【徹底解説】雪舟とは?国宝6件を残した水墨画の画聖の人生と作品を解説!

【徹底解説】雪舟とは?国宝6件を残した水墨画の画聖の人生と作品を解説!
画像:『天橋立図』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは雪舟という人物をご存知ですか?

室町時代に生きた禅僧であり、日本の水墨画を代表する画家です。中国(明)へ渡って本場の絵を学び、帰国してからは京都の画壇から離れた西国の地で、自分だけの山水画をつくり上げました。

国が国宝に指定している絵画のうち、雪舟の作品は6件あります。一人の画家の作品としては飛び抜けて多い数で、後の世に「画聖」と呼ばれるようになった理由のひとつでもあります。

本記事ではそんな雪舟の人生と作品についてご紹介します。

雪舟って?

基本情報

本名僧としての名(諱)は等楊(とうよう)。「雪舟」は号。俗名は伝わっていない。若いころは「拙宗等揚(せっしゅうとうよう)」と名乗っていたと考えられている
生年月日(没年月日)1420年(応永27年)、月日は不詳〜没年は確定しておらず、1506年(永正3年)説と1502年(文亀2年)説がある。命日も8月8日、9月16日など諸説あり
国籍/出身日本 備中国赤浜(現在の岡山県総社市)
学歴記録なし。若いころに京都の相国寺に入り、禅の修行と絵の修業を積んだ
分野水墨画(山水画・人物画・花鳥画)。禅僧(臨済宗)。作庭も伝えられる
傾向中国の宋元画と明の浙派に学びながら、力強い輪郭線と骨太な構成で日本独自の水墨山水を確立した
師事した人物/影響を受けた人物春林周藤(禅の師)、天章周文(絵の師)、如拙、明の李在(りざい)・長有声(ちょうゆうせい)、南宋の夏珪・馬遠・梁楷

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経歴と作品

備中に生まれ、涙で鼠を描いたという少年

雪舟は1420年(応永27年)、備中国赤浜に生まれました。現在の岡山県総社市にあたる場所です。ただし、生まれた日も、家がどんな家だったのかも、はっきりした記録は残っていません。

雪舟ゆかりの地を紹介するサイト「雪舟回廊」(山口市文化交流課)によれば、雪舟は13歳のころに備中井山の宝福寺(ほうふくじ)に入って僧になったと伝えられています。当時、地方の子どもが学問や教養を身につける道として、寺に入るのはごく普通のことでした。

この宝福寺を舞台にした、とても有名な話があります。

お経の修行をせずに絵ばかり描いている少年を、和尚が本堂の柱に縛りつけてしまいます。しばらくして様子を見に行くと、少年の足もとで大きな鼠が動いている。追い払おうとしても動かない。よく見るとそれは、少年がこぼした涙を足の親指につけて床に描いた鼠だった、という話です。

とても魅力的なエピソードですが、これは史実ではなく、後の時代に生まれた話だと考えられています。

この話が最初に登場するのは、江戸時代のはじめごろ、画家の狩野永納が著した『本朝画史』(1693年刊)です。雪舟が亡くなってから、およそ200年後の本ということになります。京都国立博物館も「博物館ディクショナリー」のなかで、この話が事実だったかと問われれば「そうではない」と答えざるをえない、とはっきり書いています。

それでもこの話が語り継がれてきたのは、雪舟という画家が後の人たちにとって、それほど特別な存在だったからでしょう。天才の少年時代はこうであってほしい、という願いが、物語のかたちをとったのだと考えられています。

京都・相国寺での修行と、「拙宗」の時代

やがて雪舟は京都に上り、相国寺(しょうこくじ)に入ります。入寺した年齢については10歳ごろとする説と17歳ごろとする説があり、確定していません。

相国寺は、室町幕府の3代将軍・足利義満が建てた京都五山のひとつで、当時の禅宗文化の中心地でした。雪舟はここで春林周藤(しゅんりんしゅうとう)について禅の修行を積み、絵は幕府の御用絵師をつとめた当代随一の水墨画家天章周文(てんしょうしゅうぶん)に学んだとされています。禅と絵、どちらの分野でも最高の師についていたことになります。

当時の禅寺では、絵を描くことは修行の一部でもありました。中国から輸入された宋元時代の水墨画を手本に、僧たちは山水を描き、詩を添えて楽しんでいたのです。雪舟が最初に身につけたのは、この「禅僧の絵」でした。

ところで、雪舟は最初から「雪舟」と名乗っていたわけではありません。若いころは「拙宗等揚(せっしゅうとうよう)」と号していたと考えられています。

この拙宗と雪舟が同一人物かどうかは長く議論されてきましたが、現在では同じ人物と見る説が有力です。e国宝(国立文化財機構)も、雪舟はおよそ40代半ばごろに「雪舟」と改名したと説明しています。1465年(寛正6年)ごろから「雪舟」を名乗るようになったと考えられています。

『山水図』(室町時代・15世紀)

拙宗等揚(雪舟)『山水図』(室町時代・15世紀)
拙宗等揚(若いころの雪舟)『山水図』(室町時代・15世紀)京都国立博物館 重要文化財/出典:e国宝(国立文化財機構)経由 Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

京都国立博物館が所蔵する、「拙宗」の号を持つ重要文化財の山水図です。

縦に長い画面の右側に、切り立った崖と、そこに張りつくように建つ楼閣が描かれています。崖の下には松が生い茂り、画面の左奥には霞のなかに岩峰がうっすらと見えています。上部には七言の詩が書き添えられ、朱色の印が押されています。

中国の宋元画を手本にした、当時の禅僧の絵らしい作品です。この段階の雪舟は、「雪舟らしさ」よりも中国絵画の様式を忠実に学ぶ段階にいたことがうかがえます。

周防・山口へ下り、応仁元年に明へ渡る

1454年(享徳3年)ごろ、雪舟は京都を離れ、周防国(現在の山口県)へ下ります。30代半ばのことでした。

周防を治めていたのは、西国の有力な守護大名である大内氏です。大内氏は朝鮮半島や中国との貿易で莫大な富を築き、山口の町は「西の京」と呼ばれるほど京文化が栄えていました。

雪舟は大内教弘(のりひろ)の庇護を受け、山口に画室「雲谷庵(うんこくあん)」を構えました。現在の山口市天花にあたる場所で、跡地は今も残されています。

なぜ京都を離れたのか、理由を書いた史料はありません。ただ、大内氏のもとには雪舟がどうしても手に入れたいものがありました。中国へ渡る船です。

そして1467年(応仁元年)、雪舟は大内氏が仕立てた遣明船に乗り、明へ渡ります。数えで48歳のときでした。

この年は、京都で応仁の乱が始まった年でもあります。都が焼け落ちていくのと入れ替わるように、雪舟は海を渡っていったことになります。

明に着いた雪舟は、まず寧波(ニンポー)に上陸し、近くの名刹・天童山景徳禅寺に滞在しました。ここで得たのが「四明天童山第一座」の称号です。第一座とは修行僧の筆頭格を指す位で、外国から来た僧に与えられるのは異例でした。雪舟はのちの作品の署名にも、この肩書きを誇らしげに記しています。

さらに雪舟は北京まで足を延ばし、政府の建物に壁画を描いて大いに評判になったと伝えられています。

そして絵については、明の画家李在と長有声に学びました。これは後年、雪舟自身が『破墨山水図』に書き残していることなので、確かな事実です。

雪舟が滞在した当時の中国で流行していたのは、宮廷を中心とした浙派(せっぱ)と呼ばれる画風でした。南宋の馬遠・夏珪の系統を引く、力強い筆づかいと明快な構成が特徴です。雪舟はこの画風を吸収し、日本に持ち帰ることになります。

『四季山水図』(室町時代・15世紀)

雪舟等楊『四季山水図』のうち秋景(室町時代・15世紀)
雪舟等楊『四季山水図』のうち秋景(室町時代・15世紀)東京国立博物館 重要文化財/出典:Google Arts & Culture(提供:東京国立博物館)経由 Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
雪舟等楊『四季山水図』のうち冬景(室町時代・15世紀)
雪舟等楊『四季山水図』のうち冬景(室町時代・15世紀)東京国立博物館 重要文化財/出典:Google Arts & Culture(提供:東京国立博物館)経由 Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

東京国立博物館が所蔵する重要文化財で、春夏秋冬をそれぞれ1幅ずつ描いた4幅の大作です。1幅の大きさは縦149.0センチ、横75.8センチ。絹地に墨と淡い色を用いた、とても大きな掛軸です。

e国宝は、この作品を雪舟が中国滞在中に描いたものと説明しています。絹という材料も、画面の大きさも、主題も描き方も、いずれも中国のやり方に沿っています。画中には「日本禅人等楊」という署名があり、「日本から来た禅僧」として自分を名乗っていたことがわかります。

秋景の図では、画面の下に集落が広がり、中ほどの岩の上に朱塗りの楼閣が建ち、その上に霧をまとった巨大な岩山がそびえています。冬景の図では、雪をかぶった険しい岩山と枯れ枝の木立が描かれ、遠くには凍った水面が広がります。

手前から奥へと空間を積み上げる構成、岩の面を描き分ける筆づかい、画面を引き締める大きな塊のつくり方。のちの雪舟の山水画は、ここで得たものを土台にしています。

帰国後、西国をめぐる日々と『山水長巻』

1469年(文明元年)、雪舟は約2年の滞在を終えて日本に帰ってきます。

しかし、帰る先の京都は応仁の乱の真っただ中でした。雪舟は都に戻らず、西国を拠点に活動を続けます。幕府や寺社の注文に縛られないこの立場が、独自の画風を育てる余地を生んだとも言えます。

1476年(文明8年)ごろ、雪舟は豊後(現在の大分県)に移り、画房「天開図画楼(てんかいとがろう)」を開きます。ここでは豊後の大名・大友氏の支援を受けていました。この画房について記した唯一の史料は、雪舟と同じ遣明船で中国へ渡った僧・呆夫良心(ほうふりょうしん)が書いた『天開図画楼記』です。

1481年(文明13年)の秋からは美濃(現在の岐阜県)へ旅に出ています。雪舟は60代になっても、驚くほどよく歩き、よく旅をした人でした。

そして石見国益田(現在の島根県益田市)にも、たびたび足を運んでいます。益田の領主だった益田兼堯(ますだかねたか)との交流は深く、1479年(文明11年)には兼堯の肖像画を描きました。

『益田兼堯像』(1479年)

島根県の益田市立雪舟の郷記念館が所蔵する重要文化財です。紙に彩色をほどこした肖像画で、画面の上部には石見東光寺の僧・竹心周鼎が寄せた文明11年冬の賛が書かれています。この賛があることで、制作された時期がはっきりわかる貴重な作品になっています。

雪舟は山水画の人というイメージがありますが、こうした肖像画もこなしました。兼堯の顔つきを正確にとらえ、気品のある姿に仕上げています。

1989年(平成元年)に益田市がこの肖像画を購入したことが、翌1990年(平成2年)10月の雪舟の郷記念館の開館につながりました。作品が、町の施設を生んだことになります。

『四季山水図巻(山水長巻)』(1486年)

雪舟の代表作にして、国宝。山口県防府市の毛利博物館が所蔵しています。

紙に墨と淡い色で描かれた巻物で、その長さはおよそ16メートル。縦は約40センチですから、細長い帯のような画面が延々と続くことになります。一般に「山水長巻(さんすいちょうかん)」と呼ばれています。

右端から左へ開いていくと、春に始まって夏、秋と移り、冬で終わります。城壁に囲まれた町、松林、入り江、高くそびえる岩山、帆をあげた船、雪におおわれた山里。場面は次々に変わりますが、四季の移り変わりはどこにも継ぎ目なく一続きの風景として描かれています。

巻末には「文明十八年嘉平日 天童前第一座雪舟叟等揚六十有七歳筆受」という奥書があります。1486年(文明18年)、67歳のときの作だとわかる、貴重な手がかりです。

この作品はもともと大内氏が所有していましたが、大内氏が滅びたあと毛利氏の手に渡り、現在は毛利博物館に伝わっています。作品を良い状態で守るため、常時公開されているわけではありません。毛利博物館では、毎年おおよそ11月から12月にかけて開かれる特別展「国宝」で実物が公開されるのが恒例になっています。それ以外の時期は複製が展示されることが多いので、実物をご覧になりたい方は公式サイトで会期を確認してからお出かけください。

76歳の『破墨山水図』と、77歳の『慧可断臂図』

70代に入った雪舟は、生涯でも屈指の名作を立て続けに生み出します。

『破墨山水図』(1495年)

雪舟等楊『破墨山水図』のうち絵の部分(1495年)
雪舟等楊『破墨山水図』のうち絵の部分(明応4年・1495年)東京国立博物館 国宝/出典:e国宝(国立文化財機構)経由 Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

東京国立博物館が所蔵する国宝です。文化財としての指定名称は「紙本墨画山水図」ですが、古くから『破墨山水図(はぼくさんすいず)』の名で知られています。縦148.6センチ、横32.7センチ。1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定されました。

輪郭の線をほとんど使わず、墨をはね散らすように描く技法を潑墨(はつぼく)と言います。この作品はその代表例で、雪舟自身が書いた序文に「破墨の法」という言葉が出てくることから、古来『破墨山水図』と呼ばれてきました。

画面を見ると、上のほうに岩峰らしきものが霞んで見え、中央に岩と樹木の塊、右下の水面には小さな舟に2人の人影があります。細かい描写はほとんどありません。それなのに、山の高さも、空気の湿り気も、水の広がりも伝わってきます。左下には「雪舟」の署名と、朱の印が2つ押されています。

この作品が特別なのは、絵そのものだけではありません。画面の上部に、雪舟自身が書いた長い序文があるからです。

この絵は、周防で雪舟に学んだ弟子の如水宗淵(じょすいそうえん)が故郷の相模(現在の神奈川県)へ帰るとき、師から画業を受け継いだ証として描き与えられたものでした。

序文のなかで雪舟は、かつて中国へ渡り李在と長有声に絵を学んだこと、そして日本では如拙と周文の絵を受け継ぐ者であることを、はっきりと書き記しています。自分がどこから来て、何につながっているのか。76歳の画家が、弟子に向けて自分の来歴を語った文章なのです。

宗淵はこの絵を持って京都へ行き、当時の京都五山を代表する詩僧6人から題詩をもらいました。1本の掛軸のなかに、絵と、画家の自伝と、同時代の一流の文人たちの言葉が同居しているのです。

『慧可断臂図』(1496年)

愛知県の斉年寺(さいねんじ)が所蔵する国宝です。2004年(平成16年)6月8日に国宝に指定されました。画面には「七十七歳」の款記があり、1496年(明応5年)の作だとわかります。

描かれているのは、禅宗の始まりを語る有名な場面です。

インドから中国へ渡った達磨(だるま)が壁に向かって坐り続けているところへ、慧可(えか)という僧が訪ねてきて弟子入りを願い出ます。振り向きもしない達磨に、慧可は自らの左腕を切り落として覚悟を示し、ようやく受け入れられて禅宗の第二祖となった、という話です。

雪舟はこの場面を、人の背丈を超える大きな画面に描きました。画面の右端いっぱいに岩が畳みかけるように重なり、洞窟のなかで達磨が背を向けて坐り、そのわきに切った腕を差し出す慧可が立っています。

雪舟の国宝6件のうち、山水画でないのはこの1件だけです。文化遺産オンラインは「本図を類稀な作品にしているのは、ふたりの人物を囲む岩の描写である」としたうえで、この作品を「雪舟渾身の作」と評しています。

『黄初平図』(室町時代・15世紀)

雪舟等楊『黄初平図』(室町時代・15世紀)
雪舟等楊『黄初平図』(室町時代・15世紀)京都国立博物館 重要文化財/出典:e国宝(国立文化財機構)経由 Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

雪舟の人物画の魅力が伝わる作品を、もう1点ご紹介します。京都国立博物館が所蔵する重要文化財『黄初平図(こうしょへいず)』。縦30.2センチ、横30.6センチ。ほぼ30センチ四方の、小さな画面です。

黄初平は、中国の晋の時代の仙人です。石を羊に変えることができたと伝えられています。画面では、松の枝が垂れ下がる下で、烏帽子をかぶった人物が身をかがめ、左下の石に向かって手を差し伸べています。その石は、すでに羊の姿に変わりかけています。

筆数はごくわずかです。それでも、仙人の身のこなしと、いままさに奇跡が起きようとしている緊張が伝わってきます。e国宝はこの作品を、南宋の宮廷画家・梁楷(りょうかい)の様式にならったものだと説明しています。

80代の傑作『天橋立図』

雪舟は80代になっても旅をやめませんでした。1501年(文亀元年)ごろ、丹後国の天橋立(現在の京都府宮津市)を訪ねています。

『天橋立図』(室町時代・15〜16世紀)

雪舟等楊『天橋立図』(室町時代・15〜16世紀)
雪舟等楊『天橋立図』(室町時代・15〜16世紀)京都国立博物館 国宝/出典:e国宝(国立文化財機構)経由 Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

京都国立博物館が所蔵する国宝で、1952年(昭和27年)3月29日に指定されました。紙に墨と淡い色で描かれ、大きさは縦89.5センチ、横169.5センチ。横に大きく広がる構図です。

日本三景のひとつ天橋立を、空から見下ろすように描いた大作です。画面のほぼ中央に松が生い茂る細長い砂州と智恩寺が置かれ、その上方には阿蘇海をはさんで寺社が立ち並ぶ府中の町並み、さらに背後に大きな山塊と成相寺の伽藍が配されています。

ここで面白いのは、実際にはこの景色を一望できる場所が存在しないということです。京都国立博物館の解説によれば、雪舟は現地でいくつもの写生を行い、あとからそれらを組み合わせて一枚の実景図に仕立てたと考えられています。

しかも、ただ組み合わせただけではありません。成相寺が建つ山は極端に高くそそり立たせ、府中の町並みは横に引き伸ばす。見たとおりに写すのではなく、その土地がどういう場所なのかが伝わるように組み立て直しているのです。

制作の時期については諸説ありますが、画中の智恩寺に多宝塔が描かれていることが手がかりになります。現存する多宝塔が再建されたのは文亀元年(1501年)ですから、それ以降の作ということになります。京都国立博物館は、雪舟80代の最晩年期とする説が有力だと紹介しています。

もうひとつ、この作品には不思議な点があります。寸法の違う21枚もの小さな紙を不規則に貼り合わせた紙に描かれており、描き直しの跡も認められるのです。そのため、これは完成した絵(本絵)ではなく下絵だったのではないかという指摘があります。下絵でこの完成度なのだとしたら、と考えると、雪舟という画家の底の深さに驚かされます。

教科書でおなじみの『秋冬山水図』と、海を渡った屏風

雪舟の作品のなかで、おそらく最も多くの人が目にしているのが『秋冬山水図』です。歴史の教科書や切手にも使われてきました。

『秋冬山水図』(室町時代・15世紀末〜16世紀初)

雪舟等楊『秋冬山水図』のうち秋景図(室町時代・15世紀末〜16世紀初)
雪舟等楊『秋冬山水図』のうち秋景図(室町時代・15世紀末〜16世紀初)東京国立博物館 国宝/作品:パブリックドメイン、画像:ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム、CC BY 4.0)/出典:Wikimedia Commons
雪舟等楊『秋冬山水図』のうち冬景図(室町時代・15世紀末〜16世紀初)
雪舟等楊『秋冬山水図』のうち冬景図(室町時代・15世紀末〜16世紀初)東京国立博物館 国宝/作品:パブリックドメイン、画像:ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム、CC BY 4.0)/出典:Wikimedia Commons

東京国立博物館が所蔵する国宝です。紙に墨のみで描かれた2幅で、大きさは各47.7センチ×30.2センチ。意外なほど小さな作品です。

秋景図は、手前から奥へと岩組が交互に配され、よく整理された構成です。中ほどの高台に楼閣が建ち、左下の水辺には帆柱を立てた小舟が浮かびます。少しずつ奥へ視線が進んでいく画面です。

一方、冬景図は雰囲気が一変します。画面の上から下へ、断崖を大胆に切り取った垂直の線がまっすぐに走っているのです。その線を軸に、角ばった岩や崖、枯れ木、建物が複雑に重なり合い、抽象度の高い画面をつくっています。左上には「雪舟」の署名と朱印があります。

実際の風景のどこにも、こんな線はありません。それでも、この一本があることで画面が引き締まり、凍りつくような冬の空気が生まれています。見たものを写すのではなく、絵を絵として成り立たせるために線を引く。その思い切りのよさが、多くの人を惹きつけてきました。

なお、この2幅がもともとどういう形で鑑賞されていたのかは、はっきりしていません。四幅一対の四季山水図のうち二幅だけが残ったとみる説、画帖や貼付屏風に使われていたとみる説などがあります。

『四季花鳥図屏風』(室町時代・15世紀末〜16世紀初)

雪舟等楊『四季花鳥図屏風』のうち秋冬(室町時代・15世紀末〜16世紀初)
雪舟等楊『四季花鳥図屏風』のうち秋冬(室町時代・15世紀末〜16世紀初)フリーア美術館(アメリカ・F1953.95)/出典:フリーア美術館公式画像 経由 Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

雪舟の作品は、日本国内だけにあるわけではありません。アメリカ・ワシントンD.C.にあるスミソニアンのフリーア美術館は、雪舟の作とする六曲一双の花鳥図屏風を所蔵しています。1隻は縦178.3センチ、横375.7センチ。ここに掲げたのは、秋と冬を描いた1隻です。

右から左へ、季節が秋から冬へと移っていきます。右側には秋草と水鳥、中央には大きくねじれながら伸びる古木、左側には竹と白鷺。奥には雪をいただいた遠い山が霞んでいます。

フリーア美術館は、前景の大きなねじれた枝が水のなかにいったん消え、また現れて遠くの雪山の眺めを縁取っている点に注目しています。屏風という大画面を1本の木の動きで貫いてまとめる。山水画で培った構成力が、花鳥画にも使われています。

右から左へ季節が移るのは日本の絵の伝統的なやり方ですが、花と鳥を主役にすること自体は中国絵画の伝統です。両方の流れを自分の手で束ねているところに、雪舟の立ち位置が表れています。

終わりの地と、「画聖」になるまで

雪舟がいつ、どこで亡くなったのかは、実はわかっていません。

没年は1506年(永正3年)とする説が最も多く、この場合は87歳で亡くなったことになります。一方で1502年(文亀2年)とする説もあります。命日も8月8日、9月16日など、伝えられる日付がまちまちです。文化庁の文化遺産オンラインは、雪舟の生没年を「1420〜1502/6」と幅を持たせて表記しています。

終わりの地についても同様です。石見国益田の大喜庵で亡くなったとする説が有力で、益田家の子孫が残した覚書にも、雪舟が老いてから石見の益田へ来て、この地で命を落としたという趣旨の記述があります。ただし、長く拠点にした山口の雲谷庵で亡くなったとする説、故郷の備中の寺で亡くなったとする説もあり、いずれも決め手を欠いています。

これほどの画家の最期がわからないのは意外に思えますが、雪舟が中央の御用絵師ではなく、西国を渡り歩く一人の禅僧だったことを思えば、うなずける話でもあります。

雪舟については、庭をつくったという伝承も各地に残っています。島根県益田市の医光寺と萬福寺、山口市の常栄寺、福岡県添田町の旧亀石坊。この4つは「雪舟四大庭園」と呼ばれ、医光寺庭園と萬福寺庭園は1928年(昭和3年)に、常栄寺雪舟庭は1926年(大正15年)に、それぞれ国の史跡および名勝に指定されました。

常栄寺の庭は、大内氏29代の大内政弘が雪舟に命じてつくらせたといわれています。池のなかには四仙島と呼ばれる4つの島が浮かびます。ただし、これらの庭が雪舟自身の手によるものかは確かめられておらず、いずれも「伝雪舟作」として伝わっているものです。

さて、雪舟はいつから「画聖」になったのでしょうか。

大きかったのは、後の画家たちが競って雪舟を「自分の先祖」として名乗ったことです。

ひとつは雲谷派(うんこくは)です。毛利輝元は画家の雲谷等顔に『山水長巻』を模写させ、その恩賞として1593年(文禄2年)に雪舟ゆかりの雲谷庵と長巻そのものを与えました。等顔はこれを機に姓を「雲谷」、名を雪舟の諱「等楊」から一字を取って「等顔」と改め、みずから雪舟三代を名乗ります。雲谷派はその後、毛利家(長州藩)の御用絵師として江戸時代を通じて続きました。

もうひとつは長谷川等伯です。能登から京都へ出て狩野派と渡り合った等伯は、1599年ごろから落款に「自雪舟五代」と記し、雪舟の5代目を称しました。雪舟、その弟子の等春、養祖父、養父と続けて、自分が5代目にあたるという系譜です。

血のつながりや直接の師弟関係があったという話ではありません。しかし、雪舟の名前を掲げること自体が画家としての正統性の証明になる時代が来ていた、ということです。国宝『松林図屏風』で知られる等伯についても、Euphoric " " で詳しく解説しています。

近代に入ってからも、雪舟の評価は高まり続けました。現在、国が国宝に指定している雪舟の作品は次の6件です。

  • 四季山水図巻(山水長巻):毛利博物館(山口県防府市)。1486年
  • 破墨山水図:東京国立博物館。1495年
  • 慧可断臂図:斉年寺(愛知県)。1496年
  • 天橋立図:京都国立博物館。室町時代・15〜16世紀
  • 秋冬山水図:東京国立博物館。室町時代・15世紀末〜16世紀初
  • 山水図(牧松周省・了庵桂悟の賛がある1幅):個人蔵

一人の画家の作品でこれだけの数が国宝になっている例は、日本の絵画史でもごくわずかです。

そして1956年、雪舟の没後450年にあたる年に、世界平和評議会が世界の文化人10人の一人として雪舟を選びました。このときソビエト連邦とルーマニアで記念切手が発行され、雪舟は外国の切手に描かれた最初の日本人になっています。

なお、雪舟の名前で伝わる作品はとても多く、そのすべてが本人の筆によるものとは限りません。「伝雪舟筆」とされる作品のなかには、専門家のあいだでも意見が分かれるものが少なくないのが実情です。京都国立博物館が所蔵する重要文化財『四季山水図巻』も、毛利博物館の「山水長巻」に対して「山水小巻」と通称されますが、こちらは「伝雪舟等楊筆」として登録されています。名前の大きさが、そのまま作品の数を増やしてしまった面もあるのです。

まとめ

いかがだったでしょうか。

雪舟は、備中の小さな寺に入った少年から出発し、京都の相国寺で禅と絵を学び、48歳で海を渡って明の画風を身につけ、帰国後は西国を歩きながら描き続けた画僧でした。

その生涯には、わからないことがたくさん残っています。生まれた日も、京都に上った年齢も、亡くなった年も場所も確定していません。涙で鼠を描いたという有名な話も、後の時代に生まれた物語です。

それでも作品は残りました。67歳で16メートルの『山水長巻』を描き、76歳で『破墨山水図』に自分の来歴を書き記し、77歳で『慧可断臂図』に挑み、80代で『天橋立図』を組み立てる。年を重ねるごとに、むしろ大胆になっていったように見えます。

雪舟の作品は、東京国立博物館、京都国立博物館、毛利博物館、益田市立雪舟の郷記念館などで見ることができます。ただし水墨画は光に弱く、展示期間が限られているものがほとんどです。毛利博物館の『山水長巻』は、例年11月から12月にかけての特別展「国宝」での公開が恒例になっています。

気になる作品がある方は、各館の公式サイトで公開の予定を確認してからお出かけください。教科書の小さな図版としてではなく、本物の紙と墨の前に立ったとき、この画家が600年近く語り継がれてきた理由が、少しだけ腑に落ちるかもしれません。

Euphoric " " の視点

雪舟は48歳で明へ渡り、本場の水墨画を学びました。しかし帰国後に拠点としたのは、都ではなく西国です。中央の画壇から距離を置いたまま、各地を歩いて描き続けました。

当時の常識では、都にいなければ評価は得にくかったはずです。それでも雪舟の画は残り、後の絵師たちが自らを雪舟の系譜と名乗るまでになりました。

場所が人を決めるのではなく、仕事が場所の意味を変える。地方から発信する人にとって、心強い先例です。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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