こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはジャン=フランソワ・ミレーという人物をご存知ですか?
ミレーは19世紀のフランスで活躍した画家で、パリの南東にある小さな村バルビゾンに移り住み、畑で働く農民たちの姿を描き続けたことから「農民画家」と呼ばれています。
代表作の『落穂拾い』や『晩鐘』は教科書などでもおなじみですし、『種をまく人』は日本の山梨県立美術館にも所蔵され、出版社・岩波書店のマークの題材にもなっています。日本人にとって、最もなじみ深い西洋の画家のひとりと言えるかもしれません。
本記事ではそんなジャン=フランソワ・ミレーの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleジャン=フランソワ・ミレーって?

基本情報
| 本名 | ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet) |
| 生年月日(没年月日) | 1814年10月4日〜1875年1月20日(60歳没) |
| 国籍/出身 | フランス/ノルマンディー地方マンシュ県グレヴィル村のグリュシー |
| 学歴 | シェルブールで画家ムシェル、ラングロワに学んだのち、1837年からパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)でポール・ドラローシュに師事 |
| 分野 | 絵画(油彩、パステル、素描)、版画 |
| 傾向 | バルビゾン派、写実主義、農民画、風景画 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ポール・ドラローシュ、ニコラ・プッサン、ミケランジェロ(ルーヴル美術館で作品に傾倒)、テオドール・ルソー(盟友) |
ミレーと関わりの深い画家や、日本でミレーに出会える美術館については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
バルビゾン派って?
ミレーを語るうえで欠かせないのが「バルビゾン派」です。
バルビゾンは、パリの南東に広がるフォンテーヌブローの森の入り口にある小さな村です。19世紀の前半から、この森や周辺の農村の風景を描くために画家たちが集まるようになりました。彼らは後に、村の名前をとって「バルビゾン派」と呼ばれます。
当時のフランスの美術界では、神話や歴史、聖書の場面を描く「歴史画」が最も格の高いジャンルとされ、風景画や庶民の暮らしを描いた風俗画は一段低いものと見なされていました。
そんな中で、カミーユ・コローやテオドール・ルソーといった画家たちは、都会のアトリエを出て、目の前の自然そのものを見つめて描こうとしました。この姿勢は、のちの印象派にも受け継がれていきます。
1849年に移り住んだミレーは仲間の中では遅い参加で、風景を主役にした仲間たちと違い、関心の中心はその土地で働く人間の姿でした。
経歴と作品
ノルマンディーの農村に生まれて
ミレーは1814年10月4日、フランス北西部ノルマンディー地方の、英仏海峡に突き出したコタンタン半島の先にあるグレヴィル村の小さな集落グリュシーで生まれました。
家は農家で、ミレーは9人きょうだいの長男として、家を継ぐことを期待されて育ちます。農作業を手伝いながら、学問好きの親族のもとで聖書やラテン語、古典文学にも親しんだと言われています。
やがて絵の才能を認められたミレーは、18歳ごろから近くの港町シェルブールに出て、肖像画家ムシェルのもとで絵の修業を始めました。1835年に父が亡くなると一度は家に戻りますが、祖母の強い後押しもあって再びシェルブールに出て、画家ラングロワに学びます。
この頃、シェルブールでは地元の美術愛好家のコレクションをもとにしたトマ=アンリ美術館が開館したばかりで、ミレーはここに通って巨匠たちの作品を模写しました。
パリでの挫折と肖像画家の時代
ミレーの才能を見込んだ師の推薦により、シェルブール市とマンシュ県から奨学金が支給されることになり、ミレーは1837年にパリへ出ました。
パリでは国立美術学校エコール・デ・ボザールに入り、当時人気の歴史画家ポール・ドラローシュのアトリエで学びます。しかし、アカデミックな授業にはなじめず、むしろルーヴル美術館に通ってミケランジェロやプッサンらの作品を熱心に見て回ったと言われています。
1839年、若手画家の登竜門であったローマ賞に挑戦しますが落選し、ミレーは学校を去りました。奨学金も打ち切られてしまいます。
転機となったのは翌1840年です。パリの公式美術展「サロン」に出した肖像画が初めて入選し、ミレーは故郷に近いシェルブールで肖像画家として仕事を得るようになりました。
『自画像』(1840〜1841年頃)

シェルブールで肖像画家として歩み出した頃、26歳ごろのミレーが描いた自画像で、現在はアメリカのボストン美術館が所蔵しています。所蔵館によると、ミレーが油彩で描いた自画像は2点しか知られていません。
黒い服と暗い背景の中から、顔だけが強い光に照らされて浮かび上がっています。長く伸ばした髪とひげ、まっすぐこちらを見つめるまなざしからは、画家として生きていこうとする若者の強い決意が伝わってくるようです。
のちに「農民画家」として知られるミレーですが、キャリアの出発点は肖像画でした。
1841年、ミレーは仕立て屋の娘ポーリーヌ・オノと結婚し、夫婦でパリに移り住みました。しかし都会の貧しい暮らしの中でポーリーヌは結核にかかり、1844年、わずか3年ほどの結婚生活で亡くなってしまいます。
「華やかな手法」から農民画へ
妻を失ったミレーは一度故郷へ戻りますが、そこで出会ったのが、のちに生涯の伴侶となるカトリーヌ・ルメールです。家族の反対を受けながらも、ミレーは1845年の暮れにカトリーヌとともに再びパリへ出ました。
この時期のミレーは、生活のために、明るくやわらかな色彩で神話の場面や女性の裸体を描いた小品を多く制作していました。この作風は「華やかな手法(マニエール・フルーリ)」と呼ばれています。
一方で、パリの下町に暮らしていたミレーは、後にバルビゾンの仲間となるテオドール・ルソーやシャルル・ジャック、そして後に支援者であり伝記作家となるアルフレッド・サンシエと出会います。
大きな転機は1848年に訪れました。この年の2月、フランスでは二月革命が起きて王政が倒れ、共和政が始まります。その直後に開かれたサロンにミレーが出品した『箕(み)をふるう人』は好評を博し、内務大臣ルドリュ=ロランが500フランで買い上げました。
箕とは、収穫した穀物をあおって、もみ殻やごみを飛ばすための農具のことです。赤い布を頭に巻いた農夫が、舞い上がる穀物の粉の中で力強く箕をふるうこの作品は、ミレーが本格的に働く農民を主題にした出発点とされています。
バルビゾンへの移住と『種をまく人』
1849年、パリではコレラが大流行し、さらに政治情勢の変化によってミレーを支援していた共和派の政治家たちも力を失います。そうした中、ミレーは友人シャルル・ジャックに誘われ、家族とともにバルビゾンへ移り住みました。
ミレーはこの村で、1875年に亡くなるまでの後半生を過ごすことになります。村に住んでいた先輩画家ルソーとはとりわけ固い友情で結ばれ、ミレーの作品が売れずに困っていたとき、ルソーがアメリカ人の買い手を装って自らお金を出して作品を買い取ったという話も伝えられています。
『種をまく人』(1850年)

バルビゾンに移ってから最初に仕上げた大作のひとつが、この『種をまく人』です。
夕暮れの急な斜面を、ひとりの農夫が大きな歩幅で下りてきます。肩から種の入った袋を下げ、右手で種を力強くまき散らすその姿は、画面いっぱいに大きく描かれ、まるで英雄の像のような迫力があります。足元は寒さよけのわらで包まれ、帽子の陰になった顔の表情はほとんど読み取れません。はるか後ろの丘の上には、牛を使って畑を耕すもうひとりの人影が小さく見えます。
この作品は、1850年の暮れから翌年にかけて開かれたサロンに出品されました。所蔵するボストン美術館は、この一枚でミレーは一躍有名になったと紹介しています。
ただ、その評価は真っ二つに分かれました。二月革命後のフランスでは、農民や労働者と、都市の富裕層との対立が深まっていました。そのため、名もない農民を英雄のように大きく描いたこの絵は、保守派からは危険な政治的主張として非難され、左派からは民衆の姿を表したものとして称賛されたのです。同じサロンにはギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』も出品され、スキャンダルを巻き起こしていました。
実は、この構図とほぼ同じ時期に描かれた『種をまく人』がもう1点あり、それが山梨県立美術館の所蔵品です。1977年4月にニューヨークの競売に出たこの作品を東京の画廊が入手し、山梨県が同年、『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』とともに購入しました。そして翌1978年に開館した山梨県立美術館の顔となりました。ボストン美術館の作品と山梨県立美術館の作品のどちらがサロンに出品されたのかについては、研究者の間でも議論があります。
『落穂拾い』と『晩鐘』の時代
1850年代のフランスは、ナポレオン3世が皇帝となった第二帝政の時代です。ミレーはバルビゾンで農民の暮らしを描き続け、サロンへの出品も続けましたが、作品は称賛されることもあれば、厳しく批判されることもありました。
1853年には母が亡くなり、ミレーは久しぶりに故郷へ帰ります。同じ年、カトリーヌと正式に結婚しました。子どもにも恵まれましたが、家族が増えるにつれて暮らしは苦しくなっていきました。
『落穂拾い』(1857年)

1857年のサロンに出品された作品です。刈り入れが終わった麦畑で、3人の農婦が地面に落ちた麦の穂を拾い集めています。落穂拾いとは、収穫のあとに畑に残された穂を、貧しい人々が拾うことを許された昔からの習わしのことです。
手前の3人は、画面の中で大きく、どっしりと描かれています。2人は深く腰を折って穂を拾い、もう1人は拾った穂を手に、次の一歩を探すように身をかがめています。使い込まれた服やごつごつとした手からは、この作業の厳しさが伝わってきます。
一方、遠くに目をやると、光に包まれた畑には山のように積まれた麦わらと荷車、そして大勢の人々が働く様子が描かれています。右奥には馬に乗った人物の姿も小さく見えます。豊かな収穫の風景と、その片隅でわずかな落ち穂を拾う女性たち。ひとつの画面の中に、大きな差がさりげなく描き込まれているのです。
この作品もサロンで議論を呼び、保守派から批判される一方、農民の尊厳を描いたものとして評価する声もありました。
3人の姿は、17世紀フランスの巨匠プッサンの絵画を思わせるとも言われる、落ち着いた安定感のある構図にまとめられています。ありふれた農作業を、歴史画のような重みをもって描いたところに、ミレーの新しさがありました。
『晩鐘』(1857〜1859年)

夕暮れのじゃがいも畑で、農夫の夫婦が仕事の手を止め、頭を垂れて祈っています。男性は帽子を胸の前で持ち、女性は両手を組んでいます。足元にはじゃがいもの入った籠、左には地面に突き立てたフォーク、右には袋を載せた手押し車が置かれています。
地平線の右のほうには、小さく教会の塔が見えます。そこから響いてくる夕べの鐘を合図に、「アンジェラス(お告げの祈り)」と呼ばれるカトリックの祈りを捧げている場面です。オルセー美術館によると、描かれているのはバルビゾン周辺に広がるビエールの平原で、遠くの鐘楼はシャイイ=アン=ビエールの教会だとされています。
この作品は、1857年にボストン出身の美術収集家トマス・ゴールド・アップルトンの注文で描き始められましたが、注文主は作品を引き取りませんでした。そのため、ミレーは完成後まもなく、この絵を1000フランで手放しています。
ミレー自身は、この絵について、かつて畑で働いていたとき、晩鐘が鳴ると祖母が必ず仕事の手を止めさせ、亡くなった人々のために祈らせたことを思い出して描いた、という趣旨のことを語ったと伝えられています。
縦55.5センチ、横66センチと、思いのほか小さな作品ですが、沈みゆく光の中に立つ2人の姿は、ひとつの記念碑のような静けさをたたえています。
名画をめぐる「争奪戦」
『晩鐘』は、ミレーの死後、驚くような運命をたどります。
転売を重ねるうちに価格は上がり続け、1889年7月、パリで行われた収集家セクレタンのコレクションの売り立てでは、フランス側とアメリカの美術協会(アメリカン・アート・アソシエーション)が激しく競り合いました。落札価格は55万3000フランという、当時としては破格の金額にのぼります。
結局この絵は一度アメリカに渡りましたが、翌年、パリの百貨店「グラン・マガザン・デュ・ルーヴル」の経営者アルフレッド・ショシャールが買い戻しました。ショシャールは1909年に亡くなり、遺言によって『晩鐘』はフランス国家に遺贈されます。こうしてルーヴル美術館に入ったこの作品は、1986年の開館とともにオルセー美術館へ移り、今に至っています。
ダリが見た『晩鐘』
『晩鐘』に強くとりつかれた人物として有名なのが、20世紀のシュルレアリスムの画家サルバドール・ダリです。
ダリはこの絵に独自の解釈を重ね、『ミレー《晩鐘》の悲劇的神話』(邦訳は人文書院刊)という本を著しました。1963年にフランスで刊行されたこの本の中で、ダリは、2人は祈っているのではなく、亡くなった子どもの棺を前に悲しんでいるのだと主張しています。
ダリの求めに応じてルーヴル美術館がX線で調べたところ、籠の位置に、もともと四角い形が描かれていたことが分かったと言われています。ただし、それが本当に棺であったのかは確かめられているわけではなく、描き直しの跡にすぎないという見方もあります。
ダリは、『晩鐘』の2人を思わせる人物像を自分の絵画にも何度も登場させています。
批判と成功のあいだで揺れた1860年代
1860年、ミレーは画商と、毎月決まった報酬を受け取る代わりに作品を納める専属契約を結びました。この契約は翌年に打ち切られてしまいますが、1860年代を通じてミレーの作品を求める収集家は少しずつ増えていきます。それでも、サロンでの評価は作品ごとに大きく揺れ動きました。
『鍬に寄りかかる男』(1860〜1862年頃)

石ころだらけの荒れ地で、ひとりの男が鍬(くわ)の柄に両手をのせ、前かがみになって息をついています。口を半ば開け、疲れ切った表情でどこか遠くを見つめるその姿からは、土を耕す労働の過酷さがまっすぐに伝わってきます。足元にはアザミのようなとげのある草が生い茂り、遠くの畑では煙が立ちのぼっています。
1863年のサロンに出品されたこの作品は、激しい非難を浴びました。所蔵するアメリカのJ・ポール・ゲティ美術館によれば、当時のパリでは、この絵は醜さや人間の堕落を美化するものだと攻撃され、社会主義的な抗議の表明として受け取られたといいます。
『羊飼いの少女』(1863〜1864年)

一方、翌1864年のサロンで大成功を収めたのが、この『羊飼いの少女』です。
赤い頭巾をかぶり、厚いケープをまとった少女が、羊の群れの前に立ち、うつむいて手元の編み物に集中しています。その後ろでは羊たちが草をはみ、右手には番犬の姿も見えます。夕方の低い光が羊たちの背中をやわらかく照らし、足元には小さな花が咲いています。
この作品はサロンでメダルを受け、国も買い上げを申し出たと言われています。しかし作品はすでに注文主の収集家ポール・テスに約束されていたため、国の買い上げは実現しませんでした。この成功をきっかけに、ミレーの評価は大きく高まっていきます。
パステル画と1867年パリ万博
1865年からは、パリの実業家エミール・ガヴェの注文を受け、ミレーは数多くのパステル画を手がけるようになります。パステル(色の粉を固めた画材)での制作を通じて、茶色を基調としていたミレーの油絵にも明るい色彩が増えていきました。
そして1867年のパリ万国博覧会には、『落穂拾い』『晩鐘』『羊飼いの少女』など9点の代表作が出品され、ミレーは一等メダルを受賞しました。これによって、ミレーは巨匠としての名声を確立します。翌1868年には、フランスの国家勲章であるレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与されました。
晩年と風景画『春』
しかし、喜びの一方で悲しい別れもありました。1867年、バルビゾンで長年ともに歩んできた盟友テオドール・ルソーが亡くなったのです。
翌1868年、ルソーの支援者だった実業家フレデリック・アルトマンから、ミレーのもとに「四季」を描く4点の連作の注文が届きます。ところがこの頃からミレーは体調を崩しがちになり、さらに1870年に始まった普仏戦争を避けて家族とシェルブールへ疎開したこともあって、制作はなかなか進みませんでした。
『春』(1868〜1873年)

アルトマンの注文による「四季」の連作のうち、ミレーが最初に完成させたのがこの『春』です。現在はオルセー美術館に所蔵されています。
雨上がりの空には暗い雲が残り、その手前に鮮やかな虹がかかっています。雲の切れ間から差し込んだ光が、白やピンクの花を咲かせた果樹と、若い緑の畑を明るく照らし出しています。画面の中央には、ぬかるんだ小道が奥へと続き、よく見ると、奥の木の下には小さな人影もたたずんでいます。
ここでは人の姿はほんの小さな点にすぎず、主役は自然そのものです。晩年のミレーの風景への深い関心がよく表れています。
再生や復活を思わせるモチーフが多く描かれていることから、この作品には、亡くなった親友ルソーへの鎮魂の思いが込められているのではないかとも考えられています。
「四季」の連作は、『夏』と『秋』もほぼ仕上げられましたが、『冬』は未完成のまま残されました。『春』は、アルトマンの未亡人によって1887年に国へ寄贈されています。
バルビゾンでの最期
1874年、ミレーは国から、パリのパンテオンを飾る聖女ジュヌヴィエーヴの生涯の場面の注文を受け、下絵に取りかかります。しかし健康状態が急速に悪化し、この仕事を実現することはできませんでした。
死の間際の1875年1月3日、ミレーは長年連れ添ったカトリーヌと、教会で正式な結婚式を挙げます。そして1月20日、バルビゾンで60年の生涯を閉じました。
ミレーは、隣村シャイイの墓地の、親友ルソーのすぐ近くに葬られました。バルビゾンでアトリエ兼住居として使っていた家は、現在ミレーの記念館として公開されています。
ミレーが後世に残したもの
ミレーの死後、友人サンシエがまとめた伝記が1881年に出版されました。この伝記は、信仰深く、清貧に甘んじて生きた「農民画家」というミレー像を熱のこもった文章で描き、各国語に翻訳されて広く読まれます。
ただし、ミレーは農家の出身で農作業を手伝って育ったものの、自ら農民として暮らしたわけではありません。貧しさについても誇張があると指摘されており、現在ではこうしたイメージは「ミレー神話」と呼ばれ、研究者によって見直しが進められています。
フィンセント・ファン・ゴッホ『Noon: Rest from Work (after Millet)』(1889〜1890年)

ミレーから最も強い影響を受けた画家が、フィンセント・ファン・ゴッホです。
ゴッホは画家を志した最初期からミレーの作品を手本にして素描を重ね、1882年にはサンシエの伝記を読んで深く感動したことを、弟テオへの手紙に書き残しています。
とりわけ有名なのが、南フランスのサン=レミの療養院に入っていた1889年から1890年にかけて制作した模写です。メトロポリタン美術館によれば、この時期ゴッホはミレーの作品をもとに21点もの模写を描きました。
上の作品は、そのうちの1点です。ミレーが農村の一日を描いた素描のシリーズをもとに、刈り取った麦わらの陰で昼寝をする農民の夫婦を描いています。手前には鎌と脱いだ靴が置かれ、奥には牛と荷車が見えます。
ゴッホは白黒の複製をもとにしながら、麦わらの黄色と空や服の青という鮮やかな色彩で、この場面を描き直しました。ゴッホ自身は弟への手紙の中で、こうした模写を、白黒の明暗の印象を色彩という別の言語に「翻訳」することだと語っています。
日本とミレー
ミレーは、日本とも深いつながりを持つ画家です。
明治時代、ミレーは複製画や伝記を通じて日本に紹介され、「清貧で信仰深い偉人」として、画家としてだけでなく道徳的な手本としても親しまれました。
出版社の岩波書店のマークも、ミレーの種まく人がもとになっています。同社の公式サイトによれば、創業者の岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりてマークとしました。長野県諏訪の農家の出身だった茂雄は、「労働は神聖である」という考えを強く持っていたといいます。
そして1978年、ミレーの『種をまく人』を中心に据えた山梨県立美術館が開館し、日本におけるミレー人気は改めて高まりました。同館は現在、油彩画12点を含む約70点のミレー作品を所蔵しており、展示室「ミレー館」では本物の『種をまく人』に出会うことができます。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、バルビゾン派を代表する「農民画家」ジャン=フランソワ・ミレーの人生と作品についてご紹介しました。
ノルマンディーの農村に生まれ、パリで挫折を味わい、肖像画や小品で生計を立てながら、ミレーがたどり着いたのは、畑で黙々と働く人々の姿を、歴史画と同じ重みをもって描くという道でした。その絵は当時、称賛と非難の両方を浴びましたが、ミレーは最後まで自分の見つめたいものを描き続けました。
日本では、山梨県立美術館でミレーの作品をまとめて見ることができます。教科書で見たあの絵の本物の前に立つと、きっと新しい発見があるはずです。機会があれば、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
Euphoric ” ” の視点
ミレーが描いたのは、英雄でも神話でもなく、畑で働く人々でした。当時それは珍しく、政治的な意図を疑われることさえありました。
しかし彼は、落ち穂を拾う人の背中を、歴史画と同じ厳粛さで描きました。題材の格を決めるのは、対象ではなく描き手のまなざしだと言わんばかりです。
目の前の当たり前を、価値あるものとして見せ直す。ミレーの仕事は、いまも表現に関わる人の出発点になります。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






