こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは狩野永徳という人物をご存知ですか?
狩野永徳は、桃山時代に活躍した絵師です。織田信長や豊臣秀吉といった時の権力者に重んじられ、金色の地に巨大な樹木や獅子を描く、堂々とした画風で一時代を築きました。
代表作には、獅子が悠然と歩む国宝『唐獅子図屏風』、京都の町とそこに暮らす人々を細かく描き込んだ国宝『洛中洛外図屏風(上杉本)』、うねる大木が画面からはみ出さんばかりの国宝『檜図屏風』があります。
ただし、永徳が手がけた城や邸宅の絵の多くは、建物とともに失われてしまいました。だからこそ、今に伝わる数少ない作品は、ひとつひとつが貴重です。
本記事ではそんな狩野永徳の人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | 初めは源四郎(げんしろう)、のち州信(くにのぶ)。「永徳」は号 |
| 生年月日(没年月日) | 1543年(天文12年)、月日は不詳〜1590年(天正18年)9月14日(旧暦)(数え48歳没) |
| 国籍/出身 | 日本 京都 |
| 学歴 | 記録なし |
| 分野 | 日本画(障壁画・屏風絵) |
| 傾向 | 金地に大きな図様を描く豪壮な「大画様式」。細かな風俗描写と、墨だけで描く水墨画も手がけた |
| 師事した人物/影響を受けた人物 | 祖父・狩野元信(もとのぶ)。父は狩野松栄(しょうえい) |
経歴と作品
絵師の名門に生まれて
狩野永徳は1543年、京都に生まれました。父は狩野松栄(直信)、祖父は狩野派を大きく育てた狩野元信です。名前は、初めは源四郎、のちに州信と改め、「永徳」はその号(画家としての名)にあたります。
永徳が生まれた「狩野派」とは、どのような集団だったのでしょうか。京都国立博物館の解説によると、狩野派は室町時代の中ごろから江戸時代の終わりまでの約400年間、日本の画壇に君臨し続けた絵師の集団です。初代の正信(1434〜1530)が室町幕府の御用絵師となって土台を築き、二代目の元信(1477〜1559)の代に、流派の体制が確立しました。
同じ解説は、狩野派が栄えた理由として、万人に受け入れられやすい平明で端正な画風、どんな題材も描ける懐の広さ、そして多くの弟子を育てて仕事を素早くこなせる機動力を挙げています。いまでいえば、優れた個人であると同時に、よく訓練されたチームでもあったということです。
『四季花鳥図』(1513年)

永徳の祖父、元信の代表作として名高い作品です。大徳寺の塔頭(たっちゅう。大きな寺の境内にある小さな寺)である大仙院の本堂を飾っていた襖絵のひとつで、現在は掛け軸の形に改められています。
画面は右から左へと四季が移り変わるように描かれ、松の巨木と滝の水しぶき、大きな岩の塊が、ゆったりした水辺の景色と向き合っています。京都国立博物館は、この作品を「続く桃山時代における豪壮華麗な絵画表現を導く基点」と位置づけています。
『日本大百科全書』は、永徳が幼いころから祖父・元信の薫陶を受けたと記し、『世界大百科事典』は、元信の指導を受けたと思われる、としています。祖父が整えた「どんな題材も描ける力」と「大きな襖に絵を展開する技術」は、のちに永徳が大きな仕事をこなしていくための土台になったと考えられます。
なお、永徳の画風には変化がありました。京都国立博物館は、若いころの永徳は細かく描き込む描写を得意とし、やがてダイナミックな画風へ移っていった、と紹介しています。次に見る二つの代表作は、まさにその両方の面を見せてくれます。
24歳の大仕事、大徳寺聚光院の襖絵(1566年)
永徳の名を語るうえで欠かせないのが、京都・大徳寺の塔頭、聚光院(じゅこういん)の襖絵です。聚光院は、戦国時代の武将・三好長慶(みよしながよし)の菩提を弔うため、1566年(永禄9年)に創建されました。
その本堂(方丈)を飾る障壁画は、永徳とその父・松栄によって描かれました。国の指定では「方丈障壁画」という名称で、『花鳥図』16面、『琴棋書画図』8面、『瀟湘八景図』8面、『竹虎遊猿図』6面の計38面が、1957年(昭和32年)2月19日に国宝となりました。仏壇の小襖8面も「附(つけたり。本体に添えて指定されるもの)」として一緒に指定されており、合わせて46面です。なかでも『花鳥図』と『琴棋書画図(きんきしょがず)』は、永徳が24歳のころの作とされています。『琴棋書画図』の「琴棋書画」とは、琴(楽器)、碁、書、絵という、昔の教養人がたしなむべきとされた四つの芸のことです。
『日本大百科全書』は、『花鳥図』について次のように説明しています。襖16面にわたり、松に鶴、芦に雁、梅に小鳥を、近くから眺めるような構図で展開した作品で、ダイナミックな躍動感にあふれており、この青年画家のほとばしるような若さの表れであると同時に、壮麗な桃山障壁画の幕開けを告げる記念碑的な大作である、という評価です。
ここで、「障壁画(しょうへきが)」という言葉を整理しておきましょう。障壁画とは、襖や壁、屏風など、建物の中の大きな面に描かれた絵の総称です。掛け軸のように広げて眺める絵とは違い、部屋そのものを包む絵として、そこに座る人の気分や、その部屋の格式を左右しました。
聚光院の襖絵は、東京国立博物館が2003年に開いた特別展でも取り上げられました。この展覧会の案内では、国宝に指定され、通常は非公開となっている襖絵を、方丈の建築に合わせた立体的な構成で全点展示する初の試みである、と紹介されています。
聚光院は、いまも通常は非公開です。特別公開を運営する京都春秋の案内によると、2026年は9月18日から12月6日まで特別公開が行われ(拝観休止日あり)、本堂の障壁画は複製での公開とされています。原本をいつでも見られるわけではないので、公開の有無と内容は、出かける前に公式の案内でご確認ください。
『世界大百科事典』は、永徳がこのとき、もっとも重要な場所である室中(仏間)を父に代わって担当した、と記しています。24歳のころの作とされる襖絵が、父の作と並んで国宝になっている。このことからも、永徳が早くから一門の期待を集めていたことが伝わってきます。
『洛中洛外図屏風(上杉本)』(1560年代〜1570年代前半)
永徳のもうひとつの代表作が、山形県米沢市の米沢市上杉博物館が所蔵する国宝『洛中洛外図屏風(上杉本)』です。1995年(平成7年)6月15日に国宝に指定されました。六曲一双(六枚の扇が連なる屏風が左右一組)で、大きさはおよそ縦160センチ、横365センチです。
「洛中洛外図」とは、「洛中」(京都の市街地)と「洛外」(その郊外)の名所や暮らしを、屏風いっぱいに描いた絵のことです。人気のジャンルとなって多くの作品が作られましたが、文化庁の解説によると、桃山時代の前期より前にさかのぼる例は、この上杉本のほかには、三条本と高橋本(どちらも重要文化財)が知られているだけです。
この屏風の特徴は、描かれた情報の多さにあります。文化庁の解説は、金色の雲の上に直接書かれた、寺社や武家、公家の邸宅などを示す墨書きが232か所あり、三条本の61か所をはるかに上回ること、登場する人物も圧倒的に多く、年中行事や庶民の風俗も数多く描かれていることを挙げています。米沢市上杉博物館は、描かれた人物がおよそ2500人にのぼると説明しています。
誰が描いたのか。両隻に押された「州信」の印から、狩野永徳の作と見なされています。文化庁の解説は、筆者がわかっている洛中洛外図は他にないという点で貴重であり、しかもその筆者が日本絵画史上もっとも著名な画家のひとりであることが特筆される、と記しています。
いつ描かれたかについては、はっきりしていません。画中には、1561年(永禄4年)に将軍・足利義輝が三好義興(よしおき)の邸を訪れる際に新しく作られた門が見つかる、と指摘されています。ただし文化庁の解説は、描かれた景色の年代が、そのまま制作の年代に結びつくとはかぎらない、とも断っています。一方、上杉家に伝わる資料によれば、この屏風は、1573年または1574年(天正元年または2年)に織田信長から上杉謙信へ贈られた屏風にあたると考えられています。これを制作年代の下限とすると、制作は1561年から1573年ごろの間に求められる、というのが文化庁の見方です。さらに厳密な年代は、今後の課題とされています。
なお、米沢市上杉博物館は、信長から謙信への贈与について「贈られたと伝えられ」と、慎重な言い方をしています。永徳の筆であることは確かでも、この屏風がたどった道筋には、まだ伝承の部分が含まれているのです。
この屏風は、先ほどの聚光院の襖絵が大きな画面で迫力を見せる作品であったのに対し、人物や建物を細かく描き込む、細やかな作品です。『世界大百科事典』は、この屏風を「大画に対する細画の作品」と呼んでいます。同じ永徳の手から、この二つの対照的な作品が生まれたことは、画家としての幅の広さをよく示しています。
この国宝は、いつでも原本を見られるわけではありません。米沢市上杉博物館では、原本の展示は期間を限って行い、それ以外の期間は、常設展示室で複製を展示する形をとっています。
なお、本記事には、権利の確認が取れた図版のみを掲載しています。この屏風と、あとで紹介する『唐獅子図屏風』は、条件を満たす図版が確認できなかったため、文章だけで紹介しています。画面は、記事の最後に挙げた所蔵館の公式ページでご覧ください。
信長に重んじられ、安土城へ
永徳の才能は、新しい時代の覇者・織田信長の目にとまりました。信長が滋賀県の琵琶湖のほとりに築いた安土城は、1576年(天正4年)に着工された城です。文化遺産オンラインの解説によれば、石垣や天守閣、殿舎の造営が進められ、1579年には天守閣が完成して信長が移り住んだとされています。
『世界大百科事典』は、永徳が1576年からの安土城の建設に「天下一」の画家として参加した、と記しています。また『日本大百科全書』は、安土城の天守や御殿の障壁画が、『信長公記』(太田牛一が信長の一代を記した伝記)の伝えるとおり、あらゆる画題と技法を使い尽くしたもので、障壁画の歴史のうえで画期的な偉業だった、と説明しています。
安土城跡(天守閣跡)

ところが、これほど大きな仕事の成果は、今、見ることができません。文化遺産オンラインの解説によると、1582年(天正10年)の本能寺の変のあと、安土城の天守閣などが火災にあい、その後、城は廃城になりました。写真は、現在の安土城跡の、天守があった場所です。建物は残っていませんが、石垣や礎石から、城の規模をうかがうことはできます。
永徳の作品の多くが、建物とともに失われた。この事実は、永徳の評価を考えるうえで、大切な前提です。『日本大百科全書』は、これらの膨大な作品が建築物と運命をともにしたため、永徳の遺作は、その名声に比べて意外に少ない、と述べています。
京都国立博物館が2007年に開いた特別展「狩野永徳」の案内文も、同じ事情に触れています。天下一と評された永徳の作品の多くは、戦火の中で灰燼(かいじん)に帰した、というのです。この展覧会は、同館が初の永徳展として開いたものでした。
『京都国立博物館だより』に載った2007年の展覧会の評では、永徳の名は桃山芸術を代表するほど有名でありながら、誰もが真筆と認める作品は極めて少ない、という事情が語られています。
秀吉の時代と『唐獅子図屏風』
1582年に信長が亡くなると、天下の主は豊臣秀吉へと移ります。永徳は秀吉にも重んじられ、大坂城や聚楽第(じゅらくだい)などの障壁画を手がけたと、複数の事典が記しています。
『世界大百科事典』によれば、永徳は秀吉による大建築の障壁画のほとんどすべてを、狩野派の工房による集団制作でこなしていきました。この活躍によって、狩野派は桃山画壇の中心に座ることになった、という説明です。なお、この大きな仕事の数々も、建物とともに、その多くが失われています。
そうしたなかで、永徳の筆であることがもっとも確かな作品のひとつが、国宝『唐獅子図屏風』です。
皇居三の丸尚蔵館の解説によれば、この屏風の右隻は、江戸時代の絵師・狩野探幽による極書(きわめがき。鑑定の書付)によって、永徳の数少ない確証的な作品として名高い、とされています。同じ解説は、岩の間を闊歩する雌雄の堂々たる獅子が、力強い筆づかいで描かれ、単純な図様でありながら、その迫力と勇壮さは、この屏風が永徳自身の作品であることを疑う必要がないほどだ、と記しています。
文化庁の解説も、金色の雲がたなびく山あいを、二頭の唐獅子(中国風に描かれた獅子)が悠然と歩く様子を、力強い筆致と明快な彩色で描いていること、その豪放な筆致と量感のある形の捉え方から、様式的にも永徳の筆であることは疑いないこと、そして織田信長や豊臣秀吉を飾るにふさわしい絵画様式が形づくられる中心にいた永徳の代表作である、と述べています。
この屏風には、少し複雑な事情があります。六曲一双(左右一組)として伝わっていますが、永徳が描いたのは右隻だけです。左隻は、のちの江戸時代に、狩野常信(1636〜1713)が、右隻の図様に合わせて描き足したものです。国の指定でも、永徳筆の六曲屏風一隻が国宝で、常信筆の一隻は「附(つけたり)」として一緒に指定されています。
大きさは、右隻が縦223.6センチ、横451.8センチ。人の背丈よりも大きな画面です。同じ『京都国立博物館だより』の展覧会評は、この作品を見た印象を、筋骨隆々とした二人の力士が肩を並べ、地響きを立てながら歩む光景のようだ、と記しています。
伝わり方も興味深いものです。文化庁のデータベースによると、毛利家に伝わったのち、1888年(明治21年)に皇室へ献上され、さらに1989年(平成元年)に国へ寄贈されました。そして2021年(令和3年)9月30日、国宝に指定されました。
この屏風は、現在、皇居三の丸尚蔵館に収蔵されています。同館は2026年10月の時点で、開館準備のため休館しており、2026年11月3日に全面開館する予定と発表しています。開館後も、常に展示されているとは限らないため、見に行く前に、公式サイトで展示予定を確かめてください。先に述べたとおり、本記事ではこの屏風の図版を載せていません。画面は、同館の収蔵品ページで見ることができます。
最晩年の『檜図屏風』(1590年)
永徳の最晩年の作とされるのが、東京国立博物館が所蔵する国宝『檜図屏風(ひのきずびょうぶ)』です。四曲一双、紙に金地を貼り、顔料で彩色した作品で、各隻の大きさは縦170.0センチ、横230.4センチです。1957年(昭和32年)2月19日に国宝に指定されました。
『檜図屏風』(1590年)

東京国立博物館の解説は、この作品を次のように紹介しています。たなびく金の雲と、大地の渓谷の水辺に、画面を飛び出すほど太い幹から躍動するように枝を伸ばす、檜の巨木がどっしりと根を下ろしている。金と緑青(ろくしょう)、群青、茶という限られた色数で表された景色の中で、迫り来る檜が圧倒的な存在感を放っている、と。
同じ解説は、永徳を、名門の絵師一族の総帥であり、織田信長や豊臣秀吉ら天下人のもとで絵筆をふるった人物と述べ、永徳が創り出した「大画様式」が、この檜の描写に現れていると記しています。幹や岩に黒々と引かれた墨の線の、際立つ筆の勢いについては、江戸時代に出版された『本朝画史』が「恠恠奇奇(かいかいきき)」と評した、とも紹介しています。
もともとは屏風ではなく、襖絵でした。画面に襖の金具(引手)の跡が残っており、豊臣秀吉が創立を願い出た八条宮(はちじょうのみや)家(のちの桂宮家)の、1590年12月に落成した邸宅の室内を飾っていたものです。永徳はこの年の9月に急逝しているため、最晩年の作品ということになります。明治時代に皇室の所有となったあと、東京国立博物館に引き継がれました。
なお、国の指定名称は「紙本金地著色檜図」で、筆者の名前は入っていません。東京国立博物館は「狩野永徳筆」としており、『日本大百科全書』は、永徳の作である可能性が強い、という書き方をしています。
永徳は、この邸宅の完成を待たずに亡くなりました。襖に描かれた檜の枝が、いまなお画面の外へ伸びようとしているように見えるのは、永徳の筆の勢いが最後まで衰えなかったことの表れかもしれません。

墨で描く永徳
金地に鮮やかな色を重ねる作品が有名な永徳ですが、墨だけで描いた作品も、永徳の筆として伝わっています。
京都国立博物館が所蔵する『仙人高士図屏風』は、六曲一双の水墨画です。各隻の大きさは縦155.0センチ、横361.4センチ。現在は屏風の形になっていますが、画面に引手の跡があることから、もとは襖絵だったことがわかります。
同館の解説は、画面を連続させると、向かって右側の人物たちが右上を見上げた形で途切れてしまうため、飛び去る仙人が描かれていたのではないか、と推測しています。建仁寺の塔頭の障壁画の一部を屏風にしたと伝えられますが、確認はできていません。
同館はこの屏風を、画面のどこにも緩んだところがない、桃山水墨画の代表的作品としています。筆法と顔の表現が、狩野永徳筆と認められている『許由巣父図』(東京国立博物館蔵)によく似ていることにも注目しています。
なお、この作品の作者の表記は、機関によって少し違います。京都国立博物館の名品紹介は「狩野永徳筆」としていますが、国立文化財機構の「e国宝」と文化遺産オンラインは「伝狩野永徳」としています。国の指定は1982年(昭和57年)6月5日の重要文化財で、指定名称の「紙本墨画仙人高士図」に筆者の名前は入っていません。「伝」とは、昔からその人の作と伝えられてきたという意味で、確かな証拠までは揃っていないことを示す言葉です。このように、永徳の作品には、確定の度合いが作品ごとに少しずつ異なるものがあります。
『仙人高士図屏風』左隻(16世紀後半)

左隻の画面には、左寄りに身をかがめた人物がひとり、右寄りには、小さな建物のそばで向かい合う二人の人物が、墨の濃淡で描かれています。余白が大きく、金色を帯びた背景の色が、墨の線を引き立てています。
『許由巣父図』(16世紀)

東京国立博物館が所蔵する『許由巣父図(きょゆうそうほず)』は、紙に墨で描いた二幅の掛け軸です。文化遺産オンラインに載る東京国立博物館の解説は「狩野永徳筆」としていますが、国の指定名称は「伝狩野永徳筆」で、同館の画像検索も作者を「狩野永徳(伝)」としています。国の指定は1934年(昭和9年)1月30日で、重要文化財です。
絵の主題は、中国の古い故事にもとづきます。東京国立博物館の解説によれば、聖なる帝・堯(ぎょう)が天下を譲ろうと申し出ると、許由は耳が穢れたと言って水で耳を洗い、巣父は、その穢れた水を牛に飲ませず、牛を引いて帰った、という話です。高い位を嫌う理想の高士のたとえとして、よく描かれた題材とされています。
ライバル、長谷川等伯
永徳を語るとき、もうひとりの名前を避けて通ることはできません。長谷川等伯です。
京都国立博物館は、2015年の展示で、二人を次のように紹介しました。稀代の天才・狩野永徳(1543〜90)は、それまでにない豪放で力強い画風によって、織田信長・豊臣秀吉といった天下人の庇護を勝ち取り、桃山画壇の覇者として君臨した。ところが、その永徳が率いる狩野派に挑戦状をたたきつけた絵師がいた。長谷川等伯(1539〜1610)である、と。
等伯は能登国七尾(現在の石川県七尾市)の生まれで、30歳を過ぎてから京都に上り、徐々に支持を固めて、狩野派の独壇場を脅かす存在に成長した、と同館は説明します。若いころは細密描写を得意とし、やがてダイナミックな画風に進んだ永徳と、はじめは絵仏師として活動し、一時は狩野派に学んだともいわれる等伯。同館は、この二人を「永遠のライバル」と呼んでいます。
永徳の死後、狩野派は大きな岐路に立たされました。文化庁の広報誌で、京都国立博物館の研究員は、関ヶ原の合戦(1600年)以降の時代を、棟梁・永徳の死や、ライバル・長谷川等伯の台頭など、一門にとって最も苦しく、難しい判断を迫られた激動の時代、と述べています。

『松林図屏風』右隻(等伯)

等伯の代表作のひとつ、国宝『松林図屏風』です。永徳が金色の地に大きな檜を堂々と描いたのに対し、等伯は墨の濃淡で、霧にかすむ松林を静かに描きました。同じ時代を生きた二人が、まったく違う方向で桃山の絵画を切り拓いたことが、並べてみるとよくわかります。等伯の人生については、こちらの記事でくわしく紹介しています。
永徳の影響は、狩野派の中だけにとどまりませんでした。『世界大百科事典』は、永徳が確立した大画の表現が、狩野派だけでなく、長谷川等伯や海北友松(かいほうゆうしょう)など、桃山画壇全体に影響を及ぼし、桃山の花鳥画の基本的な構成になった、と記しています。ライバルであると同時に、等伯もまた、永徳が切り拓いた道の上に立っていた、とみることもできます。
永徳の死、そして後継者たち
永徳は1590年(天正18年)9月14日に亡くなりました。数えで48歳でした。『日本大百科全書』は、さらに飛躍が期待されて当然の年齢であった、と惜しんでいます。
その後の狩野派を支えたのは、永徳の子や弟子たちです。京都国立博物館の2015年の特別展を紹介した文化庁の広報誌によれば、永徳の長男・光信が若くして狩野派の棟梁となり、次男の孝信は、のちに江戸狩野の中心となる探幽・尚信・安信を育てたことでも知られます。永徳の弟・長信は、早くから徳川家の御用絵師となりました。弟子の山楽は、豊臣秀吉の推薦で永徳の弟子となり、のちに京狩野の祖と呼ばれました。
同じ記事は、永徳という大黒柱を失った狩野派が、豊臣、徳川、朝廷のそれぞれに絵師を送り込む「三面作戦」で、安定した地位を築いていった、と説明しています。永徳が築いた土台の上に、次の世代が江戸時代の長い繁栄をつなげていったのです。
先ほどの『唐獅子図屏風』の極書を書いた探幽は、京都国立博物館が「永徳の孫」と紹介する人物です。永徳の絵が「確かな作品」として語り継がれる背景に、家の中の人の目があったことがわかります。
永徳の作品を、いま見るために
最後に、永徳の作品を実際に見るときのヒントを、いくつかまとめておきます。
まず、見られる時期が限られる作品が多いということです。聚光院の襖絵は通常は非公開で、特別公開でも複製での公開となることがあります。洛中洛外図屏風は原本の展示期間が限られています。『唐獅子図屏風』も、常時展示されているとは限りません。出かける前に、必ず所蔵館の最新の案内を確認してください。

皇居三の丸尚蔵館(東京)

『唐獅子図屏風』を収蔵する皇居三の丸尚蔵館です(写真は2023年11月の撮影)。休館と全面開館の予定は、先に述べたとおりです。同館の収蔵品のページでは、作品の解説と指定の情報を確認できます。
次に、作品を見る前に、ほんの少しだけ予備知識を持っていくことをおすすめします。たとえば『洛中洛外図屏風(上杉本)』なら、金色の雲に書き込まれた墨書きが232か所あり、人物がおよそ2500人描かれている、と知っているだけで、見え方が変わります。『檜図屏風』なら、もとは八条宮家の邸宅の襖絵だったと知っておくと、画面の大きさや、金具の跡の意味がわかります。
そして最後に、永徳の作品は、数が少ないからこそ、一点ずつ向き合う価値があるということです。2007年に京都国立博物館が開いた特別展は、永徳の絵を一堂に集めるという、はじめての試みでした。それから時間が経ちましたが、永徳の絵を見るという体験の貴重さは、変わっていません。
まとめ
いかがだったでしょうか。
狩野永徳は、京都の絵師の名門・狩野派の家に生まれ、祖父・元信の薫陶を受けました。24歳で父・松栄とともに大徳寺聚光院の襖絵を描き、織田信長に認められて安土城の障壁画に参加し、豊臣秀吉の時代には大きな建築の障壁画を次々と手がけました。
その多くは建物とともに失われましたが、国宝『唐獅子図屏風』、国宝『洛中洛外図屏風(上杉本)』、国宝『檜図屏風』、聚光院の襖絵など、貴重な作品が今に伝わっています。大きな画面を力強く描いた「大画様式」は、狩野派だけでなく、長谷川等伯らにも影響を与えました。
1590年、永徳は48歳で亡くなりました。その短い生涯のあいだに描かれた絵の数々は、いまも私たちの目の前で、桃山という時代の気分を伝えてくれます。展示の機会が限られている作品も多いので、気になる方は、各館の公開情報をぜひご確認ください。
Euphoric " " の視点
永徳の遺作は、その名声に比べて意外に少ないとされています。膨大な作品が、建築物と運命をともにしたためです。
秀吉による大建築の障壁画は、狩野派の工房による集団制作でこなしていきました。『唐獅子図屏風』も、永徳が描いたのは右隻だけです。
残ったものは多くありません。それでも私たちは、永徳の名を知っています。
作品そのものが失われても、仕事の進め方や画風は、人と工房を通じて受け継がれていく。形の残らない仕事にも届く先があるのかもしれないと、永徳は教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- 皇居三の丸尚蔵館『唐獅子図屏風』収蔵品ページ(同館は2026年11月3日に全面開館の予定。それまでは休館中)
- 米沢市上杉博物館 国宝『上杉本洛中洛外図屏風』(原本の展示は期間限定。それ以外は複製を展示)
- e国宝『檜図屏風』(東京国立博物館所蔵)






