【徹底解説】オーギュスト・ロダンとは?近代彫刻の出発点となった彫刻家の人生と作品を解説!

【徹底解説】オーギュスト・ロダンとは?近代彫刻の出発点となった彫刻家の人生と作品を解説!
画像:『The Thinker』/CC0/Wikimedia Commons

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはオーギュスト・ロダンという人物をご存知ですか?

19世紀から20世紀初めのフランスで活躍した彫刻家です。『考える人』の名前なら、一度は耳にしたことがあるかもしれません。パリの貧しい地区に生まれ、美術学校の入学試験には3度失敗しながら、のちに「近代彫刻の出発点」と呼ばれる仕事を残しました。

ロダンの彫刻は、立派な英雄の像ではありません。迷い、ためらい、悩む人間の体そのものを、粘土や石膏、ブロンズで捉えようとしたものでした。そのため発表のたびに賛否が分かれ、ときには「実物から型を取ったのではないか」と疑われ、ときには注文主から受け取りを拒まれました。

本記事ではそんなオーギュスト・ロダンの人生と作品についてご紹介します。

オーギュスト・ロダンって?

ガートルード・ケーゼビア撮影『Auguste Rodin』(1905年ごろ)/オーギュスト・ロダンの肖像
ガートルード・ケーゼビア撮影、オーギュスト・ロダンの肖像(1905年ごろ)米国議会図書館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

アメリカの写真家ガートルード・ケーゼビアが撮った、横顔の肖像です。ロダンが60代のころの姿で、深い影のなかに、ひげをたくわえた横顔が浮かび上がっています。

基本情報

本名オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)
生年月日(没年月日)1840年11月12日〜1917年11月17日(77歳没)
国籍・出身フランス/パリ(5区のアルバレット通り)。生まれた地区は、当時のパリでも貧しい地区でした
学歴帝立特別素描・数学学校(通称プチ・エコール)。エコール・デ・ボザール(国立美術学校)は3度受験して入学できませんでした
分野彫刻(粘土、石膏、ブロンズ、大理石)、素描
傾向近代彫刻の出発点とされる作風。人間の体と内面を、理想化せずに表現しました
師事した人物・影響を受けた人物画家オラス・ルコック・ド・ボワボードラン(プチ・エコールの教師)、彫刻家アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ(装飾の仕事を教わった雇い主)、ミケランジェロ(イタリア旅行で強い影響を受けました)

ロダンの先輩にあたる巨匠や、同じ時代のパリで活躍した画家については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

【徹底解説】ミケランジェロの人生と作品に迫る〜彫刻だけじゃないルネサンスの万能人〜

【徹底解説】エドガー・ドガの人生と作品に迫る〜踊り子に魅せられた印象派画家〜

ロダンはなぜ「近代彫刻の出発点」と呼ばれるのか

ロダンが活躍する前の彫刻は、神話や歴史上の英雄を、整った姿で表すものが中心でした。ロダンはそこから離れ、人が立ち止まる瞬間、迷う瞬間、体がねじれる瞬間を、そのまま形にしようとしました。

ミュゼ・ロダン(ロダン美術館)は、腕のない人物像『The Walking Man』を、ロダンに「最初の近代作家」という評判をもたらした作品だと紹介しています。腕や頭が欠けていても、作品として成り立つ。この考え方が、のちの彫刻の見方を大きく広げました。

経歴と作品

パリの貧しい地区に生まれて(1840〜1863年ごろ)

ロダンは1840年11月12日、パリで生まれました。ミュゼ・ロダンの年表は、生まれた場所を5区のアルバレット通りと記し、当時の貧しい地区だったと説明しています。家は裕福ではありませんでした。

14歳になった1854年、ロダンは父を説得して、プチ・エコールと呼ばれる学校に入りました。正式名称は「帝立特別素描・数学学校」で、素描と数学を教える学校です。ここで教えていた画家オラス・ルコック・ド・ボワボードランのもと、ロダンは伝統的な技法を学ぶと同時に、観察する力を磨き、記憶を頼りに描く練習もしたと、ミュゼ・ロダンは記しています。

素描で一等賞を取ったあと、ロダンはエコール・デ・ボザールの入学試験に挑みました。けれども結果は3度とも不合格でした。官立の美術学校に入れなかったことは、ロダンの人生の出発点を決めました。装飾や彫刻の仕事で生計を立てながら、自分の作品を独学で進めるしかなかったのです。

ミュゼ・ロダンの年表は、最も早い彫刻として、1860年の父ジャン=バティストの胸像を挙げています。ローマの立法官のような姿で表された父の像でした。この時期のロダンは、まだ名の知られない青年職人にすぎませんでした。

装飾の仕事と、ブリュッセル時代(1864〜1877年)

1864年、ロダンは彫刻家アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズの工房で働き始めます。装飾彫刻を手がける大きな工房で、ロダンがつくった作品の多くは、雇い主の署名で世に出ました。ミュゼ・ロダンの年表は、この工房で若い彫刻家が、大きな工房を切り盛りするための知識をひととおり身につけたと述べています。

同じ1864年に、ロダンは生涯のパートナーとなるローズ・ブーレと出会いました。のちに2人は、人生の最後の年に正式に結婚します。

1871年、ロダンはブリュッセルへ移り、1877年までそこで仕事をしました。1875年には『折れた鼻の男(The Man with the Broken Nose)』が、パリのサロン(官展)で、ロダンの作品として初めて入選します。ミュゼ・ロダンの年表によれば、原型は1863年から65年につくられ、大理石には1874年から75年に彫られました。

翌1876年にはイタリアへ旅をしました。ミュゼ・ロダンは、この旅でロダンがミケランジェロの作品から深い影響を受けたと説明しています。ねじれた体、筋肉の張り、苦しみを抱えたような姿勢。ミケランジェロから受け取ったものは、のちのロダンの人物像のあちこちに見つけることができます。

『The Age of Bronze』(1876〜77年)で巻き起こした論争

オーギュスト・ロダン『The Age of Bronze』(1876年原型、1906年ごろ鋳造)
オーギュスト・ロダン『The Age of Bronze』(1876年原型、1906年ごろ鋳造)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

『The Age of Bronze』(1876年原型)

ブリュッセルで制作された、ほぼ等身大の男性像です。ミュゼ・ロダンによれば、モデルはベルギー人の若い兵士でした。彫像には、人物が誰かを示す小道具が何もありません。1877年にブリュッセルの芸術家サークル(セルクル・アルティスティーク)で題名なしで展示され、その後パリのサロンに『The Age of Bronze』の題で出品されました。

ここで騒ぎが起こります。あまりに生々しい体の表現に、「生きた人間から型を取ったのではないか」という疑いがかけられたのです。ロダンは深く傷つき、モデルの写真や証拠をまとめた分厚い資料をつくって、身の潔白を示しました。ミュゼ・ロダンは、ロダンが、この造形のよさは型取りではなく、体の輪郭を入念に観察した成果だと証明しなければならなかったと述べています。最終的に、批評家たちはロダンに不正がなかったと認めました。

この像は、もとは左手に槍を持っていました。ミュゼ・ロダンは、のちにロダンが槍を取り除き、腕から持ち物を外すことで、動きに新しい自由を与えたと説明しています。図版は、メトロポリタン美術館のブロンズを背中側から撮った写真です。右腕を頭の上に上げ、左腕を軽く曲げて立つ姿は、目覚めたばかりの人が体を伸ばすようにも見えます。「目覚める人」「打ち負かされた人」という別名があるのも、そのためです。

この騒動は、結果的にロダンの名を広めました。ミュゼ・ロダンは、この事件が1880年の『地獄の門』の注文につながったと記しています。なお、ミュゼ・ロダンの年表では、1880年にフランス政府がこの作品を購入したことも記録されています。

『地獄の門』と、そこから生まれた作品たち(1880年〜)

『地獄の門(The Gates of Hell)』(1880年〜1890年ごろ)

1880年、ロダンはフランス政府から、新しく建てられる予定の装飾美術館のための入口の扉を依頼されました。ダンテの『神曲』の「地獄篇」を題材にした扉です。国立西洋美術館の解説によると、ロダンはダンテの熱心な読者で、すでに1876年に『神曲』に取材した群像『ウゴリーノと息子たち』をつくっていました。ためらうことなく、この扉を『神曲』を表す浮彫の連作でつくると決めたといいます。

構成はフィレンツェ洗礼堂にあるギベルティの『天国の門』をお手本にしました。ところが、構想を練るうちに、扉はダンテの整った秩序から離れ、次第に混沌とした世界に変わっていきます。国立西洋美術館は、ロダンの関心がダンテそのものより、ボードレールの『悪の華』に描かれた、人間自身の「地獄」に向かったのだろうと解説しています。

『地獄の門』は、ロダンが生涯をかけても完成させられませんでした。ミュゼ・ロダンによれば、ロダンはここで200を超える人物や群像をつくり、それが以後の仕事のアイデアの宝庫になりました。1889年の万国博覧会に出す希望もありましたが、間に合わず、1890年ごろには制作の手が止まります。1900年の個展で初めて公開されたときも、組み上げは断片的な状態でした。

ブロンズへの鋳造への道が開けたのは、ロダンの死の年の1917年です。ミュゼ・ロダンの初代学芸員レオンス・ベネディットが、ロダンを説得して、扉を組み直す許可を得ました。ロダンは完成した姿を見ることなく世を去ります。国立西洋美術館によれば、鋳造が実現したのは1920年代で、現在、世界にはブロンズが7つあるとされています。

『地獄の門』の本当の価値は、完成しなかったことにあるのかもしれません。扉から独立した作品が次々と生まれ、そのいくつかが、ロダンの代表作になりました。

『考える人(The Thinker)』(1880年ごろ〜)

オーギュスト・ロダン『The Thinker』(1880年ごろ原型、1910年ごろ鋳造)
オーギュスト・ロダン『The Thinker』(1880年ごろ原型、1910年ごろ鋳造)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

ロダンの代表作『考える人』は、もともと『地獄の門』の上部、扉の真ん中の上に座る人物として構想されました。ミュゼ・ロダンによれば、1880年に高さ約70センチの原型として構想されたとき、題名は『詩人』でした。この人物はダンテで、身を乗り出し、地獄の輪を見下ろしながら、自分の作品について思いをめぐらせています。

ロダン自身は、この像について次のように語ったと、国立西洋美術館の解説は伝えています。

「彼はもはや夢想家ではない。彼は創造者である」

国立西洋美術館の解説にあるロダンの言葉は、扉の前でダンテが詩想に耽るという最初の計画が実現しなかったこと、そして最初のインスピレーションに従って、岩に座る裸の男を考えたことを語ったあとに出てきます。座る姿勢には、ミケランジェロの影響とともに、ジャン=バティスト・カルポーの『ウゴリーノ』の影響があると、国立西洋美術館は指摘しています。

この像は、『地獄の門』に取りつけられたまま、1888年に単独で展示され、独立した作品になりました。拡大された巨大な版は、さらに大きな人気を集めました。国立西洋美術館によれば、拡大の作業は1902年から03年にかけて、ロダンの協力者アンリ・ルボセの手で行われました。ミュゼ・ロダンの年表は、大きなブロンズが初めて公開されたのを1904年のロンドンとしています。なお、原型の年は、ミュゼ・ロダンが1880年、国立西洋美術館が1881年から82年としており、資料によって少し幅があります。ミュゼ・ロダンは、考えごとにふけりながら、力強い体が大きな行動力を感じさせる姿が、世界でも最も有名な彫刻のひとつになったと述べています。パリのパンテオンの前に1906年に置かれた像は、寄付を募って贈られたものです。

図版のメトロポリタン美術館の像は、高さ約70センチの小さな版です。拡大される前の、1880年ごろの原型の大きさに近いものです。

『アダム(Adam)』(1880〜81年)

オーギュスト・ロダン『Adam』(1880〜81年原型、1910年鋳造)
オーギュスト・ロダン『Adam』(1880〜81年原型、1910年鋳造)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

1881年、ロダンは美術省から、『アダム』と『エヴァ』の2体の大きな像を依頼されました。ミュゼ・ロダンによれば、ロダンはこの2体を『地獄の門』の左右に置くことを提案しています。ルーヴル美術館にあるミケランジェロの『奴隷』が、パラッツォ・スタンガの扉の両脇に置かれていた配置を参考にしたのかもしれない、とミュゼ・ロダンは述べています。

『アダム』は、同じ1881年のサロンに『人間の創造』の題で出品されました。ロダンはすでにあった作品を使った可能性が高い、とミュゼ・ロダンは推測しています。発達した筋肉は大きな体力を思わせますが、ひねった体と下を指さす指先は、苦しみを抱えているようにも見えます。ミュゼ・ロダンは、地面を指さすアダムが、地上のくびきを強調しているようだと述べています。システィーナ礼拝堂の天井画で、神から生命の火花を受け取るミケランジェロのアダムとは対照的です。

『The Kiss』(1882年ごろ〜1898年)

もうひとつ、『地獄の門』から独立した作品として世界中で知られているのが『The Kiss』です。ミュゼ・ロダンによれば、この群像は、もともとダンテの『神曲』に登場するパオロとフランチェスカを表していました。2人は、フランチェスカの夫に、最初の口づけを交わした瞬間に見つかって殺され、地獄をさまよう運命を負います。

この群像は、『地獄の門』の左下の扉に置かれ、向かい側にはウゴリーノの群像がありました。ところが1886年、ロダンは、この幸福と官能を描いた群像が、地獄という巨大な主題にそぐわないと判断し、扉から外します。そして1887年に、独立した作品として展示しました。なめらかな造形と動きのある構図、魅力的な主題によって、すぐに成功を収めたとのことです。群像にはパオロとフランチェスカだと分かる細部がなかったため、観客は「口づけ」という、抽象的な題で呼ぶようになりました。

1888年、フランス政府はこの群像の大理石版を注文しました。ロダンが納品するまでには、ほぼ10年かかっています。ミュゼ・ロダンによれば、大理石版は1888年から1898年にかけて彫られ、1901年にリュクサンブール美術館に入り、1919年にミュゼ・ロダンへ移りました。

『The Kiss』と同じころに生まれた、寄り添う二人の像をもう1点ご紹介します。下の図版は『The Kiss』ではなく、別の作品『Eternal Spring』です。

オーギュスト・ロダン『Eternal Spring』(1881年ごろ原型、1907年大理石に彫刻)
オーギュスト・ロダン『Eternal Spring』(1881年ごろ原型、1907年大理石に彫刻)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

メトロポリタン美術館によれば、原型は1881年ごろにつくられ、大理石への彫刻は1907年に行われました。ざらりと粗く残した岩の上に、滑らかな二人の体が浮かび上がり、石肌の対比が目を引きます。

カミーユ・クローデルとの出会い(1880年代〜1890年代)

1880年代は、ロダンの私生活にも大きな変化が起きた時期でした。弟子であり、のちに恋人となるカミーユ・クローデルとの出会いです。

ミュゼ・ロダンによれば、当時のエコール・デ・ボザールは女性を受け入れていませんでした。クローデルは、アカデミー・コラロッシで学んだあと、1882年にノートルダム=デ=シャン通りにアトリエを借り、イギリス人の若い彫刻家たちと共同で使います。彼女たちを見ていた彫刻家アルフレッド・ブーシェがイタリアへ行くことになり、後任としてロダンに指導を頼みました。ロダンは、クローデルが最初に見せた作品に感銘を受けたといいます。

クローデルは1884年ごろ、ロダンの工房の助手になりました。ミュゼ・ロダンは、具体的にどんな仕事を任されたのかははっきりしないとしつつ、記念碑的な彫刻の手や足など、難しい部分を担当していたようだと述べています。同時に、自分の作品を制作し、サロンにも出品しました。1882年から1889年にかけて、クローデルは親しい人々の胸像や肖像を、サロンに継続して出していました。

ミュゼ・ロダンは、2人の関係を「恋愛物語」として美化しすぎる見方に、慎重な姿勢をとっています。2人が交わした手紙から分かるのは、ロダンが出会ってすぐに強い思いを抱いたこと、クローデルがやや距離を取っていたこと、そして彼女に経済的な苦労があり、制作への強い執着があったことです。また、ロダンがローズ・ブーレのもとを離れなかったことが、クローデルの怒りを招きました。ミュゼ・ロダンの年表では、クローデルが1892年に、ロダンとの関係と共同制作を終えたと記されています。

『カレーの市民(The Burghers of Calais)』(1884〜95年)

オーギュスト・ロダン『The Burghers of Calais』(1884〜95年原型、1985年鋳造)
オーギュスト・ロダン『The Burghers of Calais』(1884〜95年原型、1985年鋳造)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

『カレーの市民』は、百年戦争中の1347年に、イギリス国王にカレーの街の鍵を差し出した6人の市民を表した群像です。ミュゼ・ロダンによれば、市民たちは、1年にわたる包囲戦を終わらせるため、自分たちの命を差し出しました。

国立西洋美術館の解説によると、1884年にカレー市が、街を救った恩人ウスターシュ・ド・サン=ピエールの記念碑の建設を決め、ロダンが指名されました。ミュゼ・ロダンによれば、当時の市長オメール・ドワヴランがロダンに制作を持ちかけ、正式な依頼は翌年のことでした。年代記を読んで心を動かされたロダンは、ウスターシュ1人の代わりに、6人の市民が、それぞれの絶望と苦悩のなかで、手に鍵を持ち、首に縄を巻き、裸足で門を出ていく群像をつくります。

ところが、英雄らしい華々しい身振りを期待していた市の側は、この人間くさい像をなかなか理解できませんでした。国立西洋美術館は、カレー市当局がこれを拒否したと述べています。ミュゼ・ロダンによれば、最終的な作品は1889年に完成し、鋳造のあと、1895年6月3日にカレーで除幕されました。

ロダンは6人を、ひとつにまとまった群像として構想しました。そのうえで、一人ひとりの性格と感情を描き分けています。ミュゼ・ロダンは、ロダンが人物の裸体、手、衣服の習作を数多くつくったとも説明しています。図版の像でも、うなだれる姿や、腕を宙に伸ばす姿など、6人が同じ運命を前に、それぞれの表情を見せています。

『バルザック記念像(Monument to Balzac)』(1891〜98年)

オーギュスト・ロダン『Head of Balzac』(1892〜93年ごろ原型、1980年鋳造)
オーギュスト・ロダン『Head of Balzac』(1892〜93年ごろ原型、1980年鋳造)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

『Monument to Balzac』(1891〜98年)

1891年、ロダンは文芸家協会から、小説家オノレ・ド・バルザックの記念像を依頼されます。ミュゼ・ロダンによれば、ロダンは頭部と体の研究を同時に進めました。頭部は、作家に似せた肖像から、表情の凝縮へと変わっていきました。一方の体は、反対に、形が薄れ、ガウンの流れるような表面の濃淡へと向かいます。

6年の制作を経て、1897年にロダンがつくり上げたのは、革命的な記念碑でした。肘かけ椅子やペン、本といった作家のお決まりの持ち物はありません。ミュゼ・ロダンは、これを肖像というより、世界を見渡す幻視者としての天才の姿だと説明しています。作家が執筆するとき着ていたという、修道士のような部屋着をまとった創造者です。

オーギュスト・ロダン『Final Study for the Monument to Balzac』(1897年原型、1972年鋳造)
オーギュスト・ロダン『Final Study for the Monument to Balzac』(1897年原型、1972年鋳造)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

1898年にこの記念像が公開されると、あまりに斬新だったために、大きな反発が起こり、注文は取り消されました。ミュゼ・ロダンによれば、ロダンは、ブロンズに鋳造された姿を見ることなく生涯を終えています。

ミュゼ・ロダンによると、ロダンは1898年に、このバルザック像と対になる作品として、大理石版の『The Kiss』を展示しました。まるで、口づけの像が、大胆なバルザック像を観客に受け入れやすくするかのような並べ方だった、と同館は述べています。

図版は、メトロポリタン美術館が所蔵する、頭部の習作と最終習作の2点です。頭部は、荒々しいほどうねる表面のなかに、強い表情が残っています。もうひとつの習作は、長いガウンに包まれ、輪郭がほどけたような体の上に、顔を上げた頭が載っています。

名声と、1900年の個展(1893〜1915年)

1893年、ロダンはパリ郊外ムードンのヴィラ・デ・ブリヤンを借り、1895年に購入しました。ミュゼ・ロダンの年表によれば、ムードンからは、パリのアトリエまで列車か船で通うことができました。ロダンとローズ・ブーレは、ここを住まいにします。

1900年、パリ万国博覧会にあわせて、ロダンは自分の個展を開くことにしました。会場は、アルマ広場に特別に建てられた展示館です。ミュゼ・ロダンの年表では、これがフランスで開いた最初の個展とされています。『地獄の門』の石膏版がはじめて一般に公開されたのも、この展覧会でした。ミュゼ・ロダンは、このころまでにロダンはフランス美術の巨匠として認められ、作品は世界中の画商や収集家から求められていたと述べています。

『The Walking Man』(1899〜1900年構想)

この時期の大きな仕事のひとつが『The Walking Man』です。ミュゼ・ロダンによれば、この作品は、複雑な経緯をたどってつくられました。1878年ごろにつくった『洗礼者聖ヨハネ』のための胴体と脚の習作を、1890年代末に組み合わせたものです。胴体はやや前に傾き、わずかに左へひねられています。わずかなずれが、歩く動きの感覚を高めると、ミュゼ・ロダンは説明しています。

この人物には、腕がありません。ロダンは、伝統的な「全身の像」という考え方から離れ、特定の人物ではなく、もっと普遍的な何かを表そうとしました。それが『洗礼者聖ヨハネ』という具体的な題を離れ、『The Walking Man』という一般的な題を選んだ理由だったと、ミュゼ・ロダンは述べています。

『The Hand of God』

オーギュスト・ロダン『The Hand of God』(1907年ごろ大理石に彫刻)
オーギュスト・ロダン『The Hand of God』(1907年ごろ大理石に彫刻)メトロポリタン美術館/画像:メトロポリタン美術館(CC0)、出典:Wikimedia Commons

ロダンは、手の表現にも強いこだわりを持っていました。メトロポリタン美術館には、手だけを石膏やブロンズで表した習作が何点も所蔵されています。『The Hand of God』は、手を主役にした大理石の作品です。メトロポリタン美術館によれば、1907年ごろに大理石に彫られ、1908年に同館に寄贈されました。

荒く削り残した石の塊から、大きな手のかたちが立ち上がります。手のなかの石くれからは、小さな人の体が現れかけています。体の一部だけを取り出しても、ひとつの作品として成り立つ。ロダンのそうした考え方が、よく伝わってくる彫刻です。

最期と、遺されたもの(1908〜1917年)

1908年、ロダンはパリのヴァレンヌ通りにあるビロン館を知ります。ミュゼ・ロダンによれば、詩人のライナー・マリア・リルケが、この建物をロダンに教えました。18世紀に建てられた屋敷で、当時はほとんど放置されていました。ロダンはまず1階の4部屋を借り、1911年からは建物全体を使い始めます。

1912年には、ニューヨークのメトロポリタン美術館にロダンの展示室が開設されました。この年、サンクトペテルブルクと東京でも作品展が開かれています。

1916年、ロダンは自分の作品、鋳造の権利、コレクションなどを、フランス国家に寄贈しました。条件は、ビロン館を自分のための美術館にすることです。ミュゼ・ロダンによると、この年、ロダンは重い病に倒れていました。下院、続いて元老院が寄贈を受け入れ、国民議会が、ビロン館にミュゼ・ロダンをつくることを議決しました。

1917年1月29日、ロダンはムードンで、長年連れ添ったローズ・ブーレと結婚しました。ローズは、その2週間後の2月14日に亡くなります。ロダン自身も、同じ1917年の11月17日に世を去りました。11月24日に、ローズのそばに埋葬されます。

アジャンス・ロル撮影『Tombeau de Rodin à Bellevue (Meudon)』(1922年)/ムードンのロダンの墓と『考える人』
アジャンス・ロル撮影『Tombeau de Rodin à Bellevue (Meudon)』(1922年)フランス国立図書館(Gallica)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

墓には、大型の『考える人』が置かれました。ミュゼ・ロダンによれば、この像は、ロダンの家の庭にある夫妻の墓の上に、今も置かれています。写真は1922年にムードンで撮影された、墓と像の姿です。建物の正面の階段の前で、石の台座に載った考える人が、前かがみに座っています。

ミュゼ・ロダンは1919年8月4日に、一般に開館しました。ビロン館の庭園には、今も『考える人』のブロンズが置かれています。

日本とロダン

ロダンの彫刻は、日本とも深く結びついています。国立西洋美術館の解説によると、同館には約60点のロダン彫刻があり、その大半は松方コレクションに由来します。松方コレクションは、川崎造船所を率いた実業家の松方幸次郎が、1916年から約10年かけて、ヨーロッパで1万点を超える美術品を買い集めてつくったものです。目的は、日本に美術館をつくることでした。

ロダンの彫刻については、松方が1918年の夏、帰国を前にパリへ行き、ロダン美術館で最初の鋳造の契約を結んだと、国立西洋美術館は記しています。このとき、ミュゼ・ロダンはまだ正式に開館していませんでした。

のちに松方のコレクションは、造船所の経営難や第二次世界大戦で、散逸したり、フランスに残されたりします。戦後、日仏両政府の交渉を経て、1959年に日本へ寄贈返還されました。その受け皿として設立されたのが、国立西洋美術館です。今、東京・上野で『考える人』や『地獄の門』のブロンズを見ることができるのは、こうした経緯があるからです。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、近代彫刻の出発点とされる彫刻家オーギュスト・ロダンの人生と作品をご紹介しました。

パリの貧しい地区に生まれ、官立の美術学校には3度落ち、装飾の仕事で生計を立てる。30代半ばで出品した『The Age of Bronze』は、あまりの生々しさに疑いをかけられました。それでもロダンは、物陰に隠れるのではなく、証拠を並べて自分の仕事を守り、そのことが名前を広めました。

『地獄の門』は未完のまま残り、『バルザック記念像』は注文を取り消され、『カレーの市民』は受け入れられるまでに時間がかかりました。ロダンの代表作の多くは、すぐに喝采を浴びたわけではありません。それでも『考える人』や『The Kiss』のように、『地獄の門』という未完の大仕事から次々と独立し、世界中で知られる作品になりました。

ロダンの作品を前にしたとき、完成した姿だけでなく、腕の欠けた像や、岩に埋もれたままの手など、「途中」のように見える部分にも目を向けてみてください。そこには、ロダンが何を残し、何を省いたのかという選択が、そのまま形になっています。

Euphoric " " の視点

ロダンの歩みを振り返ると、評価はいつも遅れてやってきました。美術学校には3度落ち、装飾の仕事で生計を立てながら自分の制作を続けています。

『The Age of Bronze』では型取りを疑われましたが、モデルの写真と資料をそろえて潔白を示し、その騒動が『地獄の門』の注文につながりました。

その『地獄の門』は、生涯完成しませんでした。それでも『考える人』や『The Kiss』は、この未完の仕事から独立して生まれています。

完成させることだけが仕事の成果ではない、とロダンは教えてくれます。終わらない大きな仕事を手元に置き続けることが、次の作品の源になるのかもしれません。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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