【徹底解説】高橋由一とは?『鮭』『花魁』で日本の油絵を切り開いた洋画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】高橋由一とは?『鮭』『花魁』で日本の油絵を切り開いた洋画家の人生と作品を解説!
画像:『花魁』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは高橋由一という人物をご存知ですか?

幕末から明治にかけて活躍した洋画家で、荒縄で吊るされた鮭を描いた『鮭』と、髪に何本もの簪(かんざし)を挿した遊女を描いた『花魁』の作者です。この2点はどちらも国の重要文化財に指定されています。また、由一は「近代洋画の父」とも呼ばれています。

由一が油絵を学びはじめたのは、江戸の武家に生まれて30代になってからでした。留学の経験はなく、手本も道具もほとんどない時代です。それでも由一は、油絵を日本に根づかせることを自分の仕事と考え、画塾を開き、展覧会を催し、美術館の構想まで描きました。

本記事ではそんな高橋由一の人生と作品についてご紹介します。

高橋由一って?

基本情報

本名高橋由一(たかはし ゆいち)。幼名は猪之助(いのすけ)、号は藍川(らんせん)
生年月日(没年月日)1828年3月20日(文政11年2月5日)〜1894年(明治27年)7月6日(満66歳没)
国籍/出身日本 江戸(佐野藩邸。佐野藩は下野国、現在の栃木県)
学歴狩野派などの日本画を学んだのち、1862年に幕府の洋書調所の画学局に入り、川上冬崖に師事
分野洋画(油彩)
傾向対象を細部まで描きとる写実。静物、人物、風景のほか、道路の記録画も手がけました
師事した人物/影響を受けた人物川上冬崖、チャールズ・ワーグマン、ショイヤー夫人、アントニオ・フォンタネージ。西洋の石版画に強い感銘を受けたことが、洋画を志すきっかけでした

https://euphoric-arts.com/art-2/aoki-shigeru/

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経歴と作品

江戸の佐野藩邸に生まれ、絵を好む少年になる

高橋由一は1828年(文政11年)、江戸の佐野藩の屋敷で生まれました。佐野藩は下野国(現在の栃木県)にあった藩で、由一は藩士の子です。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」は、生まれた日を文政11年2月5日、西暦では1828年3月20日と記しています。

栃木県立美術館の年譜によると、由一は1836年、数え9歳のころに、佐野藩主の堀田正衡(ほったまさひら)の近習(藩主のそばに仕える役目)を務めました。同じ年譜は、当時の佐野藩を、藩校で洋学を取り入れるなど開明的な藩だったと記しています。

家は武道の指南を務める家でしたが、由一は病弱だったため、その家業をあきらめて、絵の道に進みます。同館は、由一が刀を絵筆に持ち替えて画業に打ち込んだと紹介しています。はじめは狩野派など日本の絵を学びました。世界大百科事典も、はじめは狩野派に学んだが満足できず、洋画法の学習を志したと書いています。

西洋の石版画に驚き、洋書調所の画学局へ

転機になったのは、西洋の石版画との出会いです。石版画とは、石の表面に描いた絵をもとに刷る版画で、西洋では書籍の挿絵などに使われていました。日本大百科全書は、嘉永年間(1848年から1854年)に、西洋の石版画の迫真性に打たれたと記しています。栃木県立美術館の年譜も、強い感銘を受け、西洋の画法を学ぶ決意をしたと伝えています。

ただし、当時の日本には、油絵を教えてくれる学校も教科書もありません。由一が選んだのは、幕府の洋学研究機関に入る道でした。1862年(文久2年)、洋書調所の画学局に入り、川上冬崖(かわかみとうがい)のもとで西洋画法を学びます。この機関は「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」とも書かれます。三重県立美術館の図録論文によれば、蕃書調所は文久2年5月に洋書調所と改められ、由一が画学局に入ったのは同じ年の9月でした。そのため本記事では洋書調所と書きます。

画学局で由一が何を描いていたのかをうかがわせる作品が、東京国立博物館に残っています。

『洋人捕象図』(1874年)

高橋由一『洋人捕象図』(1874年)
高橋由一『洋人捕象図』(1874年)東京国立博物館/作品:パブリックドメイン、画像:東京国立博物館(ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム)/出典:Wikimedia Commons

『洋人捕象図(ようじんほぞうず)』は、油絵ではなく、絹に墨で描いた作品です。画面の左下では、牙のある象が長い鼻を前に伸ばして駆けていて、その先の右手の斜面には、洋装の人物が小さく描かれています。左上には署名があります。

東京国立博物館の解説は、由一が水墨画を描くときに添える「花陰逸人(かいんいつじん)」の署名があることを紹介しています。そして、この作品は、由一が洋書調所(解説の表記は蕃書調所)の画学局で、西洋の石版画や書籍、雑誌などの挿図を写したものをもとにして描いたとされる、と説明しています。制作年は1874年(明治7年)とされています。

ワーグマンに学び、上海へ渡る

画学局で川上冬崖に学んだ由一は、さらに横浜の外国人からも指導を受けます。栃木県立美術館の年譜は、1866年(慶応2年)に、横浜でイギリス人画家のチャールズ・ワーグマンに師事し、アメリカ人のショイヤー夫人の指導も受けた、と記しています。宮城県美術館も、由一が川上冬崖に師事しながら、横浜の在日外国人であるチャールズ・ワーグマンの手ほどきを受け、情報も材料も乏しいなかで、油彩による写実表現に努力したと紹介しています。

世界大百科事典は、由一が1864年に開成所画学局の出役介となったものの、油絵の実技がままならないのを知って、横浜居留地のワーグマンや貿易商ショイヤー夫人を訪ねたと書いています。

その後、由一は上海にも渡りました。世界大百科事典と日本大百科全書は、渡航の年を1867年(慶応3年)としています。東京藝術大学大学美術館には、由一の『上海日誌』という折本(おりほん、折りたたんで綴じた冊子)が収蔵されています。

1867年(慶応3年)にはパリで万国博覧会が開かれました。国立国会図書館の「あの人の直筆」は、由一がこの博覧会と、1873年のウィーン万国博覧会に出品したと紹介しています。山形県立図書館によれば、パリに出したのは「日本国童子二人一世那翁の肖像画を観て感あるの図」という題の作品でした。

維新のあと、「由一」と名乗る

1868年に明治の世になると、由一の立場も変わっていきます。京都国立近代美術館の2012年の展覧会の解説は、明治維新後に丁髷(ちょんまげ)を落として「由一」を名乗るところから、近代洋画の父と呼ばれる由一の活躍がはじまると述べています。このとき由一はすでに40歳を超えていました。

同じ解説は、由一について、絵が好きで画家になったといった甘さは微塵もなく、洋画を日本に普及するのが自分の果たすべき使命だという強い自負にあふれていた、と書いています。世界大百科事典によれば、幼名は猪之助で、維新後に由一と改めました。

1871年(明治4年)には、大学南校の画学掛の教官に任命されます。栃木県立美術館の年譜が記す経歴です。世界大百科事典によれば、この任は翌年に退いています。

1873年、画塾「天絵楼」を開く

1873年(明治6年)、由一は日本橋浜町に新築した自宅に、画学場の「天絵楼(てんかいろう)」を開きました。栃木県立美術館の年譜は、この画塾の開設をそう記しています。日本大百科全書によれば、のちに天絵社、天絵学舎と名を改めています。

世界大百科事典は、官立系の美術学校を別にすれば日本で最大の画学教場であり、創設以来の習学者は150余名にのぼったと書いています。国立国会図書館は、原田直次郎、川端玉章(かわばたぎょくしょう)らを指導したとしています。文化遺産オンラインによれば、安藤仲太郎は由一の甥で、天絵学舎の塾頭を務めました。

画塾では、教員と学生の油絵を並べる展覧会も開かれました。文化遺産オンラインは、1876年(明治9年)から毎月第1日曜日に一般に公開していたと記し、安藤仲太郎の思い出として「高橋が描いた鮭などはなかなか大評判でありました」という言葉が残っていることを伝えています。

この間、由一は博覧会にも出品しています。国立国会図書館によれば、1873年にウィーン万国博覧会へ『富嶽大図』を出品し、1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会で「三等花紋章」を受け、翌1878年にはパリ万国博覧会に油彩画を出品しました。この博覧会の賞牌(しょうはい、メダル)は竜紋、鳳紋、花紋の3種で、東京国立博物館に「花紋賞牌」の実物が残っています。

『花魁』(1872年)、遊女の姿を油絵に写す

『花魁』(1872年)

高橋由一『花魁』(1872年)
高橋由一『花魁』(1872年)東京藝術大学大学美術館 重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。元画像:Google Arts & Culture)

『花魁(おいらん)』は、1872年(明治5年)の作品です。東京藝術大学大学美術館の収蔵品データベースは、作品名を『美人(花魁)』とし、キャンバスに油彩、縦77.0センチ、横54.8センチと記録しています。文化庁の国指定文化財等データベースは、名称を「花魁〈高橋由一筆/油絵 麻布〉」として、1972年(昭和47年)5月30日に重要文化財に指定したと記しています。

画面を見てみましょう。深い青緑の暗い背景の前に、左を向いた女性の半身像が描かれています。黒い髪には、何本もの簪が放射状に挿され、頭の後ろには青い布が見えます。白い襟の下には、赤と黒の大きな模様の入った豪華な着物が重なっています。顔には、肌の明るさや影が油絵の具で丁寧に描き分けられています。

文化庁の解説文は、由一を、明治のはじめ、写実的画風をもって、わが国近代洋画に大きな足跡を残した画家とし、『花魁』は『鮭』と並ぶ作品で、対象の特徴をとらえながら、写実性の中に本質を追求した制作態度がよくうかがわれる、と評価しています。

東京藝術大学大学美術館は、重要文化財『花魁』の保存修理が令和5年度の文化庁などの補助金を受けて行われ、2024年3月に完了したと報告しています。修理前は、絵具層の浮き上がりや亀裂、剥落、ワニス層の変色が見られ、汚れやシミが目立っていました。修理によって、制作当時の鮮やかな色彩を取り戻し、微妙な陰影や質感にまで神経を注いだ描写がよみがえった、と同館は説明しています。

同館では、2024年3月26日から5月19日まで「大吉原展」が開かれました。2023年11月のプレスリリースは、『花魁』が修復後はじめての展示になると案内しています。企画した同館の古田亮教授は、この展覧会が『花魁』から着想されたと述べ、由一が依頼に応えて描き残そうとした〈廃れゆく花魁の姿〉とは何を意味していたのか、と問いかけています。

制作の経緯については、三重県立美術館の図録論文が手がかりを伝えています。1872年4月28日付の『東京日々新聞』に、兵庫下げ髪という髪型を絵に描いて残すため、由一に依頼していた稲本楼の小稲の肖像画ができあがった、という記事があるのです。この記事の絵を本作とみるのが明治5年説で、同論文は、制作年にはほかに明治8年から9年、明治10年から11年とする説もあると紹介しています。

『鮭』、日本でいちばん有名な魚の絵

『鮭』(1877年頃)

高橋由一『鮭』(1877年頃)
高橋由一『鮭』(1877年頃)東京藝術大学大学美術館 重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。元画像:Google Arts & Culture)

由一を代表する作品といえば、やはり『鮭』でしょう。東京藝術大学大学美術館の収蔵品データベースによれば、制作年は明治10年(1877年)頃、紙に油彩で、縦140.0センチ、横46.5センチの細長い作品です。文化遺産オンラインの解説は、制作を「明治八年から十二年の間」としていて、資料によって幅があります。1967年(昭和42年)6月15日に重要文化財に指定されました。

画面を見てみましょう。茶色の無地の背景に、1尾の鮭が、荒縄で頭を上にして吊り下げられています。頭に近い側は皮と身の一部が切り取られていて、赤い身と筋が見えます。尾に近い側には、銀灰色の鱗と皮が残っています。縄の繊維、鱗の1枚ずつ、皮の質感までを、1尾の魚の姿だけで見せる絵です。

文化遺産オンラインの解説文は、この『鮭』について、明治初年に西洋画で優れた成果をあげた高橋由一の作品であり、「自然科学的観察と迫真的な描写には、近代の出発点ともいうべき新たな造形の眼の充実が認められる」と評価しています。

この解説文は、近代美術の重要文化財をまとめて説明した文章の一部です。そこでは、由一の『鮭』に続いて、フォンタネージの教えを受けた浅井忠、黒田清輝の外光派の紹介、そして青木繁へと、西洋画が展開していく流れが語られています。青木繁については、こちらの記事もあわせてご覧ください。

『鮭』には、ほかにも同じ題材の作品があります。栃木県立美術館は、2014年の展覧会の案内で、現在3点が知られている由一の鮭を描いた油彩画、と説明しています。1点は東京藝術大学大学美術館の重要文化財の『鮭』、1点は山形美術館に寄託されている『鮭』、もう1点は笠間日動美術館の『鮭図』で、同館の案内は1879年から80年の作としています。笠間日動美術館は、この作品について、ほかの鮭と違って半身が切り取られており、木の板に描かれていると紹介しています。

3点を取り違えないよう、整理しておきます。

所蔵作品と記録
東京藝術大学大学美術館『鮭』。明治10年頃、紙に油彩、140.0×46.5センチ。重要文化財(1967年指定)
笠間日動美術館『鮭図』。1879年から80年、板に油彩。半身が切り取られた姿が描かれています
山形美術館(寄託)『鮭』。栃木県立美術館の展覧会案内が「山形美術館寄託」と記しています

なお、笠間日動美術館と山形美術館の作品は、図版の権利を確認できなかったため、本記事には掲載していません。権利の確認が取れた図版のみ掲載しています。

京都国立近代美術館は、2012年の展覧会に「日本一有名な鮭」という副題を付けました。展覧会の概要は、由一には留学経験がないが、本場の西洋画を知らずに写実に挑んだ男が生み出した油絵だからこそ、黒田清輝以降の日本洋画の流れとは一線を画す「和製油画」として、日本的な写実を感じさせると述べています。黒田清輝については、こちらの記事もご覧ください。

1876年、フォンタネージに学ぶ

1876年(明治9年)、工部美術学校が開設されます。文化遺産オンラインの解説文もこの年に触れています。ここに、イタリア人画家のアントニオ・フォンタネージが教師として来日しました。栃木県立美術館の年譜は、1876年に由一がフォンタネージに師事したと記しています。

香川県立ミュージアムの展覧会の解説は、由一にとっての写実性は、細密に写し出すことで対象に迫真的に近づくことだった、とも説明しています。栃木県立美術館は、同館が取得した由一の《驟雨図(しゅううず)》を、フォンタネージの影響を受け、油彩画の表現に一層の深みを加えた1877年頃の作と考えられる、と紹介しています。

金刀比羅宮に油絵が奉納される

由一の作品がまとまって残っている場所が、香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)です。公式サイトによると、当宮は高橋由一の油絵27点を所蔵していて、これらは明治期の宮司、琴陵宥常(ことおかひろつね)が購入したものです。境内の「高橋由一館」では、27点から20点ほどを選んで展示し、定期的に展示替えをしています。

公式サイトが伝える経緯は、次のとおりです。1878年(明治11年)、金刀比羅宮では琴平山博覧会に向けて、本宮の造営など大規模な工事が行われていました。同年8月、由一は『二見ヶ浦』と、小襖仕立ての『貝図』を奉納します。11月には、画塾「天絵舎」の拡張資金の融資を金刀比羅宮に依頼しました。

翌1879年(明治12年)2月、由一は35点の油絵を奉納し、資金200円を受け取ります。琴平山博覧会は翌月の3月1日から6月15日まで開かれ、大変なにぎわいでした。由一の油絵は書院の長押(なげし、柱をつなぐ横木)に展示されたと、公式サイトは書いています。

さらに、1880年(明治13年)12月から翌年1月中旬まで、由一は琴平に滞在し、『琴平山遠望』『琴平山下石淵川の図』『深見速雄像』『琴陵宥常像』を描きました。このうち『深見速雄像』『琴平山下石淵川の図』は、現在、所在がわかっていません。『琴陵宥常像』も長らく所在不明でしたが、2001年(平成13年)に宮司の屋敷から発見され、新聞やテレビで報道されて、金刀比羅宮と由一の関係が広く知られるようになりました。

高橋由一館の展示一覧(2026年10月時点)には、『読本と草紙』(1874〜75年)、『墨田堤の雪』(1876年)、『豆腐』『本牧海岸』『なまり』『芝浦夕陽』『鱈梅花』(いずれも1877年)、『鯛(海魚図)』(1879年)、『琴平山遠望』『琴陵宥常像』(いずれも1881年)など20点が並んでいます。魚や豆腐、書物のような身近な物から、東京や横浜の海岸、隅田川の風景まで、題材は幅広いものでした。

公式サイトによれば、2025年(令和7年)8月、27点すべてが香川県の有形文化財に指定されました。展示内容や開館日は変わることがあるため、公式サイトで最新の情報をご確認ください。なお、金刀比羅宮の作品の画像は、公式サイトに利用条件を示すページが確認できなかったため、本記事には掲載していません。権利の確認が取れた図版のみ掲載しています。

肖像を描く、『上杉鷹山像』と『大久保甲東像』

『上杉鷹山像』(1881年)

高橋由一『上杉鷹山像』(1881年)
高橋由一『上杉鷹山像』(1881年)東京国立博物館/作品:パブリックドメイン、画像:東京国立博物館(ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム)/出典:Wikimedia Commons

由一は、肖像画も手がけました。東京国立博物館には、1881年(明治14年)の作品として、『上杉鷹山像』と『大久保甲東像』が所蔵されています。どちらもカンバスに油彩で、大きさは縦118.2センチ、横73.6センチと、同じです。

『上杉鷹山像』では、年配の人物が立っていて、手には扇子を持っています。背後には、書物を積んだ棚が見え、背景は暗い緑がかった色でまとめられています。着物のひだや、手の甲の皮膚、扇の紙の質感が、細かく描き分けられています。

『大久保甲東像』の甲東は、政治家の大久保利通の号です。東京国立博物館は、利通(1830〜78年)を、幕末の薩摩藩士で、明治時代に政治家として活躍した人物と紹介しています。

由一は、明治天皇の肖像も描いています。国立国会図書館と日本大百科全書は、元老院の委嘱による制作と伝え、百科事典マイペディアはその年を1879年(明治12年)としています。

1881年から、東北の道を描く

『最上川舟行』

高橋由一『最上川舟行』
高橋由一『最上川舟行』(明治時代・19世紀)東京国立博物館/作品:パブリックドメイン、画像:東京国立博物館(ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム)/出典:Wikimedia Commons

由一の後半生の仕事で、いまも注目されているのが、東北地方の風景と道路を描いた作品群です。きっかけは、山形県令(県知事にあたる役職)だった三島通庸(みしまみちつね)との出会いでした。

国立国会図書館の「あの人の直筆」は、山形では1876年(明治9年)からの約6年間、「鬼県令」と呼ばれた三島の指揮で大土木事業が行われ、20か所以上の新道と65基の橋がつくられたと説明しています。三島の依頼で、由一は1881年に山形を訪れ、その成果の1つである栗子山隧道(くりこやまずいどう)を油彩で描きました。

帰京した由一が三島に宛てた1881年12月20日付の書簡には、旅の途中で見た新旧が混じり合う風景の美しさをたたえる言葉が添えられていると、国立国会図書館は紹介し、「新世界に在るかと疑わしむるに至る」という一節を引いています。

上の『最上川舟行』は、カンバスに油彩で、縦104センチ、横151センチです。暗い山にはさまれた川に小さな舟が1艘浮かび、空は茶色がかった光に染まっています。東京国立博物館の所蔵品情報は、制作時期を「明治時代・19世紀」としていて、制作年や三島の依頼との関係は記していません。

同じ東京国立博物館には、『栗子山隧道』『酢川にかかる常盤橋』も所蔵されています。常盤橋は、山形市内を流れる須川に架かっていた石橋で、三島が県内に架けた多くの橋の1つです。同館の解説によれば、三島家には同じ構図で撮られた常盤橋の写真が残っていて、由一はこれを参考に描いたと見られています。制作年は1881年から82年です。

宮城県美術館の『宮城県庁門前図』(1881年)も、この時期の作品です。綿布に油彩で、宮城県指定有形文化財です。同館によれば、描かれているのは1881年当時の宮城県庁で、1945年7月の戦災で焼失しました。宮城県が由一に依頼して、2点の松島の風景画とともに制作させたものだと記しています。

由一の仕事は、1度の旅で終わりませんでした。山形県立図書館によれば、1881年に東北から帰京した由一は、三島が整備した道路や隧道、橋を石版画にすることを建言します。三島の委嘱で写生の旅を始めたのは、1884年(明治17年)8月でした。三島は福島県と栃木県の県令に移っていたため、写生の場所は栃木県、福島県、山形県に及びました。

写生の旅は11月下旬まで続き、100日を超える長い旅でした。その成果は、1885年(明治18年)に日本橋の玄々堂から出版された石版画帖『山形県、福島県、栃木県 道路写生帖』にまとめられます。栃木県20図、福島県53図、山形県55図の折帖3冊で、全部で128図です。完成は予定より1年ほど遅れた、と山形県立図書館は説明しています。

油絵を、国のために役立つものとして位置づけたい。栃木県立美術館は、由一が西洋画の技術の定着と普及を、国家のための事業と考えていたと説明しています。道路の完成を絵に残す仕事は、まさにその考えを形にしたものでした。

螺旋展画閣、実現しなかった美術館

由一は、絵を見せる場所についても考えていました。京都国立近代美術館は、由一が画塾を開き、展覧会を催し、美術雑誌を刊行し、ユニークな美術館建設構想も抱いたと紹介しています。国立国会図書館も、美術館設立運動と美術雑誌『臥遊席珍(がゆうせきちん)』の刊行を挙げています。

その構想が『螺旋展画閣(らせんてんがかく)』です。三重県立美術館の解説は、1881年(明治14年)に由一が『螺旋展画閣創築主意』を各方面に配り、美術館建設運動を始めたと記しています。展画閣は一種の美術館で、飾られるのは「其画ク所ノ名物、古器、肖像、風景等」だった、と同館は説明しています。

アートプラットフォームジャパンの「日本アーティスト事典」は、螺旋展画閣を、実現はしなかった洋画専門の美術館建設構想と説明しています。三重県立美術館の論文は、美術史家の北澤憲昭氏がこの螺旋展画閣に、さざえ堂や城閣建築の残影を見たことを紹介しています。さざえ堂は、世界大百科事典によれば、堂内を右回りにめぐる通路に沿って観音像を拝む、江戸時代後期の仏堂の形式です。

翌1882年、由一は、美術省や美術会社、意匠学校、画学大学校の設立、展画閣の造築など5項目について、三島通庸に斡旋を依頼しました。三重県立美術館は、いずれも実現しなかったと記し、1884年(明治17年)には天絵学舎を閉鎖することになった、と書いています。同館は、展画閣を、博覧会時代のイメージを表したものだったが夢想に終わった、と評しています。

油絵を並べて見せる建物まで思い描いていたことは、由一が絵を描くだけでなく、見せる場にも心を配っていたことを物語っています。

晩年、『長良川鵜飼』を描き、66歳で亡くなる

『長良川鵜飼』(1891年)

高橋由一『長良川鵜飼』(1891年)
高橋由一『長良川鵜飼』(1891年)東京国立博物館/作品:パブリックドメイン、画像:東京国立博物館(ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム)/出典:Wikimedia Commons

晩年の由一が描いた作品に、『長良川鵜飼(ながらがわうかい)』があります。絹に油彩で、縦94.5センチ、横158.8センチ、1891年(明治24年)の作品です。

闇に包まれた川の上に舟が連なり、かがり火が赤く燃えています。水面には、黒い鵜が何羽も浮かび、水しぶきが上がっています。画面の大部分は暗く、炎と、その光が映る水面だけが明るく見えます。

東京国立博物館の解説によれば、由一は1891年の夏に岐阜へ旅行し、この作品のための写生を行いました。もとは大幅の油絵の掛物として、明治天皇と皇后に献納する予定だったそうです。洋画を広めるために、軸装や屏風仕立ての画面の形を探っていたらしいこと、光と影の対比が生々しく描かれていることも、解説は伝えています。

日本の絵の形式である掛軸や屏風に、油絵を合わせようとする試みでした。

世界大百科事典によれば、1892年、由一は病床で『高橋由一履歴』をまとめ、翌年には旧天絵学舎の主催で、「油絵沿革展」を開きました。この展覧会は、江戸時代の司馬江漢以降の日本の洋画の歴史をふりかえる、200点余りの作品を展示するものでした。「日本アーティスト事典」は、『履歴』を、病中の由一の回想を息子の源吉が編集した私家版とし、展覧会の名を「洋画沿革展覧会」と記しています。

由一は1894年(明治27年)7月6日、66歳で亡くなりました。亡くなった場所を、「日本アーティスト事典」は北豊島郡日暮里村の自宅、栃木県立美術館の年譜は東京根岸の自宅と記しています。

高橋由一の年表

1828年江戸の佐野藩邸に生まれる(3月20日、文政11年2月5日)
1836年藩主堀田正衡の近習を務める
1862年洋書調所の画学局に入り、川上冬崖に師事する
1866年横浜でワーグマンに師事。ショイヤー夫人の指導も受ける
1867年上海に渡る。パリ万国博覧会に出品する
1871年大学南校の画学掛教官に任命される
1872年『花魁』を描く
1873年日本橋浜町に画学場「天絵楼」を開く。ウィーン万国博覧会に出品する
1876年フォンタネージに師事する
1877年第1回内国勧業博覧会で賞牌を受ける。『鮭』(1877年頃)
1878年パリ万国博覧会に油彩画を出品する。金刀比羅宮に『二見ヶ浦』などを奉納する
1879年金刀比羅宮に油絵35点を奉納し、資金200円を受ける。元老院の委嘱で明治天皇の肖像を描く
1881年三島通庸の依頼で山形を訪れる。『螺旋展画閣創築主意』を配り、美術館建設運動を始める
1884年三島通庸の委嘱で、栃木、福島、山形の新道を写生する。天絵学舎を閉鎖する
1885年石版画帖『山形県、福島県、栃木県 道路写生帖』が出版される
1891年夏に岐阜へ旅行し、『長良川鵜飼』の写生を行う
1892年病床で『高橋由一履歴』をまとめる
1893年旧天絵学舎の主催で洋画の歴史をふりかえる展覧会を開く
1894年7月6日、東京の自宅で亡くなる

高橋由一が残したもの

栃木県立美術館は、由一を、さまざまな困難のなかで西洋絵画の技法を学び、日本近代洋画の父とたたえられる画家と紹介しています。同館はまた、由一がいなければ、今日の日本の美術は私たちが見ているものとはまったく違ったものになっていたかもしれない、とも述べています。

由一が残したものは、作品だけではありません。画塾で育てた門人たち、博覧会への出品、美術雑誌の刊行、東北の道を描いた記録画、そして実現しなかった美術館の構想。どれも、油絵が日本で受け入れられるための土台をつくる試みだったと言えます。

まとめ

いかがだったでしょうか。

高橋由一は、1828年に江戸の佐野藩邸で生まれ、西洋の石版画に感銘を受けて洋画を志しました。1862年に洋書調所の画学局に入り、川上冬崖に学び、横浜ではワーグマンらの指導も受けます。1873年には画塾「天絵楼」を開き、後進を育てました。

代表作の『鮭』と『花魁』は、いずれも国の重要文化財です。

金刀比羅宮には1879年に35点の油絵を奉納し、いまも同宮は由一の油絵27点を所蔵しています。東北では、三島通庸の依頼で新しい道路や橋を描き、石版画帖にまとめました。美術館の構想『螺旋展画閣』は実現しませんでした。1894年7月6日、由一は66歳で亡くなります。

Euphoric " " の視点

由一が油絵を学びはじめたのは、30代になってからでした。留学の経験はなく、手本も道具もほとんどない時代です。

それでも金刀比羅宮には35点の油絵を奉納しました。西洋画の技術の定着と普及を、国家のための事業と考えていたと説明されています。

美術館の構想は、いずれも実現しませんでした。1884年には、天絵学舎を閉鎖することになります。

実現しなかった計画も、遅い出発も、残った絵の強さを損ないません。由一の歩みは、始める年齢や環境よりも、何のために描くかが仕事を支えるのかもしれないと教えてくれます。

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記事で紹介した作品の所蔵先です。東京藝術大学大学美術館と東京国立博物館の収蔵品は、常時展示されているわけではありません。展示の有無は、訪問前に各館の公式サイトでご確認ください。

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