【徹底解説】ミルトン・グレイザーとは?「I ♥ NY」を生んだデザイナーの人生と作品を解説!

【徹底解説】ミルトン・グレイザーとは?「I ♥ NY」を生んだデザイナーの人生と作品を解説!
写真:ミルトン・グレイザー本人の肖像(Cooper Hewitt/CC BY 3.0/Wikimedia Commons。文字入れ)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはミルトン・グレイザーという人物をご存知ですか?

20世紀後半のアメリカを代表するグラフィックデザイナーです。「I ♥ NY」のロゴを手がけた人、と聞けば、名前は知らなくても、その仕事を目にしたことがある方は多いはずです。全米芸術基金(NEA)は、グレイザーを、アイデアやデータ、抽象的なものを、すぐにそれと分かるアイコンに変えた人物として紹介しています。

グレイザーの面白さは、ロゴの形そのものよりも、都市や雑誌、ポスター、レストラン、学校といった、人びとが暮らす場所をまるごとデザインの対象にしたところにあります。ひとつの文体にとどまらず、仕事ごとに表現を変え続けたことも特徴です。

本記事ではそんなミルトン・グレイザーの人生と作品についてご紹介します。なお、グレイザーは没後70年を経ていないため、作品の画像は、著作権法で認められた「引用」の範囲で、解説している作品に限って載せています。ロゴやポスターの権利は、それぞれの権利者にあります。

ミルトン・グレイザーって?

グレイザーの仕事は、ポスターやロゴにとどまりません。雑誌の誌面設計、新聞の全面改装、企業のアイデンティティ、スーパーマーケットやレストランの空間、そして学校での教育まで、幅広い領域に及びます。まず、その広がりを図で見てみましょう。

ミルトン・グレイザーの仕事の広がりを示す図。中心にミルトン・グレイザーを置き、ポスター、雑誌、ロゴ、空間のデザイン、教えることの5つがまわりを囲んでいる。
図:ミルトン・グレイザーの仕事の広がり

ブリタニカ百科事典は、グレイザーを、アメリカのグラフィックデザイナー、イラストレーター、そして革新的なプッシュピン・スタジオの共同創設者と紹介しています。雑誌のアートディレクション、パッケージ、企業のビジュアル・アイデンティティ、ファインアート、店舗やレストランのデザインまで、活動の幅は広がっていった、とも記しています。

クーパー・ヒューイット(スミソニアン・デザイン博物館)は、2004年の生涯功労賞の紹介文で、グレイザーの仕事の特徴を、手仕事の巧みさ、物語を語る楽しさ、そして喜びの感覚だと述べています。グレイザー自身は、かたちをつくることを「人類にとって、生を豊かにする最高の贈りもの」と見ている、とも紹介されています(参考訳)。

基本情報

本名ミルトン・グレイザー(Milton Glaser)
生年月日(没年月日)1929年6月26日〜2020年6月26日(ニューヨーク市ブロンクス生まれ、ニューヨークで没、享年91)
国籍・出身アメリカ/ニューヨーク市ブロンクス生まれ
学歴ハイスクール・オブ・ミュージック・アンド・アート、クーパー・ユニオン(1951年卒)、フルブライト奨学金でボローニャの美術アカデミーに留学
分野グラフィックデザイン、イラストレーション、ポスター、雑誌デザイン、企業のロゴとアイデンティティ、環境・空間のデザイン、教育
傾向ユーモア、物語性、装飾、歴史や他の文化の引用を取り入れ、仕事ごとに表現を変える
師事した人物・影響を受けた人物ボローニャで画家ジョルジョ・モランディに学びました。ブリタニカ百科事典は、子どものころに好きだった漫画、近代美術、非西洋の美術から着想を得たと記しています

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経歴と作品

ブロンクスから、クーパー・ユニオンとボローニャへ(1929〜1953年)

グレイザーは1929年6月26日、ニューヨーク市のブロンクスに生まれました。ニューヨークの音楽・美術のハイスクール、ハイスクール・オブ・ミュージック・アンド・アートで学び、1951年にクーパー・ユニオンを卒業します。公式サイトは、グレイザーが、世界でも指折りの学校でデザインを学べたことを、ずっと感謝していたと記しています。

卒業後は、フルブライト奨学金で、イタリアのボローニャにある美術アカデミーへ留学します。ブリタニカ百科事典によれば、1952年から53年にかけて、画家のジョルジョ・モランディのもとで版画を学びました。

グレイザーは後年も、この留学の縁を大切にしていました。公式サイトの年表には、1989年にボローニャで、モランディとグレイザーの二人展が開かれたと記されています。師の作品と並んで、自分の作品を展示したことになります。

ここで注目したいのは、グレイザーが、商業デザインの人でありながら、絵を学ぶ時間を最初に持っていたことです。のちにグレイザーは、絵を描くことを熱心に勧めます。それは、イラストレーターになるためではなく、描くことで、ものをよく見るようになるからだ、と語っています(後述の講演より)。

プッシュピン・スタジオ:デザインに物語と笑いを持ち込む(1954年〜)

1954年、グレイザーは、シーモア・クワスト、レイノルド・ラフィンズ、エドワード・ソレルとともに、ニューヨークでプッシュピン・スタジオを設立します。ブリタニカ百科事典は、当時、写真とテレビが視覚コミュニケーションの世界を大きく変え、写実的なイラストレーションが主役の座を降りつつあった時期だと説明しています。

プッシュピンの作家たちは、子どものころに好きだった漫画、学生時代に学んだ近代美術、非西洋の美術から着想を得て、新しい発想のデザインをつくりました。物語を順に説明するのではなく、単純化した絵を、記号や象徴として働かせたのが特徴です。

クーパー・ヒューイットは、プッシュピンの設立を、当時の主流だった、バウハウス以後の考え方とは別の見方を示すためでもあった、と説明しています。特徴は、ユーモア、物語性、装飾、歴史の引用、パロディです。プッシュピンの仕事は、パリのルーヴルにある装飾美術館で展示され、のちに世界中で真似されました。

プッシュピン・スタジオの特徴を示す図。ユーモアとパロディ、物語性、装飾、歴史の引用という4つの特徴がカードで並んでいる。
図:プッシュピン・スタジオの特徴

公式サイトによれば、グレイザーは、クワストとともに、20年にわたってスタジオを率いました。ブリタニカ百科事典は、1960年ごろには、二人が、文字と、視覚コミュニケーション全体のデザインにいっそう関わるようになったと述べています。ひとりのデザイナーが、コンセプト、ページ全体の設計、文字、絵のすべてを手がけるやり方で、アール・ヌーヴォーの時代の、ジュール・シェレやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックといったポスター作家の仕事ぶりを思わせる、という説明です。

『Dylan』(1967年)

グレイザーの名を広く知らしめた作品のひとつが、1967年のアルバム『Bob Dylan’s Greatest Hits』に付けられたポスターです。ポンピドゥー・センターの解説によれば、コロンビア・レコードのアートディレクター、ジョン・バーグが、各盤に折りたたんで入れるポスターを、グレイザーに依頼しました。

この時点で、グレイザーが手がけたポスターは、3、4点にすぎず、まだ無名に近い存在だったそうです。制作の年は資料で分かれています。ポンピドゥー・センターは作品の年を1966年とし、ブリタニカ百科事典は、1967年のレコードの付録ポスターと記しています。本記事では、アルバムの発売年である1967年を示します。

図柄は、黒いシルエットの横顔に、色の帯が渦を巻く髪を重ねたものです。ポンピドゥー・センターによれば、着想のひとつは、マルセル・デュシャンの1957年の自画像(横顔を描いたもの)でした。ブリタニカ百科事典は、輪郭のはっきりした線と平らな色面で、象徴的なイメージをつくったと説明しています。

ポンピドゥー・センターは、この色づかいが、当時のカウンターカルチャーのロック・ポスターに通じるとし、グレイザー自身が、アール・ヌーヴォーの画家オーブリー・ビアズリーの視覚効果を着想源に挙げていたことも紹介しています。画面の右下に置かれた「DYLAN」の文字は、グレイザーがこの作品のためにつくった書体で、ブリタニカ百科事典は、その書体をBabyteeth(ベイビーティース)と呼んでいます。

ポスターが折りたたまれて入っていた『Bob Dylan’s Greatest Hits』は、600万枚以上が売れたとされます。ポスターは広く知られる存在になり、いまはコレクターの人気も高く、グレイザーのスタジオから、公認の復刻版も出ています。

黒いシルエットの横顔の上に、赤、青、緑、橙、白の帯が渦を巻く髪が広がるポスター。右下に茶色の太い文字でDYLANと入っている。
ミルトン・グレイザー『Dylan』(1967年、アルバム『Bob Dylan’s Greatest Hits』付録ポスター)。画像は公認復刻版(Authorized Reproduction、2008年)。© Milton Glaser。画像出典:ミルトン・グレイザー公式サイト(引用)

『Give Earth a Chance』(1970年):ポスターで社会に呼びかける

グレイザーのポスターは、音楽や劇場、美術館のためのものだけではありません。公式サイトによれば、グレイザーが手がけたポスターは、出版、音楽、演劇、映画、公共の仕事、商品など、あらゆる分野で300点を超えます。

1970年の『Give Earth a Chance』は、グレイザー自身が「最初の環境ポスター」と呼ぶ作品です。公式サイトの説明で、グレイザーは、主題は妥当だったが、まだ先は長い、と振り返っています(参考訳)。画面は、青い壁と緑の床の部屋に、地球がひとつ浮かんでいる構図で、右端には月が見えます。ポスターには、団体名として、Environmental Action Coalition(環境行動連合)の文字が入っています。

地球を、部屋の中にそっと浮かべて見せています。大きな言葉で訴えず、絵の不思議さで足を止めさせるところに、物語を語るプッシュピン以来の持ち味が出ていると考えます。

青い壁と緑の床の部屋に地球が浮かび、右端に月が見えるポスター。上部にGIVE EARTH A CHANCE、下部にEnvironmental Action Coalitionの文字がある。
ミルトン・グレイザー『Give Earth a Chance』(1970年)、ポスター。© Milton Glaser。画像出典:ミルトン・グレイザー公式サイト(引用)

都市の雑誌をつくる:『New York』(1968年〜)

1968年、グレイザーは、編集者のクレイ・フェルカーとともに、雑誌『New York』を創刊します。グレイザーは、デザインディレクターを務め、公式サイトは1977年まで、ブリタニカ百科事典は1976年までと記しています。資料で年が割れていますので、1970年代後半までと考えておくのが無難です。

クーパー・ヒューイットは、『New York』を、全米の都市雑誌と、生活に役立つジャーナリズムの原型になった、と評価しています。公式サイトも、この雑誌が都市雑誌の手本となり、数多くの後続誌を生んだと説明しています。

雑誌には、グレイザーとジェローム・スナイダーが書いた、安くておいしい店を紹介するコラム『The Underground Gourmet』も載りました。公式サイトによれば、6、7年ほど続き、誌面でもっとも人気のあったコラムのひとつでした。デザイナーが、文章を書き、読者の生活に役立つ情報を届けていたことが分かります。

1975年から77年にかけては、新聞『The Village Voice』の副社長兼デザインディレクターも務めました(ブリタニカ百科事典)。ここに挙げた2つの媒体は、どちらも、ニューヨークという都市そのものを読者に向けて編集する仕事でした。

『I ♥ NY』(1976〜77年):都市のためのロゴ

グレイザーの名を、もっとも広く知らしめた仕事が、『I ♥ NY』のロゴです。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の解説によれば、1975年2月、ニューヨーク市は10億ドル規模の赤字と破産の懸念に直面し、30万人の人員削減も重なって、街に希望を注ぐ必要がありました。ヒュー・ケアリー知事は、それでも人びとはニューヨークを愛している、と指摘したそうです。

ニューヨーク州商務局と、副局長のウィリアム・S・ドイルは、広告代理店のウェルズ・リッチ・グリーンに、街のイメージを立て直し、観光を盛り上げるキャンペーンを依頼しました。そのキャンペーンを、図に起こす役目を任されたのが、ニューヨーク生まれのグレイザーでした。

I ♥ NYができるまでの流れを示す図。1975年の街の状況、州商務局と代理店への依頼、グレイザーへの依頼、1976年のスケッチ、1977年の初使用が順に並んでいる。
図:『I ♥ NY』ができるまで

MoMAの記録によれば、グレイザーの最初のスケッチは1976年のもので、封筒に描かれました。クーパー・ヒューイットの記事は、赤いクレヨンで、ニューヨーク商工会議所のために描いたものと紹介し、グレイザーが報酬を受け取らずに引き受けた、とも書いています。

完成したロゴは、アメリカン・タイプライターという書体で組まれています。MoMAは、グレイザーが、これを木の幹に彫った愛の告白のようなものに例えた、と記しています(参考訳)。「I」「ハート」「N」「Y」の4つだけで、言葉と気持ちを、ひと目で伝える形です。

MoMAによれば、この商標は、ニューヨーク州経済開発局が所有しており、最初の公開使用は1977年です。世界でもっとも知られ、もっとも真似されたロゴのひとつとなり、ほかの場所や人、ものへの愛情を表すひな形にもなりました。ここでは、MoMAが所蔵する最初のスケッチを紹介します。

クリーム色の紙に、赤いクレヨンで大きく描かれたI、ハート、N、Yの4つの記号。下の縁が破れた紙に、勢いのある線でI ♥ NYと書かれている。
ミルトン・グレイザー『I ♥ NY concept sketch』(1976年)、紙の封筒にインクとテープ(MoMAの記録による)、7.3 × 9.2 cm、所蔵:ニューヨーク近代美術館(MoMA)、作家からの寄贈(388.2009)。© Milton Glaser。画像出典:MoMA 作品ページ(引用)

2001年、グレイザーは、このロゴに言葉を足した「I ♥ NY More Than Ever」を発表しました。MoMAには、そのリトグラフも収められています。さらに、公式サイトのケーススタディによれば、のちに航空会社ジェットブルーのロゴと組み合わせる仕事もあり、グレイザーは、この二つのロゴが、もともと一緒にいたかったように見せることが課題だった、と述べています(参考訳)。

自分のスタジオと、雑誌・新聞のデザイン(1974年〜)

1974年、グレイザーは、ニューヨークのマンハッタンに、自分の名を冠したミルトン・グレイザー社を設立します。公式サイトによれば、スタジオは、ロゴや書類、パンフレット、サイン、年次報告書などのアイデンティティから、展示、レストラン、商業施設の内外装まで、さまざまな分野を手がけました。

1983年には、アートディレクターのウォルター・バーナードと、出版物のデザイン会社WBMGを立ち上げます。公式サイトによれば、50を超える雑誌や新聞などを手がけ、『ワシントン・ポスト』、バルセロナの『ラ・バングアルディア』、リオデジャネイロの『オ・グローボ』の3紙を全面的に改装しました。ブリタニカ百科事典の写真の説明によれば、グレイザーは、1983年に再創刊した『ヴァニティ・フェア』の創刊号の表紙も手がけています。

空間の仕事も、広がりました。公式サイトによれば、スタジオは、約15年にわたって、アメリカのスーパーマーケットチェーン、グランド・ユニオンの建築、内装、パッケージの刷新に関わりました。1987年には、ロックフェラー・センターのレインボー・ルームの、グラフィック計画も担当しています。1987年から88年のミラノ・トリエンナーレでは、展示の内装とコンセプトに責任を持ちました。

1993年には、トニー・クシュナーの戯曲『Angels in America』のロゴもデザインしています。ロゴ、雑誌、新聞、スーパーマーケット、レストランと、並べてみると、グレイザーが、かたちの種類にこだわらず、人が出会う場所を、まるごと設計しようとしていたことが分かります。

ミルトン・グレイザーの歩みを示す図。1954年にプッシュピン、1968年に雑誌New York、1974年に自分のスタジオ、1977年にI ♥ NYの初使用、1983年にWBMGの設立が並んでいる。
図:ミルトン・グレイザーの歩み

ブルックリン・ブルワリー:街の名前をそのまま看板にする

グレイザーの仕事を、ロゴで追う場合、もうひとつ挙げておきたいのが、ビール会社ブルックリン・ブルワリーです。公式サイトのケーススタディによれば、創業者のスティーヴ・ヒンディとトム・ポッターは、会社のアイデンティティを求めて、グレイザーを訪ねてきました。二人は、「ブルックリン・イーグル」という名前を望んでいましたが、グレイザーは、「なぜ鳥を売るのですか。あなたたちには、区まるごとがあるのに」と答えたそうです(参考訳)。

こうして、名前は「ブルックリン」になりました。ブルックリン・ブルワリーの公式サイトの沿革にも、最初の1回分のブルックリン・ラガーを、ウィリアムズバーグの店に届けたとき、瓶にはグレイザーのデザインしたロゴが付いていた、と記されています。公式サイトは、グレイザーを、ブルックリンにビールづくりを取り戻す二人の使命を、早くから信じた人、と紹介しています。

ロゴは、緑の円の中に、筆記体の「B」を置き、そのまわりを、黒い輪が囲む形です。黒い輪には、白い大文字で「BROOKLYN BREWERY」と入り、左右に黄色い丸が置かれています。スタジオは、広告、販促物、パッケージのすべてを、2017年の初めまで手がけたそうです。グレイザーのスタジオは、この名前の選び方が、ブルックリンを、全米でもっとも手づくりビールの盛んな地域へと促した、と説明しています。

緑の円の中に白い筆記体のBを置き、黒い輪に白い大文字でBROOKLYN BREWERYと入れたロゴ。輪の左右に黄色い丸が付いている。
ミルトン・グレイザー、ブルックリン・ブルワリーのロゴ(制作年は未確認)。ロゴの権利は同社に帰属します。画像出典:ミルトン・グレイザー公式サイト(ケーススタディ)(引用)

教える人としてのグレイザー

グレイザーは、実務と並んで、教育にも長く関わりました。公式サイトによれば、1961年から、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ(SVA)で教え、理事も務めています。母校クーパー・ユニオンの理事でもありました。

ほかにも、1972年から国際デザイン会議(アスペン)に関わり、1990年から91年にかけて会長を務めました。アメリカ・グラフィックアーツ協会(AIGA)では、副会長を務め、1989年の全国大会の共同議長にもなっています。

SVAについて、公式サイトは、その広報物が、ほとんど教員の手でつくられ、いつも高い水準を保っている、と紹介しています。教える人が、つくる人であり続けること。グレイザーの教育観は、実務と切り離されていなかったと考えます。

『Ten Things I Have Learned』:考え方を言葉にする

グレイザーは、つくるだけでなく、考えたことを言葉にする人でもありました。公式サイトの「エッセイ」には、AIGAの講演などが並んでいます。2001年11月11日、ロンドンでのAIGAの講演の一部が、「Ten Things I Have Learned(私が学んだ10のこと)」です。ここでは、その中から4つを紹介します。

ひとつめは、「好きな人としか仕事をしない」という話です。グレイザーは、キャリアの初めには、クライアントと親しくならないことが職業人らしさだと考えていたが、のちに、意味のある仕事は、いつも、クライアントとの親愛の情から生まれたと気づいた、と述べています(参考訳)。

ふたつめは、「プロフェッショナリズムだけでは足りない」です。グレイザーは、プロであることは、多くの場合、リスクを減らすことだと説明し、創造の分野に必要なのは、失敗の可能性を含む「絶え間ない逸脱」だと述べています(参考訳)。

三つめは、「Less is more(少ないほうが豊か)」への疑問です。グレイザーは、ペルシャ絨毯のようなものを見れば、色や形の変化のひとつひとつが必要で、少ないほうが豊かとは言えないと述べ、代わりに「Just enough is more(ちょうどよい量が、より豊かにする)」を提案しています(参考訳)。

四つめは、「スタイルは信用してはいけない」です。グレイザーは、ピカソが雄牛を12の様式で描いた版画を例に、様式は本質ではなく、ひとつの様式に忠誠を誓うのは筋違いだと述べています(参考訳)。プッシュピン以来、仕事ごとに表現を変えてきたグレイザー自身の姿とも重なります。

グレイザーの講演『Ten Things I Have Learned』から4つの言葉を紹介する図。好きな人と働く、プロだけでは足りない、ちょうどよい量が豊かにする、スタイルを信用しない、の4つ。
図:『Ten Things I Have Learned』から

受けた評価と、いま残るもの

グレイザーは、多くの評価を受けました。公式サイトによれば、1975年にMoMAで、1977年にポンピドゥー・センターで個展が開かれています。NEAは、グラフィックの作家として、この両方で個展を開いたのは、グレイザーだけだと紹介しています。

2004年には、クーパー・ヒューイット国立デザイン賞の生涯功労賞を受けました。2009年には、アメリカの国家芸術勲章(National Medal of Arts)が贈られ、2010年2月25日、ホワイトハウスで、バラク・オバマ大統領から授与されています(NEA)。ドキュメンタリー映画『To Inform and Delight』(2008年)でも取り上げられました(ブリタニカ百科事典)。

年出来事
1929年ニューヨーク市ブロンクスに生まれる
1951年クーパー・ユニオンを卒業
1952〜53年ボローニャでモランディに学ぶ
1954年プッシュピン・スタジオを設立
1961年SVAで教え始める(公式サイト)
1967年『Bob Dylan’s Greatest Hits』の付録ポスター『Dylan』
1968年雑誌『New York』を共同創刊
1974年ミルトン・グレイザー社を設立
1975年MoMAで個展
1976〜77年『I ♥ NY』(スケッチは1976年、初使用は1977年)
1977年ポンピドゥー・センターで個展
1983年WBMGを設立
2004年クーパー・ヒューイット国立デザイン賞の生涯功労賞
2009年国家芸術勲章(授与式は2010年2月)
2020年没

ミルトン・グレイザーの仕事から学べること

グレイザーの仕事を見ていて、まず印象に残るのは、依頼主が個人や企業でなく、都市であっても、ひとつの区であっても、同じ姿勢で向き合っているところです。『I ♥ NY』では都市の気持ちを、ブルックリン・ブルワリーでは区の名前を、そのまま看板にしました。

そこには、足し算ではなく、本当に必要なものを見極める目があったと考えます。「Just enough is more」という言葉は、削ればよいという話ではありません。多すぎても、少なすぎてもいけない。そのちょうどよさを探すことが、仕事の核だったように思います。

もうひとつは、様式への距離の取り方です。グレイザーは、スタイルを信用するなと言い、仕事ごとに表現を変えました。自分の型を持つことと、型に縛られないこと。この二つの間で、長いあいだ揺れ続けた人だったのだと、講演の言葉から読み取れます。

そして、人との関わり方です。好きな人と仕事をすること、親愛の情から意味のある仕事が生まれること。デザインを、技術だけでなく、人と人の関係として見ていたことが、10の言葉の最初に置かれているのは、象徴的だと思います。

まとめ

いかがだったでしょうか。ミルトン・グレイザーは、ブロンクスに生まれ、クーパー・ユニオンとボローニャで学び、1954年にプッシュピン・スタジオを共同で設立したデザイナーです。『Dylan』のポスター、雑誌『New York』、『I ♥ NY』、ブルックリン・ブルワリーなど、時代と場所に合わせて、表現を変えながら仕事を続けました。

SVAでの教育や講演を通して、考え方を言葉にし続けたことも、グレイザーの大きな仕事でした。身のまわりのロゴや雑誌、ポスターを眺めるとき、その背後に、こうした姿勢があると思ってみると、見え方が少し変わるかもしれません。

Euphoric " " の視点

グレイザーは、商業デザインの人として知られます。けれども出発点には、絵を学ぶ時間がありました。フルブライト奨学金でボローニャの美術アカデミーへ留学し、1952年から53年にかけて、画家のジョルジョ・モランディのもとで版画を学んでいます。1989年には、ボローニャでモランディとグレイザーの二人展が開かれました。

のちにグレイザーは、絵を描くことを熱心に勧めました。イラストレーターになるためではなく、描くことで、ものをよく見るようになるからだ、と語っています。

『I ♥ NY』の最初のスケッチも、1976年に封筒に描かれたものでした。もっとも真似されたロゴのひとつが、手で描くところから始まっていたことは、よく見る習慣と無関係ではなかったと考えます。

デザインを志す人にとって、まず手を動かしてよく見ることは、今日から始められる準備になるかもしれません。

この作品を見に行くには

グレイザーの仕事は、ポスター、雑誌、ロゴ、店舗など、さまざまな形で社会に使われてきたため、一か所で常設されているとは限りません。ここでは、記事の根拠にした公式の資料を案内します。展示や公開の状況は変わるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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