【徹底解説】曽我蕭白とは?荒々しい水墨と鮮やかな着色画を描いた奇想の絵師の人生と作品を解説!

【徹底解説】曽我蕭白とは?荒々しい水墨と鮮やかな着色画を描いた奇想の絵師の人生と作品を解説!
画像:『天台山石橋図』/CC0/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは曽我蕭白(そが しょうはく)という人物をご存知ですか?

江戸時代の中ごろ、京都で生まれ、伊勢(現在の三重県)や播磨(現在の兵庫県)を巡りながら描き続けた絵師です。荒々しい墨の線で描いた獅子や龍、目を疑うほど鮮やかな色の仙人たち。見た人の記憶に残る絵を数多く残し、いまでは伊藤若冲や長沢芦雪らと並ぶ「奇想の画家」として知られています。

けれども、その評価が日本で固まったのは、そう昔のことではありません。本記事ではそんな曽我蕭白の人生と作品についてご紹介します。

曽我蕭白って?

基本情報

本名本姓は三浦、名は暉雄(てるお)。「蕭白」は画家としての号(平凡社『改訂新版 世界大百科事典』、講談社『日本人名大辞典』による)
生年月日(没年月日)1730年(享保15年)、月日は不詳〜1781年(旧暦の安永10年1月7日)
国籍/出身日本 京都(京都の商家に生まれたとされる)
学歴記録なし
分野絵師(水墨画から濃彩の着色画まで)
傾向荒々しく大きな筆致の水墨画で知られる一方、細密で鮮やかな着色画も残した。室町水墨画の様式を学び、誇張して再生させた
師事した人物/影響を受けた人物高田敬輔に学んだとされる。室町時代の画家・曽我蛇足に私淑。雲谷派(うんこくは)の様式の影響も指摘される

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経歴と作品

京都の商家に生まれ、若くして一人になる

曽我蕭白は1730年に京都で生まれました。京都国立博物館は、蕭白を「京都の商家に生まれた人」と紹介しています。三重県立美術館の刊行物は「京都の商家出身であるらしい」と、やや慎重な書き方をしています。平凡社『改訂新版 世界大百科事典』は、屋号を丹波屋あるいは丹後屋と伝えています。どんな商いの家だったのか、くわしいことは、確認した資料では確かめられませんでした。

はっきり伝わっているのは、若いうちに家族を失ったことです。京都国立博物館は「若くして天涯孤独の身となった」と書き、千葉市美術館の展覧会紹介も「父を早くに亡くして画業で身を立てました」としています。絵は、生きていくための仕事でもあったということです。

京都国立博物館によれば、蕭白は遅くとも20歳代の終わりまでには絵師として活動を始めていました。三重県立美術館は、29歳から30歳のころの作と考えられる作品が三重県内に残っていると述べています。松阪市の朝田寺にある『布袋図』や『足雁図』などです。20代の終わりから30歳のころの作と見られる絵が、伊勢の地に伝わっているのです。

この年ごろに近い作例として、メトロポリタン美術館には、1760年ごろの作とされる『Cranes』があります。紙に墨で描いた対の掛け軸で、1幅には口を開けて立つ鶴が、もう1幅には太い竹の陰で羽づくろいをする鶴が描かれています。

曽我蕭白『Cranes』(1760年頃)
曽我蕭白『Cranes』(1760年頃)対幅 メトロポリタン美術館/出典:メトロポリタン美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

どこで絵を学んだのかは、実ははっきりしません。三重県立美術館は、蕭白が高田敬輔(たかだ けいほ)に学んだと言われている、と書き、千葉市美術館も「師事したと思われる」という書き方をしています。断定ではなく、そう考えられている、という段階です。画風の面では、文化庁の文化遺産オンラインが、江戸時代の文献『画乗要略』(1831年刊)に「雲谷派(うんこくは)を学んだ」と記されていることを紹介しています。

当時は、版本の画譜(印刷された絵の手本集)が盛んに出版されるようになっていました。千葉市美術館は、蕭白がそうした画譜を活用し、室町水墨画に学んだ復古的な作品を多く残したと説明しています。手に入る手本を幅広く吸収しながら、自分の画風をつくっていった絵師だったのかもしれません。

技法へのこだわりも相当なものでした。京都国立博物館は、蕭白の作品について、細密な着色画から粗放な水墨画まで幅広いスタイルをこなしながら、一貫しているのは卓抜した描写力だと述べています。時には型紙(かたがみ)を用いて描くほど、技法にこだわっていたことにも注目してよい、と同館は書いています。

千葉市美術館の紹介文も、巧みな技術に裏付けられた独特の作品世界が、現代人をも魅了すると述べています。奇妙に見える絵の土台には、確かな技術があるということです。

「蛇足の子孫」を名乗る

蕭白を語るうえで外せないのが、「曽我」という姓です。

三重県立美術館の解説によると、蕭白は20代後半のころ、曽我の姓を名乗り始めました。室町時代の「曽我派」の流れをくむ者だという意思表示です。作品に、曽我蛇足(そが だそく)の十代目の子孫、という意味の署名を入れることもありました。蛇足は、曽我派の発展に大きな役割を果たした人物と紹介されています。香雪美術館も、蕭白は曽我蛇足に私淑して(直接教わらないまま深く敬って学ぶこと)「蛇足軒」と号した、と説明しています。

三重県立美術館の解説は、蕭白が自分を曽我派の直系だと考えていた印として、この姓を使い始めたと書いています。大切なのは、蕭白が「自分はこの系譜に連なる絵師だ」と自ら旗を立てたことです。若い絵師が、室町水墨画の名門の名を掲げて自分を売り出そうとした。そう読むこともできるでしょう。

なお、平凡社『世界大百科事典』(旧版)の「曽我派」の項は、蕭白は自ら蛇足10世を称したものの、室町時代以来の曽我派との直接のつながりは、いまのところ文献では確かめられていない、としています。

この名乗りは、作品の中にも顔を出します。のちに紹介する『牧牛図』には、「蛇足軒蕭白酔指画」という款記(作者の署名)があります。「酔って指で描いた」という意味で、署名にまで遊び心が見えます。

山水の名手としての顔

蕭白というと、荒々しい獅子や不気味な仙人を思い浮かべる方が多いかもしれません。けれども、整った構図で山や川を描く山水画にも、確かな腕前があります。

メトロポリタン美術館が所蔵する『Mountain Landscape』は、1761年から1763年ごろの作とされる掛け軸です。霧のたなびく水辺と、そびえる山、点在する楼閣が、濃淡の墨と淡い色で描かれています。

曽我蕭白『Mountain Landscape』(1761〜63年頃)
曽我蕭白『Mountain Landscape』(1761〜63年頃)メトロポリタン美術館/出典:メトロポリタン美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

同じ館には、6面の屏風に描かれた『近江八景』(1762〜66年頃)も伝わっています。近江八景とは、琵琶湖周辺の名所を8つ選んだ画題のことです。画面の左には白く塗り残した山並みが連なり、中央には湖に突き出た岸辺の松が、右には崖の上の楼閣が描かれています。

曽我蕭白『近江八景』(1762〜66年頃)
曽我蕭白『近江八景』(1762〜66年頃)メトロポリタン美術館/出典:メトロポリタン美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

これらの落ち着いた山水画を見ると、蕭白の「奇抜さ」が、確かな基礎の上に成り立っていることが分かります。三重県立美術館の友の会だより(1998年)に載った展覧会紹介も、蕭白は「きちんと伝統をふまえて制作をおこなっている」と指摘しています。濃淡や筆致をいかした墨の使い方も、大胆で毒々しい色彩も、見る人を圧倒する構図も、すべて計算しつくされたものだと、同じ文章は述べています。勢いだけの絵師ではなかった、ということです。

香雪美術館は、蕭白の作風に、桃山時代に活躍した曽我直庵とその後継者の二直庵らが受け継いだ、濃い墨と荒々しい筆致で樹木や岩をデフォルメして描く作風の影響が見られると説明しています。落ち着いた山水の名品と、荒々しい筆づかいの作品は、同じ絵師の中で両立していました。

1763年と1764年 『雲龍図』と『群仙図屏風』

蕭白の作品のなかで、制作年がはっきり分かるものは多くありません。文化遺産オンラインの解説も、蕭白の生涯に関する資料は限られていて、制作時期のわかる作品もきわめて少ないと書いています。そのなかから、款記(作者の署名)によって描いたときの年齢が分かる作品を、二つ紹介します。なお、本記事では権利の確認が取れた図版のみを掲載しています。そのため、この節の『雲龍図』『群仙図屏風』と、あとで紹介する『唐獅子図』『旧永島家襖絵』などは、文章でのご紹介となります。

『雲龍図』(1763年)

一つは、ボストン美術館が所蔵する『雲龍図』(英題『Dragon and Clouds』)です。同館は1763年(宝暦13年)の作としています。同館は蕭白を、型にはまらない技法と不遜なユーモアで知られる京都出身の絵師と紹介しています。全長は約35フィート(約10.7メートル)にもなる大作で、雲を巻き上げて降りてくる龍が、墨の濃淡だけで描かれています。文化庁の解説によれば、この絵には34歳の款記があります。

もとは寺院の建物を飾っていた襖絵(ふすまえ)でした。ボストン美術館によると、近年の研究で、もともとは8面の襖に描かれていたことが分かりました。さらに、小さな襖4面が祭壇の左右に並んでいたと考えられていますが、この4面は失われています。ビゲローのコレクションとして同館に入った1911年には、4つの部分に分けて厚い紙に貼られた状態でした。その後、5年にわたる大がかりな修復が行われました。ボストン美術館のアジア絵画の修復部門が、傷んだ絵を一枚ずつ分離して直し、特注の木の格子の芯に貼り、漆の縁をつけて仕上げたと、同館は説明しています。2012年には日本に里帰りして、東京国立博物館や九州国立博物館などを巡回しました。2014年3月21日から7月6日には、修復を終えた姿が、同館のアジア絵画の展示室で初めて公開されました。常に展示されている作品ではないため、見に行く際は同館の公式サイトで公開状況を確かめてください。

『群仙図屏風』(1764年)

もう一つが、国の重要文化財『群仙図屏風』です。文化遺産オンラインの記録では、2005年(平成17年)6月9日に重要文化財に指定されました。江戸時代、1764年の作で、六曲一双(6枚折りの屏風が2つで1組)。所有者は国(文化庁)で、2000年度に国有になっています。

文化庁の解説は、この作品を「水墨を主体として描かれた景観に、奇怪な八人の仙人を濃彩で描いている」と紹介しています。蕭白の数少ない着色画のなかでも、鳥の羽や着物の文様に絵の具を盛り上げて彩色した、とりわけ念入りな作品です。款記から35歳の作と分かる点も、非常に貴重だとされています。同じ解説は、34歳の款記がある『雲龍図』と龍の描き方が共通することも、制作年の裏づけとして挙げています。

描かれた仙人のうち、右隻の鉄拐(てっかい)仙人や左隻の蝦蟇(がま)仙人のように見分けられる者もいますが、大半はどの仙人か特定しがたい、と解説は述べています。人物の着物の赤や、鶴などを彩る黄色には、独特の鮮やかな絵の具が使われ、強烈な色彩表現を生んでいるといいます。

蕭白の作風といえば、荒々しい大きな筆づかいがもっともよく知られています。解説は、江戸時代の書物『近世逸人画史』の「其画変化自在なり。草画の如きは藁に墨つけてかき回したる如きものあり。又精密なるものに至りては余人の企及ぶものにあらず」という評を引いています。この屏風では、人物は細かく緻密に、山水は奔放に描き分けられています。解説は、この二つが同居している点を、蕭白の作風の展開を知るうえで重要としています。

中世から続く仙人の絵に、思いがけないほど明るい色と、風変わりな形を与えた。文化庁の解説は、そんな作品として評価しています。ただし、この屏風は文化庁の所蔵で、常設で展示されているとは限りません。見に行く際は、公開の予定を所蔵者や展覧会を開く館の発表で確かめる必要があります。

伊勢で描いた大作 『唐獅子図』

蕭白は、伊勢を2度訪れていることが分かっています。香雪美術館は、伊勢に2度、播磨に2度滞在したことが分かっていて、それぞれの地に逸話や作品が残っていると説明しています。三重県立美術館の友の会だより(1998年)は、35、6歳のころの2度目の伊勢遊歴で描いたと考えられる作品として、継松寺の『雪山童子図』、斎宮の永島家の襖絵、朝田寺の『唐獅子図』などを挙げています。文化遺産オンラインの解説は、蕭白が35、6歳ごろ、明和元、2年(1764、65年)ごろにこの地を訪れたと考えられるとしています。平凡社『改訂新版 世界大百科事典』も、29〜30歳ころと35歳ころに伊勢地方を遊歴したらしいこと、38歳ころの播州(播磨)滞在を物語る作品が伝わっていることを記しています。

松阪市の朝田寺(ちょうでんじ)に伝わる『唐獅子図』は、1991年(平成3年)6月21日に重要文化財に指定された、2幅の作品です。文化遺産オンラインによれば、もとは寺の本堂の内陣(本尊を安置する場所)の左右の壁に貼られていた絵でした。朝田寺が天台宗の寺院であり、構成も天台山の石橋を描いた別の絵に近いことから、天台山の石橋(しゃっきょう)を表したものと考えられています。2幅は、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の一対として表されています。

文化庁の解説は、獅子や岩を「刷毛状の筆で屈折の多い太線」でごく大まかに描きながら、形の意味は損なわれず、迫力ある画面になっていると評価します。たてがみや渓流は動きに富んだ筆で描かれ、獅子には、この激しい描写にそぐわない滑稽な表情が与えられて、おかしみを加えているとも述べています。

この絵をめぐって、解説は二つの点に触れています。一つは、大画面に対象を大きく拡大して描く構成や、どこか剽軽(ひょうきん)な獅子の顔つきが、34歳の款記がある『雲龍図』と通じること。もう一つは、荒々しい筆づかいが、34、5歳のころの作と推定される『寒山拾得図』に比較的近いことです(『寒山拾得図』は次の節で紹介します)。そのうえで、「蕭白画の豪壮な一面をよく示す大作」であり、伊勢での画業を代表する作品としてふさわしい、と結んでいます。

この指定には、本堂に続く書院の廊下の杉戸(板戸)に描かれた絵も関わっています。解説によれば、杉戸には『鳳凰図』『獏図』などが描かれ、款記のある内側の図に加えて、外側の図も図様や筆法から蕭白の筆と認められるといいます。そして、杉戸絵にも顔料の剥落はあるものの、特異な構想や鋭利な造型に見るべきものがあるとして、「附(つけたり)」として一緒に保存するのが望ましいとしています。国指定文化財等データベースには、附として、杉戸絵の『鳳凰図』『萩兎図』『獏図』『槇図』が登録されています。大きな獅子だけでなく、廊下の戸まで蕭白の筆だったということです。

伊勢に残る作品には、ほかに、松阪市の継松寺(けいしょうじ)に伝わる『雪山童子図』があります。松阪市の公式情報によると、釈迦の前世である雪山童子が、帝釈天の化身である飢えた羅刹に身を捧げようとする場面を描いた作品で、1975年(昭和50年)に三重県の指定文化財になりました。国の重要文化財ではない点には、注意が必要です。制作は1764年、蕭白35歳のころと推定され、寺の記録によれば、1771年に松坂の村田彦左衛門祇昌という人物が寄進したとされています。

伊勢の旧家の襖絵 旧永島家襖絵

伊勢での仕事のなかで、量でも内容でも群を抜くのが、伊勢の斎宮(現在の三重県明和町)にあった旧家の座敷に描いた襖絵です。

文化遺産オンラインによれば、この『旧永島家襖絵』は、15幅29面が重要文化財に指定されています。もとは、斎宮の旧家である永島家の障壁画でした。同家の言い伝えでは、蕭白が滞在したときに新築された座敷の襖に描いたといいます。襖44面分という分量は、蕭白の作品のなかでも最大規模で、山水、人物、花鳥、走獣と、画題も多彩です。指定は1998年(平成10年)6月30日で、所有者は三重県、保管先は三重県立美術館です。

文化庁の解説は、制作時期を蕭白が伊勢地方を巡った35、6歳のころと考えています。同じ時期の『群仙図屏風』と、描き方や款記が近いことが理由です。

旧永島家襖絵は、伊勢参宮街道沿いにあった旧家の座敷を飾っていた襖44枚の一部です。文化遺産オンラインによれば、「山水図」は南側の上段之間(じょうだんのま)、「竹林七賢図」は北側の上段之間を飾っていたと考えられています。「竹林七賢図」の裏面にあたる4面は「禽獣図」で、北側の次之間には獣が中心に描かれていたと推測されています。「竹林七賢図」の残りの4面は裏面が「波濤群禽図」で、二つの上段之間のあいだにある四畳間に描かれていたことが分かるといいます。花鳥画の「松鷹図」は、「山水図」の次の間にあったと考えられています。

『禽獣図』は、後ろ向きのシカ、フクロウ、タヌキ、コウモリが描かれた作品です。文化遺産オンラインの解説は、その意味ありげな視線や動作に、単なる動物画ではなく、何かしら寓意的なものを感じさせると書いています。

また、『牧牛図』は、筆ではなく指で描いた指頭画(しとうが)です。文化遺産オンラインの解説によれば、旧永島家襖絵のなかでは唯一の指頭画で、画面の右上に「蛇足軒蕭白酔指画」と記されています。襖4面もの大画面に描かれた蕭白の指頭画は、ほかに例がないといいます。画面には、木の上で器用にバランスをとる童子と、ゆったりと伏せた牛、そして左端に犬のような小さな動物が描かれています。この小さな動物が何であるかは明らかでない、と解説は書いています。掛け軸に仕立て直されたいまも、襖の引き手の跡がはっきり残っているそうです。

同じ解説は、酔った勢いで指で描いた絵であることを考えると、格式の高い部屋ではなく、下段の間に描かれた可能性が高いと推測しています。ただし、実際にどの部屋にあったのかは分かっていません。

文化遺産オンラインの『禽獣図』の解説は、襖絵はさまざまな墨の扱いを見せる展示場のようだと書いています。文化庁の解説も、この襖絵を、蕭白最盛期の円熟した作風によるまとまった障壁画の作例として貴重だと評価しています。ひとつの家の座敷が、蕭白の墨の技を試す場になっていたのかもしれません。

京都に残る『寒山拾得図』と楼閣山水図

国指定文化財等データベースに登録されている蕭白の重要文化財は、5件あります。そのうち指定日がもっとも早いのが、京都・興聖寺(こうしょうじ)に伝わる『寒山拾得図』(2幅。指定名称は「紙本墨画寒山拾得像」)で、1908年(明治41年)4月23日の指定です。京都国立博物館も、2015年の蕭白の特集展示で、興聖寺の『寒山拾得図』を重要文化財として展示した記録を公開しています。平凡社『改訂新版 世界大百科事典』によれば、興聖寺には蕭白と肉親の墓があります。

寒山(かんざん)と拾得(じっとく)は、メトロポリタン美術館の解説によれば、中国の天台山に住んだと伝えられる、禅の風変わりな人物です。先に触れたとおり、文化庁の解説は、その荒々しい筆法から、この作品を34、5歳のころの作と推定しています。

もう一点の重要文化財が、滋賀県の近江神宮が所蔵する『楼閣山水図』(六曲一双)です。1992年(平成4年)6月21日に指定されました。右隻が春、左隻が秋の景色とされ、文化庁の解説は、先に述べた雲谷派の様式を顕著に示す一方で、過去の様式を単に復興したのではなく、誇張しながら再生させることで、幻想的な景観をつくり出している点を高く評価しています。左隻では、湖上の楼台などを淡い墨で描き、金泥(きんでい)の効果とあわせて、月夜の薄明かりを思わせると記されています。

制作の時期については、解説は「およそ四十代」と推定しています。印章の磨り減り具合などが根拠です。30代半ばの伊勢での仕事より後にも、このような緻密で硬質な山水画を描いていたことが分かります。

晩年の蕭白 1779年の『天台山石橋図』と、京都での暮らし

京都国立博物館によれば、蕭白は「晩年になってようやく京都に定住し、儒者や禅僧らと交友をもった」とされています。それ以前は、各地を巡る暮らしを続けていたということになります。

この時期の作品として、メトロポリタン美術館には、1779年の『天台山石橋図』(絹に墨の掛け軸)が伝わっています。同館によれば、京都・天龍寺の臨済宗の僧、峨山南宗(がざん なんそう、1727〜1797年)が1779年(安永8年)に書いた賛(絵に添えられた文章)があります。ニューヨークのバーク・コレクションの旧蔵品で、2015年に同館へ寄贈されました。同館が公開している展覧会歴には、1998年に千葉市美術館と三重県立美術館で開かれた蕭白展への出品も記録されています。

画題は、先に紹介した朝田寺の『唐獅子図』と同じ、天台山の石橋です。同館は、母獅子が子を崖から落とし、はい上がってくる子を見きわめる場面だと説明し、創造力の頂点にあった蕭白を示す作品だと評価しています。縦に細長い画面に、アーチ状の岩の橋と険しい崖、渦巻く雲、そして崖をよじ登る獅子たちと、宙を落ちていく子獅子が描かれています。

曽我蕭白『天台山石橋図』(1779年)
曽我蕭白『天台山石橋図』(1779年)メトロポリタン美術館/出典:メトロポリタン美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

同じ館が所蔵する『寿老人図』(1773年ごろ)は、福の神の一人である寿老人を、紙に墨と色で描いた掛け軸です。舟のふちから身をのり出して水辺の亀に手をのばす老人と、かたわらの白い鹿、松の枝、空を飛ぶ鶴が、縦長の画面に収められています。

曽我蕭白『寿老人図』(1773年頃)
曽我蕭白『寿老人図』(1773年頃)メトロポリタン美術館/出典:メトロポリタン美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

メトロポリタン美術館には、1768年ごろの作とされる『Tōkaibō with a Fishing Basket』(紙に墨の掛け軸)もあります。月と竹の下に、魚籠(びく)を前にして笑う人物が座っています。

曽我蕭白『Tōkaibō with a Fishing Basket』(1768年頃)
曽我蕭白『Tōkaibō with a Fishing Basket』(1768年頃)メトロポリタン美術館/出典:メトロポリタン美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

制作年の分かる作品が少ない蕭白ですが、同館が示す制作年を並べると、1760年ごろから1779年までの作品が、海を渡って伝わっていることが分かります。

クリーブランド美術館には、1777年の『Orchid Pavilion Gathering』があります。4世紀の中国で、人々が小川に杯を流し、杯が止まった人が酒を飲んで詩を作ったという有名な集まり(蘭亭の集い)を題材にした作品です。

曽我蕭白『Orchid Pavilion Gathering』(1777年)
曽我蕭白『Orchid Pavilion Gathering』(1777年)クリーブランド美術館/出典:クリーブランド美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

蕭白は1781年に亡くなりました。50代のはじめでした。晩年まで、中国の故事や仙人、獅子といった題材に取り組み続けたことが、これらの作品から分かります。

海外で先に評価された画家

蕭白の作品の多くは、実は海外にあります。

三重県立美術館は、1998年の展覧会の紹介で、日本で本格的な調査が行われるよりずっと前から、蕭白の評価は海外のほうが高かったと説明しています。明治時代に日本を訪れたフェノロサやビゲローが、多くの蕭白作品をアメリカに持ち帰ったことが、海外での関心を高めたきっかけでした。ボストン美術館は2014年の発表で、自館の蕭白コレクションを、20点を超える比類のないものと紹介しています。

ボストン美術館には、『雲龍図』のほかにも、1768年の『The Four Sages of Mount Shang』(紙に墨と金)があります。フェノロサ=ウェルド・コレクションの一点です。三重県立美術館が1998年に開いた展覧会では、ボストン美術館をはじめ、アメリカ5か所の所蔵先からの里帰り作品が展示されたと紹介されています。

日本では、長いあいだ、ほとんど顧みられなかったといいます。三重県立美術館は、1970年代以降の研究によって各地で蕭白の作品が確認され、伊勢や播磨を巡って注文に応じて描いたという伝承を裏づけてきたと説明しています。専門的な調査や研究が進んだのは、同館の友の会だよりが1998年に書いた時点で、ここ30年あまりのことでした。

いまでは「奇想の画家」や「京都画壇の北斎」と呼ばれ、高く評価されています。ただし、同じ文章は「個性的な画風と奇矯な言動を伝える多くの逸話のために「狂」の部分のみが強調されがち」とも指摘しています。

逸話の例として、三重県立美術館は、三重県鈴鹿市に伝わる『達磨図』をめぐる話を紹介しています。描かれた達磨の顔があまりにも恐ろしいので、子どもがその目を突き破ってしまった、という言い伝えです。実際、この絵の達磨の目には、あとから手を加えた跡があると同館は述べています。作品の迫力を伝える話として残っている、と受け止めるのがよいでしょう。

クリーブランド美術館の『The Eight Immortals of the Wine Cup』は、18世紀後半の作とされる六曲一双の屏風で、紙に墨と金の切箔(きりはく)で描かれています。8世紀の中国の詩人・杜甫の詩に歌われた、酒に酔って自由にふるまう8人の文人を題材にしています。同館は、蕭白が8人の楽しみを誇張し、その滑稽な表情に表れていると解説しています。

曽我蕭白『The Eight Immortals of the Wine Cup』(18世紀後半)
曽我蕭白『The Eight Immortals of the Wine Cup』(18世紀後半)六曲一双のうち クリーブランド美術館/出典:クリーブランド美術館オープンアクセス(CC0)、Wikimedia Commons

まとめ

いかがだったでしょうか。

曽我蕭白は、1730年に京都の商家に生まれ、若くして家族を失いながら、20代のうちに絵師として歩み出した人でした。室町時代の曽我派の名を自ら掲げ、伊勢や播磨を巡りながら、荒々しい水墨の大作も、細密で鮮やかな着色画も描き分けました。

制作年が分かる『雲龍図』(1763年)と『群仙図屏風』(1764年)、国の重要文化財に指定された『唐獅子図』『旧永島家襖絵』『寒山拾得図』『楼閣山水図』など、作品を通して見えてくるのは、奇抜さだけではない、確かな技術と伝統への理解です。

日本よりも先に海外で評価され、近年になってようやく再び光が当たった蕭白。ボストンやニューヨーク、クリーブランドに残る作品と、三重や京都に残る作品を、いつか見比べてみてはいかがでしょうか。

Euphoric " " の視点

蕭白は、作品に曽我蛇足の十代目の子孫、という意味の署名を入れることもありました。室町時代の「曽我派」の流れをくむ者だという意思表示です。

濃淡や筆致をいかした墨の使い方も、見る人を圧倒する構図も、すべて計算しつくされたものだと指摘されています。伝統をきちんとふまえたうえでの制作でした。

日本で本格的な調査が行われるよりずっと前から、蕭白の評価は海外のほうが高かったといいます。

型破りに見える仕事ほど、型を知っている。蕭白の絵は、驚かせることと積み上げることは対立しないのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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