こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはディーター・ラムスという人物をご存知ですか?
ラムスは、ドイツの工業デザイナーです。1955年に電気製品メーカーのブラウンへ入り、1961年に製品デザイン部門の責任者になりました。ラジオ、レコードプレーヤー、スピーカーなど、暮らしのなかの機械を手がけた一方で、家具メーカーのヴィツゥ(Vitsœ)のために、壁に取りつける収納棚「606ユニバーサル・シェルビング・システム」も設計しています。
1932年生まれで、「より少なく、しかしより良く(Less, but better)」という言葉とともに知られています。本記事ではそんなディーター・ラムスの人生と作品についてご紹介します。なお、ラムスは存命の人物です。現在の活動は2026年10月時点で確認できた公式情報にもとづき、批評にあたる部分は編集部の意見として「〜と考えます」の形で書きます。
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Toggleディーター・ラムスって?
ラムスは、デザインを「見た目を整える仕事」ではなく、「ものがどう使われ、どれだけ長く使われるかを考える仕事」として続けてきたデザイナーです。フランクフルト応用美術館の紹介文には、20世紀後半に350点を超える製品をブラウンとヴィツゥのために設計し、それらが世界中で日々使われていると書かれています。この「使われ続ける」という点が、ラムスの仕事をいまも語り継がせている理由のひとつだと考えます。
この記事では、まず生い立ちと学びを見たうえで、ブラウンでの仕事、家具の仕事、有名な「10の原則」、そして教育者・財団の創設者としての顔、2026年現在の様子まで、順にたどります。
基本情報
| 本名 | ディーター・ラムス(Dieter Rams)。財団の文書では「Prof. Dr. h.c.」の肩書きが付されている |
| 生年月日(没年月日) | 1932年5月20日(存命。2026年5月のフランクフルト応用美術館の発表で、94歳の誕生日にあわせた展示の再構成が伝えられている) |
| 国籍・出身 | ドイツ/ヴィースバーデン |
| 学歴 | ヴィースバーデンの工芸学校(後に Werkkunstschule に改組)で建築・室内装飾を学び、1953年7月に優等で修了。間に1948年から大工の見習いを挟む |
| 分野 | インダストリアルデザイン(家電・オーディオなどの製品、家具) |
| 傾向 | 機能を優先し、長く使えること、控えめであること、資源を大切にすることを重んじる |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 記録なし(確認できた一次情報では、大工の親方だった祖父の存在が手仕事への入口になったと記されている。ブラウンでは、美術史家フリッツ・アイヒラーらが築いた土台の上で仕事を始めた) |
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経歴と作品
ラムスの歩みは、大きく「学び」「ブラウンでの仕事」「家具と原則」「教えること・伝えること」に分けて眺めると整理しやすくなります。まず全体の流れを図で確認しましょう。

大工の祖父と、ヴィースバーデンの学び(1932〜1955)
ディーター・ラムスは、1932年5月20日にドイツのヴィースバーデンで生まれました。ラムス財団の年譜によると、幼いころから大工仕事に親しみ、そのきっかけは大工の親方だった祖父でした。Vitsœの公式サイトも、祖父の存在に強く影響を受け、木工での早い時期の受賞が、室内デザインを学ぶ道につながったと記しています。
学びの記録は、財団の年譜に細かく残っています。1947年の春から秋にかけて、ヴィースバーデンの工芸学校(Kunstgewerbeschule)で建築と室内装飾の学びを始め、その年の秋からは室内デザイン科の講義に通います。ところが1948年9月に学業をいったん中断し、大工の見習いに入りました。学校へ戻ったのは1951年10月です。この間に学校は、ハンス・ゼーダー博士のもとで Werkkunstschule(応用美術学校)へと改組されていました。
フランクフルト応用美術館の紹介文は、この学校の創設期の校長ゼーダーが、バウハウスの教え方の一部を取り入れていたと説明しています。木工の見習いと、バウハウスの教え方を取り入れた学校という二つの経験は、ラムスの仕事の進め方を考えるうえで見逃せないと考えます。1953年7月、ラムスは銀行の営業室の設計で、優等の成績をもって修了しました。
その後の1953年10月から1955年7月までは、フランクフルトのオットー・アーペルの建築事務所で働きました。美術館の説明では、この事務所は現在のABBにあたります。つまり、ラムスの出発点は工業製品ではなく、木工と建築と室内の仕事でした。私はこの順序が、のちの「ものを単体でなく、置かれる空間ごと考える」姿勢につながったと考えます。これは本記事の読み取りであり、ラムス本人がそう述べたという記録ではありません。
ブラウンに入る(1955〜1960)
1955年7月、ラムスはフランクフルトのマックス・ブラウン社(Max Braun oHG)に、室内デザイナーとして入社します。Vitsœの公式サイトによると、友人の勧めで応募し、父親の死後に会社を継いだエルヴィンとアルトゥールのブラウン兄弟に採用されました。仕事は、新しい電気製品を世に出そうとしていた会社の室内を現代的に整えることでした。
当時のブラウン社は、変わろうとしていた会社でした。財団の資料を引いた美術館の説明では、若い経営者の兄弟が、従来型の会社を、社会的責任を重んじる近代的な企業へ変えようとしており、新しい「製品の言葉」を探していました。そこへ、同じ社員の美術史家フリッツ・アイヒラー、ウルム造形大学(HfG Ulm)との協力、そしてバウハウスで学んだヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルトやヘルベルト・ヒルヒェといった人々が土台をつくっていました。ラムスのチームは、その上で「ブラウンのデザインの中心」へ育っていったと美術館は書いています。
入社して最初の年、23歳のラムスは、社内の新しい室内計画のスケッチを提案しました。Vitsœによると、その大胆な計画の奥の壁には、レールにつけて壁に取りつける収納システムの、最初の着想が描かれていました。のちの606の原点にあたるものです。
やがてラムスは、室内だけでなく製品のデザインにも関わるようになります。代表的なのが、1956年の「SK 4」です。ラジオとレコードプレーヤーを一体にしたこの機械は、財団の資料ではディーター・ラムスとハンス・グゲロットのデザインとされています。Vitsœは、ラムスがここに透明なアクリル樹脂の蓋を加えたと紹介し、当時あまりに意外な仕掛けだったため、「白雪姫の棺」というあだ名がついたと書いています。蓋が透明であれば、機械の中が外から見えます。機械を覆い隠さないという発想は、のちの原則のひとつ「分かりやすい」に通じると考えます。
この時期の評価も、財団の年譜が具体的に残しています。1957年にはミラノの第11回トリエンナーレで、ブラウンの製品群全体(SK 1/2、エクスポーター2、PA 1、SK 4、トランジスター1を含む)がグランプリを受けました。1958年のブリュッセル万博では16点の新しいブラウン製品が紹介され、1958年12月から翌年2月にかけて、ブラウンの5点がニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションに加わっています。ブラウンのデザインが短い期間のうちに国際的な評価を受けたことが分かります。
部門を率いる(1961〜)
1961年、ラムスはブラウンの製品デザイン部門の責任者に任命されます。Vitsœの公式サイトは、この役を34年間務めたと書き、財団の紹介文は、1955年から1995年までブラウンで、室内デザイナーから製品デザイナー、そして部門の責任者として働いたと説明しています。ブラウンを離れたのは1997年です。Vitsœの年譜でも、1997年にブラウンを退職したとされています。1995年と1997年の差については、資料に説明が見つからなかったため、ここでは両方の記載をそのまま並べておきます。1968年にはブラウンの製品デザインのディレクターにも任命されました。
1960年代初めのラムスのチームには、ゲルト・A・ミュラー、ラインホルト・ヴァイス、リヒャルト・フィッシャー、ローベルト・オーベルハイム、ディートリッヒ・ルプスらがいました。美術館の説明によると、このチームは、高い機能性、見た目が長持ちすること、直感的に操作できること、すぐれた美しさを合わせもつ製品の言葉をつくり、ハイファイ機器から電気かみそりまで、共通の考え方で設計しました。これが「ブラウン・デザイン」と呼ばれるものです。
この仕事の進め方には、ひとつ大きな特徴がありました。同じ美術館の説明は、チームが技術者と、ごく早い段階から密接に協力し、その結果として設計の過程が組み立てられていった点を重要な側面に挙げています。デザイナーが完成した機械に「服」を着せるのではなく、中身を設計する人と一緒に形を考える。ブラウン・デザインの強さは、この協働の仕組みにもあったと考えます。図に、ラムスのデザインを支えた人や組織をまとめました。

代表的な製品を挙げます。1959年のTP 1(ラジオとレコードプレーヤーの複合機)、1961年のRT 20(卓上ラジオ)、1963年のT 1000(ワールドレシーバー=世界各地の放送を受信するラジオ)、1962年から64年にかけてのL 450スピーカー、TG 60オープンリール・レコーダー、TS 45コントロール・ユニットなどです。Vitsœの公式サイトは、これらをいずれもディーター・ラムスのブラウン向けデザインとして紹介しています。1961年には、TP 1が、ロンドンのプラスチック工業の展覧会インタープラスで最高賞を受けたと、Vitsœの年譜は記します(財団の年譜では、最高賞は1961年と1963年の2回です)。
なお、すべてがラムス一人の手になるものではありません。1987年のET 66(計算機)は、ブラウン向けにディートリッヒ・ルプスが設計した製品だと、Vitsœは明記しています。部門を率いるとは、自分で描くことだけでなく、チームの仕事に一貫した考え方を通すことでもあったのだと思います。
家具の仕事とヴィツゥ(1957〜)
ラムスの仕事のもうひとつの柱が家具です。Vitsœによると、1957年、ラムスはブラウン社のエルヴィン・ブラウンに、別の会社のために家具を設計してもよいかと尋ねました。返ってきた答えは「はい。それは私たちのラジオの市場の助けになるでしょう」(編集部訳)というものでした。財団の紹介文も、ほぼ同じ言葉を引いています(財団はこのやり取りを1959年としており、Vitsœの1957年と資料で年が分かれています)。
Vitsœの年譜によると、1959年9月4日に、デンマーク出身の家具商ニールス・ヴィツゥと、デザイナーのオットー・ツァップがヴィツゥ+ツァップ社をつくり、ラムスの家具設計を製品にする体制が整いました。そして1960年、壁に取りつける「606ユニバーサル・シェルビング・システム」(当時の型番はRZ 60)が発売されます。1962年には「620チェア・プログラム」と「621テーブル」が続きました。
図に、606の歩みをまとめました。

606は、いまもつくられ続けています。財団は、これを「ラムスの最も成功した家具デザイン」と呼び、長い期間にわたって生産が続くことは間違いないと書いています。MoMAの所蔵品データでは、606は1960年のディーター・ラムスのデザインで、製造者はロンドンのヴィツゥ、材質は陽極酸化した押し出しアルミニウム、アルミニウムのダイカスト、ポリエステル粉体塗装の鋼、塗装した繊維板と鋼、寸法は可変です。製造者からの寄贈で、所蔵番号は499.2004です。Vitsœの年譜でも、2004年にMoMAの永久コレクションに入ったと記されています。
620チェア・プログラムについても、記録が残っています。美術館の説明は、これを「芸術的な著作権を認められたごく少数のデザイン製品のひとつ」(編集部訳)と呼びます。Vitsœの年譜によると、1973年にドイツの連邦裁判所は、この椅子のデザインを「高い美的価値をもつ個人の独創的な創作」(編集部訳)と認めました。Vitsœの公式サイトはさらに、2018年にドイツの裁判所が606の金属棚板を評した判決と、2023年にイタリアの最高裁判所(破毀院)が606を著作権で保護される作品と認めたことを紹介しています。これらはVitsœ自身の説明ですので、判決そのものは各裁判所の記録で確かめる必要があります。
ブラウンの仕事と家具の仕事は、別々のものではありませんでした。Vitsœによれば、606は、ブラウンのコンパクトなハイファイ機器のサイズに合わせて設計され、両者が並んで置かれることまで考えられていました。同社はこれを、ふたつが同じ考え方から生まれた表れだと説明しています。図に、ふたつの仕事を並べて整理しました。

十の原則「グッド・デザイン」
ラムスの名前をもっとも広く知らせたのは、「グッド・デザインのための10の原則」でしょう。Vitsœの公式サイトによると、1970年代後半、ラムスは身のまわりの状況に不安を覚えていました。その不安を、本人は「形、色、騒音の入り乱れた、見通しのきかない混乱」(編集部訳)と言い表しています。そして自分もその混沌をつくっている一人だと自覚し、「自分のデザインは良いデザインなのか」と自問しました。その答えが10の原則です。Vitsœの年譜は、1975年から85年にかけて、ラムスがこの原則を練り上げたと記しています。
10の項目は、Vitsœの日本語版サイトの表記に従うと、次のとおりです。Vitsœの原文の説明は転載せず、項目名だけを挙げています。
| 1 | 革新的(Good design is innovative) |
| 2 | 実用的(makes a product useful) |
| 3 | 美しい(is aesthetic) |
| 4 | 分かりやすい(makes a product understandable) |
| 5 | 主張しない(is unobtrusive) |
| 6 | 誠実である(is honest) |
| 7 | ながもちする(is long-lasting) |
| 8 | 細部まで完璧(is thorough down to the last detail) |
| 9 | 環境にやさしい(is environmentally-friendly) |
| 10 | 純粋で簡素(is as little design as possible) |
この10項目は、つながった考え方として読むと分かりやすくなります。以下は編集部による整理で、Vitsœの文面の翻訳ではありません。「実用的」「分かりやすい」は、使う人に向けた約束です。「主張しない」「誠実である」は、デザイナーが何を引き受けないかの宣言です。「ながもちする」「環境にやさしい」は、時間と資源に向けた責任です。そして「純粋で簡素」が、全体をまとめる言い方になっています。
ここで大事なのは、ラムス自身が10の原則を絶対のものとは考えていない点です。ラムス財団の紹介文でラムスは、原則は疑う余地のないものではなく、そうである必要もない、良いデザインとは何かという考えは、技術や文化が進むのと同じように変わり続けるから、と述べています。原則は、守るための規則というより、考え続けるための手がかりだと読めます。図に、この原則から、とくに三つの柱を取り出しました。

「より少なく、しかしより良く」は、この原則の10番目に重なります。フランクフルト応用美術館のラムス展の紹介は、1970年代のラムスが、物をできるだけ長く使えるように設計することを一貫して主張していたと説明し、いま「機能の美学」として語られることを、ラムスのチームは何十年も前から実践していたと書いています。この言葉は、ミニマルな見た目を指す合言葉として使われがちですが、ラムスの場合は見た目の話にとどまりません。「長く使われること」「資源を無駄にしないこと」が中心にあると考えます。
1976年、ラムスはニューヨークで「Design by Vitsœ」と題した講演をしました。Vitsœの公式サイトによると、そこでラムスは、天然資源の不足がますます深刻になり、元には戻らないことを語り、デザイナーをはじめ、すべての人がもっと責任をもつよう呼びかけています。環境への配慮が広く語られるようになるずっと前から、ラムスは物の量そのものを問題にしていたと読めます。
教える、束ねる、伝える
ラムスは、デザインをつくるだけでなく、デザインを取り巻く仕組みにも関わってきました。ラムス財団の年譜によると、1981年11月にハンブルク造形芸術大学の工業デザイン教授に任命され、1997年に退職するまで教えました。ドイツデザイン評議会(German Design Council)の会長も1998年まで務めています(就任年は財団の年譜で1987年、同じ財団の別の紹介文で1988年と、資料で1年割れています)。1999年5月にはベルリン芸術アカデミーの会員になりました。
1992年には、IKEA賞を受け、その賞金で「ディーター&インゲボルグ・ラムス・デザイン振興財団」をつくりました(財団の別のページには1994年とあり、年は資料で割れています)。インゲボルグ・ラムスは、1931年7月16日にボーフムで生まれた写真家です。財団の年譜によると、1957年からブラウンの広告写真に関わり、ヴィツゥの家具の写真も担当しました。ラムスとは1967年12月に結婚し、2022年5月7日にクロンベルクで亡くなっています。
顕彰の記録も多く残っています。1968年に英国王立芸術協会の名誉RDI(Royal Designer for Industry)、1978年にミネルヴァ・メダル、1991年にロンドンの王立美術大学の名誉博士号、1996年にアメリカ工業デザイナー協会の世界デザインメダル、2002年にドイツ連邦共和国功労勲章の大功労十字章、2014年にコンパッソ・ドーロの国際功労賞(生涯功績)が挙げられます。2025年には、世界デザイン機構(WDO)が「世界デザインメダル」をラムスに贈ったと、WDOの公式ページが伝えています。
展覧会も、日本とは縁の深いものがあります。財団の年譜によると、2005年の秋には京都の建仁寺で「Less but better / Weniger, aber besser」展が開かれました。2008年11月からは、大阪のサントリーミュージアムを皮切りに、東京の府中市美術館、ロンドンのデザイン・ミュージアム、フランクフルト、ソウル、サンフランシスコ近代美術館へ巡回する「Less and More」展が行われました。財団の紹介文によると、この展覧会は6つの美術館で合計86週間にわたり開かれ、40万人以上が訪れました。この東京の展覧会にあわせて、ラムスは若いデザイナーに向けた呼びかけ(東京宣言)を、武蔵野美術大学のシンポジウムで行ったと、財団は記しています。
そのほか、2016年11月から翌年3月までヴィトラ・デザイン・ミュージアム(ドイツ、ヴァイル・アム・ライン)で「Modular World」展、2018年11月から翌年4月までフィラデルフィア美術館で「Principled Design」展が開かれました。2018年9月にはアメリカの映画監督ゲイリー・ハストウィットによるドキュメンタリー映画「Rams」(74分、音楽はブライアン・イーノ)が、ニューヨークで初上映されています。2020年には、ブラウン、ヴィツゥ、fsb、ジレットなどのための作品を収めた、ラムスの全作品目録がロンドンのファイドン社から出版されました。
デザイナーへの影響についても、財団は具体的な名前を挙げています。深澤直人、ジャスパー・モリソン、ジョナサン・アイヴが、ラムスから強い影響を受けたと語っている、というものです。
ラムスはいま(2026年10月時点)
ここからは、現在の様子です。確認できた最新の公式資料は、2026年5月の、フランクフルト応用美術館(Museum Angewandte Kunst)の報道発表です。この発表は、ラムスの94歳の誕生日にあわせて、美術館が「ディーター・ラムス・シュティールラウム(様式の部屋)」を新しく構成し直し、5月20日から公開すると伝えています。なお、2026年10月時点で、財団・美術館の公式サイトに逝去を知らせる記載は見つけられませんでした。

報道発表によると、今回の部屋は、機器の種類がどう生まれ、どう発展したかを、ラジオとレコードプレーヤーの複合機やワールドレシーバーT 1000を例に見せることに重点を置いています。設計スケッチに加えて、ラムスが本当は選びたかった設計案を復元した模型が、初めて展示されるとのことです。ほかにも、フラッシュ、スライド映写機、映画用カメラ、ハイファイ・レシーバーが、形を変えていった様子が紹介されています。会場では、2011年に香港で行った講演「より人間らしい環境のためのデザイン」の、ラムス自身の言葉も読めるそうです。
その言葉は、報道発表に長く引かれています。たとえば、デザインという言葉が「ライフスタイル」という言葉に格下げされてほしくない、と述べたうえで、「良いデザインとは、できる限り少ないデザインである。純粋なものへ、単純なものへ戻ろう」(編集部訳)と語っています。さらに、持続可能な生産のための自分の公式は「より少なく、しかしより良く」であり、それも「ずっと少なく、ずっと良く」だと言います。流行にすぎず、その流行が終われば役に立たなくなる生産を減らし、使う人の暮らしを楽にし、広げ、深める生産を増やすべきだ、という趣旨も述べられています。
報道発表は、ラムス本人について、公の場からはほぼ身を引いているものの、世界のデザインの動きを今も見続けていると書いています。そして、30年以上前に妻のインゲボルグとともにつくった財団で、理事会(Kuratorium)の議長を務めているとも伝えています。財団は、フランクフルトの応用美術館にある「ラムス・アルヒーフ(資料館)」を運営しています。財団の案内によると、資料館は同館のヴィラ・メッツラー(上の写真の左の建物)にあります。また財団は、ここ数年、ラムスのデザインへの姿勢を紹介する巡回展をアメリカ、イタリア、トルコ、中国の各地で開いてきました。この巡回展の東京での開催は、発表では「9月」とされていました。その後に多摩美術大学が公表した案内では、会期は2026年11月17日から12月16日まで、会場は上野毛キャンパスのギャラリー「Sala Blu」で、財団が企画・監修に加わり、総合監修は同大学副学長の深澤直人氏と記されています。
ラムス財団のサイトには、香港デザイン学院で2026年5月3日まで開かれた巡回展の記録もあります。ラムスの考えは、いまも各地で紹介され続けています。
年表で見るディーター・ラムス
| 1932年5月20日 | ヴィースバーデンに生まれる |
| 1948年9月 | 学業を中断し、大工の見習いに入る |
| 1953年7月 | 工芸学校を優等で修了 |
| 1955年7月 | ブラウン(マックス・ブラウン社)に室内デザイナーとして入社 |
| 1956年 | SK 4(ディーター・ラムス/ハンス・グゲロット) |
| 1957年 | ミラノ・トリエンナーレでブラウンの製品群がグランプリ |
| 1960年 | 606ユニバーサル・シェルビング・システムの発売 |
| 1961年 | ブラウンの製品デザイン部門の責任者に |
| 1968年 | ブラウンの製品デザイン・ディレクターに |
| 1981年11月 | ハンブルク造形芸術大学の教授に(1997年まで) |
| 1992年 | IKEA賞の賞金で財団を設立(財団の別ページでは1994年) |
| 1997年 | ブラウンを離れる |
| 2018年9月 | ドキュメンタリー映画「Rams」が初上映 |
| 2022年5月7日 | 妻インゲボルグ・ラムスが亡くなる |
| 2026年5月 | フランクフルト応用美術館でラムスの部屋が新しい構成に |
代表作の一覧
| 1956年 | SK 4 ラジオ・レコードプレーヤー複合機 | ハンス・グゲロットとの共同デザイン(財団) |
| 1958年 | T 3 ポケットラジオ | MoMAの所蔵品データでは、ディーター・ラムスとウルム造形大学の名で記載。所蔵番号595.1965 |
| 1958年 | L 02(Vitsœ表記ではL 2)スピーカー | MoMAの所蔵品。所蔵番号597.1965.a-d |
| 1959年 | TP 1 ラジオ・レコードプレーヤー複合機 | Vitsœの原則紹介に掲載 |
| 1960年 | 606 ユニバーサル・シェルビング・システム | ヴィツゥ製。MoMAの所蔵品(499.2004) |
| 1961年 | RT 20 卓上ラジオ | Vitsœの原則紹介に掲載 |
| 1962年 | 620 チェア・プログラム、621 テーブル | ヴィツゥ製 |
| 1963年 | T 1000 ワールドレシーバー | 2026年の応用美術館の展示でも中心に置かれる |
| 1968年 | T 2 卓上ライター | Vitsœの原則紹介に掲載 |
| 1972年 | MPZ 21 シトラス・ジューサー | ユルゲン・グロイベルとの共同デザイン(Vitsœ) |
まとめ
いかがだったでしょうか。ディーター・ラムスは、大工の祖父のそばで木工に親しみ、建築と室内の学びを経て、ブラウンで電気製品のデザインを率いました。家具ではヴィツゥとともに606や620を世に出し、1970年代後半から、自分の仕事を問い直す形で「10の原則」を練り上げます。
その原則は、見た目を飾るための方法ではありません。使う人のため、長く使うため、資源を守るために、何を省き、何を残すかを決めるための考え方です。ラムス本人が「原則は変わりうるもの」と述べている点も含めて、考え続ける姿勢そのものが、いまも読み継がれているのだと考えます。
2026年5月には、フランクフルトの応用美術館でラムスの部屋が新しい構成になり、11月には多摩美術大学(東京)で公式巡回展が予定されています。ラムスの考え方は、いま使っている身近な道具をどう選び、どう長く使うかを見直すきっかけにもなりそうです。機会があれば、図録や展示で、実際の機器やスケッチに触れてみてください。
Euphoric " " の視点
ディーター・ラムスは、ブラウンで製品デザインに携わる一方、ヴィツゥのために家具も設計しました。その始まりについて、Vitsœは一つのやり取りを伝えています。ラムスがエルヴィン・ブラウンに、別の会社のために家具を設計してもよいかと尋ねると、返ってきた答えは「はい。それは私たちのラジオの市場の助けになるでしょう」(編集部訳)というものでした。
実際、606ユニバーサル・シェルビング・システムは、ブラウンのコンパクトなハイファイ機器のサイズに合わせて設計され、両者が並んで置かれることまで考えられていたと、Vitsœは説明しています。
作り手が外で仕事をすることを、力の分散と受け止める組織もあるかもしれません。けれどもこのやり取りからは、外の仕事が本業の価値を高めうると見る視点が読み取れます。606がいまもつくられ続けていることも、その視点が生きた表れの一つだと考えます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






