こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは竹内栖鳳という人物をご存知ですか?
竹内栖鳳(たけうち せいほう、1864〜1942)は、明治から昭和のはじめにかけて京都で活躍した日本画家です。京都の伝統的な流派の描き方を土台にしながら、ヨーロッパで見た西洋の絵の写実も取り入れ、日本画に新しい風を吹き込みました。代表作の『班猫』は、山種美術館が所蔵する重要文化財です。
東京で活躍した横山大観と並んで「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれ、1937年には大観とともに第1回の文化勲章を受けました。上村松園をはじめ、多くの弟子を育てた指導者でもあります。
本記事ではそんな竹内栖鳳の人生と作品についてご紹介します。
コンテンツ
Toggle竹内栖鳳って?

1908年の第2回文展に出品された『飼われたる猿と兎』です。金色の地に、竹の柵の中で思い思いに休むウサギたちと、木の台の上で過ごすサルたちが描かれています。動物の毛並みや、くつろいだしぐさまでが生き生きと表されています。動物を描くことを得意とした栖鳳の代表作の一つで、くわしくは、のちほど経歴のなかで見ていきます。
基本情報
| 本名 | 竹内恒吉(たけうち つねきち)。初めは「棲鳳」と号し、1901年にヨーロッパから帰国したのち「栖鳳」に改めました。別号に霞中庵 |
| 生年月日(没年月日) | 元治元年(1864年)11月22日〜1942年(昭和17年)8月23日(神奈川県湯河原で没) |
| 国籍・出身 | 日本/京都の御池通油小路にあった料亭「亀政」の一人息子として生まれました |
| 学歴 | 美術学校には通わず、画家の土田英林、のちに幸野楳嶺に入門して学びました |
| 分野 | 日本画 |
| 傾向 | 京都の円山四条派の描き方を土台に、狩野派や大和絵など古い絵も研究し、ヨーロッパで見たターナーやコローの表現も取り入れました。動物画や水辺の風景を得意としました |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 土田英林、幸野楳嶺(師)。ウィリアム・ターナー、カミーユ・コロー(渡欧の際に作品から刺激を受けた画家) |
栖鳳の弟子の一人である上村松園、栖鳳が学んだ円山四条派の祖の一人にあたる円山応挙、栖鳳が若いころに模写した国宝『鳥獣戯画』については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
円山四条派って?
栖鳳を語るうえで欠かせないのが、円山四条派という流派です。京都で受け継がれてきた日本画の流派で、栖鳳の師・幸野楳嶺もこの流派の画家でした。流派の祖の一人である円山応挙については、上の記事でご紹介しています。
平凡社の『改訂新版 世界大百科事典』によれば、栖鳳は若いころ、狩野派や大和絵、中国風の漢画などを幅広く研究しました。そのうえで、円山四条派の「つけたて」と呼ばれる筆づかいを生かした表現を試みています。つけたてとは、輪郭の線をとらずに描いていく筆づかいのことです。
文化庁の文化遺産オンラインは、栖鳳の作品について、機知に富んだ構図と巧みな技を持ち、「四条派芸術の近代版」とみなされると解説しています。京都市京セラ美術館も、栖鳳が「写生」を重視しながら、抜群の筆力で生き生きとした作品を生み出したと紹介しています。伝統の流派の上に立ちながら、それを新しくしていったところに、栖鳳の大きな仕事があります。
経歴と作品
京都の料亭に生まれて(1864〜1881年)
竹内栖鳳は元治元年(1864年)11月22日、京都に生まれました。本名は恒吉です。日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』によれば、生家は御池通油小路にあった料亭「亀政」で、栖鳳はその一人息子でした。幼いころから絵に親しんでいたといいます。
『改訂新版 世界大百科事典』によれば、14歳のときに画家の土田英林から絵の手ほどきを受けました。料理屋の跡取りでありながら、栖鳳の関心は早くから絵に向かっていたことがうかがえます。
幸野楳嶺の門下で(1881〜1890年代)
1881年、17歳の栖鳳は、円山四条派の画家・幸野楳嶺の門に入ります。楳嶺から「棲鳳」の号を受けました。『改訂新版 世界大百科事典』によれば、栖鳳はその画才を師に認められ、いつも師と行動をともにしていました。京都市京セラ美術館の作家紹介では、栖鳳は楳嶺門下の「四天王」の一人に数えられています。
小学館の『日本大百科全書(ニッポニカ)』によれば、入門の翌年の1882年には、第1回内国絵画共進会に『雁に双鶴』『瀑布』が入選しました。1884年の第2回内国絵画共進会では褒状を受け、その後も、四条派の手法に古画の作風を交えた作品で、多くの共進会や国内外の博覧会で受賞を重ねていきます。『20世紀日本人名事典』によれば、1893年のシカゴ万国博覧会、1897年のベネチアの万国博覧会にも作品を出しています。若いころには京都府画学校にも勤め、のちに京都市美術工芸学校の教諭になりました。
この時期の栖鳳は、古い絵の研究にも熱心でした。『改訂新版 世界大百科事典』によれば、京都の高山寺に伝わる『鳥獣人物戯画』や、雪舟の山水画巻の模写を残しています。2023年に京都市京セラ美術館で開かれた大規模な回顧展でも、『鳥獣戯画』の一場面や雪舟の『山水長巻』を写した模写が出品されました。
『保津川』(1888年)

24歳のころの作品で、奈良県立美術館が所蔵しています。
画面の左から右へ、白く泡立つ急流が、岩の間をうねるように流れています。中央の岩の上には松の木が枝を広げ、右へ行くにつれて水の流れはゆるやかになり、霧の中へ消えていきます。波頭の白さと岩の墨色、松の緑の対比がくっきりとしています。四条派の画家として腕を磨いていた時期の栖鳳が、水の動きをどのように描こうとしていたかが分かる一枚です。
『枯野の狐』(1897年)

30代はじめの栖鳳が、1897年の日本絵画協会第3回絵画共進会に出品し、銅牌を受けた作品です。縦145.5センチ、横87.0センチの掛軸で、京都国立近代美術館が2016年度に購入しました。
枯れたススキの野原で、一匹の狐が首を低く下げ、何かをうかがうように立ち止まっています。ふさふさとした毛並みは、細い線を重ねて描き込まれています。一方、背景の野原や空は淡い墨と色でぼかされ、狐の姿だけがくっきりと浮かび上がります。のちに栖鳳の得意分野となる動物画の、早い時期の作例です。
ヨーロッパへの旅と「栖鳳」への改号(1900〜1901年)
栖鳳の画業の大きな転機になったのが、1900年のヨーロッパ行きです。この年、パリで万国博覧会が開かれました。ブリタニカ国際大百科事典によれば、栖鳳の『雪中燥雀』が万博で銀牌を受け、栖鳳は万博を視察するため、5か月にわたってヨーロッパを巡りました。文化庁の文化遺産オンラインは、渡欧したのち約半年間滞在したとしています。
この旅で栖鳳の心を強く動かしたのが、イギリスの画家ターナーと、フランスの画家コローの作品でした。文化遺産オンラインによれば、栖鳳は二人の作品に感銘を受け、帰国後に号を「棲鳳」から「栖鳳」に改めます。『20世紀日本人名事典』は、この「栖」の字を、西洋の「西」をとったものだと説明しています。
帰国後の栖鳳は、ヨーロッパの風景や動物を題材にした作品を次々に発表しました。『20世紀日本人名事典』によれば、1901年に『獅子』、1902年にオランダの風景を描いた『和蘭春光』『伊太利秋色』、1903年に『羅馬古城址真景』などを発表し、京都の画壇に新しい風を吹き込みました。2023年の回顧展では、ローマの遺跡を描いたとされる新発見の『羅馬遺跡図』(1903年)も初めて公開されています。京都国立近代美術館には、帰国した1901年に描かれた『羅馬古城図』(絹本墨画淡彩・軸)が所蔵されています。
1904年には、亡くなった師・幸野楳嶺の十年祭にあわせた追悼の展覧会に、6曲1双の屏風『蕭条』を出品しました。現在は京都国立近代美術館の所蔵で、同館の英語の題は「Willow Trees on the Frosty Riverside」(霜の川辺の柳)です。同館の記録によれば、この屏風には「栖鳳」の印とともに、「西鳳」と刻んだ朱文の印が押されています。新しい号に込めた「西」の字を、印にも用いていたことになります。
『獅子』(1901年ごろ)

アメリカのイェール大学美術館が所蔵する、ライオンの頭部を描いた掛軸です。同館の記録によれば、制作は1901年ごろで、墨と代赭(たいしゃ。酸化鉄からつくるセピア色の顔料)で絹に描かれています。
『改訂新版 世界大百科事典』は、帰国後の栖鳳が、円山四条派の技の上に、コローやターナーに啓発された「セピア調の写生的作風」による『獅子』を発表したと書いています。この掛軸も、セピア色の濃淡だけでライオンの顔とたてがみを描いたものです。輪郭の線はほとんどなく、ぼかしの重なりで、毛のやわらかさと顔の立体感が表されています。日本の伝統的な描き方で、西洋の絵のような陰影を出そうとした試みといえるでしょう。京都市京セラ美術館の2023年の回顧展にも、1901年ごろの『金獅』や、三重県立美術館の『虎・獅子図』(1901年)など、同じころのライオンの絵が並びました。
文展の時代(1907〜1918年)
1907年、文部省が主催する美術展覧会(文展)が始まります。『改訂新版 世界大百科事典』によれば、栖鳳は文展の開設とともに審査員となり、名作を次々に発表して大家の地位を確かなものにしました。『日本大百科全書』によれば、審査員は1918年まで務めています。
『雨霽』(1907年)

第1回文展に出品された作品で、東京国立近代美術館が所蔵しています。読みは「うせい」とも「あまばれ」ともされ、雨が上がることを表す題です。墨だけで描かれた6曲1双の屏風で、片側の大きさは縦160センチ、横350センチあります。
文化遺産オンラインの解説によれば、長雨のあがった木の上で羽づくろいをする鷺の一群と、飛び去っていく一羽の鷺が、そよ風に揺れる柳の枝葉とともに、卓抜な筆力で描かれています。同じ解説は、鷺の一瞬の姿をとらえた軽妙な筆さばきは栖鳳の独壇場だと述べ、この作品を第1回文展の秀作の一つとしています。
図版は屏風の一部です。柳の幹と枝は濃い墨で力強く描かれ、その間で身を寄せ合う鷺たちは、薄い墨の濃淡で羽のふくらみまで表されています。色を使わずに、雨上がりの湿った空気まで感じさせるところが見どころです。
『飼われたる猿と兎』(1908年)
冒頭でご紹介した『飼われたる猿と兎』は、翌1908年の第2回文展に出品されました。国立美術館の所蔵作品総合目録によれば、彩色・絹本の2曲1双の屏風で、片側の大きさは縦163.5センチ、横183.0センチです。
一方の屏風には、竹の柵の中で寝そべったり、身を寄せ合ったりするウサギたちが描かれています。白、茶、黒の毛色の違いが、柔らかい筆で描き分けられています。もう一方には、木の台の上で、鎖につながれたサルたちが座っています。台の上に座るサル、台から身を乗り出すサル、柱のそばで鎖を手にするサルと、一匹ずつしぐさが違います。人に飼われた動物たちの、のんびりとした日常の一場面です。背景の金色の地には余白が大きく取られ、動物たちの姿が際立っています。
『狐狸図』(1908年ごろ)

同じころに描かれた、狐と狸の屏風です。愛知県美術館が所蔵しています。左の屏風には、柳の木の根元でじゃれ合う二匹の狐、右の屏風には、竹垣と曲がった木のそばにいる一匹の狸が描かれています。
画面の大部分は淡い色の余白で、動物と木々は画面の下のほうにまとめられています。狐の毛の明るい茶色と、狸の黒っぽい毛が、薄く描かれた背景の中で目を引きます。『枯野の狐』から約10年。動物を画面の中に置く間合いが、より大胆になっていることが分かります。
『アレ夕立に』(1909年)と『絵になる最初』(1913年)
この時期の代表作として、次の2点も知られています。権利の確認が取れた図版のみ掲載していますので、ここでは文章でご紹介します。
1909年の『アレ夕立に』は、髙島屋史料館が所蔵する作品で、文展に出品されました。京都市京セラ美術館の資料にもその名が挙げられています。もう一つが、1913年の『絵になる最初』です。京都市京セラ美術館(京都市美術館)が所蔵する重要文化財で、同館は、2023年の回顧展の中心となる作品として紹介しました。『日本大百科全書』は、この2点を、文展の審査員時代に出品した代表作として挙げています。
文展の審査員を務めた最後の時期、1917年の第11回文展には、縦210.5センチの大作『日稼』を出品しています。国立美術館の所蔵作品総合目録によれば、英語の題は「Day Labor」で、東京国立近代美術館が2022年度に購入しました。
教育者として(1909年〜)
栖鳳は、多くの弟子を育てた教育者でもありました。『20世紀日本人名事典』によれば、1909年に京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)が開設されると、教授に就きました。『日本大百科全書』によれば、教授は1924年まで務めています。また、画塾「竹杖会」を主宰しました。
門下からは、京都の日本画を担う画家が次々に生まれました。ブリタニカ国際大百科事典は、西山翠嶂、上村松園、土田麦僊、小野竹喬、徳岡神泉をはじめ、京都画壇の大半を送り出したと書いています。『日本大百科全書』も、西村五雲の名を挙げています。京都市京セラ美術館は、栖鳳が圧倒的な求心力で画壇を導き、近代京都の日本画の礎をつくったと紹介しています。
1913年、栖鳳は帝室技芸員に選ばれ、1919年には帝国美術院の会員となります。文化遺産オンラインによれば、1918年、弟子の土田麦僊らが新しい団体・国画創作協会を結成したときには、その顧問となりました。
大正から昭和へ(1920〜1930年代)
大正の終わりから昭和にかけて、栖鳳の筆はいっそう冴えていきます。『改訂新版 世界大百科事典』によれば、昭和期に入ると、簡略化された形の中に動物や植物の細やかな表情をとらえた筆づかいが、ますます冴えました。
『遅日』(1918年)

大正期の小品で、京都国立近代美術館が所蔵しています。縦143.7センチ、横51.5センチの縦長の掛軸で、同館の英語の題は「Long Day」です。
竹で編んだ二つの籠が重ねて置かれ、上の籠に一羽の烏がとまって、下をのぞき込んでいます。籠の編み目は細い線で一本ずつ描かれ、烏は濃い墨の面で一気に表されています。細かく描き込む部分と、面で大きくとらえる部分の対比がはっきりしています。画面の上半分はほとんど何も描かれていない余白で、のどかな時間の長さが伝わってきます。
京都市京セラ美術館の作家紹介によれば、栖鳳は大正期に二度、中国を訪れています。『改訂新版 世界大百科事典』は、栖鳳が水郷の風景を愛し、中国の蘇州に取材した作品を描いたと書いています。
『南清風色』(1926年ごろ)

中国南部の町を描いた作品で、京都国立近代美術館が所蔵しています。縦67.8センチ、横73.7センチの額装で、同館の英語の題は「Landscape of Southern China」です。
運河に沿って白壁と黒い瓦屋根の家が並び、石の橋の上や岸辺を、青い服の人々が行き交っています。傘を差す人、荷を運ぶ人、水辺にしゃがむ人の姿が、小さく、しかし生き生きと描かれています。奥には古い城壁のような石の壁と木々が見えます。水のある町の暮らしを、明るい色で軽やかにまとめた一枚です。
文化遺産オンラインによれば、1924年、栖鳳は横山大観や川合玉堂らとともに淡交会を結成しました。その第1回展に出品されたのが、重要文化財の『班猫』です。ブリタニカ国際大百科事典によれば、同じ1924年には、フランスのレジオン・ドヌール勲章を受けています。
『班猫』(1924年)
『班猫』は山種美術館が所蔵する重要文化財です。権利の確認が取れた図版のみ掲載していますので、ここでは文章でご紹介します。
山種美術館の解説によれば、モデルとなった猫は、栖鳳が静岡県の沼津に滞在していたときに偶然見つけた、近所の八百屋のおかみさんの愛猫でした。栖鳳はその姿に、中国・南宋時代の徽宗皇帝が描いた猫を思い起こして絵心をかき立てられ、交渉して猫を譲り受けました。京都に連れ帰り、画室で自由に遊ばせながら、日夜ていねいに観察して、作品に仕上げたといいます。
題名の「班」の字についても、同館は説明しています。猫の体のまだら模様を表すには、今日ではふつう「斑」の字を使います。しかし「班」にも「まだら」の意味があり、栖鳳自身が箱書きに「班猫」と書いているため、同館ではこれに従って『班猫』としています。資料によっては『斑猫』とも書かれます。
絹本に彩色で描かれ、大きさは縦81.9センチ、横101.6センチです。気に入った猫を手元に置いて観察し続けたという話は、「写生」を何より重んじた栖鳳らしい逸話です。
同じ第1回淡交会展には、水墨の『城址』(1924年、広島県立美術館)も出品されました。紙本墨画淡彩で、縦80.6センチ、横94.2センチの作品です。文化遺産オンラインの解説によれば、一見すると抽象画のようにも見える、墨を主体にした大胆な表現で、墨のかすれやにじみを巧みに使い分けて、その場に満ちる湿気や雰囲気までを描き出しています。同じ解説は、水墨にかすかに色を交えた柔らかな画面には、ヨーロッパで感銘を受けたコローやターナーの作品にも通じる詩趣があふれていると述べています。猫を精密に観察した『班猫』と、墨のにじみで空気を描いた『城址』が、同じ展覧会に並んでいたことになります。
『宿鴨宿鴉』(1926年)

1926年の第3回淡交会展に出品された水墨画で、東京国立近代美術館が所蔵しています。国立美術館の所蔵作品総合目録では、英語の題を「Birds at Roost」(ねぐらにつく鳥たち)としています。紙に墨だけで描かれ、大きさは縦92.0センチ、横116.0センチです。
墨のにじみを重ねた木立が、霧の中に黒々と浮かび上がっています。木のこずえには烏が、右下の水辺には小さな鴨の群れがいます。輪郭の線はほとんど使われず、墨の濃淡とにじみだけで、湿った空気と光が表されています。若いころの『保津川』の、水の流れを細かく描き込んだ画面と比べると、描かずに見せる方向へ大きく進んだことが分かります。
『秋興』(1927年)

翌1927年の第4回淡交会展に出品された作品で、京都国立近代美術館が所蔵しています。縦172.0センチ、横70.7センチの縦長の掛軸です。
大きな蓮の葉の間を、数羽の鴨が泳いでいます。蓮の葉は、青緑から黄色、茶色へと色が移り変わり、秋が深まっていくようすを伝えます。鴨の羽は細かい筆で描き込まれていますが、蓮の葉は輪郭をとらずに色の面で表されています。『改訂新版 世界大百科事典』は、栖鳳が水郷の風景を愛したと書いていますが、この作品にも、水辺の生き物を見つめる栖鳳のまなざしが表れています。
『おぼろ月』(1928年)

1928年に京都美術倶楽部で開かれた展覧会に出品された作品で、京都国立近代美術館が所蔵しています。紙本着色で、縦182.0センチ、横95.0センチあります。
雲にかすんだ満月の下、黄色く色づいた枯れ草のそばで、一匹の狐が後ろ足で立ち上がり、上を見上げています。月は輪郭をぼかした丸い光として描かれ、空全体が淡い灰色の中に沈んでいます。狐の体だけが鮮やかな茶色で、ふわりとした尾まで細かく描かれています。
栖鳳は若いころから狐を繰り返し描きました。30代の『枯野の狐』、40代の『狐狸図』、そして60代のこの『おぼろ月』と並べると、同じ動物を描きながら、背景を少しずつ省き、余白で季節や空気を語るように変わっていったことがよく分かります。
ほかにこの時期の代表作として、闘う二羽の軍鶏を描いた『蹴合』や、茨城県の潮来に取材した『潮来小暑』(1930年、山種美術館)、中国の蘇州に取材した作品などがあります。『20世紀日本人名事典』によれば、1934年には東本願寺の大寝殿の障壁画も完成させました。
晩年(1937〜1942年)
1937年、栖鳳は第1回の文化勲章を受けました。同じ年に、東京の横山大観も受章しています。『20世紀日本人名事典』は、栖鳳を京都画壇の近代化の祖とし、「西の栖鳳、東の大観」と称されたと書いています。ブリタニカ国際大百科事典によれば、栖鳳は終始、国が開く官展にとどまり、在野の大観とともに画壇の双璧をなしました。
ブリタニカ国際大百科事典によれば、国外でも評価され、1931年にはハンガリーの最高美術賞を受け、ドイツのゲーテ名誉賞も受けています。
『若き家鴨』(1937年)

文化勲章を受けた1937年の第1回新文展(文展を引き継いだ展覧会)に出品された屏風で、京都国立近代美術館が所蔵しています。紙本着色の2曲1双で、片側の大きさは縦171.0センチ、横184.0センチです。右の屏風の右上には「昭和丁丑十月栖鳳」と書かれています。丁丑は1937年にあたります。
淡い地の上に、生まれて間もない家鴨のひなたちが集まっています。右の屏風では一枚の板のまわりにひなが群がり、左の屏風では数羽が離れて歩いています。白や黄色、茶色のふわふわとした羽毛は、輪郭の線をほとんど使わずに、色のにじみで表されています。70歳を過ぎてもなお、生き物を見つめる目が少しも衰えていなかったことを伝える作品です。
前年の1936年には、著書『栖鳳閑話』を出しています。日本画家の鏑木清方は、『改訂新版 世界大百科事典』によれば、栖鳳を「最後の名人」と賞しました。同事典は、極度に簡略化され、軽やかさを重んじる栖鳳の晩年の画風を、日本画の筆さばきの極点を示すものと評しています。
竹内栖鳳は、1942年8月23日に神奈川県の湯河原で亡くなりました。
竹内栖鳳の代表作
本記事で取り上げた作品を中心に、代表作と所蔵館を一覧にまとめます。
| 制作年 | 作品名 | 所蔵 |
|---|---|---|
| 1888年 | 『保津川』 | 奈良県立美術館 |
| 1897年 | 『枯野の狐』 | 京都国立近代美術館 |
| 1901年ごろ | 『獅子』 | イェール大学美術館(アメリカ) |
| 1907年 | 『雨霽』 | 東京国立近代美術館 |
| 1908年 | 『飼われたる猿と兎』 | 東京国立近代美術館 |
| 1908年ごろ | 『狐狸図』 | 愛知県美術館 |
| 1909年 | 『アレ夕立に』 | 髙島屋史料館 |
| 1913年 | 『絵になる最初』(重要文化財) | 京都市京セラ美術館(京都市美術館) |
| 1918年 | 『遅日』 | 京都国立近代美術館 |
| 1924年 | 『班猫』(重要文化財) | 山種美術館 |
| 1924年 | 『城址』 | 広島県立美術館 |
| 1926年ごろ | 『南清風色』 | 京都国立近代美術館 |
| 1926年 | 『宿鴨宿鴉』 | 東京国立近代美術館 |
| 1927年 | 『秋興』 | 京都国立近代美術館 |
| 1928年 | 『おぼろ月』 | 京都国立近代美術館 |
| 1930年 | 『潮来小暑』 | 山種美術館 |
| 1937年 | 『若き家鴨』 | 京都国立近代美術館 |
まとめ
いかがだったでしょうか。竹内栖鳳の人生と作品をご紹介しました。
栖鳳は1864年に京都の料亭の一人息子として生まれ、17歳で円山四条派の幸野楳嶺に入門しました。『鳥獣戯画』や雪舟の模写で古い絵を学び、共進会や博覧会で受賞を重ねます。1900年のヨーロッパ行きでターナーやコローの作品に感銘を受け、帰国後は号を「栖鳳」に改めて、『獅子』のようなセピア調の新しい表現を生み出しました。
文展の時代には『雨霽』『飼われたる猿と兎』『アレ夕立に』『絵になる最初』を発表し、京都市立絵画専門学校と画塾の竹杖会で、上村松園をはじめ多くの画家を育てました。昭和に入ると、『班猫』『宿鴨宿鴉』『おぼろ月』のように、少ない筆数で生き物や空気を描く画風に達し、1937年には第1回の文化勲章を受けて、同じ年に『若き家鴨』を発表しています。
栖鳳の絵を見るときは、描かれているものだけでなく、描かれていない余白にも目を向けてみてください。墨のにじみや色の面だけで表された霧や水、柔らかな毛並みに、写生を重ねた画家の目と手の確かさが表れています。
Euphoric " " の視点
1900年、栖鳳はヨーロッパを巡り、ターナーとコローの作品に感銘を受けました。帰国すると、号を「棲鳳」から「栖鳳」に改めます。新しい「栖」の字は、西洋の「西」をとったものだと説明されています。
ただ、栖鳳は円山四条派の筆づかいを捨てたわけではありません。帰国後に発表した『獅子』は、四条派の技の上に、セピア色の濃淡で陰影を表した作品でした。
外で出会ったものを自分の名前に刻むほど大切にしながら、足もとの技法の上に積み重ねていく。新しいものに心を動かされたとき、もとの自分をどう生かすかを考える手がかりを、栖鳳の歩みは示してくれるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。







