【徹底解説】ピート・モンドリアンとは?抽象絵画を切りひらいた画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ピート・モンドリアンとは?抽象絵画を切りひらいた画家の人生と作品を解説!
画像:『Tableau I』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはピート・モンドリアンという人物をご存知ですか?

モンドリアンは1872年にオランダで生まれ、1944年にニューヨークで亡くなった画家で、抽象絵画の先駆者のひとりです。白い画面に黒い縦横の線を引き、赤・青・黄の四角を置く。名前は知らなくても、そんな絵をどこかで目にした方は多いのではないでしょうか。

意外なのは、最初からあの画風だったわけではないことです。木や風車、農家を描く風景画家として評価されていた人が、40歳を前に国を出て、パリで画風を変え始めます。木の絵が、線と面だけの絵へ変わっていく。その道のりこそが、モンドリアンの面白さです。

本記事ではそんなピート・モンドリアンの人生と作品についてご紹介します。

ピート・モンドリアンって?

ピート・モンドリアン『自画像』(1918年)
ピート・モンドリアン『自画像』(1918年)デン・ハーグ美術館(Kunstmuseum Den Haag)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

基本情報

本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン(Pieter Cornelis Mondriaan)。パリで綴りを「Mondrian」に改めた
生年月日(没年月日)1872年3月7日〜1944年2月1日(71歳没)
国籍/出身オランダ、ユトレヒト州アメルスフォールト
学歴1892年にアムステルダムへ移り、国立美術アカデミー(Rijksakademie van beeldende kunsten)で学ぶ(RKDによる在籍期間は1892〜1897年)
分野絵画、美術理論の著述
傾向ハーグ派風の風景画から、象徴主義的な作品、キュビスムの影響を経て、新造形主義(ネオ・プラスティシスム)へ
師事した人物・影響を受けた人物叔父フリッツ・モンドリアン(画家)、フィンセント・ファン・ゴッホ、キュビスム(ピカソ、ブラック)、神智学、テオ・ファン・ドゥースブルフ、バルト・ファン・デル・レック

モンドリアンが影響を受けた画家や、同じ時代の抽象の流れについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

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新造形主義とデ・ステイルって?

モンドリアンを語るうえで欠かせない言葉が二つあります。

一つは新造形主義(ネオ・プラスティシスム)です。モンドリアンが自分の抽象絵画のために選んだ言葉で、テートは「水平線と垂直線、そして原色だけを使う絵画」を指す語だと説明しています。オランダ語の「de nieuwe beelding(新しい造形)」にあたり、色・線・形という絵画の基本要素を、最も純粋な状態で使う芸術のことです。具体的には、使う色は原色と無彩色(白・黒・灰)だけ、形は正方形と長方形だけ、線は水平と垂直だけ、という決まりでした。

もう一つはデ・ステイルです。オランダ語で「様式」を意味し、1917年にモンドリアンとテオ・ファン・ドゥースブルフが創刊した雑誌の名前であり、そこに集まった芸術家たちの呼び名でもあります。雑誌の最初の年の号で、モンドリアンは自分の狙いを何度も書き、「ネオ・プラスティシズム」という言葉も、おそらくこのときに初めて使いました。グループにはほかに、バルト・ファン・デル・レックや、建築家のヘリット・リートフェルト、J.J.P.アウトらがいました。

以下では、この二つの言葉にたどり着くまでの道のりを、時代を追ってご紹介します。

経歴と作品

アメルスフォールトに生まれて(1872年〜)

モンドリアンは1872年3月7日、オランダ中部の町アメルスフォールトで生まれました。生家の建物は、当時は小学校として使われていました。父はその学校の校長で、一家は建物の上階に住んでいたと、現在そこで運営されているモンドリアンハウスは伝えています。一家は1880年にウィンタースワイクへ移り、モンドリアンは生まれてからの8年間を、この家で過ごしました。

絵の手ほどきをしたのは、身近な大人でした。叔父のフリッツ・モンドリアンは、理容師をしながらハーグ派風の風景画を描いた人物で、モンドリアンはこの叔父から絵の基本を学んだと、モンドリアンハウスは説明しています。ポンピドゥー・センターの解説は、モンドリアンが叔父にならって「画家だけ」になろうと早くから決めていたこと、父には賛成されなかったこと、学費を稼ぐために小学校や中学校で図画を教えたことを記しています。

1892年、モンドリアンはアムステルダムへ出て、国立美術アカデミー(Rijksakademie)に入ります。デン・ハーグ美術館の年譜によれば、3年間の課程をすべて修めました。RKD(オランダ美術史研究所)は、在籍期間を1892〜1897年としています。そのあと1900年ごろからは、アムステルダム近郊のヘイン川のほとりで、風車や農家を描くようになりました。デン・ハーグ美術館の年譜によれば、このころから画面の中の人の姿は少しずつ消えていきます。

この時期のモンドリアンは、のちの抽象画からは想像しにくいほど、まっすぐな風景画家でした。花の絵も描いています。モンドリアンハウスは、菊やアマリリスのような花を単独で画面の中心に置いた作品を、キャリアの初期にも抽象に入ってからも描き続けたと説明しています。2021年にSOMPO美術館で開かれた展覧会も、初期の作品を「ハーグ派様式の風景画」から紹介していました。

ゼーラントの海辺で、色が燃えはじめる(1908〜1910年)

画風が動き出すのは1908年ごろです。デン・ハーグ美術館の年譜は、この年にモンドリアンがゼーラント州の海辺の町ドンブルグを初めて訪れたと記しています。翌1909年の5月には、神智学協会に入会しました(テート、ブリタニカ)。年譜によれば、神智学はモンドリアンの精神性についての考え方に大きな影響を与えました。

ドンブルグが気に入ったモンドリアンは、1908年9月に1週間滞在したあと、その後の4年間の夏にも通います。年譜によれば、この地で画家のヤン・トーロップらに出会い、明るい色を使って光を描く画風(ルミニスム)で制作しました。

この時期の1点が、デン・ハーグ美術館が所蔵する『Summer, Dune in Zeeland』(1910年、油彩・カンヴァス、134×195cm)です。空と砂丘は青の濃淡だけで塗り分けられ、砂丘の稜線と手前の砂地に黄色が置かれています。草も人影もなく、風景が大きな色の面に置き換わりはじめていることがわかります。

ピート・モンドリアン『Summer, Dune in Zeeland』(1910年)
ピート・モンドリアン『Summer, Dune in Zeeland』(1910年)デン・ハーグ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『Avond(Evening): The Red Tree』(1908〜10年)

この時期を象徴する作品が、デン・ハーグ美術館が所蔵する『Avond(Evening): The Red Tree』です。夕暮れの木を、燃えるような赤とコバルトブルーで描いています。美術館は、この色の実験によって、モンドリアンがそれまでの自然主義的な画風と、はっきり決別したと説明しています。

制作の背景もわかっています。1908年のドンブルグ滞在で、モンドリアンは美術収集家の別荘の庭にあった老いた木を描き、この作品の最初の版を描いたらしいと、館は書いています。作品には1908年に取りかかって、1910年まで手を入れ続けました。同じ解説は、この絵からあふれるエネルギーがファン・ゴッホの作品を思わせること、ファン・ゴッホの例に励まされて、灯台や木のようなモチーフを周囲から切り離して描くようになったことも指摘しています。友人のルイ・サールボルンは、夕日に染まった赤い枝を見たモンドリアンが思わず足を止めたという話を書き残しています。

ピート・モンドリアン『Sun, Church in Zeeland; Zoutelande Church Facade』(1909〜10年)
ピート・モンドリアン『Sun, Church in Zeeland; Zoutelande Church Facade』(1909〜10年)テート/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ゼーラントの教会を描いた作品も、この時期に生まれています。テートが所蔵するこの絵では、教会の壁面は赤みを帯びたオレンジの細かな筆触で描かれ、背景には青が置かれています。建物の形はまだ残っていますが、色が主役に変わりはじめていることが、画面から伝わってきます。

『The Grey Tree』、パリへ向かう直前の1年(1911年)

1911年は、モンドリアンの人生が大きく動いた年です。デン・ハーグ美術館によれば、春にパリを短く訪れ、キュビスムが話題の中心になっていることを知ります。その年の残りは、パリへ移るための準備に使われました。夏のあとには婚約を解消しており、デン・ハーグ美術館は、これを芸術家として生きることを選んだしるしと見ています。

同じ年の10月、モンドリアンは近代美術サークル(Moderne Kunstkring)の最初の展覧会に、女性像を描いた三連画『Evolution』を出品しました。館の解説は、女性たちが肉体的なものから精神的なものへ進む段階を表すと読む見方があると紹介しています。これは、モンドリアンが人間の姿を描いた最後期の作品のひとつでもあります。

『The Grey Tree』(1911年)

その同じ年に描かれたのが、木だけを描いた『The Grey Tree』(直訳は「灰色の木」)です。

ピート・モンドリアン『The Grey Tree』(1911年)
ピート・モンドリアン『The Grey Tree(Gray Tree)』(1911年)デン・ハーグ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

色のあふれる『Evolution』と比べると、変化の大きさに驚きます。館の解説は、豊かな色が黒・白・灰色の濃淡に置き換わったことを、「基本への、つまり素描への回帰」だと述べています。枝は画面いっぱいに広がっています。館は、モンドリアンが木という主題をその本質へ引き戻したと説明し、そこにキュビスムの大きな影響があるとみています。1911年秋にアムステルダム市立美術館で開かれた展覧会には、ピカソやブラックの作品が並びました。モンドリアンはこの展覧会の運営に関わった一人でした。

パリでキュビスムに出会う(1912〜1914年)

モンドリアンは40歳を目前に、パリへ移ります。テートは1911年の「クリスマスの直前」に列車に乗ったと記し、デン・ハーグ美術館は移住を1912年1月としています。築いてきた画家としての評価も、オランダに置いていく決断でした。テートの解説によれば、このとき綴りも「Mondriaan」から「Mondrian」へ、aを一つ落としたとされ、新しい自分になる気持ちの表れだったようです。パリでは、決して立派とはいえない、アトリエが並ぶ建物の一室で暮らしはじめたと、テートは伝えています。

パリでのモンドリアンは、最初は木々をキュビスム風の角ばった形で描き、やがて都市の風景や、具体的な形のない画面へと進みます。ポンピドゥー・センターの解説は、キュビスムの画家たちが、いくつもの面を結びつけるために使った黒い線の網目に、モンドリアンが着目したと説明しています。

ピート・モンドリアン『The Tree A』(1913年頃)
ピート・モンドリアン『The Tree A』(1913年頃)テート/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『The Tree A』(1913年頃)

パリ時代の木を題材にした作品のひとつが、テートが所蔵する『The Tree A』です。縦に伸びる幹と枝が、短い直線の集まりとして描かれています。『The Grey Tree』にあった、うねる枝の曲線はほとんど消え、木は線の組み合わせに近づいています。薄い黄や灰色の色調も抑えられています。

ピート・モンドリアン『Composition in Brown and Gray』(1913年)
ピート・モンドリアン『Composition in Brown and Gray』(1913年)ニューヨーク近代美術館(MoMA)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『Composition in Brown and Gray』(1913年)

ニューヨーク近代美術館(MoMA)が収蔵する『Composition in Brown and Gray』(1913年、油彩・カンヴァス、85.7×75.6cm)では、題材はもう読み取れません。くすんだ色の小さな面が、黒い線に囲まれて画面を埋めています。ここでは、木や建物という出発点を探すより、線と面の関係そのものを眺めるほうが、作品に近づけます。

ピート・モンドリアン『Tableau No. 3: Composition in Oval』(1913年)
ピート・モンドリアン『Tableau No. 3: Composition in Oval』(1913年)アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『Tableau No. 3: Composition in Oval』(1913年)

アムステルダム市立美術館が所蔵する『Tableau No. 3: Composition in Oval』(1913年)は、縦長の四角いカンヴァスの中に、楕円形の構図を収めた作品です。線と面の網目は楕円の内側だけに広がり、外側の四隅は褐色がかった色で覆われています。四隅まで描き込まないことで、構図の輪郭さえ、自分で決める要素のひとつとして扱っています。日本では、SOMPO美術館の展覧会で、同じく楕円の構図をとる『色面の楕円コンポジション2』(1914年、デン・ハーグ美術館)が紹介されました。

戦争でオランダに留まり、白と黒の画面へ(1914〜1919年)

1914年、モンドリアンは父を訪ねてオランダに戻っていた間に、第一次世界大戦が始まり、パリへ戻れなくなりました。デン・ハーグ美術館の年譜は、モンドリアンがその間もパリで踏み出した抽象への道を進み続けたと記しています。

1915年から1917年にかけては、ラーレンとブラリクムに住みました。この時期に、後に最も大きな後援者となるサル・スライパーや、画家のバルト・ファン・デル・レック、テオ・ファン・ドゥースブルフと出会います。踊りや音楽を楽しんだのも、この時期です。年譜は、まったく抽象的な最初の作品として『Composition No. 3 with Color Planes』を挙げています(同館の作品ページによれば、制作は1917年です)。

『Composition 10 in Black and White』(1915年)

クレラー=ミュラー美術館が所蔵する『Composition 10 in Black and White』(1915年、油彩・カンヴァス)は、「Pier and Ocean(桟橋と海)」の通称でも知られます。館の解説によれば、1914年にドンブルグとスヘフェニンゲンの海辺で、海と防波堤を素描しました。1915年の絵は、その素描をもとに描かれています。館は、画面中央の長い水平線を寄せる波に、下の方の垂直線を防波堤の抽象化に見立てています。館は、黒と白だけを使った最初の作品だと記しています。出発点にはまだ目に見える現実がありますが、関心は、水平と垂直という対立するものをつり合わせることで、調和とリズムを表すことへ移っています。

ピート・モンドリアン『Composition in Line, Second State』(1916〜17年)
ピート・モンドリアン『Composition in Line, Second State』(1916〜17年)クレラー=ミュラー美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『Composition in Line, Second State』(1916〜17年)

同じ美術館が所蔵する『Composition in Line, Second State』(1916〜17年)は、水平と垂直の短い線を、円に近い形に散らした作品です。『Composition 10』と並べて見ると、海という手がかりがさらに遠のき、線のリズムだけが残っているように見えます。ポンピドゥー・センターは、モンドリアンの幾何学的な抽象の語彙が、1917年にはすでに出そろったとしています。

その1917年、モンドリアンはファン・ドゥースブルフ、ファン・デル・レック、ヴィルモシュ・フサールらと、雑誌と芸術家グループ「デ・ステイル」を立ち上げます。雑誌には長い論文『Neo-Plasticism in Pictorial Art』(絵画における新造形主義)を連載し、芸術は目に見える自然の形や色の細部を離れ、直線と、はっきり定められた原色で表されるべきだと書きました。

パリへ戻り、新造形主義を深める(1919〜1922年)

戦争が終わると、モンドリアンは1919年にパリへ戻ります。RKDは6月22日からのパリ滞在を記録し、テートも1919年から1938年までをパリで暮らした期間としています。デン・ハーグ美術館の年譜は、水平線と垂直線、原色と無彩色(灰・黒・白)による画風「新造形主義」によって、モンドリアンが世界的に知られるようになったと伝えます。

ピート・モンドリアン『Composition with Grid 5: Lozenge, Composition with Colours』(1919年)
ピート・モンドリアン『Composition with Grid 5: Lozenge, Composition with Colours』(1919年)クレラー=ミュラー美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『Composition with Grid 5: Lozenge, Composition with Colours』(1919年)

クレラー=ミュラー美術館が所蔵するこの作品(油彩・カンヴァス)は、正方形に近い画面を、ひし形に置く形をとっています。格子状の灰色の線の中に、淡い色の面が配されています。同じ頃には、格子を使った作品が続けて描かれました。デン・ハーグ美術館は、その一つ『格子のコンポジション8 暗色のチェッカー盤コンポジション』(SOMPO美術館の表記)などを所蔵しています。

ピート・モンドリアン『Tableau I』(1921年)
ピート・モンドリアン『Tableau I』(1921年)デン・ハーグ美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『Tableau I』(1921年)

デン・ハーグ美術館が所蔵する『Tableau I』(1921年、油彩・カンヴァス、103×100cm)は、赤・青・黄がそろった、この時期の一枚です。左上に赤の細い帯、右上の隅に黒、中央の左下に大きな青、右下に黄。黒い線で区切られた残りの面は、白や青みがかった灰色で塗り分けられています。

館の解説によれば、モンドリアンはこの作品で、それまでのチェッカー盤のような規則正しい格子を手放しました。着想のもとになったのは、第一次世界大戦の直後、パリに次々とできた「アメリカン・バー」で演奏していたジャズバンドだといいます。きっちりした構成の中に、ずれや即興の余地をつくるジャズのように、絵でも不規則なものどうしでつり合いは作れる。館は、モンドリアンが仲間との議論を経て、そう考えるようになったと説明しています。

ピート・モンドリアン『Composition with Blue, Yellow, Red, Black and Gray』(1922年)
ピート・モンドリアン『Composition with Blue, Yellow, Red, Black and Gray』(1922年)アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『Composition with Blue, Yellow, Red, Black and Gray』(1922年)

翌1922年の、アムステルダム市立美術館が所蔵する作品では、色の面がさらに画面の端へ寄せられています。大きな白い面、黒い線、左上の青、下の赤と黒、右端の黄の細い帯。面の大きさも色の置き場所も、左右対称ではありません。

この「つり合っているが、対称ではない」という考え方は、モンドリアンの絵の核心です。テートは、モンドリアンが対称を避け、大きな色の面を画面の片側に寄せ、中央をあえて何も描かないことが多いと説明しています。1920年には、ある画家仲間に「均衡がとれていない」「黄は赤と不調和だ」と言われました。モンドリアンは「私たちは別の調和を探している」と答えたそうです。

日本では、2021年のSOMPO美術館の展覧会で、1921年の『大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション』(デン・ハーグ美術館)なども紹介されました。

アトリエという作品、そしてデ・ステイルとの別れ(1920年代〜1930年代)

パリのモンドリアンのアトリエ(26 rue du Départ)について、テートの解説は、1920年代の後半に、美術家や批評家、美術愛好家が訪れる「巡礼の場所」になっていったと記しています。壁には絵と同じ考え方で色のパネルを配し、家具にも色を置いて、アトリエ全体を一つの美的な環境に仕立てました。画家のベン・ニコルソンは、初めて訪れたときの「驚くほどの静けさと安らぎの感覚」を後に語ったそうです。

モンドリアンは、意外なほど踊りと音楽が好きでした。テートの解説は、ジャズとチャールストンを愛したこと、1920年代半ばに蓄音機を手に入れてレコードを集め、アトリエが「踊る場所」にもなったことを紹介しています。切り詰めた絵のイメージとは反対に、外の世界のリズムに耳を開いていた人でもありました。

一方、仲間との関係には亀裂が入ります。テートの用語解説は、ファン・ドゥースブルフが作品に斜めの線(対角線)を取り入れたことを受けて、モンドリアンがデ・ステイルを離れたと記しています。離脱の年は、同じテートでも用語解説が1923年、作家略歴が1925年までの関わりとしていて、定まっていません。

1925年から1931年にかけて、デン・ハーグ美術館の年譜は、モンドリアンの絵では絵肌と筆跡がだんだん目立つようになると述べています。各面が光を違う形で反射し、色のわずかな差が生まれます。テートも、モンドリアンが定規で測って描いたわけではなく、何十年の経験で培った判断で描いたこと、絵の具をチューブから出したまま使わず、何層にも重ねて色を作ったことを説明しています。1932年にニューヨークの画商シドニー・ジャニスが絵を買いに来たとき、モンドリアンは、青い部分にもう一度絵の具を塗る必要があり、まだ仕上がっていないと告げました。ジャニスが後に「でも、まる1年その絵を受け取れなかった」と振り返ったという逸話も、テートは紹介しています。

1931年にはグループ「アブストラクション=クレアシオン」に加わり(テート)、1933年には、画家チャーリー・トーロップの呼びかけで、60歳の誕生日を記念して『Lozenge Composition with Yellow Lines』(1933年)が、当時のハーグ市立美術館(現在のデン・ハーグ美術館)に寄贈されました。年譜によれば、この作品は、一時的に階段室に掛けられたそうです。

1937年の『Composition en rouge, bleu et blanc II』(ポンピドゥー・センター所蔵)について、センターの解説は、黒い線を何本も交差させ、線の太さを変えることで、静止しているはずの画面に揺れる感覚と動きの錯覚を生み出していると説明しています。

ロンドンへ、そしてニューヨークへ(1938〜1944年)

1938年、モンドリアンはパリを離れます。ナチス・ドイツが「退廃芸術」の烙印を押したことが、理由のひとつでした。ロンドンで2年間を過ごし、テートによれば、彫刻家のガボや画家のベン・ニコルソンの近くに住みました。年譜によれば、ロンドンでは爆撃を間一髪で免れたこともありました。

そして1940年、ニューヨークへ渡ります。ハリー・ホルツマンやペギー・グッゲンハイムらに温かく迎えられ、この街の活気ある美術シーンが、新しい試みを引き出しました。長年続けてきた切れ目のない長い線は、小さな色の四角のかたまりへと変わっていきます。

ポンピドゥー・センターが所蔵する『New York City』(1942年)の解説は、モンドリアンが夜のニューヨークを見て、看板や車のライトが直角の街路を照らし出す姿に、自分の絵を裏づける風景を見たと説明しています。この作品では、青・赤・黄の線が互いに上になり下になりしながら交差します。

なお本記事では、権利の確認が取れた図版だけを掲載しています。ニューヨーク時代の作品はその確認が取れていないため、ここからは図版なしで、文章でご紹介します。

『Broadway Boogie Woogie』(1942〜43年)

その先にあるのが、MoMAが所蔵する『Broadway Boogie Woogie』(1942〜43年、油彩・カンヴァス、127×127cm)です。MoMAの来歴記録によれば、作品は1943年に、ニューヨークのヴァレンタイン画廊(ヴァレンタイン・デュディンシング)から、匿名の寄贈者の資金で購入されました。ポンピドゥー・センターは、この最晩年の画風を、色の小さな四角が画面を駆けめぐる、ジャズとブギウギに着想を得たリズムだと説明しています。テートも、モンドリアンがこの時期の作品の活力を「ブギウギ」と呼んだと記しています。ジャズとダンスを愛した人が、たどり着いた場所でした。

『Victory Boogie Woogie』(1942〜44年)

最後の作品は、未完のまま残りました。デン・ハーグ美術館の解説によれば、モンドリアンは1942年6月から、黒い線をすべて取り去った大きなひし形の絵に取りかかり、これを「Victory-painting」「Boogie Woogie painting」「Diamond」などと呼びました。古典的な均衡をもたない、自由で非対称な画面をめざし、混沌と秩序、大と小、明と暗、速さと遅さのような相反するものを、一枚の絵に同居させようとしていたといいます。友人に「ほとんど完成した」と告げても、次に訪れるとまったく描き直されていたそうです。

1944年1月23日、病気のモンドリアンは、その夜から大幅な手直しに入り、多くの色の四角にテープを貼り、大きな四角を塗りつぶしました。26日に病院へ運ばれ、2月1日にニューヨークの病院で亡くなりました。絵はアトリエに残され、画商のフランシス・ヴァレンタイン・デュディンシングの所有であることがわかりました。その後、アメリカの収集家の手に渡り、1998年にオランダ中央銀行の寄贈でオランダ国に贈られました。現在はデン・ハーグ美術館に長期貸与されていて、館はこの作品を、同館のモンドリアン・コレクションの頂点と位置づけています。

日本でモンドリアンに出会う

日本では、2021年3月23日から6月6日まで、SOMPO美術館で「生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて」が開かれました。オランダのデン・ハーグ美術館が所蔵する50点を中心に、初期のハーグ派風の風景画から、象徴主義や神智学に傾倒した作品、キュビスムの影響を受けた作品、水平垂直線と原色の「コンポジション」まで、画風の変化を追える構成でした。

作品は世界各地の美術館に分かれて所蔵されているので、実物に会うには、所蔵館の公式サイトで最新の展示状況を確かめるのが確実です。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回は、抽象絵画の先駆者ピート・モンドリアンの人生と作品についてご紹介しました。

アメルスフォールトの学校の上階に生まれ、叔父に絵を学び、風車や農家を描く風景画家として出発しました。ドンブルグの海辺で色が燃えはじめ、『The Grey Tree』で木を線の骨組みに近づけ、パリでキュビスムに触れ、1917年にはデ・ステイルを立ち上げて「新造形主義」を言葉にします。ニューヨークでは、黒い線を手放し、ブギウギのリズムを色の四角に変えました。

こうして並べてみると、モンドリアンの絵は、一足飛びに抽象になったのではなく、目の前の木や海を見つめ続けた先にあることが見えてきます。縦横の線は、冷たく見えて、世界の見え方を、これ以上は削れないところまで磨いた結果でした。機会があれば、ぜひ実物の前で、絵肌の筆跡や、面ごとに違う光の返り方まで、ゆっくり眺めてみてください。

Euphoric " " の視点

モンドリアンは、定規で測って描いたわけではありません。何十年の経験で培った判断で描き、絵の具を何層にも重ねて色を作りました。

画家仲間に「均衡がとれていない」と言われたときには、「私たちは別の調和を探している」と答えたそうです。

友人に「ほとんど完成した」と告げても、次に訪れるとまったく描き直されていた、という話も残っています。

単純に見える画面ほど、判断の積み重ねでできている。削ぎ落とすことは手を抜くことではないのかもしれないと、モンドリアンの仕事は教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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