【徹底解説】ウィリアム・ブレイクとは?詩と絵を一冊に刻んだ詩人画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】ウィリアム・ブレイクとは?詩と絵を一冊に刻んだ詩人画家の人生と作品を解説!
画像:『ニュートン』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはウィリアム・ブレイクという人物をご存知ですか?

18世紀から19世紀前半のロンドンで生き、詩人としても、画家・版画家としても独自の道を歩んだ人です。「Tyger Tyger, burning bright」で始まる虎の詩『The Tyger』の作者といえば、聞き覚えのある方も多いかもしれません。ブレイクは詩を書いただけでなく、その詩に絵を添え、銅版に刻み、自分で刷り、色まで手で塗って、一冊の本に仕立てました。文章と絵が切り離せない作品をつくった人です。

その一方で、生前は広く知られた存在ではありませんでした。メトロポリタン美術館の解説は、ブレイクを「英語で書かれた最も偉大な詩人の一人」であり、ロマン主義の時代で最も独創的な視覚芸術家の一人でもあると紹介しています。

本記事ではそんなウィリアム・ブレイクの人生と作品についてご紹介します。

ウィリアム・ブレイクって?

ウィリアム・ブレイク『ニュートン』(1795〜1805年頃)
ウィリアム・ブレイク『ニュートン(Newton)』(1795〜1805年頃)色刷り版画にインクと水彩、テート/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ブレイクの代表作の一つ『ニュートン(Newton)』です。海の底のようにも見える岩の上で、たくましい青年が身をかがめ、コンパスで図形を測っています。この青年は、17世紀の数学者アイザック・ニュートンです。ブレイクはニュートンの科学を、世界を狭く見るものだと考えていました。この作品にこめた皮肉については、のちほど詳しく見ていきます。

基本情報

本名ウィリアム・ブレイク(William Blake)
生年月日(没年月日)1757年11月28日〜1827年8月12日(ロンドンで没)
国籍・出身イギリス/ロンドンのソーホー生まれ
学歴ヘンリー・パース氏の素描学校、版画家ジェームズ・バザイアのもとでの修業、ロイヤル・アカデミー(王立美術院)附属の美術学校(1779年入学)
分野詩、版画(銅版画・レリーフ・エッチング)、水彩、テンペラ画
傾向ロマン主義の時代の芸術家。聖書や詩を題材に、想像力のなかの世界を描きました
師事した人物・影響を受けた人物ジェームズ・バザイア(版画の師)、ジェームズ・バリー(王立美術院での師)。ラファエロ、ミケランジェロ、デューラーを手本とし、聖書やダンテ、ミルトンを題材にしました

ブレイクを高く評価した後世の画家にロセッティがいます。ロセッティがブレイクの手稿帳を手に入れたことは、あとの章でご紹介します。ブレイクと同じ時代に、まったく違う方法で自然を見つめたコンスタブルの記事もあわせてどうぞ。

https://euphoric-arts.com/art-2/dante-gabriel-rossetti/

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経歴と作品

ソーホーに生まれ、版画職人の道へ

ルイジ・スキアヴォネッティ(トーマス・フィリップスの原画による)『ウィリアム・ブレイク』(1808年、1813年刊)
ルイジ・スキアヴォネッティ(トーマス・フィリップスの原画による)『ウィリアム・ブレイク』(1808年、1813年刊)エッチング、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン・CC0)

ブレイクは1757年11月28日、ロンドンのソーホーにあるブロード・ストリート28番地で生まれました。父は同じ建物の1階で靴下などを扱う洋品店(hosiery shop)を営んでいました。当時のソーホーはロンドンの北のはずれにあたり、その先には野原と市場向けの菜園が広がっていたと、テートの解説は伝えています。少年のブレイクは、その野原を自由に歩きまわることができました。

テートの展覧会ガイドによれば、ブレイクは幼いころから芸術家になりたいと望み、家族もそれを後押ししました。版画や石膏像を買い与え、素描の授業の費用を出し、版画職人としての修業も支えたといいます。1767年、10歳のときにパース氏の素描学校へ通い、4年のあいだ石膏像を写しました。画家の師につくだけの余裕は家になかったため、ブレイクは版画家ジェームズ・バザイアのもとで修業を積むことになります。版画は当時、盛んな商売で、画家より安定した収入が見込めたとテートは説明しています。

バザイアは古物協会(Society of Antiquaries)の公式版画家でした。そのためブレイクは、古い教会に出向いて中世の墓や記念碑を描くことになりました。この経験でブレイクはゴシックの美に強くひかれ、流行の美術にはさほど関心を持たなくなった、とテートは述べています。

1779年8月、ブレイクはロイヤル・アカデミー(王立美術院)の学生になりました。美術院は、古代彫刻やルネサンスの巨匠ミケランジェロ、ラファエロを手本にするよう学生に求めた場所です。ブレイクは後にその硬直した教えから離れますが、美術院ではジェームズ・バリーとヘンリー・フューズリという個性の強い画家たちを尊敬しました。ただし、現実の美術界は市場に左右される世界でした。この理想と現実の落差は、ブレイクの創作を形づくる力になっていきます。

1782年8月17日、ブレイクはバターシーのセント・メアリー教会でキャサリン・ブーシェと結婚しました。キャサリンは読み書きをほとんど学んでおらず、教区の結婚記録には名前の代わりに「X」と署名したと、テートの解説にあります。それでもキャサリンは、ブレイクの版画づくりを手伝う存在になりました。メトロポリタン美術館の解説は、キャサリンがブレイクの工房の助手になったと書いています。二人の結婚生活は、ブレイクが亡くなるまで45年続きました。

1783年には、ブレイクにとって最初の印刷された詩集『詩的スケッチ集(Poetical Sketches)』が出ています。1784年には、版画家仲間のジェームズ・パーカーと組んで版画の出版・販売の店を開きます。この店は短期間で終わりました。

自分の手で本をつくる:レリーフ・エッチングの発明

ブレイクの版画の歩みで大きな転機になったのは、1780年代後半です。1787年に、同居していた弟ロバートが、おそらく結核で亡くなりました。メトロポリタン美術館の解説によれば、ブレイクは「レリーフ・エッチング(relief etching)」という独自の方法を、ロバートが亡くなってまもなく、その幻のなかで見いだしたと語っています。テートの展覧会ガイドは、この技法の発明を1788年ごろとし、ブレイクが実際の方法を実用的な言葉ではなく詩的な言葉で説明したため、くわしい手順は今も謎めいていると述べています。

レリーフ・エッチングは、文字と絵を一枚の銅版に、盛り上がった一つの印刷面として作る方法です。メトロポリタン美術館の解説によれば、ブレイクはこの方法で、詩をつくり、挿絵を描き、版を刷り、必要なら一枚ずつ手で色を塗り、ページを綴じて表紙をつけるまでを、すべて自分で行いました。完成した「彩飾本(illuminated books)」は、予言書、寓意詩、牧歌、聖書の風刺、子ども向けの本など、さまざまな形をとりました。扱った主題も、貧困、児童の搾取、人種の不平等、暴政、宗教の偽善と幅広いものでした。

同じ方法が、革命、性の自由、奴隷貿易といった当時の切実な問題にも向けられたと、テートは書いています。しかも、ブレイクの絵は文章をそのまま説明するものではありません。テートの解説は、絵が文章の内容を直接なぞることはまれだと指摘します。文章と絵が互いに意味を足し合い、一つの作品として働くのです。

『無垢と経験の歌(Songs of Innocence and of Experience)』(1789〜1794年)

ウィリアム・ブレイク『無垢と経験の歌』「The Tyger」(1794年)
ウィリアム・ブレイク『無垢と経験の歌』より「The Tyger」(1794年)イェール英国美術センター、ポール・メロン・コレクション(コピーF)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ブレイクの名を最も広く知らしめたのが、この詩画集です。テートの解説によれば、『無垢の歌(Songs of Innocence)』は1789年に出版され、1794年には『経験の歌(Songs of Experience)』と合わせた『無垢と経験の歌』ができあがりました。テートによれば、ブレイクはこの詩画集で、人間の魂の二つの相反する状態(the two contrary states of the human soul)を示そうとしました。現在は文学として読まれることが多い作品ですが、もともとは銅版に刻み、手で刷り、色を塗った彩飾本でした。文章と挿絵は一つの全体をなし、互いの意味を深めあうものだと、テートは説明しています。

図版の『The Tyger』は、「Tyger Tyger, burning bright」で始まる有名な詩です。テートの解説によれば、この詩は『無垢の歌』にある子羊の詩『The Lamb』と対になっています。第5連にある「Did he who made the Lamb make thee?」という一行は、子羊をつくった同じ神が、これほど恐ろしい獣もつくったのかと問いかけます。テートの解説は、子羊が神の愛を表すのなら、虎は何を表すのだろうか、と読者に問いかけています。やさしい神と、燃えるような目をした虎は、同じ創造主のもとにどう収まるのか、という問いです。

この詩画集には、当時のロンドンの現実を直接つく詩も入っています。『The Chimney Sweeper』は、煙突掃除に出された子どもの詩です。テートの解説によれば、当時は貧しい親が5歳ごろの子どもを親方に売ることがあり、子どもたちは狭い煙突に入れられて、中には窒息する子もいました。『無垢の歌』版では、少年トムが、天使が煙突掃除の子どもたちを解き放つ夢を見ます。『経験の歌』版では、雪のなかで泣く少年が「両親は教会に祈りに行った」と答える、いっそう苛烈な詩になります。

ウィリアム・ブレイク『無垢と経験の歌』「ロンドン」(1794年)
ウィリアム・ブレイク『無垢と経験の歌』より「ロンドン(London)」(1794年)イェール英国美術センター、ポール・メロン・コレクション(コピーF)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

もう一つ、この詩画集で触れておきたいのが「ロンドン(London)」です。上部の挿絵には、杖をついた老人と、その手を引く子どもが描かれています。詩は、語り手がロンドンの街をさまよい、すれちがう人々の顔に「弱さのしるし、嘆きのしるし」を見る場面から始まります。「mind-forg’d manacles」(心がつくり出した手かせ)という言葉も、この詩の中で響きます。テートはこの詩を、ブレイクで最も力強い政治的な詩の一つと位置づけています。

ランベスの時代:大きな彩色版画と預言書

1791年から1800年まで、ブレイクはロンドン南部のランベス、ハーキュリーズ・ビルディングス13番地に住みました。テートの解説によれば、『経験の歌』のほか、『アメリカ(America)』や『ヨーロッパ(Europe)』などの預言書、そして『ニュートン』や『ネブカドネザル(Nebuchadnezzar)』を含む12点の連作が、この家で生まれました。

ウィリアム・ブレイク『ヨーロッパ』扉絵「The Ancient of Days」(1794年)
ウィリアム・ブレイク『ヨーロッパ(Europe a Prophecy)』扉絵「The Ancient of Days」(1794年)イェール英国美術センター、ポール・メロン・コレクション(コピーA)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

図版は、預言書『ヨーロッパ(Europe a Prophecy)』の扉絵として知られる「The Ancient of Days」です。光の輪のなかから身をかがめた人物が、コンパスを下へ差しのべています。メトロポリタン美術館の解説は、この図を、ブレイクの彩飾本の代表作の一つに挙げています。テートの「ブレイクのロンドン」の解説は、王立美術院でブレイクの師だったバリーの『King Lear Weeping Over the Dead Body of Cordelia』と、この「Ancient of Days」のような、ブレイクの描くひげをたくわえた預言者や神の姿との間に、はっきりした類似があると述べています。

『ニュートン(Newton)』(1795〜1805年頃)

冒頭の『ニュートン』は、ブレイクが手がけた12点だけの大きな色刷り版画の一つです。メトロポリタン美術館の解説は、これらを、文字を伴わない、ブレイクの視覚芸術として最も野心的な作品群と位置づけています。注文や公の展示の記録は見当たらず、連作の意図は今もはっきりしません。

ブレイクはこの技法を「フレスコ」と呼んでいました。メトロポリタン美術館によれば、実際には一種のモノタイプとみられ、油彩とテンペラにチョークを混ぜた絵具を、銅版やミルボード(厚紙)の平らな面に塗り、そこに紙を押しつけて刷ります。その上から、インクと水彩で仕上げました。どの刷りも一点ものになります。

『ニュートン』について、テートは次のように解説しています。ニュートンは水中にいるかのように、色とりどりの珊瑚や地衣類におおわれた岩に座っています。ブレイクは、ニュートンの科学的なものの見方が狭すぎると考えており、この作品では、計算に気をとられるあまり、まわりの世界に気づけない人物としてニュートンを描いている、ということです。

ブレイクはこの考えを詩にも書きました。テートの「ブレイクのロンドン」によれば、友人トーマス・バッツにあてた詩の中で、ブレイクは「May God us keep / From single vision and Newton’s sleep.」という二行を書いています。(参考訳:一つの見方にとらわれ、ニュートンの眠りに落ちることから、神よ私たちをお守りください。)

フェルパムの3年と、聖書画のパトロン

1800年、ブレイクは詩人ウィリアム・ヘイリーのもとで働くため、キャサリンとともにイングランド南岸サセックスのフェルパムに移りました。メトロポリタン美術館の解説によれば、ブレイクは南岸のこの時期を除き、生涯をロンドンで過ごし、イギリスの外に出たことは一度もありませんでした。

フェルパムでの生活は、長くは続きませんでした。テートの「ブレイクのロンドン」は、ブレイクがヘイリーに嫌気がさしたこと、そして扇動罪(sedition)の裁判が迫っていたことを理由に、勇んでロンドンへ戻ったと書いています。『エルサレム(Jerusalem)』についてのテートの解説によれば、この裁判は、ブレイクが庭から追い出した兵士ジョン・スコフィールドが、ブレイクが国王と軍をそしったと訴えたことから、1804年に開かれました。

この時期のブレイクを支えたのが、トーマス・バッツです。メトロポリタン美術館の解説によれば、バッツは軍関係の役所の事務官として財を成した人で、ブレイクにとって最も忠実な後援者であり、親しい友人でした。1799年から1809年のあいだに、バッツはブレイクに聖書の挿絵を発注し、約50点のテンペラ画と80点を超える水彩画が生まれました。

1809年の個展と、遠のいた世間

1808年に出版されたロバート・ブレアの詩『The Grave』(墓)の挿絵は高い評価を受けましたが、ブレイクは、図案だけでなく版画の彫りまで任せてもらえなかったことに失望しました。さらに、出版者ロバート・クロメックが、チョーサーの『カンタベリー物語』の巡礼者たちを描くという自分の着想を盗んだと疑った、とテートは書いています。

1809年、ブレイクは自分の作品の回顧展を開きます。場所は、兄ジェームズが洋品店を継いでいた生家、ブロード・ストリート28番地の2階でした。テートの展覧会ガイドによれば、この展覧会には図録が作られ、ブレイクは自分の芸術観と、壁画の画家としての野心を記しました。ところが、来場者はごく少数で、刊行物に載った批評はただ一つ、ブレイクを「不幸な狂人(an unfortunate lunatic)」と切り捨てるものでした。展覧会は批評の面でも商業の面でも失敗に終わりました。1812年を最後に作品を展示しなくなり、ブレイクは数年にわたって世間から身を引きました。

晩年の創作:『エルサレム』、ヨブ記、そしてダンテ

長い不遇ののち、ブレイクは最晩年の約10年間に、再び旺盛に制作します。きっかけは1818年、年下の画家ジョン・リネルとの出会いでした。テートの展覧会ガイドによれば、リネルのほか、サミュエル・パーマーやジョン・ヴァーリーといった画家たちが、ブレイクに仕事と友情、そして認められているという新たな実感を与えました。

『エルサレム(Jerusalem)』(1804〜1820年)

ウィリアム・ブレイク『エルサレム』第51図(1804〜1820年)
ウィリアム・ブレイク『エルサレム(Jerusalem)』第51図(1804〜1820年)イェール英国美術センター、ポール・メロン・コレクション(コピーE)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ブレイクは1804年から1820年にかけて、彩飾本『エルサレム』に取り組みました。テートの解説によれば、全体は100枚の図版で成り、4500行を超える、ブレイクの彩飾本のなかで最も長く、最も壮大な作品です。ブレイク自身はこれを最高傑作だと考えていました。ただし現存するのは5部だけで、そのうち彩色されているのは1部しかありません。

図版の第51図は、左から、自然の女神ヴァラ、巨人であるアルビオンの息子たちの一人ハイル、そして「スコフェルド(Skofeld)」を描いています。テートの解説によれば、この「スコフェルド」は、前に触れた、ブレイクを訴えた兵士ジョン・スコフィールドその人です。ブレイクは、自分に害をなした相手を、自分だけの神話の中に登場させて「仕返し」をしたのだ、とテートは説明します。ブレイクは『エルサレム』のなかで、「I must create a system, or be enslav’d by another man’s. I will not reason & compare: my business is to create.」と書いたと、テートは紹介しています。(参考訳:他人の体系に縛られたくなければ、自分で体系をつくらなければならない。私は理屈をこねて比べることはしない、私の仕事は創ることだ。)この言葉のとおり、ブレイクは自分だけの神話を築きました。

『The Ghost of a Flea』(1819〜1820年頃)

ウィリアム・ブレイク『The Ghost of a Flea』(1819〜1820年頃)
ウィリアム・ブレイク『The Ghost of a Flea』(1819〜1820年頃)マホガニー板にテンペラと金、テート/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

この時期の奇妙な一枚が、ノミの幽霊を描いた『The Ghost of a Flea』です。縦およそ21センチ、横およそ16センチの小さなマホガニーの板に、金を用いたテンペラで描かれた作品で、画面では筋骨たくましい人物が、舌を出して、血を飲むための杯を手にしています。テートの解説によれば、画家で占星術師でもあった友人ヴァーリーが、著書『Treatise on Zodiacal Physiognomy』で、ブレイクがノミの幽霊の幻を見た、と報告しています。ブレイクが描いている間に、その霊は、ノミにはどれも「生まれつき度を越して血に飢えた」人間の魂が宿っている、と語ったといいます。画面には、人と獣が入りまじった姿で、動物的な性質に傷つけられた人間の性格が示されている、とテートは見ています。

ヴァーリーは、ブレイクが幻に見た人々の肖像を描くよう励ましました。テートによれば、そうした「幻視の頭部(visionary heads)」の素描は40〜50点にのぼり、王や女王などの歴史上の人物が多いものの、最も人気があるのはこのノミだといいます。

『ヨブ記への挿絵』と『Satan Smiting Job with Sore Boils』(1826年頃)

ウィリアム・ブレイク『Satan Smiting Job with Sore Boils』(1826年頃)
ウィリアム・ブレイク『Satan Smiting Job with Sore Boils』(1826年頃)マホガニー板にインクとテンペラ、テート/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

リネルのために、ブレイクは旧約聖書「ヨブ記」の銅版画連作にも取り組みました。テートの展覧会ガイドは、これを、ブレイクが昔から好んだ古風な様式で制作した版画だと説明しています。1826年に、『ヨブ記への挿絵(Illustrations of the Book of Job)』として刊行されました。

図版の『Satan Smiting Job with Sore Boils』は、サタンがヨブを腫れ物で打つ、ヨブ記の一場面を描いた作品で、マホガニーの板にインクとテンペラで描かれています。テートの解説によれば、全能で正しい神がつくった世界に、なぜ悪と苦しみがあるのか、という問いがヨブ記の底にあります。神は、信仰のあついヨブをサタンに試させます。画面の中央では、腕と翼を広げたサタンがヨブを腫れ物で打ち、ヨブはその足もとに横たわっています。左では妻が顔をおおっています。この絵は、1826年に出版された『ヨブ記』連作の第6図の展開にあたると、テートは説明しています。

『Dante Running from the Three Beasts』(1824〜1827年)

ウィリアム・ブレイク『Dante Running from the Three Beasts』(1824〜1827年)
ウィリアム・ブレイク『Dante Running from the Three Beasts』(1824〜1827年)国立ヴィクトリア美術館(メルボルン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ブレイクの晩年の大仕事が、ダンテの『神曲』の挿絵です。テートの解説によれば、1824年に友人のリネルが依頼したもので、ブレイクはそのとき60代の後半でした。同時代の記録には、ブレイクが病床にある2週間のうちに、この主題で100枚の水彩を設計した、とあるそうです。メルボルンの国立ヴィクトリア美術館(NGV)の解説では、この連作は全部で102点で、リネル家が1918年までこれを手元に置き、同年のロンドンでの競売に出されました。NGVが購入した36点は、現地で「メルボルンのブレイク」と呼ばれています。

図版の作品は、『神曲』の最初の場面です。暗い森に迷いこんだダンテが、丘をのぼろうとして、3匹の獣に行く手をさえぎられます。テートの解説によれば、豹は世俗的な快楽、獅子は野心、雌狼は貪欲を表します。そこへ現れるのが、理性を表すローマの詩人ウェルギリウスです。テートは、ウェルギリウスがキリストのような姿で描かれていること、そして逃げるダンテが、大げさな「恐怖の姿勢」をとっていることに目を向けるよう勧めています。また、獣たちはほとんど恐ろしく見えません。ブレイクは野生動物を描くのが得意ではなかったようだ、とテートは述べており、『経験の歌』の虎と見くらべるよう促しています。

ファウンテン・コートで迎えた最期

1821年から亡くなるまで、ブレイクはストランド通り近くのファウンテン・コート3番地、赤レンガの家の2階の2部屋で、キャサリンと暮らしました。テートの解説によれば、ブレイクはとても貧しく、自分は ‘a hole’(穴ぐら)に住んでいると率直に認めつつ、神は別の場所に美しい邸宅を用意してくれていると考えて自分を慰めていたそうです。住まいからはテムズ川が見え、ブレイクはその川を「金の延べ棒(a bar of gold)」のようだと語ったと、テートは伝えています。『神曲』の挿絵も『ヨブ記』の連作も、この部屋で生まれました。

ブレイクは1827年8月12日に亡くなり、続く金曜日に、バンヒル・フィールズに葬られました。墓には目印が置かれず、2018年に、リダ・カルドーゾの設計による新しい記念碑が同地で除幕されたと、テートは伝えています。テートによれば、臨終のブレイクはキャサリンに向かって「Stay! Keep as you are! You have ever been an angel to me」と叫び、そのまま妻の肖像を最後にもう一度描きました。(参考訳:そのままでいておくれ。おまえはずっと私にとって天使だった。)キャサリンは夫の死後も数年生き、1831年に亡くなりました。

死後に広がった評価とロセッティ

ブレイクは、生前には広く知られていませんでした。テートの『ロセッティ家:ラディカル・ロマンティクス』展の解説は、1863年まで、ブレイクの作品はごく小さな仲間うちでしか評価されなかったと述べています。広く知られるきっかけになったのが、アレグザンダー・ギルクリストの伝記『Life of William Blake』(1863年)です。ギルクリストが亡くなったあと、本は未亡人のアン・ギルクリストが完成させ、ウィリアムとガブリエル(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ)のロセッティ兄弟が手伝った、とテートは書いています。テートの展覧会ガイドも、1863年の伝記が、ブレイクを ‘a new kind of man, wholly original’ として語る信奉者たちの回想に基づいていると説明しています。

このロセッティが、ブレイクの手稿帳を手に入れていました。大英図書館の目録は、この冊子を『The Notebook of William Blake (the “Rossetti Manuscript”)』として登録しています。ブレイクが1787年ごろから1818年ごろまでに書いた詩や散文の草稿と、たくさんの素描が収められ、のちの所有者ロセッティによる書き写し(1847年以降に追加)が綴じこまれています。最初の持ち主は、ブレイクの弟ロバートでした。

テートの展覧会ガイドによれば、ロセッティは王立美術院の美術学生だったころ、兄弟から借りた10シリングでこの手稿帳を買いました。ロセッティは美術院の規則や伝統にいらだっており、その思いはブレイクと響きあうものだった、反体制の画家・詩人ブレイクに着想を求めていた、とテートは書いています。この手稿帳はロセッティのアトリエに置かれつづけ、ロセッティとエリザベス・シダルが生涯にわたって詩人・画家として歩むうえで、影響を与えたそうです。

その後の評価の広がりも、館の資料から確認できます。テートは1920年代に、史上初のブレイク・ギャラリー(Blake Gallery)をつくり、以来、ブレイクを世界へ紹介する役割を果たしてきたとしています。ウェストミンスター寺院の詩人の一角には、1957年に、ブレイクの記念碑が加えられました。テートは、現在のブレイクを、イギリスで最も称賛される芸術家の一人と述べています。

まとめ

いかがだったでしょうか。ウィリアム・ブレイクは、1757年にロンドンのソーホーで生まれ、1827年にストランドの近くで亡くなるまで、ほぼ生涯をロンドンで過ごしました。版画職人の修業を出発点に、レリーフ・エッチングという独自の方法で、詩と絵と印刷を一人でこなす「彩飾本」を生み出しました。『無垢と経験の歌』の無垢と経験の対比、『ニュートン』や『エルサレム』に表れた独自の世界観、そして晩年の『ヨブ記』と『神曲』の連作は、どれも一人の人間の想像力から生まれたものです。

1809年の個展の失敗に象徴されるように、生前の評価は決して高くありませんでした。それでもリネルら若い画家たちの支えを得て、最晩年まで制作を続けました。1863年のギルクリストの伝記や、ロセッティがブレイクの手稿帳を手にしていたことなど、ブレイクを世に知らしめる動きは、死後に少しずつ広がっていきました。作品を実際に見る機会があれば、文章と絵、手彩色の色合いを、ぜひ近くで確かめてみてください。

Euphoric " " の視点

ブレイクは、詩をつくり、挿絵を描き、版を刷り、必要なら一枚ずつ手で色を塗り、ページを綴じて表紙をつけるまでを、すべて自分で行いました。

1809年の個展は来場者がごく少数で、刊行物に載った批評はただ一つ、彼を厳しく切り捨てるものでした。それでも最晩年の約10年間に、再び旺盛に制作しています。

1863年まで、ブレイクの作品はごく小さな仲間うちでしか評価されなかったといいます。

届く相手が少なくても、最後の工程まで自分の手でやり切る。ブレイクの仕事は、評価より先に手を動かし続けることの強さを教えてくれるのかもしれません。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

2026年10月時点の公式データでは、記事で取り上げたテート所蔵の『ニュートン』『The Ghost of a Flea』『Satan Smiting Job with Sore Boils』と、国立ヴィクトリア美術館の『Dante Running from the Three Beasts』は、いずれも「Not on display」(展示中ではない)と表示されています。国立ヴィクトリア美術館は、この水彩の連作が光にとても弱く、展示期間を管理していると説明しています。イェール英国美術センター所蔵の彩飾本は、同館のスタディルームで申請のうえ閲覧できると案内されています。訪問前に、各館の公式ページで展示状況をお確かめください。

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