【徹底解説】ルイス・カーンとは?光とコンクリートとレンガで建物をつくった建築家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ルイス・カーンとは?光とコンクリートとレンガで建物をつくった建築家の人生と作品を解説!
写真:ソーク研究所(ラホヤ)(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

アートコンシェルジュ|最初の一枚から、一生のコレクションまで。無料で相談する

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはルイス・カーンという人物をご存知ですか?

エストニアの島に生まれ、幼いころにアメリカへ渡り、フィラデルフィアで建築を学んだ建築家です。コンクリートとレンガという、ありふれた材料を使いながら、光の入り方まで含めて建物をつくった人として知られています。カリフォルニアの海を望むソーク研究所、テキサス州フォートワースのキンベル美術館、バングラデシュの首都ダッカの国会議事堂などが代表作です。カーンは1974年に亡くなりました。

本記事ではそんなルイス・カーンの人生と作品についてご紹介します。情報は、所蔵館・大学・研究所・公的機関の公式ページ、ブリタニカ百科事典などで確認できたものだけを書いています。作品の写真は、撮影者がライセンスを明示した建物の外観に限って掲載し、そのほかは図解と表で構成しました。本記事では、2回目以降は「カーン」と呼びます。

ルイス・カーンって?

カーンは、「建物は何になりたがっているのか」を考えることから設計を始めた建築家です。キンベル美術館の公式サイトは、カーンが「この建物は何になりたいのか」と最初に問うことでよく引かれると紹介しています。部屋の使われ方と、その部屋にどんな感じがほしいかを考え、そこから、古典建築のような比例と反復と変化をもつ「部屋の家族」として建物を育てていった、という説明です。

その建物は、単純な幾何学の形と、光と素材の組み合わせでできています。イェール英国美術センターの公式サイトは、カーンの建築を「単純な幾何学の形と、自然光と素材の複雑なやりとり」が特徴だと説明しています。この記事では、その考え方が、どの建物でどう形になったのかを、公式の記録をたよりにたどります。

基本情報

本名ルイス・イサドア・カーン(Louis Isadore Kahn)。通称はルイス・I・カーン(Louis I. Kahn)
生年月日(没年月日)1901年2月20日(ブリタニカによる)〜1974年(没年のみ記します)
国籍・出身アメリカの建築家。ブリタニカは、ロシア帝国領エストニアのオーセル島(現在のサーレマー島)に生まれたと記しています。イェール英国美術センターによると、4歳のときに家族とアメリカへ移り、1914年に市民権を得ました
学歴ペンシルベニア大学で建築を学び、1924年に建築学士号を得ました
分野建築
傾向単純な幾何学の形と、自然光と素材の組み合わせ。コンクリートやレンガなど、ありふれた素材を表に出す設計
師事した人物・影響を受けた人物ペンシルベニア大学の設計指導者で、のちの勤め先でもあった建築家ポール・フィリップ・クレ。イタリア、ギリシャ、エジプトで見た古代の遺跡も、作風に大きく影響したとイェール英国美術センターは記しています

同じく建築家として活躍した人の、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。

【徹底解説】フランク・ゲーリーとは?金属の曲面で都市の顔をつくった建築家の人生と作品を解説!

【徹底解説】安藤忠雄とは?光と風をコンクリートに招いた建築家の人生と作品を解説!

【徹底解説】建築家 ザハ・ハディドの人生と作品に迫る〜未来を生きたアンビルトの女王〜

経歴と作品

エストニアからフィラデルフィアへ

カーンは1901年、現在のエストニアにあるサーレマー島で生まれたとされています。ブリタニカは「オーセル」という当時の呼び名で、生まれた日を2月20日と記しています。イェール英国美術センターの伝記によると、4歳のときに家族とともにアメリカへ渡り、1914年に市民権を得ました。

少年時代のカーンは、絵が得意でした。同じ伝記は、ペンシルベニア美術アカデミーの奨学金を辞退して、ペンシルベニア大学で建築を学ぶ道を選んだと伝えています。大学の教育は、フランスのボザール(美術学校)の流れをくむ、素描を重んじるものでした。1924年に建築学士号を得ています。

ペンシルベニア大学の建築アーカイブは、カーンを「エストニアで生まれ、フィラデルフィアで育った」建築家と紹介しています。大学で教わったのは、建築家ポール・フィリップ・クレです。のちにカーンは、クレの事務所でも働きました。

1901年に生まれ、1924年に大学を卒業し、1935年に自分のアトリエを開き、1947年にイェール大学で教え始め、1950年にローマに滞在するまでを五段階で示した図
図:生まれてからローマまで

自分のアトリエと、住宅づくりの時代

大学を出たカーンは、フィラデルフィアのいくつかの設計事務所で働き、1935年に自分のアトリエを開きました。イェール英国美術センターの伝記によると、初期の仕事は、国際様式(装飾をそぎ落とした近代建築の流れ)を早くから唱えた建築家ジョージ・ハウや、近代建築家オスカー・ストノロフとの協働が中心で、ペンシルベニア州の住宅地の設計が大半でした。ブリタニカは、1941年にハウと組み、1942年から1944年まではハウとストノロフと組んだと記しています。

この時期の仕事について、ルーズベルト島のフランクリン・D・ルーズベルト・フォー・フリーダムズ・パークの公式サイトは、カーンがルーズベルト大統領のニューディール政策の住宅・地域計画の仕事のおかげで、事務所を始めた初期に家族を養えたと、カーン自身が考えていたと記しています。この縁は、のちに触れる最後の設計につながります。

イェール大学とローマ:作風が変わる転機

1947年、カーンはイェール大学で教え始めました。ブリタニカは、イェールでは教授としての仕事を始め、1950年にはローマのアメリカン・アカデミーのフェローになったと記しています。イェール英国美術センターの伝記は、この時期にカーンがイタリア、ギリシャ、エジプトを旅して、荒れた遺跡や歴史的な建物をスケッチに描き残したと伝えています。

伝記は、この経験が、カーン独特の作風に大きく影響したと述べます。古い巨大な形に、光が当たるときの感情的な反応が、哲学の土台になった、という説明です。ブリタニカも、ローマでの滞在が地中海の建築への理解を深めたと記しており、その後の最初の重要な仕事として、イェール大学アート・ギャラリーを挙げています。

『イェール大学アート・ギャラリー』(1953年)

イェール大学アート・ギャラリーの公式サイトによると、カーンの建物は1953年に開館しました。カーンにとって最初の重要な依頼で、美術館は「最初の傑作」と広く見なされていると説明されています。組積造(レンガや石を積む工法)、コンクリート、ガラス、鉄でつくられ、もっとも人目につく面には窓のない壁が立ちます。大学のなかで、最初の近代建築でもありました。

称賛されてきたのは、美しさや幾何学、光だけではありません。構造や工学の工夫として、公式サイトは四面体を並べた天井と、円筒形の主階段を挙げています。カーンの建物は、イェールの伝統的なネオ・ゴシックの二つの建物の隣に建っています。

ペンシルベニア大学の教授へ、リチャーズ医学研究棟

イェールでの仕事のあと、カーンはフィラデルフィアに戻り、ペンシルベニア大学で教えました。大学の建築アーカイブは、カーンが、師クレの名を冠した「クレ教授職(Cret Professor of Architecture)」の地位にあったと記しています。イェール英国美術センターの伝記も、その職を亡くなるまで務めたと伝えています。

この時期の代表作が、ペンシルベニア大学のアルフレッド・ニュートン・リチャーズ医学研究棟です。国立公園局の資料は、1957年から58年に設計され、1961年に完成したと記しています。ペンシルベニア大学側の紹介は1962年の完成としており、資料のあいだで1年ずれるため、本記事では「1960年代初め」とします。完成前からニューヨーク近代美術館で個展が開かれるほど注目されたと、国立公園局の資料は伝えています。

ペンシルベニア大学のリチャーズ医学研究棟の外観。レンガの細長い塔が空に向かって立ち、そのあいだにガラスの窓の層が重なっている
リチャーズ医学研究棟(アメリカ、フィラデルフィア)の外観。撮影:Smallbones(2010年10月)/パブリックドメイン/出典:Wikimedia Commons

『リチャーズ医学研究棟』のしくみ:「仕える空間」と「仕えられる空間」

この建物が語られるときに、必ず出てくる言葉があります。「仕える空間(サーバント・スペース)」と「仕えられる空間(サーブド・スペース)」です。ブリタニカは、仕える空間に、階段、エレベーター、排気と吸気の口、配管を挙げ、これらが四つの塔にまとめられて、実験室や事務室などの仕えられる空間から切り離されていると説明します。

実験棟をこうした考えで設計すること自体は、すでに数十年前からあったとブリタニカは述べます。それでもカーンは、実用的な工夫を、建築の原則にまで高めた、という評価です。ブリタニカは、この考え方が、ソーク研究所などの円熟期の作風にも組み合わされたと記しています。リチャーズ医学研究棟は、アメリカの国定歴史建造物に指定されています。

仕える空間は階段、エレベーター、排気と吸気の口、配管で四つの塔に分け、仕えられる空間は実験室や事務室として塔と別にとる、というリチャーズ医学研究棟の考え方を二列で比べた図
図:「仕える空間」と「仕えられる空間」

ソーク研究所:ピカソが訪ねてくる場所

ブリタニカは、カーンの円熟期の作風が、ソーク研究所とイェール英国美術センターにもっともよく表れていると記しています。単純な幾何学の形、古典や中世の建築から得た着想、コンクリートやレンガのような身近な素材の表情を、「仕える・仕えられる」の考え方と組み合わせたものです。

『ソーク研究所』(1960年代)

ソーク研究所の公式サイトによると、ポリオワクチンを開発したジョナス・ソークは、1960年にサンディエゴ市から、太平洋を見下ろす27エーカー(約11ヘクタール)の土地を贈られ、建築家のカーンと組んで研究所を設計しました。ソークは、カーンに「ピカソが訪ねてくるにふさわしい施設をつくってほしい」と伝えたといいます。

研究所の年表によれば、起工は1962年6月、同じ年の12月にコンクリートが打たれました。北棟に研究者が移ったのは1966年で、研究所全体の工事は1967年に完了しています。カーンは、建物を、ユーカリの林を抜けた先に、廃墟や城、記念碑のように静かに現れるものとして構想しました。公式のガイドは、イタリアのアッシジの聖フランチェスコ聖堂(修道院)に着想を得た、と説明しています。

建物は、鏡に映したように向かい合う二つの棟で、各棟は6層です。二つの棟のあいだに、大きなトラバーチン(石灰質の石材)の中庭が広がります。ソークがカーンに求めたのは、変わり続ける科学の求めに合わせて使い方を変えられる、広くて柱の少ない研究室でした。研究室の階と、電気や換気などの設備の階が分けられているので、研究室のなかに壁を立てずにすみ、研究者どうしの協働も生まれやすい、と公式サイトは説明しています。

ソーク研究所の外観。コンクリートの壁と木の窓をもつ棟が段状に重なり、右手前に石の水場がある
ソーク研究所(アメリカ、ラホヤ)の外観。撮影:Beyond My Ken(2019年10月)/CC BY-SA 4.0/出典:Wikimedia Commons

素材は、コンクリート、チーク、鉛、ガラス、鋼です。公式サイトによると、カーンは古代ローマにさかのぼり、水を通しにくく、温かみのある桃色を帯びる「ポッツォラーナ・コンクリート(火山灰を混ぜたコンクリート)」を使いました。型枠が外れたあとは、研磨も、補修も、塗装もしないという指示が出されました。型枠の継ぎ目には、V字の溝が残されています。型枠を固定した小さな穴は、鉛の栓でふさがれています。

光への配慮も、公式サイトは繰り返し伝えています。研究室の階は、外壁を大きなガラス窓にして昼光を入れました。地域の建築規制で高さが抑えられ、研究室の一部は地下に置かれましたが、長さ40フィート、幅25フィートの「光の井戸」を各棟の両側につくって、地下まで昼光を届けています。

中庭にまつわる話も、公式ガイドに残っています。カーンははじめ、中庭に木や緑を植えるつもりでした。しかし、メキシコの建築家ルイス・バラガンに意見を求めると、バラガンはこう答えたといいます。「この空間には、木も草の葉も置かない。ここを広場にすれば、空に向かうファサードを得られる」。中庭は、こうして石だけの広い面になりました。

中庭の中央には、トラバーチンに切り込まれた細い水路が、東から西へ流れます。「生命の川」と呼ばれ、カーンとソークにとっては、アルハンブラ宮殿を思わせる水と、研究所から人類の知の大海へ流れ出す発見の流れの両方を意味しました。公式ガイドによると、春分と秋分の年2回、この水路の軸線の上に日が沈むように設計されています。研究所は1992年に、アメリカ建築家協会(AIA)の25年賞を受けました。

学ぶ場所を、レンガでつくる:インドとニューハンプシャー

カーンは、ソーク研究所と同じ時期に、大学や学校の建物も設計しました。ここでは主役が、コンクリートからレンガへ移ります。

『インド経営大学院アーメダバード校(IIMA)』(1960年代)

IIMAの公式アーカイブによると、大学は1962年に世界水準の建築家を探し、国立デザイン大学とインドの建築家B・V・ドーシの紹介で、カーンに声をかけました。カーンが仕事を始めたのは、1962年11月のインド訪問からです。起工式は1964年9月9日で、教員住宅、学生寮、本館の順に建てられました。1966年には、教室の中心が、赤レンガのキャンパスへ移っています。

アーカイブは、カーン自身の言葉も紹介しています。「この計画は、修道院に対する私の感覚から来ている」。教室と学生寮と教員住宅が、それぞれの性格をもちながら、近くにあること。それが、カーンが自分に課した課題でした。

『フィリップス・エクセター・アカデミー図書館』(1971年)

ニューハンプシャー州のフィリップス・エクセター・アカデミーは、1964年に校長が教員の委員会をつくり、新しい図書館の設計者を探しました。委員会は多くの建築家に会い、カーンを「レンガの扱いへの共感と、自然光への関心」のゆえに推薦しました。学校が受け入れたのは1965年11月です。図書館は、1971年に完成しています。

素材は、学校の公式サイトが細かく記録しています。地元のエノ煉瓦工場が1965年に一般向けの営業を終え、翌年に廃業した際、学校は約200万個のレンガの在庫を買い取りました。図書館の外側には約42万個、内側には約30万個が使われています。外壁のチークは塗装せず、自然に風化させる指示でした。内部の木工は白オーク、中央ホールの床と正面入口の階段は、灰白色のトラバーチンです。中央ホールの最上部には、コンクリート165トンの大きな梁が交差します。

図書館の仕様書は、コンクリートの仕事について、「コンクリートの仕事の質が、建築の質をおおむね決める」と述べています。型枠を外したあとは、手を入れないことが求められ、型枠を留めた跡の穴や、継ぎ目の盛り上がりが、そのまま残されました。

フィリップス・エクセター・アカデミー図書館の外観。赤茶色のレンガの角張った建物。窓が格子状に並び、最上部には四角い開口が並ぶ
フィリップス・エクセター・アカデミー図書館(アメリカ、ニューハンプシャー州エクセター)の外観。撮影:Gunnar Klack(2014年4月)/CC BY-SA 4.0/出典:Wikimedia Commons

キンベル美術館の公式サイトは、レンガについてのカーンの言葉を紹介しています。レンガに「何がほしいのか」と尋ねると、レンガは「アーチが好きだ」と答える。「アーチは高くつく、あなたの上にはコンクリートのまぐさを渡せる」と言っても、レンガの答えは変わらない。素材を敬い、レンガを称えることが大事で、そうしてこそ、手を抜かずに仕事ができる、という話です。

ダッカの首都計画:国会議事堂

イェール英国美術センターの伝記は、カーンの重要な作品として、バングラデシュのダッカにある国会議事堂(1962〜74年)を挙げています。ペンシルベニア大学の建築アーカイブは、カーンの死去の時点で、この首都の建設がまだ続いていたと記しており、事務所が閉じられたあと、元の同僚たちが、できるものは完成させました。

『国会議事堂(ジャティヤ・サンサド・バヴァン)』(1983年)

アガ・カーン建築賞の公式データによると、設計者はカーンで、1979年以降はデヴィッド・ウィズダム・アンド・アソシエイツが加わりました。完成は1983年とされています。バングラデシュ国会の公式サイトによれば、国会は、シェレ・バングラ・ナガルの新しい建物での会期を、1982年2月15日に始めています。敷地は約215エーカーに及びます。

アガ・カーン建築賞の公式ページは、この建物を「形と構成が明快で、規模と配置に力がある」傑作と評しています。地域に根づいた伝統的な形と、記念碑的な形の両方を取り込み、きわめて純粋な形へ抽象化した、という評価です。中心は、ドームをもつ議場と図書館で、これらは八つの光と空気の中庭のあいだに配置されています。国会の公式サイトは、カーンの設計思想を「静けさと光」の哲学と表現し、巨大な幾何学の形と、コンクリートと光のやりとりで、民主主義の理想を表そうとした建物だと説明しています。

この建物は、アガ・カーン建築賞の1987〜1989年の選考で、受賞プロジェクトに選ばれました。

キンベル美術館:光でできた美術館

『キンベル美術館』(1972年)

キンベル美術館の公式サイトによると、カーンが設計を依頼されたのは1966年10月です。開館した1972年10月には、光と構造の結びつきという、カーンの考えの集大成であり、世界でもっとも優れた美術館の一つと評されました。公式サイトは、カーンが亡くなる前に完成を見届けた、最後の作品だと述べています。初代館長リチャード・F・ブラウンは、ミース・ファン・デル・ローエやマルセル・ブロイヤーも候補に挙がるなかで、取締役会とともにカーンを選びました。契約は1966年10月5日に結ばれ、起工は1969年6月27日です。

夕暮れのキンベル美術館。アーチ状の屋根をもつ開放的なポーチの下で、石の壁が明かりに照らされ、手前に水面が広がる
キンベル美術館(アメリカ、テキサス州フォートワース)の外観。撮影:Carol M. Highsmith/パブリックドメイン/出典:Wikimedia Commons(米国議会図書館)

建物の基本は、サイクロイド(円が直線上を転がるときに、円周上の一点がえがく曲線)の断面をもつ16個のヴォールトです。公式サイトによると、1つは長さ100フィート、幅20フィートで、6、4、6の3列に並びます。床は、木の部分が20フィート、トラバーチンの部分が10フィートという、20対10の比で組まれ、訪れた人が構造を読み取れるようになっています。

光は、ヴォールトの頂部に走る細いプラスチック(アクリル)の天窓から入り、下に吊られた、翼の形の穴あきアルミの反射板で広げられます。コンクリートのヴォールトの内側に、銀色の輝きが生まれる仕組みです。カーンは、キンベル夫人にあてた手紙で、「銀の輝き」をもつ美術館を思い描き、昼光こそ美術作品にふさわしい唯一の光だと述べたと、公式サイトは紹介しています。コンクリートの輝きをカーンは「銀色の粉をまとった蛾の羽」にたとえました。

キンベル美術館の工夫として、サイクロイド・ヴォールト16個の繰り返し、天窓と反射板による昼光、コンクリートとトラバーチンと白オークの素材の三つを並べた図
図:キンベル美術館の三つの工夫

素材も、公式サイトが詳しく説明しています。コンクリートは、灰色にラベンダーの色合いをもつ色に調整され、何度も壁の試し打ちをして、テキサスの日差しのもとで乾かしたと伝えられています。トラバーチンは、ローマ近郊のティヴォリから輸入され、内外の壁や床、階段に100万ポンド以上が使われました。屋根は鉛でおおわれ、床や扉には白オークが選ばれました。カーンは、トラバーチンを壁紙のような「詰め物」と呼んだとも記されています。

2013年には、同じ敷地の芝生をはさんで、レンゾ・ピアノ設計の別館が完成しました。公式サイトの年表によれば、ピアノは若いころに、カーンの事務所で働いた経験があります。

最後の仕事:イェール英国美術センターと、フォー・フリーダムズ・パーク

『イェール英国美術センター』(1977年)

イェール英国美術センターは、ポール・メロンの寄贈品を収めるために、カーンが設計した美術館です。公式サイトによると、1977年4月19日に一般公開されました。カーンの最後の建物で、没後に完成し、最初の依頼であるイェール大学アート・ギャラリーの向かいに建っています。メロンの寄贈が発表されたのは、開館の11年前です。

外観は、つや消しの鋼とガラスの反射する面で、ニューヘイブンの街なかに存在感を与えています。内部は4層で、二つの中庭を中心に組まれ、トラバーチン、白オーク、コンクリート、ベルギー産リネンという、抑えた素材でできています。カーンは、拡散した自然光のもとで作品を見られる、親密な展示室をつくりました。できるだけ多くの昼光を入れ、人工照明は曇りの日や夕方にだけ使うことを望んだと公式サイトは記しています。この美術センターは、アメリカの美術館で、最初期に商業の店舗を設計に組み込んだ建物の一つでもあります。

イェール英国美術センターを上から見た外観。灰色の金属パネルとガラスの壁をもつ四角い建物で、白い天窓のドームが屋根に並ぶ
イェール英国美術センター(アメリカ、ニューヘイブン)の外観。撮影:Sage Ross(2006年9月)/パブリックドメイン/出典:Wikimedia Commons

屋根には224個の天窓のドームがあり、カーンはこれを「建物の5番目の立面」と呼んでいました。公式サイトによると、この建物は2005年にAIAの25年賞を受けています。2015〜16年の改修では、可動式の間仕切りを、カーンが生前に描いた図面にもとづく新しい設計へ入れ替えました。

『フランクリン・D・ルーズベルト・フォー・フリーダムズ・パーク』(設計1972〜73年、完成2012年)

ニューヨークのルーズベルト島にあるこの公園は、カーンの設計をもとに、2010年3月29日に着工し、2012年9月に完成しました。献堂式は同年10月17日、一般公開は10月24日です。公園の公式サイトは、カーンが記念碑を「部屋と庭」にしたいと考えた経緯を、カーン自身の言葉で紹介しています。「記念碑は部屋と庭であるべきだ、という考えが浮かんだ。私にあったのは、それだけだった」。部屋は、建築の始まりであり、自分自身の延長だった、とも語っています。

敷地は三角形で、カーンはその形を生かして、訪れる人の視線が、入口のルーズベルトの巨大な頭像に向かうようにしました。設計の根には船のイメージがあり、公式サイトは、ルーズベルトと海とのつながりへの目配せかもしれないと説明しています。建設は、カーンの設計が描かれてから、約40年後に実現しました。

賞と、残された資料

イェール英国美術センターの伝記によると、カーンは1953年にアメリカ建築家協会(AIA)のフェローに選ばれ、1964年に全米芸術文学アカデミー、1968年にアメリカ芸術科学アカデミーの会員になりました。1971年にはAIAの最高賞であるゴールドメダルを受け、1972年には英国王立建築家協会(RIBA)のロイヤル・ゴールドメダルを受けています。AIAの公式の受賞者一覧にも、1971年の受賞者としてカーンの名があります。

ブリタニカは、カーンの仕事が、イェールやペンシルベニアの外へ出ていくにつれて、生前は論争の的になったと記しています。その後、新しい世代の批評家たちが、より好意的に評価し、20世紀でもっとも独創的で重要な建築家の一人と見なすようになりました。

カーンの設計資料は、ペンシルベニア大学の建築アーカイブが保管しています。大学の説明によると、カーンの事務所は閉じられ、その資産は整理されることになり、資料全体は1976年にペンシルベニア州が購入しました。翌年、大学に長期貸与され、研究や展示に使われています。

素材で読むカーン

ここまでの建物を、素材と光の面から並べて見てみます。ソーク研究所はコンクリートとチーク、エクセター図書館はレンガ、キンベル美術館はコンクリートとトラバーチンが主役でした。素材は変わっても、どの建物でも、素材を塗り隠さず、つくり方が見えるように使っています。キンベル美術館の公式サイトは、カーンが、建物はそれがどうつくられたかを語るものだと考えていたと説明しています。

ソーク研究所、エクセター図書館、キンベル美術館の三つの建物について、主な素材と、公式サイトが挙げる特徴を並べて比べた図
図:三つの建物の素材と特徴

主な作品の一覧

作品所在地年(出典の記載)
イェール大学アート・ギャラリーアメリカ、ニューヘイブン1953年開館(イェール大学アート・ギャラリー)
リチャーズ医学研究棟アメリカ、フィラデルフィア設計1957〜58年、完成は1961年または1962年(資料により異なる)
ソーク研究所アメリカ、ラホヤ起工1962年、全体の工事完了1967年(ソーク研究所)
インド経営大学院アーメダバード校インド、アーメダバード起工式1964年(IIMAアーカイブ)
フィリップス・エクセター・アカデミー図書館アメリカ、エクセター1971年完成(同校)
キンベル美術館アメリカ、フォートワース1972年10月開館(キンベル美術館)
国会議事堂バングラデシュ、ダッカ1983年完成(アガ・カーン建築賞)
イェール英国美術センターアメリカ、ニューヘイブン1977年4月19日開館(同センター)
フォー・フリーダムズ・パークアメリカ、ニューヨーク設計1972〜73年、完成2012年(同センター・公園)

まとめ

いかがだったでしょうか。ルイス・カーンは、1901年にエストニアで生まれ、幼いころにアメリカへ渡り、ペンシルベニア大学で建築を学びました。ローマやギリシャ、エジプトの遺跡を見た経験が作風を決め、イェール大学アート・ギャラリー、リチャーズ医学研究棟、ソーク研究所、インド経営大学院アーメダバード校、エクセター図書館、キンベル美術館、ダッカの国会議事堂へと、仕事を広げました。1971年にAIAゴールドメダル、1972年にRIBAロイヤル・ゴールドメダルを受け、1974年に亡くなりました。イェール英国美術センターとフォー・フリーダムズ・パークは、没後に完成しています。

Euphoric " " の視点

カーンの言葉には、問いかけがよく出てきます。「この建物は何になりたいのか」。レンガに「何がほしいのか」と尋ねると、レンガは「アーチが好きだ」と答える、という話も残っています。

問いを向けた相手は、建物や素材だけではありませんでした。ソーク研究所の中庭に、カーンははじめ、木や緑を植えるつもりでした。しかし、メキシコの建築家ルイス・バラガンに意見を求めると、返ってきたのは「この空間には、木も草の葉も置かない」という答えでした。中庭は、こうして石だけの広い面になりました。

自分の案を持ちながら、問いを立て、返ってきた答えを建物に迎え入れる。カーンの設計の強さは、この聞く力にあったのではないかと考えます。

答えを聞き入れることは、自分の考えを手放すことではないのかもしれません。問いを立て続けた人のもとに、良い答えが集まってくる。カーンの建物は、そのことを静かに教えてくれているように思います。

この作品を見に行くには

記事で紹介した建物のうち、次の3か所は公式サイトで建築の解説を読めます(2026年10月時点)。ソーク研究所は研究機関のため、見学の可否や方法は公式サイトでご確認ください。美術館は展示替えや休館があるため、最新の情報も公式サイトをご確認ください。

NEW POSTS / 新着記事

開催中の展覧会いま行ける展覧会を、終了が近い順に79件 開催中/7日以内に終了 1件展覧会を探す