こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは小林清親という人物をご存知ですか?
明治時代に活躍した浮世絵師で、江戸の本所に生まれ、幕臣として幕末の動乱を経験したのち、錦絵に生活の道を見いだしました。1876年(明治9年)に始めた『東京名所図』シリーズは、夕暮れや夜の光と影を木版画で描き出し、「光線画」と呼ばれて浮世絵界に新しい風を吹き込みました。その後も風刺画、歴史画、日清・日露戦争の錦絵、挿絵、肉筆画と、時代の求めに応じて画題を広げ、「最後の浮世絵師」とも呼ばれています。
本記事ではそんな小林清親の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 小林清親(こばやし きよちか)。幼名は勝之助。号は方円舎清親、真正楼 |
| 生年月日(没年月日) | 1847年9月10日(弘化4年8月1日)〜1915年11月28日(大正4年)(満68歳没) |
| 国籍/出身 | 日本 江戸の本所御蔵屋敷(現在の東京都) |
| 学歴 | 不詳(学校教育の記録は確認できていません。洋画・写真・日本画を複数の人物から学んだと伝えられています) |
| 分野 | 浮世絵版画(錦絵)、風刺画、挿絵、肉筆画 |
| 傾向 | 夕暮れや夜の光を描いた風景版画「光線画」で知られます。のちに風刺画、歴史画、戦争錦絵へ画題を広げました |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 伝えられる師はチャールズ・ワーグマン(洋画)、下岡蓮杖(写真)、河鍋暁斎・柴田是真(日本画)。ただし確かな証拠はないとする研究もあります。風景版画では歌川広重『名所江戸百景』の影響が指摘されています。弟子に井上安治、土屋光逸 |
経歴と作品
本所の御蔵屋敷に生まれ、幕臣として動乱を経験する
小林清親は、弘化4年(1847)、江戸の本所御蔵屋敷に生まれました。町田市立国際版画美術館の資料によると、父は下級役人です。国立国会図書館の電子展示会「近代日本人の肖像」は、江戸幕府御蔵方組頭の子と記しています。生年月日は旧暦の弘化4年8月1日で、新暦では1847年9月10日にあたります。幼名は勝之助でした。
青年期の1868年(明治元年)、清親は数え22歳で、幕臣として伏見の戦いに参加します。徳川幕府が崩れると、静岡に移り住みました。町田市立国際版画美術館の資料は、その後の清親が住居や職業を転々としたと書いています。そのなかで清親が生活の道を見いだしたのが、幼い頃から好きだった錦絵でした。1874年(明治7年)に上京し、画業に専念します。
幕臣として戦った人が、のちに文明開化の東京を描く。この経歴は、清親を理解するうえで大切な手がかりになります。スミソニアン国立アジア美術館(アメリカ)は公式ブログで、清親が幕府の下級役人の家に生まれ、社会の変化と対立を間近で見た人だったと紹介しています。
師は誰だったのか:洋画、写真、日本画
国立国会図書館の解説は、清親について、ワーグマンに西洋画、下岡蓮杖に写真術を学び、のち河鍋暁斎や柴田是真に日本画を学んだと記しています。ワーグマン(1832〜1891)は、イギリスの新聞『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』の特派員として日本に滞在し、高橋由一らに洋画の技法を教えたとされる人物です。下岡蓮杖(1823〜1914)は、清親に写真術を教えたと伝えられています。平凡社の『世界大百科事典』も、これらの師について「学んだといわれる」という書き方をしています。
ただし、兵庫県立美術館の『研究紀要』に載った村田大輔氏の論文は、清親が洋画を学んだというはっきりとした証拠はなく、ワーグマンらと交流を持ったことも、彼らから絵画を学んだことも証明されていないと述べています。ワーグマンを通じて河鍋暁斎や柴田是真とも交流が生まれたと言われていますが、村田氏はこれらを、すべて伝承として記録されていることだとしています。この記事でも、暁斎との師弟関係を断定せず、「そう伝えられている」という書き方にとどめます。河鍋暁斎の生涯は、徹底解説の記事でご紹介しています。
一方で村田氏は、清親が洋画や石版画に通じた人々のネットワークのなかにいたと推測しています。その手がかりの1つが、「亀井至一先生石版画になろうて方円舎清親」と記された1882年(明治15年)の石版画です。亀井至一(1842〜1905)は、明治初年の東京で石版画を活発に手がけた玄々堂から、作品を多く出していた画家でした。
『東京名所図』と「光線画」の誕生(1876年)
清親の名を高めたのが、1876年(明治9年)8月に版元の松木平吉から出版された『東京名所図』シリーズです。国立国会図書館の電子展示会は、このシリーズで登場した新しい画風を「光線画」と呼んでいます。『東京銀座街日報社』などの版画は、夜の光と影がかもす情趣を自然な描写で表していると説明されています。
「光線画」という呼び名の由来は、実ははっきりしていません。村田氏の論文によると、最初の版元だった松木平吉が考えたという説と、清親が松木に売り込んだという説があります。シリーズは1876年から1881年(明治14年)までに出版され、後年にまとめられた『東京名所図』は93点余りにのぼります。そのうち夜景は、現在確認できるものだけで23点あります。
国立国会図書館の解説によると、光線画は木版画でありながら、スケッチをもとに制作した錦絵に水性顔料で彩色し、明るく澄んだ色調を失わずに、はっきりした線と面をつくり出しました。ぼかしや陰影との調和によって、従来の平面的な表現を超えようとした点も特徴とされています。
『東京新大橋雨中図』(1876年)

シリーズの初期にあたる作品です。重く垂れこめた雨雲の下に、長い橋がかかっています。川面には屋根のついた舟が浮かび、手前の岸には、傘をさした人物が後ろ向きに立っています。村田氏は、この作品について、空や水面が光の変化に細心の注意を払って描かれていると述べています。傘をさす女性は後ろを向き、顔の表情はわかりません。そのぶん、天気と空気の色がいっそう印象に残ります。
光線画には、新しい東京の姿も描かれました。1872年(明治5年)に竣工した第一国立銀行本店を雪景色のなかに描いた『海運橋 第一銀行雪中』(1876年頃)は、町田市立国際版画美術館が所蔵し、同館のコレクション紹介にも掲載されています。『東京名所図』には、この銀行のほか、蒸気機関車、ガス灯、洋装の人物など、明治ならではの事物が多く登場します。一方で、浅草や日本橋、御茶ノ水といった場所は、江戸の昔から名所として知られていました。村田氏の論文は、歌川広重の『名所江戸百景』と同じ場所を描いた作品が、『東京名所図』のなかに21点確認できるという酒井忠康氏の指摘を紹介しています。江戸の名所絵の約束事を受け継ぎながら、そこに「東京」を描き込んだことが、このシリーズの面白さです。
光を描くための工夫:水彩、写生帖、摺師との格闘
では、清親はどのようにして光を表現したのでしょうか。村田氏の論文は、いくつかの手がかりを挙げています。
1つ目は、水彩画の習得です。清親が遺した写生帖には、水彩で描かれた風景が多く含まれています。『東京名所図』の下絵になったとみられるものもあり、ページによっては「雲の舞」「暮方の月」「夏の夜十時の月」といった言葉を添えて、空が何度も描かれています。光の移ろいを観察することに、強い関心があったことがうかがえます。
2つ目は、版画の技法です。同じ論文は、銅版画の影響として横線を多用した表現を、石版画の影響として網目の刻み込みや点描を挙げています。後者は、のちの版画家・織田一磨が指摘したものです。
3つ目は、職人との協働です。『東京名所図』の摺師を務めた西村熊吉は、後年の談話で、清親は西洋の絵を習った人だけに、ずいぶん苦しい思いをさせられたと振り返っています。職人の側は、彫師も摺師も油絵のようなものを見たことがなく、遠目にはっきり見せるべきところに日本流のぼかしをかけて、清親に叱られたこともあったといいます(1933年の雑誌『浮世絵芸術』に載った談話。村田氏の論文による)。木版は、絵師、彫師、摺師、版元の共同作業です。清親の構想は、職人の手を通ってはじめて版画になりました。
清親自身の言葉も見つかっています。1895年(明治28年)発行の絵画教本に、「光線画ヲ修ルニハ遠近ノ度光線ノ工合ニ心ヲ注クヘシ」という一文が収められていることが、近年になってわかりました。遠近と光の加減に心を注ぐこと。光線画の核心を、清親自身がこう言い表していたことになります。
『両国雪中』(1878年頃)

メトロポリタン美術館が1878年頃の作品としている木版画です。館の英題は「冬の夕べ、江戸郊外の街路」という意味ですが、同じ図は、国立国会図書館が公開している『清親畫帖』に『両国雪中・元両国広小路』の題で収められています。メトロポリタン美術館の1枚は余白が切り詰められていて、画面に題名はありません。雪の積もった広い通りに、電柱と電線、街灯、幌をかけた人力車、傘をさして行き交う人々が描かれています。深い青の空と、地面の雪の明るさの対比が、画面の中心です。電柱や街灯のように、近代の暮らしを示すものがさりげなく入っている点も、光線画らしい特徴と考えられます。
夜と光の風景(1879〜1881年)
光線画の魅力が最もよく表れるのが、夜景です。村田氏の論文は、前田愛氏の説として、銀座通りにガス灯が設置されたことが象徴するように、当時の東京の夜の風景が劇的に変わっていたことを紹介しています。ただし同じ論文は、清親の関心は新しい光への興味にとどまらず、提灯、ランプ、月などの光を画面にどう配置するかにも及んでいたと指摘します。
広重の『名所江戸百景』にも夜の景色はありますが、それは場所の特徴が夜にあったためです。これに対して清親は、場所の性質が夜でなくても、夜景を多く描いているように思われる、と同じ論文は述べています。夜の光そのものが主題だった、ということです。
『お茶の水蛍』(1879〜80年頃)

黒く沈んだ木立のあいだを、蛍の光が点々と飛び交っています。川面には屋根のついた舟が1艘浮かび、窓からもれる明かりが水に映ります。奥には、谷をまたぐ細い影が見えます。村田氏の論文によると、中央の渓谷、右の坂、奥の神田上水の懸樋(かけひ)は、ここが江戸以来の名所・御茶ノ水であることを示す目印です。そのうえで村田氏は、清親の焦点が名所の典型的な構図ではなく、その場所を夜という時間でとらえることにあったとみています。蛍、舟の明かりといった複数の光に包まれた空間を、どう画面に収めるか。表現上の難題に挑むような姿勢がある、という読み方です。年代は、村田氏の論文が明治12年(1879)頃、LACMAが1880年頃としており、本記事では1879〜80年頃と表記しました。
『九段坂五月夜』(1880年)

雨の夜の九段坂を描いた作品です。画面の左には、頂に灯りをともした高い塔が立っています。濡れた地面には、人力車や通行人が提げる提灯の光が、縦に長く映り込んでいます。傘をさした人々は、ほとんど黒い影として描かれ、坂の向こうには町の灯が小さな点になって連なります。右の余白には「明治十三年」の届け出の年と、版元の福田熊次郎、絵師の小林清親の名が刷られています。村田氏の論文によると、『東京名所図』の夜景は、ほとんどがこの福田熊次郎を版元としていました。ブリタニカ国際大百科事典は、この作品を清親の主要作品の1つに挙げています。
『隅田川夜』(1881年)

灰色がかった夜空の下、広い川の向こう岸に並ぶ明かりが、水面に細長く映っています。手前の土手には、提灯を提げた2人連れの影が歩いています。人物の細部は影に沈み、主役は光と空気です。静かな画面ですが、よく見ると、堤に植えられた細い木々の影や、対岸の明かりの並びまで丁寧に描き分けられています。
『池の端花火』(1881年)

花火を見上げる人々を描いた作品です。画面の下の余白に『池の端花火』の題が刷られており、メトロポリタン美術館の英題は Fireworks at Ikenohata です。手前には見物人たちの黒いシルエットが並び、木に登った人影も見えます。綱には赤い提灯が下がり、夜空には、しだれ柳のように垂れ下がる花火が広がります。花火そのものより、それを見上げる群衆の影を大きく据えた構図が印象的です。同じ年の1881年には、洋画家の高橋由一が夜景をめぐって審査員と論争する出来事がありました。村田氏は、清親の夜景がこの同時代の話題と無縁ではなかったのではないか、という見方を示しています。第二回内国勧業博覧会に出品された由一の『風景之図』が、審査で『江堤夜景』と評されたことに由一が抗議した、という経緯です。
猫と画布、そしてユーモア
清親は風景だけでなく、動物や花鳥も描きました。町田市立国際版画美術館の展覧会資料は、光線画とあわせて、西洋の石版画の影響を色濃く示す花鳥動物画を紹介しています。1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会には『猫と提灯』を出品し、好評を得たと同館の年譜にあります。
『カンバスに猫』(1878〜81年頃)

画架に立てかけられた画布には、鶏が描かれています。その絵に、赤いリボンをつけた白い猫が前足をかけ、もう1匹の猫は背を丸めて驚いています。足もとには、パレットや絵筆、小瓶が散らばっています。洋画の道具を、猫のいたずらの舞台にしたユーモラスな作品です。年代は、町田市立国際版画美術館の展覧会資料が東京国立博物館蔵の同題作を1878〜79年、LACMAが1879〜81年頃としており、ここでは1878〜81年頃としました。洋画への関心と遊び心が、そのまま画面に出ているようです。
光線画から風刺画へ(1881年〜)
町田市立国際版画美術館の年譜によると、清親は1881年(明治14年)に『東京名所図』に終止符を打ち、『清親ぽんち』を始めます。ポンチ絵は、西洋の風刺画(カリカチュア)と通じる作風の絵です。翌1882年の8月からは、時局風刺の雑誌『団団珍聞』(まるまるちんぶん)に毎号絵を描きました。村田氏の論文によると、関わりはおよそ11年間にわたります。この雑誌は日本で最初の「マスコミ雑誌」とも言われ、時局の風刺と、読者が投稿する狂句や狂歌が特徴でした。
光線画の時代の仕事も、報道的な性格を持っていました。1881年1月26日の両国の大火を描いた『明治十四年一月廿六日出火 浜町より写 両国大火』には、日付と「浜町より写」の書き込みがあり、その場で写生したような臨場感があります。ところが、ヘンリー・D・スミス氏の研究によると、この作品は過去のスケッチを組み合わせてつくられており、買い手に強く訴えるための演出が加えられているといいます(村田氏の論文による)。光線画には、事実の記録と、見せ方の工夫が同居していました。
ポンチ絵の時期の清親は、自分の作品さえ題材にしました。『清親放痴 東京大川端新大橋』(1881年頃・東京都江戸東京博物館蔵)では、新大橋を背に、大きな女性がぼろぼろの洋傘をさしています。同じ橋を描いた『東京新大橋雨中図』で、傘の女性が後ろ向きに立っていたのとは対照的です。村田氏は、これを自作のパロディと読み解いています。1882年10月28日号の『団団珍聞』には、提灯やランプの時代が去り、電気の時代が来たことを風刺する絵を描きました。『東京名所図』で何度も描いたガス灯や提灯が擬人化され、電気燈は「一箇々々の油を要する様な女々しきランプ」と言います(村田氏の論文による)。光線画で何度も描いた灯りを、清親は笑いの題材にして見せたことになります。
ほかにも、1882年の『新版三十二相』や1883年の『百面相』のように、日常の人々のさまざまな表情を描いた戯画があります(国立国会図書館の電子展示会)。1883年(明治16年)には、自由民権運動のさなかに起きた福島事件を題材にした『天福六家撰』の作品が発禁になりました。1885年(明治18年)9月5日号の『団団珍聞』に載った『眼を廻す器械』は、積み上げた書類に「収税」「衛生」「徴兵簿」などの文字が見える、忙しさで目を回す下級官吏の姿です。町田市立国際版画美術館は、当時の問題が一目でわかる、清親の風刺画の代表作として紹介しています。
これまで、清親は光線画を捨ててポンチ絵に進んだと、前後を分けて語られがちでした。しかし村田氏は、夜景にも時事的な要素や風刺性があり、反骨的な姿勢はすでに『東京名所図』に認められると論じています。その見方に立てば、光線画と風刺画は一続きの仕事として読めます。
歴史画、戦争錦絵、そして版画からの距離(1890年代〜1904年)
明治初期に多くの西洋文化が流れ込んだ反動で、国粋主義が高まります。町田市立国際版画美術館の資料によると、英雄像として歴史上の人物を描く歴史画は、人々に国民意識を抱かせるものでした。清親もまた、社会の求めに応じて多くの歴史画を描いています。1897年(明治30年)の三枚続『明智左馬之助光春湖水乗打唐崎松之図』が、その一例です。
1894年(明治27年)に日清戦争が始まると、清親は版元の求めに応じて多くの戦争絵を描きました。同館の資料は、近代国家として日本が初めて迎えた対外戦争で、錦絵による報道が過熱したと説明し、清親の戦争絵には、光線画の時代に培われた光と影による情景描写が発揮されていると述べています。この時期の戦争絵は、本記事では文章での紹介にとどめます。
その後、日露戦争が始まりますが、写真報道が一般的になっていたこともあり、戦争錦絵は影をひそめていきます。町田市立国際版画美術館の資料は、これを最後に、清親も版画制作から次第に離れていくと説明しています。浮世絵の報道が、写真に役割を譲る時代でした。
挿絵、風景、肉筆画の晩年(〜1915年)
版画から離れていく一方で、清親は絵を描くことをやめませんでした。明治20年代には、新聞や雑誌の挿絵を多く手がけます。子ども向けの雑誌から、文芸雑誌、労働組合の機関紙まで、依頼に応じてさまざまな媒体に絵を寄せました。1890年(明治23年)の児童雑誌『小国民』では挿絵を担当しています。1904年(明治37年)には、妻が開いた店で、清親の描いた絵葉書などが販売されていました(町田市立国際版画美術館の資料)。
光線画をやめたあとも、風景は描き続けました。1884〜85年(明治17〜18年)に刊行した『武蔵百景』は、東京の名所を描いた木版画のシリーズです(国立国会図書館の電子展示会)。町田市立国際版画美術館は、江戸の面影と明治の新しい景観を融合させ、光線画とは趣の異なる風景画を残したと説明しています。1896年から1897年(明治29〜30年)には、『東京名所図』の最初の版元だった松木平吉から、各地の名所を描いた『日本名勝図会』を出しています(国立国会図書館の書誌による)。
『日本名勝図会 厳島』(1896年)

海に立つ大鳥居を手前に大きく据え、その奥に、回廊でつながれた社殿を見下ろすように描いています。鳥居のそばを、小さな舟が行き交います。右上の赤い枠には「日本名勝図会 厳島」の題があり、LACMAはこの作品を1896年11月の作、シリーズの英題を Sketches of Famous Places in Japan と記録しています。光線画の時代の横長の画面とは違い、縦長の画面に、名所の目印をはっきりと収めた構成です。
1910年(明治43年)には、輸出用の絹織物を製造していた川俣絹布整練株式会社が、商品に添えて海外の顧客へ送った英語のカレンダーに、清親の錦絵が使われました。このカレンダーは国立国会図書館が所蔵しています。町田市立国際版画美術館の資料によると、清親は石版画や銅版画にも取り組み、晩年には肉筆画も描きました。
清親は1915年(大正4年)11月28日、中里の自宅で亡くなりました。満68歳でした。
清親のあとに続いた人たち
清親の光線画の影響は、弟子や後の世代の絵師にも及びました。国立国会図書館の電子展示会によると、井上安治は少年期から清親に師事し、習得した洋風版画の技法で『東京名所』を制作しました。安治は26歳で亡くなりましたが、明治前期の庶民の暮らしと環境を、記録画のように描いたとされています。同じ展示会は、清親がぼかしの技法を使ったのに対し、安治は繊細な線の描写を使ったと比べています。町田市立国際版画美術館の資料は、清親の弟子として土屋光逸を、清親以降の系譜として、都市の景観を描いた石版画家の織田一磨と、新版画を代表する絵師・川瀬巴水を挙げています。
スミソニアン国立アジア美術館の公式ブログによると、清親には複数の弟子がいただけでなく、自分の工房の外の絵師にも影響を与え、その独特の様式を木版画の主流へ組み込んだといいます。同じブログによると、同館は所蔵する版画と写真あわせて120点を東京の三菱一号館美術館へ送り、展覧会「トワイライト、新版画 小林清親から川瀬巴水まで」は2026年2月19日に開幕しました。
清親の評価にも、移り変わりがあります。村田氏の論文によると、大正初期に清親を積極的に取り上げた人物の一人が木下杢太郎でした。杢太郎は1913年(大正2年)に雑誌『藝術』で『東京名所図』を論じ、1916年(大正5年)の『中央美術』では清親の仕事を紹介しています。杢太郎の詩的な解釈は、研究や美術館の展示にも受け継がれてきました。村田氏は、近年は『東京名所図』以外の作品も展観・検証されてきたものの、「抒情的」という見方は今も支配的だと述べ、清親の真価をとらえ直すには、時代やジャンルを多面的に絡ませた分析も必要かもしれないと結んでいます。
回顧展も重ねられています。練馬区立美術館は、開館30周年を記念して、2015年4月5日から5月17日まで「没後100年 小林清親展 文明開化の光と影をみつめて」を開きました。この展覧会が機縁となり、清親の作品や資料、遺品類約300件の寄託を受け、2021年11月23日から2022年1月30日には、未公開や再発見の作品を中心にした「収蔵作品による 小林清親展【増補】サプリメント」を開催しています。寄託品には、下図絵や自作の箱、裃などの身の回りの遺品も含まれていました。町田市立国際版画美術館も2016年3月12日から4月17日に、約300作品で清親を紹介する回顧展を開いています。
小林清親の年表
| 1847年(弘化4年) | 江戸の本所御蔵屋敷に生まれる |
| 1868年(明治元年) | 幕臣として伏見の戦いに参加。徳川幕府の崩壊後、静岡へ移住 |
| 1874年(明治7年) | 上京し、画業に専念する |
| 1876年(明治9年) | 『東京名所図』の出版を始める(光線画) |
| 1877年(明治10年) | 第一回内国勧業博覧会に『猫と提灯』を出品し、好評を得る |
| 1881年(明治14年) | 『東京名所図』を終え、『清親ぽんち』を始める |
| 1882年(明治15年) | 8月から『団団珍聞』に時局風刺画を描く |
| 1883年(明治16年) | 『天福六家撰』のうち福島事件を題材にした作品が発禁になる |
| 1884〜85年(明治17〜18年) | 『武蔵百景』を刊行 |
| 1894年(明治27年) | 日清戦争の戦争錦絵を多数出版 |
| 1904年(明治37年) | 日露戦争が始まり、再び戦争錦絵を描く。妻が開いた店で絵葉書などが売られる |
| 1915年(大正4年) | 11月28日、中里の自宅で死去 |
まとめ
いかがだったでしょうか。
小林清親は、江戸の本所に生まれ、幕臣として動乱を経験し、錦絵を生活の道に選んだ絵師でした。1876年に始めた『東京名所図』では、夕暮れや夜の光と影を木版画に写し取り、「光線画」と呼ばれる新しい風景版画をつくりました。
1881年以降は、風刺画、歴史画、日清・日露戦争の錦絵、挿絵、肉筆画へと、時代の求めに応じて仕事の場を移します。その歩みは、浮世絵の報道の役割が写真へ移っていく時代と重なっていました。
清親の作品は、ロサンゼルス・カウンティ美術館、メトロポリタン美術館、スミソニアン国立アジア美術館、町田市立国際版画美術館、東京国立博物館、国立国会図書館などが所蔵しています。展示替えがあるため、気になる方は各館の公開情報をご確認ください。
Euphoric " " の視点
清親は、住居や職業を転々としたといいます。そのなかで生活の道を見いだしたのが、幼い頃から好きだった錦絵でした。
光線画で知られたあと、ポンチ絵の時期には自分の作品さえ題材にしました。子ども向けの雑誌から労働組合の機関紙まで、依頼に応じてさまざまな媒体に絵を寄せています。
木版は、絵師、彫師、摺師、版元の共同作業です。清親の構想は、職人の手を通ってはじめて版画になりました。
時代が変わるたびに描く場所を変え、それでも描くことはやめない。清親の歩みは、一つの様式に留まらないことも続け方のひとつなのかもしれないと教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。版画は常に展示されているとは限りません。国立国会図書館の電子展示会では、『東京名所図』の作品をインターネットでいつでも見ることができます(2026年10月時点)。







