こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはドミニク・アングルという人物をご存知ですか?
19世紀のフランスで活躍した画家で、正式な名はジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルといいます。ダヴィッドの弟子から出発し、新古典主義と呼ばれる流れの先頭に立った存在として知られています。ルーヴル美術館で見られる『グランド・オダリスク』や『トルコ風呂』を描いた画家、と言えば思い当たる方も多いかもしれません。
アングルが大切にしたのは、線と素描(デッサン)でした。パリに戻った1824年からは、古典の伝統を守る側として、若いロマン主義の画家たちと向き合う立場に置かれます。
本記事ではそんなドミニク・アングルの人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres) |
| 日本での呼び名 | ドミニク・アングル |
| 生年月日(没年月日) | 1780年8月29日〜1867年1月14日(86歳没) |
| 国籍/出身 | フランス/南西部の町モントーバン |
| 学歴 | トゥールーズの王立アカデミーで学び(1791〜1797年)、パリに出てダヴィッドのアトリエに入る。1799年に国立美術学校に入学 |
| 分野 | 絵画(歴史画、肖像画、裸婦)、素描 |
| 傾向 | 新古典主義、歴史画、肖像画、東方趣味の題材 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ギヨーム=ジョゼフ・ロック(トゥールーズでの師)、ジャック=ルイ・ダヴィッド(師)、ラファエロ |
アングルの師にあたるダヴィッドと、同じ時代にロマン主義を代表したドラクロワについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
新古典主義って?
アングルを語るうえで欠かせないのが「新古典主義」という言葉です。
ひとことで言えば、古代ギリシャ・ローマの美術を手本にする立場のことです。英国のテートの用語解説は、ポンペイの遺跡の発見と、1764年に出たヴィンケルマンの古代美術史をきっかけに、18世紀に古典への関心が大きく高まったと説明しています。
アングルの場合は、そこにルネサンスの画家ラファエロへの傾倒が加わります。ルーヴル美術館が2006年のアングル展のために公開した解説は、若いころの出世作に、古代の手本を読みこなす力と確かな技術がすでに表れていると述べています。
オルセー美術館の解説は、アングルが線と素描を重んじる点で、師ダヴィッドの古典的な教えに忠実だったと述べています。のちに、ロマン主義の画家たちとは立場が分かれていきます。
経歴と作品
モントーバンに生まれて、ダヴィッドのもとへ(〜1801年)
アングルは1780年8月29日、フランス南西部のモントーバンに生まれました。モントーバンの美術館の紹介によれば、この町で暮らしたのは子どものころだけでした。
絵の基本を教えたのは父親です。ルーヴル美術館の解説は、父がトゥールーズの美術アカデミーの出身であり、アングルは父のもとで技術の土台を身につけたあと、トゥールーズで彫刻家や画家に学んだと説明しています。ローマのフランス・アカデミー(ヴィラ・メディチ)の紹介では、1791年から1797年までトゥールーズの王立アカデミーに通い、画家ギヨーム=ジョゼフ・ロックと彫刻家ジャン=ピエール・ヴィガンに就いたとされています。
1797年、アングルはヴィガンの勧めでパリに出て、新古典主義の中心にいた画家ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入りました。1799年には国立美術学校(エコール・デ・ボザール)にも入学しています。
『アキレウスのもとを訪れるアガメムノンの使者たち』(1801年)
アングルが若くして世に出たのは、1801年のローマ賞でした。ローマ賞は、受賞者がローマにあるフランス・アカデミーに留学できる賞です。
ルーヴル美術館の解説によると、アングルは最初の挑戦では賞を逃し、翌年の1801年に『アガメムノンの使者たち』で受賞しました。正式な題名は、ギリシャ軍の使者たちがアキレウスの天幕を訪れ、戦いに加わるよう頼むという意味の長いもので、いまはパリの国立高等美術学校に所蔵されています。
ただ、受賞したからといって、すぐに留学できたわけではありません。ヴィラ・メディチの記録によれば、アングルがローマに着いたのは1806年10月で、受賞から5年も待つことになりました。
留学を待つ5年間と、最初の肖像画(1801〜1806年)
待つあいだ、アングルは暮らしのために報酬のある仕事を探さなくてはなりませんでした。ルーヴル美術館の解説は、ローマに出発する前、経済的な困難から有償の注文を求めるようになり、そこから肖像画に取り組み始めたと説明しています。
『マドモワゼル・リヴィエール』(1805年)

この時期の代表作が、リヴィエール家の肖像です。アングルは、父のフィリベール・リヴィエール、その夫人、娘のカロリーヌの3枚を描きました。ルーヴル美術館の所蔵記録によれば、父の肖像は縦長の長方形(高さ116センチ、幅89センチ)、夫人の肖像は楕円形の構図、カロリーヌの肖像はもともと上部がアーチ形の画面でした。3枚の画面の形がそれぞれ違うのも、この連作の面白いところです。
ここで紹介するのは、娘のカロリーヌの肖像です(高さ100センチ、幅70センチ)。白い帝政様式のドレスに毛皮をまとい、茶色の手袋をして、背後には風景と空が広がります。ルーヴルの記録では、1806年のサロンに出品された作品で、1870年に、ポール・リヴィエール夫人(旧姓ソフィー・ロビヤール)の遺贈によって、両親の肖像とともに美術館に入りました。絵のモデルになったリヴィエール夫人(1848年没)とは別の人物です。ルーヴルの2006年展の解説は、明るい色調が、少女の若さや瑞々しさ、はかなさを際立たせていると述べています。
『玉座のナポレオン』(1806年)

ローマへ出発する1806年に描かれたのが、皇帝ナポレオンの肖像です。パリの軍事博物館の解説では、ナポレオンは1804年に皇帝となり、その年の12月2日にノートルダム大聖堂で戴冠式が行われました。アングルは、戴冠の際に身につけた大礼服の姿を、1806年に描いています。
画面には、帝国の紋章のひとつである金の蜂を散らした深紅のビロードのマント、古代ローマの皇帝を思わせる月桂冠、シャルルマーニュ(カール大帝)の小像を戴いた王笏、「正義の手」と呼ばれる杖、シャルルマーニュの伝説の剣に着想を得た剣などが、細かく描きこまれています。
しかし、この絵は同じ時代の人々には受け入れられませんでした。軍事博物館によれば、人々はこの絵を「ゴシック的(gothique)」で「野蛮(barbare)」だと評しました。正面を向いて座り、重たい衣装の中に体が沈んだような構図は、それまでの皇帝像から大きく離れていて、同館は、オリュンポスの主神ユピテルの像や、ビザンティン様式のイコン(聖像画)に近づいていると説明しています。いまでは最も有名なナポレオン像のひとつとなり、数多くの歴史の教科書に載っています。
来歴を見ると、1806年から1814年までは立法院のコレクションに入り、その後、王室の美術コレクション(王立美術館)に移ったあと、1832年に国王ルイ=フィリップからアンヴァリッド(廃兵院)へ贈られました。
『24歳の自画像』(1804年)
この時期には、自画像も描かれました。コンデ美術館(シャンティイ)の解説によると、1804年に描かれたこの絵は、1806年のサロンに最初の姿で出品され、激しく批判されました。最初の姿は、当時の批評、アングルの婚約者ジュリー・フォレスティエが1807年に写した模写(モントーバンのアングル美術館蔵)、そして1841〜1851年に撮影された写真から知ることができます。それによると、はじめのアングルは灰白色のマントをまとい、右手に白いチョークを持ち、左手を上げて、友人ジリベールの肖像の下描きを画面から消そうとしていました。
批判に傷ついたアングルは、学業を仕上げるためローマのフランス・アカデミーへ向かいます。ところがこの自画像を、生涯にわたって描き直し続けました。構図から余計な要素を取り除き、顔を際立たせるシャツの白い部分だけを残して、ほかの色を褐色にそろえていったのです。1855年のパリ万国博覧会に出品されたときには、高く評価されました。
ルーヴル美術館の『トルコ風呂』の記録には、ナポレオン公が1860年に、アングルの肖像画(現在はシャンティイにある作品)と引き換えに『トルコ風呂』を手放したと書かれています。コンデ美術館の来歴にも、1860年の所有者としてジェローム・ナポレオン・ボナパルトの名が挙がっています。若き日の自画像は、晩年の大作の来歴にも顔を出しているのです。
ローマで描いた三つの裸婦(1806〜1824年)
アングルは1806年10月にローマへ着き、ヴィラ・メディチで暮らし始めます。留学の公式な期限は1810年9月23日でしたが、その後もローマにとどまりました。ヴィラ・メディチは、この時期を、裸婦、風景、素描、肖像画、歴史的な構図と、最も多くの作品が生まれた年月だったと紹介しています。
ルーヴル美術館の解説は、この時期のアングルが、女性の裸体表現について三つの型を作り出したとまとめています。背中を向けて座る裸婦、横たわる裸婦、そして苦しめられ、従わされる女性です。
『ヴァルパンソンの浴女』(1808年)

最初の型にあたるのが、1808年の『ヴァルパンソンの浴女』です。ルーヴル美術館の記録では、ローマ留学生の成果としてパリへ送られた作品で、画面の左下に「Ingres. Rome. 1808.」と署名があります。サイズは高さ146センチ、幅97.5センチ。ルーヴルは1879年に購入しました。
赤と白のターバンを頭に巻いた女性が、白い寝具の端に座って背を向けています。ルーヴルの解説は、アングルが顔を描かず、モデルの個性を消していることに注目しています。解説は、これを古代の理想像とは違う方向に踏み出した試みと位置づけています。
画面を見ると、背中のなめらかな面、白い寝具のひだ、ターバンの赤と白の模様が、静かに釣り合っています。
『グランド・オダリスク』(1814年)

二つ目の型が、横たわる裸婦を描いた『グランド・オダリスク』です。ルーヴル美術館の記録では、1814年にローマで描かれ(署名に「Pxit 1814. Rom」とあります)、ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラのために制作されました。カロリーヌはナポレオンの妹にあたります。1819年のサロンに出品され、1899年に国が購入してルーヴル美術館に入りました。高さ91センチ、幅162センチの横長の画面です。
ルーヴルの記録は、ターバンを巻いた顔が斜めを向き、青いベッドの上で半身を起こし、手には孔雀の羽の扇を持ち、右側には青いカーテンが垂れていると描写しています。
ルーヴルの2006年展の解説は、この作品を、体の繊細な曲線(アラベスク)と、東方風の小道具が、念入りに組み立てられた舞台だと紹介しています。
この作品をめぐっては、2004年6月26日から10月30日まで、カンブレ美術館で展覧会「Fantasme d’Ingres : variations autour de "La grande odalisque"」が開かれています。副題は「『グランド・オダリスク』をめぐる変奏」という意味です。
『アンジェリカを救うルッジェーロ』(1819年)
三つ目の型は、1819年の『アンジェリカを救うルッジェーロ』(Roger délivrant Angélique)です。ルーヴル美術館の所蔵記録によれば、題材はアリオストの叙事詩『狂えるオルランド』の第10歌で、1817年に、ヴェルサイユ宮殿の玉座の間の扉の上を飾る絵として注文されました。岩につながれたアンジェリカを、幻獣ヒッポグリフにまたがったルッジェーロが、槍で海の怪物を突いて救い出す場面です。1819年にローマで描かれ、同じ年のサロンに出品されました(高さ147センチ、幅190センチ。ルーヴル美術館 INV 5419)。
ルーヴルの2006年展の解説は、この絵を、ロマン的で月明かりのような風景の中に、苦しめられ、従わされる女性を置いた作品だと述べています。
大聖堂の祭壇画と、パリへの帰還(1820〜1824年)
1820年、アングルのもとに大きな仕事が舞い込みます。国立文化遺産データベース(POP)の記録によれば、内務大臣が、モントーバンの大聖堂のためにアングルへ絵を注文しました。フランス文化省が刊行した修復史の冊子も、この絵が国の注文として、地元の有力者の求めに応じて描かれたと説明しています。
『ルイ13世の誓願』(1824年)

こうして描かれたのが『ルイ13世の誓願』です。題材は、1638年2月10日にルイ13世が出した「サン=ジェルマンの宣言」にあります。国王はこの宣言で、自分と国、王冠、臣民を聖母に捧げ、王国を聖母の保護のもとに置くと述べました。画面の下には、跪いて王冠と王笏を差し出す王、上には光に包まれた聖母子が描かれています。大きさは高さ4.21メートル、幅2.62メートルという大作です。
文化省の冊子によれば、この主題は、1814年の王政の復活と、17世紀のモントーバンでカトリックが再建されたことの二つを重ねて選ばれたものでした。
冊子によれば、この絵はフィレンツェで描かれて1824年9月の終わりに完成し、丸めた状態でパリへ運ばれて、同じ年の11月12日からサロンで展示されました。冊子は、これまでイタリアから送った作品が評価の分かれる受け止め方をされてきたのに対し、この絵は批評家や同時代の人々に非常に好意的に迎えられ、画家の経歴の転機になったと述べています。アングルは1824年11月にパリへ戻り、1825年6月にはアカデミーの会員に選ばれ、パリで開いたアトリエには、1826年のはじめにすでに14人の弟子がいたといいます。
ルーヴル美術館の解説は、この絵の着想の源が、ラファエロだけでなく、トゥールーズで学んだフランスとイタリアのバロックの伝統にもあったと述べています。劇的な構図と写実を合わせ、古代の手本から一時的に離れた作品だという分析です。
絵は1826年にモントーバンの大聖堂に届けられ、いまは北側の翼廊に掛けられています。1903年には、国の歴史的記念物(動産)として保護の指定を受けました。
同じ1824年のサロンには、ドラクロワの『キオス島の虐殺』も出品されました。ルーヴルの解説は、パリに戻ったアングルが、新しいものを生みつつ古典の伝統を壊さない救い手のように見られ、若いロマン主義の画家たちと対立する立場に置かれたと説明しています。ドラクロワについては、こちらの記事も合わせてご覧ください。
古典の旗手として(1824〜1834年)
パリで名声を得たアングルに、次の大きな注文が舞い込みます。ルーヴル宮の天井を飾る大作でした。
『ホメロス礼賛』(1827年)

『ホメロス礼賛』は、1827年に完成した大画面の作品です。ルーヴル美術館の記録では、ルーヴル宮にあった「シャルル10世美術館」の一室の天井画として、1825年から1826年にかけて注文されました。大きさは高さ3.86メートル、幅5.12メートルにもなります。
画面の中央では、神殿の前に座った古代ギリシャの詩人ホメロスに、翼のある勝利の女神が月桂冠を載せています。足もとには、剣を持つ『イリアス』と、櫂を持つ『オデュッセイア』の擬人像がいます。さらに周りには、全身像の人物が居並びます。ルーヴルの記録は「古代の人物46人」と数え、左側にアイスキュロスとアペレス、右側にピンダロス、フェイディアス、ダンテ、ラファエロがいると具体的に挙げ、画面のより低い位置には、ラシーヌ、ボワロー、モリエール、コルネイユ、ラ・フォンテーヌ、プッサンといった近代の人物が半身で描かれていると記しています。
ルーヴルの2006年展の解説は、この絵がラファエロの『アテネの学堂』(ヴァチカン)の古典的な構成にならっており、アングルの美学的な信念を示す、いわば実演のような作品だと述べています。なお、ルーヴルの所蔵記録のほうは、着想源としてラファエロの『パルナッソス』を挙げています。
この天井画は1855年に取り外されました。ルーヴルの記録によると、代わりに、バルズ兄弟とミシェル・デュマが原寸大の複製を描き、1856年に同じ部屋の天井に据えられています(現在の649号室)。原画はいまもルーヴルが所蔵しています。
『ルイ=フランソワ・ベルタン』(1832年)

同じ時期のアングルは、肖像画でも見事な作品を残しました。1832年に描かれた『ルイ=フランソワ・ベルタン』です。ルーヴル美術館の記録では、モデルは新聞『ジュルナル・デ・デバ』の創設者で、1833年のサロンに出品されました。作品は1897年に、モデルの子孫から購入されています。高さ116センチ、幅95センチの画面です。
椅子に座った白髪の男性が、両手を膝の上に置いて、こちらを見すえています。暗い色のコートと白いネクタイ、褐色の背景という抑えた色づかいの中で、顔と手の存在感が際立ちます。ルーヴルの記録は、左上に「J.Ingres pinxit .1832」の署名があると記しています。
この絵の面白さは、華やかな装飾をそぎ落とし、座り方や手、顔つきだけで人物を語らせているところにあります。
『聖サンフォリアンの殉教』(1834年)
ところが、すべてが順調だったわけではありません。ルーヴルの解説によると、アングルは約10年をかけて、オータン大聖堂のための『聖サンフォリアンの殉教』に取り組みました。鉛筆や油彩で、構図や人物、小道具の習作を重ね、歴史的・考古学的な正確さを追い求めて、オータンの現地に立ち寄って建築まで調べています。
しかし、1834年のサロンに出品された作品は理解されず、強く批判されました。パリと批評に疲れたアングルは、次の道を選びます。
ローマ・アカデミーの院長として(1835〜1841年)
ルーヴルの解説によれば、アングルはパリの批評に嫌気がさし、ローマのフランス・アカデミー(ヴィラ・メディチ)の院長に立候補しました。ヴィラ・メディチの記録では、院長を務めたのは1835年から1841年までです。この間、ローマ賞を受けていない多くの若い芸術家たちまで、アングルに教わるためにローマへ向かったと紹介されています。
ルーヴルの解説は、院長の時代にアングルが仕上げた絵が、実は2点しかなかったと述べています。『奴隷のいるオダリスク』と『アンティオコスとストラトニケ』です。後者は、古代の西洋の主題と東方の世界を結び合わせた構成で、パリに戻る前に成功を収め、大きな話題になりました。
ヴィラ・メディチは、アングルがその後、パリの国立美術学校の校長にもなったと記しています。
宮廷画家として、そして晩年へ(1841〜1867年)
1841年、アングルはパリに戻ります。ルーヴルの解説は、『アンティオコスとストラトニケ』の成功が、帰国に先立っていたと述べています。王家はアングルに、ヌイイの礼拝堂のステンドグラスの設計と、大きな宗教画『博士たちの中のイエス』(Jésus parmi les docteurs)を依頼しました(後者は1842年から1862年にかけて制作され、モントーバンのアングル美術館に所蔵されています)。
『ブロイ公妃』(1851〜53年)

この時期の肖像画を代表するのが、1851年から1853年にかけて描かれた『ブロイ公妃』です。メトロポリタン美術館の記録によれば、油彩、121.3×90.8センチで、1975年にロバート・レーマン・コレクションとして収蔵されました。モデルのポーリーヌ・ド・ガラール・ド・ブラサク・ド・ベアルンは、1825年に生まれ、1860年に亡くなっています。
青いサテンのドレス、金のブレスレット、肩のレース。素材の質感が、一つひとつ描き分けられています。1832年の『ベルタン』が飾りを削った肖像だったのに対して、この絵は、衣服の光沢を堂々と前面に出しています。
『泉』(1856年)

晩年のアングルが、若いころに描き始めた絵を仕上げたのが『泉』です。オルセー美術館の作品記録は、制作年を1856年としたうえで、1820年ごろにフィレンツェで描き始め、1856年にパリで完成させたと注記しています。小道具と背景は、弟子のポール・バルズとアレクサンドル・デゴッフが手伝いました。画面の左下には「J. Ingres 1856」の署名があります(高さ163センチ、幅80センチ)。
ルーヴル美術館の記録によると、1857年にデュシャテル伯爵が画家から買い取り、1878年に伯爵夫人の遺贈でルーヴルに入りました。1986年からはオルセー美術館に寄託されています。
水がめを肩に抱えた若い女性が、まっすぐ立って水を注いでいます。オルセーの解説は、縦長の画面に立つ全身像が、壁のくぼみに収まった像のようで、大理石のような不動の印象を与えると述べています。ルーヴルの2006年展の解説は、晩年のアングルが、神話の語りや古代の引用を取り払い、寓意(たとえ話のかたち)そのものへ踏み込んでいったと述べ、その例として『泉』を挙げています。
『トルコ風呂』(1862年)

最晩年の大作が『トルコ風呂』です。ルーヴル美術館の記録によると、この絵は1859年に長方形の画面として描かれ、のちに円形(トンド)に改められて、1862年に完成しました。画面には「MDCCCLXII」(1862年)と「LXXXII」(82歳)という署名があり、アングルが82歳で仕上げたことがわかります。直径は108センチです。
ルーヴルの記録から来歴をたどると、1859年からナポレオン公が所有し、1860年にアングル自身の肖像画と交換されます。1864年には画家のアトリエにあったことが確認されており、その後、トルコ大使のハリール・ベイが入手しました。ハリール・ベイの売り立ては1868年1月に行われ、その後、サイ家などの所有を経て、1911年にルーヴル友の会(Société des Amis du Louvre)の寄贈で美術館に入っています。
ルーヴルの2006年展の解説は、アングルが1850年以降、裸婦の習作を数多く重ね、そこから、この最後の構成にたどり着いたと説明しています。
モントーバンへの遺贈と、その後
アングルは1867年1月14日、パリで亡くなりました。86歳でした。
故郷のモントーバンに対しては、1851年に寄贈を、1867年に遺贈をして、自分の所蔵品と作品を託しています。フランス文化省の美術館データベースによれば、アングルは古代の美術品や古い絵画のコレクション、4,000点を超える自筆の素描、20点ほどの絵画、そしてたくさんの身の回りの品を贈り、その中には、よく知られたヴァイオリンも含まれていました。こうして生まれたのが、現在のアングル・ブールデル美術館です。
同館の公式サイトは、贈られたのは30点ほどの絵画と数千点の素描だったと紹介しており、数え方には幅があります。同館はみずからを、アングルの世界、作品、アングルが受けた影響、そして後世への広がりを知るための、ほかにない資料センターだと位置づけています。
アングルの全体像は、その後もくり返し見直されてきました。ルーヴル美術館は2006年2月24日から5月15日までアングル展を開き、マドリードのプラド美術館でも、ルーヴル美術館の特別協力のもと、2015年11月24日から2016年3月27日までアングル展が開かれています。
まとめ
いかがだったでしょうか。ドミニク・アングルの人生と作品をご紹介しました。
モントーバンに生まれ、ダヴィッドのもとで学び、1801年にローマ賞を得たアングルは、留学を5年待つあいだに、リヴィエール家の肖像やナポレオンの肖像を描きました。ローマでは『ヴァルパンソンの浴女』『グランド・オダリスク』などで裸婦の型を作り、パリでは『ルイ13世の誓願』『ホメロス礼賛』『ルイ=フランソワ・ベルタン』で、古典の担い手として迎えられています。その後は、ローマ・アカデミーの院長、宮廷画家、そして晩年の『泉』『トルコ風呂』へと、長い道のりを歩みました。
その歩みは、決して順風満帆ではありませんでした。最初の自画像も、ナポレオンの肖像も、『聖サンフォリアンの殉教』も、発表した当時は厳しい批判を受けています。アングルはそのたびに、自分の信じる「形」の美を捨てるのではなく、描き直し、洗練させる道を選びました。『自画像』を生涯にわたって描き直し続けたことが、その象徴かもしれません。
ロマン主義を代表するドラクロワと、線と素描を重んじたアングル。二人は対立する立場に置かれましたが、どちらの作品も、いまはルーヴル美術館に所蔵されています。立場の違う二人の作品を、見比べてみるのも楽しみ方のひとつです。
Euphoric " " の視点
アングルは1801年にローマ賞を受けましたが、ローマに着いたのは1806年10月でした。受賞から5年も待ったことになります。
自画像は、生涯にわたって描き直し続けました。『泉』は1820年ごろに描き始め、完成させたのは1856年です。『トルコ風呂』は82歳で仕上げています。
「ゴシック的」「野蛮」と評されたナポレオン像は、いまでは最も有名なナポレオン像のひとつになりました。
すぐに仕上げず、何十年も手を入れ続ける。アングルの仕事は、時間をかけること自体が技術のひとつなのかもしれないと教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






