こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは『最後の晩餐』という作品をご存知ですか?
レオナルド・ダ・ヴィンチが、イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描いた壁画です。イタリア語では『ウルティマ・チェーナ(Ultima Cena)』、または『チェナーコロ(Cenacolo)』とも呼ばれます。作品を守り公開している「チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館」の公式サイトは、この絵を「おそらく世界でもっとも重要な壁画」と紹介しています。
キリストが「この中に裏切り者がいる」と告げた瞬間の、12人の弟子たちの驚き。そして完成から間もなく傷みはじめ、500年以上にわたって修復と保存が続けられてきた歴史。絵の中にも外にも、ドラマが詰まった作品です。
本記事ではそんな『最後の晩餐』について、描かれているもの・見どころ・歴史をご紹介します。
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Toggle『最後の晩餐』って?

『最後の晩餐』は、新約聖書に記された、キリストが十字架にかけられる前夜に12人の弟子(使徒)と囲んだ最後の食事の場面を描いた壁画です。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、1494年から1498年の初めにかけて描かれました。
この絵は、美術館の建物のなかに「運び込まれた」ものではありません。修道士たちが食事をとっていた食堂(リフェットリオ)の北側の壁そのものに、直接描かれています。壁画なので動かすことはできず、500年以上たった今も、描かれたときと同じ場所で公開されています。
基本情報
| 作品名 | 最後の晩餐。イタリア語で『ウルティマ・チェーナ』(Ultima Cena)、または『チェナーコロ』(Cenacolo)。英語では『The Last Supper』 |
| 作者 | レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年) |
| 制作年 | 1494年〜1498年初め |
| 技法・素材 | 壁画。伝統的なフレスコ(湿った漆喰に描く技法)ではなく、乾いた壁に白い下地を塗り、その上に卵黄で顔料を練ったテンペラなどで描く「ア・セッコ」の技法 |
| サイズ | 食堂の北側の壁一面を占める大画面。透視図法の消失点は、床から高さ4mの位置にあります |
| 所在 | サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂(イタリア・ミラノ)。現在は「チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館」として公開され、ブレラ美術館(ピナコテカ・ディ・ブレラ)が管理しています |
| 展示場所 | 描かれた壁そのもので常時公開(月曜・1月1日・12月25日は休館)。見学はすべて事前予約制で、1回15分・最大40人の入れ替え制 |
| 世界遺産 | 1980年9月、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会・ドミニコ会修道院とあわせてユネスコ世界遺産に登録 |
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯や、同じ時代に活躍したルネサンスの巨匠たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。
同じレオナルドの代表作で、パリのルーヴル美術館が所蔵する『モナ・リザ』の解説記事もあわせてどうぞ。
https://euphoric-arts.com/art-2/mona-lisa/
「チェナーコロ」ってどういう意味?
イタリアでは、この絵を「チェナーコロ」と呼ぶことがよくあります。
チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館の解説によると、レオナルドが学んだトスカーナ地方では、14世紀から、修道院の食堂そのものを「チェナーコロ」とも呼んでいました。そして16世紀の初めからは、食堂を飾る「最後の晩餐」の絵のことも、イタリア語でこう呼ぶようになったといいます。食事の場所に、食事の場面を描く。この絵は、もともと修道士たちの日々の暮らしと深く結びついた場所のために描かれたものなのです。
食堂は、修道士たちが集まって食事をし、食事のあいだに祈り、瞑想するための部屋でした。
何が描かれている?見どころを解説
ここからは、チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館の公式解説をもとに、『最後の晩餐』の見どころを見ていきます。
見どころ1:「この中に裏切り者がいる」と告げた瞬間
描かれているのは、キリストが「あなたがたのうちの一人が私を裏切る」と告げた直後の場面です。ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツも、この絵が描いているのは、キリストが自分は裏切られると宣言した場面だと解説しています。
その言葉を聞いた12人の弟子たちは、一斉に動き出します。驚く者、立ち上がる者、自分ではないと手を上げる者、誰のことかと隣に尋ねる者。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館は、レオナルドがこの絵で、ほかのどの作品にもまして、姿勢や身ぶり、表情を通して、彼自身が「魂の動き(moti dell’animo)」と呼んだものを描こうとしたと説明しています。
レオナルド自身も、手稿のなかで次のように書いています。
「心の突然の動揺によって起こる顔の各部の動きは数多い。その主なものは、笑う、泣く、叫ぶ、歌う(中略)怒り、喜び、悲しみ、恐れ、痛みである」
美術館の解説によれば、弟子たちの顔や身ぶりには、怒り、恐れ、驚き、悲しみといった幅広い感情が込められています。この絵を描いていた1490年代、レオナルドは光や音、動き、そして人間の感情とその表れについての研究にも打ち込んでいました。その関心が、この壁画にそのまま表れています。
見どころ2:12人の弟子、それぞれの反応

弟子たちは、キリストの左右に6人ずつ、いくつかのまとまりをつくって描かれています。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館の解説をもとに、画面の左から順に見ていきましょう。
画面の左側(キリストから見て右手)
- バルトロマイ:テーブルの左端。キリストの言葉に、はじかれたように立ち上がり、両手をテーブルについて、キリストのほうへ身を乗り出しています
- 小ヤコブ:横顔で描かれ、年長のアンデレの肩に手を触れています
- アンデレ:両手を上げ、裏切りの疑いから身の潔白を示すようなしぐさをしています
- ペテロ:弟のアンデレが慰めを求めるように左手で触れていますが、ペテロ自身はヨハネのほうへ身を傾け、裏切り者の名を尋ねるようヨハネをうながしています。右手には、脇に下ろしたナイフを握っています
- ユダ:キリストから身を引くようにして、テーブルにひじをついています。手には、キリストを裏切る代わりに受け取った銀貨30枚の入った袋を持っています
- ヨハネ:キリストのすぐ隣に座る、憂いを帯びた若者です
画面の右側(キリストから見て左手)
- 大ヤコブ:憤りを示すように両腕を広げています
- トマス:キリストのほうへ身を傾け、右手の人差し指を上に向けて、話の続きをうながしています
- フィリポ:立ち上がったばかりで、キリストに向き合い、悲しげな表情で両手を胸に当てています
- マタイ:両腕をキリストのほうへ伸ばしながら、顔は反対側のシモンとタダイに向け、今聞いた言葉に二人の注意を向けさせています
- タダイ(ユダ・タダイ):驚いた様子で、左手を手のひらを開いてテーブルに置き、右手で自分自身を指しています
- シモン:テーブルの右端に座り、落ち着いた態度で、タダイとマタイに語りかけています
ユダは、ほかの弟子たちと同じ側に座っています。手もとの袋と、キリストから身を引くような姿勢が、裏切り者であることを静かに示しています。
見どころ3:三角形に収まる、静かなキリスト

大きく揺れ動く弟子たちのなかで、中央のキリストだけは静かです。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館は、キリストが12人の弟子たちの動きのただなかで、完全な三角形の輪郭として、ひとり際立っていると説明しています。
キリストの背後には大きな窓が開き、外の明るい空が見えます。周囲の騒がしさと、中央の静けさ。この対比が、画面全体に強い緊張感を生んでいます。
16世紀の画家で伝記作家のジョルジョ・ヴァザーリは、『画家・彫刻家・建築家列伝』のなかで、この絵を「このうえなく美しく、驚くべきもの」と称えました。そのうえで、レオナルドは弟子たちの頭部に大いなる威厳と美しさを与えたものの、キリストの頭部は、キリストにふさわしい天上の神々しさを表すことはできないと考えて、未完成のままにした、と書いています。
見どころ4:食堂と絵がつながる「だまし絵」の遠近法
チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館は、この絵を「力強い劇場装置」と表現しています。
レオナルドの時代、修道士たちは食堂の壁に沿って座り、祈り、食事をしていました。壁に描かれた部屋は、実際の食堂とよく似ています。美術館の解説によれば、食堂そのものが、描かれた空間と現実の空間が響き合う「遠近法の箱」のような場所になっているのです。
工夫の一つが光です。絵のなかの主な光は、画面の左側から差しています。これは、食堂の左側の壁にある実際の窓から入る光と一致していました。背景の大きな窓からは、わずかに逆光も生まれています。現実の光と、絵のなかの光が重なり合うように計算されているのです。
もう一つが透視図法です。消失点(遠近の線が集まる点)は、床から高さ4mの、キリストの右のこめかみのあたりに置かれています。レオナルドは、数学的な遠近法の規則にあえて手を加え、テーブルの面を少し傾けて描きました。こうすることでテーブルの上がよく見え、現実の空間と絵の空間がひと続きになり、離れた場所からでも全体が理解できるようになっています。
伝統的な「最後の晩餐」の図像では、場面は閉じた室内に置かれることが多いものでした。レオナルドはこれと違い、外に開かれた空間として描いています。
見どころ5:遠くの山が青く見える「空気遠近法」
キリストの背後の窓の向こうには、青い山並みが見えます。テーブルの配置、壁に描かれたタペストリー、格子状の天井。これらがつくる遠近の線が、見る人の視線をこの風景へと導きます。
美術館の解説によると、レオナルドはここで、自ら「空気遠近法」と呼んだ表現を使っています。遠くの山ほど青く見える、という観察に基づくものです。手前の人物や建築には暖かい色を、奥には緑や青などの冷たい色を使い分けることで、見る人の目と背景とのあいだにある空気の厚みを感じさせます。美術館は、『モナ・リザ』の背景の山並みにも同じ表現が見られることを紹介しています。
見どころ6:絵の上の半円形「ルネット」

壁画の上には、天井のアーチに沿った半円形の区画が3つ並んでいます。これを「ルネット」と呼びます。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、レオナルドは『最後の晩餐』とともに、このルネットも同じ技法で描きました。紋章のまわりを、葉と果実を編んだ花綱が囲んでいます。
晩餐の場面だけでなく、壁の上部までを含めて一つの装飾として計画されていたことがわかります。
『最後の晩餐』の歴史
ルドヴィーコ・スフォルツァとミラノの宮廷(1482〜1494年)
『最後の晩餐』を注文したのは、ミラノの君主ルドヴィーコ・スフォルツァです。肌の色が浅黒かったことから、「イル・モーロ(ムーア人)」とも呼ばれました。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、ルドヴィーコはミラノに芸術家や知識人、音楽家が集まる華やかな宮廷を築き、1494年に正式にミラノ公となりました。
レオナルドがフィレンツェからミラノへ移ったのは1482年です。画家、音楽家、軍事技術者、建築家としての自分の能力を書き連ねた長い手紙を、ミラノの君主に送ったうえでのことでした。以後1499年まで、レオナルドはルドヴィーコの宮廷に仕えます。画家としてだけでなく、すばらしい催しや舞台装置の考案者、技術者、彫刻家としても働きました。1490年1月には、スフォルツァ城で開かれた祝宴のために、星の輝く「天国」の舞台装置を手がけています。
この時期には、ロンバルディアの運河の研究や、ポーランドのクラクフにある『白貂を抱く貴婦人』も生まれました。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
美術館の解説によると、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ(「恵みの聖母マリア」の意味)は、ドミニコ会の修道院です。1463年に建設が始まり、修道院の主な部分は1469年に、教会は1482年に完成しました。
15世紀の終わり、ルドヴィーコはこの修道院を、自らの権力をたたえる場所とし、一族の霊廟にしようと考えました。教会の内陣(祭壇の奥の部分)の改築は建築家ドナト・ブラマンテに任され、食堂の装飾はレオナルドに任されます。ルドヴィーコがレオナルドに注文したのが、12人の使徒とともにいる「最後の晩餐」のキリストの絵でした。ブラマンテとレオナルドという、イタリア・ルネサンスを代表する二人がともに手がけたことで、ここはイタリア美術史上でも特別な建築群になりました。
フレスコではなかった:レオナルドの選んだ技法(1494〜1498年)
当時、壁画はフレスコで描くのが伝統でした。フレスコは、塗ったばかりの湿った漆喰の上に描く技法です。漆喰が乾く前に手早く描く必要があり、乾いてしまえば描き直すことはできません。
チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、レオナルドはこの技法を選びませんでした。少しずつ層を重ね、細部にまで手をかけるレオナルドの描き方には、フレスコは向いていなかったからです。そこで、乾いた壁に白い下地を塗って表面を平らにし、その上に、板絵を描くときのように、卵黄で顔料を練った油分の多いテンペラなどで描きました。この「ア・セッコ(乾いた壁に描く)」技法なら、ゆっくり時間をかけ、すでに描いた部分にも手を加えながら、画面全体を同時に進めることができます。深い色合いや、繊細な光の効果も生み出せました。
しかし、この選択には大きな代償がありました。絵の具が漆喰にしみ込まず、壁の表面にのっているだけなので、フレスコよりずっともろくなってしまったのです。
完成から間もなく始まった傷み(16〜17世紀)
美術館の解説によれば、技法の問題に加え、決して良いとはいえない環境のために、絵は完成から数年のうちに絵の具がはがれはじめました。
- 1517年:レオナルドを訪ねたことでも知られる聖職者アントニオ・デ・ベアティスが、この絵は「傷みはじめている」と記しています
- 1568年:ヴァザーリが、「ぼやけた輝くしみのほかには何も見分けられない」と書いています
- 1625年:枢機卿フェデリコ・ボッロメーオが、「絵の具のかけらがはがれ落ちている」と述べています
同じ食堂の反対側、南の壁には、ジョヴァンニ・ドナト・モントルファーノが描いた『キリストの磔刑』があります。こちらは伝統的なフレスコで描かれ、今も良い状態を保っています。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、レオナルドはこの絵の下の部分に、ルドヴィーコ夫妻とその息子たちの肖像を描き加えたと考えられています。しかしこれも乾いた壁に描いたため絵の具がはがれ、今はおぼろげな影がわずかに残るだけです。同じ部屋の2つの壁画が、技法による保存状態の違いを示しています。
何度も繰り返された修復
美術館の解説によると、18世紀の初め以降だけでも、9回の修復の記録が残っています。それより前にも手が加えられた跡が見つかっています。
かつての修復は、失われた部分や傷んだ部分を「描き足して完成させる」ものと考えられていました。そのため、画面の広い範囲が上から塗り直されることもありました。こうした修復の積み重ねが、何世紀もかけて絵の姿をゆがめ、保存状態をさらに悪くしてしまったのです。20世紀に入ると、修復の考え方は変わり、失われた部分はそのままに、残っている部分を保護し、固定することに限られるようになりました。1908年にはルイジ・カヴェナーギによる修復が行われています。
1943年の空襲
1943年、第二次世界大戦中の空襲で、食堂の屋根や天井のヴォールト、東側の壁が崩れ落ちました。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、そのなかで、短い辺の両側の壁に描かれた2つの絵、レオナルドの『最後の晩餐』とモントルファーノの『キリストの磔刑』は、今日まで残りました。
20年以上をかけた大修復(1977〜1999年)
現在の姿を形づくったのが、修復家ピニン・ブランビッラ・バルチロンによる修復です。1977年から1999年まで、20年以上をかけて行われました。
美術館の解説によると、この修復は、それまでの修復で上から塗られた絵の具に隠れていた、レオナルド自身が描いた部分を取り戻すことを、初めて目指したものでした。その結果、本来の姿にできる限り近い作品が、再び公開されることになりました。
ただし美術館は、今私たちが見ている姿は、レオナルドと同じ時代の人々が見た傑作の「かすかな記憶」にすぎず、もとの絵はほとんど残っていない、とも率直に記しています。
傷みを防ぐ、今の保存と公開のしくみ
1999年の修復のあと、これ以上の劣化を防ぐための対策がとられました。食堂の空気の質は厳しく管理され、温度や湿度などの環境は常に監視されています。
見学者が一度にたくさん入ると、湿度が上がって水蒸気が結露しやすくなり、ちりも増えてしまいます。そのため見学は予約制で、人数と時間が限られています。食堂に入る前には、交互に開閉する自動扉で区切られた通路を進みます。外の汚れた空気をここで一度ろ過してから、絵のある部屋へ入るしくみです。
1980年9月には、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドミニコ会修道院とあわせて、ユネスコの世界遺産に登録されました。美術館が紹介する登録理由には、「この絵が美術史の新しい時代を開いたと言っても過言ではない」という言葉もあります。
美術館は2014年からロンバルディア州の国立美術館を統括する機関が運営してきましたが、2024年9月の省令に基づき、同じミラノのブレラ美術館が管理することになりました。
写され、受け継がれる『最後の晩餐』
傷みやすい壁画だったからこそ、早い時期の模写は、失われた細部を知る手がかりとして大切にされてきました。
ジャンピエトリーノ(帰属)『最後の晩餐』(レオナルドの原画にもとづく模写)

ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツが所蔵する、油彩の大きな模写です。1515年から1520年ごろの作で、レオナルドの弟子ジャンピエトリーノの作とされ、同じく弟子のジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオが関わった可能性も指摘されています。原画とほぼ同じ大きさですが、構図の上部3分の1ほどは描かれていません。
ロイヤル・アカデミーによると、原画では1652年に壁の下の中央に扉が開けられたため、キリストの足もとが失われました。この模写には、その足がまだ描かれています。ユダの右腕で倒された塩入れなど、原画では見えなくなった細部も確認できます。1821年に美術学校の学生が学び、写すための作品として購入されました。
20世紀には、ポップ・アートの旗手アンディ・ウォーホルもこの絵を題材にしています。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、ウォーホルは1986年に、『最後の晩餐』を主題とした作品を100点近く制作しました。その展覧会は1987年、修道院のすぐ近くにあるパラッツォ・デッレ・ステッリーネで開かれています。
『最後の晩餐』のよくある疑問
Q. 『最後の晩餐』はどこで見られる?
イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂、現在の「チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館」で見られます。壁に直接描かれた壁画なので、ほかの場所へ貸し出されることはありません。
Q. 予約なしで見られる?
見られません。公式サイトによると、すべての種類のチケットで予約が必要です。保存のため、見学は1回15分、一度に入れるのは最大40人までです。開館は火曜から日曜の8時15分〜19時(最終入場18時45分)で、毎週月曜と1月1日、12月25日は休館です。予約の受け付けは3か月ごとに始まるので、旅行の予定が決まったら早めに公式サイトを確認しておくと安心です。
Q. 何人描かれている?
13人です。中央のキリストと、その左右に6人ずつ並ぶ12人の弟子(使徒)が描かれています。
Q. 裏切り者のユダはどこ?
キリストの右手側(画面では左側)で、キリストから身を引くようにテーブルにひじをついている人物です。チェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館によると、手には裏切りの代わりに受け取った銀貨30枚の入った袋を持っています。すぐ後ろには、ナイフを持ったペテロと、キリストの隣に座るヨハネがいます。
Q. フレスコ画ではないの?
フレスコ画ではありません。湿った漆喰に描くフレスコではなく、乾いた壁の上に、卵黄で練ったテンペラなどで描かれています。ゆっくり描き直しながら進められる一方、絵の具が壁にしみ込まないため、とても傷みやすくなりました。
Q. 世界遺産なの?
はい。1980年9月に、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドミニコ会修道院とあわせて、ユネスコの世界遺産に登録されています。
まとめ
いかがだったでしょうか。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』をご紹介しました。
『最後の晩餐』は、ミラノの君主ルドヴィーコ・スフォルツァの注文で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれた壁画です。キリストが裏切りを予告した瞬間の、12人の弟子たちの「魂の動き」。現実の食堂とひと続きに見える遠近法と光。遠くの山を青く描く空気遠近法。レオナルドが研究してきたことの多くが、この一枚の壁に注ぎ込まれています。
一方で、ゆっくり描くために選んだ技法は、絵を傷みやすくもしました。完成から間もなく始まった劣化、何度もの修復、空襲、そして20年以上をかけた大修復。今私たちが見られるのは、多くの人の手で守られてきた姿です。
見学の時間は15分。もし訪れる機会があれば、まず中央のキリストから広がる弟子たちの動きを追い、それから窓の向こうの青い山へ目を移してみてください。最後に振り返ると、反対側の壁には、モントルファーノの『キリストの磔刑』が待っています。
Euphoric " " の視点
レオナルドは『最後の晩餐』を、湿った漆喰に描くフレスコではなく、乾いた壁にテンペラなどで描きました。少しずつ層を重ね、すでに描いた部分にも手を加えられる方法です。
その代わり、絵の具は完成から数年のうちにはがれはじめました。同じ食堂の反対側では、フレスコで描かれたモントルファーノの『キリストの磔刑』が、今も良い状態を保っています。
長く残ることよりも、思うように描けることを選んだ一枚だったといえそうです。その選択の結果を引き受け、何世紀も守り続けてきた人々がいたからこそ、私たちはいまも、この傑作の「かすかな記憶」の前に立てるのだと思われます。
この作品を見に行くには
『最後の晩餐』は、ミラノのチェナーコロ・ヴィンチャーノ美術館で公開されています。見学は完全予約制です。展示替えや貸し出しがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。







