【徹底解説】ロイ・リキテンスタインとは?ポップ・アートの旗手の人生と作品を解説!

【徹底解説】ロイ・リキテンスタインとは?ポップ・アートの旗手の人生と作品を解説!
画像:Euphoric " " 編集部作成(作品画像は使用していません)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはロイ・リキテンスタインという人物をご存知ですか?

20世紀のアメリカで活躍した画家で、1960年代にポップ・アートの旗手として登場した人物です。漫画のコマや広告の絵を大きく描きなおし、印刷物の網点(ベンデイ・ドット)まで絵の具で再現した作品で、一躍注目を集めました。

ただし、最初から漫画を描いていたわけではありません。大学で教える仕事のかたわら、抽象的な絵や中世の騎士の絵などを描き続け、37歳だった1961年に、のちの代名詞となる表現にたどり着きました。

本記事ではそんなロイ・リキテンスタインの人生と作品についてご紹介します。リキテンスタインの作品は現在も著作権で保護されているため、この記事では作品の画像を載せず、図解や表、公式動画で解説します。

ロイ・リキテンスタインって?

リキテンスタインは、ニューヨーク生まれの美術家です。絵画だけでなく、版画、彫刻、壁画まで手がけました。ロイ・リキテンスタイン財団によると、生涯に残した絵画、版画、素描、彫刻、壁画などの作品は5,000点を超えます。

代表的な表現は、太い黒の輪郭線、限られた色、そして網点です。難しそうに見えて、実は見方のコツはこの3つだけです。

リキテンスタインの絵を見るときの3つの手がかり。力強い輪郭線、赤黄青黒白緑の6色、拡大された網点の3点を、京都賞の贈賞理由から整理した図。
図:リキテンスタインの絵を見る3つの手がかり

この3つは、日本の稲盛財団が1995年に贈った京都賞の贈賞理由でも、リキテンスタイン独自の造形表現として挙げられています。なお、日本語の表記は、京都賞の公式ページにならって「リキテンスタイン」としています。

基本情報

本名ロイ・フォックス・リキテンスタイン(Roy Fox Lichtenstein)
生年月日(没年月日)1923年10月27日(1997年9月29日、73歳で没)
国籍・出身アメリカ・ニューヨーク市
学歴ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで夏期講習を受講(1940年)。オハイオ州立大学で学び、1946年に復学して学士号、1949年に修士号を取得
分野画家、版画家、彫刻家(壁画も制作)
傾向ポップ・アート。漫画や広告の絵を素材に、印刷の網点を用いて描いた
師事した人物・影響を受けた人物レジナルド・マーシュ(アート・スチューデンツ・リーグで指導)、ホイト・L・シャーマン(オハイオ州立大学の教師)。若いころの憧れはレンブラント、ドーミエ、ピカソ

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経歴と作品

リキテンスタインの人生は、大きく分けると「模索の時代」「1961年の転機」「ポップ・アートの旗手」「問いを広げた後半生」の4つに分けられます。まず、全体の流れを年表で確認しておきましょう。

1923年ニューヨーク市に生まれる
1940年夏にアート・スチューデンツ・リーグで学び、9月にオハイオ州立大学へ入学
1943〜46年徴兵され、陸軍で兵役を務める。1946年1月にニューヨークへ戻る
1949年オハイオ州立大学で修士号を取得
1951年ニューヨークで初の個展(カールバック画廊)。秋にクリーブランドへ移る
1957年ニューヨーク州立大学オズウィーゴ校の助教授になる
1960年ラトガース大学ダグラス・カレッジの助教授になる
1961年漫画の絵を素材にした作品を描きはじめる
1962年レオ・キャステリ画廊で、漫画に基づく作品の初の展覧会(2月10日〜3月3日)
1963〜64年マンハッタンへ移り、1964年に大学を辞めて制作に専念する
1969年グッゲンハイム美術館で、ニューヨーク初の回顧展
1995年米国の国民芸術勲章と、京都賞を受賞
1997年9月29日、ニューヨークで死去

ニューヨークの少年時代と大学(1923〜1946年)

ロイ・フォックス・リキテンスタインは、1923年10月27日、ニューヨーク市で生まれました。父は不動産の仲買人、母はピアニストとして学んだ人でした。母は、息子と妹を美術館やコンサートによく連れて行ったと、財団の伝記は伝えています。

少年時代から絵や彫刻に親しみ、ジャズにも夢中になったといいます。

1940年に高校を卒業すると、その夏にアート・スチューデンツ・リーグで、画家レジナルド・マーシュに絵を習いました。9月にはオハイオ州立大学に入学します。若いころの憧れはレンブラント、ドーミエ、ピカソで、ピカソの『ゲルニカ』(1937年)が一番好きな絵だったと語っていました。当時の『ゲルニカ』は、ニューヨーク近代美術館に長期貸与されていました。

大学で大きな影響を受けたのが、教師のホイト・L・シャーマンです。リキテンスタインは、シャーマンを「ものの見方を教えてくれた人」と考えていました。ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アート(NGA)の解説によれば、シャーマンは、すばやく切り替わる画像を見せる「フラッシュ・ラボ」という方法で、見ることと描くことのつながりを教えました。

1943年2月、リキテンスタインは徴兵され、陸軍で兵役を務めました。1945年10月にはパリへ渡ってソルボンヌで学ぼうとしますが、父が重い病気だと知らされ、1946年1月にニューヨークへ戻ります。父はそのわずか数週間後に亡くなりました。

その春、リキテンスタインはオハイオ州立大学に戻って学位を取り、秋には講師として大学に迎えられます。1949年には修士号も取りました。

模索の時代:騎士、開拓者、抽象(1946〜1960年)

1940年代の終わりから1950年代の初めにかけて、リキテンスタインは、印刷された絵を素材にして、シリーズで作品を描くようになりました。財団の伝記によると、最初に続けたテーマは、中世の騎士や城や乙女を描いた小さな絵や版画で、パウル・クレーのような詩情にユーモアを混ぜたものでした。

次に取り組んだのが、19世紀アメリカの風俗画です。歴史の本で見つけた、カウボーイや先住民を描いた絵を、キュビスム風に描きなおしました。リキテンスタインは、当時の美術界が価値を認めない絵をあえて選び、それを作りかえる進め方を好みました。

1951年、大学との契約が更新されず、リキテンスタインは秋にクリーブランドへ移ります。製図工や家具のデザイナー、ショーウィンドウの飾りつけなど、いくつもの仕事を掛け持ちしました。こうした経験が、のちの作品に出てくるモーターやバルブのような機械の部品の絵につながりました。同じ1951年には、ニューヨークのカールバック画廊で初の個展を開き、1952年から1957年まではジョン・ヘラー画廊が作品を取り扱いました。

1957年9月、大学で教える仕事に戻るため、ニューヨーク州北部のオズウィーゴ校に助教授として赴任します。担当は工業デザインでした。リキテンスタインは具象をやめ、腕に巻いた布で絵の具を引きずって塗る、完全な抽象の絵を描きはじめました。同じころ、ミッキーマウスやドナルドダックのような漫画のキャラクターを、筆あとの目立つ表現主義的な背景に埋め込む試みもしています。

オズウィーゴで知り合ったのが、ラトガース大学ダグラス・カレッジの美術学科長レジナルド・ニールです。ニールの声がけで応募し、リキテンスタインは1960年9月から同大学の助教授になりました。ニューヨークの美術館や画廊まで1時間という環境で、同僚や、ラトガース大学にいたアラン・カプローやジョージ・シーガルらにも囲まれ、大きな刺激を受けました。

1961年の転機:漫画の絵を、漫画のように描く(1961〜1962年)

1961年6月、リキテンスタインは、オズウィーゴで試していた考えに戻ります。漫画のキャラクターと抽象的な背景を組み合わせる、という発想です。ただし今度は、筆づかいで表情をつけるのをやめて、漫画の絵のスタイルそのものをまねることにしました。絵の具の質感も、手書きのような線も、濃淡の変化も、つまり表現主義につきものの要素をすべて外す、というやり方です。

そこで使ったのが、商業印刷で色や濃淡を出すための細かい網点、ベンデイ・ドットでした。この点は、やがてリキテンスタインとポップ・アートの象徴になっていきます。リキテンスタイン自身、漫画のコマを拡大して組み立てなおす平板で無表情な画面は、それまで取り組んでいた身ぶり的な抽象よりも、ずっと魅力的だと感じたと語っています。

リキテンスタインの転機を示す流れ図。1961年に漫画の手法を使い始め、1962年にキャステリ画廊で個展、1963年にマンハッタンへ移り、1964年に教職を辞し、1969年にグッゲンハイム美術館で回顧展。
図:1961年から1969年への歩み

『見て!ミッキー』(Look Mickey、1961年)

1961年に描かれた作品の一つが『見て!ミッキー』です。この邦題は、京都賞の公式ページが使っているものです。所蔵するワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アート(NGA)は、リキテンスタインが大衆文化の絵の場面と様式をそのまま写しとった最初の作品だと説明しています。元になったのは、1960年の子ども向けの本『ドナルドダック:ロスト・アンド・ファウンド』(Donald Duck: Lost and Found)の挿絵でした。

画面は、桟橋で釣りをするドナルドダックとミッキーマウスです。ドナルドは大物が釣れたと思って叫びますが、実際には自分の上着の裾に針が引っかかっているだけで、後ろでミッキーが笑いをこらえています。黄、青、赤、白の平らな色面で描かれ、ドナルドの目やミッキーの顔には網点があります。サイズは縦121.9センチ、横175.3センチ、技法は油彩です。

NGAの解説は、リキテンスタインが元の絵をそのまま写したのではない点にも注目しています。背景の人物を省き、視点を90度回し、色を黄と青の帯に整理し、登場人物の顔立ちを単純にして、画面を一つのまとまりにしています。この絵には、「商業イメージの偽造だ」という批判も向けられました。NGAは、この絵が、笑いのオチをドナルドという人気者に押しつけることで、単純な冗談にとどまらない曖昧さを生んでいると述べています。

京都賞の贈賞理由も、ミッキーマウスという大衆的なイメージを使ったこの最初の作品が、当時の美術界に大きな刺激を与え、今では歴史的な意味を持つと評価しています。

『ボールと少女』(Girl with Ball、1961年)

財団の伝記は、新しい手法による最初期の現存作品として、『Popeye』と『見て!ミッキー』をあげ、続いて、『The Engagement Ring』『ボールと少女』『Step-on Can with Leg』を並べています。『ボールと少女』は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。制作は1961年、技法は油彩、キャンバスで、1981年にフィリップ・ジョンソンから寄贈されたものです。

これらの作品に目をとめたのが、同じ大学にいたアラン・カプローでした。カプローは、キャステリ画廊のイヴァン・カープに見せられるよう取り計らいます。カープはすぐに惹かれましたが、画廊主のレオ・キャステリは、商業美術に根をもつ絵であることもあって決断が遅れました。さらにキャステリは、リキテンスタインとは別に、アンディ・ウォーホルとジェームズ・ローゼンクイストにも注目していました。ただ、受け入れる準備ができていたのは一人だけで、考えたすえに選ばれたのがリキテンスタインでした。

漫画に基づく作品の最初の展覧会は、1962年2月10日から3月3日まで、キャステリ画廊で開かれました。財団の伝記によれば、展覧会は完売し、リキテンスタインは一躍、世間に名を知られる存在になりました(伝記の原文は「notorious」で、よい意味だけではない評判を含みます)。1963年9月の2度目の個展までに、作品は全米各地で紹介され、ウォーホルやローゼンクイスト、クレス・オルデンバーグらとともに、ポップ・アートの作家としてまとめて語られるようになります。伝記は、彼らの仕事が抽象表現主義への挑戦と受け止められたと述べています。

コマを大画面に(1962〜1963年)

1962年から63年にかけて、リキテンスタインは、漫画のコマを大きな画面に描いた作品を数多く手がけました。強い感情を呼ぶ主題を、冷静で淡々とした技法と組み合わせたかったと、本人が語ったことをテートが紹介しています。

『Whaam!』(1963年)

この時期の代表作が、ロンドンのテートが所蔵する『Whaam!』です。邦題が定着しているかは確認できなかったので、原題のまま記します。横長の二枚のキャンバスを並べた作品で、全体の大きさは縦172.7センチ、横406.4センチ。技法はマグナ(アクリル樹脂絵具)と油彩で、テートは1966年に購入しました。

画面は左右に分かれ、黄色の吹き出しの文字と、斜めにはね上がる「WHAAM!」の大きな文字が目を引きます。構図の元になったのは、アーヴ・ノヴィックが描き、DCコミックスが1962年2月に出した漫画の1コマです。

リキテンスタインは、元の1コマを二つに分け、2枚のキャンバスに収めることにしました。テートが所蔵する準備素描には、その分割の線と、色の指示が書き込まれています。

『Whaam!』の制作手順を示す流れ図。元のコマから準備素描を作り、素描を2枚のキャンバスに投影して鉛筆でなぞり、金網でベンデイ・ドットを置き、輪郭線と平らな色をマグナで塗る。
図:『Whaam!』ができるまで

制作の手順は、テートが詳しく説明しています。リキテンスタインは準備素描を、下塗りをした2枚のキャンバスに投影し、鉛筆で輪郭をなぞりました。次に、手づくりのアルミの金網の穴から油絵具を小さなブラシで押し出して、ベンデイ・ドットを置きます。そのうえに、太い輪郭線と平らな色面を、マグナで描きました。リキテンスタインは、この二連作は始めから終わりまで1か月で仕上げたと、1967年の手紙で語っています。

リキテンスタインは1963年の雑誌のインタビューで、漫画の登場人物を作品ではまじめに受け取っておらず、形式の問題のために使っていると話しています(テートの収録による)。

なお、『Whaam!』は、2026年10月17日にテートの公式データを確認した時点では「展示中ではない」と表示されていました。展示の予定は、公式サイトでご確認ください。

『Drowning Girl』(1963年)

恋愛の主題を代表するのが、MoMAが所蔵する『Drowning Girl』です。こちらも邦題の定着が確認できなかったので原題で記します。制作は1963年、技法は油彩と合成樹脂絵具(アクリル)、キャンバスで、1971年に収蔵されました。

MoMAの解説によれば、元になったのは、DCコミックスが1962年に出した恋愛漫画『シークレット・ハーツ』83号の1ページで、描いたのはトニー・アブルッツォです。元の絵では、おぼれる女性の背後に、ひっくり返ったボートにしがみつく恋人が描かれていました。リキテンスタインは、この1ページ大の絵を切り取り、女性だけを、うねる大波に囲まれた姿で描きました。

さらに、文字も変えています。元のセリフ「I don’t care if I have a cramp!」は「I don’t care!」に短くなり、恋人の名前は「Mal」から「Brad」に変わりました。MoMAは、リキテンスタインの絵とアブルッツォの絵の違いについては今も批評家のあいだで議論があり、その似た部分が、作者性や、社会が絵に与える価値についての問いを投げかけ続けている、と説明しています。

『Drowning Girl』と元の漫画の違いを比べた表。構図は背景の恋人とボートが消えて女性だけ、セリフは長い文から短い文へ、恋人の名前はMalからBradへ変わった。
図:元の漫画と『Drowning Girl』の違い

MoMAは、リキテンスタインが自分の仕事を語った言葉も紹介しています。漫画とは違い、自分の作品では一つひとつの筆の跡が違う場所にある。その差はわずかでも決定的だ、という趣旨です。テートの『Whaam!』の解説も、リキテンスタインが、形の上では写しているが、実は写したものを別の言葉で言いなおしていると語ったと紹介しています。

マンハッタンの時代:絵画の外へ(1963〜1969年)

成功とともに、リキテンスタインの生活も変わりました。ニュージャージーからマンハッタンに移ったのが1963年。1964年には、ラトガース大学の職を辞して、制作だけに専念します。

この時期は、漫画以外の題材にも広げた時期です。セザンヌ、モンドリアン、ピカソの油絵に基づく作品や、静物画、風景画も描きました。版画を盛んにつくり、1950年代の半ば以来となる彫刻にも取り組みます。工業用の素材も使い、絵画より安く買える大量生産の作品もつくりました。

その一つが、1964年にポール・ビアンキーニ画廊で開かれた展覧会「アメリカン・スーパーマーケット」で、リキテンスタインはこのとき買い物袋をデザインしています。ここで画廊の職員だったドロシー・ヘルツカと出会い、1968年に結婚しました。

1960年代の終わりには、最初の大きな回顧展が相次ぎます。1967年にカリフォルニアのパサデナ美術館が巡回展を始め、その後アムステルダムのステデリック美術館でヨーロッパ初の回顧展が開かれ、1969年にはグッゲンハイム美術館でニューヨーク初の回顧展が実現しました。

『Wall Explosion II』(1965年)

この時期の立体作品が、テートが所蔵する『Wall Explosion II』です。技法はエナメル塗装の鋼板で、大きさは縦約170センチ、横約188センチ。壁にかけて見る作品です。テートの展示解説によれば、少年向けの人気漫画に載っていた絵が元になっています。穴を規則的にあけた青い鋼板は、新聞や漫画の印刷に使うベンデイ・ドットを思わせます。

テートの作品カタログによれば、1965年にリキテンスタインは、エナメル塗装の鋼板で爆発をかたどった小さなシリーズを制作しました。元の画像は、1963年の絵画『Varoom』にある、漫画から切り取った一つのイメージです。絵で描いたはかない爆発を、固い金属の物体に変えたわけです。この作品は3点のエディションで、ニュージャージーの会社で製作されました。

この作品は、2026年10月17日にテートの公式データを確認した時点で、テート・モダンの展示室で公開されていると表示されていました。

筆あとを「主題」にする(1965年〜)

1960年代の後半、リキテンスタインの作品は、物語性が薄れ、より抽象的になります。絵画そのものの成り立ちを考える方向に進んだ、と財団の伝記は述べています。京都賞の公式プロフィールは、最初の「ブラッシュストローク(筆触)」の作品を1965年としています。

筆あとは、ふつうは画家の感情や身ぶりを伝える手段と考えられています。リキテンスタインは、その筆あとを、描かれる対象にしました。現代美術では「絵の主題は絵そのものだ」と言われますが、リキテンスタインは、それをもう一歩進めて、画面を組み立てる要素そのものを主題にした、と財団は説明しています。

リキテンスタインの仕事ぶりを知るには、テートが公式に公開している映像がわかりやすいでしょう。自宅やスタジオで制作する姿を収めた記録映像と、妻ドロシーや友人フレデリック・テューテンへのインタビューで構成された約9分の短編です。

Roy Lichtenstein: Diagram of an Artist | Tate(Tate公式YouTube、2013年公開、約9分・英語)

サウサンプトンの1970年代:見ることを疑う(1970〜1979年)

1970年、リキテンスタインは妻ドロシーとともにニューヨーク州サウサンプトンに土地を買い、そこを主な住まいにしました。

1970年代のリキテンスタインは、人が目に映るものを、いかに簡単に「本物」と受け入れてしまうか、という問題を追いました。財団の伝記によれば、「ミラー(鏡)」のシリーズではガラスに映る光と影を、「エンタブラチュア」のシリーズでは、コーニスや柱頭のような古典建築の要素を抽象化して、同じ現象を扱いました。MoMAには、1976年の『Entablature』(油彩とマグナ、キャンバス)が収蔵されています。

この時期には、塗装したブロンズの彫刻でも新しい試みをしました。形はできるだけ平らで薄く、体積よりも線に近いものです。題材は、湯気の渦、光線、ガラスに映る反射といった、とらえどころのない感覚でした。

キュビスム、未来派、ピュリスム、シュルレアリスム、表現主義と向き合った作品も、この十年に数多く生まれました。使う色も、6色の範囲を超えて広がります。美術史家のジャック・カウアートは、これらの構図を、出典から直感的に変えられ、解き放たれた、形の豊かな対話だと評しています。

リキテンスタインが問い続けた主題の広がり。漫画、巨匠の作品の再解釈、ブラッシュストローク、鏡と反射、建築の要素、中国の山水画の6つが中心のリキテンスタインを囲む図。
図:リキテンスタインの主題の広がり

壁画と公共彫刻、そして最後のシリーズ(1980〜1997年)

1980年代は壁画の仕事が最も盛んな時期でした。1960〜70年代に完成させた壁画は4点でしたが、1983年から1990年のあいだには5点を手がけました。公共の彫刻も、マイアミビーチ、コロンバス、ミネアポリス、パリ、バルセロナ、シンガポールで大きな依頼を受けました。

日本とのつながりも、この時期にあります。京都賞の公式プロフィールには、1992年のバルセロナ・オリンピックのモニュメント『バルセロナ・ヘッド』と並んで、1994年の『東京ブラッシュストローク』が、新宿アイランドの作品として載っています。

リキテンスタインは、1990年代にも三つの大きなシリーズをつくりました。「インテリア」は、イタリアの電話帳に載っていた小さな広告をもとにした壁画サイズの絵で、窓や鏡の反射がつくる見え方のあいまいさをもう一度扱っています。「ヌード」は、1960年代に取り上げた恋愛漫画の女性像を、あらためて扱ったシリーズです。そして「中国の風景」は、宋代の絵画や巻物にある山、水、空気の配置を、やわらかく移ろう網点の面で表しました。この連作には、リキテンスタインのトレードマークだった黒い輪郭線がありません。そのため、静かで抽象的な印象になる、と財団は述べています。

『House I』(模型1996年、製作1998年)

最晩年に作られた立体作品が、NGAの彫刻庭園にある『House I』です。1996年に模型がつくられ、1998年に、作者の遺産管理団体を通じてNGAのために製作されました。つまりリキテンスタインの没後に完成した作品です。素材は塗装したアルミニウムで、大きさは縦約292センチ、横約447センチ、奥行き約132センチです。

NGAの解説によれば、黄、赤、白、灰色の面を黒い線で縁取り、漫画のような平屋の家を立体にしています。リキテンスタインの彫刻の多くは、立体というより、壁から浮き出た絵に近いものでした。ところが『House I』のような後期の作品では、三次元ならではの錯覚の効果が使われています。家の側面は、手前に突き出しているようでもあり、奥へ引っ込んでいるようにも見えます。NGAの公開データでは、2026年10月17日時点で、この作品の展示場所は彫刻庭園の南西側とされています。

賞と晩年(1990年代)

リキテンスタインの受賞歴は多彩です。ロイ・リキテンスタイン財団の一覧によれば、1979年にアメリカ芸術文学アカデミー会員、1992年にフランスの芸術文化勲章コマンドゥール、1995年に米国の国民芸術勲章を受けています。名誉博士号も、母校オハイオ州立大学(1988年)やロイヤル・カレッジ・オブ・アート(1993年)など複数にのぼります。

とくに日本とのかかわりが深いのが、1995年の京都賞です。贈賞理由は、30年以上にわたる創作が、芸術の本質とその社会的な役割を鋭く問いただしたと評価しています。

リキテンスタインは1995年11月11日に京都国際会館で記念講演を行い、題は「1961年からの創作人生を振り返って」でした。翌12日には、「絵画と漫画:ポップ・アートの諸問題」と題したワークショップも開かれています。

1997年8月、リキテンスタインは肺炎にかかります。9月29日、ニューヨークで、病気の合併症により急逝しました。73歳でした。

没後のリキテンスタイン

1998年、作家と家族の意向によって、ロイ・リキテンスタイン財団が設立されました。目的は、作品を一般の人が見られるようにすること、既知の全作品の総目録(カタログ・レゾネ)をつくること、そして次の世代の研究者や学芸員のための情報を共有することです。

2012年から2013年にかけては、大規模な回顧展が、シカゴ美術館、ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アート、ロンドンのテート・モダン、パリのポンピドゥー・センターを巡りました。テートによれば、ロンドンでの展覧会は124点の代表作で構成されていました。

また、NGAは、生誕100年を記念した財団からの寄贈品として、『House I』の模型2点を収蔵しています。

代表作をひと目で

この記事で取り上げた作品を、所蔵館の公式データにもとづいて一覧にしました。

作品名制作年技法所蔵
『見て!ミッキー』(Look Mickey)1961年油彩、キャンバスナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)
『ボールと少女』(Girl with Ball)1961年油彩、キャンバスニューヨーク近代美術館(MoMA)
『Whaam!』1963年マグナと油彩、キャンバス2枚テート(ロンドン)
『Drowning Girl』1963年油彩とアクリル、キャンバスニューヨーク近代美術館(MoMA)
『Wall Explosion II』1965年エナメル塗装の鋼板テート(ロンドン)
『Entablature』1976年油彩とマグナ、キャンバスニューヨーク近代美術館(MoMA)
『House I』模型1996年、製作1998年塗装したアルミニウムナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)

まとめ

いかがだったでしょうか。ロイ・リキテンスタインの人生と作品をご紹介しました。

リキテンスタインは、ニューヨークで生まれ、大学で教え、地方都市を転々としながら、40代に入る直前まで自分の表現を探し続けた画家でした。そうして1961年に、漫画の絵を漫画の様式のまま描くという方法にたどり着きます。

その方法は、ただのまねではありませんでした。『見て!ミッキー』では背景を省き、『Whaam!』では1コマを二つに分け、『Drowning Girl』では女性だけを切り出して、セリフを変えています。写しているようで、実は組み立てなおしている点が、リキテンスタインの核心でした。

その後も、リキテンスタインの関心は、筆あと、鏡、建築、宋代の山水へと広がりました。1995年の京都賞は、その歩みを、芸術の本質と社会的な役割を問いただす仕事として評価しています。

作品の画像を載せられなかった分、ぜひ所蔵館の公式サイトで作品に触れてみてください。

Euphoric " " の視点

リキテンスタインといえば、漫画の絵を大きく描きなおした作品が思い浮かびます。けれども、素材の選び方に目を向けると、別の姿が見えてきます。19世紀アメリカの風俗画に取り組んでいたころから、当時の美術界が価値を認めない絵をあえて選び、それを作りかえる進め方を好んでいたのです。

漫画を素材にしてからも、レオ・キャステリは、商業美術に根をもつ絵であることもあって決断が遅れ、『見て!ミッキー』には「商業イメージの偽造だ」という批判も向けられました。それでも1990年代の「インテリア」では、イタリアの電話帳に載っていた小さな広告をもとにしています。

価値が決まっているものを追うより、見過ごされているものに目を向けるほうが、まだ誰も手をつけていない素材に出会えるのかもしれません。リキテンスタインの歩みは、素材を選ぶ目そのものが作り手の個性になりうると教えてくれると考えます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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