こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは上村松園という人物をご存知ですか?
明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、気品ある美人画で知られる人です。京都の葉茶屋の家に生まれ、10代で博覧会に出品した絵が評判になり、1948年には女性として初めて文化勲章を受章しました。
代表作には、重要文化財に指定されている『序の舞』『母子』のほか、嫉妬に狂う女性の生霊を描いた『焔』があります。美しい女性を描いた画家と思われがちですが、本人は「女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない」と書き残しています。
本記事ではそんな上村松園の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 上村津禰(つね)。文化庁の作家解説は「津禰」とし、『日本美術年鑑』は「常子」と記しています。「松園」は画号 |
| 生年月日(没年月日) | 1875年(明治8年)4月23日〜1949年(昭和24年)8月27日(満74歳没) |
| 国籍/出身 | 日本 京都府京都市下京区(四条で葉茶屋を営む家) |
| 学歴 | 1887年に京都府画学校に入学し、翌1888年に退学して鈴木松年の正式な門下となる |
| 分野 | 日本画(美人画) |
| 傾向 | 線描を主体とした端正な形と、計算された色彩。過去の風俗や謡曲(能の詞章)に取材した、気品ある女性像 |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 鈴木松年、幸野楳嶺(こうの ばいれい)、竹内栖鳳(たけうち せいほう) |
経歴と作品
京都・四条の葉茶屋に生まれて
上村松園は1875年(明治8年)4月23日、京都市下京区に生まれました。生家は四条通で葉茶屋を営んでいました。松園が随筆「棲霞軒雑記」に書いたところによると、店には寺の僧侶や儒者、画家、茶人、そして町家の人々がお茶を買いに訪れたそうです。のちに京都の風俗を繰り返し描く画家の原点には、この町の空気があったのかもしれません。
文化庁のArt Platform Japanに載る作家解説によれば、松園は幼い頃から絵を描くことを好みました。母の仲子(なかこ)は、女手ひとつで松園を育て、親類の反対があるなかでも画家の道に進むことを後押ししたと記されています。
1887年、松園は京都府画学校の「北宗」と呼ばれる教室に入学します。この北宗について、文化庁の作家解説は「狩野派系」とし、『母子』の重要文化財指定の解説は「四条派」としており、説明が分かれます。松園自身は随筆「画学校時代」で「北宗は力のある四条派」と書いています。ところが、ここで松園の望みと学校の教え方がすれ違います。松園は人物画を学びたいと強く願っていましたが、同じ随筆によると、学校では花の一枝を写すところから始め、級を上がって最後にようやく人物画に進む決まりでした。
そこで松園は、学校に通いながら、同じ課程の教授だった鈴木松年の画塾にも通います。翌1888年、松年が画学校を退職すると、松園も学校を退学して正式に松年の門下になりました。「松園」という号は松年が名づけたものです。松園は随筆「棲霞軒雑記」で、松年の「松」の一字に、店と取引のあった宇治の茶商の茶園にちなむ「園」を合わせたものだと説明しています。名づけられた時期は、文化庁の作家解説が1888年頃とする一方、松園は同じ随筆で、たしか最初の出品作『四季美人図』を出すときだったと振り返っています。
1890年、博覧会で英国の王子に買い上げられる
松園の名が世に出たのは1890年(明治23年)です。この年、松園は第3回内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品し、賞を受けました。賞の名は資料によって書き方が分かれ、文化庁の作家解説は「褒状」、『序の舞』の重要文化財指定の解説は「一等褒状」、『日本美術年鑑』は「褒賞」としています。指定の解説は、このときの年齢を数え年の16歳と記しています。
この作品は、来日中だった英国のアーサー王子(コンノート公)に買い上げられ、大きな注目を集めました。買い上げの件は、文化庁Art Platform Japanの作家解説と、『日本美術年鑑』昭和22〜26年版の松園の項の双方に記されています。
ただし、このときの『四季美人図』は現在所在不明です。作品が残っていないため、どのような絵だったのかは、今の私たちには確かめられません。
1893年には、農商務省の命によって、シカゴで開かれたコロンブス万国博覧会の女性館に、同名の『四季美人図』(1892年作、岐阜プラスチック工業株式会社蔵)を出品しています。10代後半の画家が、すでに国の博覧会で名前を知られる存在になっていたことが分かります。
三人の師と、そこから生まれた自分の画風
松園の経歴で特徴的なのは、短い期間に画風の異なる三人の師につき、その長所を取り入れていったことです。
| 順 | 師 | 時期 | 画風と松園の学び |
| 1 | 鈴木松年 | 1888年頃に正式に門下へ | 荒く力強い画風。松園にとっては最初の師 |
| 2 | 幸野楳嶺 | 1893年から。1895年に楳嶺が没する | 柔和な筆致を重んじる画塾。松園は非常に苦労したと記されています |
| 3 | 竹内栖鳳 | 楳嶺の没後(1895年)から | 写生を基礎に置き、各人の個性を伸ばす方針 |
1893年、松園は松年の許しを得て、四条派の幸野楳嶺の画塾に移ります。もっと広い絵の世界を見たいという考えからでした。ところが、荒く力強い松年の画風と、柔らかい筆致を重んじる楳嶺の画風とでは、描き方がかなり違います。松園は随筆「三人の師」で、楳嶺の画風にしたがって描いているつもりでも松年の荒い癖が出てしまい、二つが混ざって正しい絵にならなかったと振り返っています。
そこで松園が出した答えが、「松年先生の長所と楳嶺先生の長所をとり、それに自分のいい処を加えて工夫しよう」という方針でした。師の画風を一つに絞らず、自分の絵をつくる材料にしていったのです。
1895年2月に楳嶺が亡くなると、門人たちは「楳嶺門四天王」と呼ばれた画家たちの塾に分かれることになり、松園は竹内栖鳳に学びます。文化庁の作家解説は、写生を基礎にして各人の個性を伸ばす栖鳳の方針のもとで修練を積んだことが、独自の作風を切り開くことにつながったと説明しています。
1900年には、第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合絵画共進会に『花ざかり』(所在不明)を出品し、銀牌を受けました。この受賞で、松園は画壇に広く認められます。
同じ明治の日本画の革新を担った画家に、生まれ年が1年早い菱田春草がいます。春草は輪郭線を抑えた新しい表現で批判を受けながら挑戦を続けましたが、松園は線を生かした端正な美人画で独自の道を切り開きました。同じ時代の日本画でも、挑み方は一つではなかったことが分かります。
文展の時代と、美人画の岐路
1907年、文部省美術展覧会(文展)が始まり、松園は第1回展に『長夜』(福田美術館蔵)を出品します。その後も、出品を見送った回はあったものの、文展に作品を出し続けました。
松園の技術の高さにはすでに定評がありましたが、その分、評価は割れました。批評の中には、技巧に偏りすぎている、着想や構図に新しい工夫が足りない、という指摘もあったと文化庁の解説は伝えています。さらに1915年の第9回文展には「美人画室」という専用の展示室が設けられ、美人画は大衆の人気と批評家の非難のあいだに立たされていました。
こうした中で描かれたのが、次の2点です。文化庁の作家解説は、この2点が、伝統的な浮世絵や風俗画の影響が濃かったそれまでの作品とは違い、人物の内面を描くことに焦点を合わせたものだと述べています。そして、松園が画風の方向を手探りしていたことを示す作品だとも読み取っています。
『娘深雪』(1914年)

『娘深雪(むすめみゆき)』は、「朝顔日記」という物語のヒロイン、深雪を描いた絵です。1914年(大正3年)の東京大正博覧会に出品され、現在は島根県の足立美術館が所蔵しています。大きさは縦153.0センチメートル、横84.0センチメートルです。
足立美術館の解説によれば、恋人からもらった扇に見入っていた深雪が、人の気配を感じて、あわてて扇を袂に隠して振り向く瞬間を描いたものです。画面を見ると、娘は座ったまま上体をひねって後ろを振り返り、袂のあたりに濃い色の扇がのぞいています。背後には琴が横たわり、右下には絵柄のある小さな箱が見えます。
背景は広く余白のままで、動きは娘の体のねじれと視線だけに絞られています。恋する娘の初々しさを、大げさな表情を使わずに、振り向く姿勢ひとつで伝えているところが見どころです。足立美術館はこの作品を、松園の大正期を代表する名作と紹介しています。
『花がたみ』(1915年)

『花がたみ』は1915年(大正4年)の第9回文展に出品された作品で、奈良の松伯美術館が所蔵しています。題材は、能の曲目として知られる謡曲「花筐(はながたみ)」です。のちの継体天皇から形見の花籠を贈られた照日前(てるひのまえ)という女性が、帝を慕って都へ上り、心を乱した姿で舞う、という筋です。
松園は随筆「花筐と岩倉村」で、この絵を数多い作品の中でも大作の部に入るものだと書いています。また、この絵も「草紙洗小町」や「砧」などと同じく、謡曲の中から取材したものだと述べています。謡曲を題材にする系列は、のちの松園の大きな柱になっていきます。
画面では、白い顔にうつろな笑みを浮かべた女性が、長い黒髪を垂らして立っています。まわりには紅葉が舞い、手にした籠には白い菊のような花が入っています。足もとには扇が落ちています。重なり合う装束の淡い色と、深い赤の袴の対比が、画面に張りをつくっています。
この顔には理由があります。松園は同じ随筆で、照日前の顔を「能面から持って来た」と明かしています。「増阿弥」の十寸神(ますがみ)という面を写生し、それを生きた人間の顔として描いたのだそうです。謡曲に取材した絵で、顔そのものも能面から組み立てていたことになります。
『焔』(1918年) 松園のなかの異色作
松園の名を思い浮かべるとき、多くの人は静かで端正な女性像を想像するはずです。その印象を大きく裏切るのが、1918年(大正7年)の第12回文展に出品された『焔(ほのお)』です。現在は東京国立博物館が所蔵し、絹本着色の掛軸で、縦190.9センチメートル、横91.8センチメートルです。
文化遺産オンラインの解説によれば、この絵は『源氏物語』に登場する六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の生霊を題材にしています。打掛には藤の花が狂おしく咲き、その花に蜘蛛の巣がからみます。女の体や着物の模様のさまざまな曲線が、嫉妬に翻弄される姿を形づくっています。同じ解説は、美人画の作家といわれる松園の作品の中では「異色の主題である」と記しています。
制作の経緯について、松園は随筆「作画について」で自ら語っています。謡曲「葵の上」の六条御息所の生霊からヒントを得て描き、最初は「生き霊」という題をつけたそうです。しかし、それでは少し露骨すぎると感じ、謡曲の師に相談したところ、いっそ「焔」としてはどうかと言われ、その字が絵柄にぴったりだと考えて決めたといいます。
この随筆で、松園は『焔』を「私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」と呼んでいます。そして、なぜこのような絵を描いたのかについて、次のように振り返っています。
「あの頃は私の芸術の上にもスランプが来て、どうにも切り抜けられない苦しみをああいう画材にもとめて、それに一念をぶちこんだのでありましょう。」
さらに、この絵を描くと不思議に自分の気持ちが和らぎ、その次に「天女」を描いたとも書いています。行き詰まったときには、思い切って大胆な仕事をするのも局面を打開する一つの方法ではないか、という言葉も残しています。穏やかな絵を描き続けた画家が、苦しいときにあえて正反対の主題に向かったことは、松園の制作姿勢を知るうえで大切な手がかりです。
帝展の時代と、細部への執念
1916年の第10回文展で、松園は永久無鑑査(以後、審査を受けずに出品できる資格)を得ます。1924年からは帝展(帝国美術院展覧会)の委員を務め、1935年には帝展参与となりました。画壇での地位は着実に高まり、依頼を受けて描く作品も増えていきます。
『楊貴妃』(1922年)

1922年(大正11年)の第4回帝展に出品された『楊貴妃』は、松伯美術館が所蔵する作品です。文化庁の作家解説は、この絵を、細部の緻密な描写に力を注いだ作品として挙げています。
画面には、青い薄絹をまとった楊貴妃が黒塗りの台に腰をおろし、左の格子の向こうには侍女が立っています。右には簾(すだれ)が垂れ、床は市松模様です。透ける衣、髪飾りや首飾りの細かな装身具、格子越しに少し霞んで見える侍女の姿まで、細部に目を向けるほど描き込みの密度に驚かされます。
題材は中国の故事ですが、松園の特徴である端正な線は、ここでもはっきり見てとれます。日本の風俗だけでなく、古典や異国の物語にも手を広げながら、一貫して女性の姿を主題にしていたことが分かる1点です。
母の死と、『母子』(1934年)
1934年(昭和9年)2月、松園の母、仲子が亡くなります。文化庁の文化遺産オンラインは、母が「かけがえのない理解者であり支えであった」と記しています。松園は随筆「母への追慕」に「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである。」と書き、母のそばにさえいれば、ほかに何がなくても幸福だったとも振り返っています。
この年の秋、松園は第15回帝展に『母子』を出品します。母の死のあとに描かれた、母性を主題にした作品群の出発点にあたる絵です。現在は東京国立近代美術館が所蔵し、2011年(平成23年)6月27日に重要文化財に指定されました。絹本著色の額装で、縦168.0センチメートル、横115.5センチメートルです。
なお、本記事では権利の確認が取れた図版のみを掲載しています。そのため『母子』と次の『序の舞』は図版を載せていません。画像は、記事末尾に挙げた所蔵館の公式ページでご覧ください。
文化遺産オンラインの解説によれば、画面には、班竹(はんちく)の簾を背景に、眉を剃りお歯黒をした女性が幼い子を抱き上げ、慈しむように見つめる姿が、ほぼ等身大で描かれています。明治期の京都の町家の婦人の姿で、髪や帯に黒を配して明暗のコントラストをつくり、縞模様の着物を引く線や簾の極めて細かな描写に技量の高さがうかがえる、と説明されています。画面の左側は余白とされ、簾に遮られた背景の奥行きを感じさせる構成です。
東京国立近代美術館の解説は、母の衿元をつかんで身を乗り出す幼子と、その子をしっかり抱いて愛情に満ちたまなざしを注ぐ母親、という場面を紹介しています。同館は、松園が実母の死をきっかけに、母や母性を主題とする作品を描くようになったとも説明しています。
ただし、この作品は個人的な追慕だけで終わるものではありません。文化遺産オンラインの解説によれば、この頃の松園は、帝展の出品作の彩色の傾向への批判や、急激な西洋化で古き良き風俗が失われていくことへの懸念を、繰り返し表明していました。『母子』は、しばらく不出品だった帝展に久しぶりに出した作品でもあり、当時の帝展の傾向に対する批判と、世相への批評に対する、松園なりの答えと位置づけられると述べています。同じ解説は、この作品を「松園芸術の到達点の一方を示す代表作例ということができる」と評しています。
『序の舞』(1936年) 「理想の女性の最高のもの」
松園の代表作として最も広く知られるのが、1936年(昭和11年)に文展招待展へ出品された『序の舞(じょのまい)』です。政府の買い上げとなり、現在は東京藝術大学が所蔵しています。2000年(平成12年)6月27日に重要文化財に指定されました。絹本著色の掛軸で、縦233.0センチメートル、横141.3センチメートルという大きな作品です。画面の右下には「松園」の署名と「松園女史」の朱文方印があります。
題材は、現代の令嬢が謡曲の仕舞(しまい)を舞う姿です。仕舞とは、能の一部を、面や装束をつけずに舞うことをいいます。松園が描いた「序の舞」は、その中でもごく静かで上品な舞でした。文化遺産オンラインの解説は、この絵が、他の謡曲を題材にした作品のように特定の文学的な主題に沿うのではなく、同時代の風俗の女性に古格(昔ながらの格調)を与えた点に特色があると述べています。
制作の意図は、松園自身が随筆「作画について」で語っています。それによれば、「序の舞」は松園にとって「私の理想の女性の最高のもの」と言ってよい絵でした。さらに、次のように記しています。
「優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです」
「何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志を、この絵に表現したかったのです。」
制作中の苦労も具体的に書かれています。舞の二段おろしを描こうとすると、短い留袖では袖が返らず、そこで振袖姿に改めたそうです。袖を返す動きに、美しい曲線があり、絵の生命も生まれる、というのが理由でした。また、髷のふくらみや鬢(びん)の張り方が少し変わっただけでも、上品さや端麗さが失われてしまうとも述べています。細部の積み重ねが、そのまま画面の品格につながると考えていたのでしょう。
文化遺産オンラインの解説は、この絵を、松園芸術を代表する作と位置づけています。松園が目指した、まっすぐで品のある美が、一枚の絵に凝縮された作品といえるでしょう。
晩年 戦争の時代と文化勲章
1930年代後半、松園は大作を次々に生み出します。1937年には、依頼から21年を経て完成した『雪月花』を貞明皇太后に献上しました(現在は皇居三の丸尚蔵館)。同じ年、謡曲を生かした『草紙洗小町』(東京藝術大学蔵)を第1回新文展に、翌1938年には『砧(きぬた)』(山種美術館蔵)を第2回新文展に出品しています。
1941年、松園は帝国芸術院会員に任命されます。同じ年には、戦時下の中国戦線へ、三谷十糸子と慰問旅行にも出かけました。1944年には帝室技芸員となり、『静』(東京国立近代美術館蔵)は、戦艦献納画展に出品した作品です。
そして1948年(昭和23年)、松園は女性として初めて文化勲章を受章しました。文化遺産オンラインの『序の舞』の解説も、帝国芸術院会員、帝室技芸員、文化勲章の経歴を、松園が生前から高く評価されていた事実として挙げています。
松園は1949年8月27日、奈良の「唳禽荘(れいきんそう)」で亡くなりました。疎開先であった、息子で日本画家の上村松篁の画室です。文化庁の作家解説によれば、絶筆となった『初夏の夕』(京都市美術館蔵)でも、筆の力が衰えを見せることはなかったと記されています。松伯美術館の紹介によれば、松篁は1984年に、松篁の長男で日本画家の上村淳之は2022年に、それぞれ文化勲章を受章しています。
松園の言葉と、美人画の考え方
松園は、絵だけでなく、随筆でも自分の考えを残しました。随筆集『青眉抄』に収められた「棲霞軒雑記」には、有名な一節があります。
「女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。」
同じ文章で、松園は自分の美人画について、写実を重んじながらも、「女性の美に対する理想やあこがれを描き出したい」という気持ちから描いてきたと説明しています。きれいな女の人を見たとおりに写すのではなく、理想の姿を描く。それが松園の言う美人画でした。
では、なぜ松園は、同時代の女性ではなく、過去の風俗や謡曲の世界を描くことが多かったのでしょうか。手がかりになるのが、随筆「靄の彼方」(初出は『大毎美術』1932年8月号)です。松園はここで、古い時代は今とは感じがちがって見えるとし、その理由を、時代という空気がぼかしをかけてくれるからだと述べています。そして「私はこの美しい靄を隔てた、過去の時代を眺めたいのです。」と書きました。この文章を引いた文化庁の作家解説は、古画や古典は同世代の日本画家が基礎として一度は学ぶものであったが、松園にとっては同時代の他の美人画と一線を画すための戦略的な参照項だった、と読み解いています。
美術の制度という面からも、松園の位置は興味深いものです。文化庁の作家解説は、松園が画家として歩み始めた時期が、美術学校や展覧会などの制度が整えられていく時期と重なっていたことを指摘しています。一方で、その制度はすべての人に平等に門戸を開いていたわけではなく、画家を志しながら筆を折った女性も多かったとも述べています。松園は、自身の苦労を含めて同時代の女性画家の境遇について言葉を残しており、そうした著述まで読むことも大切だと、解説は結んでいます。
山種美術館の2009年の展覧会案内(国立新美術館のアートコモンズに掲載)は、松園を「東の鏑木清方、西の上村松園」と並び称された美人画の巨匠と紹介しています。作品の線と色の面では、『序の舞』の重要文化財指定の解説が、線描を主体とした厳格な形と計算された色彩の美しさを特徴に挙げ、「ときに新古典主義的とも称される」と記しています。
没後も続く回顧展
松園の評価は、没後も変わらず続いています。文化庁Art Platform Japanの主要展覧会の一覧には、1974年の生誕100年記念の上村松園展(京都市美術館)、1999年の没後50年の展覧会(松伯美術館、京都文化博物館など)、2005年の生誕130年記念展(松伯美術館)が並びます。
2010年には東京国立近代美術館と京都国立近代美術館で、2019年には没後70年として浜松市美術館で、それぞれ上村松園展が開かれました。さらに2021年には、京都市京セラ美術館の開館1周年記念展として「上村松園」展が開催されています。同じ画家の回顧展が、全国の美術館で何度も企画され続けていることが、いまも多くの人に見られている画家であることを示しています。
主な作品と所蔵先
| 作品 | 制作年 | 所蔵先 | 備考 |
| 『四季美人図』 | 1890年 | 所在不明 | 第3回内国勧業博覧会。英国のアーサー王子が買い上げ |
| 『長夜』 | 1907年 | 福田美術館(京都) | 第1回文展出品 |
| 『娘深雪』 | 1914年 | 足立美術館(島根) | 東京大正博覧会出品 |
| 『花がたみ』 | 1915年 | 松伯美術館(奈良) | 第9回文展出品 |
| 『焔』 | 1918年 | 東京国立博物館 | 第12回文展出品 |
| 『楊貴妃』 | 1922年 | 松伯美術館(奈良) | 第4回帝展出品 |
| 『母子』 | 1934年 | 東京国立近代美術館 | 重要文化財(2011年指定) |
| 『序の舞』 | 1936年 | 東京藝術大学 | 重要文化財(2000年指定) |
| 『草紙洗小町』 | 1937年 | 東京藝術大学 | 第1回新文展出品 |
| 『砧』 | 1938年 | 山種美術館(東京) | 第2回新文展出品 |
上村松園の略年表
| 年 | 出来事 |
| 1875年 | 京都に生まれる |
| 1887年 | 京都府画学校に入学。並行して鈴木松年の画塾に通う |
| 1888年頃 | 画学校を退学し、正式に松年門下となる |
| 1890年 | 第3回内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品し受賞。英国のアーサー王子が買い上げる |
| 1893年 | 幸野楳嶺の画塾に通う。シカゴの万国博覧会の女性館に出品 |
| 1895年 | 2月に楳嶺が没し、竹内栖鳳に学ぶ |
| 1900年 | 『花ざかり』で銀牌を受ける |
| 1907年 | 第1回文展に『長夜』を出品 |
| 1916年 | 第10回文展で永久無鑑査の資格を得る |
| 1918年 | 『焔』を第12回文展に出品 |
| 1924年 | 帝展委員となる |
| 1934年 | 母の仲子が没する。『母子』を第15回帝展に出品 |
| 1935年 | 帝展参与となる |
| 1936年 | 『序の舞』を文展招待展に出品。政府が買い上げる |
| 1941年 | 帝国芸術院会員となる |
| 1944年 | 帝室技芸員となる |
| 1948年 | 女性として初めて文化勲章を受章 |
| 1949年 | 8月27日、奈良の唳禽荘で没する |
まとめ
いかがだったでしょうか。
上村松園は、京都・四条の葉茶屋に生まれ、鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳という画風の異なる三人の師から学び、それぞれの長所を自分の絵に取り入れていった画家でした。1890年の博覧会で『四季美人図』が英国の王子に買い上げられて名を知られ、その後も文展・帝展で地位を築いていきます。
画業の中心にあったのは、気品ある女性の姿を描き続けることでした。ただし、それは穏やかな絵だけを意味しません。『焔』では嫉妬に狂う生霊を描き、スランプの苦しみをその主題に託しました。母の死を経て描いた『母子』は、文化庁が「松園芸術の到達点の一方を示す代表作例」と評し、2011年に重要文化財になりました。
『序の舞』は、「優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品」を描こうとした作品で、2000年に重要文化財に指定されています。1948年には、女性として初めて文化勲章を受章しました。
松園の作品は、東京藝術大学、東京国立近代美術館、東京国立博物館、足立美術館、松伯美術館、山種美術館などが所蔵しています。日本画は作品を守るために展示できる期間が限られ、いつでも見られるわけではありません。気になる方は、出かける前に各館の最新の公開情報をチェックしてみてください。
Euphoric " " の視点
松園は、師について「松年先生の長所と楳嶺先生の長所をとり、それに自分のいい処を加えて工夫しよう」と書いています。
『焔』については、スランプが来て、切り抜けられない苦しみを画材にもとめ、それに一念をぶちこんだと振り返りました。
『序の舞』では、舞の二段おろしを描こうとして、留袖を振袖姿に改めたそうです。
学んだものを組み合わせ、行き詰まりさえ絵の材料にし、描きたい一瞬のために細部を変える。松園の言葉は、続けるための工夫は自分の手の中にあるのかもしれないと教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






