こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはフェルディナント・ホドラーという人物をご存知ですか?
19世紀末から20世紀初めに活躍した、スイスの画家です。人物を左右対称に並べ、同じしぐさを繰り返し、山や湖を平らな色面と水平線で組み立てる独特の画風で知られます。ホドラー自身は、その考え方を「パラレリズム(平行主義)」と呼びました。スイスでは、いまも「国民画家」として親しまれています。
日本とも縁があります。兵庫県立美術館の展覧会資料によると、ホドラーの作品は日本でも1910年ごろから雑誌などで紹介され、岡山の大原美術館に収蔵されるなど、早くから親しまれてきました。
本記事ではそんなフェルディナント・ホドラーの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleフェルディナント・ホドラーって?

基本情報
| 本名 | フェルディナント・ホドラー(Ferdinand Hodler) |
| 生年月日(没年月日) | 1853年3月14日〜1918年5月19日(65歳没) |
| 国籍・出身 | スイス/ベルン生まれ。ジュネーヴで制作し、1918年にジュネーヴの名誉市民となる |
| 学歴 | トゥーンの景観画家フェルディナント・ゾンマーのもとで修業(1868〜70年)。1873〜77年、ジュネーヴでバルテレミー・メンが率いる人体クラス(Ecole de figure)に自由聴講生として在籍 |
| 分野 | 絵画(油彩)、壁画、素描 |
| 傾向 | 象徴主義。左右対称や反復で画面を組み立てる「パラレリズム」。晩年は色面を簡略化した風景画 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | フェルディナント・ゾンマー、バルテレミー・メン。ジュネーヴの風景画家アレクサンドル・カラム(作品を模写)。詩人ルイ・デュショーサル(象徴主義への入り口) |
ホドラーを高く評価したウィーンの画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
象徴主義と同じ時代に、色と形で内面を描こうとしたもうひとりの画家もご紹介しています。
キーワードは「パラレリズム」
ホドラーを知るうえで、最初に押さえておきたい言葉が「パラレリズム」です。ベルン美術館は、2018年の展覧会「Hodler//Parallelismus」の案内で、これを自然に内在する秩序と構造を明らかにするための構図の原理と説明しています。道に沿って並ぶ木々、湖に映る雲や山、集まった人びとの群れ。ホドラーの目には、それらが平行なパターンに並んで見えていました。そのパターンを、対称と反復で強めて描いたのです。
同館の資料によると、ホドラーは1897年の講演(ドイツ語題『Die Aufgabe des Künstlers』)で、芸術家の仕事は自然の永遠の要素、つまり美を表すことだと述べました。ここでいう美とは、自然が持つ秩序のことです。繰り返される形や色が、よく見る人に統一感のある心地よい印象を与えます。ホドラーはそこに「世界の法則」を見いだし、それを「パラレリズム」と呼びました。
同館によれば、この言葉自体は、19世紀のいくつもの学問分野で使われていました。ベルン美術館は、この理論が意図的に単純化した宇宙観の上に組み立てられていたことも指摘しています。ホドラー本人は、自分の理論が正しいかどうかに、作品全体の価値がかかっていると語っていました。
次の章から、この考えが作品にどう現れていくのかを、年代順にたどります。
経歴と作品
ベルンの少年時代、そしてジュネーヴへ(1853〜1870年代前半)
ホドラーは1853年3月14日、スイスの首都ベルンに生まれました。スイス芸術学研究所(SIK-ISEA)の事典によると、木工職人の父ヨハン・ホドラー(1829〜1860年)と、料理人の母マルガリータ・ノイコム(1828〜1867年)の長男です。
幼い頃から、身近に死がありました。同事典によると、父は結核で亡くなり、母は1861年に、工房を営むゴットリープ・シュプバッハと再婚しました。兵庫県立美術館の資料は、ホドラーが7歳で父を亡くし、1885年までに母と兄弟のすべてを結核で失ったと記し、母の再婚相手のもとで幼いうちに絵の手ほどきを受けたと伝えています。
1868年から1870年までは、トゥーンの景観画家フェルディナント・ゾンマーのもとで修業しました(SIK-ISEA)。ロンドンのナショナル・ギャラリーによれば、ホドラーは装飾画の技術を身につけ、若い頃はベルナー・オーバーラント(ベルン州南部のアルプス地方)の景色を、観光客向けに描いていました。
その後、ジュネーヴに移ります。SIK-ISEAの事典によると、1871年の末にカラムの作品を模写するためジュネーヴへ旅し、1872年に居を定めました。移った年は1871年(兵庫県立美術館、ティッセン=ボルネミッサ美術館)とも1872年(スイス歴史辞典)とも書かれますが、本記事はSIK-ISEAの記述に従います。スイス歴史辞典によると、ジュネーヴではアレクサンドル・カラムとフランソワ・ディデーの作品を模写し、1873年からはバルテレミー・メンの下で、人体を学ぶ「Ecole de figure」に自由聴講生として通いました(1877年まで)。ナショナル・ギャラリーによれば、初期のホドラーはカラムの流れをくむ写実的なアルプスの風景画を描き、1874年には地元の「カラム賞」を受けています。
『Selbstbildnis. Der Studierende』(1874年)

暗い服の若者が、右手を上げてこちらを見ています。背景には、画室らしい空間があります。チューリヒ美術館の作品解説によると、これはホドラーが、メンの教えた高い芸術の原則に誓いを立てる自画像です。メンのおかげで、土産物のような風景画をつくる安易さを抜け出したことを示しているといいます。
最初の群像画『Das Turnerbankett』(1877〜78年)

SIK-ISEAの事典が、1876年にジュネーヴで評価を得た作品として挙げる一点です。チューリヒ美術館の解説によると、1876年、ジュネーヴの美術協会(Kunstverein)が創立100周年の記念コンペを開きました。テーマは、ジュネーヴの過去か現在から選ぶことでした。ホドラーはこれに、初めての多人数の構図で応じています。
描いたのは、スイス全国の体操祭の宴会です。大きな旗が掲げられ、出口の上にはスイスの紋章、会場には各州の紋章が見えます。同館は、こうした全国的な行事が19世紀に連邦国家の結びつきを強めた、と説明しています。同級生がモデルを務め、場所はグリュトリ校の屋根裏でした。モットーは「健全な精神は健全な身体に宿る」で、ホドラーはAuguste-Frédéric Dufauxと並んで1等を受けました。下絵は失われ、1878年に、内容を変えながらカンヴァスへ移されたのが、この作品です。
スペインから象徴主義へ(1877〜1880年代)
スイス歴史辞典によると、ホドラーは1877年に初めてパリを訪れたとみられます。スペイン滞在は、同辞典が1877〜1879年としています。SIK-ISEAの事典は、1878〜79年にマドリードに滞在し、プラド美術館で学んだと記します。大原美術館の解説は、この旅が過去の巨匠の研究の機会であると同時に、南国の明るく力強い色彩を教えてくれたと述べています。
帰国後のホドラーは、ジュネーヴの詩人ルイ・デュショーサルを通じて、フランス絵画の象徴主義に触れます。ティッセン=ボルネミッサ美術館によれば、これ以降、心の状態や人間の根本的な問いを描く方向に作品が向かいました。兵庫県立美術館の資料も、1880年代半ばから、目に見える世界よりも内面や精神活動を重んじる象徴主義に近づき、「憂鬱」「内省」「死」のイメージを繰り返し描いたと説明しています。国立西洋美術館の展覧会解説は、この時期の絵に画家の不幸な生い立ちを読みとろうとする人も少なくない、と紹介しています。
1881年にはジュネーヴにアトリエを借り、1887年にはベルン美術館で最初の個展が開かれました(スイス歴史辞典)。
『夜』とスキャンダル(1889〜92年)
『夜』(Die Nacht、1889〜90年)

横長の画面に、眠る人びとが横たわっています。中央では、黒い布をまとった人物にのしかかられた男が、目を見開いています。ベルン美術館の資料では、油彩で縦116cm、横299cmの大作です。制作年は、所蔵する同館の表記(1889〜1890年)に従いました。大原美術館とティッセン=ボルネミッサ美術館は、1890年としています。大原美術館の解説は、休息、夢魔、愛など、夜がもたらすさまざまな状態を象徴する男女像を、大胆な装飾的構成にまとめたものと述べています。
この絵は、最初から歓迎されたわけではありません。スイス歴史辞典によると、1891年、『夜』はジュネーヴのラート美術館(Musée Rath)の展覧会から、道徳上の理由で除外されました。ホドラーが公に抗議したあと、この絵はジュネーヴの別の会場(SIK-ISEAの事典によれば Palais Électoral)で展示され、続いてパリのシャン・ド・マルス展にも出品されて成功しています。大原美術館の解説は、パリでシャヴァンヌから熱烈な賛辞を受けたと記しています。
大原美術館の解説によれば、このパリでの成功を機に、ホドラーは世紀末ヨーロッパの象徴主義的な傾向を代表する旗手のひとりとなり、国際的に名を知られるようになりました。翌1892年には、パリの薔薇十字展(Salon de la Rose-Croix)に初めて参加しています(スイス歴史辞典)。ただしSIK-ISEAの事典は、ホドラー自身が「象徴主義者」と呼ばれることに抵抗していた、とも記しています。
パラレリズムの時代(1890年代後半〜1900年代)
SIK-ISEAの事典によると、ホドラーが対称を構図の原理として見いだし、「パラレリズム」と名づけたのは1890年代のことです。兵庫県立美術館の資料は、1895年の『オイリュトミー』(「良きリズム」の意。ベルン美術館)を、ホドラーが身体の動きと「リズム」の表現へ向かう転機として挙げています。スイスの音楽教育家エミール・ジャック=ダルクローズの「リトミック」など、同時代の新しい舞踊の考え方とも響き合うものでした。ナショナル・ギャラリーも、ホドラーがオイリュトミー(律動的な身体表現)に魅せられ、それが大人数の群像の描き方に影響したと述べています。なお、本記事は権利の確認が取れた図版のみを掲載しているため、『オイリュトミー』の図版は載せていません。
『Die Wahrheit』(英題:Truth、1902年)
この作品は、権利と掲載方針の確認が取れた図版のみを載せているため、文章でご紹介します。
両腕を広げて立つ裸身の女性を、黒い布をかぶった人物たちが囲んでいます。チューリヒ美術館の解説によると、この構図は、1883〜84年の歴史画『Calvin und die Professoren』(ジュネーヴ美術・歴史博物館)を、象徴主義の形で実現したものと見ることができます。最初に描かれたのは1902年で、より強く様式化された第2作は、1904年のウィーン分離派(ゼツェッション)展のために、1903年秋に描かれました。同館によれば、ホドラーにとって、女性は真実を表し、黒い男たちはそこから逃げていきます。
そのウィーンの展覧会が、ホドラーに転機をもたらします。スイス歴史辞典によると、1904年、ホドラーは第19回ウィーン分離派展の名誉ゲストとなりました。この展覧会の成功が国際的な突破口となり、経済的な上昇も始まったとされます。ニューヨークのノイエ・ギャラリーは、ホドラーが、同館のコレクションの中心でもあるクリムトやシーレといったオーストリアの画家たちに称賛されていたと伝えています。
『Heilige Stunde』(英題:Holy Hour、1907年、1913年に加筆)

花の咲く草地に、4人の女性が左右対称に並んで座っています。チューリヒ美術館の解説によると、これはこの構図の最初の主要な版です。6人の版はゾロトゥルン美術館に、4人で背景が赤い版はヴィンタートゥールの美術文化歴史財団(SKKG)にあります。同館の解説は、ホドラーが外側の2人、とくに妻がモデルを務めた右側の人物に、あとから手を入れたことも記しています(加筆の年は、解説文では1911年、制作年の欄では1913年)。
同じ構図を何度も描き直し、版を重ねること。これは、ホドラーの制作の特徴でもあります。
国民の物語を壁に描く(1896〜1913年)
ホドラーは、大きな壁画の仕事でも名を上げました。スイス歴史辞典によると、1896年のジュネーヴのスイス全国博覧会(Landesausstellung)では、美術パビリオンの外壁に26人の人物像を描いています。1897年には、スイス国立博物館の武器の間のフレスコ画をめぐる競技で、1位を得ました。ところが、その下絵の展示は激しい芸術論争の始まりとなり、連邦参事会が数ある案のひとつに同意して、ようやく決着しています。SIK-ISEAの事典は、この決定を1899年としています。
『マリニャーノからの退却』(Rückzug von Marignano、1897〜98年)

上辺がアーチ形になった画面に、長い槍を構えた兵士たちが並びます。チューリヒ美術館の解説によると、この第3の下絵は、1897年8月10日に国立博物館の委員会と話し合ったあと、ホドラーがベルンで年末まで取り組んだものです。1898年5月12日の会議で審査員は実施を推薦しましたが、国立博物館の委員会は、さらに別の下絵を求めました。兵庫県立美術館の資料は、スイス国立博物館のフレスコ壁画の制作期間を1897〜1900年としています。
同じ資料は、ホドラーがイェーナ大学の壁画(1907〜08年。国立西洋美術館の出品リストでの邦題は『独立戦争に向かうイェーナの学徒出陣』)と、ハノーファー市庁舎の『全員一致』(1911〜13年)でも、歴史の場面を主題にした壁画を手がけたと伝えます。これらの壁画でホドラーは、パラレリズムの方法で人物の形を反復し、連ねて、動きのある画面をつくりました。
『全員一致』(Einmütigkeit、1911〜13年)

上の図版は、チューリヒ美術館が所蔵する第2の版で、ハノーファー市庁舎にある壁画そのものではありません。ハノーファー市の公式サイトによると、壁画は、市庁舎の会議室「ホドラーの間」の正面全体を占める、幅15m、高さ5mの作品です。題材は、1533年6月26日のできごとです。ハノーファーの市民が広場に集まり、代表のディートリヒ・アルンスボルクが誓いの言葉を述べました。市民は手を挙げて、「今後は福音派の兄弟であること」を誓います。画面では、前列の人物がそれぞれ個性的に描かれ、後ろの人物は同じ形に並べられています。この描き分けを、美術史家は「線的な様式」と呼んできた、と同サイトは説明しています。
同じ公式サイトによると、画家のマックス・リーバーマンが、市の行政の長(Stadtdirektor)ハインリヒ・トラムにホドラーを紹介しました。市庁舎が開かれたのは1913年6月20日です。皇帝ヴィルヘルム2世は、この絵にあまり感激しなかった、と同サイトは書いています。
チューリヒ美術館が所蔵する第2の版は、縦320cm、横1000cmの油彩です。同館の解説によると、1912年5〜6月ごろには構想されていました。当初は同年のパリのサロン・ドートンヌに出すつもりでしたが、ハノーファーとの取り決めに反するため、制作の大半は1913年の春から夏に行われ、中心の人物は新たに解釈し直されました。1914年にベルンで開かれたスイス全国博覧会では、ホドラーの作品としてこの1点だけが出品されています。
『木を伐る人』と紙幣

大きく両脚を踏ん張り、斧を頭の上へ振り上げた男の姿。ホドラーの作品のなかでも、特に知られた画題です。大原美術館の解説は、一見素朴な写実の作品に見えながら、踏ん張った両脚と、斜めに高く振り上げた両手だけを取り出した明快な構成が、力強い緊張感を生んでいると評しています。ホドラー自身は、この作品に「力」という題名を与えるつもりだったともいいます。
同館の解説によれば、この構図は、スイス国立銀行から紙幣のデザインを頼まれたときに練られたもののひとつで、多少かたちを変えて50フラン紙幣に使われました。スイス国立銀行の公式一覧では、50フラン札の裏の図柄が「木を伐る人」で、デザインはホドラー、発行日は1911年12月22日です。同じ一覧で、100フラン札の裏は「草を刈る人(Mower)」、こちらもホドラーのデザインで、発行日は1911年9月16日となっています。
同じ題名の作品は、複数あります。ベルン美術館の資料には、縦262cm、横212cmの『Der Holzfäller』(1910年)が、スイス連邦(連邦文化局)からの寄託作品として載っています。大原美術館の作品も、同館の作品紹介では1910年の制作です。2014〜15年に国立西洋美術館と兵庫県立美術館で開かれた「フェルディナント・ホドラー展」には、ベルンのモビリアール美術コレクションが所蔵する1910年の『木を伐る人』が出品されました。スイス国立銀行によると、ホドラーの図柄を載せた第2次シリーズの紙幣は、1956〜57年に置き換えられるまで使われています。
アルプスと湖の風景(1890年代〜)
チューリヒ美術館の解説によると、1895年の『Genfersee am Abend von Chexbres aus』は、ホドラーがシェクスブルから数多く描いたレマン湖の風景のうち、最初のものです。1894〜95年のカラム賞のために描かれ、2等賞を受けました。

緑の斜面に、葉の落ちた木が3本立ち、広い湖と、帯のように連なる雲が見えます。
1900年代に入ると、風景は少しずつ変わります。兵庫県立美術館の資料は、ホドラーが1900年代以降、見える風景を次第に抽象化し、山の輪郭、湖面に映る影、雲などを、装飾的な図柄をつくる要素として扱うようになったと説明しています。ユングフラウ山、シュトックホルン山群、レマン湖。繰り返し描かれた景色は、再現を超えて、形と色のパターンになっていきました。
『The Kien Valley with the Bluemlisalp Massif』(1902年)

ロンドンのナショナル・ギャラリーが2022年に購入した作品です。同館によると、ホドラーは1902年の多くをベルナー・オーバーラントで過ごし、山の風景を描きました。この絵は、キーン谷から、谷の奥にそびえるブリュムリスアルプ山群を望んでいます。ホドラーは、アルプスでの制作を通して、風景の「本質的な構造」を、不要な細部から解き放って描こうとしたと、同館は説明します。
同館は、この絵の特徴として、強い垂直性、はっきり区切られた色の面、装飾的な雲を挙げ、時間を超えた調和と、瞑想的な静けさを感じさせると述べています。さらに、日本の木版画の伝統を思わせる点があるとも指摘しています。
ナショナル・ギャラリーによると、ホドラーは、風景には性格があり、情熱や感情を表すものでなければならない、と書いています。同館は、ホドラーが国内では熱心に称賛された一方で、国境の外では半世紀のあいだあまり注目されず、海外での再評価は1970年代に始まった、とも記しています。
ヴァランティーヌの死と、晩年(1908〜1918年)
ここからは、晩年のなかでも重い時期を扱います。所蔵館の解説の範囲でご紹介します。
1908年、ホドラーはヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルと出会いました。チューリヒ美術館の解説によると、ヴァランティーヌは1873年にパリで生まれた、気品と教養のある女性で、母親とジュネーヴで暮らしていました。ホドラーは彼女をモデルにして、『Linienherrlichkeit』や『悦ばしき女』(Fröhliches Weib)などの作品を描いています。2人の間には1913年に娘のポーレットが生まれました。

正面を向いた女性の胸像が、淡い桃色の背景に描かれています。同館によると、ヴァランティーヌはがんを患いました。ホドラーは、その様子を数多くの素描と油彩に記録しています。ヴァランティーヌは、1915年1月25日にヴヴェーで亡くなりました。兵庫県立美術館の資料も、ホドラーが病床の姿を素描で記録し続けたと伝えています。
ホドラーは、その後も制作を続けました。チューリヒ美術館の解説によると、1915年の終わり近くから、20点を超える一連の自画像を描き始めます。その中心にあるのは、「笑う自画像」と呼ばれる7つの版です。冒頭に掲げた1916年の自画像は、同館が別称を『Selbstbildnis lächelnd VI』(笑う自画像の第6作)としている一点です。
1914年には、ドイツ軍によるランス大聖堂への砲撃に抗議する宣言に署名し、ドイツの美術団体すべてから除名されました。1916年と1917年の2年間は、ジュネーヴの美術学校で絵画のクラスを受け持ち、1917年にはチューリヒ美術館で大規模な回顧展が開かれています(以上、スイス歴史辞典)。
『無限へのまなざし』(Blick ins Unendliche、1916年)

青い服の5人の女性が、両腕を軽く広げて横に並んでいます。隣どうしの指先は、触れそうで触れていません。チューリヒ美術館の階段室を飾るこの壁画は、兵庫県立美術館の資料によると、画家自身が「無限へのまなざし」と名づけた作品です。同じような身ぶりの女性たちが水平に連なる姿は、集団舞踏を思わせます。
チューリヒ美術館の解説によると、美術館の装飾の依頼は1910年に正式に出されました。構想は、1913年に注文されながら実現しなかったチューリヒ大学講堂の壁画と結びついています。1914〜15年に最初の大きな版(バーゼル美術館)が描かれましたが、1916年1月に美術館に置いてみると大きすぎたため、縦と横を縮めた版が改めて描かれました。この作品はその縮小版です。準備作業として、ほかに3つの版も並行して描かれ、ゾロトゥルン美術館、シュタイナー・コレクション、ヴィンタートゥール美術館にあります。
『Genfersee mit Mont-Blanc am frühen Morgen』(1918年)

ピンクに染まった空の下で、青い山並みが湖面に映っています。チューリヒ美術館の解説によると、ホドラーは肺水腫を患い、半ば座った姿勢でしか眠れませんでした。湖とモンブラン山群の後ろに最初の光が差すと、ジュネーヴのモンブラン河岸の自宅の窓から、日の出の色を描きとめました。ホドラーは、これらの最後の作品群を「パイサージュ・フランボワヤン(燃えるような風景)」と呼んでいた、と同館は記しています。
兵庫県立美術館の資料は、恋人の死に立ち会った晩年のホドラーが、決して悲しみに沈んだのではなく、その後もアルプスの風景と向き合い、より抽象化した色面と表現主義的な色合いで描き続けたと説明しています。
ホドラーは1918年5月19日にジュネーヴで亡くなりました。同じ年に、ジュネーヴの名誉市民となっています(スイス歴史辞典)。ナショナル・ギャラリーは、ホドラーが「国民的な英雄」として称えられたまま世を去った、と記しています。
ホドラーの絵を見るときのヒント
最後に、ここまで見てきた作品から、ホドラーの絵を見るときの手がかりを2つ挙げます。これは編集部の読み方であり、決まった見方ではありません。
ひとつめは、反復と左右対称を探すことです。『Heilige Stunde』の4人の女性、『全員一致』の挙げた手、『無限へのまなざし』の横に並んだ5人。ホドラーが「世界の法則」と考えた反復が、画面のどこで働いているかを探してみると、絵の構造が見えてきます。
ふたつめは、同じ主題の別の版と見比べることです。『Heilige Stunde』にも、『無限へのまなざし』にも、『木を伐る人』にも、複数の版があります。同じ構図をどこまで削り、何を残したのか。ホドラーの考え方は、版の違いにこそ表れているように思えます。
まとめ
いかがだったでしょうか。フェルディナント・ホドラーの人生と作品をご紹介しました。
1853年にベルンで生まれ、幼くして家族を失い、トゥーンで風景画を学んだあと、ジュネーヴでメンに師事しました。1876年の記念コンペでの1等、スペイン滞在、象徴主義への接近を経て、1891年の『夜』のスキャンダルをきっかけに、パリで評価を得ます。1904年のウィーン分離派展で国際的な評価を決定的にし、『マリニャーノからの退却』『全員一致』などの壁画や『木を伐る人』のような国民的な画題を生みました。
晩年にはヴァランティーヌの死に立ち会い、『無限へのまなざし』を完成させ、最後はジュネーヴの窓から見える湖と山を描きました。反復と対称という単純な原理で、自然も人間も画面に収めようとした。それがホドラーの仕事でした。
次にホドラーの絵に出会ったときは、人物の顔だけでなく、同じしぐさが画面のどこで繰り返されているかにも目を向けてみてください。
Euphoric " " の視点
ホドラーは、同じ構図を何度も描き直し、版を重ねました。美術館に置いてみると大きすぎた作品は、縦と横を縮めた版を改めて描いています。
1891年に『夜』が展覧会から道徳上の理由で除外されると、公に抗議し、絵は別の会場で展示されました。続いて出品したパリでも成功しています。
最晩年は肺水腫を患い、半ば座った姿勢でしか眠れませんでした。それでも自宅の窓から、日の出の色を描きとめています。
うまくいかなければ場所を変え、描き直し、動けなくなれば窓から描く。ホドラーの歩みは、条件が変わっても続ける方法は見つかるのかもしれないと教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- チューリヒ美術館『無限へのまなざし(Blick ins Unendliche)』コレクション情報(英語)(同館のオンラインコレクションでは、2026年10月時点でモーザー館の主階段(Haupttreppe)に展示中と表示されています)
- 大原美術館『木を伐る人』作品紹介(岡山県倉敷市の同館が所蔵しています。2026年10月時点の作品紹介ページに展示状況の記載はないため、来館前に同館へご確認ください)
- ロンドン・ナショナル・ギャラリー『The Kien Valley with the Bluemlisalp Massif』作品ページ(英語)(同館の表示では、2026年10月時点で44室に展示中です)







