こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはマルセル・ブロータースという人物をご存知ですか?
マルセル・ブロータース(Marcel Broodthaers)は、1924年にベルギーのブリュッセルで生まれた美術家です。40歳になるまでは詩人として活動し、1964年に、売れ残った自分の詩集を石膏で固めた作品で美術家としての一歩を踏み出しました。ムール貝や卵の殻、文字、そして架空の美術館まで、身の回りのものや美術の仕組みそのものを素材にして、「芸術とは何か」「美術館とは何か」を問い続けた人物です。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)は、ブロータースが1960年代から70年代の国際的な美術の中心にいた作家であり、その作品が現代の幅広い作家に深い影響を与えてきたと紹介しています。日本では「マルセル・ブロータス」と表記されることもあります。美術家として活動した期間はおよそ12年と短いものの、コンセプチュアル・アートやインスタレーションの歴史を語るうえで欠かせない名前です。本記事ではそんなマルセル・ブロータースの人生と作品についてご紹介します。
コンテンツ
Toggleマルセル・ブロータースって?

基本情報
| 本名 | マルセル・ブロータース(Marcel Broodthaers)。日本語では「ブロータス」と表記されることもあります |
| 生年月日(没年月日) | 1924年1月28日〜1976年1月28日 |
| 国籍・出身 | ベルギー/ブリュッセル(フランス国立図書館の典拠では、ブリュッセルのサン=ジル)。ドイツのケルンで亡くなりました |
| 学歴 | 大学を離れ、美術は独学(MoMAは「独学の美術家(self-trained artist)」と紹介しています) |
| 分野 | 詩、彫刻(オブジェ)、版画、本、映画、写真、インスタレーション |
| 傾向 | 言葉と物、美術館や展覧会の仕組みを問うコンセプチュアル・アート。ムール貝、卵の殻、鷲などのモチーフをくり返し使う |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | シュルレアリスムの画家ルネ・マグリット、ダダの作家クルト・シュヴィッタース(ともにブリタニカ百科事典による)。詩人ステファヌ・マラルメに捧げた作品もあります |
ブロータースと同じ時代の美術や、関わりの深い作家については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
経歴と作品
ブリュッセルの詩人として(1924年〜1963年)
マルセル・ブロータースは1924年1月28日、ベルギーのブリュッセルで生まれました。ブリタニカ百科事典によると、10代のころから文章を書き始め、大学を離れたあとはブリュッセルの芸術家や作家、知識人たちの輪の中で暮らしました。
1940年代から雑誌に詩を発表するようになり、ブリタニカによると1945年にはシュルレアリスムの画家ルネ・マグリットと出会いました。言葉と絵を組み合わせて見る人を戸惑わせるマグリットの作品は、詩人として、また思索する人として、そして後には美術家としてのブロータースに長く影響を与えたと、ブリタニカは書いています。
詩を書くだけでは暮らしは成り立ちませんでした。MoMAの資料は、ブロータースが40歳になるまで自分を詩人と考え、ときどき古書を売ったり、記事や写真を手がけるジャーナリストとして働いたりして生計を立てていたと説明しています。1957年には詩集『Mon livre d’ogre』を出しました。
この時期には映画にも手を伸ばしています。1950年代、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで開かれたクルト・シュヴィッタースの展覧会の会場で、最初の短編映画『La Clef de l’horloge』を撮りました。拾ったものを組み合わせて作品にするシュヴィッタースの方法を、アップの映像をつなぐことで映画の中でなぞった作品です。MoMAは、この時期に言葉遊びやページの上の文字の配置、くり返し現れる記号(鷲からムール貝まで)といった独自の詩の言葉が育ち、それが美術家としての仕事へ引き継がれたと紹介しています。
詩集を石膏で固めて美術家に(1964年)
1964年、ブロータースは美術家になることを宣言します。きっかけについて、本人は最初の個展の案内状に皮肉をこめた文章を書きました。ブリタニカが英訳で引用しているその一節は、「私も、何かを売って人生で成功できないものかと考えた。(中略)ついに、何か不誠実なものを発明しようという考えが頭をよぎり、すぐに仕事に取りかかった」というものです。
同じ年、ブリュッセルのギャラリー・サン=ローランで初めての個展を開き、そこで発表したのが次の作品です。
『Pense-Bête』(1964年)
『Pense-Bête』は、ブロータースの最後の詩集の売れ残りを、石膏で台座に固めてしまった作品です。黒い台座の上に、黒い表紙の詩集の束が白い石膏に埋もれるように据えられ、表紙には「Pense-Bête」の文字が見えます。束の脇には、石膏に半分沈んだピンク色の球も置かれています。

所蔵するベルギー・ヘントのS.M.A.K.(市立現代美術館)は、ブロータース自身がこの作品を最初の「芸術的な提案(proposition artistique)」と呼んだことを紹介しています。詩集は読めなくなり、言葉は口を閉ざされました。その代わりに、本の束は1つの彫刻になりました。S.M.A.K.の解説によると、この作品は文学の仕事の終わりと、美術家としての出発の両方を示しています。
題名にも仕掛けがあります。「pense-bête」はフランス語で「備忘録、覚え書き」という意味ですが、言葉どおりに読むと「考える獣」とも「考える、愚かな」とも取れます。S.M.A.K.は、この1点に、言葉とイメージと作品の関係、そして芸術家の経済的な立場という、生涯を通じた2つのテーマがすでに表れていると説明しています。長い時間をかけて書いても売れなかった詩集が、短い時間で作った彫刻になったとたん、売り物になる。その皮肉も作品の一部です。
S.M.A.K.によると、ブロータースは、この作品が詩でもあり美術作品でもあるという二重の性格に、世間がまったく気づかなかったことにひどく驚いたといいます。詩集の中身に興味を持つ人は、やはり誰もいませんでした。言葉を読ませないことで、かえって言葉の置かれた立場が浮かび上がる。この逆説は、その後の作品にもくり返し現れます。
ブリタニカは、この時期のほかの作品として、真鍮のシンバルに絵具や石膏をほどこした作品(1964年)や『The Grandmother』(1964年)を挙げています。日用品に少し手を加えるだけで「美術品」に変えてしまうやり方は、マルセル・デュシャンのレディメイドと通じるところがあると考えられます。
ムール貝と卵の殻(1964年〜1960年代後半)
美術家としての訓練を受けていなかったブロータースは、伝統的な技術を使わず、拾ったものを石膏に埋め込むやり方で作品を作りました。MoMAによると、近所のレストランから手に入れたムール貝の殻と卵の殻が、彼の代名詞となる素材になりました。
ムール貝とフライドポテト、石炭といった、ベルギーを連想させるものを使って、自分の国のイメージにも向き合いました。ブリタニカは、この時期の作品として『The Black Problem in Belgium』(1963〜64年)、『Triumph of Mussel I』(1965年)、『Panel of Mussels』(1966年と1968年)などを挙げています。
『Four Eggs』(1966年)
『Four Eggs』は、白く塗ったカンヴァスの上に、上の部分が割れた4つの卵の殻を横一列に並べた小さな作品です。殻のまわりには、薄い茶色の線で長方形の枠が描かれ、右下には「M.B.」の頭文字が書き込まれています。MoMAの記録では、素材は「卵の殻と絵具、木枠に張ったカンヴァス」、大きさは縦22センチ、横27センチほどです。

中身が空になった殻を額縁のような線で囲むことで、捨てられるはずのものが「絵」として差し出されます。卵の殻はムール貝と並んで、この時期のブロータースがくり返し使った素材でした。
『Pot of Mussels』(1968年)
『Pot of Mussels』では、取っ手のついた白い平鍋に、黒いムール貝の殻が縁からあふれるほど山盛りにされています。MoMAの記録によると、素材は「着色した樹脂で固めたムール貝の殻、塗装した鍋」です。

MoMAの解説は、この作品が、同じように山盛りにした木製のフライドポテトの鉢と組み合わされていることにふれ、ムール貝とフライドポテト(ムール・フリット)がベルギーの国民的な料理とされていることへの機知に富んだ目配せだと説明しています。さらにフランス語では、ムール貝を意味する「la moule」と、彫刻家が使う型を意味する「le moule」が、発音もつづりもよく似ています。貝殻を彫刻に取り込むことで、ブロータースは言葉の駄じゃれを目に見える形に変えたのだと、MoMAは書いています。
コンセプチュアル・アートとブロータース
コンセプチュアル・アートは、作品の見た目の美しさや職人的な技術よりも、作品を支える考え(コンセプト)を中心にすえる美術です。1960年代後半から広がり、言葉や写真、印刷物、身の回りの品が作品の素材として使われるようになりました。
ブロータースは、この流れの中で独自の位置をしめた作家です。2011年、MoMAは1960年代後半から70年代のアメリカとヨーロッパのコンセプチュアル・アートを集めた「ダレド・コレクション(Daled Collection)」を取得しました。このコレクションには、ブロータースの作品60点以上と、めったに公開されない資料や写真が含まれていたと、MoMAは発表しています。S.M.A.K.も、『Pense-Bête』から始まった制作が、ヨーロッパのコンセプチュアル・アートの中で最も重要なものの一つになったと紹介しています。

ブロータースの場合、詩人から美術家への転身は「詩を捨てた」ことを意味しませんでした。MoMAの資料は、初期の作品が詩から離れようとしたものではなく、詩の届く範囲を広げようとする試みだったと説明しています。言葉、物、そしてそれを見せる場所。この3つの関係を組み替えることが、ブロータースの仕事の中心にありました。
架空の美術館「近代美術館・鷲部門」(1968年〜1972年)
1968年、ブロータースは自分はもう美術家ではないと宣言し、自ら館長となって架空の美術館を立ち上げました。名前は「近代美術館・鷲部門(Musée d’Art Moderne, Département des Aigles)」です。
最初の展示は、ブリュッセルのペピニエール通りにあった自宅で開かれた「19世紀部門(Section XIXe siècle)」でした。ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館によると、ブロータースはここで美術品そのものではなく、複製や、美術品が入っているかのように思わせる文字を刷った木箱を並べました。
MoMAの資料によると、この美術館は作品の展示よりも、記録、広報、財務といった美術館を支える活動に光を当てるもので、ブロータースはそれを案内状や出版物、映画、スライドの投影、物によって表しました。権威ある立場を演じながら、内側から美術館を批評したのです。4年のあいだに、ヨーロッパの7つの都市で12回の仮設の展示を行い、それぞれを「部門(section)」と呼びました。
1972年5月には、ドイツのクンストハレ・デュッセルドルフで「形象部門(Section des Figures)」を開きました。ブリタニカによると、「漸新世から現代までの鷲」という副題のとおり、鷲にまつわるさまざまな時代の像を平面と立体で集めた展示でした。同じ1972年、ブロータースは館長としての役目を終え、ふたたび美術家に戻ることを宣言します。
各部門はもともと散らばった場所で短い期間だけ開かれたもので、全体を一度に見せることは想定されていなかったと、MoMAは書いています。
詩を「イメージ」に変える(1969年)
『Un coup de dés jamais n’abolira le hasard』(1969年)
架空の美術館と並行して、ブロータースは本の形の作品も作りました。『Un coup de dés jamais n’abolira le hasard』(MoMAの英題は A throw of the dice will never abolish chance)は、フランスの詩人ステファヌ・マラルメの同じ題名の詩へのオマージュです。表紙には黒い文字の作家名の下に、題名が赤い文字で刷られ、その下に小さく「IMAGE」と入っています。

MoMAの解説によると、マラルメの詩は、文をページの見開きいっぱいに広げ、いくつもの書体を使うことで、言葉を空間と活字の約束ごとから解き放とうとしたものでした。ブロータースは自分の版で、原典の各行を、もとの活字の大きさに合わせた太さの黒い帯で塗りつぶしました。詩の文字は読めなくなり、詩の「形」だけが抽象的なイメージとして残ります。表紙の「Poème(詩)」という語も「Image(イメージ)」に置き換えました。MoMAの記録では、アントワープのワイド・ホワイト・スペース画廊とケルンのミヒャエル・ヴェルナー画廊が刊行した32ページの本で、300部が作られています。
マラルメの詩は、紙の種類の違う3つの版で出版されました。ブロータースもその方法をなぞり、半透明の紙に刷ったもの、普通の紙に刷ったもの、1枚ずつのアルミ板に刻んだものの3種類を作りました。MoMAは、この3種類すべてを所蔵しています。
詩集を石膏で固めた『Pense-Bête』と同じように、ここでも「読めなくする」ことで、言葉が物として、イメージとして立ち上がってきます。MoMAの公式YouTubeでは、この作品についての短い動画を見ることができます。
詩と美術が出会う場所としての映画
ブロータースは、映画も作品の大切な柱としていました。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館によると、1957年から1976年までのあいだに、およそ50本の映画を作っています。同館はそのうち1本を除くすべてを所蔵しており、これらの映画は単独で成り立つものではなく、詩と美術が出会う場所だと説明しています。
たとえば1967年の映画『Le Corbeau et le Renard(カラスとキツネ)』では、詩の言葉を描き込んだ映写用のスクリーンを作りました。文字の書かれた幕の上に映像が映ることで、読むことと見ることが重なり合います。MoMAもこの作品を、写真を焼き付けたカンヴァスや木箱、リトグラフなどからなる組作品として所蔵しています。
晩年のデコールの中でも、ブロータースは自分の展覧会を舞台にして映画を撮りました。MoMAの資料は、それが最初の映画、つまりシュヴィッタースの展覧会の中で撮った作品にさかのぼるものだと指摘しています。展示室は作品を見せる場所であると同時に、撮影のためのセットにもなったのです。
ふたたび美術家へ 文字の絵画(1972年〜)
美術家に戻ったブロータースは、絵筆を一度も手に取らなくてよい、新しい形の絵画を考え出しました。MoMAによると、それが「文学的絵画(Peintures littéraires)」です。カンヴァスに言葉を印刷することで、絵画を作りました。
『English Series』(1972年)
『English Series』は、木枠に張らない下地塗りのカンヴァス9枚に、活版印刷で文字を刷った作品です。そのうちの1枚には、赤い文字で「The Dimension of Edgar Allan Poe」と、詩人エドガー・アラン・ポーの生没年「1809-1849」が刷られ、2つの文字列のあいだに細い飾り罫が入っています。MoMAの記録では、1枚の大きさは縦81センチ、横101センチほどです。

絵の具も筆の跡もない画面は、まるで本の扉のようです。けれども壁に掛けられたとき、それは「絵画」として見られます。詩人だったブロータースが、言葉と絵のあいだにある境目そのものを作品にしていたことがよく分かります。
インスタレーションの先駆け「デコール」と『白い部屋』(1974年〜1976年)
1974年から亡くなる1976年まで、ブロータースは自分の過去の作品と新しい作品、借りてきた物を一緒に見せる大がかりな展示を行い、それを「デコール(Décor)」と呼びました。MoMAによると、ヤシの木やじゅうたん、19世紀の陳列ケースといった、時代遅れの飾りつけをわざと使うことで、装飾や演劇のイメージを呼び起こし、「芸術のための芸術」というモダニズムの標語と鋭い対照をなしました。フランス語の「décor」には映画のセットという意味もあり、ブロータースは自分の回顧展の中で何本も映画を撮っています。MoMAは、このデコールが、今日インスタレーション・アートと呼ばれるものの先例になったと紹介しています。
ブリタニカによると、デコールには新旧の作品が並べて置かれ、古い映画で使われた小道具や室内の調度品も持ち込まれました。実物大の空間が、過去の時代や政治・社会の問題を指し示し、批評する仕掛けになっていたといいます。代表的なデコールとして、ブリタニカは1974年の『A Winter Garden II』などを挙げています。
MoMAの資料は、ブロータースが自分の作品を展示のたびに新しく組み直すことで、美術館の回顧展が前提にする「年代順に作家が成長していく」という筋書きをくつがえし、同じ物でも見せ方によって意味が変わることを示したと説明しています。
この時期の代表作が『La Salle blanche(白い部屋)』(1975年)です。ブリタニカによると、ブリュッセルにあったブロータースのアトリエを実物大で再現した、家具のない部屋で、壁には美術に関係する言葉が書き散らされています。MoMAの資料によれば、ブロータースは看板描きの職人を雇い、「toile(カンヴァス)」や「huile(油)」などの言葉を壁と天井に書き入れさせました。『白い部屋』は1975年にパリで展示されました。これが生前最後の展覧会になったと、ブリタニカは書いています。
ブロータースは1976年1月28日、ケルンで亡くなりました。ブリタニカによると、12年の美術家としての活動のあいだに、伝統的なものからそうでないものまで多くの手段で作品を作り、70回ほどの個展を開きました。
没後の評価とMoMAの回顧展(2016年〜2017年)
2016年2月14日から5月15日まで、MoMAで「Marcel Broodthaers: A Retrospective」が開かれました。MoMAの発表によると、ニューヨークで初めての本格的な回顧展で、1963年から1975年に作られたものを中心に、およそ200点が集められました。MoMAとスペイン・マドリードのソフィア王妃芸術センターが共同で企画し、同年10月にはマドリードへ、2017年3月にはドイツのデュッセルドルフにあるノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館へ巡回しています。
MoMAの会場は4つの部屋に分かれていました。発表資料によると、展示は6階の吹き抜けに置かれた『L’Entrée de l’exposition(展覧会の入り口)』(1974年)から始まります。版画や写真、絵画をヤシの木のあいだに並べた作品です。最初の部屋では1940年代後半から60年代初めの詩と初期の写真や映画を紹介し、架空の美術館は残された断片と、まとまった形で唯一残る「広告部門(Section Publicité)」で示されました。
ベルギーでは、『Pense-Bête』がフランドル政府の作品購入制度「コレクシー・フラーンデレン(Collectie Vlaanderen)」で購入され、S.M.A.K.に長期貸与されました。S.M.A.K.は、これによって作品をより多くの機会に公開できるようになったと紹介しています。ブリタニカは、ブロータースが美術界の制度の内側と外側の両方で仕事ができる、類いまれな力を持っていたことから、後の世代の美術家に尊敬され、長く影響を与えたと書いています。
まとめ
いかがだったでしょうか。マルセル・ブロータースの人生と作品について、ご紹介してきました。
ブロータースは1924年にブリュッセルで生まれ、40歳になるまで詩人として活動しました。1964年、売れ残った詩集を石膏で固めた『Pense-Bête』で美術家としての一歩を踏み出し、ムール貝や卵の殻を使った作品で、言葉の駄じゃれやベルギーのイメージを目に見える形にしました。
1968年からは架空の「近代美術館・鷲部門」の館長を名のり、ヨーロッパの7都市で12回の「部門」を開いて、美術館という仕組みを内側から問いました。1972年に美術家へ戻ってからは、言葉を印刷したカンヴァスの「文学的絵画」や、過去の作品と借りた物を組み合わせた「デコール」へと進み、1975年の『白い部屋』が生前最後の展覧会となりました。
美術家としての活動はおよそ12年でしたが、詩、物、本、映画、展示空間を行き来した仕事は、MoMAが「インスタレーション・アートの先例」と呼ぶほどの広がりを持っています。読めなくなった詩集や、空っぽの卵の殻の前で、「これは芸術なのか」と立ち止まること。それ自体が、ブロータースの作品の楽しみ方なのかもしれません。
Euphoric " " の視点
ブロータースが美術家として活動したのは、およそ12年でした。40歳まで詩人として生き、売れ残った詩集を石膏で固めたところから出発した人が、架空の美術館を立ち上げ、本や映画、展示空間そのものへと仕事を広げていきました。
詩を捨てたのではなく、言葉を物やイメージに置き換えることで、詩人の問いを別の形で続けたのだと考えます。遅く始めたことは、仕事の深さを妨げませんでした。それまでに培った自分の言葉を手放さずに新しい分野へ持ち込むことが、ほかの誰にもできない仕事を生む。ブロータースの歩みは、そのことを示しています。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。2026年10月時点で、記事で紹介した作品の多くは常設展示ではなく、展示の時期が限られます。






