こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはダンテ・ゲイブリエル・ロセッティという人物をご存知ですか?
19世紀のイギリスで活躍した画家であり、同時に詩人でもあった人です。20歳のときに仲間とともにラファエル前派同盟という秘密の集まりをつくり、当時の美術界の常識に正面から異議を唱えました。
そして中年期以降、彼が描き続けたのはただ一つ、女性の姿でした。『Beata Beatrix』や『Proserpine』のあの顔立ちは、一度見ると忘れにくいはずです。ロセッティがつくり上げたこの女性像は、のちのイギリス美術やヨーロッパの象徴主義に大きな影響を残しました。
本記事ではそんなダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleダンテ・ゲイブリエル・ロセッティって?

ラファエル前派をともに立ち上げた画家ウィリアム・ホルマン・ハントが、ロセッティの死の直後に描いた肖像です。1853年に自分が描いた素描をもとにしているため、画面のなかの彼は若いころの姿のままです。
基本情報
| 本名 | ガブリエル・チャールズ・ダンテ・ロセッティ(Gabriel Charles Dante Rossetti)。のちに本人が並びを変え、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)と名乗るようになりました |
| 生年月日(没年月日) | 1828年5月12日〜1882年4月9日(53歳没) |
| 国籍・出身 | イギリス/ロンドン(シャーロット・ストリート)。父はイタリアからの亡命者 |
| 学歴 | キングス・カレッジ・スクール、サス画学校(Sass’s Drawing Academy)、ロイヤル・アカデミー附属美術学校。1848年に短期間、フォード・マドックス・ブラウンの工房で学びました |
| 分野 | 絵画(油彩・水彩)、素描、詩、イタリア詩の翻訳 |
| 傾向 | ラファエル前派、中世趣味、のちの唯美主義・象徴主義につながる女性像 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | フォード・マドックス・ブラウン、詩人ダンテ・アリギエーリ(父の研究対象であり、本人の生涯の主題)、批評家ジョン・ラスキン(1854年から交友し、支援者となりました)、初期イタリア絵画とフランドル絵画 |
ロセッティと同じ時代のイギリスで、ラファエル前派の流れをつないだ人たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
ラファエル前派って?
ロセッティを語るうえで欠かせないのがラファエル前派という呼び名です。
テートの解説によれば、ラファエル前派は1848年にロンドンで結成された、若い芸術家たちの秘密結社でした。名前にある「ラファエル前」とは、ルネサンスの巨匠ラファエロより前、という意味です。
当時のイギリスの美術教育は、ラファエロがたどり着いた理想的な人体や構図を手本とし、そこへ近づくことを良しとしていました。ロイヤル・アカデミーが推し進めていたのがその考え方です。若い彼らはそれに反対し、理想化された型をなぞるのではなく、まじめな主題をできる限りの写実で描こうとしました。
背景には、批評家ジョン・ラスキンの存在がありました。ラスキンは画家たちに、決まりごとから離れて自然そのものを見るよう促しており、ラファエル前派はその考えに刺激を受けています。
創設メンバーは7人。中心にいたのはロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイの3人で、ほかに画家のジェームズ・コリンソン、批評家のフレデリック・ジョージ・スティーヴンズ、彫刻家のトマス・ウルナー、ロセッティの弟ウィリアム・マイケルが加わっています。初期の主題は主に宗教的なもので、やがて文学や詩、とりわけ愛と死を扱った物語へ広がっていきます。
最初は強い反発を受けましたが、やがて大きな影響力を持つようになりました。そして1860年ごろから第2の波が起こります。テートは、この第2の波をとくに刺激したのがロセッティの作品であり、それが象徴主義への大きな寄与になったとしています。つまりロセッティは、ラファエル前派を立ち上げた人であると同時に、途中から別の方向へ動かした人でもありました。
経歴と作品
ロンドンのイタリア人の家に生まれて
ロセッティは1828年5月12日、ロンドンのシャーロット・ストリートで生まれました。名づけられたのはガブリエル・チャールズ・ダンテ・ロセッティ。4人きょうだいの2番目で、長男でした。
父ガブリエーレ・ロセッティはイタリアからの政治亡命者です。詩人であり、『神曲』で知られる中世の詩人ダンテ・アリギエーリの研究者でもありました。1831年からはロンドンのキングス・カレッジでイタリア語の教授を務めています。母フランシスはイタリア系とイギリス系の血を引き、家庭教師をしていました。
きょうだいは、姉マリア、弟ウィリアム・マイケル、そして妹クリスティーナ。クリスティーナはのちにイギリスを代表する詩人のひとりになります。父の書斎にダンテ研究の資料が積み上がる家で育った長男が、ミドルネームの「ダンテ」を自分の呼び名に選び、やがてダンテ・ゲイブリエルと名乗るようになります。詩人ダンテへの敬意からの改名だと伝えられています。
絵の勉強は、おそらく1841年の夏の終わりごろに入ったサス画学校から始まりました。1844年にロイヤル・アカデミー附属美術学校へ仮入学し、1845年12月に正規の学生になります。ただ、彼は画家一本に決めていたわけではなく、1847年の時点でも詩人になる道と画家になる道の両方を考えていました。
ラファエル前派同盟の結成(1848年)
1848年3月、ロセッティはフォード・マドックス・ブラウンの工房に短期間身を置きます。8月にはウィリアム・ホルマン・ハントとともにクリーヴランド・ストリートのアトリエへ移り、そして9月ごろ、ハントとジョン・エヴァレット・ミレイとともにラファエル前派同盟(Pre-Raphaelite Brotherhood)の結成に動きます。ロセッティは20歳でした。
同じ年の10月には、ダンテの『新生(Vita Nuova)』の翻訳を訳し終えています。絵と詩が同時に動き出した年でした。
1850年には同人誌『The Germ』も刊行されます。テートによれば、この雑誌の実現に大きく関わったのがロセッティでした。
『The Girlhood of Mary Virgin』(1848〜49年)

ロセッティが最初に世に出した本格的な油彩画です。題は聖母マリアの少女時代という意味で、1849年3月にフリー・エキシビションで発表されました。
テートの解説によれば、刺繍の枠に向かっている少女がマリアで、モデルは妹のクリスティーナ。その手もとを見ているのが母で、モデルはロセッティの母フランシスです。つまり画面の中心にいるのはロセッティの家族でした。背景の外では、マリアの父がぶどうの木の手入れをしています。
この絵はキリスト教の象徴で埋め尽くされています。床のヤシの枝と茨はキリストを、積まれた本は希望と信仰と慈愛を、鳩は聖霊を表します。手前の赤い翼の子どもは天使です。
そして何より重要なのは、この絵が「PRB」の頭文字をつけて展示された最初の作品だったということです。
『Ecce Ancilla Domini!』(1849〜50年)

テートでの正式な題は『Ecce Ancilla Domini! (The Annunciation)』です。ラテン語の題は、聖書のなかでマリアが口にする言葉から取られています。英語の副題にある The Annunciation とは受胎告知、大天使ガブリエルがマリアに、あなたはイエス・キリストを産むと告げる場面のことです。
受胎告知は西洋絵画がくり返し描いてきた主題ですが、ロセッティの描き方はそれまでのものとまるで違いました。テートの解説は、彼が中世の受胎告知の図像を、より近代的で心理的な見方へと作り替えたと説明しています。場所からして異例です。ここは教会でも庭でもなく、マリアの寝室。天使は彼女の眠りを破って現れました。マリアはベッドの上で壁ぎわに身を縮め、目を見開いています。祝福を受け入れる聖母というより、知らせに驚きたじろぐ少女です。
不気味なほど白い色づかいのなかで、青い布と、ゆりを刺した赤い刺繍枠だけが浮き上がっています。
ここでもマリアのモデルは妹のクリスティーナでした。テートは、兄妹がともに内面の感情に踏み込み、突き放した表現を拒んでいた時期だったと書いています。
1850年4月、この絵はナショナル・インスティテューションで公開されました。評判は芳しくありませんでした。テートによれば、この否定的な反応のあと、ロセッティは公の場にほとんど作品を出さなくなります。
ここが分かれ道でした。同じころ批判を浴びたミレイやハントは展覧会で戦い続け、やがて認められます。ロセッティが選んだのは、少数の注文主に直接売る道でした。
中世への傾倒と、油彩への回帰
1849年の秋、ロセッティはハントとともにパリとフランドルを旅しました。テートによれば、このとき彼は中世とルネサンスの美術に強い感銘を受けています。帰国後の1850年代、主な仕事は油彩ではなく水彩でした。アーサー王伝説やダンテの詩から題材を取り、宝石のように色の詰まった小さな画面をつくり続けます。
1854年からは批評家ジョン・ラスキンと親しく交わります。テートは、ラスキンがラファエル前派を世に知らしめるうえで決定的な役割を果たしたと記しています。1861年には、ラスキンの出資で、初期イタリアの詩人たちを英訳した『The Early Italian Poets』が刊行されました。
1856年にはエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズとウィリアム・モリスに出会います。若い2人は、彼の中世趣味に強く引きつけられました。翌1857年、モクソン版『テニスン詩集』にロセッティの挿絵が5点収められ、同じ年、3人はオックスフォード・ユニオンの壁画制作にも取り組みます。下地の作り方が十分でなかったため、この壁画は早くに傷んでしまいました。
そして1857年のオックスフォードで、ロセッティはジェイン・バーデンという若い女性に出会います。この出会いが彼の後半生を決めます。
1858年ごろ、ロセッティはファニー・コーンフォースに出会います。テートは、彼女がその後10年にわたり主要なモデルであり愛人であったと記しています。
『Bocca Baciata』(1859年)

ロセッティの画業を前半と後半に分けるなら、その境目にあるのがこの1枚です。題はイタリア語で、口づけされた唇という意味になります。板に描かれた油彩で、32.1センチ × 27.0センチ。モデルはファニー・コーンフォースです。
ロセッティ研究の学術アーカイブであるロセッティ・アーカイヴ(ヴァージニア大学)によれば、この絵はジョージ・ボイスの注文により40ポンドで描かれました。同アーカイヴはこの作品を、1850年代の水彩中心の仕事から油彩への回帰を示し、同時に主題が現世的で官能的なものへ転じた節目と位置づけ、16世紀ヴェネツィア絵画の影響がはっきり見て取れると指摘しています。
実際、画面には物語がありません。背景はマリーゴールドで埋め尽くされ、女性は手すりに手を置き、視線をわずかに外しています。聖書の場面でもアーサー王でもダンテでもなく、ひとりの女性の顔と首と髪が置かれているだけです。
1860年にこの絵を見たホルマン・ハントは、ロセッティが考え方をすっかり変えてしまったと感じ、その印象を自著に残しています。かつて同じ旗のもとに集まった仲間から見れば、まじめな主題を写実で描くという最初の約束が外れたように映ったのでしょう。
ただ、これは裏切りというより移動でした。以後のロセッティの絵は物語を語ることをやめ、ひとつの顔がまとう気配そのものを主題にしていきます。
結婚と、エリザベス・シダルの死
時計を少し戻します。テートによれば、ロセッティが将来の妻でありモデルでもあったエリザベス・シダルに出会ったのは、おそらく1849年の終わりごろでした。
シダルは、描かれるだけの人ではありません。彼女自身が絵を描き、詩を書く人でした。テートも『Beata Beatrix』の解説で、彼女を画家であり詩人であると紹介しています。
2人の関係は長く続き、1860年にようやく結婚します。しかし翌1861年、生まれるはずだった娘は死産でした。
そして1862年2月11日、シダルはアヘンチンキ(ローダナム)の過剰摂取により亡くなります。当時アヘンチンキは、痛み止めや睡眠薬として広く使われていた薬でした。2月13日に行われた検死審問は事故死という評決を出しています。のちの研究では自ら命を絶ったのではないかという見方も示されており、この点は今も見解が分かれています。
深い悲しみのなかで、ロセッティは未発表の詩の原稿を妻の棺に納めて葬りました。
同じ1862年の秋、彼はチェルシーのチェイニー・ウォーク16番地、通称チューダー・ハウスへ移ります。詩人スウィンバーンらと共同で借りた大きな家でした。
『The Beloved (‘The Bride’)』(1865〜66年)

最愛の人、あるいは花嫁という意味の題です。テートの解説によれば、花嫁が恋人に顔を見せるという聖書の詩から着想を得ています。
テートは、取り囲む人々のモデルを一人ひとり名前で挙げています。イギリス人の洗濯女エレン・スミス、ジャマイカにルーツを持つファニー・イートン、ロマ系のキオミ・ボネット。手前で金の器にバラを盛る少年については、名前が分かっていません。
テートは、ロセッティのこうしたモデルの選び方が、当時のイギリスの硬直した美の基準に揺さぶりをかけるものだったと評価しています。そのうえで、中央に置かれた白人の女性(モデルはメアリー・フォードです)の配置が人種の序列を示唆してしまっていることも指摘し、画面を埋める北アフリカや東アジアの織物と装身具にも、ヨーロッパの外にある文化へのヴィクトリア朝の空想が表れているとしています。
『Beata Beatrix』(1864年ごろ〜1870年)

ロセッティの代表作とされる1枚です。テートは制作年を1864年ごろから1870年とし、ロセッティ・アーカイヴも、画面に記された年は1864年だが、絵が仕上がったのは1870年だと記しています。妻の死から8年が経っていました。
テートの解説によれば、ロセッティは中世の詩人ダンテ・アリギエーリに自分を重ねていました。ダンテが最愛のベアトリーチェ・ポルティナーリの死について書いたものを通して、彼は妻エリザベス・シダルの死に対する絶望を見つめ、シダルをベアトリーチェとして、夢のようなフィレンツェの情景のなかに描いたのだとされます。
画面の中央で、女性は目を閉じ、わずかに顔を上げています。眠っているようでも、祈っているようでもあります。テートは、シダルの死がここでは霊的な変容として描き直されていると書いています。
細部にも意味があります。死の前ぶれとして、鳥が白いけしの花を彼女の開いた両手のあいだに落とそうとしています。背景では、ダンテが生命の炎を手にした「愛」の姿を見つめ、日時計が彼女の去った時刻を指しています。
額にも仕掛けがあります。ロセッティ・アーカイヴによれば、額の下部には、ダンテが『新生』でベアトリーチェの死に際して引いた旧約聖書『哀歌』の一節がラテン語で刻まれ、上部には1290年6月9日というベアトリーチェの没日が記されています。
この絵は、ウィリアム・カウパー(のちのマウント・テンプル卿)の注文で完成しました。1889年、未亡人となったジョージアナが亡き夫を記念して国に寄贈しています。
掘り起こされた詩稿と「肉欲派の詩」論争
1865年、ロセッティはアレクサ・ワイルディングに出会います。テートによれば、彼女はその後、重要なモデルとなりました。
一方で、体は壊れていきます。テートは、1860年代なかばから彼が目の不調と不眠に苦しみ、被害妄想の兆候を見せたと記しています。
そして1869年10月、ロセッティは妻の棺を掘り起こします。7年前にともに葬った詩の原稿を取り戻すためでした。その詩は翌1870年に『Poems』として刊行されます。画家として名は通っていましたが、詩人としてはまだ本を1冊も出していませんでした。
しかし『Poems』は、思わぬ形で反撃を受けます。
1871年10月、雑誌『Contemporary Review』に、トマス・メイトランドという署名で『The Fleshly School of Poetry: Mr. D. G. Rossetti』という論文が載りました。題を訳せば、肉欲派の詩という意味です。ロセッティらの詩は官能に傾きすぎ、健全な生のかたちから病的に逸脱しているという批判でした。
この署名は偽名で、書いたのは詩人のロバート・ブキャナンでした。正体はほどなく知られます。ロセッティは同じ年の12月16日、雑誌『Athenæum』に『The Stealthy School of Criticism』という反論を書きました。こそこそした批評、という意味の題です。翌1872年、ブキャナンは批判を100ページほどの小冊子に膨らませて出し直しました。
テートは、ロセッティの健康が1872年に崩れ、彼が昔からの交友のほとんどを断ったと記しています。この時期から抱水クロラールという当時の睡眠薬とウイスキーへの依存が進んだことも、研究者たちが指摘しています。論争がきっかけだったとする見方もありますが、原因を一つに決めることはできません。
『Lady Lilith』(1866〜68年、1872〜73年に描き直し)

デラウェア美術館が所蔵する油彩で、99.1センチ × 86.4センチです。
リリスは、ユダヤ教の伝承に登場する女性です。ロセッティ・アーカイヴによれば、この伝承は『創世記』冒頭にある2つの創造の物語の食い違いから生まれ、神は塵からアダムとリリスを対等につくったが、リリスが従うことを拒んで去ったため、アダムには新たにイヴが与えられた、とされます。
画面のリリスは、手鏡を持ち、長い髪をゆっくりと梳いています。誰かを見るでもなく、自分の髪だけを見ている。花にも意味があります。同アーカイヴによれば、白いバラは冷ややかな官能の愛を、右下のけしの花は眠りと忘却を表します。
この絵には描き直しの記録が残っています。デラウェア美術館によれば、最初の版のモデルは、一時期ロセッティの愛人だったファニー・コーンフォースでした。しかし注文主がその姿を官能的すぎるとして変更を求め、ロセッティは新しいモデル、アレクサ・ワイルディングを使って顔を描き直しています。
ジェイン・モリスと、晩年の大作
1861年、ロセッティはモリス・マーシャル・フォークナー商会(のちのモリス商会)の設立に加わりました。ウィリアム・モリスを中心に、家具やステンドグラス、壁紙を手仕事でつくろうとした会社で、アーツ・アンド・クラフツ運動はここから広がりました。
そのモリスと結婚したのが、1857年にオックスフォードで出会ったジェイン・バーデン、すなわちジェイン・モリスでした。
ロセッティとジェインの関係について、テートははっきりと書いています。ジェインはモリスと結婚したが、彼女とロセッティは何十年にもわたる親密な関係にあり、彼女はロセッティのよく知られた絵のいくつかのためにポーズを取った、と。
確かなのは、この10年あまりで、ロセッティの画面に立つ顔がほぼ一人に絞られたことです。「ロセッティの女性像」と呼んで思い浮かべるものは、かなりの部分がジェイン・モリスの造形です。
テートによれば、ロセッティは1871年から1874年にかけて、ジェインとウィリアムのモリス夫妻が借りていたオックスフォードシャーのケルムスコット・マナーで長い時間を過ごしました。
『Proserpine』(1874年)

日本ではプロセルピナと呼ばれる作品です。縦125.1センチ、横61センチの細長い画面に、女性が一人だけ立っています。
テートの解説によれば、描かれているのは女神プロセルピナがザクロをかじった直後の瞬間です。ローマの伝説では、冥界の神ハデスが彼女を奪って閉じこめました。囚われているあいだにザクロの種を6粒食べてしまったため、彼女は毎年6か月を冥界で過ごすよう呪われます。画面の彼女は冥界に囚われ、上の世界から差し込む一筋の光に照らされています。
モデルはジェイン・モリスです。テートは、彼が晩年にくり返し彼女を描いたと記しています。
画面の右上には、ロセッティ自身がイタリア語で書いたソネットが書き込まれ、左下の巻物には署名と年が記されています。絵と詩を切り離さないという、彼が20歳から変えなかった姿勢が、最晩年の代表作にも残っています。
この主題を、彼は1点だけ描いたわけではありません。ロセッティ・アーカイヴによれば、『Proserpine』には8つの版が知られており、テートにあるのはその7番目です。納得できず、輸送で傷み、描き直し、また始める。そのくり返しでした。
『Astarte Syriaca』(1877年)

マンチェスター・アート・ギャラリーが所蔵する、縦185センチ、横109センチの大作で、1891年にクラレンス・E・フライ氏から購入されました。
アスタルテは、古代シリアで信仰された愛の女神です。同館の解説は、ローマのウェヌス(ヴィーナス)よりも禍々しい存在だとし、その顔立ちはジェイン・モリスにもとづいていると記しています。
画面は緑一色といってよいほどです。中央の女神は深い緑の衣をまとい、腰と胸に二重の帯を巻いています。左右には松明を掲げる従者が立ち、いずれも顔を上に向けています。背景では様式化された太陽と月が重なり、その手前に濃いピンクの八角の星、つまり金星の星が置かれています。
『Beata Beatrix』の柔らかく溶けるような筆づかいとくらべると、この絵の輪郭はずっと硬く、祭壇に据えられた像のようです。ロセッティが最後にたどり着いたのは、物語でも肖像でもなく、礼拝の対象としての女性像でした。
同館によれば、額の下部には、ロセッティがこの絵のために書いた詩の第2連が黒い絵の具で記されています。
『The Day Dream』(1880年)

ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)が所蔵する、158.7センチ × 92.7センチの油彩です。題は白昼夢という意味です。
V&Aの解説によれば、モデルはウィリアム・モリスの妻ジェイン・モリスです。彼女はシカモア(カエデの仲間の木)の枝のあいだに腰かけ、手にはスイカズラの小枝を持っています。ヴィクトリア朝の人々にとって、甘く香るこの花は愛のきずなを意味しました。同館は、画家とモデルの関係を踏まえ、この花がそれとなく置かれた可能性を示しています。
膝の上には本が開かれていますが、彼女はそれを読んでいません。視線は本からも枝からも外れ、どこにも合っていない。ロセッティには同じ題の詩があり、その最後は、夢を見ている彼女の手から、忘れられた花が忘れられた本の上に落ちる情景で閉じられます。
V&Aは、この作品をロセッティの最後の完成作としています。注文主はコンスタンティン・アレクサンダー・イオニデス。1879年10月末までに700ギニー(735ポンド)で注文され、1880年12月に仕上がりました。同館の記録によれば、ロセッティは制作中、何通もの手紙をこの注文主に送り、絵の見え方にこだわり抜きました。
最期と、そのあとに残ったもの
1881年、ロセッティは『Poems』の新版と、新しい詩集『Ballads and Sonnets』をあわせて刊行しました。
そして1882年4月9日、ケント州の海辺の町バーチントン=オン=シーで亡くなります。53歳でした。死因は資料によって書かれ方が異なるため、本記事では踏み込みません。
テートは、亡くなったその月にも彼が8番目の『Proserpine』に取り組んでいたと記しています。一つの姿を、最後の月まで描き直し続けていたことになります。
彼の影響は、生前よりむしろ後から広がりました。バーン=ジョーンズの神話画、モリスのデザイン、世紀末の唯美主義へと続く流れは、いずれもロセッティのアトリエを通っています。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、ラファエル前派を立ち上げた画家であり詩人でもあったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの人生と作品をご紹介しました。
ロンドンのイタリア人の家に生まれ、父が研究していた詩人ダンテの名を自分の名に選び、20歳で仲間と旗を立てる。最初の油彩に「PRB」と書き込んだ若者は、次の作品で手ひどい評判を受けると公の展覧会から静かに退き、以後は少数の注文主と向き合って自分の画面をつくり続けました。
その画面から物語が消え、一つの顔だけが残ったのが『Bocca Baciata』以降でした。妻エリザベス・シダルの死を経て描かれた『Beata Beatrix』、ジェイン・モリスをくり返し描いた『Proserpine』や『The Day Dream』。どれも、見る人がその顔の前でしばらく立ち止まってしまう絵です。
もう一つ忘れたくないのは、彼が最後まで詩と絵を切り離さなかったことです。絵の余白にソネットを書き込み、額に詩の一節を刻み、詩集のために墓を掘り起こしさえしました。作品を前にする機会があれば、絵だけでなく額や画面の隅にも目を向けてみてください。小さな文字が残っているかもしれません。
Euphoric " " の視点
ロセッティは画家であると同時に詩人でした。絵に詩を添え、詩のために絵を描き、額縁に自作の詩を刻むこともありました。
二つの表現を行き来したことは、器用さの証明ではありません。言葉で届く距離と、絵で届く距離が違うことを知っていたからこその選択です。
伝えたいことがあるとき、手段はひとつに絞らなくてよい。形式を選び直せることも、つくり手の力量のひとつだと教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






