【徹底解説】ピーテル・パウル・ルーベンスとは?外交官も務めたバロックの巨匠の人生と作品を解説!

【徹底解説】ピーテル・パウル・ルーベンスとは?外交官も務めたバロックの巨匠の人生と作品を解説!
画像:『キリスト降架』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはピーテル・パウル・ルーベンスという人物をご存知ですか?

ルーベンスは17世紀のフランドル(現在のベルギー北部を中心とする地域)で活躍した画家で、北ヨーロッパのバロック美術を代表する存在です。

アントウェルペン(アントワープ)の聖母大聖堂に今も掛かる『キリスト昇架』『キリスト降架』、ルーヴル美術館にある24点の大連作「マリー・ド・メディシスの生涯」など、ヨーロッパ各地に巨大な作品を残しました。さらに彼は複数の言語を操る外交官でもあり、スペインとイングランドの和平交渉に深く関わって、両国の王から騎士として遇されています。

そして日本では、小説とアニメ『フランダースの犬』の最後に出てくる「あの絵」の作者としても知られています。

本記事ではそんなピーテル・パウル・ルーベンスの人生と作品についてご紹介します。

ピーテル・パウル・ルーベンスって?

ピーテル・パウル・ルーベンス『自画像』(1623年〜1630年頃)
ピーテル・パウル・ルーベンス『自画像』(1623年〜1630年頃)ルーベンスハウス(アントウェルペン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

基本情報

本名ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens/Pieter Pauwel Rubens)
生年月日(没年月日)1577年6月28日〜1640年5月30日(62歳没)
国籍/出身南ネーデルラント(現在のベルギー)/ジーゲン(現在のドイツ)生まれ、アントウェルペン育ち
学歴ラテン語学校で古典教育を受けたのち、トビアス・フェルハーヒト、アダム・ファン・ノールト、オットー・ファン・フェーンの工房で修業。1598年にアントウェルペンの聖ルカ組合に親方として登録
分野絵画(宗教画、神話画、肖像画、風景画)、版画やタペストリーの下絵、祝祭装飾の設計
傾向バロック美術、フランドル絵画、古典古代とイタリア・ルネサンスの総合
師事した人物・影響を受けた人物トビアス・フェルハーヒト、アダム・ファン・ノールト、オットー・ファン・フェーン。作品にはティツィアーノ、ティントレット、ミケランジェロ、カラヴァッジョ、古代彫刻の影響が指摘されています

ルーベンスと関わりの深い画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

【徹底解説】カラヴァッジョとは?波乱の人生を送ったバロック画家の生涯と作品を解説!

https://euphoric-arts.com/art-2/diego-velazquez/

【徹底解説】ミケランジェロの人生と作品に迫る〜彫刻だけじゃないルネサンスの万能人〜

【徹底解説】「真珠の耳飾りの少女」で知られる光の魔術師フェルメールの作品と生涯

バロック美術とフランドルって?

バロック美術とは、17世紀のヨーロッパを中心に広がった美術の様式で、強い明暗、渦を巻くような動き、劇的な構図によって見る人の感情に直接うったえかけるのが特徴です。イタリアではカラヴァッジョが、スペインではディエゴ・ベラスケスが、それぞれの道でこの時代を代表しました。

一方フランドルは、現在のベルギー北部を中心とした地域の呼び名です。ルーベンスが生きた時代、この地域はスペイン・ハプスブルク家が統治する「南ネーデルラント」で、カトリックの土地でした。北のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)がプロテスタントとして独立戦争を続けていたのとは対照的です。宗教改革に対抗するカトリック側は、戦乱で荒れた教会を飾り直そうとしており、ルーベンスの巨大な祭壇画はその需要のまん中に生まれたものでした。

経歴と作品

ドイツで生まれ、アントウェルペンへ

ルーベンスは1577年6月28日、現在のドイツ西部にある町ジーゲンで生まれました。

父ヤン・ルーベンスはアントウェルペンの法律家でしたが、カルヴァン派だったため迫害を恐れ、1568年に一家でドイツのケルンへ逃れます。ルーベンスが生まれたのは、一家が一時ジーゲンに移っていた時期のことでした。その後ケルンへ戻った一家はカトリックに復帰し、1587年に父が亡くなります。母マリア・ペイペリンクスが子どもたちを連れて故郷アントウェルペンへ帰ったのは、1590年のことでした。

アントウェルペンでルーベンスはラテン語学校に通い、ラテン語と古典文学をしっかり身につけました。のちに外交の席に出られたのも、このときの教育が土台になっています。

絵の修業は1592年頃から始まりました。風景画家トビアス・フェルハーヒト、物語画を得意としたアダム・ファン・ノールト、そしてイタリアで学んだ教養人オットー・ファン・フェーンと、3人の親方のもとを渡り歩き、1598年にアントウェルペンの聖ルカ組合(画家の同業組合)に親方として登録されます。21歳のことでした。

8年間のイタリア修業

1600年5月、23歳のルーベンスはイタリアへ旅立ちます。ここから1608年まで、およそ8年間をイタリアで過ごすことになりました。

彼を雇ったのは、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガです。宮廷画家といっても、主な仕事は名画の模写や宮廷の女性たちの肖像画で、若いルーベンスには物足りない面もあったようです。しかしその代わりに、彼はヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ジェノヴァを見て回ることができました。

ルーベンスがイタリアで吸収したものは、ひとつではありません。ティツィアーノの豊かな色彩、ティントレットの大胆な構図、ミケランジェロの筋肉の表現、ラファエロの均整、そして発掘されて間もない古代彫刻。さらに同時代のカラヴァッジョの明暗法にも強い関心を示しました。ローマでは1606年から1608年にかけて、キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画という大きな仕事も任されています。

ルネサンス美術の全体像については、こちらの記事もあわせてご覧ください。

【西洋美術】ルネサンス美術の歴史と代表作品を一挙紹介!

『レルマ公騎馬像』(1603年)

ピーテル・パウル・ルーベンス『レルマ公騎馬像』(1603年)
ピーテル・パウル・ルーベンス『レルマ公騎馬像』(1603年)プラド美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1603年、ルーベンスはマントヴァ公の使者としてスペインへ派遣されます。贈り物の絵画や馬を、当時の宮廷があったバリャドリードまで届けるという役目でした。画家が外交的な用向きで動いた、最初の記録です。

このときスペインの実権を握っていたレルマ公のために描かれたのが、この騎馬像です。現在はマドリードのプラド美術館が所蔵しています。

注目したいのは、馬が真正面からこちらへ向かってくる構図です。それまでの騎馬肖像画は横向きが定石でしたが、ルーベンスは馬の胸を画面いっぱいに突き出させ、見る人が下から見上げる角度に主人公を置きました。26歳の画家が、すでに人の目を圧倒する構図を自分のものにしていたことがよく分かる1点です。

アントウェルペンへの帰還と、宮廷画家の座

1608年、ルーベンスは母の重い病を知らせる手紙を受け取り、急いでアントウェルペンへ戻ります。しかし到着したときには母はすでに亡くなっていました。そのまま彼は故郷にとどまることになります。

タイミングは幸運でした。1609年4月、スペインとオランダのあいだに12年間の休戦協定が結ばれ、戦争で疲弊していたアントウェルペンにつかの間の繁栄が戻ってきたのです。

同年、ルーベンスは南ネーデルラントを統治するアルブレヒト大公とイサベル王女の宮廷画家に任命されます。そして10月3日、アントウェルペンの名家の娘イサベラ・ブラントと結婚しました。

2人の結婚を記念して描かれたと考えられているのが、庭のスイカズラの茂みに並んで座る二重肖像『スイカズラの木陰のルーベンスとイサベラ・ブラント』(1609年頃、アルテ・ピナコテーク)です。右手と右手を重ねる古代以来の所作で、結婚の誓いが表されています。

1610年、ルーベンスはアントウェルペンのワッペル通りに大きな屋敷を手に入れ、イタリア風の邸宅と工房に改築しました。これが現在の美術館ルーベンスハウスで、彼はここで暮らし、働き、生涯を終えることになります。

『キリスト昇架』(1610年〜1611年)

ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト昇架』三連祭壇画(1610年〜1611年)
ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト昇架』三連祭壇画(1610年〜1611年)アントウェルペン聖母大聖堂/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

イタリアから帰った直後のルーベンスが受けた、最初の大きな宗教画の注文です。もともとはアントウェルペンの聖ワルブルガ教会の主祭壇のために描かれたもので、香辛料商人で教会の世話役でもあったコルネリス・ファン・デル・ヘーストが注文をまとめ、費用の多くを負担したと伝えられています。

中央のパネルでは、キリストを釘付けにした十字架を、9人の男たちが渾身の力で引き起こそうとしています。全員の筋肉が張りつめ、十字架は画面の右下から左上へ、斜めに立ち上がっていきます。ティントレットの構図や古代彫刻『ラオコーン』のような身体表現、そしてカラヴァッジョ風の強い明暗が、ひとつの画面で結び合わされていると指摘されています。

左翼には嘆く聖母マリアと使徒ヨハネ、女性たちが、右翼には同時に磔にされる2人の罪人とローマの騎兵が描かれ、3枚を並べるとひとつづきの丘の上の出来事になります。

1794年、フランス革命軍がアントウェルペンを占領した際にこの作品はパリへ持ち去られましたが、ナポレオン戦争の終結後、1815年に返還されました。ただし元の聖ワルブルガ教会は廃墟になっていたため、そのまま聖母大聖堂に置かれ、現在に至っています。

『キリスト降架』(1612年〜1614年)

ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト降架』三連祭壇画(1612年〜1614年)
ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト降架』三連祭壇画(1612年〜1614年)アントウェルペン聖母大聖堂/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ルーベンスの代表作としてもっとも有名な1点です。1611年9月7日、アントウェルペンの火縄銃手組合が、大聖堂にある自分たちの祭壇のために注文しました。

『キリスト昇架』の激しい上昇とは対照的に、こちらの画面は静かに下降していきます。十字架から下ろされるキリストの白い身体が、斜めに対角線を描いて落ちてきます。その下では、赤い衣の使徒ヨハネが身体を受け止め、十字架のたもとに立つ青い衣の聖母が手を差し伸べ、金髪のマグダラのマリアがキリストの足をそっと支えています。

白い布とキリストの蒼白な肌が暗い背景から浮かび上がり、視線が自然にそこへ集まる設計です。悲しみを叫ぶのではなく、息をのむような静けさで表現した点に、ルーベンスの幅の広さが表れています。

両翼には『聖母のエリサベト訪問』と『神殿への奉献』が描かれています。どちらもキリストを抱き、運ぶ場面で、組合の守護聖人である聖クリストフォロス(キリストを背負って川を渡ったとされる聖人)が扉の外側に描かれていることと響き合う構成になっています。

この作品も1794年にパリへ持ち去られ、1815年に大聖堂へ戻りました。現在も注文された当初と同じ場所に掛かっています。

ヨーロッパ最大級の工房と、版画という仕組み

1610年代のルーベンスの工房は、ヨーロッパでもっとも忙しい絵画の現場のひとつでした。

注文は教会、王侯、市の行政、商人から次々に舞い込み、1人ではとても描ききれません。そこでルーベンスは、自分でまず小さな油彩下絵(モデッロ)を描いて全体の構図と色を決め、弟子や助手が大画面に写し取り、最後に親方が要所に筆を入れて仕上げるという方式をとりました。

背景の動物は動物画の名手フランス・スナイデルス、花はヤン・ブリューゲル(父)というように、専門の画家と分担して制作することも珍しくありませんでした。そのため、ルーベンスの名で残る作品には「本人がどこまで描いたか」が1点ごとに異なります。美術館の表示で「工房作」「共同制作」と添えられている作品が多いのは、このためです。

弟子のなかでも飛び抜けていたのがアンソニー・ヴァン・ダイクです。18歳でアントウェルペンの聖ルカ組合の親方になり、1618年頃からルーベンスの主要な助手として、1620年の秋まで数々の注文をともに手がけました。ルーベンスは1618年4月28日にイングランドの外交官ダドリー・カールトンへ送った手紙のなかで、自宅にある絵の目録を示し、そのうちの1点を「わたしの弟子のなかでいちばん優れた者」が描き、自分が全体に筆を入れたものだと説明しています。名前は挙げられていませんが、この弟子はヴァン・ダイクを指すと長く考えられています。

もうひとつ、ルーベンスが美術の世界にもたらした大きな仕組みが版画です。1619年頃から、彼はルーカス・フォルステルマンら腕利きの版画家を雇い、自作を銅版画にして売り出しました。さらに自分の名で複製の特権(今でいう著作権に近いもの)を各国で取得し、無断複製を防ごうとしています。絵そのものは注文主の教会や宮殿から動きませんが、版画なら何百枚でもヨーロッパ中に届きます。ルーベンスの名声が国境を越えて広がった理由の大きな部分は、この版画事業にあったと言われています。

『レウキッポスの娘たちの略奪』(1618年頃)

ピーテル・パウル・ルーベンス『レウキッポスの娘たちの略奪』(1618年頃)
ピーテル・パウル・ルーベンス『レウキッポスの娘たちの略奪』(1618年頃)アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ギリシャ神話で、ゼウスの双子の息子カストルとポルックスが、レウキッポス王の2人の娘を連れ去る場面です。ミュンヘンのアルテ・ピナコテークが所蔵しており、同館の記録では風景画家ヤン・ウィルデンスとの共同制作とされています。ルーベンスの工房の進め方が、そのまま作品になった1点でもあります。

この絵の見どころは、ほぼ正方形の画面に人間4人と馬2頭が詰め込まれているのに、少しも窮屈に見えないことです。腕、脚、馬の首が大きな円を描くように配置され、画面全体が風車のように回って見えます。

さらに、日に焼けた男たちの肌と、真珠のような女性たちの肌の描き分けにも目を向けてみてください。「ルーベンス的(ルーベネスク)」という言葉が、ふくよかな女性像を指す形容詞として今も英語に残っているのは、こうした肉体の描写が理由です。

絵筆を持った外交官

1621年に12年間の休戦が切れると、南ネーデルラントは再び戦争の時代に入ります。このころからルーベンスは、統治者イサベル王女の密使として本格的に動き始めました。

画家という肩書きは、外交には好都合でした。絵の注文や納品を口実にすれば、どの宮廷にも自然に出入りできるからです。ルーベンスはフランドル語のほかラテン語、イタリア語、スペイン語、フランス語などを操り、王侯と直接やりとりできる稀な人物でした。

『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』(1622年〜1625年)

ピーテル・パウル・ルーベンス『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』(1622年〜1625年)
ピーテル・パウル・ルーベンス『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』(1622年〜1625年)ルーヴル美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

フランス王アンリ4世の未亡人で、ルイ13世の母であるマリー・ド・メディシスは、パリに新築したリュクサンブール宮殿を飾るため、ルーベンスに前例のない規模の仕事を依頼しました。自分の生涯を描いた24点の巨大な連作です。話は1621年の秋から動き出し、1622年初めに契約がまとまりました。

24点のうち3点はマリーと両親の肖像、残る21点が彼女の誕生から摂政時代までを物語る場面で、多くが高さ4メートル前後あります。契約では人物はルーベンス自身が描くと定められており、背景や細部は助手が担当したと考えられています。連作は1624年末に納められ、翌1625年、娘アンリエッタ・マリアとイングランド王チャールズ1世の婚礼をめぐる祝祭の時期に披露されました。

この1点は、1600年11月3日にマリーがマルセイユの港へ降り立つ場面です。ルーヴル美術館の記録では高さ3.94メートル、幅2.95メートルあります。

見どころは、上半分と下半分のコントラストです。上では宮廷の人々が儀礼どおりに整列し、空には名声の女神が高らかにラッパを吹いています。ところが下半分では、海の神とニンフたちが、船を岸へ押しつけるように渦を巻いています。現実の出来事と神話が、1枚の画面で何のためらいもなく同居しているのがルーベンス流です。

実際のマリーの人生は、息子ルイ13世との対立や亡命を含む厳しいものでした。その生涯を「神々に祝福された物語」として描き直す難題を、ルーベンスは神話の力を借りて引き受けたといえます。連作は24点すべてが現存し、ルーヴル美術館のメディシス・ギャラリーにまとめて掛けられています。なお同館の発表によれば、この24点は2026年10月から約4年をかけて修復される予定で、ギャラリーはそのあいだ修復のアトリエになります。ご覧になりたい方は、公式サイトで公開状況をご確認ください。

『麦わら帽子』(1622年〜1625年頃)

ピーテル・パウル・ルーベンス『麦わら帽子(ル・シャポー・ド・パイユ)』(1622年〜1625年頃)
ピーテル・パウル・ルーベンス『麦わら帽子(ル・シャポー・ド・パイユ)』(1622年〜1625年頃)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

巨大な連作と同じころに描かれた、小さな肖像画です。ロンドンのナショナル・ギャラリーによれば、モデルはアントウェルペンの商人ダニエル・フールマンの娘スザンナ・ルンデンとほぼ確実に考えられており、結婚の直後に描かれたとみられています。

タイトルの「ル・シャポー・ド・パイユ」はフランス語で「麦わら帽子」の意味ですが、描かれている帽子は黒く、麦わらではありません。同館は、「パイユ(paille)」はフェルトを意味する「ポワル(poil)」の書き写し間違いではないか、という説を紹介しています。

大きな瞳、長めの首、雲の流れる空を背にしたシルエット。祭壇画の画家というイメージからは想像しにくい、親密で軽やかな1点です。なお彼女の妹こそ、のちにルーベンスの2番目の妻となるエレーヌ・フールマンでした。

マドリードとロンドンでの日々

1626年、妻イサベラ・ブラントがペストで亡くなります。34歳でした。2人のあいだには3人の子どもがいましたが、長女クララ・セレーナは1623年に12歳で先立っています。ルーベンスはこの時期、旅と仕事が悲しみを紛らわせてくれるだろうという趣旨の手紙を友人に書き送っています。

1628年8月、ルーベンスはスペイン王フェリペ4世に交渉の経過を報告するためマドリードへ向かい、翌1629年4月まで、8か月ほどを現地で過ごしました。

この滞在で彼が熱心に取り組んだのが、王室コレクションにあったティツィアーノ作品の模写です。少なくとも22点の実物大の模写を持ち帰ったとされています。

そしてこのとき、マドリードの王宮でルーベンスと親しく交わったのが、当時20代の宮廷画家ディエゴ・ベラスケスでした。2人はエル・エスコリアル宮へも一緒に出かけたと伝えられています。この出会いが刺激となって、ベラスケスは翌1629年にイタリアへ旅立ったと考えられています。

1629年からの約9か月、ルーベンスはロンドンに滞在してイングランド王チャールズ1世との交渉にあたります。同年にはケンブリッジ大学から名誉修士号を贈られ、翌1630年にはチャールズ1世からナイトの称号を授けられました。スペイン王フェリペ4世も彼を騎士として遇しています。そして1630年11月15日、マドリードで英西の和平条約が調印されました。1人の画家が、ヨーロッパの二大王国の講和に実際に手を貸したのです。

外交の仕事は、絵の仕事も連れてきました。チャールズ1世から依頼されたロンドンのバンケティング・ハウスの天井画は、アントウェルペンの工房で描かれ、1635年の末にロンドンへ運ばれて、1636年に設置されました。父王ジェームズ1世を讃えるこの天井画は、今も同じ建物の天井にあります。

53歳の再婚と、晩年の幸福

1630年12月6日、ルーベンスはエレーヌ・フールマンと再婚しました。『麦わら帽子』のモデルの妹で、1614年4月11日生まれ、このとき16歳です。1577年6月28日生まれのルーベンスは53歳でした(プラド美術館も『愛の園』の解説で、結婚したときエレーヌは16歳、ルーベンスは53歳だったと記しています。52歳とする資料もありますが、生年月日から計算すると53歳になります)。

大きな年齢差は当時から話題になりましたが、ルーベンス自身は友人への手紙で、宮廷の女性ではなく市民の娘を選んだのだと書き残しています。2人のあいだには5人の子どもが生まれ、末子はルーベンスの死の翌年に洗礼を受けています。

この再婚を境に、ルーベンスの絵には変化が見られます。公的な大作から、自分のために描く絵へと重心が移っていくのです。

『三美神』(1630年〜1635年頃)

ピーテル・パウル・ルーベンス『三美神』(1630年〜1635年頃)
ピーテル・パウル・ルーベンス『三美神』(1630年〜1635年頃)プラド美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ギリシャ神話の3人の女神が輪になって寄り添う、古代以来くり返し描かれてきた主題です。プラド美術館の解説では、画面左の女性はエレーヌ・フールマンであるとされています。

プラド美術館は、この絵をルーベンスが自分のために描いたものだろうと説明しています。根拠として挙げられているのは、彼が亡くなったときまだ本人のコレクションにあったこと、そして注文主や助手に見せるための下絵が知られていないことです。ルーベンスは人に見せる必要がある仕事では下絵を描いたのに、この絵にはそれがありません。絵はその後スペイン王フェリペ4世が買い取り、王室のコレクションに入りました。

輪郭を強い線で区切るのではなく、薄い色を何層も重ねて肌を組み上げる描き方によって、光が皮膚の下から透けてくるように見えます。晩年のルーベンスの絵筆は、若い頃よりずっと柔らかく、軽くなっていました。

『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン(ヘット・ペルスケン)』(1636年〜1638年頃)

ピーテル・パウル・ルーベンス『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン(ヘット・ペルスケン)』(1636年〜1638年頃)
ピーテル・パウル・ルーベンス『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン(ヘット・ペルスケン)』(1636年〜1638年頃)美術史美術館(ウィーン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ウィーンの美術史美術館が所蔵する、ルーベンスの作品のなかでもとりわけ個人的な1点です。「ヘット・ペルスケン」はフランドル語で「小さな毛皮」を意味します。

身にまとっているのは黒い毛皮の外套だけで、両腕で身体を覆う姿勢は、古代の「慎み深いヴィーナス(ウェヌス・プディカ)」の型を踏まえています。同館の解説によれば、ルーベンスはティツィアーノの『毛皮をまとった女性』を知っていました。そちらも毛皮の外套に包まれた姿で、明るくやわらかな肌と黒く深い毛皮の対比が、どちらの絵でも繊細に描き分けられていると同館は述べています。白い肌と黒い毛皮の境目の筆づかいが見どころです。

美術史美術館が伝える来歴も印象的です。ルーベンスは1640年の遺言で、この作品に触れています。1658年のエレーヌの遺言書にも記載が残っており、1730年にはウィーンのギャラリーのコレクションとして記録されています。妻を描いた絵が、その妻の手元にも残っていたということです。

ヘット・ステーンでの最後の日々

1635年、ルーベンスはアントウェルペンとブリュッセルのあいだにある村エレウェイトで、ヘット・ステーンと呼ばれる城館付きの領地を購入しました。外交官として叙勲され、財も名声も手にした画家が、ようやく手に入れた田園の隠れ家でした。

晩年の彼は、ここで注文主のためではない絵を描くようになります。風景画です。

『An Autumn Landscape with a View of Het Steen in the Early Morning』(1636年頃)

ピーテル・パウル・ルーベンス『An Autumn Landscape with a View of Het Steen in the Early Morning』(1636年頃)
ピーテル・パウル・ルーベンス『An Autumn Landscape with a View of Het Steen in the Early Morning』(1636年頃)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する、横2メートル30センチ近い大きな風景画です(131.2×229.2センチ、板に油彩)。同館は制作年をおそらく1636年としています。

秋の朝、昇ったばかりの太陽が低い角度から野を照らし、影が長く伸びています。画面左手には自分の城館ヘット・ステーン。手前では猟師がヤマウズラを狙い、道には市場へ向かう人の姿があり、右奥の牧草地では牛の世話をする人々がいます。地平線の上には、どこまでも続く広い空が広がっています。

ナショナル・ギャラリーはこの絵を、故郷フランドルの豊かさと平和を讃えたものだと説明しています。祭壇画も宮廷の連作も、注文主の要求に応えるための仕事でした。しかしこの風景は違います。売るためでも飾るためでもなく、自分の土地を自分のために描いた絵でした。

1640年5月30日、ルーベンスは慢性の痛風がもとになった心不全により、ワッペル通りの自宅で亡くなりました。62歳でした。遺体はアントウェルペンの聖ヤコブ教会に葬られ、礼拝堂は1642年に着工して1650年に完成しています。

『フランダースの犬』とルーベンス

日本でルーベンスの名前が広く知られているのは、小説とアニメ『フランダースの犬』の影響が大きいと言われています。

原作は、イギリスの作家ウィーダ(本名マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)が1872年に発表した英語の小説『A Dog of Flanders』です。舞台はアントウェルペン近郊で、絵描きを夢見る貧しい少年ネロと、捨てられていた犬パトラッシュの物語です。

アントウェルペンの遺産図書館(エルフフッド図書館ヘンドリック・コンシエンス)の解説によれば、ネロは大聖堂にあるルーベンスの『キリスト昇架』と『キリスト降架』を見ることを願っていますが、その絵は拝観料を払った人しか見られないため、貧しいネロには手が届きません。物語の最後、クリスマスの深夜ミサのあと、扉のひとつが閉め忘れられていたためにネロは大聖堂へ入ることができました。覆いを外した2枚は、さしこむ月の光で一瞬だけ照らし出されます。ネロとパトラッシュは翌朝、その祭壇画の前で冷たくなって発見されました。

この物語は本国ベルギーではほとんど知られていませんでした。日本で広く親しまれるようになった大きなきっかけは、1975年にフジテレビ系列で全52話が放送されたテレビアニメ『フランダースの犬』(ズイヨー映像・日本アニメーション制作、「世界名作劇場」シリーズ第1作)です。

その後、アントウェルペンには日本をはじめアジアからの観光客が多く訪れるようになり、2016年12月には大聖堂前の広場に、ベルギーの彫刻家バティスト・フェルメーレンによるネロとパトラッシュの記念碑が設置されました。白い大理石で眠る2人を、敷石の毛布が覆っているような作品です。

物語自体はつくり話ですが、ネロが見たいと願った絵は実在します。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、フランドル・バロックを代表する画家ピーテル・パウル・ルーベンスの人生と作品についてご紹介しました。

ルーベンスは、ひとりの画家という枠に収まる人ではありませんでした。ヨーロッパ最大級の工房を動かす経営者であり、版画という仕組みで自作を国境の外へ運んだ戦略家であり、二大王国の和平に関わった外交官でもあります。

それでも彼の絵を見ていて心に残るのは、そうした肩書きではなく、生きているものを描くことへの尽きない喜びかもしれません。十字架を引き起こす男たちの筋肉、馬のたてがみ、毛皮と肌の境目、秋の朝の湿った空気。どれも、目の前にあるものを本気で面白がった人でなければ描けないものです。

少年ネロが焦がれた2枚の祭壇画は、今もアントウェルペンの聖母大聖堂で実際に見ることができます。なお、彼が暮らしたルーベンスハウスは、2026年9月現在、邸宅部分が改修工事のため一時休館しています(庭園と展示「ルーベンス・エクスペリエンス」、図書館は公開中です)。公式サイトによれば邸宅の再開は早くても2030年で、そのあいだ収蔵作品は国内外の美術館へ貸し出されています。

Euphoric " " の視点

日本でルーベンスの名を知る人の多くは、美術館ではなく物語を通して出会っています。『フランダースの犬』の少年が最後に見上げた2枚の祭壇画は、いまも同じ大聖堂にあります。

注文で描かれ、信仰の場に据えられ、やがて小説に書かれ、遠い国の子どもたちの記憶に残りました。作者が意図しなかった経路で、絵は旅を続けたことになります。

どこに置かれ、誰の物語に入るか。作品の寿命は、出来栄えだけで決まるわけではないのだと気づかされます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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