【徹底解説】レンブラントとは?光と影で人の心を描いたオランダ黄金時代の画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】レンブラントとは?光と影で人の心を描いたオランダ黄金時代の画家の人生と作品を解説!
レンブラントの徹底解説(『34歳の自画像』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはレンブラントという人物をご存知ですか?

レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn、1606〜1669)は、17世紀のオランダで活躍した画家です。油彩画だけでなく、素描と版画(エッチング)でも大きな仕事を残しました。ニューヨークのメトロポリタン美術館は、レンブラントを「オランダ黄金時代の最も偉大な芸術家」とみなされることが多い画家として紹介しています。

代表作の『夜警』はご存じの方も多いでしょう。光と影の模様で人の顔を描き、その奥にある心の動きまで感じさせる肖像画で知られます。一方で、生涯に40点を超える自画像を描き、自分の顔を見つめ続けた画家でもあります。

本記事ではそんなレンブラントの人生と作品についてご紹介します。

レンブラントって?

レンブラント『34歳の自画像』(1640年)。毛皮とビロードの服を着て帽子をかぶった画家が、石の手すりに腕をのせてこちらを見ている
レンブラント『34歳の自画像』(1640年)油彩・カンヴァス、ロンドン・ナショナル・ギャラリー/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1640年、34歳のレンブラントが描いた自画像です。毛皮とビロードの豪華な服を着て、石の手すりに腕をのせ、落ち着いた目でこちらを見ています。じつはこの一枚には、ルネサンスの巨匠たちへの意識が込められています。くわしくは、のちほど経歴のなかで見ていきます。

基本情報

本名レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)。アムステルダムに移ってからは、作品に「Rembrandt」とだけ署名するようになりました
生年月日(没年月日)1606年7月15日〜1669年10月4日(アムステルダムで没)
国籍・出身オランダ(ネーデルラント連邦共和国)/ライデン生まれ
学歴ライデンのラテン語学校。14歳でライデン大学に入学しましたが、まもなく画家の修業に移りました
分野絵画(油彩)、素描、版画(エッチング)
傾向バロック。光と影の強い対比、人物の内面に迫る肖像画、聖書や歴史の物語画。晩年は絵の具を厚く置く大胆な筆づかい
師事した人物・影響を受けた人物ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフ(最初の師)、ピーテル・ラストマン(アムステルダムでの師)。イタリアで学んだ北方の画家たちの作品や版画を通じて、カラヴァッジョやルーベンスらの表現を学びました

レンブラントの代表作『夜警』と、同じオランダ黄金時代の画家フェルメール、レンブラントが学んだ光の表現の源流にあたるカラヴァッジョについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

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オランダ黄金時代って?

レンブラントを語るうえで欠かせないのが、17世紀のオランダの状況です。メトロポリタン美術館がレンブラントを紹介するときに使う「オランダ黄金時代」とは、この17世紀のオランダを指す呼び名です。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーの解説によれば、当時のオランダでは宗教改革のあと、地元の教会が画家に仕事を頼まなくなっていました。カトリックの教会がほかの国々で画家に仕事を頼んでいたのとは違い、オランダの画家は、個人の注文主からの仕事に力を注がなければなりませんでした。

そのなかでアムステルダムは、同館の言葉を借りれば北ヨーロッパで最も豊かな港町で、各国の商人が集まる都市でした。レンブラントは、この街の裕福な市民や団体から注文を受けて名を上げていきます。

経歴と作品

ライデンの粉屋の息子として(1606〜1624年)

レンブラントは1606年7月15日、オランダの大学町ライデンに生まれました。アメリカのライデン・コレクションの作家解説によれば、最初の伝記を書いたヤン・オルレルスの記録で、父は粉屋のハルメン・ヘリッツ・ファン・レイン、母はパン屋の娘ネールチェで、レンブラントはその9番目の子どもでした。家族は父の風車小屋の向かいにある通りに住んでいました。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、父の粉屋は暮らし向きがよく、レンブラントをラテン語学校に通わせることができたと書いています。14歳になると、レンブラントは名門ライデン大学に入学しました。粉屋の息子としては珍しいことでした。ライデン・コレクションの解説が引くオルレルスの記録では、両親は息子が大人になったら学問で町と社会の役に立つことを望んでいました。

しかし、本人の望みは別のところにありました。オルレルスは、レンブラントの「生まれつきの心の動きは、絵と素描にだけ向かっていた」と書いています。両親は1621年に息子を学校から引き取り、ライデンの画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りさせました。スヴァーネンブルフはイタリアから戻ったばかりの画家で、レンブラントはそのもとで約3年を過ごしました。

ラストマンのもとでの修業と、ライデンでの独立(1624〜1631年ごろ)

修業を終えたレンブラントは、アムステルダムへ出て、当時の代表的な歴史画家ピーテル・ラストマンのもとで学びます。時期はナショナル・ギャラリーとメトロポリタン美術館が1624年ごろとし、ライデン・コレクションは1625年としています。18世紀の画家伝を書いたアルノルト・ハウブラーケンによれば、ラストマンのもとにいたのは半年ほどでした。

ライデンに戻ったレンブラントは、独立した画家として仕事を始めます。スペインのティッセン=ボルネミッサ美術館の解説によれば、ラストマンの工房で知り合った同世代の画家ヤン・リーフェンスと組んで制作していました。現在知られる最初の作品『聖ステパノの石打ち』(1625年、リヨン美術館)は、聖書の場面を描いた物語画で、カラヴァッジョ風の明暗の表現がはっきりと表れています。

ナショナル・ギャラリーによれば、若い画家にはイタリアへ行って本場の美術を学ぶよう勧めるのがふつうでしたが、レンブラントはそうしませんでした。自分の国で見られる作品から、必要なことはすべて学べると考えていたといいます。メトロポリタン美術館も、レンブラントは一度も外国へ行かなかったが、イタリアで暮らした経験のあるオランダや北方の画家の作品を熱心に研究したと書いています。カラヴァッジョの明暗の表現も、そうした画家を通じて学んだものでした。

1628年には弟子をとり始め、近所に住んでいたヘラルト・ダウが入門しています。このころ、レンブラントは最初のエッチングも制作しました。ライデン・コレクションによれば、1630年ごろ、オランダ総督の秘書で美術愛好家のコンスタンティン・ハイヘンスは、レンブラントとリーフェンスを同世代で最も才能のある画家と見なしていました。1627年からは、ハーグの宮廷からの注文も受けるようになります。

『自画像』(1628年ごろ)

レンブラント『自画像』(1628年ごろ)。くしゃくしゃの巻き毛の若者で、顔の大部分が影に沈み、右の頬だけに光が当たっている
レンブラント『自画像』(1628年ごろ)油彩・板、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

20代はじめのレンブラントが描いた自画像です。縦22.6センチ、横18.7センチほどの小さな板の絵で、アムステルダム国立美術館が所蔵しています。

この絵で目を引くのは、顔のほとんどが影に隠れていることです。同館の解説によれば、光は右の頬をかすめるように当たるだけで、顔の残りは影に覆われています。画家がこちらをじっと見つめていることに気づくまで、少し時間がかかります。肖像画は顔をはっきり見せるもの、という常識からすると、大胆な試みです。同館は、経験の浅い若い画家だったころから、レンブラントは実験をためらわなかったと解説しています。

もう一つの見どころは髪です。レンブラントは、乾く前の絵の具に筆の柄の端で引っかき傷をつけ、くしゃくしゃの巻き毛を表しました。絵の具をただ塗るのではなく、削って描くこの方法は、晩年の作品にも見られます。

『読書する老女(預言者アンナ)』(1631年)

レンブラント『読書する老女(預言者アンナ)』(1631年)。赤い衣と金色の頭巾をまとった老女が、ひざの上に大きな本を広げ、しわのある手をページに置いている
レンブラント『読書する老女(預言者アンナ)』(1631年)油彩・板、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ライデン時代の終わりに描かれた作品です。赤い衣に金色の頭巾をかぶった老女が、ひざの上に大きな本を広げています。アムステルダム国立美術館の解説によれば、光は老女の背後から差し込み、いちばん明るく照らされているのは本と、絵の具で盛り上げるように描かれたしわのある手です。顔は影の中に残されています。

同館は、この老女が聖書に登場する預言者アンナかもしれないとしています。アンナは、断食と祈りによって神に仕えた年老いた未亡人です。言い伝えでは、レンブラントの母がこの絵のモデルになったとされています。顔ではなく本と手に光を集めることで、読むという行為そのものを主役にした一枚です。

アムステルダムで肖像画家に(1631〜1630年代)

1631年ごろ、レンブラントはアムステルダムに移ります(メトロポリタン美術館は、アムステルダムでの活動を1632年からとしています)。ライデン・コレクションによれば、レンブラントは画商ヘンドリック・アイレンブルフの、注文の多い工房の運営を任され、その家に下宿しました。1635年までアイレンブルフのもとで働き、この間に、それまでにない数の肖像画を描いています。

1632年には、外科医たちの集団肖像画『トゥルプ博士の解剖学講義』(ハーグ、マウリッツハイス美術館)を描きました。ティッセン=ボルネミッサ美術館は、この作品が非常に高い評価を受けたと書いています。メトロポリタン美術館も、レンブラントがこうした劇的な構図で注目を集め、アムステルダムで名の知れた肖像画家になったと解説しています。

1634年には、アイレンブルフのいとこにあたるサスキアと結婚しました。翌1635年、レンブラントは自分の工房を構えます。

『ヨハネス・ウテンボハールトの肖像』(1633年)

レンブラント『ヨハネス・ウテンボハールトの肖像』(1633年)。白いひだ襟と黒い服の老人が胸に手を当てて立ち、右奥に開いた本が置かれている
レンブラント『ヨハネス・ウテンボハールトの肖像』(1633年)油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

アムステルダム時代の初めに描かれた肖像画の一つです。モデルは、プロテスタントの一派であるレモンストラント派の牧師ヨハネス・ウテンボハールトで、このとき76歳でした。ライデン・コレクションによれば、ウテンボハールトは肖像を描いてもらうため、わざわざハーグからアムステルダムにやって来ました。

アムステルダム国立美術館の解説によれば、この肖像を注文したのは、ウテンボハールトを深く敬っていたアムステルダムの商人アブラハム・アントニス・レヒトで、自宅に飾っていました。白いひだ襟の上の顔は、こちらを鋭く見つめています。同館は、ひと目で道徳的な権威を備えた人物だと分かると解説しています。右側の開いた本は、言葉の人であることを示していますが、それが何の本なのかは分かっていません。

『マリア・トリップの肖像』(1639年)

レンブラント『マリア・トリップの肖像』(1639年)。黒い服に大きなレースの襟をつけた若い女性が、真珠の首飾りをつけ、手すりに手をのせて立つ
レンブラント『マリア・トリップの肖像』(1639年)油彩・板、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1630年代のレンブラントは、アムステルダムの有力な家族から次々と肖像画を頼まれました。この絵はその代表的な一枚です。アムステルダム国立美術館の正式な題は「おそらくマリア・トリップを描いた女性の肖像」で、モデルは20歳のマリア・トリップと考えられています。

同館によれば、トリップ家は武器の取引に携わる非常に裕福な家でした。マリアは最上等のレースの襟、そろいのブローチと耳飾り、大量の真珠を身につけて、その豊かさをはっきりと示しています。左手に持った中国製の折りたたみ扇は、1639年当時はまだとても珍しく、高価な品でした。黒い服とレースの白、真珠の光沢が、くっきりと描き分けられています。

1639年の家と、集めること・観察すること(1630年代後半)

仕事は順調でした。ライデン・コレクションによれば、レンブラントは1639年、アムステルダムのシント・アントニスブレー通りにある大きな家に移ります。この建物は現在、レンブラントハイス(レンブラントの家美術館)として公開されています。1647年には、レンブラントの財産は4万750ギルダーと評価されていました。

レンブラントは、熱心な収集家でもありました。ナショナル・ギャラリーは、美術品をはじめ、古美術、絵の小道具、武具など、あらゆるものを買い集めたと書いています。ライデン・コレクションによれば、1638年にはラファエロ、デューラー、ホルツィウス、ルーカス・ファン・レイデンらの版画と素描を224ギルダーで購入しました。集めた品々は、絵の中の衣装や道具としても使われています。

一方で、身のまわりの観察も欠かしませんでした。ナショナル・ギャラリーによれば、レンブラントは街の人々、物乞い、サーカス、女性や子どもなどを絶え間なくスケッチしました。メトロポリタン美術館も、人や物とその周囲を「実物から」徹底して観察する姿勢は、オランダの画家のなかでも際立っていたと解説しています。

『石橋のある風景』(1638年ごろ)

レンブラント『石橋のある風景』(1638年ごろ)。暗い雲の下、川にかかる石橋と、日の光を浴びて明るく浮かび上がる木々が描かれている
レンブラント『石橋のある風景』(1638年ごろ)油彩・板、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

レンブラントは肖像画家として知られますが、風景画も描いています。アムステルダム国立美術館の解説によれば、レンブラントの風景画は数が少なく、その多くは想像の山の景色です。この『石橋のある風景』は、実際に観察した要素を組み合わせて描かれていますが、特定の場所を描いたものではないと考えられています。

画面の左には川にかかる小さな石橋、中央には日の光を浴びて明るく浮かび上がる木々が見えます。空は暗い雲に覆われています。同館は、この絵の不思議な魅力は劇的な光から生まれていると解説しています。雲の切れ間から日の光が差し込むことで、近づいてくる嵐がいっそう恐ろしく感じられるのです。縦29.5センチ、横42.5センチほどの小品ですが、肖像画と同じ光の演出が風景にも使われていることが分かります。

ルネサンスの巨匠と自分を並べる(1640年)

1630年代のレンブラントは、ナショナル・ギャラリーの言葉を借りれば、アムステルダムで最も有名な画家でした。同館は、カラヴァッジョの劇的な光の使い方の影響が、1630年代のレンブラントの作品にはっきり見られると解説しています。顔の片側を照らしてもう片側を影にするのではなく、光と影の模様で顔を描く新しい方法を生み出しました。目のまわりの影によって表情が読み取りにくくなり、そのことが、顔の奥に生きて考えている心があるかのような印象を生んでいると、同館は書いています。

『34歳の自画像』(1640年)

冒頭でご紹介した『34歳の自画像』は、こうした成功の時期に描かれました。ナショナル・ギャラリーの解説によれば、毛皮とビロードの高価そうな服を着て、宝石で飾った帽子をかぶったレンブラントが、自信に満ちた姿勢でこちらを見ています。

ただし同館は、当時の人なら気づいたはずの点を指摘しています。1640年代のオランダに生きる画家でありながら、レンブラントが着ているのは1520年代の裕福な紳士の服でした。姿勢も、同じ時代のデューラー、ティツィアーノ、ラファエロの絵をもとにしています。紳士の服と姿勢をとることで、画家としては高すぎるほどの社会的地位を主張し、ルネサンスの三人の巨匠の作品を引用することで、自分を彼らと並ぶ存在として示しているのです。

画面の下にある石の手すりも、昔からある画家の工夫です。同館によれば、手すりは奥行きを深め、絵を窓の向こうの現実のように見せます。レンブラントの肘と外套の渦巻きは手すりの手前へはみ出し、絵の中の画家と見る人が同じ空間にいるかのように感じさせます。X線の調査では、もともと左手も手すりの上に置かれていたことが分かっています。その手を外套の中へ引いたことで、画家の姿はわずかに近寄りがたいものになりました。

メトロポリタン美術館は、この自画像がラファエロとティツィアーノの宮廷肖像画を手本にしていると解説し、この二人の画家が、アムステルダムで「ファン・レイン」を付けず「Rembrandt」とだけ署名するようになったことにも影響を与えたのだろうと書いています。

『夜警』と集団肖像画(1639〜1642年)

ティッセン=ボルネミッサ美術館が、成功の時期の頂点として挙げるのが、市民隊の集団肖像画『夜警』です。ライデン・コレクションによれば、レンブラントは1639年から1642年までこの作品に取り組み、描かれた18人の隊員から平均100ギルダーずつを受け取りました。

『夜警』(1642年)

レンブラント『夜警』(1642年)。黒い服の隊長と金色の服の副官を中心に、旗や槍を手にした市民隊の隊員たちが動き出そうとしている
レンブラント『夜警』(1642年)油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

アムステルダム国立美術館によれば、『夜警』はレンブラントの作品のなかで最も大きく、最も有名なカンヴァスです。縦379.5センチ、横453.5センチあります。アムステルダムの市民隊(町の民兵と警察の役割を担った組織)の一つ、火縄銃手組合の集会所のために描かれました。正式な題は長く、隊長フランス・バニング・コック率いる第2地区の市民隊を描いたものです。「夜警」という呼び名は18世紀の終わりから使われるようになりました。

同館は、レンブラントが集団肖像画の人物に、実際に何かをしているところを描かせた最初の画家だったと解説しています。黒い服の隊長が副官に、隊を出発させるよう命じています。隊員たちは隊列を組もうとしています。レンブラントは光を使って、隊長の身ぶりをする手や、奥にいる少女など、特定の部分に目を向けさせました。少女は隊のマスコットでした。

なお、メトロポリタン美術館は、『夜警』が注文主の不満を招いてレンブラントの評判を落としたという話は伝説にすぎないとしています。その後も、ヤン・シックスのような有力者やアムステルダム市から注文を受けているからです。作品の細部や修復の歴史は、『夜警』の記事でくわしくご紹介しています。

【徹底解説】『夜警』とは?隊長の手の影から公開修復までを解説!

版画家としてのレンブラント(1640年代)

レンブラントのもう一つの大きな仕事が版画です。メトロポリタン美術館は、レンブラントを17世紀で最も革新的な版画家と呼んでいます。約350点のエッチングで、さまざまな種類の光や、油彩画のような効果を表せるように、この技法の可能性を広げました。同じ版を刷りの段階ごとに大きく描き直すこともありました。ライデン・コレクションも、エッチングこそがレンブラントに大きな名声をもたらし、今もその評価の大部分を決めている技法だと書いています。

『三本の木』(1643年)

レンブラント『三本の木』(1643年)。平らな土地を見下ろす丘の上に三本の木が立ち、左の空には斜めの線で雨が描かれている
レンブラント『三本の木』(1643年)エッチング・ドライポイント・エングレーヴィング、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(CC0)

アムステルダム国立美術館によれば、この『三本の木』は、レンブラントが手がけたなかで最も大きく、最も絵画的な風景のエッチングです。エッチングに、針で直接版を引っかくドライポイントと、彫刻刀で彫るエングレーヴィングを組み合わせています。

平らな土地を見下ろす丘の上に、三本の木が並んでいます。同館の解説によれば、右から差す低い日の光と、左で晴れ上がっていく雷雨が、劇的な効果を高めています。画面左上の空には斜めの線が何本も引かれ、雷雨のようすが表されています。場所ははっきりせず、レンブラントがその場で一部を想像で描いた可能性もありますが、木々はゾイデル海沿いの堤防に並んでいたものと考えられています。油彩の『石橋のある風景』と同じように、光と天気の変化で風景をドラマにする手法が、白と黒だけの版画でも生かされています。

静かな画風へ(1640〜1650年代)

メトロポリタン美術館によれば、1640年代に入ると、それまでの演劇的な画風は、より静かで思索的な画風へと移っていきました。同館は、この変化には当時の好みの移り変わりとともに、個人的な事情も関わっていたとしています。

ナショナル・ギャラリーも、後期の作品の特徴として幅の広い筆づかいを挙げています。ときにはパレットナイフで絵の具を置きました。初期の作品はなめらかに仕上げられていましたが、後期の作品は離れて見たときにこそ効果を発揮するように描かれているといいます。

ライデン・コレクションによれば、肖像画家としての人気は、かつての弟子ホーファールト・フリンクや、バルトロメウス・ファン・デル・ヘルストに次第に奪われていきました。彼らのほうが上流層の新しい好みに合っていたからです。それでもレンブラントは、画家としても教師としても求められ続けました。ドイツの画家で美術史家のヨアヒム・フォン・ザンドラルトによれば、教えることだけで年に2000ギルダー以上を得ていたといいます。メトロポリタン美術館は、レンブラントが偉大な教師でもあったと書き、弟子として、ダウ、フリンク、フェルディナント・ボル、ニコラース・マース、カレル・ファブリティウスらの名を挙げています。

『ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス』(1653年)

レンブラント『ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス』(1653年)。つば広の黒い帽子と白い袖の衣を着た男性が、右手を白い胸像の頭にのせ、金の鎖を肩からかけている
レンブラント『ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス』(1653年)油彩・カンヴァス、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)/出典:Wikimedia Commons(メトロポリタン美術館のオープンアクセス画像、CC0)

メトロポリタン美術館が「当館で最も称賛されている作品の一つ」と紹介する一枚です。縦143.5センチ、横136.5センチのカンヴァスに描かれています。

同館の解説によれば、豪華な衣をまとった古代ギリシャの哲学者アリストテレスが、ホメロスの胸像に考え深げに手を置いています。ホメロスは、何世紀も前に叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』で文学の不滅の名声を得た詩人です。アリストテレスは、自分の教え子だった強大な王アレクサンドロス大王の肖像が入った金のメダルを身につけています。同館は、哲学者が自分の世俗的な成功を、ホメロスの時を超えた達成と比べて考えているのかもしれないと読み解き、この絵を名声の意味についてのレンブラントの思索だと解説しています。

この作品は、オランダらしい絵の典型と見なされるようになりましたが、シチリアの注文主のために描かれました。ライデン・コレクションによれば、レンブラントは1652年から1663年の間に、シチリアの収集家ドン・アントニオ・ルッフォに3点の作品を売っています。メトロポリタン美術館は、この絵が描かれたのは、暗い色調と彫刻のように盛り上げた絵の具というレンブラントの持ち味が、アムステルダムで流行遅れになり始めた時期だったと書いています。

破産と、その後も続いた仕事(1656〜1660年代)

ナショナル・ギャラリーによれば、1650年代のアムステルダムは大きな不況に見舞われました。レンブラントは1639年に買った家の代金の半分も払い終えておらず、債権者に支払いを求められます。ライデン・コレクションは、大きな収入があった一方で、出費もいとわなかったと書いています。1656年、レンブラントは、財産を債権者に譲り渡す手続き(cessio bonorum)を申し立てました。ナショナル・ギャラリーは、投獄を避けられる、当時としては体面を保てる形の破産だったと説明しています。

このときに作られた財産目録には、130点を超える絵画と70冊の版画・素描のアルバムが記されていました。1657年から1658年にかけて、美術コレクションや家と家財は競売にかけられ、レンブラントはローゼンフラフト(ローゼン運河)沿いの、より小さな借家に移ります。

それでも、仕事は続きました。メトロポリタン美術館は、破産を申し立てた1656年以降もレンブラントの制作量は並外れており、何十点もの傑作が生まれたと書いています。1661年には、アムステルダムの新しい市庁舎を飾る大作『クラウディウス・キウィリスの謀議』(ストックホルム国立美術館)の注文を受けました。ナショナル・ギャラリーによれば、晩年の20年ほどの間、レンブラントは以前にも増して自画像を描くようになりました。

『使徒パウロに扮した自画像』(1661年)

レンブラント『使徒パウロに扮した自画像』(1661年)。白いターバンを巻いた年配のレンブラントが、紙の束を手に、眉を上げてこちらを見ている
レンブラント『使徒パウロに扮した自画像』(1661年)油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

55歳のレンブラントが描いた自画像です。アムステルダム国立美術館の解説によれば、この年齢になっても、レンブラントは自分の姿をありのままに見つめています。ここでは聖書の人物、使徒パウロに扮しています。外套からのぞく剣と、手にした書簡の束は、パウロを表すときの決まった持ち物です。

同館は、自分の顔を使うことで、レンブラントは見る人が聖人と個人的に向き合えるようにしたと解説しています。白いターバンの下の顔には深いしわが刻まれ、眉を上げた表情には、どこか問いかけるような気配があります。冒頭の『34歳の自画像』の、ルネサンスの紳士を演じた堂々とした姿と並べてみると、21年の間の変化がよく分かります。

『織物商組合の見本調査官たち』(1662年)

レンブラント『織物商組合の見本調査官たち』(1662年)。黒い服とつば広の帽子の男性たちが、赤い敷物をかけた机のまわりに集まり、こちらを見ている
レンブラント『織物商組合の見本調査官たち』(1662年)油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

オランダ語の通称「De Staalmeesters」で知られる、晩年の集団肖像画の代表作です。縦191.5センチ、横279センチあります。アムステルダムの織物業の組合で、布の品質を見本と照らし合わせて調べる役職の人々が描かれています。

アムステルダム国立美術館の解説によれば、1650年代の経済的な苦境のあと、ローゼンフラフトの借家に移ったレンブラントのもとを、アムステルダムの上流層がかつてほど頻繁に訪れることはなくなっていました。それでもレンブラントの人気は続いており、この有力な組合が集団肖像画を注文しました。

赤い敷物をかけた机のまわりに、黒い服とつば広の帽子の男性たちが集まっています。同館によれば、レンブラントは、調査官たちが仕事の手を止めて顔を上げたように描き、まるで私たちが部屋に入ってきたせいで話が中断されたかのような、生き生きとした場面にしました。『夜警』で隊員を動かしたように、ここでも集団肖像画に一瞬の動きを持ち込んでいます。ライデン・コレクションによれば、1660年代の初めには、鉄の取引で大きな富を築いたヤーコプ・トリップとその妻のような有力者からも、ふたたび肖像画を頼まれるようになりました。

晩年(1660年代〜1669年)

ライデン・コレクションによれば、晩年のレンブラントには、イタリアの人々も関心を寄せていました。1669年にアムステルダムを訪れたトスカーナ大公コジモ3世・デ・メディチは、レンブラント本人から自画像を1点買ったと考えられています。1669年に描いた最後の自画像は、現在知られる40点を超える自画像の一つです。

『イサクとリベカ(ユダヤの花嫁)』(1665〜1669年ごろ)

レンブラント『イサクとリベカ(ユダヤの花嫁)』(1665〜1669年ごろ)。金色の袖の衣を着た男性が、赤いドレスの女性の肩を抱き、二人で寄り添っている
レンブラント『イサクとリベカ(ユダヤの花嫁)』(1665〜1669年ごろ)油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

「ユダヤの花嫁」の名で知られる晩年の傑作です。アムステルダム国立美術館の題は『イサクとリベカ、「ユダヤの花嫁」として知られる』で、縦121.5センチ、横166.5センチあります。メトロポリタン美術館も、晩年の作品の例としてこの絵を挙げ、光や空間、質感、人の置かれた状況を描く力は、ライデン時代にまでさかのぼることができると書いています。

アムステルダム国立美術館の解説によれば、旧約聖書に登場するイサクは、妻リベカとの関係を隠し、二人は兄と妹だと偽っていました。しかし、誰にも見られていないと思ったときの親密なしぐさで、二人の関係は知られてしまいます。レンブラントはそのやさしいひとときを描きました。

この絵の見どころは、描き方の自由さです。同館によれば、レンブラントは並外れた自由さで描き、絵の具を厚く塗り、筆の柄の端で絵の具を引っかいています。画面では、男性の袖が金色に輝いて見えます。若いころの自画像で巻き毛を描くのに使った引っかきの技法が、40年ほどたって、より大胆な形で使われているのです。

レンブラントは1669年10月4日にアムステルダムで亡くなり、西教会(ウェステルケルク)に埋葬されました。ライデン・コレクションによれば、遺産には未完成の絵があり、最後まで制作を続けていたことがうかがえます。1664年の、ヨーロッパの優れた画家を挙げた一覧では、レンブラントは「われらが時代の驚異」と呼ばれていました。

メトロポリタン美術館によれば、レンブラントは17世紀のオランダとドイツの多くの画家に影響を与え、18世紀にはヨーロッパ各地の画家(フラゴナールやティエポロなど)に、19世紀には幅広い写実主義の画家たちにも刺激を与えました。同館は、レンブラント風の絵で本人の作でないものの多くは、レンブラントの存命中に描かれていると書いています。それだけ多くの人が、当時からレンブラントの描き方を求めていたということです。

レンブラントの代表作

本記事で取り上げた作品を中心に、代表作と所蔵館を一覧にまとめます。

制作年作品名所蔵
1625年『聖ステパノの石打ち』リヨン美術館
1628年ごろ『自画像』アムステルダム国立美術館
1631年『読書する老女(預言者アンナ)』アムステルダム国立美術館
1632年『トゥルプ博士の解剖学講義』マウリッツハイス美術館(ハーグ)
1633年『ヨハネス・ウテンボハールトの肖像』アムステルダム国立美術館
1638年ごろ『石橋のある風景』アムステルダム国立美術館
1639年『マリア・トリップの肖像』アムステルダム国立美術館
1640年『34歳の自画像』ロンドン・ナショナル・ギャラリー
1642年『夜警』アムステルダム国立美術館
1643年『三本の木』(エッチング)アムステルダム国立美術館ほか
1653年『ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス』メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
1661年『使徒パウロに扮した自画像』アムステルダム国立美術館
1662年『織物商組合の見本調査官たち』アムステルダム国立美術館
1665〜1669年ごろ『イサクとリベカ(ユダヤの花嫁)』アムステルダム国立美術館

まとめ

いかがだったでしょうか。レンブラントの人生と作品をご紹介しました。

レンブラントは1606年にライデンの粉屋の家に生まれ、大学を離れて画家の道に進みました。一度も外国へ行くことなく、自分の国で見られる作品と、身のまわりの人や物の観察から学び続けます。アムステルダムに移ってからは肖像画家として成功し、1639年には大きな家を構え、『34歳の自画像』ではルネサンスの巨匠と自分を並べてみせました。1642年の『夜警』では、集団肖像画の人物に動きを与えています。

1650年代には破産を経験しますが、その後も『使徒パウロに扮した自画像』『織物商組合の見本調査官たち』『ユダヤの花嫁』といった傑作を描き続けました。約350点のエッチングを残した版画家でもあり、40点を超える自画像で自分の顔を見つめ続けた画家でもあります。

レンブラントの絵を見るときは、まず光がどこに当たっているかを探してみてください。若い日の自画像の頬、老女の手と本、隊長の手、そしてユダヤの花嫁の金色の袖。光の当たる場所に、画家がいちばん見てほしかったものがあります。

Euphoric " " の視点

若い画家にはイタリアへ行って学ぶよう勧めるのがふつうだった時代に、レンブラントは一度も外国へ行きませんでした。自分の国で見られる作品から、必要なことはすべて学べると考えていたといいます。

そのかわりに、街の人々や物乞い、サーカス、女性や子どもを絶え間なくスケッチしました。カラヴァッジョの明暗も、イタリアで暮らした経験のある画家たちの作品を通して学んでいます。

20代の自画像で巻き毛を描いた、筆の柄で絵の具を引っかく方法は、40年ほどのちの『ユダヤの花嫁』で、より大胆な形で使われました。

学ぶ場所の遠さより、手の届くものをどれだけ深く見たかが、表現を育てるのかもしれません。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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