こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはジョン・エヴァレット・ミレイという人物をご存知ですか?
19世紀のイギリスで活躍した画家で、ラファエル前派(ラファエル前派兄弟団)を立ち上げた中心人物の一人です。シェイクスピアの『ハムレット』に登場するオフィーリアが川に浮かぶ場面を描いた『Ophelia』は、所蔵するテートが、同館のコレクションのなかで特に人気の高いラファエル前派作品の一つに挙げている一枚です。
なお、名前がよく似た画家に、『落穂拾い』で知られるバルビゾン派のジャン=フランソワ・ミレー(ミレー)がいますが、ミレイとミレーは別の人物です。ミレイはイギリス、ミレーはフランスの画家で、属したグループも画風も異なります。
ミレイは神童として美術学校に入り、仲間とともに当時の美術界に反旗をひるがえし、のちには王立美術院(ロイヤル・アカデミー)の会長にまでのぼりつめました。反逆者として出発して、体制の中心に立った画家です。
本記事ではそんなジョン・エヴァレット・ミレイの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleジョン・エヴァレット・ミレイって?

ミレイの代表作『Ophelia』です。川のほとりの草花は、実際にその場に出かけて見ながら描かれました。画面に描き込まれた植物の一つひとつに意味が込められていることも、この作品の見どころです。くわしくは、のちほど経歴のなかで見ていきます。
基本情報
| 本名 | ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais)。1885年に準男爵(baronet)に叙されたため、サー・ジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais, Bt)とも呼ばれます |
| 生年月日(没年月日) | 1829年6月8日〜1896年8月13日(ロンドンで没) |
| 国籍・出身 | イギリス/ハンプシャー州サウサンプトン生まれ。子ども時代の多くをチャンネル諸島のジャージー島で過ごしました |
| 学歴 | サス美術学校(Sass’s Art School)、ロイヤル・アカデミー附属美術学校(1840年に入学。同校で史上最年少の学生でした) |
| 分野 | 絵画(油彩)、挿絵、肖像画 |
| 傾向 | 前半生はラファエル前派(自然を細部まで観察して描く)、のちに物語画、子どもの絵、肖像画で人気を得ました |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 批評家ジョン・ラスキン(ラファエル前派はその理論に刺激を受けました)、仲間のウィリアム・ホルマン・ハントとダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ |
ミレイの仲間であったロセッティや、のちに同じオフィーリアを主題に描いたウォーターハウスについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。名前の似たバルビゾン派の画家ミレーの記事もあわせてどうぞ。
https://euphoric-arts.com/art-2/dante-gabriel-rossetti/
ラファエル前派って?
ミレイを語るうえで欠かせないのが、ラファエル前派という呼び名です。
テートの解説によれば、ラファエル前派は1848年にロンドンで結成された、若い芸術家たちの秘密結社でした。名前にある「ラファエル前」とは、ルネサンスの巨匠ラファエロより前、という意味です。当時の王立美術院が、ラファエロに代表される理想化された表現を手本として推してきたことに、彼らは反対しました。
また、当時とても人気のあった風俗画の軽さにも不満を抱いていました。彼らが目指したのは、まじめな主題を、できる限りの写実で描くことです。画家たちに「自然へ向かえ」と説いた批評家ラスキンの理論が、彼らを刺激しました。
中心となったのは、ミレイ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの3人です。もっとも、のちに見るように、体制に抗うところから出発したミレイは、やがて体制の中心に立つことになります。
経歴と作品
神童、王立美術院へ(1829〜1847年)
ミレイはサウサンプトンで生まれました。父ジョン・ウィリアム・ミレイはジャージー島の古い家柄の出で、母方の家は裕福な馬具商だったと、テートの伝記は伝えています。
幼いころから絵の才能が目立ち、1838年にロンドンへ出て、サス美術学校に入りました。9歳のときに、技芸協会(Society of Arts)の銀メダルを受けています。さらに1840年には、ロイヤル・アカデミー附属美術学校に史上最年少の学生として入学しました。
学生時代の成績も輝かしいものでした。1843年にはアンティーク(古代彫刻)の素描で銀メダル、1847年には絵画『The Tribe of Benjamin Seizing the Daughters of Shiloh』で金メダルを受けています。王立美術院で作品を初めて公開したのは1846年のことで、出品作は『Pizarro Seizing the Inca of Peru』(ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵)でした。
王立美術院で出会ったのが、同じ学生のウィリアム・ホルマン・ハントです。ミレイは、ハントやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとともに「サイクログラフィック協会」(Cyclographic Society)にも作品を寄せていました。
ラファエル前派の結成と最初の作品(1848〜1849年)
1848年、ミレイはハント、ロセッティらとともにラファエル前派兄弟団の結成に加わりました。ミレイはまだ19歳でした。
『Isabella』(1848〜49年)

ミレイにとって最初のラファエル前派の作品とされるのが、この『Isabella』です。『Lorenzo and Isabella』とも呼ばれます。所蔵するリヴァプールのウォーカー・アート・ギャラリーの解説によると、結成後まもない1848年に描きはじめられた、新しい様式の最初期の作品の一つです。
題材は、イギリスの詩人ジョン・キーツの詩で、その元はイタリアの作家ボッカッチョの物語です。フィレンツェの裕福な商人である兄たちの妹イザベラと、その家の貧しい徒弟ロレンツォは恋仲でしたが、嫉妬した兄たちはのちにロレンツォを殺してしまいます。
この絵のおもしろさは、悲劇の結末が、画面の細部にあらかじめ仕込まれているところです。兄の一人が、イザベラの愛犬を蹴ろうと足を振り上げています。恋人たちが分け合っているのは、ブラッドオレンジです。のちに流されるロレンツォの血を示していると、美術館は説明しています。背景にあるハーブの鉢も、結末をほのめかしています。物語のなかでイザベラは、殺されたロレンツォの首をバジルの鉢に埋めるからです。
食卓を囲む人々の表情や衣服が、どこも細かく描き込まれています。理想化された型をなぞらず、見たものを見たとおりに画面へ収めようとした、ラファエル前派らしい画面です。
『Christ in the House of His Parents』と激しい批判(1849〜1850年)
次の年に王立美術院へ出したのが、宗教画『Christ in the House of His Parents』です。
『Christ in the House of His Parents (‘The Carpenter’s Shop’)』(1849〜50年)

幼いころのキリストが、父ヨセフの大工仕事場にいる場面です。展示の際、題名は付けられず、旧約聖書の一節だけが添えられました。テートの解説によれば、キリストの手の傷は十字架上の傷を、壁に掛かった三角定規は三位一体を、白い鳩は聖霊を示しています。木材や釘も、のちの十字架を暗示するものです。傷を洗う水を鉢に入れて運ぶ少年は、洗礼者ヨハネです。
ミレイは、実在のオックスフォード・ストリートの大工の仕事場をもとに描き、プロのモデルを避けて、身近な人に姿を借りました。ヨセフの頭部はミレイ自身の父の肖像で、体は実際の大工をもとにしています。聖母マリアのモデルは義理の姉妹メアリー・ホジキンソンで、彼女は『Isabella』にも登場しています。
聖なる家族を、ありふれた、貧しい労働者として描いたこの作品は、当時の新聞から厳しく叩かれました。テートの解説では、『タイムズ』紙がこの絵を「revolting(胸が悪くなる)」と評し、小説家のチャールズ・ディケンズも、雑誌『Household Words』(1850年6月15日号)でキリストの描き方を強く非難したと紹介されています。
デラウェア美術館の解説は、1850年に「P.R.B.」という頭文字をめぐる騒ぎが起こり、ミレイとハントへの厳しい批判を招いたと述べています。事態を収める助けとなったのが、批評家ジョン・ラスキンです。ラスキンは1851年に『タイムズ』紙へ擁護の手紙を書き、ミレイとハントの評価は持ち直しました。
この作品は1921年に、アート・ファンドなどの援助を受けてテートが購入しました。現在はテート・ブリテンで展示されています。
『Mariana』と『Ophelia』(1851〜1852年)
ラスキンの擁護もあり、ミレイは評価を取り戻していきます。この時期に描かれたのが、文学作品を主題とした女性像の2点です。
『Mariana』(1851年)

『Mariana』は、シェイクスピアの『尺には尺を』に登場するマリアナを、詩人アルフレッド・テニスンの詩を通して描いた作品です。持参金が船の難破で失われたために婚約者アンジェロに拒まれた彼女は、まだ彼を想い続け、再会を願っています。
刺繍の手を止めて、腰をそらす姿が描かれています。テートの解説は、この姿勢と、刺繍に突き立てられた針に、待ちこがれる思いが表れていると読み解いています。足もとに散らばる秋の落ち葉は、時間の経過を示します。窓のステンドグラスには受胎告知の場面が描かれており、聖母の願いがかなった場面と、マリアナの満たされない思いが、対比されています。
発表のとき、この絵にはテニスンの詩の一節が添えられていました。マホガニーの板に描かれた小ぶりな作品で、細部まで丁寧に描き込まれています。
『Ophelia』(1851〜52年)
ミレイの代表作が、冒頭でご紹介した『Ophelia』です。『ハムレット』で、父を殺され、正気を失ったオフィーリアが、川に落ちて命を落とす場面を描いています。この場面は劇のなかで舞台上には登場せず、王妃ガートルードが、オフィーリアの兄ラエルティーズに語る言葉のなかで伝えられます。ミレイはその語りを絵にしました。
制作は二つの場所で行われました。川辺の風景は、サリー州ユーウェルのホグスミル川のほとりで、屋外で描きました。オフィーリアの人物は、ロンドンのゴワー・ストリートにあるアトリエで描いています。テートの解説によると、当時の画家は屋外では素描だけを行い、仕上げはアトリエで行うのが普通でした。ミレイたちは本画を屋外で仕上げようとしたため、それは珍しいことでした。しかも、風景のほうを先に描きました。風景を人物の背景として後回しにせず、同じ重みで扱ったということです。
屋外の制作は、楽ではありませんでした。ミレイはある手紙のなかで、サリーのハエに悩まされたことや、畑に無断で入って干し草を荒らしたとして治安判事に呼び出されそうになったことを書いています。風に吹かれて水に落ちかねないとも書いています。
モデルは、当時19歳のエリザベス・シダルです。ミレイの友人ウォルター・デヴェレルが、帽子店で働いているところを見いだした女性で、のちにロセッティと結婚しました(1860年)。彼女は、水を張った浴槽のなかでポーズをとりました。水を温めるために、浴槽の下には油ランプが置かれていました。ところがあるとき、ランプの火が消えてしまいます。制作に没頭していたミレイは、そのことに気づきませんでした。シダルはひどい風邪をひき、彼女の父は、ミレイが医師の治療費を払うと認めるまで、法的手段に訴えると迫ったと、テートの解説は伝えています。
身につけているのは、銀の刺繍が一面に入った古いドレスです。ミレイは古着店で買い求めており、手紙には、汚れた古い品でも4ポンドしたと書かれています。
この絵の植物は、劇に出てくる花や、象徴的な意味を持つ花が選ばれています。テートの解説を整理すると、次のようになります。
- 柳:捨てられた恋を示します
- イラクサ:痛みを示します
- ヒナギク:無垢を示します
- バラ:兄ラエルティーズがオフィーリアを「5月のバラ」と呼ぶ場面に通じます
- スミレ(首飾りにしたもの):誠実さを示し、若くして死ぬことも意味します
- ケシ:死を示します
- ワスレナグサ:その名のとおりの意味を持ちます
川辺の風景を描くのに約5か月かかったので、季節の違う花が同じ画面に並んでいます。ミレイの息子ジョンの記録として、植物学の教授が野外実習の代わりに、この絵の前で学生に授業をしたという話も、テートの解説には紹介されています。
テートの解説は、この絵を、結婚が金銭や地位のために取り決められることのあった当時の風潮に対する、ミレイの批評としても読んでいます。
この作品は、サー・ヘンリー・テイトが1894年に寄贈したもので、テートの最初のコレクションの一部となりました。現在もテート・ブリテンで展示されています。
『A Huguenot』から『The Order of Release 1746』へ(1852〜1853年)
1852年に王立美術院へ出した『A Huguenot』(個人蔵)は大きな人気を集めました。デラウェア美術館の解説によれば、ミレイの評判は、ほかのラファエル前派の仲間よりも早く回復しました。
『The Order of Release 1746』(1852〜53年)

翌1853年に評判をさらったのが、この『The Order of Release 1746』です。1746年のカロデンの戦いで、ボニー・プリンス・チャーリーの軍がイングランド側に敗れたあと、捕らわれたジャコバイト(名誉革命で王位を追われたスチュアート家のジェームズ2世と、その子孫を支持した人々)の兵士が釈放される場面です。幼い子を抱いた妻が、傷ついた夫を支えながら、牢番に釈放命令書を差し出しています。
テートの解説によると、ミレイはこの出来事を創作したようです。ウォルター・スコットの小説に刺激を受けたのかもしれない、とも書かれています。女性の表情には、はっきりした感情が読み取れません。夫を救うために、なにか犠牲を払ったのではないか、と想像させる余白があります。
この絵の最初の題名は『The Ransom(身代金)』でした。初期のスケッチには、金の入った袋を渡す場面が描かれていますが、完成作では、釈放命令書に置き換えられています。
タータンの柄も細かく考証されています。ミレイはロバート・マキアンの『Highland Clans』を参照しました。父親が着ているのはゴードン家、女の子はドラモンド家のタータンです。母親に抱かれた子どもの手からこぼれ落ちた、しおれたプリムローズ(サクラソウの仲間)は、季節を示すとともに、その子の幼さの象徴にもなっています。
モデルについても、テートの解説は具体的です。父親役はウェストールというプロのモデルで、母親は、髪の色を暗くしたエフィー・ラスキン(のちのミレイ夫人)でした。子どもにポーズをとらせるのには、たいへん苦労したと書かれています。
絵は、弁護士のジョセフ・アーデンに400ポンドで売られました。1853年に王立美術院で公開されると、あまりの人気に、観客を整理するために警官が配置されたといいます。『Illustrated London News』は、ミレイが隅の小さな場所で、アカデミー会員全員よりも多くの観客を集めたと報じました。
ラスキン夫妻との旅、そして結婚(1853〜1855年)
1853年の夏、ミレイは弟ウィリアムとともに、ラスキンと、その若い妻ユーフェミア(エフィー)に同行して、スコットランドのグレンフィナスへ絵の旅に出かけました。デラウェア美術館の解説によれば、この旅のあいだに、ミレイとエフィーは恋に落ちました。翌1854年、エフィーはラスキンのもとを離れ、結婚の無効が認められます。1855年に、エフィーとミレイは結婚しました。これでミレイとラスキンの関係は終わりを迎えます。
ミレイは1853年に王立美術院の準会員となり、1863年には正会員になります。結婚した夫婦はスコットランドのパースに落ち着き、『Autumn Leaves』(1855〜56年、マンチェスター・アート・ギャラリー)を描きました。1855年から1864年のあいだには、テニスンの詩集(1857年)や雑誌『Once a Week』、トロロープの小説などの挿絵も、数多く手がけています。
『The Blind Girl』と『The Vale of Rest』(1854〜1859年)
結婚後の数年間に描かれた作品のなかに、現代の目から見ても考えさせられる2点があります。
『The Blind Girl』(1854〜56年)

『The Blind Girl』は、道ばたで休む二人の少女を描いた作品です。バーミンガム大学が公開している解説によれば、1854年から1856年にかけて描かれ、二人は姉妹だと考えられています。背景には、雨雲を背にした村と、空にかかる二重の虹が見えます。姉は膝の上に楽器を置き、首には「Pity the Blind」と書かれた札を下げています。
所蔵するバーミンガム美術館の公式記録によると、遠景に見えるのはサセックスの村ウィンチェルシーで、1854年の秋に描かれました。手前の二人の少女は、1855年にパースで描き加えられています。目の見えない少女のモデルはマチルダ・プラウドフット、妹のモデルはイザベラ・ニコルです。ミレイは初め妻のエフィーをモデルにしましたが、のちにマチルダに置き換えました。
雨上がりの鮮やかな緑と虹が広がる風景のなかで、目の見えない少女がそこに座っている。その対比が、見る人の心に強く残ります。
この解説を書いた大学の研究者は、視覚障害と教育を専門としています。この研究者は、自身が1980年代に学生としてこの絵を見たときの印象と、いまの専門的な視点からの見方を、並べて書いています。
『The Vale of Rest』(1858〜59年)

『The Vale of Rest』は、尼僧が墓を掘る夕暮れの場面です。テートの解説によると、ミレイは自作のなかでこれを最も気に入っていたといいます。題名と副題は、メンデルスゾーンの合唱曲『Ruhetal』に由来します。ミレイの弟ウィリアムが歌うのを聞いて、絵にぴったりだと感じたそうです。
絵のなかでは、左の尼僧が墓穴を掘っていて、見る人はその穴のなかにいるような位置に立たされます。もう一人の尼僧のロザリオには、どくろがついています。夕空には棺の形をした雲が浮かんでいます。これは、スコットランドの言い伝えで死の前ぶれとされるものです。
着想を得たのは、結婚旅行でスコットランドを訪れた1855年だとされています。実際に絵を描きはじめたのは3年後で、ある10月の夕暮れ、夕焼けの美しさに心を奪われて、大きなキャンバスを持ち出し、すぐに描きはじめました。場所は、パースのバワーズウェルにあったエフィーの実家の庭でした。夕焼けの効果はごく短い時間しか続かないので、稲妻のような速さで描かなければならなかったと、エフィーは回想しています。墓と墓石は、数か月後にパースのキヌールの古い教会墓地で描かれました。
副題は「Where the weary find repose(疲れた者が安らぎを見いだすところ)」です。
ロンドンへの帰還と人気画家への道(1860〜1870年代)
1861年、ミレイはロンドンに戻ります。この時期から、子どもを描いた作品や美しい若い女性の絵で、大衆的な人気を得ていきました。デラウェア美術館の解説は、ミレイの画風が、ラファエル前派の当初の目標から次第に離れ、筆づかいがゆるやかになり、主題も挑戦的でないものへ移っていったと述べています。1863年に王立美術院の正会員に選ばれたことは、その変化を象徴するできごとだったという見方です。
『Hearts are Trumps』(1872年)

『Hearts are Trumps』は、トランプ遊びをする三姉妹の肖像です。テートの解説によると、エリザベス、ダイアナ、メアリーの三人で、作家で美術収集家のウォルター・アームストロングが、自分の娘たちの肖像として、ミレイに依頼しました。
題名と構図は、当時人気だった写真から借りたものです。ゲームの題名は、誰が先に結婚するのかをめぐる競争を暗示しています。当時の女性にとって求愛はゲームのようなものであり、彼女たちはそのルールを学んでいる最中だ、という解釈をテートは示しています。アームストロングは、この絵が家族の社会的な評判を高めることを期待したと、テートの解説は伝えています。
淡い色のドレスのリボンや光沢、卓上のカード。布の重なりまで丁寧に描かれていて、ミレイの描写力が分かります。
ほかの代表作(1870年代)
1870年に発表した『The Knight Errant』は、ミレイが描いた唯一の等身大の裸体の女性像です。テートの解説によれば、6週間で描き上げたと報じられました。女性の頭部は当初、別の向きで描かれていましたが、ミレイはのちに、顔を背けた姿に描き直しています。
同じ1870年の『The Boyhood of Raleigh』では、のちの探検家ウォルター・ローリーが、少年のころに船乗りの話に聞き入る場面を描きました。画面の手前にある玩具の船は、将来の冒険を暗示しています。どちらの作品も、現在はテートの所蔵品です。
『The North-West Passage』(1874年)

北米大陸の北を回る北西航路は、何世紀ものあいだ、ヨーロッパの探検家が、アジアへの貿易路として挑み続けた難所でした。失敗や困難、死と結びつけて語られる航路でもありました。ミレイがこの絵を描いたのは、ちょうどイギリスの探検隊が出発しようとしていた時期です。
画面にいるのは、年老いた船乗りと、そのそばで航海日誌を読む娘です。テートの解説は、航海の危険が、船乗りの厳しい表情を通して示されていると説明しています。海は、窓の外に小さく見えるだけです。部屋のなかの二人の姿で、遠い航海の重さを語らせる構成です。
この時期のミレイは、肖像画の依頼も増えていました。テートの伝記によると、1870年代の初めから肖像画家としての仕事を重ね、トーマス・カーライル(1877年)、リリー・ラングトリー(1878年)、グラッドストーン(1879年と1885年)、ディズレーリ(1881年)、テニスン(1881年)といった人物が、肖像のモデルになりました。
晩年(1880〜1896年)
1885年、ミレイは準男爵に叙されました。デラウェア美術館の解説は、この叙爵によって、体制のなかでのミレイの地位は揺るぎないものになったと述べています。
『Bubbles』(1886年)
この時期の作品でとくによく知られているのが、『Bubbles』です。自分で吹いた大きなしゃぼん玉を、少年が目を見張って見上げています。ナショナル・ミュージアムズ・リヴァプールの解説によれば、モデルはミレイの孫のウィリアム・ミルボーン・ジェームズ、当時4歳ほどでした。ミレイ自身が付けた題名は『A Child’s World』で、夢中になる子どもの姿を指しています。
しゃぼん玉は、17世紀のオランダ絵画の伝統では、人生の短さを表す題材でした。泡がやがて割れるように、若さや無垢もいつかは過ぎます。そんな意味も、この絵には込められているといいます。
この絵は石けん会社のピアーズ社(A & F Pears)に買い取られ、ポスターとして複製されました。美術館の解説は、おそらく美術作品が広告に使われた最初の例だったとしています。現在はユニリーバ社からの長期貸与作品として、ナショナル・ミュージアムズ・リヴァプールのレディ・リーヴァー美術館で展示されています。
デラウェア美術館の解説によれば、1889年ごろから、喉のがんでミレイの健康は衰えはじめます。1890年代には、人気を得た作品とは様式も雰囲気も違う風景画の連作を描いています。
1896年2月、ミレイはついに王立美術院の会長に選ばれました。しかし同じ年の8月13日に、ロンドンで亡くなります。遺体はロンドンのセント・ポール大聖堂に葬られました。
まとめ
いかがだったでしょうか。ジョン・エヴァレット・ミレイの人生と作品をご紹介しました。
ミレイは、早くから才能を認められた画家でした。仲間とともにラファエル前派を立ち上げ、自然を細部まで観察して描く新しい絵を、世に出しました。『Christ in the House of His Parents』は激しい批判を受けましたが、『Ophelia』や『The Order of Release 1746』で、のちに名声を確かなものにしています。
後半生では、子どもの絵や肖像画で広く親しまれ、準男爵となり、王立美術院の会長にまでなりました。画風は、ラファエル前派の当初の目標から離れていきました。緻密な初期作と、広く親しまれた後期作の両方を持つ画家だと見ると、作品に出会う楽しみが広がります。
もう一つ覚えておきたいのは、ミレイの絵は細部に意味が込められているということです。『Ophelia』の花、『Isabella』のブラッドオレンジ、『Mariana』のステンドグラス。作品を前にする機会があれば、まず全体を眺めたあと、一つの小さなものに目を止めてみてください。物語の続きが見えてくるかもしれません。
Euphoric " " の視点
ミレイは1840年、ロイヤル・アカデミー附属美術学校に史上最年少の学生として入学しました。恵まれた出発点にいながら、彼は当時の約束事に従わない絵を描きます。聖なる家族を貧しい労働者として描いた作品は、新聞から厳しく叩かれました。
ミレイたちは本画を屋外で仕上げようとし、しかも風景のほうを先に描いています。それは珍しいことでした。
そのミレイが1896年2月、王立美術院の会長に選ばれます。
異を唱えた相手の内側に、やがて自分の居場所をつくる。反発することと続けることは両立するのかもしれないと、ミレイの歩みは教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






