【徹底解説】オディロン・ルドンとは?夢と目を描いた象徴主義の画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】オディロン・ルドンとは?夢と目を描いた象徴主義の画家の人生と作品を解説!
画像:『The Cyclops(Le cyclope)』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはオディロン・ルドンという人物をご存知ですか?

19世紀末から20世紀初めのフランスで活躍した、象徴主義を代表する画家であり、版画家でもあります。海の上に浮かぶ巨大な頭、気球のように空へ昇っていく目玉、花に囲まれて眠る顔。夢のなかでしか出会えないような光景を、ルドンは前半生には木炭と石版画の黒で描き、のちには色彩あふれるパステルと油彩で描きました。

黒から色へ。その転換のしかたに、この人の面白さが詰まっています。本記事ではそんなオディロン・ルドンの人生と作品についてご紹介します。

オディロン・ルドンって?

オディロン・ルドン『Self-Portrait』(制作年不詳)
オディロン・ルドン『Self-Portrait』(制作年不詳)シカゴ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

シカゴ美術館が所蔵する、ルドンの自画像です。黄褐色の紙に木炭で描かれたもので、ひげをたくわえた顔が、大きな余白の中央にぽつんと浮かんでいます。同館の記録では、制作年は不詳です。

基本情報

本名ベルトラン・ルドン(Bertrand Redon)。オディロン(Odilon)の名で知られています
生年月日(没年月日)1840年4月20日〜1916年7月6日(76歳没)。生まれた日は、岐阜県美術館の解説では4月20日、フランス国立図書館の典拠データでは4月22日となっています
国籍・出身フランス/ボルドー
学歴ボルドーで画家スタニスラス・ゴランに学びました。パリの国立美術学校(エコール・デ・ボザール)の建築の試験には通らず、1864年に同校に入ってジャン=レオン・ジェロームに短期間師事しました
分野木炭画、石版画(リトグラフ)、エッチング、パステル、油彩
傾向象徴主義。黒を主役にした「ノワール」の時代から、色彩の時代へ
師事した人物・影響を受けた人物スタニスラス・ゴラン(画家)、ロドルフ・ブレスダン(版画)、アルマン・クラヴォー(植物学者で友人)、アンリ・ファンタン=ラトゥール(リトグラフ)、小説家ユイスマンスや批評家エミール・エヌカンら文学者たち

ルドンの作品は日本の展覧会でも紹介されています。展覧会の情報については、以下の記事でもご紹介しています。

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【展覧会】「オディロン・ルドン 夢の交叉 ―画家として、批評家として―」がヤマザキマザック美術館で開催!

同じ象徴主義の流れをくむ画家や、怪物のイメージを描いた先人については、以下の記事も参考になります。

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象徴主義って?

ルドンを語るうえで外せないのが象徴主義という言葉です。クレラー=ミュラー美術館の解説によれば、象徴主義は19世紀末の美術の動きで、無意識や、並外れたもの、説明のつかないものへの強い関心を特徴としています。

目に見える世界をそのまま写すのではなく、目に見えないもの、つまり心の奥や夢、不安や祈りを、形や色に置き換えて表そうとした人たちです。ルドンはその代表格のひとりとして語られます。同美術館は、ルドンの作品を、妖精や怪物、霊などが住む夢の世界を描いたものと説明しています。

「ノワール」と「色彩」って?

もう一つ、この記事で何度も出てくる言葉があります。ゲティ美術館の解説によれば、ルドンは木炭などの黒い画材で描いた、陰影の濃い素描をノワール(フランス語で「黒」)と呼びました。1870年代から1880年代の彼は、主にこのノワールに取り組んでいます。

ゲティ美術館は、ルドンがさまざまな黒を、あたかも色彩のスペクトルのように使い分けていたと説明しています。黒一色のなかに、光と闇のやりとりを探っていたということです。そして1890年代以降、同じ人物がパステルや油彩に移り、鮮やかな色の世界へ進んでいきます。黒から色への転換は、ルドンの生涯を二つに分ける大きな軸です。

経歴と作品

ボルドーに生まれて

ルドンは1840年、フランス南西部のボルドーに生まれました。本名はベルトランです。

幼い日々を過ごしたのは、ボルドーの北西、メドック地方にある一家の地所ペイルルバードでした。オルセー美術館の解説によれば、ルドンは生後2日で乳母に預けられ、両親と離れて、幼少期のほとんどをこの土地で送りました。同館は、荒れ地と沼の広がるもの悲しい風景が、内向的で体の弱かった少年にとって、絵の原点になったと説明しています。

絵への関心は10代で芽生えましたが、学校での歩みは順調ではありませんでした。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の資料によれば、ルドンはパリの国立美術学校(エコール・デ・ボザール)の建築の試験に落ちています。弟のガストンは、建築家になりました。

そんなルドンの知的な支えになったのが、アルマン・クラヴォーという人物です。クリーブランド美術館の解説によれば、ルドンは20歳のとき、ボルドー地方の植物を調べ上げ、みずから図を描く植物学者だったクラヴォーに出会いました。MoMAの資料は、クラヴォーが科学と想像力のつながりを示し、エドガー・アラン・ポーやボードレールといった作家をルドンに教えたと説明しています。最初の絵の先生だった画家スタニスラス・ゴランも、ルドンを励ましたひとりです。ルドンの画面に、花や植物に似た不思議な生き物が繰り返し現れるのは、この出会いと無関係ではなさそうです。

パリ、そして版画との出会い

1864年、ルドンはパリの国立美術学校に入り、画家ジャン=レオン・ジェロームのアトリエで学びます。ただし、この期間は短いものでした。岐阜県美術館の解説によれば、ルドンは師の芸術観についていけませんでした。1860年代の半ばごろ、ボルドーで放浪の版画家ロドルフ・ブレスダンに出会い、エッチング(銅版画)の手ほどきを受けます。同館は、ブレスダンが若いルドンの目を、白と黒の豊かな可能性に開かせたと説明しています。

シュテーデル美術館(フランクフルト)の解説によれば、リトグラフ(石版画)を試みるきっかけをつくったのは、画家アンリ・ファンタン=ラトゥールでした。MoMAの資料は、ルドンが本格的に版画に打ち込むようになったのは、1878年に、紙に描いた絵を石の版に写し取る転写リトグラフの技法を覚えてからだと説明しています。

1870年から1871年の普仏戦争でフランスが敗れたあとの時代、ルドンは木炭と石版画を中心にした制作に打ち込みました。ルドン自身が「ノワール」と呼んだ、黒の時代です。

黒の時代:ノワールの世界

ノワールの時代のルドンは、どんな絵を描いたのでしょうか。ゲティ美術館の説明では、不思議な怪物や謎めいた幻影に満ちた、雰囲気のある画面でした。1870年代から1880年代、ルドンは黒い画材だけで、まだ誰も見たことのない光景を描き続けています。

『Guardian Spirit of the Waters』(1878年)

オディロン・ルドン『Guardian Spirit of the Waters』(1878年)
オディロン・ルドン『Guardian Spirit of the Waters』(1878年)シカゴ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

シカゴ美術館が所蔵する、ノワール時代の木炭画です。海を背景に、巨大な人の頭が空中に浮かび、見開かれた目がこちらを見つめています。水平線の近くには、小さな帆船が見えます。

シカゴ美術館の記録によれば、技法は数種の木炭を使い、黒チョークを少し加えて、ぼかし、消し、線を刻み、スポンジで明るい部分を抜き、白チョークをわずかに添えたもので、紙は黄金色に変色したクリーム色の紙です。黒一色といっても、さまざまな道具を重ねて、深い陰影をつくっていることが分かります。

同館の来歴の記録では、1899年12月にルドン自身から画商アンブロワーズ・ヴォラールに売られ、その後パリのアンリ・プティエの所蔵を経て、1950年にシカゴ美術館に売却されました。題の意味は「水の守護霊」です。

石版画で夢を広める

木炭画は、世界に一点しかありません。MoMAの資料によれば、ルドンがリトグラフを始めたのは、もともと木炭画を複製して広く届けるためでした。やがて、版画そのものを作品としてつくるようになります。

ゲティ美術館によれば、ルドンはテーマごとにまとめた石版画集を、生涯で11作つくっています。これらの石版画集は、文学や宗教の文章と直接かかわるものが多くありました。ルドンが自分の絵の世界をはじめて世に問うたのは、1879年の最初の石版画集『In Dreams(Dans le rêve、夢のなかで)』でした。岐阜県美術館は、このときルドンがすでに39歳だったことを指摘しています。その後、1882年の『To Edgar Poe(À Edgar Poe)』、1883年の『Les Origines』、1885年の『Homage to Goya』と続きます。シカゴ美術館の記録で、これらの作品名と制作年を確認できます。

ただしルドンは、文章をそのまま絵にしたわけではありません。ゲティ美術館は、フロベールの小説『聖アントワーヌの誘惑』を例に、ルドンが物語の説明ではなく、物語から受け取った刺激をもとに、謎めいた映像をつくり出したと説明しています。この小説に着想を得た石版画集は、全部で3つあります。最初のものが1888年の第1集で、シカゴ美術館にその一枚が所蔵されています。

『The Eye, Like a Strange Balloon Moves Towards Infinity』(1882年)

オディロン・ルドン『The Eye, Like a Strange Balloon Moves Towards Infinity』(1882年)
オディロン・ルドン『The Eye, Like a Strange Balloon Moves Towards Infinity』(1882年、石版画集『To Edgar Poe』より)シカゴ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ルドンの石版画のなかでも、とくに知られている一枚です。題は「目が、奇妙な気球のように、無限へ向かっていく」という意味で、1882年の石版画集『To Edgar Poe』の1枚目にあたります。

画面の中央には、気球のように宙に浮かぶ大きな目玉。その下には、皿のような台にのった小さな人の頭が吊り下がっています。目玉は上を向き、下には暗い水面が広がって、手前に草が生えています。なぜ目が空に上がっていくのか、見る人にはなにも説明されません。

シカゴ美術館の記録では、技法は中国紙に刷った黒のリトグラフで、画面の大きさは縦26.3センチ、横19.8センチです。A4判よりひと回り小さな画面です。

『さかしま』と象徴主義の仲間たち

ルドンの名が広く知られるきっかけとなったのが、1884年に出版されたジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま(À rebours)』です。MoMAの資料によれば、ルドンは1881年と1882年にはじめての個展を開き、批評家エミール・エヌカンやユイスマンスら、少数の文学者に支持されるようになっていました。この小説のなかで、ルドンの素描は、主人公の極端な退廃ぶりを象徴するものとして登場します。同資料は、ルドンの名を広く知らしめたのはこの小説だったと説明しています。

ルドンは1888年にも、この小説の口絵として、主人公デゼッサントを描いた石版画を制作しています。シカゴ美術館に所蔵されているこの作品の題は『Des Esseintes, Frontispiece for A Rebours by J.K. Huysmans』です。

美術の世界でも、動きがありました。シュテーデル美術館の解説によれば、ルドンは1884年にアンデパンダン展(サロン・デ・ザンデパンダン)の創設に加わり、第8回印象派展にも出品しています。MoMAの資料は、ルドンの支持者がパリとブリュッセルの文学の世界を中心に増えていき、1894年にはパリのデュラン=リュエル画廊で、はじめての大きな回顧展が開かれたと述べています。

ここで押さえておきたいのは、ルドンが印象派の仲間というわけではなかったことです。印象派が目に映る光を追いかけたのに対し、ルドンが追いかけたのは、目を閉じたときに浮かぶものでした。同じ展覧会に並びながら、向いていた方向はまるで違っています。

結婚、そして目を閉じた顔

私生活では、カミーユ・ファルトと結婚しました。オルセー美術館の解説によれば、最初の子を亡くしたあと、1889年に息子のアリ(Arï)が生まれ、ルドンは大きな喜びをもって迎えました。アリはのちに、父が描く肖像画のモデルにもなっています。

この時期に描かれたのが、次の作品です。

『Closed Eyes』(1890年)

オディロン・ルドン『Closed Eyes(Les Yeux clos)』(1890年)
オディロン・ルドン『Closed Eyes(Les Yeux clos)』(1890年)オルセー美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project経由・パブリックドメイン)

オルセー美術館が所蔵する、ルドンの油彩画です。原題は『Les Yeux clos』、題の意味は「閉じた目」。厚紙の上に貼った画布に、ごく薄く溶いた絵具で描かれています。縦44センチ、横36センチの、小さな作品です。

オルセー美術館の解説によれば、モデルはおそらく妻のカミーユ・ファルトで、以前に描いた素描の構図を、色を使ってもう一度描き直したものです。閉じた目は、眠りや死を思わせ、内面の世界、夢、不在、幻影といった、ルドンが繰り返し描いたテーマを呼び起こします。同館は、絵具を極端に薄く溶いているために画面がほとんど実体を失い、画布の織り目が見えていること、胸像が定まらない空間に浮かんでいるように見えることを指摘しています。

同館はまた、この顔が15世紀イタリアの胸像、とくにフランチェスコ・ラウラーナの大理石像を思わせること、ミケランジェロの『瀕死の奴隷』の記憶もあるだろうと述べています。ルドンは日記『A soi-même』(1922年刊)のなかで、『瀕死の奴隷』の閉じた目の不思議な魅力について書いている、と同館は紹介しています。

この作品は、ルドンの作品としてはじめて国のコレクションに入った一枚でもあります。1904年、リュクサンブール美術館の館長レオンス・ベネディトが、ルドンのアトリエで選びました。オルセー美術館は、この作品を、絵画における象徴主義を代表するアイコンと位置づけています。なお日本では、岐阜県美術館が、同じ主題の油彩画『眼をとじて』(1900年以降)を所蔵しています。

色彩への転回

1890年代に入ると、ルドンは新しい画材に手を伸ばしました。パステルと油彩です。ゲティ美術館は、1890年代に始まったこの転換を、鮮やかな色のために、自らの代名詞だった暗い美学を手放した動きとして説明しています。MoMAの資料は、世紀の変わり目までに、ルドンがノワールとリトグラフを手放し、パステルと油彩の輝く色彩に移っていたと説明しています。

なぜ色だったのでしょうか。ロンドンのナショナル・ギャラリーは、この時期のルドンが、年下の画家ポール・ゴーギャン、エミール・ベルナール、モーリス・ドニらと交流したことが、色彩への転換の一因になったと説明しています。同館は、日本の浮世絵の影響にも触れています。装飾的な平面性や、花の使い方に、その痕跡が見えるといいます。

1899年3月には、パリのデュラン=リュエル画廊で開かれた展覧会に作品を出しています。次のパステル画は、そのときの出品作のひとつです。

『Sita』(1893年ごろ)

オディロン・ルドン『Sita』(1893年ごろ)
オディロン・ルドン『Sita』(1893年ごろ)シカゴ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

シカゴ美術館が所蔵するパステル画です。濃い青の夜空を背景に、頭に光の輪を戴いた横顔の女性と、宙に浮かぶ貝のような形が描かれています。技法は、黒のコンテ(クレヨン)を加えたパステルで、下には各種の木炭の描画があり、紙は黄金色に変色したクリーム色の紙です。

ルドンがヒンドゥー教や仏教に関心を寄せていたことは、オルセー美術館の解説でも述べられています。シカゴ美術館の展覧会歴には、インドのラーマの物語を主題にした2016年のサンフランシスコ・アジア美術館の展覧会「The Rama Epic」も載っています。同館の記録では、この作品は1899年3月にデュラン=リュエル画廊の展覧会に出品され、同年4月に同画廊に売られました。1928年のパリの競売を経て、アメリカのコレクターの手に渡り、1954年にシカゴ美術館へ遺贈されました。

黒の時代の幻想の世界が、色を得て輝きはじめた一枚です。

装飾の仕事と、パステルの花

色彩の時代のルドンは、壁面を飾る大きな仕事にも取り組みました。その代表が、ドムシー城館の食堂を飾った一連の装飾画です。持ち主は男爵ロベール・ド・ドムシー。ゲティ美術館は、この男爵をルドンの支援者であり友人だと説明しています。オルセー美術館は、この装飾を『Décor de la salle à manger du château de Domecy(ドムシー城館の食堂の装飾)』の題で15点登録しており、制作年を1901年としています。同館の来歴の記録では、ドムシー男爵の旧蔵品で、1988年に相続税の物納としてフランス国に受け入れられ、オルセー美術館に配属されました。

ルドンはドムシー男爵夫人の肖像も、パステルで描いています。ゲティ美術館が所蔵する『Baronne de Domecy』(1900年ごろ)は、同館が輝くようなパステル画として紹介している作品です。同館によれば、城館の装飾を仕上げてまもなく描かれました。

1905年には、パリのサロン・ドートンヌに、次のパステル画が出品されました。

『Flower Clouds』(1903年ごろ)

オディロン・ルドン『Flower Clouds』(1903年ごろ)
オディロン・ルドン『Flower Clouds』(1903年ごろ)シカゴ美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project経由・パブリックドメイン)

シカゴ美術館が所蔵するパステル画です。題は「花の雲」。雲のような色の塊のなかを、帆をかけた小さな舟が進んでいきます。紙の上にパステルを重ね、ぼかし、線を刻み、筆の痕もまじえています。

同館の来歴の記録では、この作品は1905年10月、サロン・ドートンヌに『Marine(海景)』の題で出品されています。その後の展覧会では『Barque(小舟)』や『Barque au soleil couchant(夕日の小舟)』といった題で記録されており、同じ作品が展覧会ごとに違う題で呼ばれていたことが分かります。

シカゴ美術館の解説は、ノワールが評価されはじめた1890年代に、ルドンがパステルによる色彩の素晴らしさを見いだしたこと、色の導入によって主題との向き合い方も変わったことを述べています。画面の舟には、二つの人影が乗っています。

文学と神話を、色で描く

1900年代のルドンは、文学や神話を主題に、鮮やかな色彩の作品を次々に生み出しました。ここでは、その代表作を3点ご紹介します。

『Ophelia among the Flowers』(1905〜08年ごろ)

オディロン・ルドン『Ophelia among the Flowers』(1905〜08年ごろ)
オディロン・ルドン『Ophelia among the Flowers』(1905〜08年ごろ)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵するパステル画で、同館の公式ページでは42室と案内されています。題は「花のなかのオフィーリア」。シェイクスピアの戯曲『ハムレット』で、悲しみのうちに川で命を落とすヒロインが、色とりどりの花の光に満ちた空間のなかで休んでいます。

ナショナル・ギャラリーの解説によれば、花は鮮やかなのに、オフィーリアの顔だけは色を失っています。目は閉じられていて、死んでいるのか、眠っているだけなのか分かりません。同館は、この作品を、シェイクスピアの悲劇をそのまま描いた挿絵ではなく、夢のように曖昧な応答として説明しています。パステルの豊かな色で、光り輝くほとんど抽象的な画面をつくり、音楽のような効果を生んでいるとも述べています。

また同館によれば、ルドンは1900年から1908年にかけて、この溺れるオフィーリアという主題に何度も戻っています。ドラクロワの『オフィーリアの死』を知っていたこと、1895年にロンドンを訪れた際にミレイの『オフィーリア』を見ていたことも説明されています。ただし、細部まで描き込んだミレイとは対照的に、ルドンは場所も大きさも分からない、定まらない空間をつくりました。

同館はさらに、1888年7月に友人で協力者でもあった若い批評家エミール・エヌカンが溺れ死ぬのを、ルドンが手出しできないまま見ていたことを紹介し、オフィーリアの運命が、ルドンにとって個人的な響きをもっていたのかもしれないと述べています。

『The Buddha』(1906〜07年)

オディロン・ルドン『The Buddha(Le Bouddha)』(1906〜07年)
オディロン・ルドン『The Buddha(Le Bouddha)』(1906〜07年)オルセー美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project経由・パブリックドメイン)

オルセー美術館が所蔵するパステル画です。題は「仏陀」。隠者の杖をもち、色とりどりの袈裟をまとった仏陀が、目を閉じて瞑想しています。左手は手のひらを前に向けて上げられ、背後には、悟りを開いた木とみられる木が立っています。

オルセー美術館の解説によれば、ルドンは友人アルマン・クラヴォーに導かれて、植物学、ヒンドゥー教、仏教に熱中するようになりました。クラヴォーは1890年に亡くなりますが、ルドンはその後も、ポール・カーラスの『L’Évangile de Bouddha』(1894年)や、サダキチ・ハートマンの『Le Bouddha excentrique』(1897年)を読みふけり、神智学協会の会員とも交流したと紹介されています。同館は、ルドンが探していたのは、葉一枚、花一輪といった物質の細部に宿る神聖さを、パステルの表現力で明らかにすることだったと説明しています。

20世紀初頭の仏陀は、すでに世界的な象徴となっており、アジアの伝統的な様式は、ヨーロッパの近代的な美意識によくなじんだ、とも同館は述べています。日本人にとってなじみ深い仏陀の姿が、ヨーロッパの画家の手で夢の色に染まっている。そんな眺め方もできそうです。

『Orpheus』(1903〜10年ごろ)

オディロン・ルドン『Orpheus』(1903〜10年ごろ)
オディロン・ルドン『Orpheus』(1903〜10年ごろ)クリーブランド美術館/作品:パブリックドメイン、画像:クリーブランド美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

クリーブランド美術館が所蔵するパステル画です。題は「オルフェウス」。古代ギリシャの詩人で音楽家のオルフェウスの頭部が、色彩の層のなかに浮かび、その背後にはアポロンやムーサたちの住む山、パルナッソスがそびえています。頭部のすぐ下には、竪琴が描かれています。

クリーブランド美術館の解説は、死んだあとも竪琴と頭によって音楽が続いたというオルフェウスの物語がルドンを魅了したこと、ルドンが、自らの芸術への献身をオルフェウスに重ねて見ていたことを説明しています。ルドンはオルフェウスを、生涯にわたってさまざまな技法で何度も描きました。

同館が記録する来歴には、意外な名前が登場します。来歴の最初に記されているのは、アンリ・マティスが父エミール・イポリット・マティスのために購入した、という記録です。その後、パリのヴィルヘルム・ウーデを経て、アメリカの収集家ジョン・クインの手に渡り、その遺産からクリーブランド美術館が購入しました。来歴の注には、マティスがルドンの色彩を熱心に研究していたという、ウォルター・パックの1938年の記述も引かれています。

マティスについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

【徹底解説】マティスとは?野獣派を代表する「色彩の魔術師」生涯と作品を解説!

晩年:目と、神話と、アメリカでの評価

晩年のルドンは、目と神話の主題に、あらためて向き合いました。

『The Cyclops』(1914年ごろ)

オディロン・ルドン『The Cyclops(Le cyclope)』(1914年ごろ)
オディロン・ルドン『The Cyclops(Le cyclope)』(1914年ごろ)クレラー=ミュラー美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project経由・パブリックドメイン)

オランダのクレラー=ミュラー美術館が所蔵する油彩画です。原題は『Le cyclope』。厚紙に描いた絵を、板に貼り付けています。

同館の解説によれば、画面で、一つ目の巨人ポリュペモスが、高い山の陰から、眠る海のニンフ、ガラテアをのぞき見しています。巨人の愛は報われません。ガラテアが、河の神アキスを選んでいるからです。画面でもっとも目立つのは、不自然なほど大きな目。同館は、ルドンの作品で目はしばしば、すべてを見張る独立した存在であり、人間の魂や、不思議で未知の内面世界の象徴だと説明しています。

さらに同館は、この巨人、あるいはむしろ目が、裸の女性を見つめるという脅威を、風変わりな明るい色彩が強めていると述べ、ルドンはこの作品で象徴主義の傑作のひとつを描いたと評価しています。1882年の気球の目から、30年あまり。目はふたたび画面の主役になり、今度は鮮やかな色の衣をまとっています。

『Evocation of Roussel』(1912年ごろ)

オディロン・ルドン『Evocation of Roussel』(1912年ごろ)
オディロン・ルドン『Evocation of Roussel』(1912年ごろ)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/作品:パブリックドメイン、画像:NGA(CC0)/出典:Wikimedia Commons

ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アート(NGA)が所蔵する油彩画です。縦73センチ、横54センチ。画面の下寄りに、ひげをたくわえた男性の胸像が描かれ、その頭のまわりを光の輪のような色が包んでいます。まわりには、橙や白、黄色の花々が、水色の空へ向かって広がっています。

この作品には、重要な来歴があります。NGAの記録によれば、パリのジョス・エセルが所有していた作品が、1913年の国際近代美術展(アーモリー・ショー)に出品されました。アーモリー・ショーの名で知られる、ニューヨークの展覧会です。NGAの記録では、作品はニューヨークのあと、シカゴ美術館とボストンのコプリー・ソサエティにも巡回しています。その後、1927年のパリの競売を経てアメリカの収集家チェスター・デールの手に渡り、1963年に遺贈されました。

クリーブランド美術館は、この展覧会にルドンの後期の作品がまとめて出品され、それがルドンをアメリカの観客に紹介することになったと説明しています。

ルドンが遺したもの

ルドンは1916年7月6日、パリで亡くなりました。76歳でした。

ルドンの日記『A soi-même』は、没後の1922年に出版されました。オルセー美術館の解説は、ルドンが夢や内面の世界について語った文章として、この日記を引いています。

ゲティ美術館は、2026年の展覧会にあわせた刊行物の紹介で、ルドンの謎めいた作品をシュルレアリスムの重要な先駆と位置づけています。クリーブランド美術館も、シュルレアリスムの画家アンドレ・マッソンが、ルドンの花のパステル画に見られる幻想と想像力の結びつきに感嘆したことを紹介しています。

ルドンの人気は、現在も続いています。ゲティ美術館は、ルドンの幻想的な作品は、同館の来館者にとってずっと人気が高いと述べています。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、象徴主義を代表する画家オディロン・ルドンの人生と作品をご紹介しました。

ボルドーに生まれ、建築の試験に落ち、植物学者クラヴォーや版画家ブレスダンとの出会いを経て、黒の世界に入る。木炭画と石版画で夢のイメージを描き続け、ユイスマンスの小説に登場したことで、文学者たちのあいだで知られるようになりました。そして1890年代、パステルと油彩を手にして、色彩の画家へ。ノワールの暗闇から、花の光のなかへ移っていった人生でした。

もう一つ心に残るのは、目を閉じた顔と、大きな目が、ルドンの生涯を通じて繰り返し現れることです。閉じた目は内側の世界を、見開いた目は、こちらを見返す何者かを思わせます。作品を前にする機会があれば、描かれた目が何を見ているのか、あるいは何も見ていないのか、想像してみてください。

Euphoric " " の視点

ルドンが最初の石版画集を世に出したとき、すでに39歳でした。リトグラフを始めたのは、もともと木炭画を複製して広く届けるためです。

その黒の表現が代名詞になったあと、彼は1890年代から色彩へ向かい、世紀の変わり目までにノワールとリトグラフを手放しています。

1904年には『Closed Eyes』が、ルドンの作品としてはじめて国のコレクションに入りました。

始めるのが遅くても、評価された持ち味を途中で手放しても、仕事は続いていく。ルドンの歩みは、やり方を変えることを恐れなくてよいのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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