【徹底解説】アントニ・ガウディとは?サグラダ・ファミリアを設計した建築家の人生と作品を解説!

【徹底解説】アントニ・ガウディとは?サグラダ・ファミリアを設計した建築家の人生と作品を解説!
画像:アントニ・ガウディの肖像/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはアントニ・ガウディという人物をご存知ですか?

19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、スペイン・バルセロナで活躍した建築家です。うねる石の壁、うろこに覆われた動物の背のような屋根、色とりどりのタイル片でできたベンチなど、一度見たら忘れにくい建物をいくつも残しました。なかでもサグラダ・ファミリアは、没後100年を迎えた2026年のいまも工事が続いています。

ガウディの作品の一部は、ユネスコ世界遺産「アントニ・ガウディの作品群」として登録されています。本記事ではそんなアントニ・ガウディの人生と作品についてご紹介します。

アントニ・ガウディって?

アントニ・ガウディの肖像(1878年)
アントニ・ガウディの肖像写真(1878年撮影)。撮影:パウ・アウドゥアール(Pau Audouard、1918年没)/パブリックドメイン/出典:Wikimedia Commons(書籍『Gaudí 2002. Miscel·lània』Planeta、2002年からの複写)

1878年に撮影された、20代半ばのガウディの肖像写真です。この年に建築学校を終え、建築の学位を得ています。

ガウディは、カタルーニャ(スペイン北東部の地方で、独自の言語と文化をもつ地域)を代表する建築家です。サグラダ・ファミリア公式サイトによると、この教会に40年以上を捧げ、バルセロナを中心に数多くの建物を残しました。本記事では、サグラダ・ファミリア公式サイトの綴りにあわせて「アントニ・ガウディ」と表記し、2回目以降は「ガウディ」と呼びます。

基本情報

本名アントニ・ガウディ・イ・コルネット(Antoni Gaudí i Cornet)
生年月日(没年月日)1852年6月25日〜1926年6月10日(73歳没)
国籍・出身スペイン(カタルーニャ地方)/レウス(サグラダ・ファミリア公式サイトの記載)
学歴エスコラス・ピアス(Escoles Pies)で初等教育。1868年にバルセロナへ移り、1873年に建築学校へ入学、1878年に建築の学位を取得
分野建築
傾向カタルーニャのモダニスム(Modernisme)。自然と光を着想の源とし、模型で形を確かめながら設計する方法をとりました
師事した人物・影響を受けた人物建築家ジョアン・マルトレイ(Joan Martorell i Montells。ガウディがつねに師と考えていたと、バルセロナ市の公園公式サイトが記しています)、後援者エウゼビ・グエル(Eusebi Güell)

ガウディの展覧会を紹介した、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。

【特典付】「ガウディとサグラダ・ファミリア展」が東京国立近代美術館で開催!

経歴と作品

職人の家に生まれ、自然を見て育つ(1852〜1878年)

ガウディは1852年6月25日に、レウスで生まれました。当時のレウスはカタルーニャで2番目に大きな都市でした。父は銅の鍋などをつくる職人で、ガウディは1860年から父の工房で仕事を覚え始めています。幼いころは、レウスと、近くのリウドムス(Riudoms)にあった父方の農家を行き来して過ごしました。サグラダ・ファミリア公式サイトは、ここで間近に見た自然が、生涯の手本になったと記しています。

公式ブログ(2026年4月)は、幼いころのガウディが過ごした環境を、のちの仕事を読み解く手がかりとして紹介しています。幼なじみのエドゥアルド・トダ(Eduard Toda)の証言では、ガウディは両親が暮らしていたレウスのサン・ビセンス通り4番地の家で生まれました。母方の家が所有していたこの家の1階は祖父の鍋づくりの工房で、父の工房もその近くにありました。父方の家があったリウドムスでも、1階は祖父の工房で、銅の板を打って鍋や水筒のような立体の器をつくっていました。公式ブログは、この工房で過ごした時間が、形や空間を思い描く力を育てたと説明しています。

生まれた翌日に洗礼を受け、のちに初聖体も受けたレウスの教会には、遠くからも見える高い鐘楼がありました。ガウディはそこから、海からプラデスの山々まで広がるカンプ・デ・タラゴナの景色をよく眺め、地中海の光を受けとめていたといいます。鐘楼の内部の階段の形は、サグラダ・ファミリアの塔の階段を思わせる、とも説明されています。

子どものころの宗教教育も、生涯にわたる着想の源になりました。司祭で神学者、ガウディの伝記作家でもあるアルマン・プイグ氏は、のちに設計する栄光のファサードが、タラゴナ大司教が書いたキリスト教の教理問答の本をもとにしていると説明しています(公式ブログ)。

初等教育を受けたエスコラス・ピアスでは、幾何学と算数が得意で、人文学の伝統的な宗教教育も受けました。

1868年、16歳のときに家族とバルセロナへ移って建築学校の受験準備をし、1873年に入学します。在学中は、建築事務所の助手として働いただけでなく、大工、ガラス、錠前の工房でも働き、それぞれの技を身につけました。1878年に建築の学位を得ると、最初の正式な依頼を受けました。

学生時代のガウディは、のちにサグラダ・ファミリアの最初の設計者となる建築家ビリャールのもとで、1875年から1877年にかけて、モンセラート修道院の修復計画にも関わっていました。公式ブログによると、ガウディが描いた4枚の図面は、いまも修道院の文書館に残っています。

グエルとの出会いと初期の傑作(1880年代)

ガウディの生涯を語るうえで欠かせないのが、実業家エウゼビ・グエルです。グエル公園の公式サイト(バルセロナ市)によると、2人の関係は、1878年のパリ万国博覧会で、ガウディが手袋商エステベ・コメーリャ(Esteve Comella)のために考えたショーウィンドウを、グエルが見たことから始まりました。同じ年にグエルは、義父のために、カンタブリア海沿いの町コミーリャスの礼拝堂の家具を、ガウディに依頼しています。同サイトは、グエルが同時代のだれよりもガウディの建築の意味を理解していたと記し、2人の関係は芸術家と後援者というだけでなく、友情の物語だったと説明しています。

ガウディが師と考えた建築家ジョアン・マルトレイの仕事も、ここで重なります。コミーリャスの礼拝堂を設計したのがマルトレイで、ガウディはその事務所で働いていました。数年後、マルトレイは、グエルがバルセロナ西部のレス・コルツにもっていた地所(フィンカ・グエル)の門番小屋と厩舎(1883〜1887年)の設計をガウディに任せ、2人の建築家の結びつきを深めました。

『カサ・ビセンス』(1883〜1888年)

カサ・ビセンスの外観(2024年3月撮影)
カサ・ビセンス(バルセロナ・グラシア地区)の、通りに面した南側のファサード。2024年3月撮影/撮影:Joe Mabel(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

バルセロナのグラシア地区に建つ住宅です。カタルーニャ州政府の文化財ポータルは、ガウディの最初の主要な作品と位置づけています。依頼主は、証券取引所の仲買人だったマヌエル・ビセンス・イ・モンタネー(Manuel Vicens i Montaner)です。

外壁は、緑と白の釉薬タイルで覆われ、東洋風やムーア風(イスラム建築に由来する意匠)の趣向が取り入れられました。庭に生えていた植物をヒントに装飾をつくり、自然を建築の着想の源にするという考え方を、ここで初めて実践したと説明されています。2005年に世界遺産に追加登録されました。

『パラウ・グエル』(1886〜1890年)

パラウ・グエルの屋上の尖塔(2013年6月撮影)
パラウ・グエルの屋上。中央が円錐形の尖塔。2013年6月撮影/撮影:Balou46(CC BY-SA 3.0)/出典:Wikimedia Commons

バルセロナの旧市街、ノウ・デ・ラ・ランブラ通りに建つ、エウゼビ・グエルの都市邸宅です。パラウ・グエルの公式サイトは、1886年から1890年にかけてガウディが建てたと記しています。カタルーニャ・ラ・ペドレラ財団の解説によると、1888年の万国博覧会の時期を背景に構想され、来客を迎える会合や催しの場としての役割も持たされました。グエル家は1910年まで、ここに暮らしています。

写真は屋上で、中央にそびえるのが、大広間の上に立つ円錐形の尖塔です。同財団によると、そのまわりに20本の煙突が並び、上の段の6本はれんがのまま、下の段の14本は、陶器やガラス、大理石などの破片を貼り合わせたトレンカディス(破砕タイル)で飾られています。この屋上は、のちにグエル公園やカサ・バトリョ、カサ・ミラの屋上で展開されるトレンカディスの先駆けだと説明されています。公式サイトによると、1945年にグエルの末娘メルセー・グエル・イ・ロペスが、建物を保存し文化のために使うことを条件に、バルセロナ県議会へ寄贈しました。1984年に世界遺産に登録されています。

サグラダ・ファミリアを引き継ぐ(1883年〜)

ガウディの名を決定づけたのが、バルセロナのサグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)です。公式サイトの年表によると、礎石が置かれたのは1882年3月19日で、最初の設計はフランシスコ・デ・パウラ・デル・ビリャール(Francisco de Paula del Villar)が手がけました。尖頭アーチの窓や控え壁といった新ゴシックの要素をもつ設計でしたが、材料費をめぐる技術的な意見の違いから、ビリャールは交代することになります。

後任に選ばれたのが、頭角を現し始めていたガウディでした。1883年に引き継ぎます。公式サイトは、このときガウディは31歳だったと記しています。引き継いだ当初は、ほかの建物の仕事を続けながらの関わりでした。1885年には地下聖堂(クリプタ)の聖ヨセフ礼拝堂が開かれ、最初のミサが行われています。1891年には「生誕のファサード」の工事が始まりました。

生誕のファサードは、東を向いて建てられています。公式ブログによると、ガウディはイエスの誕生を、自然の輝きと夜明けに重ねて考えました。朝日がまず彫刻を照らすように、ファサードは日の出の方向に向けられ、ニワトリやアヒル、昆虫、両生類、鳥といった動物と、バラやユリ、シダ、果樹、ヤシなどの植物が、彫刻のなかにちりばめられています。ファサードは3つの大きな入口に分かれ、左から順に「希望」「愛徳」「信仰」の徳と、ヨセフ、イエス、マリアに捧げられています。

彫刻の制作でも、ガウディは手を抜きませんでした。人や動物をできるだけ生き生きと表すため、型どりには実際の人間や動物をモデルにしたと、公式ブログは伝えています。石膏の模型をいったんファサードに据えて、仕上がりを確かめてから、石の彫刻をつくりました。中央の入口だけで、石の人物像は33体にのぼります。

サグラダ・ファミリアの外観(2026年4月撮影)
サグラダ・ファミリアの外観(受難のファサード側から)。2026年4月撮影(中央で最も高い塔の先端に十字架が見える)/撮影:Wikipsico43(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

公式サイトの年表は、ガウディがこの計画を、未来の教会と呼べるほど野心的な提案へつくり変えたと記しています。方法の核にあったのは、模型です。サグラダ・ファミリア公式サイトは、ガウディの方法を、試行錯誤を重ねるものだったと説明しています。図面よりも模型を重んじ、工事現場に工房を構えて縮尺模型で形と構造を試していたといいます。光と自然に加えて、聖書と典礼も大きな着想の源でした。

身廊(聖堂の中央の細長い空間)の設計では、公式ブログによると、最初は新ゴシック風の円柱を考えていました。それがやがて、木の枝のように分かれて天井を支える柱と、双曲面(中央が細くくびれた曲面)を使った天井の組み合わせに行き着きます。縮尺10分の1で、人が中に入れるほどの大きな模型もつくりました。公式ブログは、この模型が、ガウディの仕事を引き継いだ人々に、設計と建設を仕上げるために必要なものをすべて与えたと記しています。

1914年、ガウディはほかの仕事を引き受けるのをやめ、サグラダ・ファミリアに専念しました。亡くなるまでの12年間は、この教会だけに向き合っています。1925年には、グエル公園の自宅を離れ、工事現場の工房の脇の小さな部屋で暮らすようになりました。

この間に完成した塔が、生誕のファサードのバルナバの鐘塔です。1925年に完成した、ガウディが生前に完成を見届けた唯一の塔でした。

受難のファサードの設計には、病が影響しました。公式ブログによると、死の床に就くほどの病を経験したことが、計画を描き直すきっかけになったそうです。そのとき描いた図面は非常に細かく、水彩の水分で紙がしわだらけになるほどでした。ほかの部分には、これほど詳しい図面は残されていません。

ガウディの方法:自然・光・模型

ここで、ガウディの作品を見るときの手がかりを整理しておきます。サグラダ・ファミリア公式サイトは、光と自然を、ガウディの主な着想の源として挙げています。自然は、ガウディ自身が、本当の師だと考えていたものです。

2つめは、模型です。試行錯誤を重ねる方法で、図面より模型を優先しました。コロニア・グエルの教会(後述)では、コロニア・グエルの公式サイトによると、図面から始めるかわりに、逆さ吊りの模型で形を探しています。同サイトは、ここで大きな規模で試した傾いた柱や放物面の天井が、のちのサグラダ・ファミリアにつながったと説明しています。

3つめは、職人の技への敬意です。公式サイトは、ガウディが手仕事への愛情を、細部まで丁寧につくり込む姿勢に表したと説明しています。学生のころに、大工や錠前、ガラスの工房で働いて技を身につけた人でもありました。

うねる建築へ(1900年代)

1900年代に入ると、ガウディの仕事はさらに大きく、自由になっていきます。この時期の代表作は、同じ時期に並行して進められました。

『グエル公園』(1900〜1914年)

グエル公園の大階段にあるモザイクの噴水彫刻(2013年4月撮影)
グエル公園の大階段にある、破砕タイルで覆われた噴水の彫刻。2013年4月撮影/撮影:Isiwal(CC BY-SA 3.0)/出典:Wikimedia Commons

1900年、エウゼビ・グエルは、ムンタニャ・ペラーダ(「はげ山」の意)と呼ばれた土地で、裕福な家族向けの分譲住宅地を開発する計画を、ガウディに依頼しました。海とバルセロナの平野を見渡せる、眺めのよい立地です。グエルはイギリスの住宅地公園をお手本にしたため、名前も英語でPark Güellとされました。バルセロナ市の公式サイトは、計画の様子を次のように伝えています。三角形の区画がおよそ60用意され、建物を建てられるのは区画の6分の1までと、条件はかなり厳しいものでした。

ガウディは、もともと生えていたイナゴマメやオリーブの木を残し、新しく植える植物には、水をあまり必要としない地中海地方の植物を選びました。水を集めてためる仕組みも設計しています。幼いころ農村で見た灌漑のしくみが、手本になったそうです。

土地を段々に整える工事は1900年10月に始まりました。列柱の部屋(ハイポスタイル・ルーム)は1907年には全体が覆われ、その上の広場を巡るタイル張りのベンチは1914年に完成しました。カタルーニャ州政府の文化遺産ポータルによると、二手に分かれた大階段の中央には竜の形をした噴水があり、色とりどりのトレンカディスで覆われています。階段を上った先の列柱の部屋は、86本のドーリア式の柱に支えられています。

グエル公園の列柱の部屋(2024年3月撮影)
グエル公園の列柱の部屋(ハイポスタイル・ルーム)。2024年3月撮影/撮影:Joe Mabel(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

ところが、分譲はうまく進みませんでした。売買の条件が複雑だったこと、適した交通手段がなかったこと、住宅地の性格がきわめて限られた人向けだったことが重なり、買い手が現れません。工事は1914年に打ち切られ、予定された60戸のうち、建ったのはわずか2戸でした。グエルは1918年に亡くなり、遺族が市に公園の買い取りを申し出ます。市議会は1922年5月26日にこれを決め、公園は1926年に市立公園として開かれました。

グエル公園内のガウディ・ハウス・ミュージアム(2018年3月撮影)
グエル公園内のガウディ・ハウス・ミュージアム。2018年3月撮影/撮影:Amontero(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

公園に建った2戸のうち、ガウディが住んだ1戸は、いまは「ガウディ・ハウス・ミュージアム」になっています。バルセロナ市の公園公式サイトによると、ガウディの住まいだったのは1906年から1925年まで。博物館として一般公開されたのは、「ガウディの友の会」の働きかけで1963年のことです。公園は1969年に芸術的記念物に認められ、1984年にユネスコ世界遺産に登録されました。

『カサ・バトリョ』(1904〜1906年)

カサ・バトリョのファサード(2025年2月撮影)
カサ・バトリョのファサード(左隣はカサ・アマトリェール)。2025年2月撮影/撮影:Monumencelona30(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

バルセロナの大通りパセジ・デ・グラシアに面した建物です。もとの建物は1877年に、建築家エミリ・サラ・コルテス(Emili Sala Cortés)が建てました。サラはガウディの建築学校時代の教授の1人です。1903年に繊維業の実業家ジョゼップ・バトリョ・イ・カサノバス(Josep Batlló i Casanovas)が買い取り、はじめは取り壊しを前提に工事を依頼しました。

ところが、ガウディの大胆な提案によって取り壊しは見送られ、1904年から1906年にかけて、建物を残したまま全面的に改修されました。内部の間仕切りを組み替え、採光用の中庭を広げるといった工夫が加わっています。周辺には同じ時期に有名な建築家たちが手がけた建物が並び、「不和の区画」と呼ばれる一角になりました。カタルーニャ州政府の文化遺産ポータルは、屋根を、玉虫色に光る大きなうろこをもつ動物の背のような形だと説明し、仮面のような形のバルコニーと、骨を思わせる主階の張り出し窓も特徴に挙げています。2005年に世界遺産に追加登録されています。

『カサ・ミラ(ラ・ペドレラ)』(1906〜1912年)

カサ・ミラ(ラ・ペドレラ)の全景(2018年6月撮影)
カサ・ミラ(ラ・ペドレラ)の全景。2018年6月撮影/撮影:Thomas Ledl(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

同じくパセジ・デ・グラシアに建つ集合住宅で、依頼主は、ペレ・ミラ(Pere Milà)とロゼー・セギモン(Roser Segimon)です。ラ・ペドレラ財団は、建築技術や機能面の工夫から、空間の幾何学、住まい方、人間工学、素材の使い方にいたるまで、ガウディが新しいやり方を持ち込んだ作品だと説明しています。同時代の様式に従わない外観は、擁護する人と批判する人の間に激しい議論を呼びました。カタルーニャ州政府の文化遺産ポータルによると、「ラ・ペドレラ」(石切り場)は、バルセロナの人々がつけたあだ名です。

カサ・ミラ(ラ・ペドレラ)の屋上の煙突(2026年5月撮影)
カサ・ミラ(ラ・ペドレラ)の屋上の煙突。2026年5月撮影/撮影:Alvesgaspar(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

屋上には、彫刻のような形の煙突が並びます。いまも、材料の調査や石灰岩の洗浄、構造の補強といった保存の取り組みが進められています。1984年に世界遺産に登録されました。

『コロニア・グエル教会地下聖堂』(1908〜1914年)

コロニア・グエル教会地下聖堂の外観(1991年5月撮影)
コロニア・グエル教会の下の聖堂(通称「地下聖堂」)の外観。1991年5月撮影/撮影:JopkeB(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

バルセロナ郊外のサンタ・コロマ・デ・セルベリョにある作品です。コロニア・グエルの公式サイトによると、エウゼビ・グエルは1890年に、繊維工場をバルセロナのサンツからこの地へ移し、工場のまわりにひとつの町をつくりました。この「コロニア・グエル」の教会を、ガウディは1898年に依頼されます。

カタルーニャ大百科事典によると、計画は、下の身廊と上の身廊の2層に、複数の塔と高さ40メートルの中央の円蓋を載せるという大きなものでした。コロニア・グエルの公式サイトは、礎石が置かれた日を1908年10月4日と記しています。ガウディは1914年まで工事を指揮しましたが、その年にグエルの子どもたちが資金の提供をやめ、建てられたのは、通称「地下聖堂(クリプタ)」と呼ばれる下の身廊と、外の柱廊、鐘楼などだけでした。未完成のまま、1915年に祝福されています。

この教会の形は、逆さ吊りの模型で探られました。コロニア・グエルの公式サイトによると、ガウディは工事現場の隣の小屋の天井から紐の網を吊るし、鉛の散弾を入れた小さな袋を、場所ごとに計算した重さで下げました。紐は重さに引かれて、自然な曲線を描きます。ガウディはこの模型を写真に撮り、上下を逆にして、その上に絵の具で描き込み、完成した教会の姿を思い描きました。吊るした模型では引っ張られていた曲線が、逆さにすると、押す力を受けとめるアーチや天井になる、という考え方です。2005年に世界遺産に追加登録されました。

ほかの主な作品

世界遺産に登録された7件のほかにも、ガウディは各地に作品を残しました。サグラダ・ファミリア公式サイトは、バルセロナ市内の作品として、カサ・カルベット、トーレ・ベリェスグアール、テレサ学院(Col·legi de les Teresianes)、グエル別邸のパビリオンなどを挙げています。カタルーニャ州内では、マタローの労働者協同組合の倉庫が、スペイン国内の別の地域では、カンタブリア州コミーリャスの「エル・カプリチョ」、カスティーリャ・イ・レオン州のアストルガ司教館とレオンのカサ・ボティーネスが、ガウディの作品です。

晩年と死(1914〜1926年)

1914年以降のガウディは、仕事をサグラダ・ファミリアに絞りました。公式ブログによると、身廊の設計は亡くなる3年前までに描き終えていました。受難のファサードも、図面を詳しく描き込んで決めていました。1921年からは、主要なファサードである栄光のファサードにも取りかかり、塔と大きな前廊の形をまとめた模型を残しています。

1926年6月7日、ガウディはその日の仕事を終え、いつものように聖フェリップ・ネリ教会へ向かいました。グラン・ビア通りをバイレン通りで渡っているときに、路面電車にはねられます。身元がわからなかったため、市内でも新しい病院ではなく、古いサンタ・クレウ病院に運ばれ、6月10日に亡くなりました。74歳の誕生日の15日前でした。

葬列はバルセロナの街の大部分を通り、サグラダ・ファミリアで終わりました。ガウディは、サグラダ・ファミリアの地下聖堂にある、カルメル山の聖母礼拝堂に埋葬されています。

没後の評価と、聖人への道

サグラダ・ファミリア公式サイトによると、ガウディの名は没後しばらくのあいだ人々の記憶から薄れ、1950年代にようやく国内外で注目を集めるようになりました。公式サイトの年表によると、ガウディの没後は弟子のドメネク・スグラニェスが計画を引き継ぎました。1936年のスペイン内戦ではサグラダ・ファミリアが荒らされ、設計図や写真が焼かれ、石膏の模型は壊されています。それでも1939年には、フランセスク・デ・パウラ・キンタナが現場の指揮を引き継ぎ、工房から救い出された資料と、出版されていた図面や写真からの復元をもとに、工事を続けることができました。

同サイトによると、1969年には、ガウディの17の作品がスペインの文化財に指定されています。そして1984年に、パラウ・グエル、カサ・ミラ、グエル公園がユネスコ世界遺産に登録されました。2005年には、カサ・ビセンス、カサ・バトリョ、コロニア・グエル教会地下聖堂に加え、サグラダ・ファミリアの生誕のファサードと地下聖堂が追加されます。ユネスコ世界遺産センターは、この全7件を「アントニ・ガウディの作品群」としてまとめて掲載しています。ユネスコの登録基準は、ガウディの仕事を建築と建設技術への卓越した貢献と位置づけ、カタルーニャのモダニスムの流れを映し、その後の近代建築に影響した、と説明するものです。

もうひとつの動きが、カトリック教会での手続きです。2025年4月14日、教皇フランシスコが、聖人の認定を担当する教皇庁の部署(列聖省)の審議を受けて、ガウディを尊者(Venerable)と宣言しました。尊者は、教会がその人の「英雄的な徳」を認めた段階の呼び名です。バチカンニュースも、2025年4月にこの決定を伝えています。2026年10月時点で、サグラダ・ファミリア公式サイトのガウディ紹介ページは、この尊者の宣言までを記しています。

サグラダ・ファミリアの現在

サグラダ・ファミリアの外観(2026年5月撮影)
サグラダ・ファミリアの外観。2026年5月撮影(最も高い塔の先端に十字架が見える)/撮影:WikiJana1(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

サグラダ・ファミリアの工事の進み具合は、年ごとに大きく変わります。以下は、2026年10月時点の公式発表による整理です。もとにしたのは、サグラダ・ファミリア公式サイトの年表と、同公式ブログの2026年2月20日付の記事です。

年表によると、2010年11月7日に、教皇ベネディクト16世が聖堂を礼拝の場として聖別し、小バシリカに定めました。2021年12月8日には、高さ138メートルで聖堂で2番目に高い聖母マリアの塔が、2023年11月12日には、高さ135メートルの4人の福音史家の塔が、ミサと祝福をもって披露されています。年表は、中央の6本の塔のうち5本がこの時点で完成したと記しています。

そして2026年2月20日、中央のイエス・キリストの塔に十字架の上の腕が据えられ、聖堂で最も高いこの塔の外側が完成しました。公式ブログは、これで聖堂が最も高い地点の172.5メートルに達したと伝えています。ただし、塔の内部の工事は2027年と2028年も続くとされています。2026年6月10日には、教皇レオ14世がガウディの没後100年を記念する荘厳ミサを執り行い、イエス・キリストの塔を祝福しました。続いて、塔がはじめて照らし出されています。

では、聖堂全体はもう完成したのでしょうか。公式サイトは、礎石が置かれてから140年以上がたったいまも、聖堂の建設は続いていると記しています。ガウディが1921年から取り組んだ栄光のファサードは、公式ブログの2019年6月の記事が、聖堂でこれから建てる最後のファサードとして説明していたものです。工事の進み具合や見学できる範囲は変わるため、訪れる前に公式サイトの最新の発表で確かめてください。

まとめ

いかがだったでしょうか。アントニ・ガウディは、銅の鍋をつくる職人の家に生まれ、建築を図面だけでなく素材と手仕事から学んだ建築家でした。

実業家エウゼビ・グエルという理解者を得て、パラウ・グエルやグエル公園、コロニア・グエルの教会といった作品を残しています。晩年は、サグラダ・ファミリアの仕事だけに向き合い、1926年に路面電車の事故で亡くなりました。

ガウディの方法には、一つの特徴があります。形を頭のなかで決めてしまうのではなく、模型をつくり、吊るし、確かめて、試行錯誤のなかから形を見つけていくやり方です。逆さ吊りの模型が示すように、重力がつくる曲線をそのまま建物の形に生かす考え方が、その方法の中心にありました。

サグラダ・ファミリアは、完成を見ないまま亡くなった建築家の構想を、公式サイトが、5世代の人々がその歩みを見守ってきたと記す建物です。作品を訪れる機会があれば、壁の曲線や柱の分かれ方を、ぜひ近くで見てみてください。

Euphoric " " の視点

ガウディは在学中、建築事務所の助手として働いただけでなく、大工、ガラス、錠前の工房でも働き、それぞれの技を身につけました。

図面よりも模型を重んじ、工事現場に工房を構えて、縮尺模型で形と構造を試していたといいます。

1914年にはほかの仕事を引き受けるのをやめ、亡くなるまでの12年間、サグラダ・ファミリアだけに向き合いました。生前に完成を見届けた塔は、ひとつだけです。

自分の代では終わらないと分かっている仕事に、手を動かして向き合い続ける。ガウディの歩みは、完成を見られない仕事にも打ち込む価値があるのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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