こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは倉俣史朗という人物をご存知ですか?
倉俣史朗(くらまた しろう)は、1934年に東京で生まれ、1991年に亡くなった日本のインテリア・家具デザイナーです。1965年に自分の事務所を構え、アクリルやガラス、建築用の金属など、それまで家具やインテリアではあまり使われなかった素材で、軽やかで夢のような作品を生み出しました。造花の薔薇をアクリル樹脂に閉じ込めた椅子「ミス・ブランチ」や、金属の網でできた肘掛け椅子「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は、世界各地の美術館に収蔵されています。
本記事ではそんな倉俣史朗の人生と作品についてご紹介します。代表作は、所蔵する美術館などの公式ページで公開されている画像を、解説のために引用して掲載します。あわせて図解と表、公式資料から確かめた内容を中心に整理します。批評にあたる部分は、編集部の意見として「〜と考えます」の形で書きます。海外の資料の言葉は、編集部が日本語に訳しています。
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倉俣史朗は、家具のデザイナーであり、同時に店や飲食店の内装を数多く手がけたインテリアデザイナーでもあります。世田谷美術館の展覧会紹介は、造花の薔薇を透明アクリル樹脂に封じ込めた「椅子」、板ガラスを組み合わせただけの「椅子」、大きさを少しずつ変えて格子状に49個並ぶ「引出し」、7本の針を持つ「時計」を挙げています。そして、一目見たときに驚きがあり、笑みがこぼれ、しばらくしてその機能がきちんと保たれていることに気づく、と説明しています。この「驚き、笑い、そして気づき」という順序が、倉俣の作品の魅力をよく表していると考えます。
1980年代には、イタリアのデザイン運動「メンフィス」に参加し、名前が世界に知られるようになりました。この記事では、生い立ちと学び、会社員時代、独立後の仕事、代表作、没後の評価の順に、時代を追ってたどります。まず基本情報を表で確認しましょう。
基本情報
| 本名 | 倉俣史朗(Kuramata Shiro)。本名と異なる名前の記載は、確認した資料には見つかっていない |
| 生年月日(没年月日) | 1934年11月29日(1991年2月1日) |
| 国籍・出身 | 日本/東京市本郷(現在の文京区本駒込。京都国立近代美術館の年譜による) |
| 学歴 | 東京都立工芸高等学校 木材工芸課程(1950年入学、1953年卒業)、桑沢デザイン研究所 リビングデザイン科(1955年入学、1956年卒業) |
| 分野 | インテリアデザイン(店舗・飲食店など)、家具・照明のデザイン |
| 傾向 | 透明・半透明・反射する素材を使い、物の重さを感じさせないことをめざした |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 記録なし(師事した人物として明記された資料は見つかっていない)。桑沢デザイン研究所の教師に渡辺力と剣持勇。1955年に見た第1回具体展、1956年に出会った雑誌『ドムス』から強い刺激を受けた |
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経歴と作品
倉俣史朗の歩みは、大きく「学びと会社員時代」「独立と、美術家との協働」「家具の代表作」「メンフィスと晩年の傑作」「没後の評価」に分けると整理しやすくなります。最初に、生い立ちから最初のイッセイ ミヤケの店までの流れを図で確認しましょう。

本郷の社宅と、木工の高校(1934〜1953)
倉俣史朗は、1934年11月29日に、東京市の本郷に生まれました。父は倉俣吉治、母は清で、3人の兄と3人の姉がいる末っ子でした。京都国立近代美術館の年譜によると、生まれ育った理化学研究所の洋風建築が、のちに倉俣の「原風景」になったといいます。日本の近現代美術の情報サイト「Art Platform Japan」(Dictionary of Artists in Japan)の人物紹介も、理化学研究所の社宅で生まれ、その洋風の建築が幼いころから強い印象を残したと記しています。
子どものころの倉俣は、大工の棟梁の仕事場を遊び場にして通い、そこで建築の「青写真」を見て、建築家にあこがれるようになりました。8歳の誕生日には、父から子ども用の大工道具一式、兄から三角定規とコンパスを贈られたと年譜は伝えています。
1950年、倉俣は東京都立工芸高等学校の木材工芸課程に入学します。Art Platform Japan によると、中学生のころから美術や文学に関心を持ち、1949年の第1回から日本アンデパンダン展(読売新聞社主催)に通っていました。1953年に高校を卒業し、東京写真短期大学(現在の東京工芸大学)を受験しましたが入学できず、浪人することになります。年譜によれば、翌年に帝国器材の設計部に勤め、約1年後には家具の商事会社に移りました。
桑沢デザイン研究所と、具体展の衝撃(1955〜1956)
1955年、倉俣は前年に設立されたばかりの桑沢デザイン研究所のリビングデザイン科に入学しました。教師には、デザイナーの渡辺力と剣持勇がいたと、年譜は書いています。授業の一環として、小原会館で開かれた第1回具体展を訪れ、強い衝撃を受けました。翌年の第2回展も観ています。
1956年に桑沢を卒業すると、倉俣はイタリアの建築・デザイン雑誌『ドムス』に出会います。年譜は、そこで受けた衝撃から「この本が認めてくれるデザインをしよう」と思った、と伝えています。のちに倉俣の作品は、実際に『ドムス』に掲載されることになります。この若いころの目標が、のちの国際的な仕事につながっていくと考えます。
三愛の宣伝課で(1957〜1964)
1957年、倉俣は株式会社三愛に入社し、宣伝課に配属されました。きっかけは、東京・銀座4丁目の交差点の角地に三愛のビルが建つと知り、そのインテリアを手がけたいと願ったことでした。宣伝課では、グラフィック、ディスプレー、タイポグラフィー、売場の構成、宣伝術など、さまざまな仕事を経験します。倉俣自身は、1964年の雑誌『室内』で、八方美人ならぬ「不美人」になりがちだったが勉強にはなった、という意味のことを語っています(年譜が引用)。
1963年に、建築家の林昌二が設計した三愛ドリームセンターが完成し、倉俣はそのインテリアを担当しました。このとき、のちにインテリアの施工やアクリル作品の制作を手がける株式会社イシマルを設立する石丸隆夫と出会っています。1964年には三愛を退社し、松屋のインテリアデザイン室の嘱託になりました。この時期には、ガラスの仕事の多くを請け負った三保谷硝子店の三保谷友彦、木製家具の製作を請け負った青島商店の青島賢治とも出会います。倉俣の作品は、デザイン画だけでなく、こうした職人や施工者との結びつきによって形になっていきました。
独立と、美術家との協働(1965〜1970)
1965年、倉俣は独立し、クラマタデザイン事務所を設立しました。翌1966年には、静岡市の婦人服店「トンボヤ」の内装を手がけ、イラストレーターの宇野亜喜良に天井画を依頼します。Art Platform Japan は、これが同時代の創作者との初めての協働だったと記し、その後も横尾忠則、高松次郎といった美術家に壁画や天井画を依頼して、数多くの空間を共同でつくったと書いています。
1967年には、高松次郎に「影」の壁画を依頼したクラブ「カッサドール」が開店しました。年譜によると、この仕事で、のちに生涯の友となる田中信太郎と出会っています。1969年には、年下のグラフィックデザイナーたちを中心にした15名のグループ「サイレンサー」に参加しました。年譜は、倉俣が参加した唯一のグループだったと記しています。

1969年には、ファッション企業エドワーズの本社ビル(東京・南青山)を設計しています。年譜によれば、これが初めての建築設計の仕事でした。また、クラブ「ジャッド」やこのビルのショールームによって、同時代のアメリカのミニマル・アートとの関連が論じられるようになります。倉俣自身は、1986年の『SD』のインタビューで、バウハウス的な動きよりも「ダン・フラビン、ラリー・ベル、クリスト、ジャッド、というアートの方に興味が強くなっていった」と語りました(年譜が引用)。倉俣のデザインが、「家具の歴史」だけでなく、同時代の美術との対話の中で生まれていたことが分かります。
1969年には、イタリアへ行き、『ドムス』誌を訪れています。編集者のチェザーレ・カザッティとリサ・ポンティに会い、作品写真を何点か預けました。翌1970年に、同誌の第487号へ《光の椅子》《光のテーブル》(クラブ「ジャッド」)が掲載されます。若いころの目標が、ここで一つ実現したと言えるでしょう。同じ1970年には、日本万国博覧会(大阪万博)で、山口勝弘がチーフプロデューサーを務める三井グループ館のインテリアデザインも担当しました。
「引出しの家具」と「変型の家具」(1967〜1970)
独立後の倉俣を語るうえで欠かせないのが、家具の連作です。年譜によると、1967年に《引出しの家具》のシリーズを発表し、デンマークのインテリア雑誌『モビリア』に掲載されました。これが、海外で初めての紹介でした。1973年には、東京・銀座の松屋デザインギャラリーで「倉俣史朗の造形」展を開き、《引出しの家具》などを出品しています。
1970年の《変型の家具》(英語名 Furniture in Irregular Forms)は、動かせる引出しがあり、側面や前面が曲面になった家具です。Art Platform Japan は、この作品と1976年の《硝子の椅子》を、きわめて単純で匿名性の高い作品の例として挙げています。そして、この単純な形が、かえって、機能性や実用性を超えたところで記憶や精神に作用するデザインをめざす倉俣の意図を際立たせた、と説明しています。

Vitra Design Museum(ドイツ)の所蔵品記録には、1970年の「Side 1 / Curved Chest of Drawers」があり、ラッカー塗装の合板に金属を組み合わせ、キャスター付きの引出し家具として記録されています。この記録は、2013〜2014年にカッペリーニ社が製作した版のものです。
《ランプ(オバQ)》と、偶然を取り込む発想(1972)
1972年、倉俣は東京・渋谷区のギャラリー・フジエで個展を開き、《ランプ(オバQ)》を発表しました。香港の美術館M+の解説によると、このランプは、熱して柔らかくしたアクリルの板を棒に掛け、自然に垂れ下がらせてから固めてつくります。できた覆いを電球の上にかぶせ、床に置く形で、まるで宙に浮いているように見える、とM+は説明しています。M+はこの方法を、倉俣が関心を持っていた「チャンス・オペレーション」(偶然の力を取り込む、当時の前衛美術家が試みた創作の方法)の表れだと説明しています。
この名前は、石岡瑛子が、藤子不二雄の人気漫画『オバケのQ太郎』にちなんでつけたものと、M+は伝えています。ポップカルチャーの親しみやすさと、偶然に形を任せる前衛的な発想が、一つの照明の中に同居している点が、倉俣らしいと考えます。この年、倉俣は商店建築における一連の家具とディスプレイが評価され、第18回毎日産業デザイン賞を受賞しました。

《硝子の椅子》と、見えない接合(1976)
1976年、倉俣は東京・南青山の画廊グリーン・コレクションズで、《硝子の椅子》(英語名 Glass Chair)を発表しました。Art Platform Japan は、この椅子を、正方形のガラス板6枚を貼り合わせてつくったものと説明しています。
ドイツのVitra Design Museumの解説には、この椅子が生まれた背景が書かれています。倉俣は、アクリル樹脂のような透明な素材をシリコーンでつなぐ方法に、長く不満を持っていました。目に見える跡を残さない別の方法を探していたところ、紫外線で硬化するアクリレート系の接着剤「Photobond 100」が登場し、ガラスの端を別のガラスの面にしっかり、しかも目立たずに付けられると気づきます。そこで倉俣はすぐに設計図を引き、厚さ12ミリのガラスの板で椅子を実現したといいます。同館は、この椅子を倉俣の「最も逆説的な設計」と呼んでいます。壊れやすいガラスで、枠もなく、透明で、普通の椅子のイメージを裏切りながら、それでも形としては椅子だと分かるからです。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)の解説は、この椅子の洗練された線が、スタンリー・キューブリック監督の1968年の映画『2001年宇宙の旅』の未来的な雰囲気に触発されたものだと書いています。アトランタのハイ美術館の記録は、製作者を「Mihoya Glass Co. Ltd」、素材を「合わせガラスと接着剤」、制作年を1976年としています。Vitra Design Museumの記録も、製作者として同じ会社名を挙げています。

Art Platform Japan は、倉俣が透明なアクリル、板ガラス、クロムめっきのエキスパンドメタル、光を仕込んだ乳白色のアクリルなど、重さを感じさせない素材を使い、透明感、半透明感、反射の効果で、物質の存在感を減らそうとした、と書いています。この「軽さ」への関心が、素材の選び方、形、構造まで、一貫して働いていたと考えます。
イッセイ ミヤケの店、そして「記憶の手術台」(1976〜1978)
1976年は、倉俣にとって節目の年でした。年譜によれば、初の作品集『倉俣史朗の仕事』が鹿島出版会から刊行され、1967年から1974年までの家具とインテリアの代表作が収められました。同じ年に、東京・南青山の「フロムファースト」の中にあるイッセイ ミヤケの店舗をデザインし、これ以後、亡くなるまで、国外を含む各地のイッセイ ミヤケの店を手がけ続けます。
1977年には、美術評論家の東野芳明が企画した「Art Today ’77 見えることの構造」展(西武美術館、東京・池袋)に、4人の現代美術作家とともに参加しました。ここで、家具作品のほか、機能を持たない立体作品《記憶の手術台》を出品しています。デザイナーでありながら美術の展覧会に呼ばれたことも、倉俣の仕事が「デザインの枠を超えて見られていた」ことを示す出来事だったと考えます。1978年には、東京・赤坂の寿司店「梅の木」を設計しました。
メンフィス参加と「スターピース」(1981〜1985)
1981年、倉俣はイタリアのデザイナー、エットレ・ソットサスに誘われ、デザイン運動「メンフィス」に参加します。メンフィスの第1回展で、《リッツ》と《インペリアル》を発表しました。同じ年に、ロンドンのアラムデザインで個展を開き、《引出しの家具》、《変型の家具 Side 1》、《ランプ(オバQ)》などを発表しています。年譜は、メンフィスへの参加とともに、この個展がヨーロッパでの知名度を上げるきっかけになったと書いています。
倉俣はこの経験を、1985年の雑誌『建築知識』で振り返っています。「メンフィスに参加して、ある意味ではデザインから解放されたことは、部分的にあると思います」と語り、そのうえで、自分には常に自己規制のようなものがあり、そこからもっと自由になりたい、という趣旨を述べています(年譜が引用)。
1982年にソットサスが来日し、行動を共にしました。倉俣は1986年の『SD』のインタビューで、ソットサスから「貴方は禅坊主みたいだから物を落してパッと割れた瞬間の美しさみたいなものをやってみたら」と言われたことがある、と話しています(年譜が引用)。
1983年には、松屋(東京・銀座)1階のイッセイ ミヤケの店で、色ガラスの破片を埋め込んだテラゾー(人造石)を、壁面、床、柱、テーブルの全面に使いました。この色ガラス入りのテラゾーは、職人が「スターピース」と名付け、倉俣のデザインを象徴する素材の一つになります。倉俣自身は、1983年の『商店建築』で「ぼくにとっては、すべて『記憶の破片』です」と書いています(年譜が引用)。同じ年には、北イタリア、南仏、パリを旅し、ミラノ・サローネ期間中のメンフィス家具展で《キョウト》《ナラ》を発表しました。
1985年には、東京・六本木のアクシスビルにあるカッシーナ・ジャパンのショールームで、未発表の新作による「小展」を開きました。ここで発表した《シング・シング・シング》は、ジャズの曲名です。年譜によると、これ以降、倉俣は作品名を即物的なものにせず、かといって特定のイメージにも結びつかない言葉を選んでつけるようになりました。Art Platform Japan も、それ以前の作品は「〜のための椅子」「〜のための家具」のように素材や形を直接示す名前が多かった、と説明しています。
《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》(1986)
1986年に発表された《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》(How High the Moon)は、建築用のエキスパンドメタル(鋼板に切れ目を入れて引き延ばした網状の金属)でできた肘掛け椅子です。年譜によると、この年、渋谷パルコパート1のイッセイ ミヤケの店のショーウィンドーに、エキスパンドメタルのソファとして展示されました。同じ年に、パリで初めての個展をギャルリー・イヴ・ガストゥで開き、この作品などを展示しています。

ニューヨークのメトロポリタン美術館は、この椅子を「椅子という形についての哲学的な瞑想」と位置づけ、西洋の家具を代表する形である肘掛け椅子を、日本の伝統的なデザインにはほとんどなかったものとして、巧みに扱っていると説明しています。ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)の解説も、形と比率は伝統的な、詰め物をした重いクラブチェアにもとづいているが、予想外の素材によって、重さと硬さが「軽さと透明さ」に変えられていると書いています。構造と「詰め物」、内側と外側が同じものである点も、同館は指摘しています。
Vitra Design Museumは、この椅子の名がジャズの曲名にちなむものだと記し、輝く、物質感の薄れた表面が、淡い月の光と無重力を思わせると説明しています。パリのポンピドゥー・センターの記録では、制作年は1986〜1987年とされ、ニッケルめっきをした網を成形して溶接した椅子で、製作者としてTerada Tekkojo(日本)、版元としてスイスのヴィトラが挙げられています。V&Aも1986〜87年としており、メトロポリタン美術館とSFMOMAは1986年としているため、館によって表記が少し分かれます。

《ミス・ブランチ》(1988)
倉俣の最も有名な作品とされるのが、1988年の《ミス・ブランチ》です。年譜によると、この年開かれた「KAGU 東京デザイナーズウィーク ’88」(アクシスギャラリー・アネックス1)で発表されました。透明なアクリル樹脂の中に赤い造花の薔薇が浮かぶように見え、細い紫色のアルマイト加工のアルミの脚で支えられています。名前は、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』(1947年)の主人公ブランチに由来すると、MoMAは説明しています。サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)の解説は、この椅子の形が、ブランチが身につけていたコサージュから来ていると書いています。
薔薇について、倉俣は1989年の雑誌『ブルータス』で、「どうして薔薇なのか自分でもよく分からない」と書いたうえで、「今言えることは、紅い薔薇でなくてはならず、生花でなく造花でなくてはならない」と述べています(年譜が引用)。MoMAの子ども向けの解説には、薔薇を液状のアクリル樹脂の中に「浮かせる」ため、毛抜きなどに使うピンセットで一つずつ位置を決めた、とあります。M+は、この作品が、当時、大きな技術的な困難をともなってつくられたと説明しています。
M+は、この椅子が壊れやすさと、はかなさを感じさせ、時間が止まった一瞬をとらえている、と説明しています。富山県美術館は、この《ミス・ブランチ》を含む倉俣の椅子7脚を所蔵していると、2024年の展覧会の紹介で述べています。

寿司店「きよ友」(1988)
同じ1988年に、倉俣は東京・新橋の寿司店「きよ友」を設計しました。M+の作品ページによると、客は、暗い鋼板の無地のファサードに斜めにはめ込まれた、鮮やかな青い壁に沿って入りました。店内は、壁から伸びる杉の板の曲面と、バックライトで光るアクリルと金属の曲面が上から空間を囲み、寿司カウンターは磨いた御影石の板でつくられていた、とあります。素材の質感と、色や形の遊びが、洗練された形で組み合わされていたといいます。M+は、倉俣の内装として、今も完全な形で残る数少ない例だと書いています。

M+の別の解説は、依頼主が、出される料理にふさわしい設計を求めたことから、倉俣が日本の茶室建築の「数寄屋造り」に着想を得たと説明しています。年譜によると、きよ友は2004年に閉店し、2014年に移設され、多数の倉俣作品を収蔵する香港のM+が2021年に開館しました。M+の作品ページには「On View(展示中)」と表示され、2024年11月2日から、黒川紀章の中銀カプセルタワーとともに紹介する展示「Nakagin and Kiyotomo」が続いています(2026年10月時点)。

M+の紹介動画では、キュレーターのIkko Yokoyamaが、倉俣は350を超える内装を設計したが、残っているのはごくわずかだと語っています。M+の記事は、店の内装は入れ替わりが激しく、家具は残っても内装の多くが失われた、と書いています。そのなかで、きよ友が一つの建築として残ったことは、倉俣の仕事を後世に伝える大きな意味を持つと考えます。
晩年の仕事と、国際的な評価(1988〜1991)
1989年には、パリのギャルリー・イヴ・ガストゥで個展を開き、《ミス・ブランチ》ほか、アクリルを使った家具を多数出品しました。また国立高等装飾美術学校(パリ)で講演を行い、翌1990年に、フランス文化省の芸術文化勲章を受章しています。
1990年には、アクシスビル地下1階のデザイン・ショップ「スパイラル」の全面改装を手がけ、《アクリルスツール(羽根入り)》などを設置しています。1991年2月1日、倉俣は56歳で亡くなりました。生前から準備していた随想集『未現像の風景』は、この年に刊行されています。
没後の評価(1996〜2023)
倉俣の作品は、没後も各地で紹介されてきました。年譜によると、1996年に東京の原美術館で「倉俣史朗の世界」展が開かれ、メキシコシティ、サンフランシスコ、ニューヨーク、モントリオール、パリ、ウィーンを巡回し、1999年に京都国立近代美術館で終わりました。2011年には、東京の21_21 DESIGN SIGHTで、三宅一生の企画により「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展が開かれています。2013年には埼玉県立近代美術館で「浮遊するデザイン 倉俣史朗とともに」が開かれ、同じ年に、ファイドン社から世界で最初の倉俣のモノグラフ『Shiro Kuramata』が刊行されました。
2022年には、事務所で保管していた作品に加え、インテリアや家具の図面、掲載雑誌の切り抜き、写真・映像資料が、一括して石橋財団アーティゾン美術館に収蔵されたと、年譜は記しています。Art Platform Japan は、これによって倉俣の仕事を守り伝える枠組みが整った、と説明しています。
そして、2023年から2024年にかけて、「倉俣史朗のデザイン 記憶のなかの小宇宙」展が、世田谷美術館(2023年11月18日〜2024年1月28日)、富山県美術館(2024年2月17日〜4月7日)、京都国立近代美術館(2024年6月11日〜8月18日)を巡回しました。世田谷美術館の紹介は、この展覧会が、家具やインテリアの仕事に加えて、創作の源泉を垣間見せるイメージスケッチや夢日記も紹介し、倉俣語録とも言われた自身の言葉を手がかりに、独立する前から晩年までを振り返るものだと説明しています。京都国立近代美術館はこの展覧会を「25年ぶりの回顧展」と紹介しており、巡回はここで終わりました。
年表で見る倉俣史朗
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1934年 | 11月29日、東京市の本郷に生まれる |
| 1953年 | 東京都立工芸高等学校を卒業 |
| 1955〜1956年 | 桑沢デザイン研究所リビングデザイン科に学び、卒業 |
| 1957年 | 三愛に入社、宣伝課に配属 |
| 1963年 | 三愛ドリームセンターが完成、インテリアを担当 |
| 1964年 | 三愛を退社、松屋インテリアデザイン室の嘱託に |
| 1965年 | 独立し、クラマタデザイン事務所を設立 |
| 1967年 | 《引出しの家具》シリーズを発表、『モビリア』に掲載 |
| 1970年 | 大阪万博の三井グループ館のインテリアを担当、『ドムス』第487号に作品が掲載 |
| 1972年 | 《ランプ(オバQ)》を発表、第18回毎日産業デザイン賞を受賞 |
| 1976年 | 《硝子の椅子》を発表、初の作品集を刊行、イッセイ ミヤケの店舗デザインを始める |
| 1981年 | メンフィスに参加、ロンドンで個展 |
| 1983年 | 松屋のイッセイ ミヤケの店で「スターピース」を使う |
| 1985年 | 《シング・シング・シング》を発表、以後、作品名を変える |
| 1986年 | 《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》を展示、パリで初の個展 |
| 1988年 | 《ミス・ブランチ》を発表、寿司店「きよ友」が開店 |
| 1990年 | フランス文化省の芸術文化勲章を受章 |
| 1991年 | 2月1日に亡くなる、『未現像の風景』刊行 |
代表作の一覧
| 作品名 | 制作年 | 素材・特徴 |
|---|---|---|
| 《引出しの家具》 | 1967年に発表 | 引出しを並べた家具のシリーズ。世田谷美術館の紹介では、大きさを少しずつ変えた49個の引出しが格子状に並ぶ作品がある |
| 《変型の家具》(Furniture in Irregular Forms) | 1970年 | 動かせる引出しと、曲面になった側面や前面を持つ家具 |
| 《ランプ(オバQ)》 | 1972年 | 熱したアクリルの板を垂らして固めた照明(M+) |
| 《硝子の椅子》(Glass Chair) | 1976年 | 板ガラスを接着してつくった椅子 |
| 《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》(How High the Moon) | 1986年(1986〜87年とする館もある) | エキスパンドメタルの肘掛け椅子 |
| 《ミス・ブランチ》(Miss Blanche) | 1988年 | アクリル樹脂に赤い造花の薔薇を封じた椅子 |
| 寿司店「きよ友」 | 1988年 | 東京・新橋の寿司店の内装。現在はM+の収蔵品 |
倉俣の作品を所蔵する主な館
| 館 | 確認できた所蔵作品(各館の公式記録) |
|---|---|
| ニューヨーク近代美術館(MoMA) | 肘掛け椅子(1976年、ガラス)、ミス・ブランチ(1988年) |
| サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA) | ミス・ブランチ(1988年)、ハウ・ハイ・ザ・ムーン(1986年) |
| メトロポリタン美術館 | ハウ・ハイ・ザ・ムーン(1986年) |
| ヴィクトリア&アルバート博物館 | ハウ・ハイ・ザ・ムーン(1986〜87年) |
| ポンピドゥー・センター | ハウ・ハイ・ザ・ムーン(1986〜87年)、シング・シング・シング(1985年) |
| Vitra Design Museum | 硝子の椅子(1976年)、Side 1(1970年設計)、ハウ・ハイ・ザ・ムーン |
| ハイ美術館(アトランタ) | 硝子の椅子(1976年) |
| M+(香港) | きよ友(1988年)、ランプ(オバQ)(1972年)、ミス・ブランチ(1988年設計) |
| 富山県美術館 | ミス・ブランチ(1988年)を含む椅子7脚 |
| 石橋財団アーティゾン美術館 | 事務所の資料・図面・映像資料(2022年に一括収蔵) |
まとめ
いかがだったでしょうか。倉俣史朗は、東京の理化学研究所の社宅に生まれ、木工の高校、桑沢デザイン研究所、三愛の宣伝課を経て、1965年にクラマタデザイン事務所を設立しました。美術家と協働して空間をつくり、1976年からはイッセイ ミヤケの店も手がけます。そして、《硝子の椅子》《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》《ミス・ブランチ》のように、透明や半透明、反射する素材で、重さを感じさせない家具を生み出しました。
1981年のメンフィス参加は、国際的な評価を広げるきっかけになりました。1988年の寿司店「きよ友」は、いま香港のM+で展示されています(2026年10月時点)。没後も、2011年、2013年、2023〜2024年の展覧会が開かれ、2022年には事務所の資料がアーティゾン美術館に収蔵されました。
実用のための家具でありながら、見た人に驚きと笑みを与え、そのあとで機能に気づかせる。この順序に、倉俣の仕事の核があると考えます。作品を実際に見る機会があれば、素材の透明さや、光の入り方にも目を向けてみてください。
Euphoric " " の視点
《硝子の椅子》の背景には、長く続いた不満がありました。Vitra Design Museumの解説によると、倉俣は、アクリル樹脂のような透明な素材をシリコーンでつなぐ方法に、長く不満を持っていました。目に見える跡を残さない別の方法を探していたところ、紫外線で硬化するアクリレート系の接着剤「Photobond 100」が登場します。ガラスの端を別のガラスの面に目立たずに付けられると気づいた倉俣は、すぐに設計図を引いたといいます。
新しい材料や技術が現れたとき、それを自分の仕事に結びつけられるかどうかは、解きたい不満を具体的に持ち続けていたかどうかに左右されるのかもしれません。
違和感は、慣れるうちに忘れがちです。けれども《硝子の椅子》からは、違和感を手放さずにいることが、新しい道具に出会ったときの「すぐ」を生むという見方ができると考えます。不満は、次の仕事の種にもなりうるのだと思います。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






