアのパルマでの8か月でした。ここで彼女はコレッジョとパルミジャニーノを集中的に研究します。コレッジョは16世紀に、聖母と幼子イエスを、神々しさよりも先に「腕の中の重み」として描いた画家です。のちにカサットが一生をかけて取り組む母と子という主題の土台は、このパルマで据えられたと考えられています。同地では、パルマ美術アカデミー版画科のカルロ・ライモンディからも助言を受けました。版画との最初の接点です。
1872年のサロンには、パルマで描いた『Two Women Throwing Flowers During Carnival(謝肉祭で花を投げる二人の女性)』が入選し、買い手もつきました。続いてスペインへ渡り、マドリードのプラド美術館でベラスケスとルーベンスを見た彼女は、甘い色づかいを捨て、はっきりした影と大胆な筆に切り替えていきます。
そして1870年代の半ば、カサットはパリを自分の拠点に定めました。
ドガからの誘い
1875年ごろ、カサットは画商の店先でドガのパステル画を見かけます。彼女はのちに、その窓に鼻を押しつけるようにして眺めていた、と語りました。
一方のサロンでは、うまくいかない年が続きました。1875年には2点のうち1点が落選し、背景を暗く塗り直して翌年に再提出すると通ってしまいます。審査員の好みで結果が変わる仕組みへの疑いが、ここで決定的になりました。1877年には2点とも落選します。
その1877年、エドガー・ドガがカサットのアトリエを訪ね、印象派の展覧会に加わらないかと誘いました。彼女は迷いなくこれを受け入れたと伝えられています。
同じ1877年、彼女の両親と姉のリディアがパリに移り住み、同居が始まりました。病を抱えていたリディアは、以後カサットの絵に何度も登場する、最も身近なモデルになります。
『青い肘掛け椅子に座る少女』(Little Girl in a Blue Armchair、1878年)

格子柄のワンピースを着た少女が、大きな青い椅子に背中から崩れ落ちるように座っています。両脚を投げ出し、片腕を頭の後ろに回し、退屈そうに宙を見ている。左の椅子では小さな犬が丸くなって眠っています。
この絵の新しさは、子どもを「かわいらしく」描いていないところにあります。19世紀の子どもの肖像は、行儀よく座り、こちらに微笑みかけるものが一般的でした。カサットが描いたのは、大人の来客に付き合わされてうんざりしている、ごく普通の子どもの姿です。
画面の下半分を青い椅子が占め、床がほとんど見えないため、高い位置から見下ろす構図になっています。この視点の取り方は、浮世絵を通じて印象派に広まった手法のひとつでした。
この作品にはドガが関わっています。カサット自身が、ドガが背景について助言し、実際に手を入れたと書き残しており、ワシントン・ナショナル・ギャラリーによる近年の調査でも、その痕跡が確認されています。なお、画面の左に眠る犬は、ドガから贈られたものと伝えられています。
カサットはこの絵を1878年のパリ万国博覧会のアメリカ部門に出品しようとしましたが、受け入れられませんでした。翌1879年、彼女はこれを第4回印象派展に出します。印象派展でのデビューを飾った一点でした。
見る女性を描く
1879年4月に開かれた第4回印象派展で、カサットは11点を出品します。批評家のエドモン・デュランティとフィリップ・ビュルティは、彼女の描く女性像はきわだった優雅さと品位を備えており真剣な注目に値する、という趣旨の評価を与えました。出発は成功でした。
売れた分の収入で、彼女はドガとモネの作品を買っています。
『桟敷席にて』(In the Loge、1878年)

黒い外出着の女性が、劇場の桟敷席からオペラグラスをのぞいています。真珠の耳飾りが光り、扇は膝の上で閉じられたまま。彼女の関心は舞台か、向かいの客席に向いています。
この作品が特別なのは、画面の奥にもうひとり、こちらへ向けてオペラグラスを構える男性が描かれている点です。身を乗り出し、手すりに肘をついて、明らかに手前の女性を見ています。
つまりこの絵には、「見る女性」と「その女性を見る男性」が同時に収められています。同時代のルノワールやドガも劇場の桟敷を描きましたが、その多くは着飾った女性を鑑賞の対象として正面から捉えたものでした。カサットは女性を横向きに置き、顔よりも先にのぞき込む動作を見せます。彼女は見られる側ではなく、見る側にいます。
黒い服が画面の半分近くを占め、その塊が金色の手すりや赤い壁とぶつかって、強い明暗をつくっています。マドリードで学んだスペイン絵画の黒が、ここで効いています。なお本作には、『At the Français, a Sketch』という別の呼び名も残されています。
ドガという、難しい友人

ドガはカサットを何度も版画に描いています。その一点が、ルーヴルの絵画室に立つ彼女の後ろ姿です。細長い画面いっぱいに、黒い外出着の女性が背中を見せ、傘に体重を預け、カタログらしきものを背中の低い位置で持っています。顔は見えません。見えるのは、作品の前に立ち続ける人の姿勢そのものです。
二人は画廊を一緒にまわり、帽子を選び、互いのアトリエで仕事をしました。1879年、ドガはカサット、カミーユ・ピサロ、フェリックス・ブラックモンを誘って、版画を中心にした雑誌『Le Jour et la Nuit(昼と夜)』を作ろうとします。
計画は、ドガの熱が冷めたことで立ち消えになります。ただしこの企画がカサットに残したものは大きく、彼女は版画という表現をここで手に入れました。1880年の第5回印象派展では、油彩やパステルとともに最初のエッチングを並べています。のちに彼女が生涯で200点を超える版画を残したことを考えると、頓挫した雑誌の企画が、結果として彼女の代表作を用意したことになります。
二人の関係は、生涯続く友情であると同時に、緊張を含んだものでもありました。カサットはドガが描いた自分の肖像画について、自分がモデルだと知られたくないという趣旨のことを後年に画商へ書き送っています。それでも彼女はドガの作品を買い続け、アメリカの収集家にも勧め続けました。
1890年、日本版画に出会う
1890年4月25日から5月22日まで、パリのエコール・デ・ボザールで日本版画の展覧会が開かれました。カタログの序文を書いたのは、パリで日本美術を扱っていた美術商ジークフリート・ビングです。クリーヴランド美術館は、この展覧会に725点の浮世絵が並んだとしています。
カサットはここで心をつかまれます。友人の画家ベルト・モリゾに宛てた手紙には、こう書かれています。
You could come and dine here with us and afterward we could go to see the Japanese prints at the Beaux-Arts. Seriously you must not miss that. You who want to make color prints you couldn’t dream of anything more beautiful. I dream of it and don’t think of anything else but color on copper.
(うちで一緒に夕食をとって、そのあとボザールに日本版画を見に行きませんか。本気で申し上げますが、あれを見逃してはいけません。多色刷りの版画を作りたいと思っているあなたなら、あれ以上に美しいものは想像もできないはずです。私はそのことばかり夢に見ていて、銅版の上の色のこと以外は何も考えられません。)
浮世絵そのものは当時のパリではすでによく知られており、カサット自身も版画や磁器、扇を集めていました。それでも700点を超える作品が一度に並ぶ光景は別格だったようで、彼女は会期中に何度も足を運んでいます。
そして彼女は、浮世絵が使っていた木版の多色刷りではなく、手になじませてきた銅版で同じ効果を出そうと決めました。線はドライポイントとソフトグラウンド・エッチングで引き、色面はアクアチントで作った部分に、調合した色を直接のせていきます。かなり無茶な方針です。
1890年から翌年にかけて作られたのが、多色刷り版画10点の連作でした。刷りは、ルロワとしか名前の伝わっていない職人と組み、カサット自身も手を動かしています。刷った枚数は各25部だけでした。1891年、彼女はこの10点をパリのデュラン=リュエル画廊で発表します。初めての個展でした。
『Woman Bathing(La Toilette)』(1890〜91年)

洗面台に向かって身をかがめ、水盤に手を浸している女性。上半身は裸で、腰から下にはピンクと緑の縞の布が巻かれています。背後の壁は深い青、床には草花の文様が広がり、手前には小花を描いた水差しが置かれています。
浮世絵から学んだものが、ここに集まっています。強い輪郭線、影のない平らな色面、高い位置から見下ろす視点、そして縞と草花という二種類の文様をぶつけるやり方です。女性は鏡に映っていますが、その顔は伏せられ、こちらを見ません。見られるために立っているのではなく、自分の朝の支度をしているだけです。
喜多川歌麿らが描いた湯浴みや化粧の場面と並べると、姿勢の取り方や画面の切り方に共通点が見えてきます。ただしカサットの人物は、遊里の女性ではなく、ごく普通の家庭の女性です。同じ形式を借りて中身を入れ替えているところに、この連作の面白さがあります。
『手紙』(The Letter、1890〜91年)

青地に金の花模様の部屋着を着た女性が、書き物机の前で封筒に口を近づけ、封をしようとしています。壁紙は淡い地に緑の葉が散り、机の面は濃い青。三つの異なる文様が、ほとんど影のないまま同じ画面に同居しています。
女性の衣服は、柄の置き方や袖のかたちが着物を思わせます。ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵するこの一枚の下には、カサット自身の手で25部の限定であること、画家とルロワ氏が刷ったことが書き込まれています。版画は複製の技術ですが、彼女はここで、一枚ごとに色の乗りが変わる、限りなく絵画に近い版画を作っていました。
『The Coiffure』(1890〜91年)

縞の椅子に腰かけた女性が、両腕を上げて髪をまとめています。白い下着が腰まで落ち、背中があらわになっている。右側の鏡には、同じ動作をする彼女の正面が映っています。
壁紙は淡い桃色の唐草、椅子は赤と白の縞、床は文様のある敷物。またしても三つの柄が重なりますが、画面は混乱しません。背中の輪郭線が一本、すっと通っているからです。色数を抑え、黒をほとんど使わず、それでも人物の形が崩れない。ドガはこの連作の素描の確かさに強く反応したと伝えられています。
シカゴ万博の巨大な壁画
1891年、シカゴの実業家夫人バーサ・パーマーが、翌々年に開かれるシカゴ万国博覧会(World’s Columbian Exposition)の「女性館」の装飾をカサットに依頼します。
与えられた場所は、名誉の間の入口の上にある半円形の壁面でした。大きさはおよそ幅58フィート(約17.6メートル)、高さ12フィート(約3.6メートル)。彼女はフランスの自宅の庭に専用の溝を掘り、巨大な画布を上下させながら制作したと伝えられています。
主題は『Modern Woman(近代の女性)』。中央には、果樹園で果実をもぎ、はしごの上から子どもへ手渡す女性たちが描かれました。左右には、名声を追う若い娘たちと、芸術や音楽、踊りに携わる女性たちが配されています。知識という果実を自らの手で摘み、次の世代へ渡していく、という意味が込められていたと考えられています。聖書では禁じられた果実を取ったことが罰の理由になりますが、ここでは同じ行為が堂々と肯定されています。
評価は割れました。明るすぎる、装飾的すぎる、という声もありました。そして万博の閉幕後、この壁画は行方が分からなくなります。パーマー夫人が1918年に亡くなったあとの消息が追えず、現在も見つかっていません。残されているのは当時の写真と記録だけです。アメリカで女性画家が請け負った最初期の大規模な公共壁画が、実物として一切残っていない。カサットの経歴で最も惜しまれている空白です。
母と子という、長い主題
1890年代以降、カサットの画面に最も多く現れるのは、子どもとそれを世話する大人です。母親であることも、乳母であることもあります。
この主題は、ともすれば甘い絵になりがちです。カサットの作品がそうならないのは、彼女が感情よりも先に、体の接触そのものを描いているからだと思われます。抱えた子どもの重み、支える手の位置、濡れた足。関係を説明せず、動作を観察しています。
『子どもの入浴』(The Child’s Bath、1893年)

縞の部屋着を着た女性が、膝に子どもを乗せ、白い水盤の中で足を洗っています。女性の左手は子どもの体を支え、右手は小さな足を包んでいる。二人とも目を伏せ、視線は水盤に集まっています。
ここでも視点は高く、床の敷物の文様が画面の奥まで見えています。縞、花柄の壁紙、幾何学模様の敷物という三層の文様は、版画の連作で試した手法が油彩に戻ってきたものです。
この絵の中心は、実は顔ではありません。水に浸された小さな両足と、それを支える手です。母と子の絆といった言葉を使わずに、二人の関係が画面の一点に集められています。
本作は1910年にシカゴ美術館が購入し、現在も同館の代表的な所蔵品のひとつとして公開されています。
ボーフレーヌ館と、水辺の絵
1894年3月、カサットはパリの北西およそ80キロ、オワーズ県ル・メニル=テリビュにあるボーフレーヌ館を買います。18世紀末に建てられた館で、広い庭と池がありました。以後1926年に亡くなるまでの32年間、ここが彼女の生活の中心になります。
1890年からの数年、彼女は版画と壁画に集中し、油彩をほとんど描いていませんでした。ボーフレーヌでの暮らしは、彼女を屋外の制作へ連れ出します。
『船遊び』(The Boating Party、1893〜94年)

1894年の1月から2月にかけて、カサットは母とともに南フランスのアンティーブ岬に滞在しました。この大作は、その冬に描かれたとされています。
手前を占めるのは、紺色の服に身を包み、背中をこちらに向けて櫂を握る漕ぎ手です。顔はほとんど見えず、黒い塊のように画面の右半分を支えています。向かい合って座るのは、淡い縞の服の女性と、その膝に抱かれた赤ん坊。背景には濃い青の海が広がります。
注目したいのは、水平線が画面のかなり上に置かれ、空がほとんど描かれていないことです。そのぶん海が壁のように立ち上がり、ボートの黄色い船縁が大きな弧を描いて画面を横切ります。この思い切った切り取り方と、平らな色面の使い方には、浮世絵から学んだものが強く出ています。
赤ん坊はこちらを見返し、女性の視線は漕ぎ手のほうへ向いています。舟の中で交わされるまなざしと、画面の外へ出ていく赤ん坊の目が同居しています。なお本作は長く画家の手元に置かれ、のちにチェスター・デイルの所蔵を経て、その遺贈でワシントン・ナショナル・ギャラリーに入りました。
『Summertime』(1894年)

麦わら帽子をかぶった二人が小舟から身を乗り出し、水面の鴨を見つめています。画面の大半は水で、青、緑、桃色、橙が細かく混ざり合って波を作っています。
これはボーフレーヌ館の池で描かれた一連の作品のひとつです。輪郭をきっちり引いた版画の時期とは対照的に、筆づかいがきわめて自由で、輪郭が水の反射に溶けています。版画で線を研ぎ澄ませた人が、同じ年に線をほどくような絵を描いている。この振れ幅の大きさは、彼女が一つの様式に閉じこもらなかったことをよく示しています。
アメリカにフランス絵画を運んだ人
カサットのもうひとつの大きな仕事は、アメリカの収集家への助言でした。
中心にいたのは、若い頃にパリで知り合ったルイジーン・エルダー、のちのルイジーン・ハヴマイヤーです。カサットはまだ二十歳そこそこの彼女にドガを勧め、パステル作品を買わせました。1883年にルイジーンが砂糖精製業で財を成したヘンリー・オズボーン・ハヴマイヤーと結婚すると、夫妻はカサットの助言を受けながら、本格的な収集を始めます。
ルイジーンは後年、自分が持っている最良のものはカサットの判断と助言によって買われたものだ、という趣旨のことを述べています。夫妻が集めたドガの作品群は、世界有数の規模になりました。
1929年にルイジーンが亡くなると、収集品のうち多数がメトロポリタン美術館に遺贈されました。今日ニューヨークで見られるフランス近代絵画の中核には、カサットの助言で選ばれた作品が数多く含まれていることになります。
1915年には、ルイジーンが女性参政権運動の資金を集めるため、ニューヨークのノードラー画廊で、古典絵画とドガおよびカサットの作品を並べる展覧会を開きます。カサットはここに自作を貸し出しました。画家としての最後の大きな公の場が、女性の政治参加を支えるための展覧会だったことは、彼女の生き方をよく表しています。
見えなくなるまで
1904年、フランス政府はカサットにレジオン・ドヌール勲章を授与します。外国人の女性画家としては異例の評価でした。
その一方で、身近な人が次々に世を去ります。姉のリディアは1882年に、母は1895年に、兄アレグザンダーは1906年に亡くなりました。長年の友人だったドガは1917年に世を去ります。
1910年のエジプト旅行では、古代美術の圧倒的な力に打ちのめされた、という趣旨の言葉を残しています。この旅ののち体調を崩し、1911年には糖尿病、リウマチ、神経痛、そして白内障と診断されました。
視力は少しずつ失われていきます。手術も受けましたが、結果は思わしくありませんでした。1914年以降、彼女は絵筆を置きます。見ることを仕事にしてきた人が、見ることを失いました。
それでも彼女は助言を求められ続け、訪ねてくる若い画家や収集家と話し続けました。1926年6月14日、メアリー・カサットはボーフレーヌ館で息を引き取ります。82歳でした。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、印象派展に出品した唯一のアメリカ人画家メアリー・カサットの人生と作品についてご紹介しました。
ピッツバーグ郊外の裕福な家に生まれ、教えのない学校を出てパリに渡り、ドガに誘われて印象派の輪に入る。ここまでは、恵まれた条件を生かした話に見えるかもしれません。けれど彼女がしたことは、その立場に安住することではありませんでした。桟敷席では、見られる女性ではなく見る女性を描きました。46歳で浮世絵に出会うと、木版ではなく銅版で同じ効果を出そうとして、10点の版画を独力で作り上げました。万博では巨大な壁画に挑み、その作品は失われました。そして目が見えなくなるまで描き、最後の公の場では女性参政権のための展覧会に作品を貸しています。
母と子の画家、という紹介は間違いではありません。ただ彼女は、当時の女性に許されていた狭い生活範囲を主題にすることで、その範囲の中にも見るに値するものがあると証明してみせた画家でもありました。水盤に浸された小さな足も、封をされようとしている一通の手紙も、彼女の手にかかると、歴史画と同じ重さを持ちます。
次に美術館でカサットの絵に出会ったときは、ぜひ人物の視線の向きを追ってみてください。誰が誰を見ているのか。そこにこの画家の一番面白い部分が詰まっています。
Euphoric " " の視点
カサットが繰り返し描いたのは、母と子、来客、湯浴みといった家庭の場面でした。当時の画壇で高く評価された主題とは言えません。
しかし彼女は、身近な場面を甘い絵にしませんでした。子どもの重さ、支える腕の力、視線の向き。日々のなかにある確かな手ごたえが、画面に残っています。
大きな主題を選ぶことだけが強さではありません。自分がよく知っている世界を、誰よりも正確に描く。それも表現のひとつの道です。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- シカゴ美術館『子どもの入浴』作品ページ(英語)
- ボストン美術館『桟敷席にて』作品ページ(英語)(同作は現在ほかの館へ貸し出されています。公開状況は公式サイトでご確認ください)
- フィラデルフィア美術館『手紙』作品ページ(英語)(同館は、本記事に掲載したものとは別の摺りを所蔵しています)






