こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはジャン=ミシェル・バスキアという人物をご存知ですか?
ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)は、1960年にニューヨークのブルックリンで生まれたアメリカの画家です。1970年代の終わりに「SAMO©」という名前の落書きで注目を集め、1980年代のはじめに画家として一気に美術界の中心へ進みました。文字、記号、人物の顔を勢いのある筆づかいで重ねた画面は、いまも世界中の美術館で見ることができます。
ロサンゼルスの美術館ザ・ブロードは、バスキアが約1,000点の絵画と約2,000点のドローイングを残したと紹介しています。2017年には、1982年に描かれた作品がサザビーズのオークションで1億1,050万ドルで落札され、日本のコレクターである前澤友作氏が購入したことでも大きな話題になりました。
本記事ではそんなジャン=ミシェル・バスキアの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleジャン=ミシェル・バスキアって?

基本情報
| 本名 | ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat) |
| 生年月日(没年月日) | 1960年12月22日生まれ、1988年に27歳で死去 |
| 国籍・出身 | アメリカ/ニューヨーク州ブルックリン生まれ。父はハイチ、母はプエルトリコにルーツを持ちます |
| 学歴 | 美術学校で学んだ記録は、本記事で確認した公式の資料にはありません |
| 分野 | 絵画、ドローイング、版画、グラフィティ |
| 傾向 | 文字、記号、一覧表、図のような要素を、勢いのある筆づかいで画面に重ねる |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | アンディ・ウォーホル、フランチェスコ・クレメンテと共同で作品を制作しました。ジャズの音楽家への敬意を描いた作品もあります |
バスキアと同じ時代のニューヨークで活動した作家や、関連するテーマについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
ブルックリンで育った少年時代(1960年〜1970年代)
ジャン=ミシェル・バスキアは1960年12月22日、ニューヨークのブルックリンに生まれました。ザ・ブロードによれば、父はハイチ、母はプエルトリコにルーツを持つ家庭でした。ブルックリン美術館は、バスキアがブルックリン・ホスピタルで生まれたこと、そして6歳のときに母の手で同館のジュニア・メンバーに登録され、子どもの頃から美術館に通っていたことを紹介しています。
生まれ育った土地の美術館に、幼い頃から親しんでいたことは、のちの作品を考えるうえでも興味深い点です。ブルックリン美術館は後年、2005年に回顧展「Basquiat」を、2015年に「Basquiat: The Unknown Notebooks」を開いています。少年時代に通った美術館が、のちにその作家を紹介する場になったわけです。
ザ・ブロードの作家紹介によれば、バスキアは10代で家を離れ、マンハッタンの南部で暮らすようになりました。ノイズ・バンドで演奏し、絵を描き、さまざまな仕事で生計を立てていたといいます。
「SAMO©」の落書き(1970年代後半)
バスキアの名前が最初に知られるようになったのは、絵画ではなく、街の壁に書かれた短い言葉でした。
ザ・ブロードは、1970年代の終わりにバスキアがアル・ディアスとともに、謎めいた言葉の落書きで知られるようになったと説明しています。その落書きには「SAMO」というタグ(署名)が添えられていました。ザ・ブロードは例として、「Playing Art with Daddy’s Money(パパのお金で芸術ごっこ)」や「9 to 5 Clone(9時5時のクローン)」といった言葉を挙げています。
絵ではなく、皮肉のきいた短い文で街の人の目を引く。この「言葉で見る人を立ち止まらせる」やり方は、のちのキャンバスの作品にも引き継がれていきます。バスキアの絵の中には、単語や短い文、商品名のような言葉が、いつもたくさん書き込まれています。

タイムズ・スクエア・ショーと美術界への登場(1980〜1981年)
転機になったのは、1980年6月にニューヨークのタイムズ・スクエアで開かれたグループ展「タイムズ・スクエア・ショー(The Times Square Show)」です。ボストン美術館の年表によれば、アーティストの集団コラブ(Colab)が使われなくなった建物を借りて開いた大規模な展覧会で、百人あまりの作家が参加しました。参加者の一覧には「SAMO©(ジャン=ミシェル・バスキア)」の名前があり、同じ一覧にキース・ヘリングやジェニー・ホルツァー、キキ・スミスも並んでいます。
この展覧会について、批評家のジェフリー・ダイチは美術誌『Art in America』の評でバスキアを取り上げ、その作品を「デ・クーニングと地下鉄のスプレーの落書きを組み合わせた、強烈な一撃」と評しました(ボストン美術館の年表に引用された言葉の参考訳)。抽象表現主義の巨匠ウィレム・デ・クーニングの名前と、街の落書きを並べた言い方に、バスキアの絵の新しさが表れています。
同じ展覧会に参加していたキース・ヘリングも、地下鉄の駅で描いた絵から世界へ出ていった作家です。ヘリングの人生と作品については、以下の記事で詳しくご紹介しています。
翌1981年2月15日から4月5日には、ニューヨークのロングアイランド・シティにあるP.S.1で、ディエゴ・コルテスが企画した大規模なグループ展「New York/New Wave」が開かれました。ボストン美術館の年表によれば、バスキアの作品はキャンバスの作品を集めた大きな展示の中で目立つ位置に置かれ、グラフィティに関わる作家たちの作品と並んで、金属板にスプレーで描いた新作2点も出品されました。
同じ年の4月には、トライベッカのクラブ「マッド・クラブ」で、ファブ・5・フレディとフューチュラが企画した展覧会「Beyond Words」が開かれ、バスキアのほか、キース・ヘリングやケニー・シャーフも参加しました。ボストン美術館の年表は、この展覧会を、ダウンタウンの美術やクラブの文化と、ヒップホップのアーティストや音楽家が交わった重要な場面として紹介しています。
5月には、P.S.1でバスキアの作品を見たイタリアの画商エミリオ・マッツォーリが、モデナの画廊で初めての個展を開きました。ボストン美術館の年表によれば、これがバスキアの国際的なデビューで、ニューヨークの街から着想を得た絵画が並びました。
さらに同年、批評家ルネ・リカールが美術誌『Artforum』の1981年12月号に「The Radiant Child(光り輝く子ども)」という文章を発表します。ザ・ブロードは、この文章がバスキアを一気に有名にしたと説明しています。同館によれば、リカールはその中で「私たちはもはや芸術を集めているのではなく、個人を買っている」と書きました(参考訳)。同館は、この一文が、市場の力に動かされた1980年代の美術ブームの空気をよく表していると述べています。
ニューヨークの初個展とドクメンタ7(1982年)
1982年は、バスキアにとって飛躍の年でした。ボストン美術館の年表によれば、3月6日から4月1日まで、ソーホーのアニーナ・ノセイ・ギャラリーでニューヨーク初の個展が開かれ、批評の面でも成功を収めました。続く4月8日から5月8日には、ロサンゼルスのラリー・ガゴシアンの画廊で、西海岸で初めての個展が開かれています。
同じ年の6月19日から9月28日まで、ドイツのカッセルでは5年に一度の国際美術展「ドクメンタ7」が開かれました。ドクメンタの公式サイトによれば、芸術監督はルディ・フックスで、参加作家は182人でした。ボストン美術館の年表は、バスキアと、同じくグラフィティから出発したリー・キニョネスが、その182人の中で最も若い作家だったと記しています。キース・ヘリングもこのドクメンタ7に参加していました。
11月には、イースト・ヴィレッジのファン・ギャラリーが新しい広い会場の最初の展覧会として、バスキアの個展を開きました。ボストン美術館の年表によれば、出品作の多くは、キャンバスの四隅から木の桟が突き出た手づくりの枠に張られていて、絵画でありながら立体のような存在感を持っていたといいます。
ロサンゼルスと『Hollywood Africans』(1983年)
1983年、バスキアはロサンゼルスに長く滞在して制作しました。この年の3月から5月には、ホイットニー美術館の「1983年ビエンナーレ」にも参加しています。ボストン美術館の年表によれば、このビエンナーレにはキース・ヘリング、ジェニー・ホルツァー、バーバラ・クルーガー、シンディ・シャーマンらも参加していました。
1983年1月から2月には、ソーホーのトニー・シャフラジ画廊のグループ展「Champions」にも参加しています。ボストン美術館の年表によれば、新しい世代の作家の登場を告げる展覧会で、キース・ヘリング、ケニー・シャーフらも名前を連ねました。2月から3月には、アニーナ・ノセイ・ギャラリーで、バスキア初の版画のシリーズ『Anatomy』が、ラメルジーの絵画やドローイングと隣り合う形で発表されました。
『Hollywood Africans』(1983年)
ニューヨークのホイットニー美術館が所蔵する『Hollywood Africans』は、このロサンゼルス滞在中に描かれた作品です。黄色の地に、青と赤の線で描かれた3人の顔と、たくさんの言葉が書き込まれています。

ホイットニー美術館の解説によれば、この作品は、エンターテインメント業界におけるアフリカ系アメリカ人のステレオタイプに関わる図像や言葉を描いた一連の作品のひとつです。画面右側の3人の人物は、バスキア自身と、ニューヨークから一緒に来たラップ・ミュージシャンのラメルジー、画家のトキシックを描いたものだと説明されています。画面には、バスキアの誕生日を示す数字「12」「22」「60」も書き込まれています。
一方で、「Sugar Cane(サトウキビ)」「Tobacco(タバコ)」「What is Bwana?」といった言葉は、古いハリウッド映画で黒人の俳優に与えられた役柄が限られていたことを示すものだと、同館は説明しています。自分たちの姿と、映画の歴史に刻まれた偏りとを、ひとつの画面に並べた作品といえます。
この作品では、いくつかの言葉に横線が引かれています。ホイットニー美術館は、バスキアが言葉を消す理由について語った言葉を紹介しています。「言葉を消すのは、もっとよく見てもらうためだ。隠されていると、かえって読みたくなる」(同館の解説に引用された本人の言葉の参考訳)。
ホイットニー美術館の公式YouTubeチャンネルでは、同館の作品を扱うスタッフが『Hollywood Africans』を展示室に設置する様子を、短い動画で公開しています。
『Horn Players』(1983年)
同じ1983年の『Horn Players』は、ロサンゼルスのザ・ブロードが所蔵する作品です。黒い地の3枚のキャンバスが並び、左右の画面に楽器を持った人物、中央に大きな頭部と、繰り返し書かれた名前や言葉が描かれています。

ザ・ブロードの解説によれば、この絵は偉大なホーン奏者チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーへの敬意を表した作品です。左はアルト・サックスを持つパーカー、右はトランペットを持つガレスピーで、ふたりはジャズの歴史に残る演奏スタイル「ビバップ」を代表する音楽家です。中央の画面には、パーカーが1946年に録音した名曲「Ornithology(オーニソロジー)」への言及があります。
同館は、バスキアが熱心なジャズの聴き手であり、自身も音楽家だったことに触れ、この作品が即興的な描き方とジャズの作曲との関係を示していると説明しています。曲の土台にはリズムや構造があり、その上をメロディーが自由に動き回る。バスキアの画面でも、言葉や図の配置という土台の上を、激しい筆の跡が跳ね回っています。
『Eyes and Eggs』(1983年)
ザ・ブロードは、同じく1983年の『Eyes and Eggs』も所蔵しています。白い地の上に、コックの帽子をかぶった黒い顔の人物が大きく描かれ、胸には「JOE」という名札が書かれています。画面の左に差し出したフライパンには、赤い黄身の目玉焼きがふたつ載っています。

ザ・ブロードの作品情報によれば、技法はアクリル、オイルスティック、紙のコラージュで、支持体はキャンバスではなく、綿の布(ドロップ・クロス)です。画面には金属の蝶番も付いていて、縦約3メートル、横約2.5メートルの大きな作品です。身近な素材を使い、日常の一場面を大きく描いたこの作品は、バスキアの絵が街の暮らしの中から生まれていたことを感じさせます。
アンディ・ウォーホルとの共同制作(1984〜1985年)
1984年から1985年にかけて、バスキアはポップ・アートの巨匠アンディ・ウォーホルと共同で作品をつくりました。
マドリードのソフィア王妃芸術センターは、2002年の展覧会の解説で、そのはじまりを次のように説明しています。共同制作の相手として、バスキアはジュリアン・シュナーベルではなく、以前から親しかったイタリアの画家フランチェスコ・クレメンテを推しました。こうして3人による15点の作品が生まれ、1984年9月、スイスのチューリヒにあるビショフベルガー画廊の展覧会「Collaborations」で発表されました。当時、ウォーホルは56歳、クレメンテは32歳、バスキアは23歳でした。
同センターによれば、3人はそれぞれ別々にキャンバスに描き、次の作家に渡して描き足すという方法をとりました。図像や様式、大きさについて相談しなかったにもかかわらず、できあがった作品はひとつの大きな計画の一部のように見えたといいます。
その後もウォーホルとバスキアは、ふたりで大きなキャンバスの共同制作を続けました。同センターは、ウォーホルがバスキアの勧めで再び手で絵を描くようになり、バスキアはウォーホルの影響でシルクスクリーンを作品に取り入れはじめたと説明しています。共同制作の作品は1985年、ニューヨークのトニー・シャフラジ画廊の展覧会で発表されました。同センターは、この展覧会への『ニューヨーク・タイムズ』の評が、ふたりが距離を置く大きな理由のひとつになったとも記しています。
この時期、バスキアは美術館での展示の機会も広げていきます。ボストン美術館の年表によれば、1984年5月にはソーホーの有力な画廊メアリー・ブーンで個展を開き、同年8月からはスコットランドのエディンバラにあるフルーツマーケット・ギャラリーで、初めての美術館での個展が始まりました。この展覧会はロンドンのICA、ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館へと巡回しています。1985年には、カリフォルニア大学バークレー校の美術館で個展が開かれました。同じ年表は、これがアメリカの美術館で開かれた初の個展であり、生前に開かれた唯一のものだったと記しています。
文字と記号で描く方法
バスキアの絵を前にすると、まず目に入るのは、画面を埋めるたくさんの文字と記号です。ザ・ブロードは、バスキアの作品の多くがジャズの即興的で広がりのある作曲にたとえられてきたと説明しています。主題は画面の上にいくつもの言及として積み重なり、勢いのある筆の跡、記号、目録、一覧、図などのパターンとして現れるといいます。
同館によれば、バスキアの作品に描かれたイメージの多くは、二重、三重の意味を持っています。本人が語ったものもあれば、意味を定めずに見る人の解釈にゆだねたものもあります。バスキアは、思いがけないイメージと言葉のぶつかり合いや、押し寄せる大量の情報を好んだと、同館は書いています。

描かれる主題について、森アーツセンターギャラリーは2019年の展覧会の紹介で、バスキアがジャズやヒップホップ、アフリカの民俗や人種問題など、黒人画家ならではの主題を扱ったと説明しています。ザ・ブロードもまた、バスキアが自分の受け止められ方に潜む人種差別に強い自覚を持ち、自分を称賛しながら特別扱いもする美術界への批評を作品に織り込んだと述べています。同時に、バスキアの作品は黒人の美術、音楽、詩の歴史や、日々の暮らしの伝統を讃えるものでもあると、同館は書いています。
『Horn Players』のジャズの音楽家たち、『Hollywood Africans』の映画の歴史、『Eyes and Eggs』の働く人の姿。画面に書かれた言葉を一つずつ読んでいくと、バスキアが何に敬意を払い、何に疑問を投げかけていたのかが少しずつ見えてきます。
1988年の死去と、その後の評価
バスキアは1988年、27歳で亡くなりました。森アーツセンターギャラリーは、その活動期間を「わずか10年」と紹介しています。
その後、評価はさらに高まっていきます。1992年10月23日から1993年2月14日には、ホイットニー美術館で回顧展「Jean-Michel Basquiat」が開かれました。故郷のブルックリン美術館も、2005年に回顧展を、2015年にはバスキアのノートに焦点を当てた「Basquiat: The Unknown Notebooks」を開いています。
市場での評価を象徴するのが、2017年5月18日にニューヨークのサザビーズで開かれたオークションです。サザビーズによれば、1982年の作品『Untitled』が1億1,050万ドルで落札され、アメリカの作家の作品として、また1980年以降に制作された作品として、オークションで支払われた最高額になりました。サザビーズの記事は、購入者が、通販サイト「ZOZOTOWN」を手がけるスタートトゥデイの創業者、前澤友作氏であったことも伝えています。
この『Untitled』(1982年)は、アクリル、スプレー塗料、オイルスティックでキャンバスに描かれた、縦183.2センチ、横173センチの作品です。ブルックリン美術館は、王冠をいただいた幽霊のような頭部が、ほかの作品と比べても際立つ激しい筆づかいで描かれていると説明しています。同館は2018年1月26日から3月11日まで、この1点だけを紹介する展覧会「One Basquiat」を開き、これがこの作品の美術館での初めての展示になりました。
日本では2019年9月21日から11月17日まで、東京・六本木の森アーツセンターギャラリーで「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」が開かれました。同ギャラリーによれば、バスキア研究で知られるディーター・ブッフハート氏が、バスキアと日本との多方面にわたるつながりや、日本の歴史や文化が創作に与えた影響を明らかにする展覧会で、世界各地から集めた約130点で構成された、日本で初めての本格的な展覧会でした。出品作の一覧には、前澤友作氏のコレクションの『Untitled』(1982年)も含まれていました。展覧会の公式サイトは、56日間で197,604人が来場したと伝えています。
まとめ
いかがだったでしょうか。ジャン=ミシェル・バスキアの人生と作品について、ご紹介してきました。
バスキアは1960年にブルックリンで生まれ、1970年代の終わりに「SAMO©」の落書きで知られるようになりました。1980年のタイムズ・スクエア・ショーで美術界の注目を集め、1982年にはニューヨークで初の個展を開き、ドクメンタ7に参加しました。1983年にはロサンゼルスで『Hollywood Africans』を描き、1984年から1985年にはアンディ・ウォーホルと共同制作を行っています。
活動した期間は10年ほどでしたが、ザ・ブロードによれば約1,000点の絵画と約2,000点のドローイングを残しました。没後もホイットニー美術館やブルックリン美術館で回顧展が開かれ、2017年のオークションでは記録的な価格がつきました。
バスキアの絵には、ジャズの音楽家への敬意、映画の歴史への問い、街の暮らしの一場面が、言葉と記号になって書き込まれています。消された言葉や繰り返される名前を一つずつ追っていくと、勢いのある画面の奥にある考えが見えてきます。機会があれば、ぜひ美術館で、画面の文字を読みながら作品を眺めてみてください。
Euphoric " " の視点
バスキアの画面に書き込まれた言葉や記号は、ジャズの音楽家への敬意や、映画の歴史への問いを運ぶものでした。街の壁に「SAMO©」の短い言葉を残していた時代から、画廊や国際美術展へと場を移しても、言葉を重ね、ときに線を引いて消して見せる方法は一貫しています。
活動したのは10年ほどでしたが、約1,000点の絵画と約2,000点のドローイングが残され、没後も美術館で回顧展が開かれてきました。勢いのある筆の跡だけでなく、書き込まれた名前や文字を一つずつ読むことで、作品はより多くのことを語りはじめます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






