【徹底解説】アルベルト・ジャコメッティとは?細長い人物像で知られる彫刻家の人生と作品を解説!

【徹底解説】アルベルト・ジャコメッティとは?細長い人物像で知られる彫刻家の人生と作品を解説!
画像:Euphoric " " 編集部作成(作品画像は使用していません)

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはアルベルト・ジャコメッティという人物をご存知ですか?

20世紀に活躍したスイス生まれの彫刻家です。身体を線のように長く引き伸ばした人物像で知られ、細い腕や脚で立つ像や、前へ歩き出す男の像を、どこかで目にしたことがある方も多いかもしれません。

ジャコメッティは、はじめからこの作風だったわけではありません。キュビスムやシュルレアリスムの流れの中で作品を発表したあと、モデルを前にして見えるとおりに作ることに向き合い直し、長い試行錯誤の末に細長い像へたどり着きました。

本記事ではそんなアルベルト・ジャコメッティの人生と作品についてご紹介します。

アルベルト・ジャコメッティって?

ジャコメッティの歩みを5段階で示した図。スイスの山あいに生まれ、パリで彫刻を学び、シュルレアリスムに加わり、ジュネーヴで制作を続け、戦後に細長い人物像で名を高めるまでの流れ。
図:ジャコメッティの歩み(5つの時期)

ジャコメッティは1901年にスイスの山あいの谷で生まれ、1922年にパリへ出て彫刻を学びました。1930年ごろにはシュルレアリスムの仲間に加わりますが、1935年ごろにはモデルを前にした制作へ戻って集団を離れ、戦後の1940年代後半に、細長い人物像で名を高めます。上の図は、その大きな流れを5つの時期に分けたものです。

基本情報

本名アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti)
生年月日(没年月日)1901年10月10日〜1966年1月11日(64歳没)
国籍・出身スイス/グラウビュンデン州ブレガリア谷のボルゴノーヴォ(Borgonovo)。成人後は、おもにフランスのパリで活動しました
学歴1919年からジュネーヴで美術を学び、1922年にパリへ。アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールで、アントワーヌ・ブールデルの彫刻クラスに通いました
分野彫刻、絵画、素描、版画
傾向キュビスムやシュルレアリスムを経て、戦後は身体を細長く引き伸ばした人物像で知られます
師事した人物・影響を受けた人物父で画家のジョヴァンニ・ジャコメッティ、彫刻家アントワーヌ・ブールデル(パリで通ったクラスの教師)。アフリカやオセアニアの彫刻、キュビスムにも傾倒しました

同じ時代のパリで活躍した芸術家や、彫刻を見るときの基本については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

パブロ・ピカソとは?出身・本名・生涯と代表作を年表つきで解説

【徹底解説】サルバドール・ダリの人生と作品に迫る

【アート鑑賞解説】美術初心者必見!西洋彫刻がおもしろくなるポイントを解説!

ジャコメッティはなぜ「細長い像」の作家と呼ばれるのか

ジャコメッティの彫刻を一言で言えば、細長い人物像です。国立新美術館が2017年の展覧会で述べたところでは、ジャコメッティは1935年から、モデルに向き合いながら独自のスタイルを作り始めました。それは身体を線のように長く引き伸ばした、まったく新しい彫刻でした。

ただ、細く作ること自体が目的だったわけではありません。ニューヨーク近代美術館(MoMA)が公開している伝記年表には、遠くに見える人の姿を小さな像にしようとして、うまくいかないという悩みが記されています。細長さは、見えたとおりに作ろうとした試行錯誤の結果として現れたものでした。

その特異な造形は、実存主義や現象学の文脈でも評価されました。国立新美術館は、それを「彼の彫刻が同時代の精神に呼応した証」と説明しています。

ジャコメッティの1930年代前半のシュルレアリスム期と、1947年以降の戦後の作風を比べた表。作品の形、主題、転機の3項目で違いを整理している。
図:シュルレアリスム期と戦後の作風

上の図のとおり、1930年代前半の作品と戦後の作品では、形も主題も大きく違います。この2つの時期のあいだに何があったのかを、次の章で順に見ていきましょう。

経歴と作品

スイスの山あいに生まれる(1901〜1921年)

ジャコメッティは1901年10月10日、スイスのブレガリア谷にあるボルゴノーヴォで生まれました。イタリア語圏にあたる山あいの谷です。父ジョヴァンニは後期印象派の画家で、母はアネッタ。1902年に弟ディエゴ、1903年に妹オッティリア、1907年に弟ブルーノが生まれます。1904年に一家はシュタンパ(Stampa)へ移り、この村はジャコメッティにとって生涯の拠り所になりました。

画家の家に育ったため、制作は身近なものでした。MoMAの年表によると、1913年に父のアトリエで最初の油彩画を描き、1914年末ごろには弟ディエゴとブルーノの頭部を粘土(プラスチシン)で作っています。ただし最初の油彩の年は、資料によって1915年と書くものもあります。

1915年から1919年は、シールス(Schiers)の寄宿学校で過ごしました。そこでは小さなアトリエを与えられていたといいます。1919年にジュネーヴで美術の勉強を始め、1920年には父に連れられてヴェネツィアとパドヴァを訪れ、翌年にかけてフィレンツェやローマなども巡りました。美術館や教会で、古代からバロックまでの作品を模写し、スケッチ帳を埋めていきます。

パリで彫刻を学ぶ(1922〜1929年)

1922年1月9日、ジャコメッティはパリに到着します。当時、世界の美術の中心だった街です。アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールで人体のデッサンを学び、アントワーヌ・ブールデルの彫刻クラスに通いました。ブールデルのクラスには1927年まで通っていますが、月単位で休む期間も多かったと年表は記しています。ルーヴル美術館にもよく足を運び、作品をスケッチしました。

1925年には弟ディエゴがパリへ来て、以後ずっとジャコメッティの制作を支えます。モデルを務め、1929年ごろからは助手も務めました。同じ1925年、サロン・デ・テュイルリー展に、胴体像と弟の頭部像を出品して、初めて作品を発表します。

1926年ごろ、ジャコメッティはパリのイポリット=マンドロン通り46番地のアトリエに移りました(移った年は、資料により1926年と1927年があります)。MoMAの年表は、そこを「中庭に共同の水道とトイレがある、兵舎のような建物」と描いています。狭く質素な部屋でしたが、ジャコメッティはここを生涯手放しませんでした。

『Spoon Woman』(1926〜1927年)

キュビスムや、アフリカやオセアニアの彫刻への関心から生まれた、ジャコメッティ最初の大きな彫刻とされています。MoMAの年表によると、1926年から27年の冬に作られ、1927年にパリで発表されました。後年の細長い像とは見た目がまるで違います。それでも、人間の姿を彫刻でどう捉え直すかという問いは、この時期にすでに始まっていました。

1929年には、プラーク(板状)の彫刻『Gazing Head』などがギャルリー・ジャンヌ・ビュシェで展示され、芸術家や文学者のあいだで大きな反響を呼びます。詩人で民族学者のミシェル・レリスが、ジョルジュ・バタイユの雑誌『ドキュマン』に、ジャコメッティを論じた最初の文章を書いたのもこの年です。アルプ、ミロ、エルンスト、カルダー、ピカソなど、前衛の芸術家たちとの交友も広がりました。

シュルレアリスムの時代(1930〜1935年)

1930年は転機の年でした。この年、ジャコメッティはマン・レイの紹介で、室内装飾家ジャン=ミシェル・フランクを知り、弟ディエゴとともに花瓶や照明、壁の飾りなどの装飾品を作り始めます。作品が評判になっても売れ行きは限られていたため、暮らしを支える仕事でもありました(フォンダシオン・バイエラーの伝記による)。

同じ1930年、ミロやアルプとの展示で発表した『Suspended Ball』が、シュルレアリスムの中心人物アンドレ・ブルトンの周辺で大きな反響を呼びます。ブルトンはジャコメッティのもとを訪れ、仲間に加わるよう勧めました。以後、1931年から32年の冬まで、さらに1933年にも、ジャコメッティはシュルレアリスムの集まりや催しに参加します。ただし年表は、ブルトンの教義に「完全に従うことはなかった」とも記しています。

『Suspended Ball』(1930年)

この作品が評判になったことが、ジャコメッティがシュルレアリスムの輪に入る直接のきっかけでした。1931年12月、ブルトンの雑誌『シュルレアリスム革命に奉仕するシュルレアリスム』には、ジャコメッティ自身の最初の文章「Objets mobiles et muets(動くもの、声なきもの。筆者訳)」と、この作品に刺激を受けたサルバドール・ダリの、シュルレアリスムのオブジェについての文章が、並んで載りました。

『The Palace at 4 a.m.』(1932年)

木、ガラス、針金、糸でできた構成作品です。MoMAの所蔵で、同館の作品ページには素材が「Wood, glass, wire, and string」と記されています。MoMAの年表によれば、1936年に初代館長のアルフレッド・バー・ジュニアが「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展にこの作品を出品し、同館のために購入しました。フォンダシオン・バイエラーの伝記は、MoMAがジャコメッティの作品を収蔵した最初の美術館だったと記しています。

1932年5月には、パリのギャルリー・ピエール・コレで初めての個展が開かれ、ピカソが最初の訪問者のひとりとして訪れました。

『Hands Holding the Void (Invisible Object)』(1934年)

1933年6月25日、父ジョヴァンニが亡くなります。ジャコメッティは体調を崩し、その夏はブレガリア谷で過ごしました。年表によれば、このころから制作への意欲やシュルレアリスムのオブジェへの関心が薄れ、1933年秋から翌春にかけて『Hands Holding the Void (Invisible Object)』『Head-Skull』『Cube (Nocturnal Pavilion)』を作っています。1934年12月には、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で、アメリカで初めての個展も開かれました。

年シュルレアリスム期の主なできごと
1929年『Gazing Head』などを展示。レリスが最初の評論を発表
1930年『Suspended Ball』が反響を呼び、ブルトンが訪問。装飾品の制作も始める
1932年パリで初の個展。『The Palace at 4 a.m.』を制作
1933〜34年『Hands Holding the Void (Invisible Object)』『Cube (Nocturnal Pavilion)』などを制作
1934〜35年ニューヨークで初の個展。モデルを前にした制作へ戻り、シュルレアリスムの集団を離れる

モデルを前に、出直す(1934〜1941年)

1934年の秋、ジャコメッティはパリで、写実的な頭像を作り始めます。弟ディエゴや、職業モデルのリタ・ギュフィエがモデルでした。シュルレアリストたちはこの変化を、裏切りと受け止めます。経緯の説明は資料によって少し異なり、MoMAの年表は、1934年末から35年初めのブルトンの会合で、装飾の仕事を理由に責められたジャコメッティが席を立った、と記します。フォンダシオン・バイエラーの伝記は、現実のモデルに戻ったことが除名につながったと書いています。いずれの資料でも、1935年ごろにジャコメッティがシュルレアリスムの集団を離れたことは共通しています。

1935年には、イギリス人のイザベル・ニコラス(のちのイザベル・ロースソーン)と知り合い、彼女をモデルにした頭像を作ります。全身像にも取り組み始め、遠近や知覚の問題をあれこれ試しました。1937年には、劇作家サミュエル・ベケットとカフェ・ド・フロールで語り合い、夜のモンパルナスを歩きながら対話を重ねる関係が始まります。同じ年、ピカソのアトリエも訪れ、遠くに見える人の姿を小さな彫刻にしようとして、うまくいかないという悩みを話しました。

1938年10月には交通事故で足を骨折し、それ以後は足を引きずって歩くようになりました。1939年には、哲学者ジャン=ポール・サルトルがカフェ・ド・フロールで自己紹介をします。サルトルは、のちにジャコメッティについての文章に「The Search for the Absolute」という題を付けました(日本語題は筆者訳で「絶対の探求」)。

戦時のジュネーヴと、小さな像(1939〜1945年)

1939年から41年にかけて、ジャコメッティが作っていた像は、高さが数センチほどしかない小さなものでした。アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)の年譜によると、ドイツ軍がパリに入る直前、これらの小さな彫刻をアトリエに隠しています。1940年6月には、弟ディエゴらと自転車でパリを離れて南へ向かいますが、途中で引き返し、6月22日にパリへ戻りました。

1941年12月、ジャコメッティはジュネーヴへ移り、1945年9月まで暮らします。そこでは母アネッタが、亡くなった妹オッティリアの息子シルヴィオを育てていました。ジャコメッティはこの時期、像がどんどん小さくなり、台座だけが大きくなっていったと年表は記しています。出版者アルベール・スキラが出していた雑誌『ラビラント』に、デッサンや文章も寄せました。1943年10月には、のちに妻となるアネット・アルムと出会います。

1945年9月18日、パリのアトリエに戻り、制作を再開しました。

映画館の体験と、細長い像(1945〜1951年)

戦後の新しい作風は、映画館での体験から生まれたと伝えられています。MoMAの年表は、1946年2月、映画を見ていたジャコメッティが、人や物が空間の中にあるさまを、幻のような強い鮮明さで捉えたと記します。フォンダシオン・バイエラーの伝記は、この映画館の出来事を1945年のこととしており、年は資料によって分かれます。

この体験の後、ジャコメッティは通りを行く人をデッサンしました。その積み重ねの中で、細長い像が少しずつ形になっていきます。1947年には、正面を向いて動かず立つ女と、前へ歩き出す男という組み合わせに、作風がまとまりました。MoMAの年表はそれを「hieratic frontality(儀式的な正面性)」をもつ立つ女と、「hieroglyphs of locomotion(歩行を示す象形文字)」のような歩く男、と表現しています(日本語は筆者訳)。

ジャコメッティの細長い人物像が生まれるまでの4段階の流れ。像が小さくなり、映画館での体験で人と空間の見え方が変わり、通行人のデッサンを重ね、1947年に細長い像へ至る。
図:細長い像が生まれるまで

細長い像は、大きな台座の上に立つことも多くありました。フォンダシオン・バイエラーの伝記によれば、台座は像が表す空間を示すために、概念的に必要なものでした。1947年には、等身大の女性像の連作や、全身の男性像、『Le Nez』のような作品も生まれます。

『Man Pointing』(1947年)

ロンドンのテートが所蔵するブロンズ作品で、同館の作品ページには1947年の作と記されています。フランス語の題は『L’Homme qui pointe』です。フォンダシオン・バイエラーの伝記は、1949年にテートが、ジャコメッティの作品をヨーロッパの美術館として初めて購入したのがこの作品だったと書いています。

この間の1948年には、ニューヨークのピエール・マティス画廊で個展が開かれました。カタログにはサルトルの文章が載り、MoMAの年表によれば、この展覧会がジャコメッティの戦後の評価をヨーロッパの外で築いたとされています。1949年7月19日にはアネットと結婚し、1951年にはパリのギャルリー・マーグで戦後の作品を初めて発表して、ヨーロッパでの名声も固まりました。

モデルと向き合う日々(1952〜1961年)

1950年代のジャコメッティは、モデルを前にした肖像の制作に力を注ぎました。MoMAの年表は、1952年から53年にかけて、ジャコメッティが細すぎる状態から抜け出そうとしていたと記しています。細長さは到達点ではなく、さらに先へ進むための途中の姿でもあった、と受け取れます。

モデルになったのは、おもに身近な人々でした。弟ディエゴ、妻アネット、そして1959年ごろにパリのバーで出会い、1960年代の絵のモデルを務めたカロリーヌ。最晩年にはエリ・ロタールが、最後のモデルになります。次の章で取り上げる矢内原伊作も、そのひとりです。

ジャコメッティが長く向き合ったモデルを示した図。中心にモデルを置き、弟ディエゴ、妻アネット、矢内原伊作、カロリーヌ、エリ・ロタールの5人を囲んでいる。
図:くり返し像になった人々

1950年代は、文学者や哲学者との交友も深まった時期です。MoMAの年表には、1954年に作家ジャン・ジュネと知り合い、その丸い頭を描いたこと、1958年にジュネがジャコメッティのアトリエについての文章を発表したことが記されています。年表は、この文章を、ジャコメッティについて、さらには芸術家の仕事について書かれた最も洞察に富む文章のひとつと評しています。

『Woman of Venice』(1956年)

1956年のヴェネツィア・ビエンナーレのフランス館のために作られた、立つ女の連作です。年表によると、ジャコメッティは同じ心棒と粘土の塊を使い、少しずつ姿を変えながら、15を超える段階をたどりました。ディエゴが翌朝にそれを石膏に取り、うち9つが後にブロンズになっています。ヴェネツィアでは10体が、4体と6体の2つの群として並べられました。テートの作品ページは、1956年の『Woman of Venice IX』をテート・モダンで展示中と案内しています(2026年10月時点)。

日本とのつながり、矢内原伊作(1955〜1961年)

ジャコメッティの晩年の制作には、ひとりの日本人哲学者が深く関わっています。矢内原伊作(1918〜1989年)です。MoMAの年表によれば、1955年11月8日、パリのカフェ・レ・ドゥ・マゴで、日本の雑誌に書く文章のためにジャコメッティと会ったのがはじまりでした。矢内原はその後、1958年を除いて毎年パリを訪れ、1961年まで交流が続きます。

国立国際美術館の担当者が文化庁の広報誌に書いた記事によると、矢内原は日本に帰ってからもたびたびパリへ招かれ、のべ230日以上モデルを務めました。生まれた油彩画は20点以上。一方、完成した彫刻はわずか2点でした。同館の展覧会案内も、矢内原をモデルにしたブロンズ彫刻のうち完成したのは2作品のみで、すべての鋳造を合わせても現存するのは7体だと説明しています。

国立国際美術館は2018年に、そのうちのブロンズ『ヤナイハラI』(1960〜61年)を購入しました。広報誌の記事によれば、国内にある矢内原の彫刻は、この1体だけです。同館は2019年に、収蔵を記念した特集展示「ジャコメッティと」も開いています。

矢内原は、モデルを務める間のジャコメッティとの会話を手帖に書き留めていました。出版社のみすず書房によれば、その記録のうち最初の年の経験をまとめた単行本が『ジャコメッティとともに』です。制作の現場にいた人の記録が日本語で残されたことは、日本の読者にとって貴重な手がかりになっていると言えるでしょう。

広場のための大作、チェース・マンハッタン(1956〜1962年)

MoMAの年表によると、ジャコメッティは1956年に、ニューヨークのチェース・マンハッタン銀行の広場のための彫刻を依頼されました。1958年には建築家ゴードン・バンシャフトがパリのアトリエを訪れ、ジャコメッティは、25年来の願いだった広場のための群像を実現できそうだと考えます。まず歩く男、立つ女、大きな頭の小さな試作を作り、配置を建築模型の上で試しました。

チェース・マンハッタン銀行の広場のために作られた3点の大作を示した図。歩く男I、女性立像II、大きな頭部の3点で、計画は実現しなかった。
図:広場のための3つの大作

1959年から60年にかけて、実物大の像が作られ、1960年にブロンズに鋳造されました。しかし依頼は取り下げられ、計画は実現しませんでした。それでも、この時に生まれた像は今も作品として残っています。

『Walking Man I』(1960年)

前へ歩き出す男の像です。国立新美術館が2017年に開いた展覧会では『歩く男Ⅰ』の名で、『女性立像Ⅱ』『大きな頭部』とともに、チェース・マンハッタン銀行のための大作3点として出品されました。

南フランスのサン=ポール=ド=ヴァンスにあるマーグ財団美術館(フォンダシオン・マーグ)の公式ページは、この像の背景を説明し、ジャコメッティの次の言葉を紹介しています。

「女は動かないものとして、男は歩いているものとして、私はいつも作る」

(財団ページの英訳「A woman, I always make immobile, and a man, I always have him walking」からの筆者訳)

依頼が実現しなかったあと、これらの像はマーグ財団美術館の中庭に置かれることになりました。同財団は、その場所を「ジャコメッティの中庭」と呼びます。財団の説明によれば、ジャコメッティ自身が、像の置き場所を何度も変えながら決めました。MoMAの年表も、この美術館の開館が1964年7月28日であったことと、中庭にチェース・マンハッタン広場のために作られた彩色ブロンズが置かれていることを記しています。

晩年と、その後(1961〜1966年)

1961年、ベケットの依頼で、パリのオデオン座で上演される『ゴドーを待ちながら』の舞台装置を手がけます。話し合いを重ねた末、ジャコメッティが作ったのは、葉のない一本の木でした(MoMAの年表では「barren plaster tree」、石膏の木)。この年にはまた、パリの街とアトリエを描いた連作リトグラフ『Paris sans fin』が始まり、完成して刊行されたのは1969年でした。

1962年のヴェネツィア・ビエンナーレで、ジャコメッティは国の枠を離れて個展形式の展示を行い、彫刻部門の賞を受けます。同年12月、チューリヒ美術館(クンストハウス・チューリヒ)で、約300点を集めた大回顧展が開かれました。同じ年の秋にはロンドンで、画家フランシス・ベーコンと出会っています。2人は互いを深く尊敬しあったと、フォンダシオン・バイエラーの伝記は書いています。

1963年には大きな手術を受けます。その後もジャコメッティは制作を続け、1964年から、エリ・ロタール、ディエゴ、アネットをモデルに、最後の胸像のスタイルを築いていきました。1965年にはMoMAとテート・ギャラリーで大規模な回顧展が開かれ、ジャコメッティは生涯で初めてアメリカを訪れています。11月にはフランス政府からグラン・プリ・ナシオナル・デ・ザールを贈られ、ベルン大学からは名誉博士号を授与されました。

1965年12月、グラウビュンデン州クール(Chur)の州立病院に入り、1966年1月11日に亡くなります。1月15日には、生まれ故郷のボルゴノーヴォに葬られました。1965年にはチューリヒでジャコメッティ財団が、2003年にはパリでフォンダシオン・ジャコメッティが設立されています。後者は、1993年に亡くなったアネットの遺産をもとにしたものです。

主な作品と所蔵先

作品制作年メモ・所蔵
Spoon Woman1926〜27年最初の大きな彫刻(MoMAの年表)
Suspended Ball1930年ブルトンの周辺で反響を呼んだ作品(MoMAの年表)
The Palace at 4 a.m.1932年ニューヨーク近代美術館(MoMA)
Man Pointing1947年テート(ロンドン)
Woman of Venice IX1956年テート(ロンドン)
Walking Man I1960年マーグ財団美術館(サン=ポール=ド=ヴァンス)
ヤナイハラI1960〜61年国立国際美術館(大阪)

まとめ

いかがだったでしょうか。スイスの山あいに生まれたジャコメッティは、パリでキュビスムとシュルレアリスムの渦中に身を置き、のちにその集団を離れて、モデルを前にした制作に戻りました。戦時中には像が数センチまで小さくなり、戦後に、身体を線のように引き伸ばした像が生まれます。

晩年には、矢内原伊作のような友人や、弟ディエゴ、妻アネットらに、長い時間向き合い続けました。細長い像は、見たものをそのまま作ろうとした粘り強さの結果です。ジャコメッティの像の前では、細さそのものよりも、「見る」ことにどれだけ時間をかけたかに、目を向けてみてください。

Euphoric " " の視点

ジャコメッティと聞いて、細長い人物像を思い浮かべる方も多いかもしれません。けれども細く作ること自体は、目的ではありませんでした。MoMAの年表には、遠くに見える人の姿を小さな像にしようとして、うまくいかないという悩みが記されています。細長さは、見えたとおりに作ろうとした試行錯誤の結果として現れたものでした。

しかも年表によれば、1952年から53年にかけて、ジャコメッティは細すぎる状態から抜け出そうとしていました。名を高めたその特徴さえ、本人にとっては途中の姿だったことになります。

評価された作風は、作り手の看板になります。ただ、看板を守ることより、もとの問いを追い続けることのほうが、仕事を前へ進めるのかもしれません。ジャコメッティの像は、スタイルは問いを追った先にあとから現れるものだと教えてくれるように思います。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

NEW POSTS / 新着記事

開催中の展覧会いま行ける展覧会を、終了が近い順に79件 開催中/7日以内に終了 1件展覧会を探す