こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはベルト・モリゾという人物をご存知ですか?
19世紀のフランスに生まれた画家で、全8回の印象派展のうち、出品しなかったのは1回だけという、印象派の中心にいたひとりです。エドゥアール・マネの絵のモデルとして名前を知っている方も多いかもしれません。
けれどモリゾは、誰かに描かれる側にとどまりませんでした。姉の家族、娘、庭、化粧台の前の女性。身のまわりの光景を、軽やかで速い筆づかいで画面に残し、1886年の最後の印象派展では、グループを動かす中心にもなりました。
本記事ではそんなベルト・モリゾの人生と作品についてご紹介します。
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基本情報
| 本名 | ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)。結婚後は「マダム・ウジェーヌ・マネ」とも呼ばれました |
| 生年月日(没年月日) | 1841年1月14日〜1895年3月2日(54歳没) |
| 国籍・出身 | フランス/ブールジュ生まれ。家族とともにパリへ移り、パッシーで育つ |
| 学歴 | 美術学校には学ばず、個人教師に師事。ジョフロワ=アルフォンス・ショカルヌ、ジョゼフ・ギシャールらに学び、ルーヴル美術館で模写を重ねる |
| 分野 | 絵画(油彩)、水彩、パステル、版画(ドライポイント) |
| 傾向 | 印象派。姉妹や娘などの家族、庭、室内、ブーローニュの森。パステル調の淡い色と、素早い筆触 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | ジョゼフ・ギシャール、カミーユ・コロー、エドゥアール・マネ(親しい友人でもありました)。ロココの画家フラゴナール、ワトー、ブーシェを敬愛 |
モリゾを取り巻いた画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
モデルでも、マネの弟子でもなく
モリゾを語るとき、よく添えられるのが「マネのモデル」「印象派の紅一点」という紹介です。どちらも事実の一面ですが、それだけではモリゾの仕事を小さく見積もることになります。
ロンドンのナショナル・ギャラリーは、モリゾの絵が当時の批評で「繊細」「魅力的」「優雅」と評されたことを紹介しています。これらは女性の画家に向けられがちな言葉です。一方で同館は、筆の跡を残す画面と淡い色づかいそのものも、当時のフランスの新聞で高く評価されていたと説明しています。モリゾは「かわいらしい絵を描く女性」ではなく、新しい絵画の方法を実際に動かしたひとりでした。
同館の解説は、モリゾがおもに描いたのが女性と子どもであり、場所は室内、庭、自宅に近いブーローニュの森だったと整理しています。姉妹や姪の肖像が多いことも、当時の女性が自由に描ける場所が、私的でなじみのある空間に限られていたことの表れだと説明しています。絵の色づかいは、ピンク、グレー、淡い青が中心です。同館によると、これらはワトー、フラゴナール、ブーシェといったロココの画家たちが好んだ色調でもあり、モリゾは彼らを深く敬愛していました。ただし、素早い筆づかいと、日常の場面を描く姿勢は、理想化された華やかなロココの絵とは違うものだったとも記されています。
そのモリゾが何を見て、どう描いたのか。生涯を年代順にたどってみましょう。
経歴と作品
パッシーで育った三姉妹(1841〜1860年代)
モリゾは1841年1月14日、フランス中部のブールジュで生まれました。三姉妹の末っ子で、上には姉のイヴ(1838〜1893)と、のちに絵の道を共に歩む姉エドマ(1839〜1921)がいます。一家はパリに移り、モリゾはパリ西部のパッシーで育ちました。なお、ロンドンのナショナル・ギャラリーは、モリゾがロココの画家フラゴナールの縁戚だと伝えられてきたことにも触れています。
絵を学び始めたのは1857年です。最初の教師ショカルヌの教えに満足できなかったモリゾとエドマは、まもなくジョゼフ・ギシャールのもとへ移りました。ギシャールは二人の才能を見抜き、ルーヴル美術館に連れて行って名画を模写させた人物です。
1861年には、当時もっとも名高い風景画家のカミーユ・コローを紹介されます。コローの写実的な風景に影響を受けた姉妹は、屋外で描くようになりました。画室を出て光の下で描くという習慣は、のちの印象派につながる大切な土台になります。
サロン入選と、姉との別れ(1860年代)
モリゾは1864年、23歳のときに、パリのサロン(官設の公募展)に初めて出品しました。姉のエドマも同じ年から出品し、二人は風景画や人物画を出品していきます。批評家たちは二人の風景画がコローに似ていると指摘しましたが、ナショナル・ギャラリーの解説によると、モリゾ自身はこの指摘に不満を抱いていたといいます。
転機は1869年です。エドマが結婚して家庭に入り、絵筆を置いたのです。エドマはその後も妹を支え、たびたびモデルを務めました。姉が絵筆を置いたあとも、モリゾは姉とその家族を描き続けることになります。
『The Harbor at Lorient』(1869年)

1869年に描かれた港の風景です。画面右の岸壁に、白いドレスの女性が日傘を手に腰かけ、左には水面と、遠くに帆船や町並みが見えます。人物は小さく、画面の大半を占めるのは空と水のひろがりです。この年の夏、モリゾは結婚した姉エドマをブルターニュ地方のロリアンに訪ねており、岸壁に座る女性はエドマです。
マネとの出会い(1868年〜)
1868年、モリゾは画家エドゥアール・マネと出会います。ナショナル・ギャラリーは、ルーヴル美術館で模写をしていたときのことと説明しています。モリゾはマネのために何度かモデルを務め、マネの人物画に強く惹かれました。マネのほうも、モリゾの速い筆づかいを褒め、後年の自作で彼女の主題や構図から着想を得たと、ナショナル・ギャラリーは説明しています。
冒頭に掲げた肖像(クリーヴランド美術館)は、マネが描いたモリゾです。同館によると、マネはこの作品を生涯手元に置き、没後のアトリエの財産目録にも載っていました。また同館は、マネの太い筆づかいと、影を表す交差する線について、モリゾ自身の絵のスケッチ風の味わいを思わせると解説しています。
師と弟子というより、互いの絵から学び合う友人同士でした。1873年には、クロード・モネらの働きかけで、のちの印象派展につながる画家たちの組合に参加しました(ナショナル・ギャラリーの解説による)。モリゾは1874年に、マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚します。エドゥアールとの親しい友情は、1883年にエドゥアールが亡くなるまで続きました。
姉の家族を描く(1872年)、そして第1回印象派展
モリゾの身近なモデルは、なんといっても姉エドマとその家族でした。
『The Artist’s Sister, Edma, with Her Daughter, Jeanne』(1872年)

これは油彩ではなく、紙に水彩と鉛筆で描かれた作品です。長いドレスの女性がソファに腰かけ、その隣に幼い子どもがいます。ワシントン・ナショナル・ギャラリーの記録によると、この紙の裏面には、屋外に座るエドマを鉛筆で描いた素描も残っています。
『The Cradle』(Le Berceau、1872年)

モリゾの作品でもっとも知られているとされる一枚です。オルセー美術館の解説によれば、姉エドマが、眠る娘ブランシュを見守る場面を描いています。同館は、母親が子どもを見つめる視線、折り曲げた腕、赤ちゃんの閉じた目が斜めの線でつながっていること、そしてエドマがゆりかごのネットを引く仕草が、見る人と赤ちゃんの間に薄い幕を置き、親密さと守ろうとする愛情を強めていると読み解いています。モリゾの作品に母と子の主題が登場した最初の例でもあります。
この作品は1874年、第1回印象派展に出品されました。ナショナル・ギャラリーによると、モリゾはこの展覧会で唯一の女性の出品者で、油彩4点、水彩3点、パステル2点を出しました。同館は、男性の画家たちと比べて評価は比較的好意的だったとしながら、多くの批評家がまず「女性がひとりいる」という点に言及したと記しています。『The Cradle』については、オルセー美術館が、ほとんど注目されなかった一方で、主要な批評家が優美さとエレガンスに触れたと述べています。売ろうとする試みは実らず、モリゾは作品を展示から引き下げました。その後、この絵はモデルだった家族のもとに残り、1930年にルーヴルが購入しています。
この1874年の12月22日、モリゾはウジェーヌ・マネと結婚しました。
洗濯物の野と、夜会のあとの部屋(1875〜1880年)
1870年代後半のモリゾは、グループの展覧会に出品を続けながら、油彩の表現を広げていきます。
『Hanging the Laundry out to Dry』(1875年)

画面の手前から奥まで、草地に洗濯物の列がいくつも並び、遠くに家と空が見えます。人の姿は小さく描かれ、洗濯物の白と草地の緑が、短い筆触で重ねられています。題材は日常の労働の場面で、画面の大きさも縦33センチ、横40.6センチと小ぶりです。
『Woman at Her Toilette』(1875〜80年)

シカゴ美術館の解説によると、夜会のあと、化粧台の前でシニヨンをほどこうとする女性を描いた作品です。耳飾りと首のビロードのリボンはそのままで、背景の花柄の寝具と壁紙は、羽のように軽い筆づかいで表されています。同じ筆づかいが鏡にも使われ、映る姿はぼやけています。同館は、鏡を見る女性を「虚栄」の象徴とする従来の描き方を、モリゾが崩していると指摘します。モリゾの署名は、鏡の下の縁に沿って入れられています。
同館によれば、この絵は1880年の第5回印象派展に出品され、この展覧会でモリゾの作品は高い評価を受けました。同館の来歴の記録をたどると、画家ウィリアム・メリット・チェイスの旧蔵品の売り立てが1896年にニューヨークで開かれ、同じ1896年の所有者としてメアリー・カサットの名前が挙がっています。その後、1905年にデュラン=リュエル、画商ポール・ローゼンバーグなどを経て、1924年にシカゴ美術館が購入しました(来歴の一部は同館が文献に基づく記述としています)。同じ印象派の女性画家どうしのつながりを示す名前が、来歴の中に残っています。
『Young Girl in a Ball Gown』(Jeune femme en toilette de bal、1879年)

花に囲まれて座る、舞踏会の装いの若い女性です。オルセー美術館の解説は、この作品を、サロンの画家たちが描いた公式の肖像画とは正反対の、自由な描写だと位置づけます。1880年の第5回印象派展に出品されました。このときモリゾは15点ほどの作品を並べ、批評家のシャルル・エフリュシが『ガゼット・デ・ボザール』誌で、モリゾの絵を詩的な言葉で評しました。オルセー美術館が紹介する評によれば、モリゾは気品、優雅さ、陽気さ、そして気楽さを備えた「とてもフランス的」な画家で、花びらをパレットですりつぶして、軽やかな筆致でカンヴァスに広げているかのようだ、という内容です。
売却の経緯も印象的です。モリゾはこの絵をすぐ画家ジュゼッペ・デ・ニッティスに売り、のちに批評家テオドール・デュレの手に渡ります。そして詩人ステファヌ・マラルメの働きかけで、デュレは1894年に国へこの絵を売ることに同意しました。モリゾが亡くなる前年のことでした。
『Summer’s Day』(1879年頃)
ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する作品で、ブーローニュの森の湖で、舟に乗る二人の女性を近くから描いています。同館は、この絵がほぼ間違いなく1880年の第5回印象派展に出た作品だとしています。注目されるのは筆づかいです。同館は、モリゾのジグザグの筆触が画面全体を動かし、湖面の波立つ光を表していると解説します。
ブーローニュの森は、1850年代にナポレオン3世と造園家アルファンによって、整った公園から「自然な」森へと作り替えられた場所でした。モリゾはその近くのパッシーに住み、この森をよく描いています。同館は、にぎわう人びとを描かず、二人の女性だけに絞った点、水面と木々を簡潔にとどめた点に注目します。さらに、人物を近くから捉えて画面を切り詰め、水平線を画面のいちばん上へ押し上げているため、見る人は同じ舟に乗っているかのように感じられると説明します。この作品の水彩の下絵は、現地の湖畔で描かれたと考えられていますが、所在は分かっていません。完成作は、少なくとも一部をアトリエで描いたとみられています。
ただ、当時は「なぜ仕上げないのか」「完成しない絵の約束にすぎない」といった批判も出ました。ドガも含め、モリゾの絵を「ヴァポルーズ(霞がかったような)」と形容する人がいたと、同館は記しています。称賛の言葉にも「繊細」といった、女性らしさを決めつける型が混じっていたというのが同館の見立てです。一方、義理の兄にあたるマネは、自分も伝統的な「仕上げ」の考え方を退けていた画家として、モリゾの方法の独自性を認めていたといいます。
娘の誕生と、1880年代の室内と庭
1878年、モリゾは一人娘のジュリーを産みました。この出産のため、1879年の第4回印象派展だけは出品できませんでした。のちに娘ジュリーは、モリゾの作品に繰り返し登場します。
『Girl on a Divan』(1885年頃)

肘掛けにもたれながら、顔は逆の向きに向けた若い女性の肖像です。ナショナル・ギャラリーの解説は、青い目と背景の青が響き合い、耳飾りの真珠が軽い筆で光って見えると指摘しています。モデルは特定されていません。場所は、パリのヴィルジュスト通り40番地にあったモリゾの家の居間のアトリエとみられ、ソファの布がほかのモリゾ作品にも登場することが根拠とされています。モリゾはこの絵をずっと手元に置き、没後に娘のジュリーが手放しました。
ナショナル・ギャラリーによれば、モリゾはこの絵が描かれる約1年前に、新築のこの建物の下の2フロアに移り住みました。同じ住所の上の階には詩人ポール・ヴァレリーが住み、通りはやがてヴァレリーの名を冠して改称されました。描かれた女性の前髪のような髪型は当時としては珍しく、実際には髪をまとめて留めたものを、筆で軽くなじませているのだろうと同館は読み解いています。
制作年についても証言が残っています。同館によると、1969年にジュリーの息子ドニ・ルアールが、母から聞いた話を説明しました。ジュリーがこの絵を1885年の作としていたこと、画面のアトリエ印(モリゾの署名の印)はジュリー自身が押したこと、描かれた女性は専門のモデルではないにせよ、報酬を得て座ることのあった人で、親族でも友人でもないこと、ジュリーも名前は知らなかったことです。ルアールは、筆づかいは1882〜88年、とくに1883〜87年の特徴を示しており、年代を変えるべき確かな理由はないとも述べています。同館はこの作品を「1885年頃」としています。
『Woman in a Garden』(1882〜83年)

シカゴ美術館は、モリゾが人物を、印象派の風景のように描いたと説明します。人物の中心にも、日の差す庭の緑やオレンジを走らせたのと同じ筆づかいが使われているのです。同館によると、制作が始まったのはおそらく1882年の夏で、モリゾ一家はセーヌ川沿いの村ブージヴァルに家を借りていました。青いドレスに黄色い手袋の女性の後ろ、花の陰には、麦わら帽子をかぶった子どもの姿が見えます。同館は、この子どもはもうすぐ4歳になる娘ジュリーをもとにしているとみられ、手前の女性が誰なのかは分かっていないと説明しています。この絵はモリゾが亡くなるまで本人のもとにあり、娘ジュリーとその夫エルネスト・ルアール、さらに息子のドニ・ルアールへと受け継がれました。その後、1955年にネイサン・カミングスの手に渡り、複数の所有者を経て、1999年にシカゴ美術館へ寄贈されています。
『In the Dining Room』(1886年)

エプロン姿の女性が食堂に立ち、足もとには小さな白い犬がいます。右には光の差す窓があり、左には食器棚のような家具が見えます。輪郭は筆の流れの中に溶け込んでいます。縦61.3センチ、横50センチの小さな画面に、日常の室内の空気が収められています。
この1886年、モリゾは最後となる第8回印象派展の実現を支えた中心人物になりました(ナショナル・ギャラリーの解説による)。
1890年前後:娘を描き、水辺を描く
『Girl in a Boat with Geese』(1889年頃)

緑の草地にガチョウがいて、奥の水面に小舟が浮かんでいます。筆触は草や木の葉になじみ、人物も風景の一部のように溶け込んでいます。
『The Artist’s Daughter with a Parakeet』(1890年)

題名のとおり、娘のジュリーを描いた肖像です。ピンクのドレスを着た少女がこちらに体を向けて座り、左の鳥かごには緑のインコがいます。ドレスは筆の流れで表され、背景の青と呼応します。
『The Drawing Lesson』(ドライポイント、1889年)

同館の題名には、モリゾと娘ジュリー・マネの二人を描いたものと記されています。ドライポイントは、先の尖った針で金属板を直接引っかいて線を刻む版画の技法です。この版は1889年に制作され、摺られたのは1921年と、同館は記録しています。線の少なさが、並んで紙を見つめる二人の距離の近さを伝えます。
1892年4月13日、夫のウジェーヌ・マネが亡くなりました。その翌月の5月25日から6月18日まで、モリゾはパリのブッソ・ヴァラドン画廊で、初めての個展を開いています。翌1893年には、姉のイヴも亡くなりました。
1895年の死と、その後
モリゾは1895年3月2日、パリで亡くなりました。54歳でした。死因は肺炎でした。娘のジュリーは16歳で両親を失います。パリのマルモッタン・モネ美術館によると、モリゾは親しかった詩人ステファヌ・マラルメをジュリーの後見役に選んでいました。ジュリーは1897年にルーヴル美術館で画家エルネスト・ルアールと出会い、1900年5月31日に結婚しています。
翌1896年3月には、パリのデュラン=リュエル画廊で回顧展が開かれました。シカゴ美術館の記録では、題名は「ベルト・モリゾ(マダム・ウジェーヌ・マネ):作品展」。1886年の最後の印象派展から約10年後に、モリゾの仕事をまとめて見る機会がつくられたことになります。同館の記録では、先ほどの『Woman in a Garden』も、この回顧展の目録の第1番に『Le Jardin』(1883年)の題で載っていました。3月5日から21日までの会期でした。
ナショナル・ギャラリーによれば、モリゾは没後、多くの女性画家と同じように、長く存在感を失っていました。けれど女性画家への関心の高まりとともに、いまは印象派の最前線に戻ってきたと、同館は述べています。
モリゾの絵を見るときのヒント
最後に、これまで見てきた作品から、モリゾの絵を見るときの手がかりを3つ挙げます。これは編集部の読み方であり、決まった見方ではありません。
ひとつめは、筆の跡を追うことです。シカゴ美術館は『Woman in a Garden』で、人物にも風景と同じ筆づかいが使われていると説明していました。ロンドンの『Summer’s Day』では、ジグザグの筆触が水面と人物を同じ質感でつないでいます。人物と背景を分けて見ないと、画面の見え方が変わります。
ふたつめは、仕上げられていない部分に注目することです。当時は「なぜ完成させないのか」という批判もありました。『Woman at Her Toilette』の鏡のように、はっきり描かないことで意味が生まれる場所もあります。描かない余白が、見る人の目に補われます。
みっつめは、誰が誰を見ているのかを確かめることです。『The Cradle』では、母の視線と腕、赤ちゃんの閉じた目が斜めにつながり、カーテンの動きがそれを強めていました。『The Drawing Lesson』では二人が同じ紙に目を落としています。視線の向きをたどると、描き手と描かれる人の距離が見えてきます。
まとめ
いかがだったでしょうか。ベルト・モリゾの人生と作品をご紹介しました。
三姉妹の末っ子として生まれ、コローに学び、1864年にサロンに入選。姉エドマの結婚、マネとの出会い、ウジェーヌ・マネとの結婚、そして1874年の第1回印象派展へと進みました。娘ジュリーの出産からまもない1879年の第4回を除いて印象派展に出品を続け、1886年の最後の展覧会では、モリゾが原動力になりました。
描かれたのは、身近な家族や庭、化粧台や食堂といった、日々の場面です。けれどその画面には、鏡をぼかして「虚栄」の約束事を崩す工夫や、人物と風景を同じ筆触で描く挑戦があります。近い場所を描くことと、新しい絵画をつくることは、矛盾しませんでした。
次にモリゾの絵に出会ったときは、人物の顔だけでなく、画面の端や背景の筆の動きにも目を向けてみてください。素早く置かれた一筆一筆の中に、モリゾの視線が残っています。
Euphoric " " の視点
モリゾは、全8回の印象派展のうち欠席が1回だけでした。最後の展覧会では原動力にもなっています。グループの中心に、最初から最後まで居続けた画家です。
第1回展に出した『The Cradle』は売れず、自分で展示から引き下げました。「なぜ仕上げないのか」という批判も受けています。それでも描き方を変えず、亡くなる前年には『Young Girl in a Ball Gown』が国に買い上げられました。
夫を亡くした翌月に、初めての個展を開いたことも見逃せません。
評価が追いつくのを待つのではなく、出し続けること。モリゾの歩みは、続けること自体が仕事の強さになると教えてくれます。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。
- ロンドン・ナショナル・ギャラリー『Girl on a Divan』作品ページ(英語)(同作の所蔵者はテートで、同館に貸出中です)
- ロンドン・ナショナル・ギャラリー『Summer’s Day』作品ページ(英語)(同館の表示では、2026年から2031年まで、ダブリンのヒュー・レーン・ギャラリーに長期貸出中です)






