【徹底解説】橋口五葉とは?『髪梳ける女』と漱石『吾輩ハ猫デアル』装幀の画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】橋口五葉とは?『髪梳ける女』と漱石『吾輩ハ猫デアル』装幀の画家の人生と作品を解説!
画像:『髪梳ける女』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは橋口五葉という人物をご存知ですか?

明治から大正にかけて活躍した画家で、夏目漱石の小説デビュー作『吾輩ハ猫デアル』の装幀を手がけた人です。のちには浮世絵の伝統を近代の感覚でよみがえらせた木版画に打ち込み、『髪梳ける女』や『化粧の女』などの美人画を残しました。

本を飾る装幀家であり、ポスターを描くグラフィックデザイナーであり、浮世絵の研究者でもあった五葉は、ひとつの肩書きでは語りきれない人です。本記事ではそんな橋口五葉の人生と作品についてご紹介します。

橋口五葉って?

基本情報

本名橋口清(五葉は号)
生年月日(没年月日)1881年(明治14年)12月〜1921年(大正10年)2月24日(人名事典などには、生年月日を1880年12月21日とするものがあります)
国籍/出身日本 鹿児島県鹿児島市樋之口町
学歴白馬会洋画研究所を経て、東京美術学校西洋画科に進み、1905年(明治38年)に首席で卒業
分野装幀・グラフィックデザイン、油彩・日本画、木版画(新版画・私家版)、浮世絵研究
傾向アール・ヌーヴォーを基調とした優美な装幀と、浮世絵美人画の遺産を近代の感覚で再興させた木版画
師事した人物/影響を受けた人物橋本雅邦(日本画)、黒田清輝(洋画を勧めた人物)。鈴木春信・喜多川歌麿(浮世絵研究の対象)、ロセッティ(『髪梳ける女』への影響が指摘されています)

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経歴と作品

鹿児島の五葉松の家に生まれる

鹿児島市樋之口町にある橋口五葉誕生地の石碑
鹿児島市樋之口町にある橋口五葉誕生地の石碑と、鹿児島市の案内板(2025年7月撮影)。案内板は生没年を「1881〜1921」と記しています/撮影:あじさか、CC BY-SA 4.0/出典:Wikimedia Commons

橋口五葉は、鹿児島市樋之口町で生まれました。千葉市美術館の解説によると、士族橋口家の三男で、本名は清です。父は書画に趣味が深く、四条派の筆法にたけていたといい、長兄も次兄も絵をたしなんで、一家で芸術について語り合ったと伝えられています。画家になるには恵まれた環境でした。

生まれた年は1881年(明治14年)です。鹿児島市が誕生地に立てた案内板は「1881年(明治14年)に、ここで生まれました」と記し、鹿児島市立美術館、千葉市美術館の2011年の展覧会、府中市美術館、久留米市美術館も1881年としています。江戸東京博物館の紀要は、明治14年12月の生まれと書いています。

一方で、『20世紀日本人名事典』や『日本人名大辞典』は明治13年(1880年)12月21日の生まれとし、国立国会図書館の典拠データや千葉市美術館の所蔵作品ページも1880年としています。本記事では、出身地の鹿児島市と近年の展覧会の表記にならい、1881年として書き進めます。

生家の広い庭には、樹齢300年ほどになろうかという五葉松がそびえていたそうです。「五葉」という雅号は、この松にちなむといわれています。13歳のころから地元の絵師に狩野派の画法を学び、鹿児島中学校を卒業した1899年(明治32年)、18歳の夏に上京しました。

のちに五葉は、日本画、洋画、装幀、ポスター、浮世絵研究、木版画と、驚くほど広い分野に足を踏み入れます。その出発点には、絵を描くことが特別ではなかった鹿児島の家の空気があったのかもしれません。

上京し、日本画から洋画へ

上京した五葉は、はじめ橋本雅邦に入門して日本画を学びました。ところが、まもなく洋画へと進路を変えます。千葉市美術館の解説では、親戚にあたる黒田清輝から洋画を勧められたといわれています。府中市美術館は、同郷の黒田清輝の勧めで洋画に転じたと記しています。

黒田清輝については、当サイトの徹底解説記事もあわせてご覧ください。五葉はその後、白馬会洋画研究所を経て、1900年(明治33年)に東京美術学校の予備課程へ、翌年に西洋画科の本科へと進みました。

美術学校時代の活動については、よくわかっていない部分が多いといいます。残された油彩には、白馬会の出品作に共通する、紫を多用した淡白な風景がいくつか見られます。けれども五葉は、しだいに物語的で装飾的な絵へと傾いていきました。ラファエル前派の構図や雰囲気からの影響、日本やインドの古代神話への憧れが画面に現れてきます。

こうした転向には、同郷で1902年に『天平時代』を描いた藤島武二や、美術学校の一年先輩で、1903年から神話画を発表しはじめた青木繁の影響があったと考えられている、と千葉市美術館は説明しています。

なお、『日本大百科全書』によると、五葉は最初、霧岳、清水、翠峯と号し、1903年(明治36年)から五葉と改めました。1905年(明治38年)、五葉は東京美術学校を首席で卒業します。そして同じ年、人生を決める仕事が訪れました。

1905年、漱石との出会いと『吾輩ハ猫デアル』

『ホトトギス』第8巻第6号(1905年3月)の表紙
『ホトトギス』第8巻第6号(1905年3月)の表紙。アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum、所蔵番号 RP-P-2005-595-5)の記録は、この号の版画制作者として浅井忠と橋口五葉の名を挙げています/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン・CC0)

夏目漱石と五葉の縁は、五葉の長兄・貢にさかのぼります。貢は、熊本の第五高等学校時代に漱石の教え子でした。五葉は兄を介して漱石と親しくなり、そのなかだちで、俳句雑誌『ホトトギス』に挿絵を寄せるようになります。久留米市美術館によれば、五葉は『ホトトギス』に載った「吾輩は猫である」の挿絵や表紙画も手がけ、新進のイラストレーターとして欠かせない存在になりました。

洒脱で新鮮な造形は漱石を喜ばせ、五葉は漱石の初めての著作『吾輩ハ猫デアル』の装幀を任されます。漱石は美しい本を出したいと願っていて、五葉への書簡には「玉子色のとりの子紙の厚きものに朱と金」で工夫してほしいといった具体的な注文が書かれていたと、千葉市美術館は伝えています。

五葉の答えは、当時としてはかなり思い切ったものでした。久留米市美術館の解説によれば、題名を漢字とカタカナ交じりの「吾輩ハ猫デアル」とし、アール・ヌーヴォーの影響をうかがわせる朱と金の題字の装飾を施しました。表紙の上部には天金を使い、本文はアンカット(未裁断)にして、ペーパーナイフで切りながら読み進める形にしています。

『吾輩ハ猫デアル』上編の扉まわり
夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』上編(大倉書店、1905年)扉まわり。国立国会図書館デジタルコレクションの資料より。五葉は扉にも独自の図案を手がけました(千葉市美術館の解説)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

国立国会図書館の書誌によれば、『吾輩ハ猫デアル』は大倉書店の刊行で、上・中・下の3冊からなり、刊行年は明治38年から40年にわたります。中編と下編の装幀も、五葉が続けて手がけました。

千葉市美術館の学芸員によれば、五葉は漱石の要望にきっちり応え、さらにジャケットや扉、奥付に独自の図案を展開して、本を総合的な視覚芸術へと引き上げました。この本は、近代装本の嚆矢として高く評価されることになります。同じ学芸員は、五葉を見いだした漱石の眼力にも感心させられる、と書いています。

装幀家として、次々と本を飾る

『吾輩ハ猫デアル』のあと、五葉は漱石の本を次々と手がけました。久留米市美術館によれば、『漾虚集』から『行人』に至るまで、いずれも異なる意匠を凝らした11作の「漱石本」です。府中市美術館の解説では、青磁を思わせる色合いの表紙に鉄線の模様が浮かぶ『鶉籠』、表紙に漆塗りを施した『草合』、スエードを用いた『行人』などが挙げられています。

仕事は漱石の本にとどまりませんでした。千葉市美術館の展覧会目録には、泉鏡花の『三味線堀』『銀鈴集』『相合傘』、森鷗外訳の『十人十話』、ツルゲーネフの『浮草』、『アラビヤンナイト物語』など、数多くの装幀本が並びます。府中市美術館は、『浮草』について、表紙や見返しだけでなく本文にまで装飾を施した本だと紹介しています。

特徴について、千葉市美術館の学芸員は、草花や昆虫、魚や鳥などを流れるような曲線で縁取って連続させ、あるいは組み合わせた紋様を挙げています。アール・ヌーヴォーの影響を指摘するのは簡単だが、外来の造形を借りるだけでなく、自分の筆致になるまで咀嚼し、消化しているところが五葉の偉大さだ、とも述べています。

府中市美術館は、五葉の装幀について、職人との協業や素材へのこだわりがあり、本を立体としてとらえたものだと説明しています。ブックデザインという言葉もまだない時代の先駆的な仕事、というのが同館の見方です。仕事は装幀から雑誌の表紙、絵葉書、ポスター、パンフレットへと広がり、日本郵船の乗船名簿やパンフレットの表紙も、千葉市美術館の目録に見られます。

デザインの仕事は、晩年の木版画と並んで五葉の画業を代表するものだ、と鹿児島市立美術館も述べています。初期に学んだ日本画と美術学校での洋画、西洋の装飾芸術、植物の写生、浮世絵など、五葉の多彩な関心から幅広いデザインが生まれた、と同館は説明しています。

1911年、ポスター『此美人』が一等に

五葉の名を全国に広めたのは、ポスターでした。1911年(明治44年)、三越呉服店が主催した懸賞広告に応募した『此美人』が、一等に選ばれます。千葉市美術館の学芸員によれば、当時流行の髪型「二百三高地」を結った意志の強そうな女性が、石版35度摺りという豪華なポスターになり、三越の秋の大売り出しを宣伝しました。賞金は一千円でした。

江戸東京博物館の紀要は、この女性が江戸時代の彩色摺絵本を手にしていることに触れています。顔や手は写実的に描き、着物や帯、椅子や壁には草花を図案化してちりばめる構成には、洋画修業で培った写実表現と、生来得意とする装飾的・平面的な描法とのせめぎあいを見る気がすると、千葉市美術館の学芸員は述べています。

一方で、油彩画の評価は思うように伸びませんでした。府中市美術館の略歴によれば、1907年(明治40年)には、東京勧業博覧会に油彩画による屏風絵『孔雀と印度女』を出品して二等賞を受け、第1回文展では『羽衣』が入選しています。けれどもその後、油彩では評価に恵まれなかったと、千葉市美術館の学芸員は述べています。

『此美人』で自信を得た五葉は、その図案的な造形を日本画で試みたようです。それが、1912年(明治45年)5月の无声会第12回展に出品された『黄薔薇』ではないか、というのが千葉市美術館学芸員の見立てです。『黄薔薇』は白黒写真でしか知られていませんでしたが、2011年の展覧会で、ほぼ100年ぶりに公開されました。翌年の第13回展には『ペリカン』を出品しましたが、当時の展評から判断して高い評価は得られなかったようで、五葉は本画を断念し、浮世絵へ傾いていったと考えられています。

耶馬渓の旅と、浮世絵研究への没頭

橋口五葉『耶馬渓』(水彩)
橋口五葉『耶馬渓』(水彩)ホノルル美術館。同館の記録は1910年としています。千葉市美術館は2011年の展覧会にあたり、耶馬渓の旅を1911年とほぼ確実と見ています/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

五葉は大分の耶馬渓を旅しています。この旅は、従来は1910年(明治43年)と考えられてきました。ところが千葉市美術館の展覧会の準備中に、耶馬渓や大阪の天下茶屋、文楽座、道頓堀などについてつづった自筆の紀行文が見つかり、その日付から、翌年の1911年だったことがほぼ確実になりました。

1年の違いは小さく見えますが、意味があります。1911年なら、春に『此美人』で得た賞金が、6月から始まる約2か月の旅の資金になった、という推測が成り立つからです。これは、千葉市美術館の学芸員が推測として示したものです。

耶馬渓への旅は、五葉に新しい主題を与えました。府中市美術館は、浮世絵の研究を重ね、耶馬渓への旅を契機に、自分で版画を手がけることになったと説明しています。千葉市美術館の目録にも、別府温泉や耶馬渓で描いた1911年ごろの水彩やスケッチが並んでいます。

この時期の五葉は、研究者として浮世絵に向き合いました。千葉市美術館によれば、1914年(大正3年)ごろからのめり込み、まず鈴木春信論や喜多川歌麿論を発表します。江戸東京博物館の紀要には、夏目漱石が1915年(大正4年)6月に知人へ送った手紙に「五葉は浮世絵を研究中ださうです。」と記したことが紹介されています。

江戸東京博物館の紀要は、歌麿の美人画のなかでも、五葉が「木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑ」を高く評価し、複数の論文で傑作として紹介したと述べています。同紀要は、五葉の研究姿勢について、きわめて謙虚で、作品の分析は綿密で実証的だと評しています。その紀要が筆者の仮説として紹介しているのが、同館所蔵の鉛筆素描『本を読む女』です。歌麿の研究から、版画制作への試作として描かれたのではないか、というのです。

同紀要の表には、1915年から翌年にかけて『美術新報』に連載した「歌麿の画に就て」(全10回)や、1916年の『歌麿名画集』の解説など、五葉の歌麿研究が並びます。『世界大百科事典』は、五葉が浮世絵研究家として『浮世絵風俗やまと錦絵』を編纂したと記しています。千葉市美術館の目録では、この資料は『浮世風俗やまと錦絵』(1917〜18年)という表記です。

1915年、渡邊庄三郎と『浴場の女』

浮世絵の研究から、版画の制作へ。転機をつくったのは、版元の渡邊庄三郎でした。『日本大百科全書』によると、渡邊は浮世絵商で、浮世絵の伝統的な木版技術の保存に努めた人物です。五葉は渡邊の勧めで、最初の木版画を発表しました。『世界大百科事典』は、この作品を『浴場の女』(通称「ゆあみ」)としています。

千葉市美術館の解説では、五葉が渡邊と出会ったのは1915年の秋です。自分の下絵を彫師と摺師に託して木版画にするという新しい仕事に乗り出し、翌年のはじめに『浴場の女』が完成しました。いまでは「新版画」と呼ばれる分野の先駆けに位置づけられている作品です。

ただし、五葉自身は出来に満足しなかったようです。千葉市美術館は、下絵師として不満が残ったと見え、五葉は渡邊のもとを離れて、再び浮世絵研究に没頭したと述べています。江戸東京博物館の紀要には、五葉がひどく不満で、完成した100枚を版元の渡邊と折半し、自分の分のほとんどを焼いてしまったという話が記されています。この話は「という」と伝聞の形で紹介されているものです。

『日本大百科全書』は、このころ流行していた創作版画運動との違いにも触れています。創作版画運動は、版画家が下絵から彫刻、摺りまでの全工程を手がけるべきだという考え方でした。五葉はそれに従わず、彫師や摺師の熟練した技術を借りて、春信や歌麿など浮世絵美人画の遺産を近代的な感覚でよみがえらせた、と同書は説明しています。

素描を積み重ねる日々

『浴場の女』のあと、五葉は何をしていたのでしょうか。千葉市美術館の学芸員によれば、五葉は1916年(大正5年)の4月から亡くなる直前まで家計簿をつけていて、同じ年の7月以降、「モデル」にしばしば賃金を払っています。公募展への出品をやめ、装幀などの仕事も減っていく時期のことです。

その間の姿を伝えるのが、総数何千枚ともいわれる鉛筆の素描です。千葉市美術館の小林忠館長(当時)は、女性のモデルをあらゆる角度から写したそれらの素描を、浮世絵美人を近代によみがえらせようとした苦闘の跡だと書いています。モデルに同じポーズを繰り返しとらせ、修正と純化を重ねながら、やがて墨線になるべき一本の線を探していた、というのが同館の学芸員の見立てです。

そして1918年(大正7年)、五葉は自分で彫師と摺師を抱え、制作を監督する「私家版」の木版画に入ります。『耶馬渓』と『化粧の女』が、この年の作品です。

1918年『化粧の女』

『化粧の女』は、手鏡を見ながら白粉を肌に刷く女性を描いた作品です。千葉市美術館が所蔵名品展のチラシに使った代表作で、同館の小林忠館長(当時)は、顔や身体の輪郭には細くしなやかな線を、着物の衣文線には肥痩の変化が急で勢いのある線を使い分けていると述べています。

海外にも所蔵があります。メトロポリタン美術館は、この作品を Woman Applying Makeup の英題で所蔵し(所蔵番号 2024.334)、制作年を1918年(大正7年)としています。なお、この作品は肩から胸もとにかけて肌を見せた姿を描いているため、本記事では図版を掲載していません。

江戸東京博物館の紀要によると、『化粧の女』と『夏衣の女』でモデルをつとめたのは、中谷つるという女性です。千葉市美術館の目録では、『化粧の女』の寸法は縦51.0cm、横36.3cmです。

『日本国語大辞典』も、五葉の代表作として『化粧の女』を挙げています。

1920年『髪梳ける女』

橋口五葉『髪梳ける女』(1920年)
橋口五葉『髪梳ける女』(1920年・大正9年)ウォルターズ美術館(米国メリーランド州、所蔵番号 95.880)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。同館はCC0で公開)

『化粧の女』とともに五葉の代表作とされるのが、1920年の『髪梳ける女』です。千葉市美術館の小林忠館長(当時)は、豊かな黒髪をくしけずりながら物思う女性、と描写しています。同じ文章は、これらの版画では髪の毛の一本一本をうねるように引く極細の線が使われている、とも述べています。

千葉市美術館の所蔵作品解説によると、モデルは、ほかの作品でもモデルをつとめた小平とみです。五葉はロセッティの描く女性の首から肩の線を好んだといい、この作品にはロセッティの『レディ・リリス』からの影響が指摘されています。そのうえで同館は、五葉は影響源に引きずられることなく、自分の揺るぎない美意識でそれを手なずけ、伝統木版の彫りと摺りによって自然に消化していると評しています。

解説は、その無垢な表情が、五葉が鈴木春信の美質として語った言葉を思い出させるとも述べています。五葉が春信を評した言葉は、「おだやかで苦しみも知らない、うぶな感じのする女」というものでした。試行錯誤の果てに形にした理想の女性像だ、と同館は結んでいます。

鈴木春信については、当サイトの徹底解説記事もご覧ください。浮世絵の研究者でもあった五葉が、春信の中に何を見ていたのかを考えると、この作品の見え方が少し変わるかもしれません。

『髪梳ける女』を所蔵するのは、千葉市美術館のほか、鹿児島市立美術館、江戸東京博物館などです。府中市美術館は、五葉の新板画を、スティーヴ・ジョブズも愛したと言われる珠玉の作品の数々と紹介しています。

1920年、ほかの美人画と鴨

1920年、五葉はたて続けに私家版を完成させます。千葉市美術館の展覧会目録によると、この年の作品には、『神戸之宵月』『京都三条大橋』『雪の伊吹山』といった風景のほか、『盆持てる女』『紅筆持てる女』『髪梳ける女』『長襦袢の女』『夏衣の女』『浴後之女』と、『鴨』があります。

『長襦袢の女』は、千葉市美術館の目録によれば縦46.9cm、横13.5cmの細長い画面です。『日本大百科全書』は、『化粧の女』『髪梳ける女』とともに、この作品を代表作に挙げています。この節では、権利と掲載方針の確認が取れた図版のみを掲載しています。

橋口五葉『紅筆持てる女』(1920年)
橋口五葉『紅筆持てる女』(1920年・大正9年)ウォルターズ美術館(米国メリーランド州、所蔵番号 95.879)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。同館はCC0で公開)

『紅筆持てる女』は、手鏡をのぞきながら唇に紅を差す女性の姿です。ウォルターズ美術館は、英題を Woman Applying Color to Her Lips としています。日本髪の飾りや、緑の着物の柄が、細かく描き分けられています。千葉市美術館の目録には、この作品の版下絵と画稿も載っています。

橋口五葉『盆持てる女』(1920年)
橋口五葉『盆持てる女』(1920年・大正9年)ウォルターズ美術館(米国メリーランド州、所蔵番号 95.882)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。同館はCC0で公開)

『盆持てる女』は、朱塗りの盆を体の前に持つ女性を描いています。ウォルターズ美術館の英題は Waitress with a Red Tray です。千葉市美術館の目録によれば、同館の所蔵品は縦38.3cm、横25.3cmです。

橋口五葉『手拭持てる女』(1920〜1921年)
橋口五葉『手拭持てる女』(1920〜1921年)ウォルターズ美術館(米国メリーランド州、所蔵番号 95.876)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。同館はCC0で公開)

『手拭持てる女』は、黒地に蝶の柄の着物を着た女性が、手拭を胸もとに引き寄せて横を向く姿です。千葉市美術館の目録は、この作品を「1920(大正9)年(1921年完成)」と記しています。ウォルターズ美術館も、制作年を1920〜1921年としています。

『鴨』は、千葉市美術館の目録に私家版木版の1点として載っています。ボストン美術館もこの作品を所蔵し、英題を Two Ducks、制作を1920年(大正9年)8月としています。五葉の版画というと美人画の印象が強いのですが、『日本大百科全書』は、風景画や花鳥画の版画も残したと書いています。千葉市美術館の目録には、1920年の『文鳥と柿』、1920年ごろの『インコと桃』といった水彩も並んでいます。

なお、作品の点数は、館によって記述が違います。鹿児島市立美術館は、生前に完成した私家版木版画は11点のみだったと記しています。府中市美術館は、生前に制作された作品は13点としています。

1921年、早すぎる死

千葉市美術館の学芸員によると、五葉は生まれつき病弱でした。1920年(大正9年)の暮れにかかった流行性の感冒から中耳炎を発し、脳膜炎を併発して、翌年に亡くなります。『20世紀日本人名事典』によれば、没日は1921年(大正10年)2月24日です。

亡くなったときの年齢は、資料によって書き方が違います。鹿児島市立美術館は「39歳」、千葉市美術館のニュースは「満40歳」、千葉市美術館の展覧会ページと府中市美術館は「41歳」としています。1881年12月の生まれとして数えると、満39歳での死でした。

千葉市美術館の学芸員は、私家版の実質的な制作期間は3年足らずで、完成した作品は11点に過ぎなかったと述べています。ひとつのジャンルに収まらない多才さのためか、画業が未完のまま終わったためか、五葉は優れた仕事を残しながら、あまり研究が進んでいない作家だとも、2011年の時点で書いています。

五葉の没後と、甥・橋口康雄

鹿児島市立美術館によると、五葉は生前に、少なくともあと18点の作品の構想を抱いていました。没後に五葉芸術の継承へ大きく寄与したのが、五葉の長兄・貢の息子で、甥にあたる橋口康雄です。東京美術学校の西洋画科で学び、イギリスでエッチングやリトグラフ、木版画を学んだ人物です。

康雄は1948年(昭和23年)に五葉版画研究所を設立しました。自分の制作のかたわら、五葉の原稿や版木の整理、作品の再版、残されていた主版や版下絵の版画化などに尽力した、と同館は伝えています。千葉市美術館の目録には、『温泉宿』と『夏装之娘』が「1920年(1952年完成)」と記されています。五葉が構想を残した作品が、没後30年あまりを経て完成した例です。

五葉の名は、いまも展覧会で呼び戻されています。鹿児島市立美術館は、生誕140年・没後100年を記念して、2021年から2022年にかけて全5回の特集展示を行いました。2025年には府中市美術館と久留米市美術館が「橋口五葉のデザイン世界」展を開いています。

橋口五葉の年表

年出来事
1899年(明治32年)上京し、橋本雅邦に入門
1900年(明治33年)東京美術学校の予備課程へ。翌年、西洋画科の本科へ
1905年(明治38年)東京美術学校を首席で卒業。『吾輩ハ猫デアル』の装幀を手がける
1907年(明治40年)『孔雀と印度女』が東京府勧業博覧会で二等賞。『羽衣』が第1回文展に入選
1911年(明治44年)三越呉服店の懸賞に応募した『此美人』が一等に。耶馬渓を旅する
1912年(明治45年)无声会第12回展に『黄薔薇』を出品
1915年(大正4年)秋に渡邊庄三郎と出会い、『浴場の女』の制作に取りかかる
1916年(大正5年)はじめに『浴場の女』が完成
1918年(大正7年)私家版の制作を始める。『耶馬渓』『化粧の女』
1920年(大正9年)『髪梳ける女』『長襦袢の女』『紅筆持てる女』『盆持てる女』『鴨』などを完成
1921年(大正10年)2月24日に没
1948年(昭和23年)甥の橋口康雄が五葉版画研究所を設立
1952年(昭和27年)『温泉宿』『夏装之娘』が版画として完成

まとめ

いかがだったでしょうか。

橋口五葉は、鹿児島の、絵に親しむ家に生まれ、日本画と洋画を学んだのち、1905年に『吾輩ハ猫デアル』の装幀で世に出ました。漱石や鏡花らの本を飾り、1911年にはポスター『此美人』で一等を得て、デザイナーとして名を知られます。

やがて浮世絵の研究に没頭し、渡邊庄三郎との『浴場の女』を経て、自分で彫師と摺師を抱える私家版の木版画へ進みました。『化粧の女』『髪梳ける女』などの作品は、春信や歌麿が描いた美人の伝統を、大正という時代の感覚でよみがえらせたものです。

けれども五葉は1921年、私家版の制作に入ってから3年足らずで世を去りました。完成した作品の数は少ないものの、装幀、ポスター、版画のどれもが、いまも展覧会で呼び戻されています。気になった作品があれば、まずは公式サイトで所蔵館の情報を確かめてみてください。

Euphoric " " の視点

五葉は、外来の造形を借りるだけでなく、自分の筆致になるまで咀嚼し、消化していると評されています。

公募展への出品をやめ、装幀などの仕事も減っていく時期、彼は「モデル」にしばしば賃金を払っていました。同じポーズを繰り返しとらせ、やがて墨線になるべき一本の線を探していた、というのが学芸員の見立てです。

私家版の実質的な制作期間は3年足らずで、完成した作品は11点に過ぎなかったといいます。

数を残すことより、一本の線が決まるまで待つこと。五葉の仕事は、少ない作品でも密度が人に届くのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。作品が常に展示されているとは限りません。

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