こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはロバート・ラウシェンバーグという人物をご存知ですか?
ラウシェンバーグは、1925年にアメリカ・テキサス州の港町ポート・アーサーで生まれた美術家です。ベッドの掛け布団、剥製の山羊、自動車のタイヤ、新聞や雑誌の切り抜きなど、身のまわりにあるものを絵の中に取り込み、絵画と彫刻のあいだにあるような作品を生み出しました。版画、写真、舞台美術、パフォーマンス、技術者との共同制作まで、手がけた分野は驚くほど広く、2008年に亡くなるまで、半世紀以上にわたって新しい試みを続けました。
本記事ではそんなロバート・ラウシェンバーグの人生と作品についてご紹介します。年や作品の情報は、ロバート・ラウシェンバーグ財団の年譜と作品データ、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)、ストックホルムのモデルナ・ムセーット、ホイットニー美術館、グッゲンハイム・ビルバオ、高松宮殿下記念世界文化賞の公式ページなどで確かめました。批評にあたる部分は、編集部の意見として「〜と考えます」の形で書いています。
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Toggleロバート・ラウシェンバーグって?
ラウシェンバーグを一言で紹介するなら、「作品の材料に、世界のほとんどすべてを認めた人」といえるかもしれません。ホイットニー美術館は、ラウシェンバーグが絵画、彫刻、コラージュ、写真、版画を組み合わせて新しい混成の形を作り、身近な品々を作品に取り込んだと紹介しています。
その考えをよく表すのが、1959年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開かれた展覧会「Sixteen Americans」の図録に寄せた、短い文章です。ラウシェンバーグ財団の年譜に、次の一節が全文で引かれています(ホイットニー美術館のページも、一部を省いた形で引いています)。
Painting relates to both art and life. Neither can be made. (I try to act in that gap between the two.)
(参考訳・編集部:絵画は、芸術とも生活とも関わっている。どちらも「作る」ことはできない。〔私は、その二つのあいだの隙間で行動しようとしている〕)
ラウシェンバーグ財団は、いまもこの「隙間(gap)」という言葉を使って、ラウシェンバーグが偶然と異分野の共同作業を大切にしたと説明しています。この記事では、その歩みを時代ごとにたどります。
基本情報
| 本名 | ミルトン・アーネスト・ラウシェンバーグ(Milton Ernest Rauschenberg)。のちにロバート(通称ボブ)と名乗る |
| 生年月日(没年月日) | 1925年10月22日(2008年5月12日。82歳) |
| 国籍・出身 | アメリカ/テキサス州ポート・アーサー |
| 学歴 | カンザスシティ美術大学(1947年)、アカデミー・ジュリアン(パリ、1948年)、ブラック・マウンテン・カレッジ(ノースカロライナ州、1948年〜)、アート・スチューデンツ・リーグ(ニューヨーク、1949年〜) |
| 分野 | 絵画、立体的な作品(コンバイン)、版画、写真、舞台美術、パフォーマンス |
| 傾向 | 身近な物や既製の図像を作品に取り込む。異分野の人々との共同制作を重ねた |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ジョセフ・アルバース(のちに最も重要な教師と考えた)。年譜は、箱の作品群にジョセフ・コーネルの影響があると記しています |
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経歴と作品
テキサスから美術の道へ(1925〜1948)
ポート・アーサーは、メキシコ湾に面した石油精製の町です。年譜によると、ラウシェンバーグは少年のころから、部屋の壁に絵を描き、家具に赤いユリの紋章を塗り、箱や瓶に見つけた物を詰めて部屋を仕切るなど、自分の周りを作り変えることが好きでした。
転機は、1940年代の半ばに訪れました。アメリカ海軍に入ったラウシェンバーグは、カリフォルニアに駐在していたとき、サン・マリノのハンティントン図書館・美術館を訪れます。年譜は、これが生まれて初めての美術館訪問で、ゲインズバラの絵などの油彩の原画を見て、自分も美術家になれると気づいたと記しています。
除隊後は、ミズーリ州のカンザスシティへ移り、このころ名前をミルトンからボブ(のちにロバート)に変えました。1947年にカンザスシティ美術大学に入り、アルバイトを重ねてお金をため、1948年にパリのアカデミー・ジュリアンへ。授業には満足できず、ギャラリーを巡ってマティスやピカソの実物を見ては、ときには筆を使わず手で絵の具を扱うほど夢中で描いたと、年譜は伝えています。
ブラック・マウンテンとニューヨーク(1948〜1951)
パリから戻ったラウシェンバーグが選んだのは、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジでした。ドイツのバウハウスで教えていたジョセフ・アルバースが、規律ある美術教育をしていると、雑誌の記事で知ったからです。アルバースの授業は、素材そのものの性質を見きわめ、それらを組み合わせて、構造、質感、仕上げを作る方法でした。二人はしばしば対立しましたが、ラウシェンバーグはのちにアルバースを、最も重要な教師だと考えるようになります。素材の性質に向き合い、組み合わせる姿勢は、のちのコンバインにつながっていくと考えます。
1949年にはニューヨークへ移り、アート・スチューデンツ・リーグに通いました。授業はあまり評価されませんでしたが、スタジオを使えることと、志の近い若い美術家に出会えることが大切でした。1951年の春、画廊主のベティ・パーソンズが、ラウシェンバーグの絵を見て個展を申し出ます。パーソンズは、ポロックやロスコらを扱う有力な画廊主です。この個展で、作曲家のジョン・ケージと、のちに有力な画商となるレオ・カステリに初めて会いました。
白と黒、そして「消す」(1951〜1953)
1951年にラウシェンバーグは、いくつかの連作を描き始めます。砂利や土を絵の具に押し込んだ黒い絵のシリーズと、全面を白で塗った『White Paintings』です。白い絵は、光の変化や、周りの空間に落ちる影を映しだす画面だと、年譜は説明しています。
この白い絵は、音楽にも影響を与えました。1952年の8月、ケージが沈黙の曲『4分33秒』を作ります。ケージは、この曲の着想として、ラウシェンバーグの『White Paintings』と、ハーバード大学の無響室への訪問を挙げています。同じ夏、ブラック・マウンテンでは、ケージが企画した、のちに「最初のハプニング」とされる催しが食堂で開かれ、ラウシェンバーグは古い蓄音機でレコードを流しました。
1952年の秋には、美術家のサイ・トゥオンブリとイタリアへ渡ります。ローマで撮った写真や集めた物から、洗濯したシャツに印刷物を貼った小さなコラージュ、小石や砂を入れた箱の作品などを作り、ローマの個展で売れた作品の代金が、ニューヨークへ戻る旅費になりました。
1953年、ニューヨークのフルトン・ストリートにロフトを構えます。年譜によると、土の作品に、鳥に与えていた種が偶然落ちて芽を出し、『Growing Painting』になりました。翌1954年の展覧会の間、ラウシェンバーグは毎日画廊へ通い、草に水をやりましたが、最後には草が枯れ、作品も枯れてしまいました。素材が時間とともに変わっていくことも、作品の一部でした。そして、この時期の最大の事件が、次の作品です。
『Erased de Kooning Drawing』(1953年)
『Erased de Kooning Drawing』は、ラウシェンバーグが、ウィレム・デ・クーニングの描いたドローイングを消して作った作品です。SFMOMAの解説によると、ラウシェンバーグは、消すという行為だけで作品が成り立つかどうかを確かめようとしました。最初は自分の素描を消してみたものの、実験を成り立たせるには、それ自体が疑いなく重要な作品から始めなければならないと考え、深く敬意を抱いていたデ・クーニングに、消すための素描を頼みます。デ・クーニングはためらいながら応じました。

年譜によると、消すのは簡単ではなく、約1か月かかりました。消した紙には、ジャスパー・ジョーンズが「ERASED de KOONING DRAWING/ROBERT RAUSCHENBERG/1953」という文字を入れ、簡素な金色の額に収めます。SFMOMAは、この額と文字が作品の一部であり、文字がなければ額の中に何があるのかは分からないと述べています。
「描く」ことが芸術の中心だった時代に、「消す」ことで何が生まれるのかを問い、作った人の名前と文字が作品を成り立たせる。ラウシェンバーグが「芸術とは何か」を、静かで、少しユーモラスな形で問い返した作品だと考えます。
コンバインの時代(1954〜1964)
1954年の夏、ラウシェンバーグは、赤を基調にした『Red Paintings』を描き継ぐうちに、新聞を下地にした画面へ、美術作品の複製や、見つけた物を加えていきました。作品は絵から立体へと広がります。年譜は、『Collection』や『Charlene』などを最初のコンバインと位置づけ、この年に「combine(コンバイン)」という言葉を作り、1964年まで制作を続けたと記しています。ホイットニー美術館は、コンバインを、絵画と彫刻の両方の要素を持つ作品と説明しています。
この時期のラウシェンバーグは、まだ作品だけでは暮らせませんでした。百貨店ボンウィット・テラーやティファニーのウィンドウ・ディスプレイの仕事で生計を立て、1954年に知り合った美術家ジャスパー・ジョーンズと、1955年の秋には「Matson Jones」という名義で組んで受注しています。「Matson」はラウシェンバーグの母の旧姓、「Jones」はジョーンズを表します。同じ1955年には、パール・ストリートのスタジオの一つ下の階にジョーンズが入り、二人は毎日のように互いの作品について語り合いました。
『Bed』(1955年)
コンバインの代表作が『Bed』です。年譜によると、ブラック・マウンテンで美術家ドロシア・ロックバーンから譲り受けたキルトを、板の上に引き伸ばし、絵の具を塗って仕上げました。キャンバスを買うお金がなかったから、という説明が添えられています。赤いマニキュアやストライプの歯磨き粉も使われました。
画面の上部には、白い枕とシーツに、赤、青、黄色の絵の具が勢いよく流れ落ちています。下の部分には、オレンジ色の四角を並べた模様のキルトが整然と広がっています。ふだんは横にして使うベッドが、壁にかけられた絵として立っているのも、見る人を驚かせます。1958年にカステリがこの作品を購入し、のちにアルフレッド・バー・ジュニアに敬意を表して、MoMAに寄贈しました。同じ1958年、イタリアのスポレートの展覧会では、主催者側が主会場に展示せず、倉庫に置いたと年譜は記しています。

『Rebus』(1955年)
同じ1955年の夏には、画布の代わりに養生用の布に描いた『Rebus』が生まれました。雑誌の挿絵、漫画、政治ポスターなどを取り込み、マスメディアが支配する都会の世界を表現した作品です。ラウシェンバーグは、この絵を「その週の、その界隈を凝縮したもの」にしたかったと説明しています(原文:“a concentration of that particular week in that particular neighborhood.”)。いまはMoMAが所蔵しています。
『Monogram』(1955〜1959年)
『Monogram』は、中古の家具店で見つけた剥製のアンゴラ山羊から始まり、完成までに4年をかけました。最終の姿では、山羊は、コラージュと絵の具で覆われた正方形の台の中央に立ち、胴にタイヤをはめています。台には4つのキャスターがついています。山羊を絵の描かれた床の上に置くという案は、ジョーンズの助言でした。
タイトルは、山羊の身体とタイヤが、モノグラム(組み合わせ文字)のように絡み合う様子に由来します。モデルナ・ムセーットは、この作品について、テキサスでの子ども時代、宗教、ニューヨークという街など、さまざまな解釈が重ねられてきたと紹介しています。いまも同館が所蔵しています。

『Canyon』(1959年)
『Canyon』は、絵の具、紙、布、写真などを貼った大きな画面の前に、剥製のワシが翼を広げ、その下から枕が紐でぶらさがっている作品です。画面の上には黒い絵の具が垂れ、右上には段ボール箱の文字が見えます。1961年にMoMAで開かれた展覧会「The Art of Assemblage」にも出品され、この展覧会は、アッサンブラージュを美術の一分野として美術館が初めて認めた展覧会だったと、年譜は位置づけています。いまはMoMAが所蔵しています。

評価の確立と、レオ・カステリ(1957〜1961)
1957年に画廊を開いたカステリは、翌1958年3月にラウシェンバーグの個展を開き、約20点のコンバインが並びました。売れたのは、カステリ自身が買った『Bed』だけでした。1959年5月にはカステリが、ジョーンズとラウシェンバーグを、美術評論家の東野芳明に引き合わせます。東野の文章は、二人の作品を日本の読者に伝えることになりました。12月からは、MoMAの「Sixteen Americans」展で7点のコンバインを出し、冒頭で触れた「隙間」の言葉を寄せています。
同じころ、1958年からの2年半は、ダンテ『神曲』の「地獄篇」の34の歌に、一つずつ対応する34点のドローイングに取り組みました。雑誌の写真の図像に溶剤を塗り、ペンの先でこすって紙に写しとる技法を使っています。それまで読んだことのなかった詩を、翻訳で一つずつ読み、ダンテの研究者マイケル・ソナベントと構成を相談しながら進めました。1963年にはMoMAが、匿名の寄贈で収蔵しています。

シルクスクリーン絵画の時代(1962〜1964)
1962年9月、批評家のヘンリー・ゲルドザーラーに誘われて、ラウシェンバーグはアンディ・ウォーホルのスタジオを訪れ、シルクスクリーンを使った作品を見ました。翌月から、自分もキャンバスにシルクスクリーンで図像を刷り始めます。年譜によると、コンバインやドローイングの転写では、図像の大きさを変えることも、同じ図像を再び使うこともできませんでした。シルクスクリーンなら、それができます。図像のもとは、『National Geographic』『Life』などの雑誌や新聞と、ラウシェンバーグ自身の写真でした。
『Barge』(1962〜1963年)
最大の作品が、横幅約10メートルの『Barge』です。グッゲンハイム・ビルバオは、都市の環境など、ラウシェンバーグが繰り返し取り上げた主題と図像が、黒、白、灰色の一枚の画面に集められていると説明しています。年譜によると、ラウシェンバーグは、CBSテレビのドキュメンタリーの撮影中に、約24時間で画面の大部分を仕上げました。
写真のような図像が、右へ左へと流れるように並びます。ゲルドザーラーは、この絵を前にした体験を、白黒の大スクリーンの映画を最前列で見ることにたとえました。話の筋のない断片をつなぐ、私たち自身の目が主役になる絵だと考えます。

国際的な評価へ、ヴェネツィアと日本(1963〜1964)
1963年6月、版画『Accident』が、ユーゴスラビアのリュブリャナで開かれた国際版画展で、アメリカ人として初めて大賞を受けました。題名は、石版の石が制作中に2回割れたことに由来し、ラウシェンバーグは割れた石のままで刷りました。そして1964年6月、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレで、絵画部門の大賞を受けます。高松宮殿下記念世界文化賞の公式ページも、この受賞で世界的な地位が確立したと書いています。
この1964年は、日本との関係でも重要な年でした。6月から、マース・カニングハム舞踏団の世界ツアーに、ステージ・マネージャーと照明、舞台装置、衣装のデザイナーとして同行し、東京、神戸、大阪も訪れています。11月28日、東京の草月アートセンターで、東野芳明との公開対談『Twenty Questions to Bob Rauschenberg』が開かれました。ラウシェンバーグは質問に言葉で答えず、金色の日本の屏風に絵の具を塗り、物を取り付けることで答えます。約4時間の催しの中で、コンバイン『Gold Standard』が生まれました。
舞台と共に(1950年代〜)
ラウシェンバーグは、舞台の仕事も長く続けました。1954年のカニングハム舞踏団『Minutiae』では、ダンサーが通り抜けられる、自立した舞台装置としてのコンバインを作っています。1958年の『Summerspace』では、衣装と背景に同じ点描の模様を描き、ダンサーが背景に溶け込むようにしました。1963年には、初めて自分で振り付けた『Pelican』を、ワシントンのローラースケート場で発表し、パラシュート用の絹を張った円形の構造物を背負って、自ら滑りました。
技術者との共同制作、E.A.T.(1959〜1966)
ラウシェンバーグは、早くから技術に関心を持っていました。1959年の『Broadcast』は、キャンバスの裏に3台のラジオを隠し、鑑賞者がダイヤルを回して音量や局を変えられる作品です。1962年からは、技術者のビリー・クルーヴァーらと、鑑賞者が操作できる彫刻『Oracle』に取り組みました。
『Oracle』(1962〜1965年)
『Oracle』は、換気用のダクト、自動車のドア、洗濯用のたらい、階段状の操作盤、木の窓枠などを使った5つの部分からなり、それぞれに隠されたラジオが入っています。鑑賞者は、操作盤を使って、遠隔でラジオの音を変えられます。いまはパリのポンピドゥー・センターが所蔵しています。

1966年9月、ラウシェンバーグはクルーヴァーらとともに、芸術と技術の共同制作を促す組織「E.A.T.(Experiments in Art and Technology)」を設立しました。同年10月には、ニューヨークの兵器庫で連続公演「9 Evenings: Theatre & Engineering」が開かれ、ラウシェンバーグは『Open Score』を振り付けています。音の仕掛けのついたラケットでテニスをし、ボールが当たるたびに、会場の照明が一つずつ消え、最後は完全な暗闇になる作品です。

キャプティバへ(1968〜1970年代)
1968年、ラウシェンバーグはフロリダ州キャプティバに最初の土地を買い、1970年の晩秋に、ここを恒久の住まいとスタジオにしました。1969年から1970年には、アポロ11号の打ち上げに触発され、NASAの提供した画像を使った34点の石版画「Stoned Moon」を制作しています。1970年12月には、段ボールを使った壁の彫刻『Cardboards』を始め、1973年にはフランスの製紙工房で、手すきの紙の作品『Pages』と『Fuses』を4日間で作りました。1976年には、国立美術コレクション(現スミソニアン・アメリカ美術館)で、158点の回顧展が開かれています。
世界へ、中国・日本・ROCI(1980年代)
1982年、ラウシェンバーグは中国を訪れ、世界最古とされる製紙工場、安徽省涇県の宣紙工場で、約2週間作品を作りました。同じ年に日本を2度訪れ、滋賀県の信楽にある大塚オーミ陶業で、陶器に写真をシルクスクリーンで写す作品『Japanese Clayworks』に取り組みます。翌1983年には、京都で、金縁の奉納用の板に描いた一連のドローイングも作りました。1984年には、トーキング・ヘッズの『Speaking in Tongues』の限定版ジャケットをデザインし、グラミー賞の最優秀アルバム・パッケージ賞を受けています。
この時期の最大の計画が、ROCI(ラウシェンバーグ・オーバーシーズ・カルチャー・インターチェンジ)です。1984年12月に国連で発表され、当初22か国を予定していましたが、実現したのは11か国でした。ラウシェンバーグが書いた「Tobago Statement」には、芸術と情報を世界じゅうで受け取り、作り、交換する個人の事業だと記され、展覧会が次の国へと巡回しながら、各国で生まれた作品を加えていく仕組みも述べられています。1986年には、東京の世田谷美術館でも展覧会が開かれ、信楽の陶器の作品と、この展覧会のために作った『ROCI JAPAN』の作品群が出品されました。1990年には、芸術、教育、環境などを支援するラウシェンバーグ財団も設立されています。
晩年の評価(1990年代〜2008)
1993年10月、アメリカの国の芸術賞「ナショナル・メダル・オブ・アーツ」を、ビル・クリントン大統領から受けました。翌11月には、広島市から、第2回ヒロシマ賞(受賞は1992年度に決定)が贈られます。ヒロシマ賞は、美術の分野で人類の平和に貢献した作家を顕彰する賞で、第1回(1989年度に決定)はデザイナーの三宅一生でした。
1997年9月から1998年1月には、ニューヨークのグッゲンハイム美術館などを会場に、438点による回顧展が開かれ、ヒューストン、ケルン、ビルバオを巡回しました。1998年には、高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門を受賞します。第10回にあたる受賞で、同賞の公式ページは、靴やぼろ布、タイヤなど街から拾い集めたものを組み合わせた「コンバイン・ペインティング」で注目を集めた美術家と紹介しています。ラウシェンバーグは、2008年5月12日に亡くなりました。82歳でした。

ラウシェンバーグの作品を見る3つの手がかり
歩みをふまえて、作品を見る手がかりを三つ挙げます。いずれも、編集部の見方です。
一つ目は、素材を選ばないことです。土、草、キルト、剥製、段ボール、ラジオ、手すきの紙と、ラウシェンバーグはあらゆる素材を使いました。素材を、それ自体が語るものとして扱ったと考えます。アルバースから学んだ、素材の性質に向き合う姿勢が、その出発点にあるといえるでしょう。
二つ目は、一人で完結させないことです。ケージやカニングハムとの舞台、ジョーンズとの対話、クルーヴァーら技術者との共同制作と、作品の多くは他者との出会いから生まれています。作品に、共同作業の跡を探してみてください。
三つ目は、偶然を作品に迎え入れることです。草が育ち、枯れる『Growing Painting』、割れた石をそのまま刷った『Accident』など、計画どおりにならなかったことも作品の一部にしました。完成した形より、そこに至る過程を見る視点が、作品を面白くしていると考えます。

代表作の一覧
| 作品名 | 制作年 | 所蔵 |
|---|---|---|
| 『Erased de Kooning Drawing』 | 1953年 | サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA) |
| 『Collection』 | 1954〜1955年 | サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA) |
| 『Charlene』 | 1954年 | アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum) |
| 『Bed』 | 1955年 | ニューヨーク近代美術館(MoMA) |
| 『Rebus』 | 1955年 | ニューヨーク近代美術館(MoMA) |
| 『Monogram』 | 1955〜1959年 | モデルナ・ムセーット(ストックホルム) |
| 『Canyon』 | 1959年 | ニューヨーク近代美術館(MoMA) |
| 『Barge』 | 1962〜1963年 | グッゲンハイム・ビルバオ/ニューヨークのグッゲンハイム美術館 |
| 『Oracle』 | 1962〜1965年 | ポンピドゥー・センター(パリ) |
| 『Skyway』 | 1964年 | ダラス美術館 |
まとめ
いかがだったでしょうか。ロバート・ラウシェンバーグは、白い絵と、消された素描から出発して、ベッド、山羊、ワシ、ラジオ、雑誌の写真と、世界のほとんどすべてを作品の材料にしました。ブラック・マウンテンでアルバースに学び、ケージ、カニングハム、ジョーンズ、技術者たちと共同で作り、ROCIでは世界の各地へ出向いています。日本とも、1964年の草月アートセンターでの『Gold Standard』、1982年の信楽での制作、1993年のヒロシマ賞、1998年の高松宮殿下記念世界文化賞と、深い縁がありました。展示の情報は所蔵館の公式サイトで確かめながら、ぜひ実際の作品に触れてみてください。
Euphoric " " の視点
1959年の『Broadcast』は、キャンバスの裏に3台のラジオを隠した作品です。鑑賞者がダイヤルを回して、音量や局を変えられます。技術者のビリー・クルーヴァーらと取り組んだ『Oracle』でも、鑑賞者は操作盤を使って、遠隔でラジオの音を変えられます。
どちらも、作品の一部を見る人の手に預けた作品だといえるかもしれません。
同じ1959年、ラウシェンバーグは「Sixteen Americans」展の図録に、絵画は芸術とも生活とも関わっていて、自分はその二つのあいだの「隙間」で行動しようとしている、と書きました。ダイヤルに伸びる鑑賞者の手は、その隙間に、私たち自身が入っていくための入口のように見えます。
見る人は、ただ受け取るだけの存在ではない。ラウシェンバーグのラジオは、鑑賞する側にも役割があることを、楽しい形で伝えてくれていると考えます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品の所蔵館の公式ページです。展示替えや貸出があり、いつでも見られるとは限りません。2026年10月時点で、モデルナ・ムセーットの『Monogram』は展示中と案内されていますが、グッゲンハイム・ビルバオの『Barge』は作品ページに「現在展示されていない」とあります。『Erased de Kooning Drawing』も含め、最新の展示状況は各公式サイトをご確認ください。






