こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは菱川師宣という人物をご存知ですか?
菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)は、江戸時代の前期に活躍した絵師です。「浮世絵の祖」と呼ばれ、それまで本の挿絵にすぎなかった絵を、一枚の絵として売り出し、江戸の人びとが手に取れるものにしました。代表作は、振り返る女性を描いた『見返り美人図』。切手の図柄にもなった一枚なので、お顔は見たことがあるという方も多いのではないでしょうか。
けれども、師宣の仕事は『見返り美人図』だけではありません。絵入りの本で江戸の流行を伝え、遊里や芝居小屋の様子を墨一色の版画に刷り、さらに色鮮やかな肉筆の絵も描きました。師宣は、いまでいえば絵師であり、編集者であり、情報の発信者でもあった人です。
本記事ではそんな菱川師宣の人生と作品についてご紹介します。
コンテンツ
Toggle菱川師宣って?
基本情報
| 本名 | 俗称は吉兵衛(きちべえ)。「師宣」は画号。晩年には剃髪(ていはつ)して友竹(ゆうちく)と号した |
| 生年月日(没年月日) | 生年は不詳(菱川師宣記念館は寛永年間の中ごろ、1630年頃と推定)。元禄7年(1694年)6月4日、江戸で没 |
| 国籍/出身 | 日本/安房国保田(あわのくに ほた)。現在の千葉県鋸南町(きょなんまち)。のち江戸で活動 |
| 学歴 | なし。漢画や狩野派、土佐派などの諸流派に接し、独学で画技を磨いたと伝わる |
| 分野 | 浮世絵(絵本・挿絵本、墨摺の一枚摺版画、肉筆画) |
| 傾向 | 江戸の庶民や遊里、芝居町、行楽地の風俗を描く。伸びやかな描線と、流行の装いをまとった女性像が持ち味 |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 師系は不詳。家業の縫箔(ぬいはく)の世界に育ち、狩野派や土佐派などに学んだ。門人に長男の師房(もろふさ)、師重(もろしげ)、師平(もろひら)ら |
経歴と作品
房州保田の縫箔師の家に生まれて
菱川師宣は、安房国保田(現在の千葉県鋸南町保田)に生まれました。鋸南町の菱川師宣記念館によると、父は縫箔刺繍の仕事を営む菱川吉左衛門、母はオタマ。7人きょうだいの4番目で、長男でした。
ここで「縫箔(ぬいはく)」という言葉を説明しておきましょう。縫箔とは、布地に刺繍をほどこしたり、金や銀の箔を貼ったりして、着物を飾る仕事のことです。千葉県の観光サイトに登場する記念館の学芸員は、この仕事には高度な技術と芸術的な感性が求められた、と語っています。
生まれた年は、いまも分かっていません。記念館は、父の年齢や4番目の子という状況から、寛永年間の中ごろ(1630年頃)と推定しています。一方、ブリタニカ国際大百科事典は、没したのは数え年77歳とする一説も紹介しています。数え年77歳で没したとすると、生まれは1618年になり、メトロポリタン美術館やスミソニアン国立アジア美術館は、師宣の生年を1618年と表記しています。ボストン美術館は没年だけを記しています。このように資料によって扱いが分かれるため、本記事では、生年は「不詳」としておきます。
幼いころから絵を描くのが好きだった師宣は、家業を手伝い、刺繍の下絵を描くかたわら、漢画(中国の画風の絵)や狩野派、土佐派といった流派の絵に触れ、独学で腕を磨いたと記念館は伝えています。学芸員は、家には唐絵や狩野派、土佐派の絵があったので、それを見て写すことで画力を高めたのではないか、とも述べています。
この「縫箔師の家に生まれた」という出自は、のちの師宣の絵を読み解くうえで、大切な手がかりになります。のちほど見る『見返り美人図』の着物の描き込みは、まさにその例です。
江戸へ出て、挿絵の仕事を始める
やがて師宣は江戸へ出ます。何歳のころに、どのような経緯で出たのかは、はっきり分かっていません。記念館の学芸員は、前半生は俗称が吉兵衛であったこと以外はあまり明らかではない、としたうえで、父の知り合いなどを頼って江戸へ出て、縫箔師の修行をしたのではないか、と推測しています。
確かなのは、『日本大百科全書』が記すように、1670年(寛文10年)ごろにはすでに江戸で浮世絵師として活動していることです。そして、ここから江戸の出版の世界と深く結びついていきます。
当時の背景を、『世界大百科事典』(旧版)の「浮世絵」の項は次のように説明しています。江戸の人びとが読む絵入りの本は、はじめは上方(京都・大坂)で出版されたものの輸入でまかなわれていましたが、明暦3年(1657年)の大火のあとの都市の復興とともに、江戸の版元(出版業者)による出版もさかんになりました。師宣は、そうして育てられた絵師のひとりとして、仮名草子や好色本を中心に優れた挿絵を提供し、本の中に占める絵の比重を広げていった、とされています。
師宣の名前が世に出るきっかけの一つが、寛文12年(1672年)に出版された絵本『武家百人一首』です。記念館の学芸員によれば、この本に、版本としてはじめて絵師「菱川吉兵衛」の名前が記されました。学芸員は、当時は絵師の地位が低く、名前が本に載るようなことはなかったとしたうえで、師宣には、名前を入れることを版元に認めさせるだけの実力があったのだろう、と見ています。『世界大百科事典』(改訂新版)も、師宣が江戸の挿絵画家としてはじめて署名を入れた、と記しています。
『武家百人一首』は、古今の有名な武将の和歌と肖像を、1人1ページずつ100人分紹介する本でした。師宣はこのあとも、物語や伝説、武士や美人の逸話、江戸の暮らしを題材にした絵本を、次々と手がけます。
山川出版社の『日本史小辞典』は、主な版本として、1671年(寛文11年)刊の『私可多咄(しかたばなし)』、1678年(延宝6年)の『吉原恋の道引』、1680年(延宝8年)の『月次のあそび』、1682年(天和2年)の『浮世続絵尽』、1683年(天和3年)の『美人絵づくし』などを挙げています。生涯に手がけた絵本・挿絵本は、『日本大百科全書』は100種以上、『世界大百科事典』は150種以上と書いており、数え方によって幅があります。いずれにしても、非常に多作だったことは間違いありません。
題材も幅広く、『世界大百科事典』によれば、絵づくし(さまざまな主題を絵で見せる本)のほか、『江戸雀』や『東海道分間絵図』のような名所案内記、金平本(きんぴらぼん)や仮名草子、和歌の本にまで及びました。
絵が主役になった本:絵づくしと『和国諸職絵尽』
師宣の絵本が人気を集めた理由の一つは、本の作りにありました。それまでの挿絵は、文章の合間にところどころ差し込まれる程度でした。ところが師宣は、ページの中心に大きく絵を置き、文章は上のほうに小さく添える形の本を出し始めます。記念館の学芸員は、これを「頭書(かしらがき)形式」と呼び、いわゆる絵本の形式だった、と説明しています。
この形式で作られたのが「絵づくし」と呼ばれる本です。メトロポリタン美術館には、1683年刊の『美人絵づくし』や、1685年刊の『和国諸職絵尽(わこくしょしょくえづくし)』などが所蔵されています。
『和国諸職絵尽』(1685年)

『和国諸職絵尽』は、「さまざまな職業の絵」という題のとおり、仕事に励む人びとの姿を集めた本です。掲載した見開きでは、ページの上に文章、その下に絵が置かれ、縦に糸を張った枠の前で作業する人物などが描かれています。メトロポリタン美術館は、この本を1685年の刊行とし、3冊組の木版本として所蔵しています。
文字の読める人にも、そうでない人にも、絵を見れば様子が伝わります。絵が主役の本は、江戸の人びとにとって、いまでいう図鑑や情報誌のような存在だったのかもしれません。千葉県の観光サイトで学芸員は、こうした本を、歌舞伎の芝居小屋や吉原のガイドブックのようなものとして出版し、江戸の情報誌の役割を果たして人気になった、と語っています。
縫箔師の目が生きた『当世ひいな形』(1677年)
師宣の本の中でも、縫箔師の家に生まれたことがよく表れているのが、着物の文様を集めた本です。メトロポリタン美術館が所蔵する『当世ひいな形(とうせいひいながた)』は、1677年の刊行とされ、同館の英語の題は「Contemporary Kimono Patterns」、つまり「いまどきの着物の柄」です。
『当世ひいな形』(1677年)

見開きには、着物の形の輪郭が左右に1着ずつ描かれ、その中に鳥や小物などの文様が配されています。着物を注文する人が、柄を選ぶための見本帳のような使い方もできそうです。
なお、この本が実際にどのように使われたのかを示す資料は、今回確認できた範囲にはありません。ですので、ここは本を眺めた私たちの読み方にすぎませんが、刺繍や箔で着物を飾る仕事に通じた人が、流行の文様を絵として整理した本だと考えると、師宣という絵師の持ち味がよく見えてきます。着物の柄を描く力は、のちの美人画にもそのまま生かされていくからです。
一枚の絵として売る。墨摺の版画『吉原の躰』
本の中の挿絵から、絵だけを独立させて売り出す。師宣がこの一歩を踏み出したことが、「浮世絵の祖」と呼ばれる最大の理由です。
ここで、言葉をひとつ整理します。浮世絵には、絵師が筆で一枚ずつ描く肉筆画と、木版で摺って同じものを多く作る版画があります。肉筆画は大変高価で、買えるのは限られた人だけでした。記念館の学芸員は、師宣がそれを大量に作れる版画として安く売り出し、「大衆のためのアート」という浮世絵のジャンルを確立した、と説明しています。
師宣の時代の版画は、色を重ねる多色摺ではなく、墨摺(すみずり)と呼ばれる、墨一色で刷るものでした。『世界大百科事典』は、彫刻刀が刻む荒削りな線と、墨摺ならではの白と黒の対比が、率直で明快さを愛する江戸の人びとの美意識を代弁していた、と評しています。
このような一枚摺の版画は、当時は12枚程度のセット(組物)で売られました。学芸員によれば、一枚ずつ鑑賞できるだけでなく、つなげて見ることで、簡易な絵巻物のように楽しめる趣向もあったといいます。『世界大百科事典』は、師宣は版画を、文章に従属した挿絵から解放し、冊子本の形からも独立させて一枚絵の鑑賞版画を生み出したが、なお12枚一組の揃物として発表するにとどまった、とも説明しています。
その代表作が『吉原の躰(よしわらのてい)』です。『日本大百科全書』は、墨摺12枚組の作品と記しています。文化庁の「文化遺産オンライン」には、東京国立博物館が所蔵する『吉原の体』(12枚)が載っており、「吉原の躰」は師宣の代表作と紹介されています。
『吉原の躰』より「揚屋町入口」(1681〜84年)

メトロポリタン美術館は、この「揚屋町入口(あげやまちいりぐち)」を『吉原の躰』のシリーズの一枚とし、1681年から84年の作としています。建物の前に集う女性や男性たちが、墨の線だけで描き分けられています。
同館には、遊女屋の台所を描いた一枚も所蔵されています。館の題は英語の「The Kitchen of a Joroya」だけで、シリーズ名は記されていません。
「遊女屋の台所」(1680年頃)

大きな桶のまわりで立ち働く人びとの姿が、画面いっぱいに描かれています。華やかな表舞台ではなく、それを支える働き手の場面まで描いているところに、師宣の目の広さが感じられます。
吉原は、師宣が足しげく通った場所だったと、記念館の学芸員は語っています。師宣は、最先端の流行が生まれる歌舞伎の芝居小屋や吉原の遊郭に頻繁に出入りして、人びとの活き活きとした様子を描こうとしており、その行動が版元の目にとまって、本の挿絵を描くようになったのだろう、というのが学芸員の推測です。
墨摺の版画の題材は、吉原だけではありません。メトロポリタン美術館には、行楽の場面を描いた一枚もあります。
『Flower-Viewing Scene』(1685年頃)

同館が「Flower-Viewing Scene(花見の場面)」の題で所蔵する、1685年頃の墨摺です。大きな屋根の建物の縁側に人びとが腰を下ろし、庭先には連れ立って歩く二人の姿が見えます。松の木や岩も、墨の線だけで表されています。館の題に邦題は記されていないため、原題のまま紹介しています。
なお、師宣は、男女の営みを描く艶本(えんぽん。好色本)も数多く手がけたと、『日本大百科全書』は記しています(50種以上)。本記事では、媒体の方針により、そうした作品の図版や内容には立ち入りません。
色鮮やかな肉筆画。芝居町と遊里、行楽の風景
千葉県の観光サイトの特集によれば、江戸で人気の絵師となった師宣のもとには、絵を描いてほしいと依頼する裕福な人びとが訪れました。そのために描かれたのが肉筆画です。学芸員によれば、肉筆画でも師宣は、歌舞伎の舞台、吉原、隅田川の舟遊びなど、行楽地での庶民の姿を題材に、掛け軸や絵巻、屏風に仕立てました。
肉筆画は、師宣の工房で量産されたと、『世界大百科事典』は説明しています。師宣は長男の師房、師重、師平ら多くの門人を育て、歌舞伎や遊里、上野や隅田川の風俗を主題にした屏風、掛幅(かけじく)、画巻を、類型的な作品として大量に作りました。その中で、師宣自身の筆と推定されているのが、歌舞伎図屏風と『見返り美人図』(いずれも東京国立博物館)だといいます。
『中村座図屏風』(伝菱川師宣、1684〜1704年)

この図は、ボストン美術館が『中村座図屏風』の名で所蔵する屏風です。同館は作者を「Attributed to Hishikawa Moronobu」、つまり師宣の作と伝えられるもの(伝菱川師宣)としており、師宣の筆と断定はしていません。六曲一双のうちの1隻で、時代は貞享から元禄(1684〜1704年)とされ、画面には師宣の印が記録されています。
画面の中ほどから右に、舞台で踊る役者たちと、地面に座って見物する人びとが描かれています。左下には看板を掲げた入口があり、左上には、楽屋とみられる部屋の様子が見えます。金地の背景に、松や桜の木が点在し、芝居小屋の賑わいが一望できる構成です。
一方、東京国立博物館にある『歌舞伎図屏風』(六曲一双)は、2000年に重要文化財に指定された作品です。文化庁の解説によれば、この作品には落款や印がありません。それでも作風から見て、延宝年間(1673〜80年)ごろから元禄年間(1688〜1703年)にかけて江戸で活躍した師宣とその一派による制作とみて誤りがない、とされています。同じ解説は、特別に丹念に作られていることから、裕福な階層の注文による制作と思われ、師宣の直接の監督のもとで作られ、師宣自身が筆をふるった可能性が高い、とも述べています。
文化遺産オンラインに載る東京国立博物館の解説によれば、右隻には中村座の入口と舞台、地面に座って舞台を見上げる観客が、左隻には楽屋と、芝居小屋につながる芝居茶屋の内部が描かれています。高さは170センチで、ふつうの屏風より20センチほど大きいと紹介されています。なお本記事には、権利の確認が取れた図版だけを掲載しているため、この屏風の図版はありません。
この屏風の作者の書き方は、資料によって少しずつ違います。東京国立博物館の表記は「菱川師宣筆」、『世界大百科事典』(改訂新版)は「師宣自身による作品と推定されている」、文化庁の解説は「師宣とその一派による制作」です。落款のない作品なので、書き方に幅があることを知っておくと、解説を読むときに迷わずにすみます。
文化庁の解説は、劇場の櫓幕(やぐらまく)の紋と、看板に名のある役者が上方から江戸へ下った時期から、この屏風が描く景観の年代の上限は元禄3年(1690年)と想定できる、としています。そのうえで、師宣自身が関わっているとすれば、元禄3年から、師宣が没する元禄7年までの間が、制作の時期として可能性が高い、と述べています。
東京国立博物館には、江戸の「二大悪所」、つまり吉原と芝居小屋を題材にした『北楼及び演劇図巻』も所蔵されています。絹本着色、縦32.1センチ、長さ1087.5センチに及ぶ長大な画巻で、文化遺産オンラインによれば、複数の図を集めて一巻にしたもので、各図の最後に、年紀の異なる落款があります。そのうち、日本堤(吉原へ通う道)に犬がいる場面は、寛文12年(1672年)の年紀を伴うとされています。
『Autumn at Asakusa; Viewing cherry blossoms at Ueno Park』(江戸時代・17世紀)

行楽の風景を描いた肉筆画の例が、アメリカのスミソニアン国立アジア美術館(フリーア美術館)が所蔵する、この六曲一双の屏風です。同館は作者を菱川師宣、時代を17世紀とし、紙に墨と彩色、金で描かれていると記録しています。館の題に邦題は記されていないため、原題のまま紹介しています。
館の解説によれば、一方の屏風は秋の浅草で、寺とその周辺、隅田川を行き交う舟が描かれています。もう一方は上野で桜を楽しむ人びとの場面で、寛永寺と不忍池(しのばずのいけ)が描かれています。画面には400人近い人物が描き込まれ、17世紀後半に特有の装いがはっきり見てとれるといいます。館は、この屏風を師宣の最晩年の作とし、1657年の大火から立ち直った江戸の、季節ごとの楽しみを祝う絵として理解すべきだ、と解説しています。
『見返り美人図』。振り向く一瞬にこめた流行
いよいよ、師宣の最も有名な作品です。
『見返り美人図』(江戸時代・17世紀)

東京国立博物館とColBase(国立文化財機構の所蔵品統合検索システム)の記載によれば、『見返り美人図』は絹に色をつけて描いた掛け軸で、大きさは縦63.0センチ、横31.2センチです。時代は「江戸時代・17世紀」と記され、細かな制作年は示されていません。
東京国立博物館の解説は、緋色(ひいろ、明るい赤)の衣裳をまとった美人が、ふと見返る一瞬を描いている、と紹介しています。ColBaseに載る解説は、足を止めて振り返る女性は、こちらからは横顔しか見えないため、そのぶん後ろ姿から、当時のファッションの流行をしっかり楽しめる、と述べています。
では、その流行とは何だったのでしょうか。ColBaseの解説に沿って、見どころを整理してみます。
- 髪型:下げた髪の先を輪に結んだ「玉結び」。この頃に流行した髪型です。髪にさした櫛は、高級品の鼈甲(べっこう)のようだと解説されています。
- 着物:紅色で光沢のある地に、小花模様の地紋が織り出され、大輪の菊と桜の「花の丸模様」が散らされています。これも当時流行した柄です。これらの文様は、鹿の子絞りや絹糸、金糸の刺繍、金箔などで表されたものでしょう、と解説は推測しています。
- 帯:結び目の両端が左右に長く垂れる「吉弥結び(きちやむすび)」。人気の女形(おんながた)役者、上村吉弥(かみむらきちや)が広めた結び方です。
解説は、そのうえで、師宣が着物を刺繍と金銀の箔で飾る縫箔師の家に生まれたことを思えば、こうした細かな表現はお手のものだったろう、と述べています。さきほどの『当世ひいな形』と、この一枚は、一本の線でつながっているように見えます。
これほど贅を尽くした装いの女性が誰なのか、気になるところですが、ColBaseは、モデルは分かっていない、としています。
千葉県の観光サイトで、記念館の学芸員は、この絵を、当時の最新ファッションを見せるための絵だという説がある、と紹介しています。あえて振り向きざまの姿を描いたのは、流行の髪型や帯、着物を見せるためだったのではないか、というのです。制作は師宣の晩年といわれ、そのころ江戸には、力をつけた町人を担い手とする、華やかな元禄文化の風が入ってきていたと、学芸員は語っています。
晩年の作とされる理由のひとつが、落款です。画面の右側には「房陽菱川友竹筆」と墨で書かれています。ColBaseの解説によれば、「房陽」は出身地の房州(千葉)、「友竹」は晩年の雅号です。菱川師宣記念館は、師宣が落款に「房陽」「房國」と冠して、房州生まれの絵師であることを誇示した、と説明しています。
また、館の記録には、銘文として「半面美人図 菱川師宣筆 房州保田産祝髪 号友竹」という書き付けのほか、「廿九/半面美人/ひし川/師宣」という書き付けも記録されています。この絵が、かつては別の名でも呼ばれていたことをうかがわせます。
なお、『見返り美人図』は、切手のデザインとしても知られています。ColBaseの解説も、切手のデザインになったことでも有名な作品、と紹介しています。
『Dancer』(菱川師宣派、メトロポリタン美術館蔵)

最後に、師宣本人の作ではない一枚も見ておきましょう。メトロポリタン美術館の『Dancer(踊り手)』は、黒い着物の女性が身をひねって立つ姿を描いた掛け軸です。同館は作者を「School of Hishikawa Moronobu」、つまり師宣の流派の作としており、制作年は記載していません。
先に見たように、師宣は多くの門人を育て、工房で肉筆画を制作しました。師宣の名とともに伝わる美人画には、このように館が流派の作とするものもあります。『見返り美人図』のように館が「菱川師宣筆」と記す作品とは、分けて見ておく必要があります。
晩年、そして故郷への思い
師宣は、元禄7年(1694年)6月4日、江戸で亡くなりました。記念館によれば、江戸には墓がないことから、遺骨は故郷・保田の菩提寺、別願院(べつがんいん)に葬られたと思われ、墓が建てられたと考えられています。現在の墓は後世に再建されたものです。
亡くなる1か月ほど前の元禄7年5月、師宣は別願院に、親族の供養のための梵鐘(ぼんしょう)を寄進していました。学芸員によれば、その鐘には、祖父、父、母、叔父、子ども、兄弟、さらに使用人にいたるまで、親族の名前が刻まれていたといいます。この鐘は、太平洋戦争のときに金属回収令で供出され、失われてしまいましたが、現在は復元された鐘が、記念館の前にあります。
落款に故郷の名を書き添えたことと合わせて、記念館は師宣を、故郷保田をこよなく愛した絵師として紹介しています。江戸と保田のあいだは、当時、船の便が発達していたため、江戸へ出たあとも、たびたび帰郷していただろうと学芸員は考えています。
師宣が没すると、江戸に構えた工房と、弟子たちによる菱川派は長続きせず、なくなっていった、と学芸員は述べています。『世界大百科事典』は、師宣の画風の影響が、その後の浮世絵に大きく及んだと評価しています。工房は消えても、師宣が切り開いた浮世絵という道は、のちの絵師たちが歩み続けることになりました。
「浮世絵の祖」とは、どういう意味か
師宣は「浮世絵の祖」と呼ばれますが、この言葉の中身には、少し丁寧な説明が必要です。
『日本大百科全書』(浅野秀剛)は、師宣が浮世絵の始祖であるか否かの議論は、まだ決着していない、と述べています。そのうえで、少なくとも師宣は浮世絵版画の祖であり、それ以上に、浮世絵派の原型となる様式を創り上げた功績が大きい、と評価しています。つまり、「すべての始まり」というより、「浮世絵が一つの絵画のジャンルとして成り立つための型を作った人」というのが、正確な見方でしょう。
では、そもそも「浮世絵」の「浮世」とは何でしょうか。学芸員の説明では、浮世とは江戸時代初めのころの流行語で、「今風の」「流行りの」「最新の」といった意味で使われた言葉でした。つまり浮世絵とは、「最新の絵」という意味で、それは師宣の絵のことを指していたと考えられている、といいます。
実際、師宣の絵は、そのときの江戸の最新の姿を描き続けました。吉原と芝居小屋、上野や隅田川の行楽、流行の髪型や帯。『見返り美人図』も、まさにその一枚です。
師宣のあとの時代、浮世絵は多色摺の版画である錦絵へと発展し、鈴木春信、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重といった絵師が登場します。記念館の学芸員は、絵画の楽しさを多くの人に広めたいという師宣の思いが、のちの歌麿や北斎、広重といった絵師に引き継がれていったのではないか、と述べています。ぜひ、本記事の冒頭でご紹介した各記事とあわせてご覧ください。
まとめ
いかがだったでしょうか。
菱川師宣は、安房国保田の縫箔師の家に生まれ、江戸に出て、絵本・挿絵本の絵師として名を上げました。絵を一枚の版画として売り出し、墨摺の『吉原の躰』のような組物を世に送り出し、さらに肉筆画では、歌舞伎図屏風や『見返り美人図』のような、江戸の最新の姿を描き残しました。
生年は分かっておらず、前半生にも謎が多い絵師です。それでも、本の挿絵、版画、肉筆画という三つの場で、江戸の人びとが何を見て、何を着て、どこへ出かけたのかを描き続けた足跡は、作品としてはっきり残っています。
『見返り美人図』は、東京国立博物館の所蔵ですが、常に展示されているわけではありません。2026年10月11日時点の同館のページでは、東博コレクション展での展示予定は「未定」とされています。展示の機会を待つ間は、ColBaseの高精細な画像で、帯や着物の文様をじっくり眺めてみてはいかがでしょうか。師宣の生まれ故郷、千葉県鋸南町には、師宣の作品と浮世絵の歴史を紹介する菱川師宣記念館もあります。
Euphoric " " の視点
寛文12年の『武家百人一首』で、版本としてはじめて絵師「菱川吉兵衛」の名前が記されました。
縫箔師の家に生まれた師宣は、絵を大量に作れる版画として安く売り出し、「大衆のためのアート」という浮世絵のジャンルを確立したと説明されています。
師宣が浮世絵の始祖であるか否かの議論は、まだ決着していないといいます。それでも、浮世絵派の原型となる様式を創り上げた功績は大きいと評価されています。
最初の一人だったかどうかより、あとに続く人が使える型を残したかどうか。師宣の仕事は、その問いの大切さを教えてくれるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- ColBase『見返り美人図』(東京国立博物館所蔵)(2026年10月時点で、東京国立博物館の同作品ページには「東博コレクション展での展示予定は未定」とあります)
- 菱川師宣記念館(千葉県鋸南町)(師宣の生まれ故郷にある公立の浮世絵美術館)
- 文化遺産オンライン 重要文化財『歌舞伎図屏風』(東京国立博物館所蔵)







