【徹底解説】エミール・ガレとは?自然を器に映したアール・ヌーヴォーの工芸家の人生と作品を解説!

【徹底解説】エミール・ガレとは?自然を器に映したアール・ヌーヴォーの工芸家の人生と作品を解説!
画像:『Autumn Crocus Vase』/CC0/Wikimedia Commons

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはエミール・ガレという人物をご存知ですか?

19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、フランス北東部のナンシーで、ガラス、陶器、家具を手がけた工芸家です。ガラスの器に植物や昆虫をあしらった作品は、アール・ヌーヴォーを代表する工芸として知られています。

ガレはガラス職人というより、家業の経営者であり、植物の愛好家であり、政治や社会の問題にも発言した人でした。作品は美しいだけでなく、そうした多面的な関心が器の上に重なっているところに、見ごたえがあります。

本記事ではそんなエミール・ガレの人生と作品についてご紹介します。

エミール・ガレって?

エミール・ガレ『Autumn Crocus Vase』(1900年ごろ)
エミール・ガレ『”Autumn Crocus” Vase』(1900年ごろ)メトロポリタン美術館蔵(1984.553)。館の記載は、デザイン:エミール・ガレ、製造:Établissements Gallé/画像:メトロポリタン美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

細長い花瓶の表面に、秋に咲くクロッカスが描かれています。上のほうは淡い紫がかった白、花はオレンジ色で、青紫の花びらと茎が下へ伸び、足もとは赤みを帯びた濃い色に変わっていきます。花瓶そのものが一本の植物のように見える作品です。

基本情報

本名エミール・ガレ(Émile Gallé)。北澤美術館の紹介では、本名はシャルル=マルタン=エミール・ガレ
生年月日(没年月日)1846年5月4日〜1904年9月23日(58歳没)。生地も没地もナンシーです。生まれた日は、フランス国立図書館の典拠データと北澤美術館が5月4日、ブリタニカが5月8日としています。ナンシー派美術館の人物紹介は本文で4日、見出しで8日と書いています
国籍・出身フランス/ナンシー(ロレーヌ地方)
学歴ブリタニカによれば、哲学、植物学、素描を学び、のちにマイゼンタールでガラスづくりを学びました。ナンシー派美術館は、修業先としてヴァイマルとマイゼンタールを挙げています
分野ガラス、陶器、家具(木工)。植物の研究と園芸にも打ち込みました
傾向アール・ヌーヴォー(ナンシーでは「ナンシー派」)。植物や昆虫など、自然を意匠の中心に置きました
師事した人物・影響を受けた人物師事した人物は記録なし。サントリー美術館によれば、植物学の教授ドミニク=アレクサンドル・ゴドロンと知り合い、植物学に没頭していきました。交流が確認できる人物に、日本の画家・高島北海がいます

ガレと同じころ、フランスでジュエリーやガラスの仕事をした人物については、以下の記事でもご紹介しています。

【徹底解説】ルネ・ラリックとは?20世紀初期のモダンジュエリーの創始者

ガレはどんな人だったのか

ナンシー派美術館の人物紹介は、ガレを「実業家、ガラス工芸家、家具職人、陶芸家」と紹介しています。つまり一つの職業に収まりません。北澤美術館は、ガレを19世紀末の工芸改革運動であるアール・ヌーヴォーの創始者の一人とし、陶器やガラスに植物や昆虫などの自然の意匠を取り入れた新しい試みを打ち出した人物だと述べています。

この記事では、時代を追って、その歩みを見ていきます。

経歴と作品

ナンシーの商家に生まれて(〜1870年代)

ガレは1846年、ナンシーに生まれました。ナンシー派美術館によれば、父シャルル・ガレ(1818〜1902)と母ファニー・レヌメール(Fanny Reinemer、1891年没)は、ナンシーで水晶ガラスや磁器を扱う店を営んでおり、エミールはその一人息子でした。

若いころは、ヨーロッパのいくつもの町で修業の期間を過ごしました。同美術館は、そのうちの町としてヴァイマルとマイゼンタールを挙げています。メトロポリタン美術館の解説は、ガレが子どものころ、父が店で売るガラス器を吹く様子を見て、ガラスづくりを覚えたと述べ、その後ヴァイマル、パリ、ロンドンで学びを続けたと記しています。

ナンシー派美術館によれば、ガレは1867年から、父のファイアンス(陶器)とガラスの販売と装飾の事業に加わりました。この年のパリ万国博覧会では父の代理を務め、ガラスで「佳作(mention honorable)」を受けています。1872年のリヨン万国博覧会では、磁器と水晶ガラスの部門で金メダルを得ました。

1875年、ガレはアンリエット・グリム(1848〜1914)と結婚します。相手はアルザス地方ビシュヴィレールの牧師の娘で、二人のあいだには4人の娘が生まれました。そして1877年、ガレは家業を自分の名で引き継ぎます。なお、メトロポリタン美術館は、1874年にはすでに父の事業の芸術監督になっていたと書いています。1877年は経営を引き継いだ年、1874年は制作の指揮をとる立場になっていた年として、それぞれの館が挙げているものです。ブリタニカは、ガレのガラスが1878年のパリ万国博覧会で大きな成功を収めたと記しています。

同じ1877年は、ガレが園芸の世界に入った年でもありました。ナンシー派美術館は、ガレがこの年、ナンシー中央園芸協会の書記に選ばれたと記しています。同協会は、ガレや園芸家たちによって1877年に作られた団体です。ガレは芸術家であると同時に、植物の専門家でもありました。

陶器と、異国の文様の実験(1870年代〜1880年代)

ガレの出発点は、ガラスだけではありません。ナンシー派美術館の陶器の解説によれば、ガレは1893年まで、さまざまな形と装飾のファイアンス陶器を作りました。作風はとても折衷的で、中世、ロココ、古代エジプト、そしてジャポニスム(日本趣味)から着想を得たのち、最終的に自然主義へ向かったと説明されています。ナンシー派美術館が持つガレの陶器は、250点を超えます。

エミール・ガレ『Vase』(1885年ごろ)アムステルダム国立美術館
エミール・ガレ『Vase』(1885年ごろ)アムステルダム国立美術館蔵(BK-1989-2)、部分的にエナメル彩と金彩を施したガラス/画像:アムステルダム国立美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

アムステルダム国立美術館の『Vase』(1885年ごろ)

同じ折衷の姿勢は、ガラスにも見られます。アムステルダム国立美術館が所蔵するこの花瓶は、高さ24.6センチ、部分的にエナメル彩と金彩を施したガラスです。底には「E. Gallé Nancy」の署名が彫られています。

同館の解説は、ゴシック、日本、中国、アラビア、古典の文様をとても自由に混ぜた装飾が、重なり合う布の切れ端のように見えると述べ、こうした実験はガレに典型的なものだとしています。

画面では、琥珀色がかった透明なガラスの胴がゆるく波打ち、斜めに走る帯や、小さな紋章のような文様を並べた区画が、継ぎはぎのように表面を覆っています。

『Vase』(1880〜85年ごろ)と『Vase』(1885年ごろ)

エミール・ガレ『Vase』(1880〜85年ごろ)
エミール・ガレ『Vase』(1880〜85年ごろ)メトロポリタン美術館蔵(1999.398.1)、釉薬をかけた陶器/画像:メトロポリタン美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

メトロポリタン美術館が所蔵する、釉薬をかけた陶器の花瓶です。扇のような連続模様が胴にめぐらされ、緑色の長い面には、細い足を広げた昆虫が表されています。金色の縁取りが、ふちや模様の線をなぞっています。

エミール・ガレ『Vase』(1885年ごろ)
エミール・ガレ『Vase』(1885年ごろ)クリーヴランド美術館蔵(1990.45)、陶器/画像:クリーヴランド美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

こちらはクリーヴランド美術館が所蔵する陶器の花瓶です。白い円筒形の器に、青い木と、足もとに黄色い動物が描かれています。館の記録では、木の幹に「E Galle/Nancy.」の書き込みがあります。ガレは自分の名と町の名を、作品に残していました。

どちらも、館の記録で1880年代とされる、ガレの陶器です。

日本とのつながり:高島北海との交流

サントリー美術館は、2016年の展覧会「生誕170周年 エミール・ガレ」の解説で、ガレの作品にはイスラム、中国、日本など、異国の美術品の影響が見られると述べています。同館によれば、ガレは1867年のパリ万国博覧会のとき、父の参加を手伝って半年間パリに滞在しました。この博覧会には、約1,970件の日本の美術工芸品が出品されていました。1885年4月にはベルリンに2週間ほど滞在し、工芸美術館で中国の被せガラスを調べています。

人との関わりで、公的な資料から確認できるのは、画家・高島北海との交流です。国立新美術館のデータベース「アートコモンズ」には、下関市立美術館が2002年に開いた館蔵品展の概要が載っています。そこには、高島北海が「フランス・ナンシーでアール・ヌーヴォーの指導者エミール・ガレらと親交を持ち」、画家として再出発してからは文展の審査員として活躍した、と書かれています。

ただし、二人のあいだで何が語られ、ガレの制作にどう結びついたのか。確認できた公的な資料には、具体的な内容までは書かれていません。この記事でも、影響の中身については断定しないでおきます。

1889年のパリ万国博覧会と、ガラスへの集中(1880年代後半〜1890年代前半)

ガレの名が大きく広まったのは、1889年のパリ万国博覧会でした。ナンシー派美術館の人物紹介によれば、ガレはこの博覧会で、陶器、ガラス、家具の3つの部門で賞を受けています。同館の年表では、ガラスでグランプリ、陶器で金メダル、家具で銀メダルです。

ガレはこのとき、レジオン・ドヌール勲章のオフィシエにも叙されました。この前の1884年にも、ガレは「土とガラスの博覧会(Exposition de la Terre et du Verre)」で注目されていました。そして1889年を境に、ガレはガラスの技術と表現の研究に力を注ぎ、新しい製法を生み出していきます。

エミール・ガレの工房『Vaas met een krekel, een spin, een sprinkhaan en een libel』(1884〜1889年ごろ)
エミール・ガレの工房『Vaas met een krekel, een spin, een sprinkhaan en een libel tussen bloem- en bladranken』(1884〜1889年ごろ)アムステルダム国立美術館蔵(BK-1976-24)。館の記載は、ガラス吹き:エミール・ガレの工房(ナンシー)/画像:アムステルダム国立美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

『Vaas met een krekel, een spin, een sprinkhaan en een libel tussen bloem- en bladranken』(1884〜1889年ごろ)

アムステルダム国立美術館が所蔵する、高さ11.7センチの小さな花瓶です。オランダ語の題は、コオロギ、クモ、バッタ、トンボが、花と葉のつるのあいだにいる花瓶、という内容です。館の記録では、透明な無色のガラスに、黒、白、青のエナメルと金で絵付けがされ、虫と草花は回転する砥石で彫られています。口は四角く、両側に平たい把手が付きます。底には、赤いエナメルで「E Gallé Nancy」の署名があります。

画面では、無色のガラスの上に、青い花、黒い葉、白い花びらの花がのびています。館は年代を1884〜1889年ごろとしており、1889年のパリ万国博覧会へ向かう時期の作例です。

『Bottle with stopper』(1880〜90年ごろ)

エミール・ガレ『Bottle with stopper』(1880〜90年ごろ)
エミール・ガレ『Bottle with stopper』(1880〜90年ごろ)メトロポリタン美術館蔵(40.139.2ab)。館の記載は、デザイン:エミール・ガレ、製造:Établissements Gallé/画像:メトロポリタン美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

淡い緑色の透明なガラスの瓶です。平たい胴に、枝を広げた木、飛ぶ鳥、人物の姿が描かれています。三日月のような形に腰かけている姿も見えます。栓にも、同じ緑色のガラスが使われています。

ナンシー派美術館の解説は、ガレのガラスの歩みを次のように整理しています。最初は、絵や金彩を施した透明なガラスで、そこから次第に色の濃いガラスへ進み、質感の効果や、貼り付け、はめ込みを生かすようになった、というものです。この瓶も、緑がかった透明なガラスに、絵を載せた作品です。

工場を持ち、特許を取る(1894年〜1898年)

ナンシー派美術館によれば、ガレのガラス作品は1894年まで、マイゼンタールで構想されていました。1894年、ガレはナンシーの自分の会社に水晶ガラスの工場(クリスタルリー)を開き、5月29日に窯へ火を入れました。

研究は1898年に、2つの特許として結実します。同館が挙げる特許の名称は、「水晶ガラスへの装飾とパチネの一種」と「ガラスと水晶ガラスのマルケトリの一種」です。

サントリー美術館は、この2つの特許のうちの1つ「パチネ」を、ガラスの透明性を意図的に失わせる(失透させる)技法と説明しています。もう1つの「マルケトリ」について、コーニング・ガラス美術館の用語集は、ガラスの「マルケトリ」を、熱いガラスのかけらを、まだやわらかいガラスの表面に貼り付けて押し込み、象嵌のような効果を作る装飾技法と説明しています。冷めたあとに、彫ったり刻んだりして、さらに強調することもできます。

メトロポリタン美術館も、ガレが木の象嵌(寄木細工)から着想を得た「マルケトリ・ド・ヴェール(marqueterie de verre)」を開発したと述べます。形を整えた熱いガラスを、作っている途中の器にやわらかいうちに押し込み、平らな面が冷めたあとで、彫る、刻む、さらにガラスを足す、といった加工ができるという説明です。

記事の冒頭で紹介した『”Autumn Crocus” Vase』は、この技法で作られた花瓶です。メトロポリタン美術館の解説は、細長い秋のクロッカスを、ガレが「メランコリックな美しさの象徴」と見なしており、そのクロッカスが一連の花瓶の主題になったと述べています。

植物学者としてのガレ

ガレにとって、植物は単なる飾りの題材ではありませんでした。先にも触れたとおり、1877年からはナンシー中央園芸協会に関わっています。

ナンシー派美術館の「ナンシー派」の解説によれば、ガレの工房は、植物学の書物や、自然を写した素描のほか、工房内で撮影した植物の写真を集めていました。同館のガレ関係の写真は210点を超え、工場、アトリエ、働く人々、家族、そして家の様子が写っています。これとは別に、植物の写真のまとまりもあり、同館は、作品を作るときの資料の役割を果たしたに違いないとしています。

1900年前後の作品について、同館のガラスの解説は、ガレがアンコリー(ancolie、オダマキ)、アイリス、ベルス・デ・プレ(berce des prés)などを、新しい装飾のためだけでなく、新しい形のためにも手本にしたと述べています。つまり植物は、表面の模様だけではなく、器の輪郭そのものを決める手がかりでもありました。

エミール・ガレ『Vase』(1896年)
エミール・ガレ『Vase』(1896年)メトロポリタン美術館蔵(26.228.8)。館の記載は、デザイン:エミール・ガレ、製造:Établissements Gallé/画像:メトロポリタン美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

『Vase』(1896年)

高さ17.5センチの、小ぶりな花瓶です。ひょうたんのように、上のくびれた口と、まるい胴がつながっています。赤みを帯びた地に、暗い色の大ぶりな花と、のびる葉やつるが浮かび上がって見えます。メトロポリタン美術館の記録は、素材を「ガラス」とだけ記しています。

ガレの作品を説明するときによく出てくる「カメオ・ガラス」は、コーニング・ガラス美術館の用語集では、ある色のガラスに、異なる色の層をかぶせ、その外側の層を、酸でエッチングしたり、彫ったり、刻んだりして、地から模様が浮き出るようにしたガラスとされています。メトロポリタン美術館は、1925〜31年ごろの別の花瓶の解説で、そのころの会社(Établissements Gallé)が、酸でエッチングしたカメオ・ガラスを得意としたと記しています。ただしこの技法そのものは、ガレの生前の作品にも使われています。次の2点は、所蔵館が1900年ごろから1902年ごろとしている作例です。

エミール・ガレ『Vase』(1900年ごろ)クリーヴランド美術館 カメオ彫り
エミール・ガレ『Vase』(1900年ごろ)クリーヴランド美術館蔵(1979.10)、桃色と緑の混入物のあるガラス、カメオ彫り/画像:クリーヴランド美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

クリーヴランド美術館の『Vase』(1900年ごろ)

高さ13.5センチの、平たい筒形の花瓶です。クリーヴランド美術館は技法を「桃色と緑の混入物のあるガラス、カメオ彫り」と記録しています。緑と青の斑が流れる地から、桃色の層が彫り残され、翼を広げた鳥のような姿と、まるい葉が浮かび上がっています。

館の記録によれば、右下には「Gallé」の銘が、日本風の書体で入れられています。

エミール・ガレの工房『Schaal met clematis』(1900〜1902年ごろ)
エミール・ガレの工房『Schaal met clematis』(1900〜1902年ごろ)アムステルダム国立美術館蔵(BK-1973-4)。館の記載は、ガラス吹き:エミール・ガレの工房(ナンシー)/画像:アムステルダム国立美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

『Schaal met clematis』(1900〜1902年ごろ)

題はオランダ語で「クレマチスの鉢」という意味です。幅13.5センチ、高さ6.5センチの楕円形の小さな鉢で、アムステルダム国立美術館の記録は、無色のガラスに紫と青の二重の被せガラスをほどこし、クレマチスの文様を2回のエッチングで表したうえで、酸で磨き、カットしたものと説明しています。胴には「Gallé」の署名があります。

画面では、白くくもった地に、紫の花びらを大きく広げた花が浮き出ています。色の違う層を重ね、外側を削って文様を残すという、被せガラスとカメオ彫りの仕組みがよく分かる作例です。館は制作者を「ガレの工房」と記載しています。

木で描く:ガレの家具

ガレの仕事は、ガラスだけではありません。ナンシー派美術館によれば、ガレは1885年に、家業の事業を家具づくりまで広げました。北澤美術館も、1885年ごろから寄木細工の高級な木工家具を手がけ始めたと書いています。

ナンシー派美術館の家具の解説は、ガレの家具が歴史的な意味をもつものと、自然に着想を得たものの両方を含むと述べています。自然からの着想は、寄木細工の模様にも、家具の形にも表れています。歴史的な作品の例として挙がっているのが、テーブル『ル・ラン(Le Rhin)』です。同館の人物紹介は、この作品を、アルザス・ロレーヌがフランスにひとつの地域としてもどることを求める主張を込めたものと説明しています。

同館が「pièce maîtresse(中心となる作品)」とするのは、ベッド『Aube et crépuscule(夜明けと黄昏)』(1903〜1904年)です。同館は、これを、家具職人としてのガレの、最後の技術的、芸術的な進歩を示す作品と説明しています。

エミール・ガレ『Ombellifères (cow parsley) Cabinet』(1900年ごろ)
エミール・ガレ『”Ombellifères” (cow parsley) Cabinet』(1900年ごろ)メトロポリタン美術館蔵(1982.246)。館の記載は、アーティスト:エミール・ガレ、製造:Établissements Gallé/画像:メトロポリタン美術館(CC0)/出典:Wikimedia Commons

『”Ombellifères” (cow parsley) Cabinet』(1900年ごろ)

メトロポリタン美術館のキャビネットです。題のフランス語「ombellifères」は、英語の副題が示すとおり、cow parsley(セリ科の草)にあたります。上部には、植物の曲がりくねった線を思わせる彫り込みが広がり、中央の扉には、明るい色の木を寄せた板がはめ込まれています。そこには蝶のような形も見えます。

館の記録によれば、この扉には、メープルの数種類、ヨーロッパ栗、サテンウッド、ウォルナットといった、さまざまな木のベニヤが使われています。ナンシー派美術館は、ガレの家具に寄木細工の模様が多いことを指摘しており、この扉も、木の色や木目の違いを生かした作りです。

メトロポリタン美術館の解説は、ガレの家具の設計の多くが複数の作例で伝わっているのに対し、この型は珍しく、ほかに知られているのはナンシー派美術館にある一点だけだと述べています。また同館は、ガレ自身がガラスと家具の二つの分野で仕事をしたと書いています。

「語るガラス」と、ガレの社会への関わり

ガレは、ガラスに詩の一節や言葉を刻むことでも知られます。北澤美術館は、これを「もの言うガラス」と呼んでいます。ナンシー派美術館の人物紹介は、ガレが、ガラスに引用文を刻んだ「語るガラス(verreries parlantes)」を数多く作ったとしています。

その背景には、ガレの政治的、社会的な関わりがあります。同館の人物紹介によれば、ガレは1898年、ナンシーで人権同盟(Ligue des Droits de l’Homme et du Citoyen)の創設メンバーとなり、会計係を務めました。翌1899年には、ナンシー民衆大学(Université populaire de Nancy)の創設メンバーにもなっています。

ガレは、ドレフュス大尉の事件で、早い時期からドレフュスの側に立った人物とも書かれています。ドレフュスの支持を表した作品として、花瓶『Hommes noirs(黒い男たち)』や、杯『Le Figuier(イチジク)』が挙げられています。このうち『Hommes noirs』は、同館のガラスの解説で、1900年のパリ万国博覧会の出品作とされています。同館はこのほか、1889年と1900年のパリ万国博覧会を、ガレの愛国的、政治的な主張が最も形になった場とし、『ル・ラン』のほか、ドレフュスの名誉回復を訴える展示『マルジョレーヌの7つの壺(Les sept cruches de Marjolaine)』を例に挙げています。

ガレの作品は、美しいだけでなく、主張を伴うものでした。器の表に、植物や昆虫が並び、そこに言葉が添えられていることもあったのです。ガラスという素材を、ガレは自分の考えを伝える手段にもしていました。

ナンシー派を率いて(1894年〜1901年)

ガレの名は、ナンシーという町の名と結びついています。ナンシー派美術館によれば、ナンシーでは、アール・ヌーヴォーを「エコール・ド・ナンシー(ナンシー派)」、あるいは「アリアンス・プロヴァンシアル・デ・アンデュストリ・ダール(芸術産業地方同盟)」と呼び、その呼び名の背景には、ガレという象徴的な人物の存在があります。

同館の年表をたどると、ナンシー派の形成が分かります。1894年、ナンシーのポワレル画廊で、のちのナンシー派となる人々の最初の展覧会が開かれました。ロレーヌの出品者は70人を超えています。1900年のパリ万国博覧会では、ロレーヌの約50人の作家が受賞しました。そして1901年に、ナンシー派が正式に発足します。初代会長はガレで、規約(ステータ)や、添え状、序文も、ガレ自身が書きました。

この規約には、ロレーヌの装飾美術と産業美術を広めるという目的が書かれていました。規約を自ら起草したことから、ガレが、自分の作品だけでなく、地域の工芸全体を視野に入れていたことがうかがえます。

ガレは、販売の仕組みも整えました。同館によれば、ガレは、質のよい量産品を、生産の産業化によって広めたと説明されています。販売のための拠点は、1894年にフランクフルト、1901年にロンドンに開きました。パリでは、1879年からマルスラン・デグペルスが、1896年からは息子のアルベール・デグペルスが、主な特約店でした。

1900年のパリ万国博覧会について、北澤美術館は、ガレがこの年にもグランプリを受賞したと紹介しています。同じ1900年に、ガレはナンシーのスタニスラス学士院(Académie de Stanislas)に迎えられ、そのときの演説「象徴的装飾(Décor symbolique)」は、のちに著作に収められました。

晩年と、没後に残されたもの(1902年〜)

ガレは晩年、ランプにも取り組みました。ナンシー派美術館の照明器具の解説によれば、ガレが照明に関心を向けたのは1902年からで、ふたたび自然に着想を求め、まったく新しい物を作りました。『Ombelles(散形花)』のランプでは、支えの金具が植物の茎と葉にならい、花と種が、ガラスの鉢とその台を飾っています。『Les Coprins』は、3本のキノコを成長の段階を変えて表した作品で、のちの「キノコのランプ」と呼ばれる作品群を生んだとされています。長野県諏訪市の北澤美術館は、英語の館紹介でガレのランプ『Les Coprins』を所蔵品の傑作に挙げ、日本語の所蔵品紹介では《ひとよ茸ランプ》(1904年頃)の名で載せています。

1904年9月23日、ガレは58歳でナンシーで亡くなりました。同じ1904年、ナンシーでは、ナンシー派の展覧会がポワレル画廊で開かれています。ナンシー派美術館の人物紹介は、ガレが亡くなる少し前、作られたばかりの装飾美術館が、ガレから自選のガラス器を買い上げていたと記しています(同館の記述は、点数が38点と39点で食い違っています)。

ガレの没後も、事業は終わりませんでした。同館の人物紹介によれば、妻のアンリエットが、娘婿のポール・ペルドリゼ(1870〜1938)の助けを得て、芸術と産業の活動を引き継ぎました。1908年には、ガレの主要な文章を集めた『芸術のための著作(Écrits pour l’art)』を刊行しています。植物学や花の栽培についての文章、展覧会の解説、スピーチ、芸術家についての記事が収められています。

会社は1927年に株式会社「ガレ社(Établissements Gallé)」へ改組され、同館によれば、ガラスの生産は1931年に終わりました。北澤美術館も、家族が経営を引き継ぎ、1931年まで「ガレ様式」の製品を出し続けたと紹介しています。

一方、メトロポリタン美術館は、妻が1914年の第一次世界大戦の開戦までガラス工場を続け、1919年に娘婿のペルドリゼが事業を再開して1936年まで営んだと書いています。終わりの年は、館によって1931年と1936年に分かれます。

ここで一つ、注意しておきたい点があります。メトロポリタン美術館の記録は、生前に近い年代の作品でも、製造者の欄に「Établissements Gallé」と書いている例が多くあります。上に見たとおり、ガレの没後も、家族が会社を続け、ガレの様式の製品を1930年代まで出していました。ガレの名が付いた作品を見るときは、館が付けている制作年と、製造者の欄をあわせて確かめておくのがよいでしょう。この記事で図版として紹介したのは、館の記録で1904年以前の年代が付けられているものだけです。館が制作者を「ガレの工房」としているものは、キャプションもそのとおりにしています。権利の確認が取れた図版のみ掲載しているため、『Hommes noirs』やランプ『Les Coprins』など、本文で名前を挙げた作品の一部は図版がありません。

まとめ

いかがだったでしょうか。エミール・ガレは、ナンシーの商家に生まれ、陶器から始めて、ガラスと家具を芸術の水準に押し上げた工芸家でした。

1889年のパリ万国博覧会で3部門の賞を受け、1894年に自分の水晶ガラス工場を開き、1898年に2つの特許を出し、1901年には、ナンシー派を発足させて初代会長を務めました。園芸協会の書記を務めるほど植物に詳しく、作品の主題は、秋のクロッカスやセリ科の草、キノコなど、身近な植物にまで及びます。

また、人権同盟や民衆大学の創設に関わり、ドレフュス事件では、作品を通して自分の考えを示しました。「もの言うガラス」という呼び名は、そのような姿勢をよく表しています。

ガレの作品は、メトロポリタン美術館、クリーヴランド美術館、アムステルダム国立美術館などの所蔵品として、画像で見ることができます。日本では、長野県諏訪市の北澤美術館が、ガレのガラスを所蔵品紹介のページで公開しています。次に美術館でガレの作品に出会ったときは、器の形、描かれた植物や昆虫、そして館が示す制作年と製造者の欄に、目を向けてみてください。

Euphoric " " の視点

ナンシー派美術館は、ガレを「実業家、ガラス工芸家、家具職人、陶芸家」と紹介しています。ナンシー中央園芸協会の書記に選ばれたこともありました。

植物は、表面の模様だけではなく、器の輪郭そのものを決める手がかりでもありました。技法の研究は1898年に、2つの特許として結実します。

ナンシー派の初代会長になると、規約や序文もガレ自身が書きました。

植物を調べ、技術を磨き、組織の文章まで自分で書く。ガレの仕事は、専門をひとつに絞らないことが独自の表現につながるのかもしれないと教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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