こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはギュスターヴ・モローという人物をご存知ですか?
モローは19世紀のフランスで活躍した、象徴主義を代表する画家です。ギリシャ神話や聖書の場面を、宝石をちりばめたような細密な装飾で描き、サロメが洗礼者ヨハネの首の幻影と向き合う『出現』などで知られています。見たことのない世界なのに、一度見ると忘れられない。そんな絵を描いた人です。
ほかの画家と大きく違うのは、自分の家そのものを美術館にして、作品を丸ごと国に遺したことです。その家はいまも美術館として公開され、絵画・水彩・下絵(カルトン)が約1,300点、素描が5,000点近く展示されています。さらに晩年は教授として、マティスやルオーといった次の世代の画家を育てています。
本記事ではそんなギュスターヴ・モローの人生と作品についてご紹介します。
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Toggleギュスターヴ・モローって?

基本情報
| 本名 | ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau) |
| 生年月日(没年月日) | 1826年4月6日〜1898年4月18日(72歳没) |
| 国籍/出身 | フランス・パリ |
| 学歴 | 画家フランソワ・エドゥアール・ピコの私設アトリエで受験準備をし、1846年にエコール・デ・ボザール(パリの国立美術学校)に入学。1849年に退学 |
| 分野 | 絵画(油彩・水彩)、素描 |
| 傾向 | 象徴主義。ギリシャ神話や聖書を主題にした「歴史画」を、想像力の世界へ広げた |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ピコ(師)、テオドール・シャセリオー(友人であり、影響は決定的だったと伝えられています)、イタリア留学で模写したミケランジェロ、ヴェロネーゼ、ラファエロ、コレッジョ、ヴェネツィアで出会ったカルパッチョ |
モローと同じ時代のパリで活動した画家や、象徴主義につながる作家については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
象徴主義って?
モローを語るうえで欠かせないのが「象徴主義」という言葉です。ざっくり言うと、目に見える現実をそのまま写すのではなく、心の中にあるものや、言葉にならない気分を、象徴(シンボル)を通して表そうとする流れです。19世紀の終わりごろ、科学や合理的な考え方が強くなった時代への反発として、ヨーロッパの各地に広がりました。
狭い意味での象徴主義は、詩人ジャン・モレアスが1886年に新聞『フィガロ』で宣言を発表した文学の集まりを指します。ただ、現実を写すことや自然主義から距離を置き、想像力に重きを置く姿勢は、同じ時期の多くの画家にも共通していました。モローはその代表格として語られる画家です。
モロー自身は、亡くなる前年の1897年に、自分は画家にしては文学的すぎると不当に見られ続け、生涯それに苦しんだと語ったと、モロー美術館は伝えています。それでもモローは、過去の伝統に拠りながら、自分の内側にある「ひらめき」を描き、想像力に第一の役割を与えようとしました。同館の解説は、モローが歴史画というジャンルに新しい息を吹き込んだと説明しています。
経歴と作品
パリの建築家の家に生まれて(1826年〜1846年)
ギュスターヴ・モローは、1826年4月6日にパリで生まれました。父ルイは建築家で、息子に古典の教養をしっかり身につけさせた人物です。母ポーリーヌは、体の弱いこの少年をとても大切に育てました。
モローは8歳のころから絵を描き続けていたといいます。1836年から1840年にかけては中等学校(コレージュ・ロラン)に通いましたが、健康を案じられて学校を離れ、父のもとで大学入学資格(バカロレア)の準備を進めました。1841年には、北イタリアへの最初の旅行に出かけ、素描の画帖を持ち帰っています。
1844年から1846年にかけては、新古典主義の画家フランソワ・エドゥアール・ピコの私設アトリエに通いました。ピコは教会や公共建築の装飾を手がけた画家です。モローはここで、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)の入学試験に向けた準備をします。そして1846年、無事に入学を果たしました。
ローマ賞に届かず、シャセリオーと出会う(1846年〜1857年)
当時のエコール・デ・ボザールの学生にとって最大の目標は、優勝者がローマ留学の機会を得られる「ローマ賞」でした。モローはこの賞に二度挑みましたが、届きませんでした。1849年、二度目の失敗のあとに、モローは学校を去ります。
その後はルーヴル美術館で名画の模写に励みながら、美術行政の機関から小さな注文を受けて暮らしました。この時期の最大の出来事が、1851年のテオドール・シャセリオーとの出会いです。シャセリオーはアングルの弟子だった先輩の画家で、モローは彼のアトリエの近く、ピガール広場に近いフロショ通りにアトリエを借りて、親しく付き合うようになりました。美術館の年表は、このシャセリオーがモローに与えた影響を「決定的」と記しています。
1852年、モローは初めて官展(サロン)に入選しました。劇場やオペラにもよく通っていたこの時期、両親はパリのラ・ロシュフコー通り14番地の一軒家を、息子の名義で買います。この家の上の階(フランス式の数え方で3階、日本の4階にあたります)が、モローのアトリエになりました。のちに美術館となる家は、ここから始まります。
1856年にシャセリオーが亡くなり、モローは大きな支えを失いました。1857年の秋、モローはイタリアに向かいます。
イタリアへの留学とドガとの出会い(1857年〜1859年)
1857年10月から1859年にかけて、モローはイタリアに滞在しました。各地でミケランジェロ、ヴェロネーゼ、ラファエロ、コレッジョなどの巨匠の作品を熱心に模写しています。ローマのあとはフィレンツェ、ミラノを経てヴェネツィアに着き、ここでカルパッチョの絵に出会いました。1859年の9月にパリに戻るまで、ナポリで両親と合流するなど、約2年にわたる長い旅でした。
この留学で忘れてはならないのが、のちに印象派の画家として知られるエドガー・ドガとの出会いです。ドガは1858年の初めにローマでモローと知り合い、フィレンツェでも再会しています。1859年の3月には、一緒にシエナやピサを訪れました。この時期のドガは、年上のモローを導き手のように慕っていたようです。ふたりの歩む方向は、のちに大きく分かれていきます。
また、帰国の直後、モローはアレクサンドリーヌ・デュルーという女性と出会ったと考えられています。モローが絵の手ほどきをしたこの女性は、1890年に亡くなるまで、モローにとって「いちばんの、そして唯一の友人」でした。
『オイディプスとスフィンクス』で一躍有名に(1860年〜1864年)
1862年2月には父が亡くなりました。そして1864年、モローはサロンに復帰します。出品したのが『オイディプスとスフィンクス』です。
『オイディプスとスフィンクス』(1864年)
この作品の舞台は、ギリシャ神話のテーバイ(テーベ)の近くです。スフィンクスは旅人に謎をかけ、答えられない者を殺す怪物でした。若者オイディプスは、その謎を見事に解いてスフィンクスを打ち負かし、のちにテーバイの王になります。モローが描いたのは、その対決の瞬間です。
画面では、裸身のオイディプスと翼を広げたスフィンクスが、顔を近づけて向かい合っています。スフィンクスの前足はオイディプスの胸にかかり、まるで抱きつくようです。足もとの岩の上には、怪物の犠牲になった人々の体の一部が転がっています。モロー美術館の解説は、この対決を、善と悪、精神と物質的な力、そして男女両性のあいだの対決だと説明しています。オイディプスの足もとと手にある月桂樹の枝は、勝利を暗示するとされています。
この絵は、当時のサロンで大きな反響を呼びました。新聞『ジュルナル・デュ・ロワレ』は、サロン会場に雷鳴がとどろいたようだと評しました。テオフィル・ゴーティエ、マクシム・デュ・カンなどの批評家が称賛した一方で、ドーミエ、シャム、グレヴァンといった画家や風刺画家は、この作品を風刺画に描いています。作品を買い上げたのは、収集家として知られたナポレオン公(プランス・ナポレオン)でした。
メトロポリタン美術館には、この作品が1920年の遺贈(ウィリアム・H・ヘリマン氏)を経て収蔵されています。縦約206cm、横約105cmの縦長の大作です。パリのモロー美術館には、この絵の制作途中のものとみられる、木炭と白チョークで描かれた同じ構図の大きな素描(下絵の一種)が残っています。美術館の説明によると、素描には完成作にある槍や逃げ惑う鳥、足もとの人体の断片がありません。
サロンでの成功と批判(1865年〜1869年)
『オイディプス』の成功で、モローは一躍、注目の画家になりました。1865年の11月には、皇帝ナポレオン3世に招かれてコンピエーニュに滞在しています。サロンには、『イアソン』『オルフェウス』(どちらもオルセー美術館)など、ギリシャ神話にもとづく作品を続けて出品しました。
『オルフェウス』(1865年)

『オルフェウス』は、ギリシャ神話の詩人で竪琴の名手、オルフェウスの首を扱った作品です。オルフェウスは歌と音楽で野獣さえも魅了しましたが、最後はトラキアの女たちに殺されたと伝えられています。その首は竪琴とともに川に流されました。
画面の中央には、細かな文様の衣をまとったトラキアの若い女性が立っています。彼女は両手で、竪琴の上にのせたオルフェウスの首を、そっといたわるように抱えています。背後は夕暮れの光に染まった静かな風景です。殺された詩人の首を扱いながら、血なまぐささよりも、悲しみや静けさが際立つ画面になっています。この絵は1866年のサロンに出品され、同じ年に国がモローから買い上げました。いまはパリのオルセー美術館が所蔵しています。
『Prometheus(プロメテウス)』(1868年)

1869年のサロンでは、『Prometheus』と『L’Enlèvement d’Europe(エウロペの誘拐)』の2点を出品しました。モローはメダルを得ましたが、批評家たちからは厳しい評価を受けています。このときの経験から、モローはその後、1876年までサロンへの出品をやめてしまいます。
プロメテウスは、ギリシャ神話のティタン(巨神)の一人です。神々から火を盗んで人間に与えた罰として、カウカソスの山頂に鎖でつながれ、鷲に肝臓をついばまれ続けます。その肝臓は何度でも再生したといいます。モローの絵では、険しい岩の上に座る、たくましい男の体が画面の中央を占めています。わき腹のそばには鷲がいて、頭の上には小さな炎が浮かんでいます。
モロー美術館の解説によると、批評家たちに退けられたこの絵に目をとめたのが、テオフィル・ゴーティエでした。ゴーティエは、モローがプロメテウスを巨大なティタンとしてではなく、キリストにどこか似た一人の人間として描こうとしたようだ、と評しています。プロメテウスもまた人間を救おうとし、人間のために苦しんだからです。
サロメと、1876年のサロン復帰(1870年代)
1876年、モローは7年ぶりにサロンに戻ってきます。このときの出品作は、『ヘロデ王の前で踊るサロメ』、『Hercules and the Lernaean Hydra(ヘラクレスとレルネーのヒュドラ)』、『Saint Sebastian(聖セバスチャン)』、そして水彩の『出現』でした。
『出現』(1876年)

『出現』は、新約聖書(マタイによる福音書14章)の物語から生まれた作品です。ヘロデ王とヘロディアの結婚を非難した洗礼者ヨハネは、牢に入れられます。ヘロディアの娘サロメが王の前で踊ると、母ヘロディアはサロメに、その褒美としてヨハネの首を求めるよう促しました。聖書では、この話は短く語られるだけで、サロメは事件の首謀者ではありません。
モローが描いたのは、その場面そのものではなく、ヨハネの首が空中に浮かび、後光を放ちながらサロメの前に現れるという、聖書にはない幻影です。画面の左には、半裸で首を指さすサロメ、右には剣を持って無表情に立つ死刑執行人がいて、左奥にはヘロデ王の姿もあります。背景は、柱やアーチが細かな装飾で埋めつくされた宮殿です。
この水彩の『出現』は、フランスの作家ジョリス=カルル・ユイスマンスが小説『さかしま(A rebours)』の中で、数ページを割いて語ったことでも知られています。パリのモロー美術館には、この水彩と同じ図像を油彩で描いた大きなキャンバス(縦142cm、横103cm)も所蔵されています。

油彩のほうでは、暗い背景に細い線の網目が走り、異教の神々の像や中世風の装飾がまじった不思議な建築を形づくっています。モロー美術館は、はるか昔の時代や遠い文明から借りたこうした装飾が、いつ、どこの出来事なのかを分かりにくくし、聖書の一場面を一つの寓話、絵に描いた詩に変えていると説明しています。
『牢獄のサロメ』(1873年〜1876年頃)

日本でもモローの『サロメ』に出会える場所があります。東京の国立西洋美術館が所蔵する『牢獄のサロメ』は、1873年から1876年頃に描かれた油彩画(縦40cm、横32cm)です。同館の記録では、右下にモローの署名があり、画面の裏にも題名と署名が記されています。
この絵の主題は、洗礼者ヨハネの斬首です。国立西洋美術館の解説では、世紀末芸術のサロメは男を破滅させる「ファム・ファタル(運命の女)」として描かれることが多いなか、この絵ではヨハネに対するサロメの微妙な心理が捉えられていると説明されています。
この作品は、松方幸次郎が集めた松方コレクションの一つです。1944年にフランス政府に接収されたのち、1959年に寄贈返還の形で日本に戻りました。同館のサイトでは、常設展の展示作品として案内されています(2026年6月更新の情報。展示替えの可能性があります)。
家にこもって描いた、夢の世界(1877年〜1890年)
サロンに復帰したモローは、1878年にはパリの万国博覧会に6点の絵画を出品しています。一方で、1880年に『ヘレネ』と『ガラテア』を出品したのを最後に、サロンには出なくなりました。1882年にはアカデミー・デ・ボザール(美術アカデミー)の会員選挙に立候補して落選しましたが、1883年にはレジオン・ドヌール勲章のオフィシエ(将校)に昇進しています。
1884年に最愛の母が亡くなり、モローは深い絶望に沈みます。1886年には、『La Vie de l’Humanité(人類の生涯)』と題した多連画(ポリプティク)を完成させています。同じ年、モローはパリのグーピル画廊で個展を開きました。これが、生前に開かれた唯一の個展です。
1879年からは、ラ・フォンテーヌの『寓話』の挿絵として、水彩を64点も描く仕事も始めています。完成した水彩は個人の所蔵ですが、その習作はモロー美術館に残されています。
『The Unicorns(一角獣たち)』

この時期の代表作のひとつが『Les Licornes』(英題 The Unicorns)です。画面には、遠くに船の見える水辺を背に、豪華に着飾った女性たちが集まっています。そのうち2人の女性が、一角獣を腕に抱いています。1887年7月14日、アトリエでこの絵を見た収集家のエミール・ストロースは、これまでに見たなかで最も美しいものの一つだと、感激を書き残しています。
この作品は、エドモン・ド・ロスチャイルドの注文で描かれたものでした。ところがモローは、これを手放しませんでした。注文主から、もっと仕上げてほしいと言われたことに腹を立てたらしいと、美術館は推測しています。代わりに引き渡されたのは、仕上がりの完璧な別の水彩『David dansant devant l’Arche』(契約の箱の前で踊るダビデ、の意。現在の所在は不明)でした。
この絵は、パリのクリュニー中世美術館が1882年に購入した、6枚の有名なタピスリー『貴婦人と一角獣』と主題が通じていると、美術館は解説しています。モローは、中世由来の装飾にルネサンスの装飾を重ね、さらに雑誌『ル・マガザン・ピトレスク』の図版も取り入れながら、自分の美学の柱だった「必要な豊かさ」を画面に実現しました。モロー自身は、この絵を、女性だけが集まる魔法の島の情景と説明しています。画面の右端には聖杯のような杯があり、神秘的な空気を高めています。
『The Chimeras(キマイラたち)』(1884年)

『Les Chimères』(英題 The Chimeras)は、1880年頃に着手され、1884年の日付と署名が入った大作です。ただし、モローはこの絵を完成させませんでした。1884年は、母が亡くなった年です。色調をおさえた画面と繊細な線は、中世のタピスリーのような雰囲気を作り出しています。構図は、ヴェネツィアでカルパッチョの『アララト山の一万人の殉教』を研究した経験が土台になっていると、美術館は説明しています。
この絵には、『Décaméron satanique』(悪魔的なデカメロン、の意)という副題があります。画面には、欲望、気まぐれ、空想など、女性が持つとされるさまざまな情念がそれぞれ化け物(キマイラ)を連れた姿で描かれています。中央には山羊に乗った「肉欲」の寓意があり、右側には翼のある牡牛に乗る女性や、一角獣をなでる女性もいます。それぞれの女性は精神的な成長の異なる段階にいて、険しい岩山は、彼女たちが救いに至るまでの道のりを示すとされています。女性を欲望や誘惑に結びつけるこの発想は、19世紀のものであることも意識して見たいところです。
『The Suitors(求婚者たち)』(1852年着手)

もう1点、この時期に手を入れ続けた大作が『Les Prétendants』(英題 The Suitors)です。着想は1852年にまでさかのぼり、イタリア留学から戻った1859年末以降に本格的に取り組まれました。画面は1882年頃、縦横に布を継ぎ足して今の大きさになり、継ぎ目は今も見えています。結局、完成はしませんでした。縦約3.4m、横約3.9mの巨大な画面です。
題材は、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』第22歌です。長い旅から故郷のイタカ島に戻ったオデュッセウス(ラテン語名ユリシーズ)が、留守中に妻ペネロペイアに言い寄っていた若い貴族たちを、弓で討ち果たす場面を描いています。画面の奥には、弓を持つオデュッセウスと、その上に光輪をまとって現れる女神アテナ(ミネルヴァ)がいます。美術館は、この女神の姿を最後の審判のキリストにたとえています。
そして画面全体を埋める、折り重なった無数の体。その中から、いくつかの人物が浮かび上がります。右には、青い服をまとった中性的な若者。中央には、竪琴にひじをつく、詩人の若者。これは、オデュッセウスが命を助けた吟遊詩人フェミオスだと説明されています。モロー自身は、この人物を、死を前にしても夢をあきらめない、若く美しい「ギリシャ」の姿だと解釈していました。左側の、静かに死を待つ2人の若者について、モローは、劇的な場面に静かな人物を置いて目を休ませるのは古代人もよくやったことだ、という趣旨の言葉を残しています。
教授として、そして遺作となる大作へ(1888年〜1898年)
1888年、モローはついにアカデミー・デ・ボザール(美術アカデミー)の会員に選ばれました。1882年の落選から6年後のことです。1890年には、親しいアレクサンドリーヌ・デュルーが亡くなります。深く打ちのめされたモローは、彼女の思い出に『Orphée sur la tombe d’Eurydice』(エウリュディケの墓の上のオルフェウス、の意)を描きました。
1891年、エコール・デ・ボザールの教授だったエリー・ドゥローネーが亡くなります。ドゥローネーはイタリア留学のころからの友人で、臨終の際に、モローを自分の後任にと望みました。モローは1892年1月にこの職に就き、亡くなるまで教え続けます。生徒数は、全部で125人にのぼりました。
『Jupiter and Semele(ユピテルとセメレ)』(1889年〜1895年)

晩年のモローの集大成と言われるのが、『Jupiter et Sémélé』(英題 Jupiter and Semele)です。美術館の解説では、1889年に最初の下絵が描かれ、注文主レオポルド・ゴルドシュミットに納められたのは1895年でした。ゴルドシュミットはその後の1903年に、この作品をモロー美術館に寄贈しています。縦約212cm、横約118cmの縦長の画面で、美術館はこれを、モローの「絵画による遺言」とも言える作品と位置づけています。
題材はギリシャ神話です。テーバイの王女セメレは、神々の王ユピテル(ゼウス)の恋人でした。ところが、ユピテルの妻ユノ(ヘラ)は嫉妬に駆られ、セメレの乳母に姿を変えて近づきます。そして、恋人に神としての本当の姿を見せるよう求めなさい、とそそのかしました。人間が神の本当の姿を見れば命を落とす。それを知っていてのたくらみでした。
画面では、玉座に座るユピテルが、光に包まれて本来の姿を現しています。その光に打たれたセメレは、ユピテルの膝の上で白い体をのけぞらせています。ユピテルは、通常のユピテルと違って髭がなく、手には竪琴を持っています。竪琴は本来、アポロンやオルフェウスの持ち物で、モローはユピテルを「詩人の神」としても描いたのです。足もとには、剣を手にした「死」と、いばらの冠をかぶり百合を持つ「苦しみ」の寓意があります。モローはこの2人を、人間の人生の悲劇的な土台と呼びました。
玉座のまわりは、宝石のように密に描きこまれた草木と、無数の小さな人物たちで埋め尽くされています。美術館は、モローが絵画を七宝(エナメル)にも負けない豊かな芸術にしようと考えていたことを、この絵がいちばんよく示していると説明しています。
美術館になった家(1895年〜1903年)
モローは、早くから自分の作品の行く末を気にかけていました。1862年12月24日の夜、まだ無名だった画家は、素描の下に短い言葉を書き留めています。自分の死と、これまで集めてきた「かわいそうな小さな仕事」のことを考えると、バラバラになれば作品は滅びてしまう、けれど一緒にあれば、自分がどんな芸術家で、どんな世界で夢を見ていたかが少しは伝わるのではないか、という内容です。
身近な人々を相次いで失った晩年、モローは多くの絵を手放さず、ラ・ロシュフコー通りの家に積み上げて、描き続けました。そして1895年4月、建築家アルベール・ラフォンに依頼して、この家を美術館に改築してもらいます。住居だった階の部屋には、家族の肖像や、友人のシャセリオー、フロマンタン、ドガから贈られた作品を飾り、思い出をたどる小さな美術館のようにしました。その上の2つの階は、北向きに大きなガラス窓を持つ広いアトリエに改装され、螺旋階段でつながれました。ここに、数百点の絵画と水彩、数千点の素描を展示できるようになったのです。
1897年9月10日の遺言書で、モローは計画の仕上げを旧友アンリ・ルップに託しました。そして1898年4月18日、モローは72歳で亡くなります。葬儀はパリのトリニテ教会で営まれ、遺体はモンマルトル墓地に埋葬されました。遺言には、家とその中にあるもの全てを国に遺し、できるだけ長く、作品全体の姿をそのまま保ってほしい、という願いが込められていました。
この遺贈は、1902年に国によって受け入れられました。そしてモロー美術館は、1903年に開館します。展示のしかたは、現在まで基本的に変わっていないといいます。同館では、約1,300点の絵画・水彩・下絵と、5,000点近い素描を見ることができ、一つの作品が生まれるまでの流れを、素描から追いかけることもできます。これは美術史でもほとんど例のないことだと、同館は説明しています。
素描と色彩、モローの技法
モロー美術館に素描が大量に残っているのは、モローが、絵を描く前の準備を重要視していたからです。素描の様式は新古典主義的で、ダヴィッドやアングル、そしてシャセリオーに近い方法を、美術学校で学んだ時代から保ち続けたといいます。1860年以前は特に、赤褐色のチョーク(サンギーヌ)を多く使いました。トレーシングペーパーを使い、素描を最終的な下絵(カルトン)へと写し取る手順も、モローは好みました。
また、モローは自然の観察も大切にしていて、動物の写生もたくさん残しています。資料は、版画集、写真、古代の模範など、幅広い範囲に及びました。雑誌『ル・マガザン・ピトレスク』を創刊号から揃えていたほか、国立図書館の版画室に通い、インドやペルシャの細密画集やルネサンスの版画を調べています。浮世絵も集めていたと伝えられています。画面に現れる、東洋や中世の不思議な装飾の背景には、こうした資料への探求がありました。
水彩について、美術館は、モローが画家としての「内緒の告白」や、人前には出せなかった大胆な試みをこの技法に込めたと説明しています。完成度を競う大きな油彩よりも、むしろ水彩のほうが、探し求めていた結果に近づけたとモロー自身が感じたこともあったようです。色の美しさをそのまま楽しめるのが水彩の魅力で、モローは生徒たちに、色彩への想像力を持つように、と繰り返し伝えていたとされています。
弟子たちと、のちの世代への影響
教授としてのモローは、生徒に自分のスタイルを押しつけませんでした。生徒それぞれの個性が育つことだけを、唯一のルールとしたと伝えられています。そのため、モローのアトリエからは、まったく違うタイプの画家が育ちました。教え子には、アンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アルベール・マルケ、シャルル・カモワン、アンリ・エヴェヌプールなどがいます。
注目したいのは、モローが生徒たちに、ルーヴル美術館に通って昔の巨匠の作品を見るように勧めたことです。マティスはのちに、当時の美術学校で、生徒を美術館に向かわせることは、ほとんど革命的なことだった、と振り返っています。1903年には、モローの弟子ジョルジュ・ドゥヴァリエールらが共同創設者となって、サロン・ドートンヌ(秋のサロン)が始まりました。モロー美術館によれば、このサロン・ドートンヌは1905年、批評家ルイ・ヴォークセルに「野獣の檻」と呼ばれました。「フォーヴィスム(野獣派)」という名のもとになった言葉です。そこには、マティス、ルオー、ルネ・ピオなど、モローの教え子が多く出品していました。
1903年にモロー美術館が開かれたとき、最初の来館者を驚かせたのは、完成していない下描きや習作の多さでした。審美家のロベール・ド・モンテスキウは、ここで完成作を探さないようにと来館者に忠告し、ある批評家は、下描きと未完成を好む当世の病だと批判しました。こうした作品が注目され始めるのは、1960年代になってからのことです。モローは晩年、もう誰にも何も証明しなくてよくなり、自由に表現できることだけが喜びだと語っています。美術館は、こうした作品をいま「抽象」と呼ぶのは性急だとしながらも、モローを、本人も知らないうちに新しい芸術の先がけになった画家と位置づけています。シュルレアリスムの人々も、自分たちをモローの後継者と名乗りました。同館は、古代の神話や聖書の物語を生き返らせたことがモローの天才だという、アンドレ・ブルトンの見方を紹介しています。
まとめ
いかがだったでしょうか。ギュスターヴ・モローの人生と作品について、ご紹介しました。
1826年にパリの建築家の家に生まれ、ローマ賞には届かず、シャセリオーに導かれ、イタリアの巨匠たちから学んだモロー。1864年の『オイディプスとスフィンクス』で一躍脚光を浴び、『出現』や『牢獄のサロメ』ではサロメという主題を新しい姿に変え、『ユピテルとセメレ』では、神話と聖書と東洋の装飾を、一つの画面に重ね合わせました。
もう一つ忘れたくないのは、モローが、作品を自分の手元に残して、家ごと美術館にしたことです。同時に、教授として次の世代の画家に、自由に描くことの大切さを伝えました。作品と教え子、その両方が、モローが残したものです。東京の国立西洋美術館にも『牢獄のサロメ』があります。機会があれば、ぜひ実際の作品の前に立ってみてください。
Euphoric " " の視点
モローは、まだ無名だった1862年12月24日の夜、素描の下に短い言葉を書き留めています。それから35年後の遺言で、家とその中にあるもの全てを国に遺しました。作品全体の姿をそのまま保ってほしい、という願いからです。
教授としては、生徒それぞれの個性が育つことだけを唯一のルールとしました。生徒は全部で125人にのぼります。
1点ずつの評価より、仕事の全体をどう残すかを考え続けた画家でした。その作品が注目され始めるのは、1960年代になってからです。
すぐに届かなくても、まとまった形で残しておけば、受け取る人は後から現れるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






