こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはマン・レイという人物をご存知ですか?
20世紀のフォト・アートを代表する芸術家で、特にダダイズムやシュルレアリスムを写真の世界に持ち込んだことで知られています。
一見難解で奥深い彼の作品のように、実はマン・レイ自身も謎めいた人物でした。
本記事ではマン・レイの人生と作品についてご紹介します。
マン・レイって?
基本情報
本名 | エマニュエル・ラドツキー(Emmanuel Rudnitsky,) |
生年月日 | 1890年8月27日〜1976年11月18日(86歳没) |
国籍/出身 | アメリカ/ペンシルベニア州フィラデルフィア |
学歴 | アメリカのボーイス・ハイスクールを卒業 |
分野 | 絵画、彫刻、写真 |
傾向 | ダダイズム、シュルレアリスム |
師事した人 | マルセル・デュシャン等 |
ダダイズムって?
ダダイズムは、1910年半ばのヨーロッパで広く起こった芸術運動・芸術思想のひとつです。ダダイスム、ダダ思想、ダダとも呼ばれます。第一次世界大戦の最中にあったヨーロッパで、既成概念を覆すような攻撃的なメッセージと、常識ひいては社会や政治に対する否定や破壊を大きな特徴としています。
ダダイズムに分類される作品群の多くは一度見たら忘れられないようなインパクトがありますが、ダダイズムの成り立ちは歴史が長く、同時期に起こっていた他の芸術運動と密接に関わりながら発展していったため、実は多彩で奥深いバックグラウンドのある芸術運動でもあります。
経歴と作品
マン・レイの生まれと環境
『Landscape (1914)』
マン・レイは1890年8月27日、アメリカ ペンシルベニア州に生まれました。仕立て屋を営む家庭で育ったとされますが、幼少期の生い立ちや家庭でのエピソードはほとんど文献に記されていません。
早くから芸術への道を志していたとされるマン・レイは、仕立て屋の仕事を継ぐことに嫌悪感を抱いていたとされます。しかし仕立て屋の息子という生育環境が与えていた影響は、後に意外な形で表れてきます。
マン・レイは高校に進学し、デッサンと機械製図を学びます。高校卒業後は、建築を学ぶために奨学金をもらうことが決まり、ニューヨーク大学の建築科へ進む予定でした。しかし彼の芸術への愛情から芸術家としてのキャリアを選び、1909年に大学進学を辞退しました。最初は両親は反対していたものの、徐々に理解を示すようになります。
初めはプロの画家になるために、4年間ニューヨークで出版社に勤め、イラストレーター、コマーシャルアーティストとして活動していました。1913年に開催された大規模展覧会「アーモリー・ショー」でマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなどの前衛芸術家の作品に触れ、様々な影響を与えられました。また、定期的に美術館にも足を運んでおり、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、カラヴァッジョなど、過去の巨匠たちの作品からも学んでいました。
エマニュエル・ラドツキーが、マン・レイになるまで
Solarisation (1931)
1915年頃には、本名のを省略したマン・レイをペンネームとして名乗っていました。
(1912年にラドツキー一家は姓をレイに改めていました。この頃のマン・レイは「エマニュエル・レイ」という名前であり、マニーというあだ名で呼ばれていたためとされています。)
この頃は絵画家として活動しており、油絵やデッサンを展示する個展を開催しました。この個展でデュシャン、ピカビアと知り合い、ダダ運動への参加を通して作風に大きな影響を受けます。
その後、フランスを代表するダダイストであるマルセル・デュシャンに影響を受け、パリに渡ります。カンパーニュ・プルミエール通りに住みながら、既製品を用いたアート(レディ・メイド)やアッサンブラージュなど、筆を使わない表現方法を手がけ始めます。
写真撮影でデュシャンの作品に協力したことをきっかけに、マン・レイは本格的に写真に傾倒していきました。マン・レイの作品は「Vogue」などのファッション雑誌などにも掲載されるようになり、写真家としての成功を収めました。
ダダイズムの第一人者に
『Ingres’ Violin(1924)』
初期の頃のマン・レイはキュビズムと表現主義的作品を制作していました。しかし、マルセル・デュシャンと出会うことで、ダダイズムに触発されるようになりました。最終的に、デュシャンとフランシス・ピカビアとともに、ダダイズムの第一人者となりました。この3人による活動はのちにニューヨーク・ダダと呼ばれ、ダダイズムの中でも重要な活動になります。
マン・レイの写真の多くはダダ的作品とされており、パリで非常に人気を博しました。特に人気だった作品の一つが、『Ingres’ Violin(アングルのヴァイオリン)』です。レイの当時の恋人であったキキを被写体として、その上に楽譜の記号のようなマークを描き、被写体を楽器のように見せました。非常に機知に富んでおり、フランスの新古典主義の画家、ドミニク・アングルから引用した作品と言われています。
ちなみに、この作品の発端になったのはアングルのバイオリン好きとされており、アングルのバイオリンという言葉は現在のフランスでは「趣味」「下手の横好き」といった意味でも使われているようです。
このように、マン・レイは女性の身体が持つ形体を主題にした作品を多く残しています。そのためマン・レイ自身が人生のうちで知り合った女性(ミューズ)の影響もより色濃く表れています。
また、他人の女性をミューズとしてインスピレーションを受けるに留まらず、マン・レイ自身が女装をし、被写体やモチーフになることすらありました。
ローズ・セラヴィというモデル名を名乗って、デュシャンらと『ニューヨーク・ダダ』という雑誌の表紙を飾るという経験があり、この仕事が肖像写真のきっかけになったとも考えられます。
マン・レイと女性たち
『Observatory Time: The Lovers, (1932 – 1934)』
2021年7月31日から開催された、マン・レイの巡回展のタイトルにもなった、マン・レイと女性というテーマ。マン・レイを取り巻く女性たちを簡単に見ていきましょう。
1915年、マン・レイというペンネームを名乗り始めた頃にアドン・ラクロアというフランスの詩人と結婚をしています。この頃にマン・レイはフランス パリに渡り、マルセル・デュシャンと共に多くのアーティストや作家と交友を持ちました。
その中でマン・レイのミューズとなったのがアリス・プランというモデルをしていた女性です。キキ・ド・モンパルナスと名乗って活躍したフランスのモデルで、多くの芸術家のモデルを務めインスピレーションを与えてきました。
マン・レイとキキは、マン・レイがモンパルナスに移り住んですぐの1921年頃から約7年の同棲生活を送ります。その間に生まれたのが、有名な「Ingres’ Violin(アングルのバイオリン)」です。他にもマン・レイが手がけた映画に出演するなど、お互いにインスピレーションを刺激し、知名度を高めあう関係だったといいます。
しかしその関係は1929年には終わりを告げ、今度はリー・ミラーという女性と助手兼恋人として交際します。リー・ミラーはマン・レイが商業写真家として有名になったきっかけの雑誌「Vogue」でカメラマンとして働いていた女性で、3年もの間、熱烈な交際をしたようですがリー・ミラーがプロのカメラマンとして自立するためにマン・レイのもとを去ってしまいます。
映画監督としてのマン・レイ
写真家としての活動が有名なマン・レイですが、実は何度か映画の制作も行っています。その多くは表現として実験的なサイレント映画で、今の私たちが想像する映画とは大きく異なりました。
例えば、最初の映画作品である『Le Retour à la Raison(1923)』は、釘や塩胡椒などをフィルムに焼き付けただけの映像が淡々と流れ、シーン同士のつながりや脈絡を無視した難解なものでした。この脈絡のない映像をつなぎ合わせたコラージュ的な映像表現は、ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリが1928年に共同製作した『アンダルシアの犬』を彷彿とさせるでしょう。
時系列的に、ダリらがこの『Le Retour à la Raison』を参考にしていたかは不明ですが、『アンダルシアの犬』を見に来ていたシュルレアリスムグループの中にマン・レイもいたことから、お互いに表現したい映像が近しかったと言えそうです。
事実、フランスで活動している間にマン・レイはサルバドール・ダリとも交流をして、シュルレアリスムから大きな影響を受けていたようです。
シュルレアリスムの影響
『Indestructible Object (or Object to Be Destroyed) (1923)』
具体的に、マン・レイがシュルレアリスムから受けた影響とはどのようなものだったのでしょうか。
マン・レイがシュルレアリスム的作品を手がけたのは1925年に参加した第一回シュルレアリスム展でした。
シュルレアリスム運動に参加していたマン・レイは、この展示に参加し、パウル・クレーやパブロ・ピカソらと共に先述した『Ingres’ Violin(アングルのバイオリン)』などを出品します。
マン・レイの代表的な作品のひとつである『Indestructible Object(破壊されるべきオブジェ)』もこの展示に出品されましたが、実は1925年のシュルレアリスム運動よりも前に制作された作品です。
一見シュルレアリスムの影響を感じますが、どちらかというとフランスでの活動を共にしたマルセル・デュシャンが得意としていたレディ・メイドの影響が強い作品です。
女性の目をくり抜いた写真(後に制作されたセカンドバージョンにはリー・ミラーの目が用いられている)と、当時どの家庭にも見られたほど大量生産されていたメトロノームで構成されたこの作品は、本来は絵を描くマン・レイを見張る監視人という制作背景があったようです。
発明家としてのマン・レイ
『Rayograph (1922)』
写真家として、実験的な表現を探っていたマン・レイは時に新しい写真表現を発明することもありました。代表的なのは、印画紙に直接モチーフを置いて形を焼き付ける「レイヨグラフ」です。
このレイヨグラフという技法の特徴は、モチーフの形のみを映しとるミニマルな表現と、オリジナルが一点しかないというオリジナリティです。
また、マン・レイによるレイヨグラフの発明と前後してハンガリー出身のデザイナー、モホリ=ナジも同様の技法で「フォトグラム」という作品群をつくっています。どちらにしても写真表現の発展に大きく影響を残したことは間違い無いでしょう。
晩年
戦時中には一時的にアメリカに戻りましたが、1951年にパリに再び戻り、活動を再開。マン・レイはアメリカ人でありながら20年以上もフランスで活動を続けていることになります。
1976年11月18日に肺感染症が原因で亡くなりました。パリのモンパルナスに埋葬されたマン・レイの墓には、1946年に婚約した女性ジュリエット・ブラウナーの意向で
関わりをもたず、だが無関心でなく
と刻まれました。
絵画や映画といった多才さと、自己表現のための余念のない実験を繰り返す根気強さを持ちつつ、写真という芯を持ち続けていたマン・レイの思想が垣間見える言葉ですね。
まとめ
いかがだったでしょうか?
マン レイは他のすぐ帰国してしまうアメリカ人芸術家とは異なり、20年以上フランスで活動していました。 パウル・クレーやピカソ、サルバドール・ダリとも交流があったことから、フランスの方が居心地が良かったのかもしれません。
今後も、様々なクリエイティブ情報を発信していきますので、よろしくお願いします!
おすすめ書籍
マン・レイについての知識を深めたい方はこちらの書籍もおすすめです!
マン・レイ自伝 セルフ・ポートレイト
マン・レイ自身の言葉で書かれた自伝本。様々なアート運動を渡り歩いてきたマン・レイの人生を網羅し、初期の絵画作品や、オブジェなど貴重な写真も収められています。マン・レイは口当たりの軽い入門書が少ない印象で、こちらの本も重厚ですがそれに見合った知識が身に付きます。
マン・レイ インタビュー
晩年のマン・レイに行ったインタビューを収録した本。フランス語と日本語の対訳方式で書かれており、読むのは大変ですがマン・レイ自身の言葉で制作やアーティストとの交流について語られた貴重な内容を知ることができます!