【徹底解説】白髪一雄とは?足で絵を描いた具体美術協会の画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】白髪一雄とは?足で絵を描いた具体美術協会の画家の人生と作品を解説!
作品:《天暗星青面獣》(1960年)(画像出典:兵庫県立美術館「2024年度コレクション展Ⅰ」ページ。引用)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは白髪一雄という人物をご存知ですか?

白髪一雄(しらが かずお、1924〜2008)は、兵庫県尼崎市に生まれた画家です。天井から吊るしたロープにつかまり、床に広げた画面の上で、素足で絵具を押し広げて描きました。この描き方は「フット・ペインティング」と呼ばれています。

戦後の関西で生まれた前衛美術のグループ「具体美術協会」の中心メンバーとして活動し、泥の中で格闘する作品や、舞台で衣装を振るう作品も発表しました。のちに比叡山で得度して僧侶となり、その経験が作品にも影響を与えます。生涯の大半を生まれ育った尼崎で過ごしたことでも知られています。

本記事ではそんな白髪一雄の人生と作品についてご紹介します。

白髪一雄って?

白髪一雄の描き方の変遷を5段階で示した図。ナイフやへら、指や手のひら、足、板や棒、再び足という順に、絵具を広げる道具が変わっていく。
図:白髪一雄の描き方の変遷

基本情報

名前白髪一雄(しらが かずお)。1971年の得度で「素道(そどう)」の法名を授かった
生年月日(没年月日)1924年8月12日〜2008年4月8日(83歳没)
国籍・出身日本/兵庫県尼崎市
学歴京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科に1942年に入学し、1948年に卒業(校名は1945年に京都市立美術専門学校へ改称)。卒業後は洋画に転向し、大阪の市立美術研究所に通った
分野絵画(油彩)。実験的な立体作品やパフォーマンスも手がけた
傾向足で描くフット・ペインティングで知られる。具体美術協会の中心メンバーの一人
師事した人物・影響を受けた人物洋画家の伊藤継郎に学ぶ。具体美術協会のリーダー吉原治良のもとで活動。フランスの批評家ミシェル・タピエに評価され、海外へ作品を送る契機となった。天台宗の大僧正・山田恵諦に教えを請い、得度した

白髪一雄と同じ時代の抽象絵画については、以下の記事でもご紹介しています。

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この記事の作品画像について

白髪一雄の作品は、没後70年を経過しておらず、著作権が保護されている期間にあります。そのため、この記事では、本文で解説している作品に限り、所蔵館などの公式ページで公開されている画像を、引用として掲載しています。出典は各画像の下に明記しました。あわせて、図解、作品に関わる場所の外観写真、表で全体像をお伝えします。

白髪の作品は、画面の写真だけでは、絵具の厚みや動きの勢いが伝わりにくい作品でもあります。記事の最後に、実際に作品に会える場所をまとめましたので、あわせてご覧ください。

経歴と作品

尼崎に生まれて、日本画から洋画へ(1924〜1951年ごろ)

白髪一雄は1924年8月12日、兵庫県尼崎市に生まれました。幼いころから書画や骨董に親しみ、旧制中学の時代に画家を志すようになったと、『日本美術年鑑』は記しています。映画や芝居、浮世絵版画、中国の怪異小説にも親しんで育ったことが、東京オペラシティ アートギャラリーの展覧会解説に書かれています。

東京美術学校(現在の東京藝術大学)への進学を夢見ましたが、自宅から通える京都市立絵画専門学校に1942年に入学します。当時の学校には図案科と日本画科しかなく、白髪が選んだのは日本画科でした。ただ、日本画への興味は育たなかったといいます。

1948年に卒業すると、洋画へ転向します。大阪の市立美術研究所に通い、続いて、芦屋に住んでいた洋画家の伊藤継郎に学びました。新制作派協会(のちの新制作協会)の展覧会には、童話のような主題を描いた具象画を出品していたと、『日本美術年鑑』にあります。

この時期の作品については、宮崎県立美術館の研究報告が、地元の尼崎や大阪の風景を写実的に描いたものが残っていると伝えています。尼崎の街並みや大阪の近代的な建築を描きながら、形が少しずつデフォルメされ、新しい表現を探っていく様子がうかがえるそうです。

日本画と洋画のどちらにも、白髪は完全にはなじみませんでした。ただ、宮崎県立美術館の研究報告は、日本画とは対照的な油絵具の粘り気や流れる感じが、自分の表現に合っていると、白髪が確信したと書いています。後の仕事を考えると、この確信が出発点だったのかもしれません。

「0会」と、足で描くまで(1952〜1954年)

1952年、大阪で現代美術懇談会(ゲンビ)が発足すると、白髪はその集まりや展覧会に参加し、前衛美術へ傾いていきます。同じ年、新制作協会の仲間だった村上三郎、金山明、そして会員ではなかった田中敦子とともに「0会(ゼロ会)」をつくりました。『日本美術年鑑』によれば、会の考えは「芸術はなにも無い0の地点から出発して創造すべきだ」というものです。

Art Platform Japanの人名事典「Dictionary of Artists in Japan」に載る平井章一氏の解説は、会員が「0」の地点から反対の方向へ進むと決めたと説明しています。金山明は幾何学的な抽象を目指す「マイナス」、白髪はその正反対の「プラス」の役を引き受けました。白髪の絵は、暗く幻想的な具象から、抽象へと急速に変わっていきます。

白髪の画面づくりは、道具を手放していく歩みでもありました。1953年ごろには、筆ではなく、ペインティングナイフや手作りのへらで一色の絵具を画面全体に広げ始めます。やがてその道具も、指や手のひらに置き換わりました。絵具の流れる感じをもっと強めたかったからだと、同じ解説は説明しています。色は、深い紅色の絵具を好んで使いました。

そして1954年、0会の展覧会で、初めて足で描いた作品を発表します。キャンバスを床に置き、その上を足で踏み、絵具を広げて描くという方法です。この方法は、のちにフット・ペインティングと呼ばれるようになります。

フット・ペインティングのしくみを4つに分けて示した図。天井から吊るしたロープにつかまる、床に広げた画面に絵具を置く、素足で押し広げる、動きの跡が画面に残る。
図:フット・ペインティングのしくみ

この描き方が、もう少し具体的にどういうものかは、東京オペラシティ アートギャラリーと宮崎県立美術館の解説から分かります。床に広げたキャンバスの上に絵具の塊を置き、天井から吊るしたロープにつかまり、素足で絵具の上を滑るように動きながら描きます。ロープで体を支えることで、体を限界まで使うような、勢いのある動きが可能になりました。ロープにつかまる方法は、平井章一氏の解説によれば、具体に加わった1955年ごろに生まれたものです。

オペラシティの解説は、白髪がこの時期、作品を残すことよりも、身体を酷使して得られる精神的な糧のようなものを重んじていたと伝えています。描く行為そのものが、白髪にとって最初から大切なものだったのです。

具体美術協会へ。丸太、泥、舞台(1955〜1957年)

1955年、0会は、芦屋に住む吉原治良が若い美術家たちと結成していた「具体美術協会」(具体)から合流の誘いを受け、金山、村上、田中とともに白髪も加わりました。吉原治良は具体のリーダーで、グループは1954年に大阪で生まれています。テート(ロンドン)は具体について、のちのハプニングやパフォーマンス、コンセプチュアル・アートを先取りしたような作品を生んだ日本の前衛グループと説明しています。東京オペラシティ アートギャラリーも、具体で白髪らが試みた作品が、今日のインスタレーションやアースワーク、パフォーマンス・アートなどの先駆として高く評価されている、と述べています。

具体の作家たちは、筆を使わずに絵具を画面にのせる方法を、競うように試しました。グッゲンハイム美術館の教材は、手作りの大砲、そろばん、振動する装置、紙の傘、じょうろ、自転車、自動のおもちゃの車、そして自分の足が、その道具として使われたと紹介しています。白髪の足は、その中でもっとも体に近い道具でした。

この年から、白髪は絵画と並行して、立体作品やパフォーマンスにも取り組みました。同じ『日本美術年鑑』と平井章一氏の解説によれば、最初の2つはこうです。1つめは、1955年7月に芦屋公園で開かれた「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」の作品で、赤い丸太に斧で切り込んで、その中に観客が入れるようにしたものです。2つめは、同年10月に東京の小原会館で開かれた第1回具体美術展の「泥にいどむ」。庭に置いた約1トンの泥の中で白髪が格闘し、その跡を作品として見せました。

グッゲンハイム美術館は、2013年の具体展「Gutai: Splendid Playground」の教材で、この作品を白髪の象徴的な作品として紹介しています。教材は、素材と体で向き合う具体の考え方を示す例として「泥にいどむ」を取り上げ、白髪が泥の山の中に入って、大地と格闘するようにもがいたと説明しています。テートも、この作品を具体に関わる出来事の中でもっとも有名なものとして紹介しています。

白髪一雄が具体で行った3つの試みを比べた表。1955年の野外実験展の赤い丸太、同年の第1回具体美術展の泥、1957年の舞台作品の衣装を、場所と内容で並べている。
図:白髪一雄が具体で行った3つの試み

白髪は、この時期の文章も書いています。グッゲンハイム美術館の教材は、1956年に白髪が「泥にいどむ」に添えて書いたエッセイとして「The Formation of the Individual」を紹介しています。同じ年に発表された別の文章(グッゲンハイム美術館の教材には英語の題 “The Baby and Milk, or Proof of Life” で載っています)からは、次のような考えが読み取れます。英語に訳されたものからの仮訳で、やりたいことがあるということは生きているということで、それを実行すれば、生きている証になる、という趣旨です。

1956年10月、東京の小原会館で開かれた第2回具体美術展では、白髪は床に広げた大きなキャンバスの上で、実際に足で描いてみせました。グッゲンハイム美術館の教材は、完成した長さ約8メートルの絵が会場に展示されたと説明しています。描く行為がそのまま観客の前で見せられたのです。

一方で、平井章一氏の解説によると、この時期の白髪は、行為の結果にすぎない絵に意味を見いだせなくなっていきました。1955年から56年ごろの作品の多くは、展示のあとに廃棄され、現存していないそうです。作品を残すことより、行為そのものを重んじていた様子が伝わります。

1957年には、舞台を使った具体の公演「舞台を使用する具体美術」(5月に大阪の産経会館、7月に東京の産経ホール)で、「超現代三番叟」を発表しました。グッゲンハイム美術館の教材によれば、白髪は長い袖の赤い衣装と面、円錐形の帽子をつけて舞台に立ち、うねる赤い線のような「絵」をつくりました。白髪自身は1968年の新聞への寄稿で、まっすぐに伸ばすと約5メートルになる真っ赤な袖の衣装を振って、いろいろな形に動かす作品だったと書いています。

足の絵が世界へ。水滸伝シリーズ(1957〜1965年)

白髪の足の絵が大きく注目されるきっかけは、1957年、フランスの批評家ミシェル・タピエの来日でした。タピエは、戦後のヨーロッパやアメリカで生まれた新しい抽象絵画を「アンフォルメル」と呼んで広めようとした人物です。具体の雑誌をパリで目にして関心を持ったと、平井章一氏の解説にあります。

タピエはとくに白髪の作品に感心し、作品を一点ずつヨーロッパへ送る契約を結びました(東京オペラシティ アートギャラリーの年譜では1958年)。タピエは、ジョルジュ・マチューやジャクソン・ポロックのような、激しい身体の動きを感じさせる絵を日本に紹介し、日本の美術界にも「アンフォルメル旋風」が起きました。その流れの中で、足で描く白髪の絵も、日本で注目されるようになります。

作品が海外へ出るようになると、一つ問題が起きました。具体のリーダー吉原治良は、会員が作品に題をつけることを基本的に認めていませんでしたが、白髪の作品は数が増え、見分けがつかなくなっていたのです。そこで白髪は1959年から、子どものころから愛読していた中国の古典『水滸伝』の豪傑たちの呼び名を、作品の題にしました。このシリーズは1965年にいったん完結し、106点になったと、平井章一氏は書いています。展覧会解説は、作品の力強さや荒々しさに、豪傑の呼び名がよく合っていたのだろうと述べています。

この時期の作品の一つが、兵庫県立美術館が所蔵する《天暗星青面獣》(1960年)です。画面いっぱいに赤や橙、黒の絵具が走り、白い地に細かな飛沫が散っています。絵具を置いてロープで体を支えながら動いた、その軌跡が、そのまま画面に残っているように見える作品です。

白髪一雄《天暗星青面獣》。白に近い地に、赤や橙、黒の絵具が太く走り、青みを帯びた灰色や赤の細かな飛沫が画面全体に散っている。
白髪一雄《天暗星青面獣》(1960年)、油彩・布、所蔵:兵庫県立美術館(山村コレクション)。画像出典:兵庫県立美術館「2024年度コレクション展Ⅰ」ページ(引用)

もう一つ、尼崎市が所蔵する《天富星撲天雕》(1963年)は、宮崎県立美術館の研究報告が、水滸伝シリーズのアクション・ペインティングの代表作として挙げている作品です。赤と茶色の絵具が渦を巻くような中心部を、青や白の太い筆跡が弧を描いて取り囲み、画面の右下には、「63」の年とともに署名があります。

タピエを通じて、白髪は作家としても具体の一員としても、西洋で作品を見せる機会を増やしました。1959年にはイタリアの第11回リソーネ国際絵画賞展で買上げ賞を受けます。1962年にはパリのスタドラー画廊、トリノの画廊、東京画廊、そして大阪・中之島に開かれた具体の施設「グタイピナコテカ」で、立て続けに個展を開きました。

板と棒、そして出家(1965〜1972年)

1965年、具体の吉原治良は、会員の作品が型にはまり始めていることを心配し、新しい会員を多く迎えてグループを活気づけようとしました。これに応えるように、白髪は足以外の方法にも幅を広げます。『日本美術年鑑』によれば、同年の第8回日本国際美術展に出品した《丹赤》では、素足ではなくスキー板を履いて制作し、賞を受けました。以降は板や棒を使い、画面にひだや扇形の半円をつくるようになります。

1966年からは、板や棒の端を軸にして、絵具を半円の形に広げる「扇」のシリーズに取り組みました。車のワイパーが動いたあとのような形、と平井章一氏は説明しています。長いへら(スキージ)を使う方法は、このころから白髪の作品に流動感を与える手段になりました。

この頃、白髪は、精神の修行が作家としての成長に欠かせないと考えるようになり、密教へ向かいます。『日本美術年鑑』によれば、1970年に比叡山へ上り、天台座主の山田恵諦大僧正に教えを請いました。そして翌1971年、比叡山延暦寺で得度し、天台宗の僧侶として「素道」の法名を授かります。

紅葉の木々の向こうに見える延暦寺の根本中堂。大きな瓦屋根の建物で、前の広場に参拝者が小さく写っている。
延暦寺 根本中堂(滋賀県大津市)。白髪は1971年にこの延暦寺で得度した。撮影:663highland(CC BY 2.5)/出典:Wikimedia Commons

1972年に具体美術協会は解散します。リーダーの吉原治良が亡くなったことが、きっかけでした。具体の活動の場を失ったあとも、白髪は個展を中心に制作を続け、密教との出会いは、作品に宗教的な色合いをもたらしていきます。

円相と密教の時代、そして足の絵へ(1972〜1980年代)

東京オペラシティ アートギャラリーの展覧会解説によれば、白髪は1960年代ごろから密教への関心を深めていました。具体の解散のころから、作品には密教的な濃い精神性が漂い始め、素足にかわってスキージを用いる方法が、画面に流動感をもたらす力を発揮します。

その一つが、東京オペラシティ アートギャラリーが所蔵する《貫流》(1973年)です。黒と白の絵具が、長い弧を描きながら画面を横切り、重なり合っています。素足にかわってスキージが使われるようになった時期の作品で、流れるような動きが画面全体に感じられます。

白髪一雄《貫流》。白に近い地の上を、黒と灰色の絵具が長い弧を描いて横切り、幾重にも重なり合って、画面全体に流れるような動きをつくっている。
白髪一雄《貫流》(1973年)、油彩・キャンバス、所蔵:東京オペラシティ アートギャラリー(撮影:早川宏一)。画像出典:東京オペラシティ アートギャラリー「白髪一雄 展示構成」ページ(引用)

さらに白髪は1974年、延暦寺で35日間の修行「四度加行」をやり遂げます。その後はスキージで円相、つまり円の形を描いた作品を多く手がけました。平井章一氏の解説によれば、1974年から75年にかけては、完全な円を主題とし、仏教や密教の教えにちなんだ題をつけた作品が数多く生まれています。描く前に特定の仏を思い浮かべる、という新しい手順も、足の絵とは違う点でした。1975年の《あびらうんけん》も、渦を巻くような円が大きく現れる作品です。

白髪一雄《あびらうんけん》。赤い地の中央に、白と赤が渦を巻く大きな円があり、黒や橙の太い筆跡がその周りを取り巻いている。
白髪一雄《あびらうんけん》(1975年)、油彩・布、所蔵:兵庫県立美術館。画像出典:兵庫県立美術館「2024年度コレクション展Ⅰ」ページ(引用)

ただ、この大きな作風の転換と、当時の美術界でコンセプチュアリズム(概念を重んじる動き)が強まったことも重なり、1970年代の白髪の評価は下がったと、同じ解説は述べています。東京オペラシティの展覧会解説も、円の繰り返しによって制作が停滞したことに白髪が気づき、あらためてフット・ペインティングに戻った、と説明しています。

1978年、白髪はフット・ペインティングに戻ります。以後、晩年までこの方法を続けました。展覧会解説は、以前の作風が持っていた荒々しさに代わり、そぎ落とされた清々しさと、高められた精神性が画面を支配するようになった、と述べています。平井章一氏の解説によれば、1970年代の終わりに欧米で新表現主義が現れた時期の回帰で、白髪の足の絵は、1980年代に入ると再び海外の注目を集めました。

白髪一雄の制作を3つの時期で比べた表。1950年代から60年代の足の絵、1970年代のスキージと円相、1978年以降の足への回帰を、方法と特徴で並べている。
図:白髪一雄の制作の3つの時期

色を広げた晩年と、没後の評価(1980年代〜)

足の絵に戻った白髪は、1960年代の深い紅色を中心にした画面から離れ、鮮やかな色を幅広く使うようになります。ときには黒と白だけで描くこともありました。平井章一氏の解説は、こうして表現の幅が広がったと述べています。

1981年の《祝いの舞》は、その時期の作品の一つです。尼崎市総合文化センターの白髪一雄記念室の公式ページは、独自のへらを用いて一気に絵具を広げた、扇形の鮮やかなグラデーションが、画面に躍動感を与えていると説明しています。扇を手に舞う能や狂言を連想させる、とも書かれており、日本の伝統芸能に詳しかった白髪ならではの表現だそうです。この作品は、尼崎市総合文化センターのあましんアルカイックホールの緞帳(どんちょう)の原画にもなりました。

木々の向こうに見える、尼崎市総合文化センターの高層の建物。屋上近くに施設名が掲げられ、手前には水辺と緑地が広がっている。
尼崎市総合文化センター(兵庫県尼崎市)。白髪一雄記念室が置かれ、白髪の《祝いの舞》を原画とする緞帳のあるホールも同じ施設にある(2026年10月時点で休館中)。撮影:663highland(CC BY 2.5)/出典:Wikimedia Commons

1980年代には、ポストモダニズムの流れの中で、非西洋圏の戦後美術に関心が集まります。その動きの中で、具体と白髪のフット・ペインティングが西洋で再び注目されるようになったと、平井章一氏は述べています。1987年には兵庫県文化賞を受け、1992年にはパリのスタドラー画廊で、30年ぶりの個展を開きました。その後も、1999年にベルリンのゲオルク・ノートハフト画廊、2001年にロンドンのアネリー・ジュダ・ファイン・アートで新作を発表し、高い評価を得ています。同じ1999年には、文部大臣から地域文化功労者として表彰されました。

宮崎県立美術館の研究報告は、白髪が尼崎市の小学校で図工を教えていた時期もあり、型にとらわれない授業を展開したと伝えています。また、白髪の足跡は関西だけにとどまりません。1968年には、具体の吉田稔郎の作品の設置を手伝うために初めて宮崎を訪れ、1978年には、画家の藤野忠利が設立した子どもの絵画教室「現代っ子センター」で、宮崎では初めての個展が開かれました。

2001年には、兵庫県立近代美術館(現在の兵庫県立美術館)で、初めての本格的な回顧展が開かれます。2002年には大阪芸術賞も受けました。そして2008年4月8日、白髪は尼崎市で83年の生涯を終えます。

没後の評価は、さらに広がりました。2009年から翌年にかけて、没後の追悼展として「白髪一雄展 格闘から生まれた絵画」が、安曇野市豊科近代美術館、尼崎市総合文化センター、横須賀美術館、碧南市藤井達吉現代美術館を巡回しています(『日本美術年鑑』)。2013年には、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で、アメリカの美術館として初めて具体を単独で取り上げた回顧展が開かれました。その教材では、白髪は、体と素材が直接出会う制作の例として紹介され、道具を介して体を制作から切り離した金山明と対にして取り上げられています。

尼崎市総合文化センターの白髪一雄記念室の公式ページによれば、記念室は、尼崎市が所蔵する作品約140点に加えて、没後に寄贈・寄託された、デッサンやスケッチブック、書籍、写真、画材など約4,000点の作品・資料の整理と調査を進めながら、順次公開してきました。白髪が実際に使ったロープや画材も、展覧会で資料として紹介されています。

地元の尼崎では、2013年に尼崎市総合文化センターの中に白髪一雄記念室が開設され、2021年には、白髪の名を冠した現代美術の賞(Kazuo Shiraga Contemporary Art Award)が設けられました(平井章一氏の解説)。生誕100年にあたる2024年には、兵庫県立美術館が所蔵する白髪作品87点から選んだ特別展示などが行われています。東京でも、東京オペラシティ アートギャラリーが、東京で初となる本格的な個展を2020年に開いています。

略年表

1924年兵庫県尼崎市に生まれる
1942年京都市立絵画専門学校の日本画科に入学(1948年に卒業し、洋画に転向)
1952年村上三郎、金山明、田中敦子と「0会」を結成
1954年初めて足で描いた作品を発表。フット・ペインティングの始まり
1955年具体美術協会に参加。第1回具体美術展で「泥にいどむ」を発表
1957年タピエが来日。舞台作品「超現代三番叟」を発表
1959年『水滸伝』の豪傑にちなんだ題をつけ始める。リソーネ国際絵画賞展で買上げ賞
1962年パリ、トリノ、東京、大阪で個展
1965年《丹赤》で賞を受け、板や棒を使い始める
1971年比叡山延暦寺で得度し、「素道」の法名を授かる
1972年具体美術協会が解散
1974年延暦寺で35日間の修行「四度加行」をやり遂げる
1978年フット・ペインティングに回帰
2001年兵庫県立近代美術館で回顧展
2008年尼崎市で没(83歳)

まとめ

いかがだったでしょうか。白髪一雄の人生と作品について、ご紹介してきました。

白髪は1924年に尼崎で生まれ、日本画を学んだのち洋画に転じ、1952年に仲間と0会をつくりました。1954年に初めて足で描き、1955年に具体美術協会に加わります。泥の中で格闘する作品や舞台作品を発表し、1957年のタピエの来日を機に、足の絵が世界で注目されました。

1971年に比叡山で得度してからは、スキージで円を描く時期を経て、1978年にフット・ペインティングへ戻ります。晩年は鮮やかな色や黒と白も使い、生涯、尼崎で制作を続けました。

白髪の作品は、絵具の厚みや動きの勢いが、実物の前に立つと一番よく分かります。この記事をきっかけに、実際の作品に会える場所を訪ねてみてください。

Euphoric " " の視点

0会の会員は、「0」の地点から反対の方向へ進むと決めました。平井章一氏の解説によれば、金山明は幾何学的な抽象を目指す「マイナス」、白髪はその正反対の「プラス」の役を引き受けています。

時代は下って2013年、グッゲンハイム美術館の具体展の教材は、白髪を、体と素材が直接出会う制作の例として紹介し、道具を介して体を制作から切り離した金山明と対にして取り上げました。0会での役割の分け方と同じ向きの対比が、ニューヨークの美術館の教材にも現れていると読めるかもしれません。

白髪の足の絵の強さは、反対の方向へ進む仲間がいたことで、いっそうはっきり見えたのではないかと考えます。一人で極端へ向かうのではなく、仲間と役割を分けて、それぞれが振り切る。その進め方は、いま仲間と何かをつくろうとする人にとっても、心強い手がかりになると考えます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品を所蔵する館などの案内です。展示替えや休館があるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

なお、尼崎市総合文化センターの白髪一雄記念室は、同記念室の公式ページの案内によれば、同センターの休館に伴い、2026年3月22日までの展示をもって閉室しています(2026年10月時点)。今後の活動については、同センターの公式サイトで案内される予定です。

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