【徹底解説】ノーマン・フォスターとは?ライヒスタークのガラスドームを手がけた建築家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ノーマン・フォスターとは?ライヒスタークのガラスドームを手がけた建築家の人生と作品を解説!
写真:30 St Mary Axe(ガーキン、ロンドン)(CC0/Wikimedia Commons)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはノーマン・フォスターという人物をご存知ですか?

1935年生まれのイギリスの建築家です。ベルリンのドイツ連邦議会議事堂(ライヒスターク)にガラスのドームを載せた設計者であり、香港の香港上海銀行本店ビル、ロンドンの「ガーキン」の愛称で知られる超高層ビル、アップル本社の新キャンパス「Apple Park」にも、フォスターの事務所が関わっています。東京の文京区にも、フォスターが設計したセンチュリータワーが建っています。

本記事ではそんなノーマン・フォスターの人生と作品についてご紹介します。フォスターは存命の建築家のため、建物の写真は撮影者がライセンスを明示した外観写真だけを使い、そのほかは図解と表で補っています。権利の確認が取れた図版のみ掲載しています。

ノーマン・フォスターって?

ノーマン・フォスターは、空港から超高層ビル、美術館、橋、議事堂まで、きわめて幅広い建物を手がけてきた建築家です。1999年のプリツカー賞の公式サイトは、フォスターの事務所について、1967年にロンドンで設立され、20か国以上にプロジェクトの拠点を持つ事務所だと紹介しています。2025年のロンドン・デザイン・フェスティバルの公式ページは、フォスターを、Foster + Partners の創設者でありエグゼクティブ・チェアマン、マドリードを拠点とするノーマン・フォスター財団の会長と紹介しています。

この記事では、生涯の歩みを時代ごとにたどり、作品を公式の資料や受賞機関の解説で確かめながら紹介します。読み進めるときの手がかりは、光、構造、人が集まる場所の3つだと考えます。フォスター自身が、プリツカー賞の伝記で、よい建築は構造や設備、自然換気、光の質、素材、空間の性格、都市の中での存在感など、建物を成り立たせるあらゆる要素の総合から生まれると語っています(筆者要約)。

基本情報

本名ノーマン・ロバート・フォスター(Norman Robert Foster)
生年月日(没年月日)1935年(存命)。確認した公式資料に月日の記載がないため、年のみを記します
国籍・出身イギリス/イングランド北西部のマンチェスターで生まれる
学歴1961年にマンチェスター大学の建築・都市計画学部を卒業。ヘンリー奨学金でイェール大学へ進み、建築学の修士号を取得
分野建築、都市計画、家具・プロダクトデザイン
傾向構造と設備を建物の見せ場にする設計。自然光を内部に取り込む工夫、環境への配慮、公共の空間づくりを一貫して重んじています
師事した人物・影響を受けた人物イェール大学で学んだ建築史家ヴィンセント・スカーリー、学部長のポール・ルドルフ。ともに事務所を始めたリチャード・ロジャース。長く協働したバックミンスター・フラー
現在の肩書(2026年10月時点で確認できる公式紹介)Foster + Partners 創設者・エグゼクティブ・チェアマン、ノーマン・フォスター財団 会長(2025年のロンドン・デザイン・フェスティバル公式ページによる)。称号は Lord Foster of Thames Bank、メリット勲章(OM)

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経歴と作品

ノーマン・フォスターの歩みを年代順に並べた図。1935年生まれ、1961年マンチェスター大学卒業、1963年チーム4を結成、1967年フォスター・アソシエイツを設立、1999年プリツカー賞。
図:ノーマン・フォスターの歩み

マンチェスターに生まれ、イェールで学ぶ(1935〜1962年)

フォスターは1935年に、イングランド北西部の都市マンチェスターで生まれました。アメリカの教育団体アカデミー・オブ・アチーブメントの紹介は、生まれた場所をマンチェスター近郊のレディッシュとしています。幼いころから飛行機や自動車、建物の絵をスケッチブックに描くことに熱中し、街にある19世紀の壮大な建物や鉄道、工場に刺激を受けたといいます。

マンチェスター大学の建築・都市計画学部を1961年に卒業すると、ヘンリー奨学金を得てアメリカのイェール大学に進みました。プリツカー賞の伝記は、そこで建築史家のヴィンセント・スカーリーらに学び、同じ奨学生だったリチャード・ロジャースと出会ったと記しています。修士号を得たあと、フォスターは約1年をかけてアメリカを東海岸から西海岸まで旅し、シカゴ派の建築やミース・ファン・デル・ローエの作品を見て、ルイス・カーンにも会ったそうです。フランク・ロイド・ライトのほぼすべての作品を訪ね、チャールズ・イームズが標準部品を建築に使う手法にも注目したと伝えられています。

この旅で見たものが、のちの仕事の土台になったと考えられます。標準化された部品を組み合わせて、軽く、早く、自由に使える建物をつくる。その発想は、帰国後の最初の仕事から現れます。

チーム4とフォスター・アソシエイツ(1963〜1970年代前半)

1962年にイギリスへ戻ったフォスターは、ロジャースらとともに、1963年に最初の設計事務所「チーム4」を設立しました(プリツカー賞の伝記)。最初の仕事は、コーンウォールの地面に半ば埋め込まれた、ガラスの泡のような最小限の建物「コックピット」で、同賞の伝記は1964年の作品として挙げています。つづくコーンウォールの住宅「クリーク・ヴィーン」は、景色を生かしながら環境にも配慮した設計で、英国王立建築家協会(RIBA)の賞を受けています。

転機になったのは、1965年に設計した、スウィンドンのリライアンス・コントロールズ社の工場です。プリツカー賞の伝記は、これをフォスターにとって最初の鉄骨の建物とし、「このプロジェクトの経済的な現実が、スピードと柔軟性を必要とし、私たちの建て方を変えざるをえなくした」というフォスターの言葉(筆者訳)を引いています。チーム4は1967年に解散し、フォスターは同じ年に、フォスター・アソシエイツを設立しました(プリツカー賞の伝記、高松宮殿下記念世界文化賞(Praemium Imperiale)の公式サイトにある年表)。この事務所が、のちのFoster + Partnersです。

1968年には、アメリカの発明家バックミンスター・フラーと出会います。フラーは、サミュエル・ベケット劇場の計画の協力者としてフォスターを誘い、二人の協働は1983年のフラーの死まで続きました。フォスターはフラーについて、「バッキーは、あらゆることが可能だと信じさせてくれる人だった」と語っています(プリツカー賞の伝記より、筆者訳)。

この時期の仕事には、技術の使い方に対するフォスターらしい考え方がよく表れています。1970年には、約70人が12か月のあいだ働くための、世界初の空気膜式の事務所とされる建物をつくりました。ナイロンとPVCの膜でできた長さ約61メートルの外皮は、55分で膨らんだと伝えられています。つづくIBMのパイロット・ヘッドオフィスは、18か月以内に、仮設建築のなかで最も安い費用以下で完成させることが条件でした。フォスターはこれを満たしたうえで、恒久的な建物をつくり、コンピューターと事務室を同じ建物に収めるため、床を二重にして配線を通しました。当時のコンピューターは「神聖な機械」のように扱われ、専用の「礼拝堂」を建てるのが普通だった、とフォスターは振り返っています(プリツカー賞の伝記、筆者要約)。

『Willis Faber & Dumas』社屋:働く場所を変えたガラスの外壁(1970年代)

『ウィリス・フェイバー&デュマ本社』(イプスウィッチ、1975年)

フォスターの名が広く知られるきっかけのひとつが、イングランド東部の町イプスウィッチに建つ、保険会社の本社です。プリツカー賞の公式サイトは、この作品の年を1975年としています。敷地の形に沿ってゆるやかに曲がるガラスの外壁が特徴で、昼間は濃い色のガラスが周囲の景色を映し、夜は内部の明かりが透けて見えます。アカデミー・オブ・アチーブメントは、この外壁を、マンチェスターのデイリー・エクスプレス社屋の曲面ガラスを思わせる発想と紹介しています。

イプスウィッチの交差点に面して、黒いガラスの外壁がゆるやかに湾曲しながら建つウィリス・ビル
イプスウィッチのウィリス・ビル(旧ウィリス・フェイバー&デュマ本社)の外観(2018年撮影)。撮影:Sumit Surai/CC BY-SA 4.0/出典:Wikimedia Commons

内部には、3層の開放的な事務室、中央の吹き抜け、屋上のレストランと庭、1階のプールがありました(プリツカー賞の伝記)。フォスターは、この建物でいちばん大切なのは社会的な側面だと語っています。小さな市場町に社交の場がなかった時代に、週末は家族で泳げる場所になった。技術は、その目的のための手段だった、という趣旨です(筆者要約)。さらに、当時の会社は、床下に配線を通せるようにした設計のおかげで、情報化の時代を先取りできた、とも述べています。働く場所を、人が気持ちよく過ごせる場所に引き上げる。この考え方は、のちの作品にも続いていきます。

セインズベリー視覚芸術センター:設備を壁と屋根の厚みに収める(1978年)

『セインズベリー視覚芸術センター』(ノリッジ、1978年)

イースト・アングリア大学の敷地に建つセインズベリー視覚芸術センターは、ロバート・セインズベリー夫妻の美術コレクションを収めるために建てられた施設です。同センター自身の解説によれば、設計の依頼は1974年、開館は1978年です。夫妻は、まだあまり知られていなかった建築家としてフォスターを選びました。

緑の芝生の向こうに、鉄骨のトラスで縁取られた巨大なガラス面の格納庫のような建物が見えるセインズベリー視覚芸術センター
セインズベリー視覚芸術センターの外観(2008年撮影)。撮影:Oxyman/CC BY 2.5/出典:Wikimedia Commons

この建物の新しさは、設備を壁と屋根の厚みの中に収めたことです。センター自身の解説は、大きく変えやすい内部空間は、すべての設備を建物の外皮に収めることで実現したと説明しています。アカデミー・オブ・アチーブメントも、構造と設備が二重の壁と屋根の中に収まっていると紹介しています。展示、教育、食事のための場所が、融通のきく大きな内部空間にまとめられています。センターの解説は、フォスターの飛行機への関心が設計に影響したとして、批評家ジョナサン・グランシーの評を引いています。「バウハウスというよりボーイング」(筆者訳)という言葉です。

のちにフォスターは、この施設の地下に、湖を望む三日月形の増築部分も設計しています(プリツカー賞の伝記)。

香港上海銀行本店:超高層ビルの「中身」を外に出す(1979〜1986年)

『香港上海銀行本店ビル』(香港、1986年)

1979年、フォスターは香港上海銀行(HSBC)の新本店の設計競技で一等を得ました(プリツカー賞の伝記)。世界文化賞の年表は、設計と建設の期間を1979年から1986年としています。約3,500人が働く建物です。

下から見上げた香港上海銀行本店ビル。外側に鉄骨の柱とトラスが見える
香港上海銀行本店ビルの外観(2016年撮影)。撮影:鄒延/CC BY-SA 4.0/出典:Wikimedia Commons

このビルの発想は、イェール大学の学生時代の課題にさかのぼります。フォスターは、アカデミー・オブ・アチーブメントのインタビューで、高層ビルといえば中央にエレベーターや階段をまとめた中心部(コア)があり、その周りに細く事務室が巡る形ばかりだったと振り返っています。そこで、構造の専門家と一緒に考えたい、と当時の学部長ポール・ルドルフに頼んだそうです。世界文化賞の紹介文は、フォスターが超高層ビルの形を変えた人物だと評価し、コアを周辺へ移すことで、開かれた柔軟に使える空間が生まれたと説明しています。

従来の高層ビルと香港上海銀行本店ビルを比べた表。コアの位置と事務室の2項目で、コアを周辺へ移したことで開かれた柔軟に使える空間が生まれた点を対比している。
図:従来の高層ビルと、香港上海銀行本店ビル

プリツカー賞の伝記は、建物全体が柱で地面から持ち上げられ、1階に誰もが使える広場が生まれたと紹介しています。この広場は、香港の人びとが好んでピクニックをする場所になったそうです。こうして構造は、建物を支えるだけでなく、広場という公共の空間もつくりだしました。

超高層ビルの新しい形は、その後も続きます。プリツカー賞の伝記は、フランクフルトのコメルツバンク本社(1994〜97年)を、世界で初めての環境配慮型の超高層ビルと紹介しています。三角形の平面の3辺に沿って、4階分の高さをもつ9つの温室庭園がらせん状に配され、すべての事務室から緑が見えます。事務室はすべて、窓を開けて自然換気ができます。同賞の伝記が書かれた1999年の時点で、ヨーロッパで最も高い建物とされていました。働く人が窓を開け、緑を見ながら過ごせる超高層ビルという発想は、ウィリス・フェイバー&デュマ本社で見せた、働く場所を引き上げる考え方の延長にあるといえるでしょう。

空港と地下鉄:インフラに特別な場の感覚を(1980〜1990年代)

フォスターは、建物だけでなく、都市の骨組みにあたる交通施設にも力を注いできました。ロンドン第3空港として計画されたスタンステッド空港のターミナルは、世界文化賞の年表で1981年から1991年の仕事です。プリツカー賞の伝記は、設備や配管を屋根の上に載せていた従来の空港の設計を、上下逆さにしたと説明しています。設備と交通の接続を床の下に収めたため、屋根は軽くでき、光を取り入れる働きも持てた、という説明です。フォスター自身が語った話として、同賞の伝記は、開館式に女王が訪れたとき、警備にあたった係員が、建物が美しいと初めて思ったと話した、という逸話を紹介しています。

1992年から1998年にかけては、香港の新空港、チェクラップコク国際空港を手がけました(世界文化賞の年表)。同賞の伝記によると、フォスターはこの空港を「水平の大聖堂」と呼び、空港が旅に「特別な機会」という感覚を取り戻すことを願ったそうです(筆者訳)。スペインのビルバオでは地下鉄の駅も設計しています。フォスターは、落書きされにくく、掃除しやすいコンクリートを研究して使い、市民が誇りを持つ地下鉄だから、誰も落書きしない、と述べています(プリツカー賞の伝記、筆者要約)。

フォスターが設計の過程として挙げる6つの言葉を円で囲んだ図。統合、再生、適応性と柔軟性、コミュニケーション、経済性、環境が並ぶ。
図:フォスターが挙げる「設計の過程」

プリツカー賞の伝記は、フォスターがこれらの仕事に共通するテーマを「設計の過程」と呼んでいると記しています。統合、再生、適応性と柔軟性、コミュニケーション、経済性、環境(エコロジー)の6つです。建物を単独の作品としてでなく、都市や人の動きのなかの一部として見る姿勢が、この言葉にまとまっています。

古い建築と新しい建築をつなぐ(1980〜2000年)

『カレ・ダール』(ニーム、1993年)

フランス南部の都市ニームの美術館「カレ・ダール」は、ローマ時代のコリント式神殿のすぐ前に建てられました(世界文化賞の年表は1984〜93年)。プリツカー賞の伝記によれば、建物の大部分は地下にあり、ガラスの階段でつながる図書館や子ども向けの場があり、屋上のカフェからは古代の神殿を見渡せます。フォスターは、敷地はもともと荒れた都市の一角だったが、新しい建物が地域の社会的な核となり、周囲の空間を生き返らせたと述べています(筆者要約)。

ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツでは、1991年に増改築を完成させました。古い建物と、ヴィクトリア朝の展示棟のあいだの隙間に新しい階段とエレベーターを挿入し、サックラー・ギャラリーをつくったのです。フォスターは、これは古いものと新しいものをどう結びつけるかを考え抜いた結果で、双方からより豊かで力強いものを引き出せたと答えています(プリツカー賞の伝記、筆者要約)。

『ドイツ連邦議会議事堂(ライヒスターク)』(ベルリン、1999年)

こうした仕事の集大成のひとつが、ベルリンのライヒスターク(ドイツ連邦議会議事堂)の再生です。世界文化賞の年表では1992年から1999年の作業です。歴史ある建物を残しながら、フォスターは屋上に透明なガラスのドームを載せました。

「DEM DEUTSCHEN VOLKE」と刻まれた古い建物の破風の奥に、フォスターが設計したガラスのドームが見える
ライヒスターク西側の破風と、フォスター設計のガラスのドーム(2022年撮影)。撮影:Christian David/CC BY-SA 4.0/出典:Wikimedia Commons

プリツカー賞の伝記は、ドームの中心に、光を議場へ反射する円錐形の装置があり、2本のらせん状のスロープで市民が頂上まで上れると説明しています。フォスターは、実際にも象徴としても、市民が議員の上に立つことになり、議員の仕事ぶりを見下ろして民主主義の過程を見られる、と語っています(筆者訳)。2002年に東京で行った講演では、ドームを訪れる人は年に約350万人にのぼり、屋上のレストランは、おそらくベルリンで最も人気のあるレストランだろうと話しました(世界文化賞の公式サイトにある講演要約)。

環境面でも、この建物は特色を持っています。講演の要約によると、植物油を使った発電で、二酸化炭素の排出を94パーセント減らしたといいます。余った熱は、地下の水層にためて季節ごとに使います。ドームは、光と換気、エネルギーの仕組みにも関わる、建物の中心的な装置です。

ライヒスタークのガラスのドームの3つの特徴を並べた図。市民がらせん状のスロープで頂上へ上れること、光を議場へ反射する円錐があること、植物油で発電すること。
図:ライヒスタークのドームの特徴

ロンドンの大英博物館でも、フォスターは大きな仕事をしています。プリツカー賞の伝記によれば、1994年に提案された計画は、館の中庭を、ガラスと鉄の軽い屋根で覆うものでした。2000年に完成した「グレート・コート」は、アカデミー・オブ・アチーブメントによると、公共の空間を40パーセント増やし、来館者が150年ぶりに1階を自由に行き来できるようになりました。屋根は約2エーカーに及び、ヨーロッパ最大の屋根付き公共空間と紹介されています。

日本とのつながり:センチュリータワーと世界文化賞(1987〜2002年)

『センチュリータワー』(東京・文京区、1991年)

フォスターの建物は、日本にもあります。東京都文京区のセンチュリータワーです。プリツカー賞の公式サイトは完成年を1991年とし、世界文化賞の年表は、設計と建設の期間を1987年から1991年としています。

青空の下、外側に鉄骨の斜材が見える白いタワー。屋上にアンテナが立つ
東京・文京区のセンチュリータワー(2008年撮影)。撮影:Wiiii/CC BY-SA 3.0/出典:Wikimedia Commons

日本との関わりは、建物だけではありません。プリツカー賞の伝記によれば、フォスターは1987年に、日本のデザイン財団賞(Design Foundation Award)を受けています。2002年には、日本美術協会が主催する世界文化賞の建築部門を受賞しました。同年10月25日に東京の赤坂で行った記念講演で、フォスターは、若いころから集めてきた写真には、ウィーンなど欧州の都市、設計者のいない建築、ガラスの温室などと並んで、光への関心から日本建築に惹かれたことが表れていると話しました(講演の要約、筆者要約)。

この講演でフォスターが強調したのは、地球が有限であること、都市の密度を高めながら暮らしの質も上げる必要があることでした。そして、都市の質を左右するのは、個々の建物よりも、道や公共の空間、つながりといったインフラかもしれない、とも述べています(筆者要約)。議事堂や空港、地下鉄駅といった仕事が、この関心のなかに並ぶことがわかります。

プリツカー賞と、21世紀の仕事(1999年〜)

1999年は、フォスターにとって節目の年になりました。プリツカー賞の公式サイトによると、フォスターはこの年の同賞を受けた21人目の建築家です。事務所はそれまでに400を超える賞や表彰を受けていたと紹介されています。そのほか、英国王立建築家協会の王立金メダル(1983年)、フランス建築アカデミーの金メダル(1991年)、アメリカ建築家協会の金メダル(1994年)を受けています。1990年にナイトの称号を、1997年にメリット勲章を受け、1999年には一代貴族に叙せられ、フォスター・オブ・テムズ・バンク卿(Lord Foster of Thames Bank)となりました。

2000年には、セント・ポール大聖堂とテート・モダンを結ぶテムズ川の歩行者橋「ミレニアム・ブリッジ」が完成しました。アカデミー・オブ・アチーブメントによると、全長320メートルの非常に浅い吊り橋で、ケーブルは橋の床面から2.3メートル以上は高くならず、渡る人は景色をさえぎられません。

『30セント・メリー・アクス』(ロンドン、2000年代前半)

ロンドンの金融街にそびえる30セント・メリー・アクスは、スイス再保険の本社として計画された建物です。ロンドンっ子から「ガーキン」(小さなきゅうりのピクルス)と呼ばれ、2000年代前半に完成しました。アカデミー・オブ・アチーブメントは、円形の平面と放射状の幾何学から生まれた41階建てで、上に向かって広がり、頂部で細くなる形が、敷地に合わせたものだと説明しています。この形は風の影響を和らげ、地上の広場を広く取れる利点もあります。フォスター自身は、この愛称が新聞の厳しい批評から生まれたものの、いまでは愛着を込めた呼び名になったと語っています(アカデミー・オブ・アチーブメントのインタビュー、筆者要約)。

青空を背に、ひし形の格子状のガラスで覆われた卵形の超高層ビルが立つ
ロンドンの30セント・メリー・アクス(通称ガーキン)(2016年撮影)。撮影:CEphoto, Uwe Aranas/CC BY-SA 3.0/出典:Wikimedia Commons

『Apple Park』(米国カリフォルニア州クパチーノ、2017年)

アップルの新本社「Apple Park」も、フォスターの事務所が関わった仕事です。アップルの2017年2月の発表は、約175エーカーの敷地に建つキャンパスが、Foster + Partners との協働で設計され、同年4月から社員の入居が始まると伝えています。リング状の主棟は、世界最大の曲面ガラスで覆われています。フォスターは、アカデミー・オブ・アチーブメントのインタビューで、この計画の最初の打ち合わせが2009年9月だったと話しています。

2025年には、ロンドン・デザイン・フェスティバルが、デザイン界への長年の貢献をたたえるライフタイム・アチーブメント・メダルをフォスターに贈りました。公式ページは、フォスターの「幼いころから、デザインは私の生活の欠かせない一部であり、毎日その情熱に浸れてきたことをとても幸運に思います」という受賞コメント(筆者訳)を載せています。

代表作の一覧

年作品場所確認できた公式の根拠
1975ウィリス・フェイバー&デュマ本社イプスウィッチ(英)プリツカー賞の公式サイト
1978セインズベリー視覚芸術センターノリッジ(英)同センターの解説、プリツカー賞
1986香港上海銀行本店ビル香港世界文化賞の年表
1991スタンステッド空港ターミナルロンドン近郊(英)世界文化賞の年表
1991センチュリータワー東京・文京区プリツカー賞、世界文化賞
1993カレ・ダールニーム(仏)プリツカー賞、世界文化賞
1997コメルツバンク本社フランクフルト(独)プリツカー賞(1994〜97年)、世界文化賞
1998チェクラップコク国際空港香港世界文化賞の年表(1992〜98年)
1999ライヒスタークの再生ベルリン(独)プリツカー賞、世界文化賞
2000大英博物館グレート・コートロンドン(英)世界文化賞、アカデミー・オブ・アチーブメント
2000ミレニアム・ブリッジロンドン(英)世界文化賞、アカデミー・オブ・アチーブメント
2017Apple Parkクパチーノ(米)アップルの2017年2月の発表

まとめ

いかがだったでしょうか。ノーマン・フォスターは、1935年にマンチェスターで生まれ、イェール大学で学び、1963年のチーム4を経て、1967年に自分の事務所を始めた建築家です。ウィリス・フェイバー&デュマ本社やセインズベリー視覚芸術センターで、働く場所と展示の場所のあり方を変え、香港上海銀行本店ビルでは、超高層ビルの中身を外へ出しました。

スタンステッド空港やチェクラップコク国際空港では、交通施設に「特別な機会」という感覚を取り戻そうとし、ライヒスタークや大英博物館では、古い建物に新しい屋根を重ねて、人が集まる場所を広げています。本人は「ハイテク」と呼ばれることを好まず、技術は文明の一部であり、建築の歴史は技術の歴史でもあると述べています(プリツカー賞の伝記、筆者要約)。

建物を訪れる機会があれば、構造や設備がどこにあるか、光がどこから入ってくるか、そして人がどこに集まっているかを見てみてください。センチュリータワーのように、日本でも見られる建物があります。

Euphoric " " の視点

フォスターの仕事には、空港や地下鉄の駅も含まれています。ビルバオの地下鉄の駅では、落書きされにくく掃除しやすいコンクリートを研究して使い、市民が誇りを持つ地下鉄だから、誰も落書きしない、と述べています。スタンステッド空港については、開館式に女王が訪れたとき、警備にあたった係員が、建物が美しいと初めて思ったと話した、という逸話をフォスターが語っています。

2002年の東京での講演では、都市の質を左右するのは、個々の建物よりも、道や公共の空間、つながりといったインフラかもしれない、とも述べました。

駅や空港は、通り道として後回しにされやすいのかもしれません。けれども毎日通る人にとっては暮らしの一部でもあると考えます。手間をかけて整えた場所は、使う人の誇りに支えられて、長く大切にされるのではないでしょうか。フォスターの駅や空港は、通り過ぎる場所にこそ心を配る価値を教えてくれるように思います。

この作品を見に行くには

記事で紹介した建物のうち、次の施設は公式サイトで最新の情報を確認できます。公開の状況は変わることがあるため、お出かけの前に公式サイトをご確認ください(2026年10月時点)。

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