こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは磯崎新(いそざき・あらた)という人物をご存知ですか?
1931年に大分市で生まれ、2022年に91歳で亡くなった日本の建築家です。群馬県立近代美術館や北九州市立美術館、つくばセンタービル、水戸芸術館など、日本各地の公共の建物を手がけただけでなく、ロサンゼルスやバルセロナ、ドーハ、ミラノ、上海でも設計を行いました。2019年には、建築界のノーベル賞とも呼ばれるプリツカー賞を受けています。
本記事ではそんな磯崎新の人生と作品についてご紹介します。本記事では、建物の外観写真と図解、公式の動画を使って解説します。
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磯崎新は、建物を設計するだけでなく、建築について論じる本を書き、展覧会を企画し、国際コンペの審査員も務めた人です。北九州市立美術館が運営する公式の磯崎新建築アーカイヴのプロフィールは、建築家、著述家、思想家という3つの肩書きで紹介しています。本記事では、2回目以降は「磯崎」と呼びます。
磯崎の大きな特徴は、ひとつの様式にとどまらなかったことです。プリツカー賞の公式略歴には、磯崎自身の言葉として、次の趣旨のことが紹介されています。戦後の日本が直面した課題の解き方を探すうちに、ひとつのスタイルにとどまれなくなった。変化が常態になり、逆説的に、それが自分のスタイルになった、というものです。

基本情報
| 名前 | 磯崎 新(いそざき・あらた/ISOZAKI Arata) |
| 生年月日(没年月日) | 1931年7月23日〜2022年12月28日(91歳没) |
| 国籍・出身 | 日本(大分県大分市生まれ。亡くなったのは沖縄県那覇市の自宅) |
| 学歴 | 東京大学工学部建築学科を1954年に卒業。その後、同大学院博士課程に進んだ |
| 分野 | 建築、建築論(著述)、展覧会の企画、都市計画 |
| 傾向 | ひとつの様式にとどまらず、場所や時代に応じて作風を変えた |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 丹下健三(東京大学の丹下研究室に入り、キャリアを始めた) |
磯崎の師にあたる丹下健三や、1980年代に盛んになったポストモダンの建築については、次の記事も参考になります。

経歴と作品
大分に生まれ、建築の道へ(1931〜1954年)
磯崎は1931年7月23日、大分市に生まれました。プリツカー賞の公式略歴は、磯崎が戦後の街の再建という課題に向き合うなかで、人々がどう家や街を建て直すのかを考えはじめたと記しています。
同じ略歴は、磯崎が、建物は一時的なものだが、その場を通る人の感覚を今この瞬間に楽しませるものだという考えに立って設計している、とも記しています。
1954年、磯崎は東京大学工学部建築学科を卒業します。そして、1987年にプリツカー賞を受けた建築家、丹下健三の研究室に入りました。北九州市立美術館の公式プロフィールによると、この研究室では黒川紀章らとともに「東京計画1960」に関わっています。
空中の都市と、大分での出発(1950年代末〜1960年代)
建築家としての磯崎は、故郷の大分から歩みはじめます。プリツカー賞の資料にある作品リストでいちばん古い年に載っているのは、1959〜60年の「大分医師会館」です。続く1962〜66年の「大分県立大分図書館」について、プリツカー賞の審査講評は、日本のブルータリズム(コンクリートの質感や量感を生かした建築)の傑作と呼んでいます。
同じ頃、磯崎は都市の未来についても考えていました。プリツカー賞の公式略歴によると、1962年の「空中都市(City in the Air)」は、東京・新宿の上空に、建物や住居、交通を何層にも重ねて浮かべるという未来的な計画です。急速に進む都市化への応答として構想されましたが、実現はしませんでした。1963年には「磯崎新アトリエ」を設立しています(プリツカー賞の公式略歴は「Arata Isozaki & Associates」の設立と記しています)。
『大分県立大分図書館』(1966年)

大分県立大分図書館は、磯崎の初期を代表する建物です。北九州市立美術館の建築アーカイヴは、「成長する建築」を実現した作品と説明しています。南北に走る一対の中空の梁が、2組のコンクリートの壁を支える、新しい構造の計画でした。磯崎が唱えた「プロセス・プランニング論」という考え方とも結びつけられており、外へ突き出した梁の形は、成長の「切断面」を表すものだといいます。
この建物は1967年に日本建築学会賞を受けました(プリツカー賞の公式略歴による)。図書館が別の場所へ移ったあと、建物は磯崎自身の手で改修され、1998年に大分市の文化施設「アートプラザ」として生まれ変わりました。大分市の広報によると、コンクリート打ちっぱなしの中空梁、外観の巨大なペアウォール(対になった壁)、段差を設けたスキップフロアを多用した内部空間が独創的だと評価され、2022年10月31日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
大分市には、磯崎の設計した建物がほかにもあります。市の公式ページが紹介する5つのうち、1964年に建てられた岩田学園は、市内に現存する最古の磯崎建築とされています。1974年竣工の大分富士見カントリー倶楽部ハウスは、半円筒形のヴォールト(かまぼこ形の屋根)を使い、上から見ると「?」の形をしています。市はこの建物を、磯崎が『建築の解体』を掲げて近代主義から離れつつあった時代の代表作のひとつとしています。
美術館は作品の「額縁」(1970年代)
1970年代の磯崎は、美術館の設計で知られるようになります。1974年には、初の美術館建築となる群馬県立近代美術館と北九州市立美術館が相次いで完成しました。この2つは、同じ年に完成しながら、まったく違う形をしています。
『群馬県立近代美術館』(1974年)
群馬県高崎市にある群馬県立近代美術館の設計は、1971年に磯崎へ委託されました。同館の公式サイトによると、建設準備会の中心だった井上房一郎は、はじめは別の建築家を候補に挙げていましたが、作家の斎藤義重の紹介で磯崎を知り、当時まだ新進気鋭だった磯崎を推薦したと伝えられています。
磯崎の構想では、立方体のフレームが集まった空間が、美術作品を取り巻く額縁にたとえられていました。作品が通り過ぎていく空洞のような空間は、状況に応じて変化し、増やしていけるものと考えられています。公式サイトの説明では、建物は一辺12メートルの立方体フレームの集積を基本構造とし、外壁のアルミパネルやガラスの格子は一辺120センチ、エントランスホールの壁と床の大理石パネルは一辺60センチ、床のタイルは一辺15センチの正方形と、すべての寸法が同じ基準でそろえられています。
「増える立方体」という考え方は、実際の増築でも確かめられました。公式サイトによれば、1994年にシアター棟、1998年に現代美術棟が加わっています。この建物で磯崎は、1975年に第27回日本建築学会賞(作品)を受賞しました。プリツカー賞の審査講評も、この美術館について、立方体の明快な幾何学に、空虚(ヴォイド)と格子への関心が表れており、変わっていく作品を展示するための均衡を探したものだと述べています。
『北九州市立美術館』(1974年)

北九州市立美術館は、北九州市のほぼ中心、戸畑区と八幡東区の境にある高見丘陵に建っています。一辺9.6メートルの正方形の断面をもつ2本の直方体が、丘の傾斜面から前へ大きく迫り出す、斬新な外観が特徴です。市民からは「丘の上の双眼鏡」と呼ばれ、まちのランドマークとして親しまれてきました。
入口は、現代の大聖堂をイメージして設計されました。天井を高くとり、左右対称に走る筒の間の天窓から自然光を取り入れています。公式サイトによると、企画展示室とコレクション展示室はそれぞれ約1,000平方メートルの規模で、当時は中国地方以西で最大級の美術館建築でした。1987年には、東側に市民ギャラリーなどを備えたアネックス棟が増築され、2017年には本館が大改修を終えて再開館しています。

『北九州市立中央図書館』と『西日本総合展示場』(1974〜1977年)
同じ北九州市で、磯崎はほかにも大きな仕事をしています。1974年に竣工し、翌1975年に開館した北九州市立中央図書館は、図書館、歴史博物館、視聴覚センターを兼ねた建物として計画されました。公式の解説によると、同じ年に完成した美術館とは形がまったく違い、平行に並ぶ2本の半円筒形のヴォールトが印象的です。ヴォールトの終わりの壁には、磯崎がステンドグラスの窓を設計しています。
1977年に開館した西日本総合展示場は、魚市場の跡地で、岸壁に面した敷地に建てられました。そのため、水が設計の主題になっています。外観はタンカーの船体のような形で、ヨットのマストや吊り橋のワイヤーを思わせる要素があり、波のように連なる屋根が全体を覆います。8組の柱から伸びるワイヤーで屋根を引っ張ることで、大きな梁を見せずに、幅42メートル、長さ173メートルの柱のない内部空間をつくり出しました。
万博、著述、そして「間」(1970年代)
建物の設計と並んで、磯崎は書き手としても知られるようになります。公式プロフィールによると、1971年に『空間へ』(美術出版社)を刊行し、その後も多くの著書で建築論を展開しました。思想、美術、デザイン、文化論、批評など、建築の外の領域にも影響を与えたとされています。2013年からは、半世紀にわたる文章をまとめた『磯崎新建築論集』(全8巻)が刊行されました。
1970年の日本万国博覧会(大阪万博)では、お祭り広場の諸装置の設計を手がけました(公式プロフィールによる)。また、1978年にはパリ装飾美術館で「パリ芸術祭・日本の時空間」展(副題は「間」)の企画構成を担当しています(群馬県立近代美術館の公式サイトの略歴による)。プリツカー賞の資料の参考文献には、『MA: Space-time in Japan』(クーパー・ヒューイット博物館、1979年)も挙がっています。
このように磯崎は、建てることだけでなく、書くこと、見せること、審査することも、建築家の仕事の大切な部分としていました。プリツカー賞の審査講評も、磯崎が作品だけでなく、著作、展覧会、重要な会議の組織、コンペの審査員としての活動を通じて、世界の建築に影響を与えたと評価しています。
ポストモダンの時代と、世界への扉(1980年代)
1980年代に入ると、磯崎は国際的な建築家として知られるようになります。群馬県立近代美術館の公式サイトの略歴は、この時期について、ポスト・モダンの時代の流れのなかで世界的な評価と名声を得ていったと述べています。
『つくばセンタービル』(1983年)

つくばセンタービルは、茨城県つくば市の筑波研究学園都市の中心に建つ複合施設です。つくば市の資料によると、研究学園都市の建設初期に必要な機能を導入するため、1983年に建てられました。つくば市、ホテルオークラ、筑波都市整備株式会社の3者が区分して所有しています(2020年の市の資料による)。市の公式ページは、ビルと一体で整備されたつくばセンター広場について、1983年に筑波研究学園都市のシンボルとして、磯崎の設計で整備されたと説明しています。プリツカー賞の資料では、設計期間は1979〜83年です。
この建物には、後年のエピソードがあります。つくば市が2020年にまとめた、センタービルのリニューアルの方向性(案)という資料によると、市は検討にあたり、2019年3月に磯崎へ意見を聞いています。磯崎は「この建物が転用されていくことについて、それは建築の宿命。庭(センター広場)は500年くらい残っていくものである。」と答えたと、資料に記されています。建物は使い方が変わっていくものであり、残るのは庭、つまり人が集まる場所だという見方は、先に紹介した「建物は移ろうもの」という考えとつながっているように読めます。この資料で市は、磯崎が設計した価値の高い建築物であることから、リニューアルでも建築デザインを継承することが望ましいとしています。
『ロサンゼルス現代美術館』(1981〜1986年)

磯崎にとって最初の海外の仕事が、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)です。プリツカー賞の公式略歴は、1981〜86年のこの仕事を、国際的な建築家として知られるきっかけになった最初の海外での設計と位置づけています。同館の公式サイトによると、磯崎が選ばれた1980年代初めの時点で、アメリカで完成させた建物はまだありませんでしたが、20世紀の建築運動のなかでも影響力の大きかった「メタボリズム」との関わりで、すでに国際的に知られていました。
プリツカー賞の審査講評は、この美術館を、ヴォールト(かまぼこ形の屋根)を研究した作品と位置づけ、磯崎自身が「rhetoric of the cylinder(円筒のレトリック)」と呼ぶものだと紹介しています。同じ1986年には、英国王立建築家協会(RIBA)のゴールドメダルも受けています(プリツカー賞の公式略歴による)。
水戸芸術館と、まちの象徴(1990年)
『水戸芸術館』(1990年)

水戸芸術館は、水戸市制100周年を記念して、1990年(平成2年)3月22日に開館した複合文化施設です。同館の公式サイトによると、計画は当時の水戸市長、佐川一信が、水戸を日本一の文化都市にしたいと考えたことから始まりました。館内には、コンサートホールATM、ACM劇場、現代美術ギャラリーの3つの独立した施設があり、音楽、演劇、美術の3部門がそれぞれ自主企画を行っています。
象徴となる塔の設計も、磯崎が担いました。佐川の文章には、次のように書かれています。「磯崎新氏設計によるアート・タワー・ミト( ATM) は、シエナの搭のように、水戸市民が新しい街づくりへの決意を宿したものであり、街並みの変化のシンボルとなろう。」建物の機能を超えて、まちの意思を形にする塔として期待されていたことがわかります。
同じ1990年、磯崎は北九州でも「北九州国際会議場」を完成させています。公式の解説によると、隣の西日本総合展示場の「水」という主題を引き継いでおり、会議場の屋根は大きな波のうねりのようなコンクリートシェルです。外観には、フェリーに負けないよう、赤や黄色といった強い色が選ばれました。

世界へ広がる仕事(1990年代〜2010年代)
プリツカー賞の公式略歴によると、磯崎が手がけた建物は100を超えます。1990年代以降は、ヨーロッパやアメリカ、中国、中東へと活動の場が広がりました。
『パラウ・サン・ジョルディ』(1990年)

バルセロナのモンジュイック公園にあるパラウ・サン・ジョルディは、1992年のバルセロナ・オリンピックにあわせて建てられた、屋根つきの多目的施設です。バルセロナ市の公式ガイドは、日本人建築家の磯崎新が設計したこの建物を、近代建築と技術の傑作と考えられていると紹介し、構造によってあらゆる種類のイベントに対応できると説明しています。プリツカー賞の資料では、設計期間は1983〜90年です。
同じ頃、アメリカではフロリダの「ティーム・ディズニー・ビルディング」(1990年)も手がけました(プリツカー賞の資料は設計期間を1987〜90年としつつ、審査講評では1991年と記しており、資料により年が異なります)。審査講評は、ロサンゼルス現代美術館と比べて、こちらは形の遊びが多く、ポストモダンの味わいがあると述べています。
『カタール国立コンベンションセンター』(2004〜2011年)
ドーハにあるカタール国立コンベンションセンターは、プリツカー賞の資料で2004〜2011年の仕事とされています。カタール観光局の公式ページによると、外側の構造は、絡み合うシドラの木が支える形になっています。シドラは、枝が広い木陰をつくることから、伝統的に知識の象徴とされる木です。巨大な建物に、その土地で知られる木の姿を重ねた設計といえます。

『アリアンツ・タワー』『上海シンフォニーホール』ほか(2000年代〜2010年代)
プリツカー賞の資料の作品リストには、ミラノのアリアンツ・タワー(2003〜2014年)や、上海シンフォニーホール(2008〜2014年)、湖南省博物館(2011〜2017年)、深圳文化中心なども並びます。審査講評は、ミラノのアリアンツ・タワーについて、2018年に開業した力強く優雅な建物だと述べ、背景を深く理解したうえで、都市のスケールから室内の空間まで質の高い建物をつくる力があると評価しています。
プリツカー賞の公式略歴は、ほかにも、2006年の冬季オリンピックのアイスホッケー会場として設計されたトリノのパラ・アルピトゥール(2002〜2005年)や、北京の中央美術学院美術館(2003〜2008年)を挙げています。スポーツ施設から美術館、コンサートホールまで、用途も国もまたいで仕事をしていたことがわかります。
公式プロフィールによると、磯崎はのちに中国や中東、ヨーロッパへ活動の場を広げ、中央アジア大学や、中国・河南省鄭州市の都市計画にも関わりました。国や地域が変わるたびに、その土地の文脈を読み、設計を変える。プリツカー賞の審査講評が、磯崎は東洋と西洋を、まねや寄せ集めではなく、新しい道を切り開くことで結びつけたと評価したのは、こうした姿勢を指しているのでしょう。
プリツカー賞、そして晩年(2019〜2022年)
2019年、磯崎はプリツカー賞を受賞しました。審査講評は、磯崎が1960年代に自分の事務所を開いて以来、東洋と西洋のあいだに深く長い関係をつくった最初の日本人建築家であり、建築の歴史と理論への深い知識をもち、前衛を受け入れながら、既存の状態をただ繰り返すのではなく問い直したと述べています。大分市の公式ページによると、日本人の受賞者としては8人目でした。
講評は、磯崎が若い建築家を支えたことも強調しています。たとえば、福岡のネクサスワールド集合住宅(1988〜1991年)や、富山県の「まちのかお」事業(1991〜1999年)では、世界の若い建築家を招いて、きっかけとなる計画に取り組んでもらいました。また、磯崎は1979年に最初のプリツカー賞審査員のひとりに任命され、その後さらに5年間、審査員を務めています。
プリツカー賞の公式略歴は、そのほかの受賞や活動も挙げています。1996年にはヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で、日本館のコミッショナーとして金獅子賞(Leone d’Oro)を受けました。フランスの芸術文化勲章オフィシエ(1997年)、スペインの市民功労大十字勲章(1997年)、イタリア共和国功労勲章(2007年)も受けています。英国の王立芸術院の名誉会員(1994年)、アメリカ芸術文学アカデミーの名誉会員(1998年)にも名を連ね、2017年には日本芸術院の会員になりました。
同じ略歴によると、個展として、ロサンゼルス現代美術館と東京ステーションギャラリーでの「Arata Isozaki: Architecture 1960-1990」展などが開かれています。また、コロンビア大学、ハーバード大学、イェール大学など、アメリカの複数の大学で客員教授も務めました。設計だけでなく、展覧会や教育の場でも、考えを発信し続けた人でした。
2022年12月28日、磯崎は91歳で亡くなりました。公式プロフィールによると、終の棲家とした那覇市の自宅でのことでした。大分、九州、日本、そして世界へと、仕事の場を広げ続けた生涯でした。
磯崎新の主な仕事・年表
| 年 | できごと・作品 |
|---|---|
| 1931年 | 大分市に生まれる |
| 1954年 | 東京大学工学部建築学科を卒業し、丹下健三の研究室へ |
| 1962年 | 「空中都市(City in the Air)」を構想(実現せず) |
| 1963年 | 磯崎新アトリエを設立 |
| 1966年 | 大分県立大分図書館が竣工(現・アートプラザ) |
| 1970年 | 日本万国博覧会のお祭り広場の諸装置を設計 |
| 1971年 | 『空間へ』を刊行 |
| 1974年 | 群馬県立近代美術館、北九州市立美術館が竣工 |
| 1983年 | つくばセンタービルが竣工 |
| 1986年 | ロサンゼルス現代美術館が完成。RIBAゴールドメダルを受賞 |
| 1990年 | 水戸芸術館、北九州国際会議場が完成 |
| 2019年 | プリツカー賞を受賞 |
| 2022年 | 12月28日、91歳で死去 |
まとめ
いかがだったでしょうか。磯崎新は、大分に生まれ、丹下健三のもとで学び、美術館や図書館、広場、劇場、コンベンションセンターへと設計の幅を広げた建築家でした。群馬県立近代美術館の立方体フレームから、北九州市立美術館の迫り出す2本の箱、水戸芸術館の塔、世界各地の大規模施設まで、同じ形を繰り返さなかったことが、最大の特徴です。
書くこと、展覧会を企画すること、若い建築家を支えることも、磯崎の仕事の一部でした。作品を見に行くときは、建物の外観だけでなく、そこがどのように使われ、どのように手が加えられてきたかにも目を向けてみてください。
Euphoric " " の視点
群馬県立近代美術館の設計が磯崎に委託されたのは1971年です。建設準備会の中心だった井上房一郎は、はじめは別の建築家を候補に挙げていましたが、作家の斎藤義重の紹介で磯崎を知り、当時まだ新進気鋭だった磯崎を推薦したと伝えられています。ロサンゼルス現代美術館に選ばれた1980年代初めにも、磯崎はアメリカで完成させた建物をまだ持っていませんでした。
のちに磯崎は、福岡のネクサスワールド集合住宅や富山県の「まちのかお」事業で、世界の若い建築家を招き、きっかけとなる計画に取り組んでもらっています。審査講評も、磯崎が若い建築家を支えたことを強調しています。
まだ新進気鋭の人や、その国で完成させた建物のない人に仕事を託すのは、託す側にとっても勇気のいる判断かもしれません。磯崎の歩みには、託される側と託す側の両方の姿があります。機会は、受け取った人がまた次の誰かに手渡すことで広がっていくのだと考えます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






