【徹底解説】ギュスターヴ・カイユボットとは?パリの街と仲間の画家たちを支えた印象派の画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ギュスターヴ・カイユボットとは?パリの街と仲間の画家たちを支えた印象派の画家の人生と作品を解説!
画像:『パリの通り、雨』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはギュスターヴ・カイユボットという人物をご存知ですか?

19世紀のパリに生まれたフランスの画家で、モネやルノワールたちと並んで印象派展に出品した一人です。同時に、仲間の画家たちの絵を買い集めた収集家でもありました。

その収集品は、亡くなったあとに遺言でフランス国家へ遺贈されました。いまオルセー美術館で見られる印象派の名作の一部は、カイユボットの遺贈から来ています。けれどカイユボット自身が描いた絵は、長いあいだ家族の手元にとどまり、広く知られるまでに時間がかかりました。

本記事ではそんなギュスターヴ・カイユボットの人生と作品についてご紹介します。

ギュスターヴ・カイユボットって?

基本情報

本名ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte)
生年月日(没年月日)1848年8月19日〜1894年2月21日(45歳没)
国籍・出身フランス/パリ生まれ。晩年はジュヌヴィリエのプティ=ジュヌヴィリエに住み、ジュヌヴィリエ(オー=ド=セーヌ県)で没する
学歴画家レオン・ボナに学び、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)で学んだ。技師としての教育も受けたとされる
分野絵画(油彩)、パステル、素描
傾向印象派。パリの街と室内、働く人々、ボート遊びやヨット、庭。大胆な遠近法と、写実的な描写
師事した人物・影響を受けた人物レオン・ボナ(師)。印象派の画家たちと交友し、モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、シスレー、セザンヌ、マネの作品を購入した

カイユボットと関わりの深い画家や、印象派そのものについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

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画家であり、収集家であり、パトロンでもあった人

カイユボットを紹介するとき、肩書きは一つに絞れません。ブリタニカ百科事典は、画家、美術収集家、そして展覧会の仕掛け人(impresario)と紹介しています。裕福な家に生まれ、印象派展の運営と資金を支え、自分でも出品した、という立ち位置です。

ロンドンのナショナル・ギャラリーも、カイユボットを画家でありパトロンでもあった人物とし、亡くなる時点でドガ、セザンヌ、マネ、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ミレーの作品を持っていたと説明しています。

経歴と作品

裕福な家に生まれ、絵の勉強を始める

カイユボットは1848年8月19日、パリで生まれました。ブリタニカ百科事典によると、裕福な家の出で、はじめは技師になるための教育を受けましたが、やがて絵に関心を持ち、パリの国立美術学校で学んでいます。

オルセー美術館の解説では、カイユボットは画家レオン・ボナのもとで、いわゆるアカデミックな教育を受けた画家とされています。のちに印象派の仲間として知られますが、出発点は伝統的な訓練でした。この土台は、あとで見る『床削り』にはっきり表れます。

1874年には父が亡くなり、カイユボットはかなりの財産を受け継ぎました(ジヴェルニー印象派美術館の解説による)。ブリタニカ百科事典は、同じ1874年にルノワールとモネに出会ったと記しています。

『床削り』とサロンの落選、印象派展への参加

『床削り』(Les raboteurs de parquet)(1875年)

ギュスターヴ・カイユボット『床削り』(1875年)
ギュスターヴ・カイユボット『床削り』(Les raboteurs de parquet)(1875年)オルセー美術館(RF 2718、パブリックドメイン)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project)

カイユボットの名前を最初に印象づけた作品が、1875年の『床削り』です。広い部屋の床板を、上半身裸の三人の職人が削っています。窓の外にはバルコニーの鉄の手すりが見え、床には削りくずが散らばっています。

オルセー美術館は、この作品を、都市のプロレタリアートを描いた最初期の例のひとつと説明しています。それまでの画家は、ミレーのように農民を、クールベのように田舎の働き手を描くことはよくありましたが、都市で働く人はほとんど描かれてきませんでした。同館によると、カイユボットは作品に社会的な訴えや道徳的なメッセージを込めておらず、道具や身ぶりを丁寧に調べて描く点で、写実主義の最も優れた画家の一人に数えられる、とされています。

制作の方法は、意外なほど伝統的でした。オルセー美術館によれば、カイユボットは画面の各部分を一つずつ素描し、碁盤目(升目)を使ってキャンバスに写すという、アカデミックなやり方で描いています。見下ろすような視点や、床板の線が奥へ並ぶ構図も、伝統にかなったものです。同館は、職人の裸の上半身が古代の英雄のようで、当時のパリの労働者としては考えにくい姿だとも指摘しています。カイユボットは、アカデミックな厳密さを、同時代の世界を新しい目で描くために使いました。

カイユボットは1875年のサロンにこの絵を出しましたが、審査員は落選させました。粗い写実が衝撃だったのだろう、とオルセー美術館は説明し、批評家のなかには主題が低俗だと評した人がいたとも記しています。そこで若い画家は印象派の仲間に加わる決心をし、1876年の第2回印象派展に出品しました。

展覧会では、この現代的な大作が批評家に強い印象を与えました。オルセー美術館の解説は、ゾラも注目した一人だと述べています。ゾラは、正確すぎて作品がブルジョワ的になっている、と批判もしたと伝えています。

この絵は、カイユボットの没後の1894年、弟のマルシャルがルノワールを通じて国に贈りました。1896年にリュクサンブール美術館へ実際に入り、1929年にルーヴル美術館へ移り、1986年からオルセー美術館に所属しています(オルセー美術館の作品解説による)。日本のアーティゾン美術館は、この作品を《床削り》と呼んでいます。

1876年、二十八歳の遺言

印象派展に初めて出品した1876年は、カイユボットにとって、もう一つ大きな出来事のあった年でした。この年、わずか28歳で遺言書を書いたのです。

オルセー美術館の研究記事によると、遺言書の日付は1876年11月3日です。そこでカイユボットは、自分の持つ絵を屋根裏にも地方の美術館にも行かせず、リュクサンブール美術館に、のちにはルーヴル美術館に収めるよう定めています。オルセーの記事は、この動きを前例のないものとして紹介しています。

遺言を書いたのは、亡くなる17年あまり前のことでした。印象派の作品が国の美術館にほとんど入っていない時代に、一人の若い画家が、その行き先を先に書いていたのです。

印象派展の中心に立つ

1877年の第3回印象派展は、カイユボットが運営の面でも大きな役割を果たしたことで知られています。シカゴ美術館の解説は、カイユボットが1876年4月の第2回展で正式にグループに加わり、1877年の展覧会を自ら組織した、と説明しています。ブリタニカ百科事典も、カイユボットがその後6年ほど、印象派展の中心的な組織者、宣伝者、資金の提供者だったと述べています。

オルセー美術館は、カイユボットが仲間の絵を買って支えたと説明し、印象派の画家たちがフランスの国のコレクションに入ったのは、カイユボットのおかげだとしています(ただしマネ、ルノワール、シスレーは、すでに1点ずつ入っていました)。

パリの街を描く:『パリの通り、雨』

『パリの通り、雨』(Paris Street; Rainy Day)(1877年)

ギュスターヴ・カイユボット『パリの通り、雨』(1877年)
ギュスターヴ・カイユボット『パリの通り、雨』(Paris Street; Rainy Day)(1877年)シカゴ美術館(1964.336、パブリックドメイン)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project)

カイユボットの最も有名な作品が、1877年の『パリの通り、雨』です。シカゴ美術館は、この作品をカイユボットの最大かつ最も野心的な作品としています。画面の大きさは縦212.2センチ、横276.2センチです。

描かれているのは、カイユボットの自宅から歩いて行ける距離にあるパリの交差点です。濡れた石畳の上を、傘をさした人々が歩いています。画面の右手前に大きく描かれた紳士と婦人は、画面の外の何かに気を取られたまま、まるでこちらへ歩いてくるように見えます。シカゴ美術館は、この大胆な切り取り方が、当時広まりつつあった写真の影響を受けた可能性があると述べています。

この絵のうまさは、雨粒を描かずに雨を感じさせる点にあります。シカゴ美術館によれば、カイユボットは、新しく出回った折りたたみ式の傘と、濡れた石畳に映る淡い反射で、雨の日の空気を表しました。背景の人物は一人ずつ慎重に配置され、街のにぎわいを生んでいます。当時の画家は、動いている人を描くことをあまり試みませんでした。

ここに描かれたのは、「新しいパリ」でもありました。シカゴ美術館は、この絵の流行の服、折りたたみ式の傘、そして長い年月をかけて中世の街並みを大通りに変えたパリの改造が、すべて当時の最新のものだと解説しています。

この絵は、1877年4月の第3回印象派展に、Rue de Paris; Temps de pluie という題で出品されました。カイユボットの没後、1894年6月にはデュラン=リュエル画廊の回顧展にも出ています。のちに家族の手を離れ、1954年にウォルター・P・クライスラー・ジュニアへ渡り、1964年にシカゴ美術館が購入しました(同館の来歴による)。同館は、この絵がカイユボットの再評価が進む前から、来館者に愛されてきたと記しています。

高いところから街を見る:屋根の雪

『Vue de toits(Effet de neige)』(1878年)

ギュスターヴ・カイユボット『Vue de toits(Effet de neige)』(1878年)
ギュスターヴ・カイユボット『Vue de toits(Effet de neige)』(1878年)オルセー美術館(RF 876、パブリックドメイン)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project)

雪をかぶったパリの屋根を、高い位置から見下ろした絵です。灰色の空の下で、屋根の雪、煙突、屋根窓が重なり、ところどころに淡いピンクが差しています。オルセー美術館は、この絵を、きわめて現代的な都市の風景であり、冬の日のパリの空気をみごとに伝えていると説明しています。

同館の解説によると、カイユボットは1879年の第4回印象派展に、25点を超える作品を出しました。この絵はそのなかの、二つの屋根の風景のうちの一つです。ボートを楽しむ人々の絵や肖像画に比べて、屋根の風景は当時ほとんど話題にならなかったそうです。けれど同館は、パリの街並みや、自宅のバルコニーから見下ろした遠近法の絵と並ぶ、カイユボットの都市の絵の流れをつなぐ大切な作品だと位置づけています。

高い視点から街を見る描き方は、写真のほかにはあまり前例がなかったと、同館は説明しています。ただし、カイユボットが写真を参考にしたかどうかは、はっきりしないとされています。同館はこの絵について、季節が光と風景に与える効果に目を向けた点で、カイユボットがモネ、シスレー、ピサロといった印象派の友人たちに通じていたとも述べています。

この絵も『床削り』と同じく、1894年に弟のマルシャルから、遺贈とは別に国へ贈られた作品です(オルセー美術館の作品解説による)。

セーヌのほとりへ:ヨットと庭の暮らし

オルセー美術館によれば、カイユボットは1879年から、セーヌ川の競技会(レガッタ)で優勝し、豪華で斬新なヨットで注目を集めました。人生の終わりごろには、絵画よりも船への情熱が勝ち、名の知れたヨットの造り手にもなった、とあります。

1881年、カイユボットはセーヌ川をはさんでアルジャントゥイユの対岸にあるプティ=ジュヌヴィリエに家を買いました。この一帯には、ヨットクラブ「Cercle de la Voile de Paris」の係留地がありました。この家は、まもなく主な住まいになりました(オルセー美術館の解説による)。

『Voiliers à Argenteuil』(1888年頃)

ギュスターヴ・カイユボット『Voiliers à Argenteuil』(1888年頃)
ギュスターヴ・カイユボット『Voiliers à Argenteuil』(1888年頃)オルセー美術館(RF 1954 31、パブリックドメイン)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project)

この絵には、アルジャントゥイユの古い木橋の下流に並ぶ、遊びのための船が描かれています。アーチの向こうに鉄道橋の橋脚が見え、遠くにサノワとオルジュモンの丘が望めます。手前には、舟をつなぐ木の桟橋が斜めに伸びています。

オルセー美術館の解説は、構図を高く評価しています。橋やマストが作る縦と横の強い線に、桟橋や帆の斜めの線が重なって、画面にリズムを生んでいる、という説明です。筆づかいは、並べて置いた太い筆触が目立ち、モネやルノワールの流れるような表現とはかなり違う、とも述べています。

同館は、1888年にカイユボットが川の船の絵を展示したとき、モネたちに比べると、少し古風、あるいは時代遅れに見えただろうと書いています。それでも、この絵のように、構図のバランスと光の質で成功している作品がある、と評価しています。

『Chrysanthemums in the Garden at Petit-Gennevilliers』(1893年)

ギュスターヴ・カイユボット『Chrysanthemums in the Garden at Petit-Gennevilliers』(1893年)
ギュスターヴ・カイユボット『Chrysanthemums in the Garden at Petit-Gennevilliers』(1893年)メトロポリタン美術館(2014.736、CC0)/出典:Wikimedia Commons

晩年のカイユボットは、プティ=ジュヌヴィリエの庭を、作品の大きな主題にしました。ジヴェルニー印象派美術館は、この庭がしだいに作品の中で大きな位置を占めるようになったと説明しています。数年後にモネが庭から大きな装飾画の発想を得たように、カイユボットも植物の世界から大画面の構想を描いた、とあります。その例として挙げられるのが、未完成のまま残った『Bed of Daisies』です。

菊の絵は、亡くなる前年の1893年に描かれました。白、黄、赤、オレンジの花が、縦長の画面いっぱいに茂っています。メトロポリタン美術館の所蔵で、2014年に寄贈されました。

ブリタニカ百科事典は、カイユボットが後期の作品では、より明るい色と、より厚い筆づかいを使う傾向があったと述べています。

肉屋の静物と、海辺の別荘

『Calf’s Head and Ox Tongue』(1882年頃)

ギュスターヴ・カイユボット『Calf's Head and Ox Tongue』(1882年頃)
ギュスターヴ・カイユボット『Calf’s Head and Ox Tongue』(1882年頃)シカゴ美術館(1999.561、パブリックドメイン)/出典:Wikimedia Commons

カイユボットの静物画のなかで、とくに目を引くのが、肉屋の店先の絵です。灰色の壁の前に、牛の舌と子牛の頭が、鉤にかけて吊られています。

シカゴ美術館は、この絵を、家族が住んでいたパリの家の階下にあった肉屋から着想を得た可能性があると説明しています。血の色が目立つ場面ですが、色づかいはパステル調で、筆づかいも柔らかい、と述べています。同館は、そうした静物画が、モネやルノワールの、売れやすく魅力的な静物画と対照的だとも指摘しています。

同館によると、この絵は1894年のデュラン=リュエル画廊の回顧展にも出品されました。のちに家族から離れ、1999年にシカゴ美術館が購入しています。

『Villas at Trouville』(1884年)

ギュスターヴ・カイユボット『Villas at Trouville』(1884年)
ギュスターヴ・カイユボット『Villas at Trouville』(1884年)クリーヴランド美術館(2020.105、CC0)/出典:Wikimedia Commons

カイユボットは、パリや川辺だけでなく、海辺も描いています。この絵の舞台は、ノルマンディー海岸の人気の保養地、トルーヴィルです。雲がまだらに浮かぶ空の下の青緑色の海を、崖の上から見渡しています。手前には、青灰色の屋根をのせたレンガ造りの別荘が見えます。

クリーヴランド美術館の解説によると、これらの別荘は街の中心から少し離れていて、持ち主に海辺の私的な隠れ家を与えていました。カイユボットは1880年代の初めに、いくつかの夏をノルマンディー海岸で過ごし、絵を描き、ヨットの競技会に出て、友人を訪ねたそうです。

1894年の死と「カイユボット遺贈」

カイユボットは1894年2月21日に亡くなりました。45歳でした。

遺言と、遺贈をめぐる交渉

遺贈された作品の数は、資料によって数え方が異なります。オルセー美術館の所蔵品解説は、印象派の絵画とパステル67点と、ミレーの素描2点としています。同館の研究記事は、研究者アンヌ・ディステルが遺品の目録などの記録から数えた結果として、72点という数字を紹介しています。本記事では、オルセー美術館が示す数字だけを紹介します。

同館の所蔵品解説によると、遺言にはコレクションの全部を展示するという条件がありました。しかし、受け入れ先のリュクサンブール美術館には場所が足りません。弟マルシャルと、遺言執行人のルノワールは、この条件を固く守ろうとしました。そのため、点数を絞る必要が出てきたのです。研究記事をもとに、年を追って整理します。

  • 1894年3月11日:ルノワールが美術局に、カイユボットが全コレクションを国に遺贈すると知らせます。
  • 1894年3月20日:美術館の諮問委員会が、60点の遺贈を審議します。未完成のセザンヌ1点を除く59点を、まず全面的に受け入れました。ただしリュクサンブール美術館には、全部を展示する場所がないことが、マルシャルとルノワールにも前日に伝えられていました。
  • 1894年4月〜12月:展示されない作品の扱いをめぐって、相続人と行政のあいだで交渉が続きます。6月には、展示できない分をフォンテーヌブローとコンピエーニュの別館に回す案で一度まとまりますが、12月の署名の段階で、相続人が引き返しました。
  • 1894年12月24日:作家のオクターヴ・ミルボーが、国が遺贈を断るだろうと論じる文章を発表します。うわさは新聞に広がり、遺贈は「カイユボット事件(affaire Caillebotte)」と呼ばれるようになりました。
  • 1895年1月17日:国が選んだ作品をリュクサンブール美術館のために受け取り、残りは相続人のものとする、という折衷案で合意します。
  • 1896年2月25日:遺贈の受け入れを認める政令が署名されます。11月23日、マルシャルが作品を引き渡しました。

最終的に国が受け入れた作品は、ミレーの素描2点のほかに38点です。内訳は、マネ2点、セザンヌ2点、ルノワール6点、シスレー6点、ピサロ7点、ドガのパステル7点、モネ8点と、オルセー美術館の研究記事は記しています。ミレーの素描2点はルーヴル美術館に回りました。

『Bal du moulin de la Galette』(1876年)、ルノワール

ピエール=オーギュスト・ルノワール『Bal du moulin de la Galette』(1876年)
ピエール=オーギュスト・ルノワール『Bal du moulin de la Galette』(Dance at Le Moulin de la Galette)(1876年)オルセー美術館(パブリックドメイン)/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project)

この遺贈のなかに入っていた名品が、ルノワールの『Bal du moulin de la Galette』です。ほかに、セザンヌの『L’Estaque』(1878年)、モネの『La Gare Saint-Lazare』(1877年)、ピサロの『Printemps. Pruniers en fleurs』(1877年)が、オルセー美術館の解説で、受け入れられた作品として挙げられています。

一般公開は1897年2月9日でした。リュクサンブール美術館に、この遺贈のために建てた増築部分が用意されました。オルセー美術館の記事は、部屋が狭く、廊下のようだったと当時の論評が指摘し、壁面がぎっしり埋まっていたと書いています。それでも大変な数の人が訪れ、観客の反応は、叫び声から、恐れ、陶酔までさまざまだったと伝えています。

同年2月28日には、美術アカデミーが大臣に宛てて、これらは大半が度を越して欠陥のある作品で、このような厚遇には値しないと訴える手紙を出しました。けれど、この訴えは通りませんでした(オルセー美術館の記事による)。カイユボット室の評判は、まもなく国境を越えて広がりました。

同じころの国の動きも見ておきます。オルセー美術館の研究記事によると、フランス国家はリュクサンブール美術館のために、1888年にシスレーの『Matinée de septembre』を、1892年にルノワールの『Jeunes filles au piano』を取得し、1894年3月19日にはモリゾの『Young Girl in a Ball Gown』(仏題 Jeune femme en toilette de bal)を購入しています。国の美術館に印象派の作品が入り始めたのは、遺贈のわずか数年前でした。モリゾの作品については、モリゾの徹底解説記事でも触れています。

受け入れられなかった作品のその後

国が受け入れなかった作品は、その後どうなったのでしょうか。オルセー美術館の記事によると、マルシャルは1900年代に、残りを国に受け入れさせようと何度か試みたとされます。1908年、デュラン=リュエル画廊でのピサロ展のとき、マルシャルは残りをリュクサンブール美術館の学芸員レオンス・ベネディットに申し出ましたが、美術担当の政務次官が、ベネディットに動くことを禁じました。マルシャルは、国立美術館とはもう二度と関わらないと誓い、家族にも誓わせたと伝えられています。1910年に亡くなったとき、マルシャルは遺贈から外れた作品をまだ持っていました。

1928年にも国は残りの作品を求めましたが、マルシャルの未亡人は断りました。1931年に未亡人が亡くなると、家に残った絵の売却が始まります。最初に売られたのはセザンヌの3点で、1930年代から40年代にかけてのことでした。そのうち1点の『Bathers at Rest』は、画廊を経てアメリカの収集家アルバート・バーンズに、1932年3月16日に売られました(オルセーの記事は、現在はバーンズ財団の所蔵だと記しています)。

一方、国に入った遺贈作品は、1929年から1933年にかけて、リュクサンブール美術館からルーヴル美術館へ移されました。オルセー美術館の記事は、これが遺言に書かれた願いに沿った移動だったと記しています。

家族の部屋を描く:ピアノを弾く弟

『ピアノを弾く若い男』(1876年)

都市の街角や働く人々とは別に、カイユボットは家族のいる室内も描きました。その代表が、東京のアーティゾン美術館が所蔵する『ピアノを弾く若い男』です。権利の確認が取れた図版のみ掲載しているため、この作品は図版なしで解説します。

アーティゾン美術館の解説によると、描かれているのは、パリのミロメニル通りにあった自邸でピアノを弾く、カイユボットの弟マルシャルです。1876年の第2回印象派展に『床削り』とともに出された6点のうち、最も批評で取り上げられた1点だとされています。当時のパリで、ピアノは上流の市民の地位を示すものでした。絵の題材にもなりましたが、同館によると、男性が描かれることは稀で、多くの場合はルノワールの絵のように女性が描かれていました。

同館は、この絵が鍵盤に真剣に向かう男性を描いているため、近代都市の室内の自然な空気がよく伝わる、と説明しています。壁の装飾、カーテン、絨毯、椅子には植物の文様があり、窓から入る光がピアノの鍵盤や脚に映っています。ピアノの側面には鍵盤と指が映り込み、蓋には壁の柱が映っています。奥行きのある空間を細やかな筆触で描いたこの絵は、軽快な筆触が特色の印象派のなかでは、かなり異質だとも述べています。同館は、技法や主題が、都市の風景と市民を描いたドガの室内画に似ていると指摘しています。

同館は、この作品を2011年に購入しました。2013年には、日本で初めてのカイユボットの回顧展を開いています(当時の館名はブリヂストン美術館)。

忘れられていた画家から、見直される画家へ

カイユボットの画家としての評価は、長いあいだ低いままでした。ブリタニカ百科事典によると、カイユボットは優れた力を持つ画家でしたが、没後の評判は伸びませんでした。絵の大半が家族の手元に残り、20世紀の後半まで、展示も複製もされなかったからです。

遺贈をめぐる騒動の影も大きかったようです。ジヴェルニー印象派美術館は、この遺贈のスキャンダルが、画家としての独創性をすぐに覆い隠してしまった、と説明しています。

流れが変わる様子は、作品の動きにも見えます。シカゴ美術館は、『パリの通り、雨』を1964年に購入しました。同館は、カイユボットの印象派への貢献が広く認められるよりずっと前のことだと書いています。オルセー美術館の解説では、1994年から95年にかけて、パリとシカゴで大きな回顧展が開かれました。以降、イエール(Yerres)で過ごした時期、絵と写真の関係、庭の芸術への情熱といった側面が、相次ぐ展覧会で光を当てられてきたとされています。

2024年秋には、オルセー美術館で「Gustave Caillebotte: Painting Men」展(仏題 Caillebotte. Peindre les hommes)が開かれました。会期は2024年10月8日から2025年1月19日、約70点の展示です。同館の解説によると、カイユボットが好んで描いた男性の姿や男性の肖像に焦点を当て、19世紀の男らしさをめぐる見方の変化を通して、カイユボットの新しさを見直す内容でした。展覧会は、都市の労働者、バルコニーの男、スポーツをする人、身づくろいをする裸の男といった新しい人物像を、カイユボットが絵のなかに入れた、と説明しています。

この展覧会は、カイユボットの没後130年にあたる年に開かれ、遺贈された作品の全体が、一時的にオルセーの常設展示室の一室に並べられました。1897年にリュクサンブール美術館でカイユボット室が開いた光景を、よみがえらせる試みでした。展覧会は2025年にロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館(2月25日から5月25日)とシカゴ美術館(同年夏から10月5日)にも巡回しています。

まとめ

いかがだったでしょうか。ギュスターヴ・カイユボットは、画家であると同時に、仲間の絵を買い、展覧会を支え、集めた作品を国へ遺した人でした。

画家としては、『床削り』で都市の職人を、『パリの通り、雨』で新しいパリの雨の日を、『Vue de toits(Effet de neige)』で高い視点から見た冬の街を描きました。晩年にはヨットを楽しみ、プティ=ジュヌヴィリエの庭に向かい、色を明るく、筆づかいを厚くしていきました。

収集家としては、28歳のときの遺言から、1897年のカイユボット室までが一本の道でつながっています。遺贈は全点ではなく、ミレーの素描2点を含む40点という形で受け入れられましたが、それでも印象派の作品が国の美術館に並ぶ道を開きました。

次にオルセー美術館やシカゴ美術館の作品を見る機会があれば、それが誰の目と財力に支えられて残ったのか、という点にも目を向けてみてください。

Euphoric " " の視点

カイユボットは、わずか28歳で遺言書を書きました。仲間の印象派の画家たちの作品を集め、国に遺すためのものです。

最終的に国が受け入れた作品は、ミレーの素描2点のほかに38点でした。一方で、彼自身の絵の大半は家族の手元に残り、20世紀の後半まで、展示も複製もされませんでした。

自分の作品より先に、仲間の作品の行き先を考えた画家だったと言えるかもしれません。

誰かの仕事が残る場所をつくることも、つくり手の仕事のひとつ。カイユボットの歩みは、そのことを教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

『Chrysanthemums in the Garden at Petit-Gennevilliers』はメトロポリタン美術館(ニューヨーク)の所蔵です。『Villas at Trouville』はクリーヴランド美術館の所蔵ですが、2026年10月時点で、同館の作品ページには「Not on view(展示されていません)」と表示されています。

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