こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは菊竹清訓という人物をご存知ですか?
戦後の日本を代表する建築家のひとりで、4枚の壁で空中に持ち上げた自邸スカイハウス、出雲大社の庁の舎、鳥取県米子市のホテル東光園、東京の江戸東京博物館などを設計した人物です。建築や都市を、完成して終わるものではなく、時代に合わせて部分を取り替えながら生き続けるものとしてとらえ、その考えを「メタボリズム」という建築運動の仲間たちと世界に向けて発信しました。
本記事ではそんな菊竹清訓の人生と作品を、菊竹自身の仕事と設計の考え方を中心にご紹介します。
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菊竹清訓(きくたけ きよのり)は、1928年に福岡県久留米市で生まれた建築家です。早稲田大学で建築を学び、25歳で自分の設計事務所を開きました。住宅や美術館、ホテル、市民会館、博覧会の施設、そして海の上に都市をつくる構想まで、小さなものから大きなものまで幅広く手がけています。
菊竹の特徴は、建物を一度つくって終わりにせず、「どの部分が長く残り、どの部分が取り替えられるのか」を設計の最初に考えた点にあります。本記事では、東京文化財研究所の『日本美術年鑑』、島根県立美術館が2021年の展覧会「菊竹清訓 山陰と建築」にあわせて公開した図録、島根県立美術館・九州国立博物館・江戸東京博物館の公式サイト、文化庁の文化遺産オンライン、日本建築学会の要望書などをもとに、その歩みを整理します。
基本情報
| 本名 | 菊竹清訓(Kiyonori Kikutake) |
| 生年月日(没年月日) | 1928年(月日は本記事の出典で確認できていません)〜2011年12月26日(83歳没) |
| 国籍・出身 | 日本/福岡県久留米市 |
| 学歴 | 早稲田大学で建築を学び、1950年に理工学部建築学科を卒業。1995年に「軸力ドームの理論とデザイン」で早稲田大学より工学博士の学位を取得 |
| 分野 | 建築、都市構想、建築理論 |
| 傾向 | メタボリズム(新陳代謝する建築と都市)。設計の理論「か・かた・かたち」 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 村野藤吾(村野・森建築設計事務所に勤務)。出雲大社本殿の空間。ルイス・カーンとは世界デザイン会議の際に設計の方法について議論した。弟子筋に伊東豊雄、長谷川逸子、内藤廣ら |
同じ時代の建築家を扱った、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。
経歴と作品
まず、菊竹の歩みを大きくつかんでおきましょう。年は、『日本美術年鑑』と、島根県立美術館・江戸東京博物館の公式情報で確認できるものです。

久留米に生まれ、早稲田で建築を学ぶ
『日本美術年鑑』によると、菊竹は1928年に福岡県久留米市で生まれました。1944年に早稲田大学専門部工科建築学科に入学し、1950年に同大学の理工学部建築学科を卒業しています。島根県立美術館の図録は、菊竹がもともとは医者になりたかったと語っていたこと、早稲田の電気学科に進んでいた兄の勧めで、絵の才能を生かせる建築学科に入ったことを紹介しています。
学生のころから、菊竹は設計競技に応募して頭角を現しました。学部2年のときに応募した広島平和記念カトリック聖堂の設計競技(1948年)では、尖塔を持つ鉄筋コンクリート造の教会堂を中心に、将来の更新を想定した木造の付属棟を広場の周囲に並べる案を出し、3等に入選しています。図録によれば、このときは丹下健三に次ぎ、前川國男と並んでの3等でした。更新を前提にした配置は、のちのメタボリズムを予感させるものと紹介されています。
卒業後の歩みについて、『日本美術年鑑』は、竹中工務店、村野・森建築設計事務所に勤めたのち、1953年に自分の設計事務所を設立したと記しています。島根県立美術館の公式サイトは、1953年に25歳で菊竹建築研究所を設立したと説明しています。図録によると、この事務所は1962年に菊竹清訓建築設計事務所と名前を改めました。
木造を解体して組み立て直す経験、石橋文化センター
独立したばかりの菊竹に多くの仕事を依頼したのが、同郷でブリヂストンタイヤの創業者である石橋正二郎でした。図録によると、石橋は駆け出しの建築家だった菊竹に、木造建物の解体と再利用の仕事を数多く頼んでいます。
そのひとつが永福寺幼稚園(1956年)です。もとは工場の研究室として使われていた木造平屋の建物を解体し、幼稚園に使い直したものでした。サイズの異なる既存の木製建具をそのまま生かし、園庭側の出入口に、大人も通れる戸口と、子どもしか出入りできない小さな戸口を交互に取り付けています。図録によれば、菊竹は大学では教わらなかったこの仕事に最初は戸惑ったものの、部材の扱いに慣れるにつれて、日本の伝統的な木造建築が、将来の増改築や移築をしやすくするための「とりかえ」のしくみを持っていることを理解していきました。この経験が、のちに建築や都市を新陳代謝するものとして考えるメタボリズムへ発展していった、と図録は説明します。
同じ1956年には、久留米の総合文化施設石橋文化センターの中核となる美術館(現・久留米市美術館)が開館しました。図録によれば、建物は高床形式の2階建てで、正面に大階段を構え、主要な部屋を2階に置いています。菊竹はこのとき28歳でした。内外装は大きく改変されていますが、現存する菊竹の建築としては最初期のものだと図録は記しています。
『スカイハウス』(1958年)
菊竹の名を建築界に広く知らせたのが、東京の音羽通り近くの傾斜地に建てた自邸『スカイハウス』(1958年)です。『日本美術年鑑』は、4枚のコンクリート壁で空中に持ち上げられた正方形の基本空間に、生活の変化に応じてさまざまなユニットや設備を着脱するという建築像を示して注目を集めた、と述べています。日本におけるDOCOMOMO150選にも選ばれています。
図録の解説をもとに、建物の仕組みを見てみましょう。内部は柱のない正方形のワンルームで、四間四方(7.2m×7.2m)の主室のまわりに、幅1.5mの回廊がめぐります。屋根は、双曲放物面と呼ばれる曲面を4枚合わせた独特の形です。主室の障子と、回廊の雨戸に組み込まれた無双窓(動かせるスリット窓)で、光や風を調整します。

主室のまわりには、キッチンや浴室などの設備ユニットが回廊に突き出すように取り付けられました。菊竹が「ムーブネット」と名づけたこの設備は、工場で量産し、家族構成や暮らし方の変化に合わせて「とりかえ」られる装置として考案されたものです。図録によれば、スカイハウスに付けられたものは試作の域にとどまりましたが、研究開発を経て1963年に日立化成工業などで量産が始まり、今日のシステムキッチンやユニットバスの先駆けになったと解説されています。
このあとも、子ども部屋のムーブネットを主室の床から吊り下げるなど、階下のピロティ空間を中心に増改築が重ねられました。図録は、スカイハウスが菊竹の晩年に至るまで、メタボリズム理論を試す場であり続けたと記しています。なお、図録の刊行時(2021年)には、この家は個人の住宅として住み継がれていて、一般の見学はできないと書かれています。
出雲大社との出会いと『島根県立博物館』(1958年)
石橋文化センターの美術館に強く惹かれた人物が、島根県の山林大地主の家の当主で、のちに島根県知事となる田部長右衛門でした。図録によると、田部は松江に県立の博物館をつくる計画を進めており、各地の美術館を視察する中でこの建物を気に入り、まだ30歳に満たない菊竹に設計を打診します。1957年5月の建設促進委員会で、設計者として菊竹が正式に決まりました。
設計のために島根を訪れた菊竹は、出雲大社に案内されます。図録の論考は、出雲大社の本殿を初めて実際に見た菊竹が、「あまりに感激が大きくて、一夜まんじりともしなかった」ほどだったと紹介しています(注によれば、のちに田部が語った話です)。論考によると、菊竹はのちに、出雲大社の本殿を、人間とのつながりを残した「きわめておおらかな空間」であり、完結して固定した空間ではなく変化を受け入れる空間だと論じ、これを「伝承空間」と名づけました。島根県立美術館の開館時に開いた自身の展覧会のあいさつでも、菊竹は「出雲大社で考えたことが原点となった」と書いています。
こうして生まれた『島根県立博物館』(1958年竣工。現・島根県庁第三分庁舎)は、菊竹が山陰で最初に手がけた建築です。図録によれば、白い箱状の2階部分(展示室)を、コンクリート打ち放しの柱で高く持ち上げています。外壁の色は白と黒を基調にして、県庁の庭園を挟んで向かい合う松江城まわりの歴史的な景観との調和を図りました。大手前通り側の2階には、回転させて明るさや換気量を調整できる矢羽根状の可動格子「ルーバーウォール」があります。これは、田部が求めた自然採光、自然換気の博物館に応えたものでした。空中に浮かんだ高床式倉庫のような外観は、スカイハウスや後の作品にもたびたび現れる、と図録は述べています。
『出雲大社 庁の舎』(1963年)
菊竹の名を国の内外に広めた作品が、出雲大社の境内に建てた社務所兼宝物館の『出雲大社 庁の舎』(1963年)です。復興奉賛会の会長を務めた田部の推薦で、菊竹が設計を任されます。図録によれば、新しい庁の舎は、神域の中では初めて鉄筋コンクリート造で建てられました。
デザインの鍵になったのは、菊竹の生家の米倉でした。日本建築学会の見解は、久留米の大地主だった生家の倉と、出雲大社本殿の間取りが似ていることから、菊竹が本殿の原型は米倉だと直観し、刈り取った稲を干す「稲はで」を庁の舎のモチーフにした、と説明しています。図録も、菊竹が出雲大社の本殿を「米倉のシンボル」と解釈したと記します。
構造にも工夫があります。日本建築学会の見解と図録によれば、橋の工事に使われるプレストレストコンクリートの工法を応用し、柱と柱の間が40m以上ある長い梁を架け渡して、その下を柱のない自由な空間にしました。建物は、長い年月にわたって全体を支える主要な骨組みと、そこに寄せかけられた繊細なコンクリートのルーバーに分かれています。前者は、鉄筋に対するコンクリートの被り厚を100mm(通常は50mm程度)にするなど、高い耐久性を持たせました。後者は、劣化や用途の変化に応じて取り替えられるよう、工場でつくった組み立て式の部材になっています。
階段状のルーバーは、表面に雨水をためながら、順々に下の段へ水を落とすようにつくられています。日本建築学会の見解は、これを日本の水田を表したものであると同時に、段状に積み重ねた「人工土地」のひな型と見ることができると述べています。妻面の壁には、彫刻家の流政之が図案を手がけたコンクリート製の稲穂のレリーフが貼られました。
この作品によって、菊竹は日本建築学会賞(作品)、芸術選奨文部大臣賞、米国建築家協会の汎太平洋賞を受けました。『日本美術年鑑』は、日本におけるDOCOMOMO100選にも選ばれていると記しています。1995年には、長く使い続けられている建物を表彰するBELCA賞のロングライフ・ビルディング部門も受けました。
一方で、この建物には課題もありました。日本建築学会の見解は、建設当時から雨漏りに悩まされてきたことを指摘しています。2016年3月、日本建築学会は出雲大社の宮司にあてて、建て替えが検討されていると聞いたとして、改修による保存と活用を求める要望書を出しました。その後の現状について、島根県立美術館の2021年の図録は、庁の舎を「現存せず」と記しています。
『ホテル東光園』(1964年)
菊竹の建築の中でも、見た目のインパクトが際立つのが、鳥取県米子市の皆生温泉に建つ『ホテル東光園』(1964年)です。図録によると、1964年の全国植樹祭で宿泊所に選ばれたことをきっかけに、本館の建て替えが行われました。庭を手がけていた彫刻家の流政之と親しかった菊竹が、島根県立博物館の現場を訪れる際に東光園に泊まっていた縁で、設計を任されたといいます。

文化遺産オンラインと鳥取県教育委員会の資料によると、建物は鉄骨鉄筋コンクリート造で地下1階、地上7階建てです。地上から立ち上がる6本の主柱が7階部分を支え、そこから5・6階の客室の階を吊り下げています。米子市の解説では、この柱には、厳島神社の鳥居にも見られるような添え柱が3本付いているとされています。図録も、その姿が国宝・厳島神社の海中に立つ大鳥居を思わせると述べています。

図録の解説をもとに、吊り下げの仕組みを少し詳しく見てみましょう。客室の階(5・6階)は、最上階の大梁から、直径わずか16〜24mmの高強度の鋼材(PC鋼棒)で、約4m間隔に吊り下げられています。細い鋼棒は化粧材で覆われると、内装の木材とほとんど見分けがつかなくなります。この工法により、客室の中からコンクリートの巨大な柱型が消え、和室らしい繊細な意匠と寸法が保たれました。すぐ下の4階は、上の階を吊っていて下に柱が1本もないことを見せるかのように、全面が空中庭園とされています。
文化遺産オンラインは、この建物を2017年10月27日に登録有形文化財(建造物)に登録されたものとして掲載し、「メタボリズム建築の集大成」と解説しています。米子市の解説は、菊竹が自邸スカイハウスで提案した吊り下げの手法を用い、日本の木造建築の伝統を近代的な材料で大胆に表したものだと説明しています。
設計の考え方「か・かた・かたち」
1960年ごろから、菊竹は「設計とは何か」という問いに向き合い、自分なりの方法論を組み立て始めます。図録は、スカイハウスや島根県立博物館など、それまでに設計した建築を振り返り、「何から出発して、どういう問題をとりだし、どこで検討したか」を考えたと説明しています。きっかけのひとつは、要求のはっきりつかめない建築だった庁の舎の設計の難しさで、それを切り抜けるために考えたのが設計の方法だったと、菊竹自身が語っているそうです。
菊竹は設計を、三つの段階でとらえました。構想の段階の「か」、実体的な構造を明らかにする技術の段階の「かた」、形態の段階の「かたち」です。それぞれの段階で、異なる問題を異なる角度から検討することで、設計が豊かになり、よい解決が得られると考えました。設計を進める道筋(実践のプロセス)は「か、かた、かたち」の順で、物事を認識していく順序はその逆の「かたち、かた、か」だと、菊竹は定めています。

この方法論は、1961年に雑誌『建築』に載せた「設計仮説」で最初に発表されました。1963年の国立国際会館(京都)の設計競技では、事務所全体がこの方法論で設計を進めました。195点の応募のうち、菊竹案は最優秀の大谷幸夫案に次ぐ優秀作品に選ばれ、実現はしませんでしたが、審査報告書は「全応募作品中最大の問題作」と評したと、図録は紹介しています。方法論をまとめた著書『代謝建築論 か・かた・かたち』は、1969年に彰国社から出版されました。『日本美術年鑑』は、菊竹の考えが、1963年の文章の一節「建築は代謝する環境の装置である」に集約されていると述べています。
「残る部分」と「変わる部分」を分ける
菊竹の設計を貫く考え方は、建物の中で長く残す部分と、取り替える部分を、最初から分けて考えるというものでした。庁の舎はその代表例です。日本建築学会の見解とBELCA賞の審査評によると、大きな架構の柱と梁は恒久的なもの、プレキャストコンクリートの間柱と横桟は更新できるものとして、耐久性を分けてデザインされています。
1966年に完成した『都城市民会館』(宮崎県都城市)も同じ発想でつくられました。図録によると、建築のもっとも基本的な空間である下部構造は「残る部分」として鉄筋コンクリートで築き、「変わる部分」である屋根や窓枠は、鉄や木といった取り替えやすい素材で構成しています。中央に杭を集めて放射状の門型の骨組みをのばし、屋根を吊るという独特の構造でした。この建物については、『日本美術年鑑』の「美術界年史」に、2019年2月に旧都城市民会館の解体方針が発表されたと記録されています。図録は「現存せず」としています。

この考え方は、後の江戸東京博物館でも使われました。図録によると、展示室と収蔵庫がある上部空間を博物館の本質的な「残る部分」、ピロティや1階などの下部空間を、社会の要求に応じて「変わる部分」と位置づけています。
メタボリズムと、海の上、塔の上の都市構想
菊竹のメタボリズムへの関わりを、簡単に整理しておきます(運動そのものの成り立ちは、黒川紀章の記事に詳しくあります)。『日本美術年鑑』によれば、菊竹は1959年にかけて、スカイハウスの考え方を都市の規模に広げた「海上都市」「塔状都市」の構想を雑誌『国際建築』で発表しました。そして1960年に東京で開かれた世界デザイン会議を機に、批評家の川添登が呼びかけて若い建築家らが結成したメタボリズム・グループに参加します。島根県立美術館の図録は、メタボリズムの英訳を考えたのは菊竹だと伝えられていること、このとき出た書籍『METABOLISM/1960 都市への提案』では、菊竹の海洋都市が大きな部分を占めたことを記しています。
図録の説明では、塔状都市は、人口が急増する都市部の土地不足による住宅問題に答える構想でした。垂直の壁面が、土地の所有権の問題を乗り越える「人工土地」になるというものです。海上都市は、工場によって破壊される臨海部を守るという問題に答える構想で、菊竹は1958年から、さまざまな形で何度も構想を重ねました。1971年にはハワイ大学から招かれ、ハワイで計画されていた博覧会のための海上都市の計画に、専門家グループの一員として参加しています。
こうした構想を、菊竹は実際の博覧会で形にしていきました。図録によれば、1970年の大阪万博では丹下健三が組織したプロデューサー・グループの一員となり、塔状都市の発展形としてエキスポタワーを実現します。1975年の沖縄国際海洋博覧会では、海上都市の発展形として、世界初の海に浮かぶパビリオンアクアポリスの基本設計を行いました。その後も、つくば万博(1985年)ではBブロックの総合プロデューサーとして外国展示館を設計し、なら・シルクロード博(1988年)ではハード・プロデューサーを務め、2005年の愛・地球博では総合プロデューサーとして、会場のマスタープランを手がけています。図録は、こうした活躍から、菊竹を「ミスター博覧会」と見出しで紹介しています。
山陰と各地の公共建築
菊竹は、山陰に多くの建築を残しました。図録によると、島根県立博物館、庁の舎、東光園に加え、島根県立図書館(1968年)、島根県立武道館(1970年)、田部美術館(1979年)、境港マリーナホテル(1985年)、島根県立美術館(1998年)などがあります。島根県庁周辺の整備計画は、松江城まわりの歴史的な景観との調和をテーマに進められ、1970年に日本建築学会賞(業績)を受けました(設計には菊竹のほか安田臣も起用されています)。
島根県立図書館は、松江城の堀川に面して建ち、打ち放しコンクリートの外壁がジグザグに連なる外観が特徴です。図録によれば、菊竹が「図書館の“かた”」と名づけたL字型の閲覧室を、堀川沿いにつなげていくことでこの形になりました。窓の外に設けた壁は、ガラス面に対して45度の角度で付けられています。閲覧室から城山を眺めるとき、壁がもっとも視線の邪魔にならない角度として導いたものです。島根県立武道館では、建物の短い方向ではなく、神棚に向かって長い方向に、柱の間隔が40m以上あるトラス梁を2本架けました。菊竹はこれを「装置梁」と呼び、照明や音響の設備を自由に取り付けられるようにしています。
山口県萩市の『萩市民館』(1968年)では、図録によると、建築の中心に「母屋」、そのまわりに副次的な「下屋」を置き、ロビーとホールの大きな空間を「情報天蓋」で覆いました。天蓋は白い塗装の鉄板で、船を思わせます。
江戸東京博物館、島根県立美術館、九州国立博物館
1990年代以降の菊竹は、大型の公共建築が目立つようになります。『日本美術年鑑』は、江戸東京博物館(1993年)、島根県立美術館(1999年)、九州国立博物館(2005年)を挙げています。
『江戸東京博物館』は、江戸東京博物館の公式サイトの沿革によると、1987年9月に設計候補者として菊竹清訓建築設計事務所が選ばれ、1993年3月28日に開館しました。図録は、菊竹、黒川紀章、佐藤総合計画の3者が参加したプロポーザルで菊竹の計画が選ばれたと記しています。主となる常設展示室とその下の収蔵庫を積み重ねた上部空間と、ロビーや企画展示室などの下部空間を、4本の柱とエスカレーターで結ぶ構成です。菊竹は、主となるひとつの展示室を持ち上げたこの構成を「積層一室型」と呼び、島根県立博物館と同じ「かた」だと考えました。

公式サイトの施設概要では、最高高さは62.2m、地下2階・地上7階です。公式サイトの問い合わせ回答によると、菊竹は雑誌『新建築』のインタビューで、江戸城の天守が62mあったといわれていることに合わせて高さを決めたと語っています。ただし、特定の時期の天守を模したわけではなく、あくまでモチーフだと、公式サイトは説明しています。この館は、2022年4月から大規模改修工事のため休館し、2026年3月31日にリニューアルオープンしました。
『島根県立美術館』(宍道湖畔)は、公式サイトの沿革によると、1995年4月に設計競技で菊竹清訓建築設計事務所の案が最優秀作品に決まり、1996年10月に着工、1998年6月に本体工事が竣工し、1999年3月6日に開館しました。公式サイトは、建物の形を、水面と大地をつなぐ「なぎさ」をイメージしたものだと説明しています。チタン製の大屋根は日光をやわらかく反射し、対岸から見るときに背後の山並みを遮らないよう、高さが低く抑えられました。屋根の円い開口部は展望テラスです。

図録は、屋根が汽水湖である宍道湖の塩分を含む環境に配慮して耐候性の高いチタンで覆われていること、企画展示室には展望デッキのトップライトから自然光を取り入れられ、照度センサーと連動した電動ルーバーで光量を自動調整できることを紹介しています。菊竹が晩年まで一貫して自然採光にこだわり続けた姿勢が現れていると、図録は記しています。
『九州国立博物館』(福岡県太宰府市)は、公式サイトによると、菊竹清訓建築設計事務所と久米設計の共同設計で、設計期間は1999年9月から2001年3月、施工期間は2002年3月から2004年3月です。建物は160m×80mの長方形でかまぼこ型をしており、屋根の最も高い所は36mに達します。屋根は、チタンを使った金属プレートの工法で仕上げられています。

教える人として、そして晩年
『日本美術年鑑』によると、菊竹は千葉工業大学教授、早稲田大学客員教授などとして後進の指導にもあたりました。菊竹の事務所からは、伊東豊雄、長谷川逸子、内藤廣ほか、現在の日本を代表する建築家が多く育っていることも特筆に値する、と年鑑は述べています。日本建築家協会の副会長、日本建築士会連合会の会長なども務めました。
受けた賞は、庁の舎での受賞のほかにも数多くあります。『日本美術年鑑』によれば、1978年にUIA(国際建築家連合)のオーギュスト・ペレー賞の作品部門と方法論部門、1979年に毎日芸術賞、2006年には早稲田大学芸術功労者賞を受けています。同じ2006年に勲三等旭日中綬章を受章しました。海外からも、1971年に米国建築家協会の特別名誉会員、1994年にフランス建築アカデミーの会員に迎えられています。
菊竹清訓の作品を一覧で
ここまでに紹介した主な作品を、年の順に並べます。「ひとこと」の欄は、本記事で確認できた出典に書かれている範囲だけを記しています。
| 年 | 作品 | 所在地 | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 1956年 | 石橋文化センター・美術館(現・久留米市美術館) | 福岡県久留米市 | 高床形式の2階建て。内外装は改変されている |
| 1958年 | スカイハウス | 東京都文京区 | 4枚の壁で持ち上げた自邸。個人の住宅(2021年の図録時点) |
| 1958年 | 島根県立博物館(現・島根県庁第三分庁舎) | 島根県松江市 | 山陰で最初の作品。可動格子のルーバーウォール |
| 1963年 | 出雲大社 庁の舎 | 島根県出雲市 | 稲はでがモチーフ。2021年の図録は「現存せず」と記す |
| 1964年 | ホテル東光園 | 鳥取県米子市 | 6本の主柱から客室階を吊る。登録有形文化財(2017年登録) |
| 1966年 | 都城市民会館 | 宮崎県都城市 | 放射状の門型の骨組みで屋根を吊る。図録は「現存せず」と記す |
| 1968年 | 萩市民館/島根県立図書館 | 山口県萩市/松江市 | 情報天蓋/45度の壁とL字型の閲覧室 |
| 1970年 | エキスポタワー(大阪万博) | 大阪府 | 塔状都市の発展形 |
| 1975年 | アクアポリス(沖縄国際海洋博覧会) | 沖縄県 | 海上都市の発展形。世界初の海に浮かぶパビリオン |
| 1979年 | 田部美術館 | 島根県松江市 | 耐候性鋼板の大屋根 |
| 1981年 | 出雲大社 神祜殿 | 島根県出雲市 | 反り棟の銅板葺き屋根 |
| 1993年 | 江戸東京博物館 | 東京都墨田区 | 積層一室型。最高高さ62.2m |
| 1999年 | 島根県立美術館 | 島根県松江市 | 宍道湖の「なぎさ」。チタンの大屋根(開館年。本体工事の竣工は1998年) |
| 2005年 | 九州国立博物館 | 福岡県太宰府市 | 久米設計との共同設計。かまぼこ型の大屋根 |
まとめ
いかがだったでしょうか。菊竹清訓は、建物を完成した姿で固定せず、「残る部分」と「変わる部分」を分けて、時代に合わせて取り替えながら生き続ける建築を考えた建築家でした。その出発点には、石橋文化センターの時代の木造の解体と再利用の経験や、出雲大社本殿との出会いがありました。
スカイハウスの設備ユニット、庁の舎の長い梁と取り替えられるルーバー、東光園の吊り下げられた客室、江戸東京博物館の持ち上げられた展示室など、どの作品にも「この部分は残し、この部分は変えられる」という設計の考えが見て取れます。江戸東京博物館や島根県立美術館、九州国立博物館、ホテル東光園は、今も訪れることができる建築です。屋根の形や、建物が地面から離れている様子を、ぜひ意識して見てみてください。
Euphoric " " の視点
菊竹清訓の設計の方法「か・かた・かたち」のきっかけのひとつは、要求のはっきりつかめない建築だった庁の舎の設計の難しさでした。それを切り抜けるために考えたのが設計の方法だったと、菊竹自身が語っているそうです。図録によれば、菊竹は、スカイハウスや島根県立博物館など、それまでに設計した建築を振り返り、「何から出発して、どういう問題をとりだし、どこで検討したか」を考えました。
1963年の国立国際会館の設計競技では、事務所全体がこの方法論で設計を進めます。菊竹案は優秀作品に選ばれ、実現はしませんでしたが、審査報告書は「全応募作品中最大の問題作」と評しました。
答えの見えない仕事に出会ったとき、新しい答えを探す前に、自分がたどってきた道筋を言葉にしてみる。その手順は、ひとりの思考を事務所全体で共有できる道具にもなりうると考えます。難しさは、方法を生む入口にもなるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






