【徹底解説】藤島武二とは?『天平の面影』『黒扇』で知られ、「単純化」を追った洋画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】藤島武二とは?『天平の面影』『黒扇』で知られ、「単純化」を追った洋画家の人生と作品を解説!
藤島武二の徹底解説(『東海旭光』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

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こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは藤島武二という人物をご存知ですか?

藤島武二(1867〜1943)は、明治から昭和の前期にかけて活躍した洋画家です。金色を思わせる背景に古代の女性を描いた『天平の面影』、イタリア留学中に描いた婦人像『黒扇』は、どちらも国の重要文化財に指定されています。東京美術学校(現在の東京藝術大学)で長く後進を育て、1937年には第1回の文化勲章を受けました。

明治の浪漫主義を代表する画家として出発した藤島は、ヨーロッパ留学を経て画風を大きく変え、晩年には海と空だけで画面をつくるような風景画にたどり着きます。その歩みを貫いていたのが、本人が好んで口にした「サンプリシテ(単純化)」という言葉でした。

本記事ではそんな藤島武二の人生と作品についてご紹介します。

藤島武二って?

和服姿で椅子に腰かけ、うちわを手にした晩年の藤島武二の白黒写真。背後には白いベールの女性を描いた油絵が立てかけてある
藤島武二の肖像写真(美術出版社『藤島武二』1955年所収)/出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)、Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

和服でうちわを持ち、アトリエらしき部屋に座る藤島武二の写真です。国立国会図書館の電子展示会「近代日本人の肖像」で公開されています。

基本情報

本名藤島武二(ふじしま たけじ)。幼名は猶熊。玉堂、公張、含免などの号を用いました
生年月日(没年月日)1867年10月15日(慶応3年9月18日)〜1943年3月19日(東京で没)
国籍・出身日本/薩摩国鹿児島(現在の鹿児島県鹿児島市)。鹿児島藩(薩摩藩)士の家に生まれました
学歴鹿児島中学校を中退して上京。日本画を川端玉章に、洋画を曾山幸彦、中丸精十郎、松岡寿、山本芳翠らに学びました。1905年から文部省の留学生としてパリとローマで学んでいます
分野油彩画(人物画・風景画)、雑誌や書籍の表紙・挿絵
傾向明治の浪漫主義から出発し、留学後は明快な構成と力強い筆づかいの油彩画へ。晩年は単純化した構図の風景画を多く描きました
師事した人物・影響を受けた人物同郷の先輩・黒田清輝(影響を受け、東京美術学校への推薦を受けた)、パリではフェルナン・コルモン、ローマではカロリュス=デュランの指導を受けました

藤島を東京美術学校に推薦した同郷の先輩・黒田清輝と、藤島の『天平の面影』から大きな影響を受けたとされる青木繁については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。アーティゾン美術館で予定されている藤島武二の展覧会の記事もあわせてどうぞ。

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経歴と作品

鹿児島から東京へ、日本画から洋画へ(1867〜1895年)

藤島武二は1867年、鹿児島の薩摩藩士の家に生まれました。『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、鹿児島中学校を中退して東京に出ています。平凡社の『世界大百科事典』によれば、1884年に洋画を学ぶつもりで上京しましたが、その機会を得られませんでした。翌1885年、日本画家の川端玉章に入門し、「玉堂」と号します。1887年の東洋絵画共進会、1889年の青年絵画共進会では、日本画で賞を受けました。

それでも洋画への思いは消えませんでした。1890年、藤島は同郷の曾山幸彦の画塾に入り、ついで中丸精十郎、松岡寿のもとで、もともと志していた洋画の勉強を始めます。翌年からは山本芳翠の生巧館画学校へ通いました。同じ事典は、このころ明治美術会の第3回展に、同じ山本門下の白滝幾之助の名を借りて、油絵の最初の作品『無惨』を出品したと伝えています。1891年には明治美術会の会員になりました。

1890年代の半ばには、三重県の津で中学校の教師として働いています。赴任の年は資料によって1893年とも1894年ともされます。『世界大百科事典』によれば、この1893年にフランスから帰国した同郷の黒田清輝から、藤島は大きな感化を受けました。これが大きな転機になります。

黒田清輝と白馬会、東京美術学校の助教授に(1896〜1900年)

1896年、東京美術学校に西洋画科が新しく設けられると、藤島は黒田清輝の推薦で助教授に就任しました。同じ年、黒田らが結成した美術団体・白馬会の創立にも加わっています。文化庁の解説によれば、藤島は29歳で黒田に見いだされ、その後継者として東京美術学校の助教授となり、以後亡くなるまで同校にあって日本の洋画界を指導し続けました。白馬会には1896年の第1回展から出品を続け、会の中心的な存在になっていきます。

初期の白馬会展に出した作品は、黒田がフランスから持ち帰った外光派(屋外の明るい光の下で見える色をそのまま描こうとする画風)の影響を受けたものでした。ただし文化庁の『黒扇』の解説は、藤島が黒田の指導と影響を受けながらも、芸術的な性格の違いを早くから自覚し、おのずから別の道を歩んだと述べています。東京国立近代美術館の解説も、藤島の画風は黒田の外光派を出発点にしながら、黒田にはなかった豊かな抒情性を特色としていると説明しています。

『明星』の表紙と浪漫主義の時代(1901〜1904年)

1901年、藤島は与謝野鉄幹と晶子の夫妻が出していた文芸雑誌『明星』の表紙を担当するようになり、挿絵も手がけました。『世界大百科事典』は、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』についても、藤島の華麗な装丁と挿画が内容にふさわしいと紹介しています。

同じ事典によれば、藤島は『明星』の表紙を担当した時期から、浪漫的な内容と装飾性をもつ画風によって高揚期を迎えました。

『天平の面影』(1902年)

藤島武二『天平の面影』(1902年)。金色を思わせる背景の前に、淡い色の衣をまとった女性が古代の竪琴を抱えて立つ縦長の油彩画
藤島武二『天平の面影』(1902年)油彩・麻布、石橋財団アーティゾン美術館、重要文化財/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。アーティゾン美術館の作品ページ・文化遺産オンラインを出典とする画像)

初期の代表作が『天平の面影』です。文化庁の解説によれば、藤島が35歳ごろに描いた比較的初期の作品で、『明星』を中心に広がっていた浪漫主義の風潮を背景にした、浪漫主義絵画の代表的な成果とされています。

縦に長い画面には、金色を思わせる背景の前に、淡い色の衣をまとった女性が、弦を張った古代の楽器を抱えて立っています。文化庁の解説によれば、藤島は正倉院に伝わる箜篌(くご)という楽器を実際に見て受けた感銘から、この絵の着想を得ました。女性の表現には、浄瑠璃寺の吉祥天像や、正倉院の鳥毛立美人図などを参考にしたといいます。

文化庁の解説は、金地を思わせる背景と、細部を省いて描かれた桐などによって強調された装飾性、そして藤島自身の繊細な感性で塗り重ねられた色調によって、歴史画が陥りがちな重苦しさや古めかしさがなく、明快で新鮮な趣を失っていないと評しています。

この作品には、少し変わった経緯もあります。最初は第7回白馬会展に「天平時代の面影」という題で出品され、未完成の「半双」、つまり一対の屏風の片方とされていました。しかしその後、対になる作品が描かれた形跡はなく、第10回の白馬会紀年展には「天平の面影」として1点だけが出品されています。

文化庁は、本作がもう一人の浪漫主義の代表的な画家である青木繁に多大な影響を与えたとされる点でも重要だと述べています。そして、明治浪漫主義を代表する記念碑的な作品として重要だとまとめています。2003年に国の重要文化財に指定されました。

2年後の1904年には『蝶』を発表しました。文化庁は、『天平の面影』とこの『蝶』を、浪漫主義絵画の代表的な成果に挙げています。東京国立近代美術館の解説も、『天平の面影』や『蝶』に代表される前期の作品には、耽美的で感覚的な情趣と優美な装飾性が強く示されていたと述べています。国立国会図書館の解説も、藤島が外光派の影響を受けたのち浪漫主義に移って『蝶』などを発表したと紹介しています。『蝶』は権利の確認が取れた図版が見つからなかったため、本記事では文章での紹介にとどめています。

パリとローマへの留学(1905〜1910年)

1905年(明治38年)、藤島は文部省の留学生としてヨーロッパへ渡りました(渡欧を1906年とする事典もあります)。文化庁の解説によれば、留学は約4年間に及びます。

『世界大百科事典』によると、藤島は黒田が紹介した黒田の師ラファエル・コランを訪ねず、パリではフェルナン・コルモンの指導を受けました。1908年からはローマに移り、肖像画家として知られたカロリュス=デュランのもとで学んでいます。留学期の後半には、『チョチャラ』『黒扇』『ヴィラ・デステの池』など、油彩画の本格的な技術を身につけた傑作を描きました。

『ブリタニカ国際大百科事典』は、留学中の作品として『ヨット』(1908年、東京藝術大学大学美術館)も挙げています。東京国立近代美術館の解説は、この4年間の留学によって、藤島の表現が印象派的な見方を保ちながらも、繊細で優美なものから、剛直で重厚なものへと一変したと説明しています。

『黒扇』(1908〜09年)

藤島武二『黒扇』(1908〜09年)。白いベールをかぶった女性が、黒い扇を胸元に広げてこちらを見つめる油彩画
藤島武二『黒扇』(1908〜09年)油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館、重要文化財/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project、パブリックドメイン)

留学中の代表作が『黒扇』です。白いベールを頭からかぶった女性が、黒い扇を胸元に広げ、まっすぐこちらを見つめています。

所蔵するアーティゾン美術館の解説によれば、藤島はイタリア滞在中にモデルを使ってこの絵を描きました。白いベールと黒い扇には、スペイン趣味の影響があると考えられています。ベールと扇の筆づかいにはスピードと力強さがあふれる一方、顔、とくに鼻と頬は澄んだやわらかさに満ちています。影には透明感のある青を、左の頬のハイライトには明るいピンクを使いました。引き締まった唇の赤と目の青も印象的です。限られた色で描きながら、ところどころに置いた鮮やかな色が魅力を高めている、と同館は解説しています。

文化庁の『黒扇』の解説は、藤島を「日本人には珍しいといわれるほどに油絵的体質に恵まれ、自己様式を力強く展開させていった巨匠」と紹介し、その才能が約4年間のヨーロッパ留学で大きく開花したと書いています。そのうえで、この作品を滞欧時代の秀作の一つ、そして藤島が好んで描いた婦人像の代表作に挙げ、明快な明暗の構成、多彩な色の対比、力強い筆触に、藤島の造形の優れた特質がよく表れていると述べています。1969年に国の重要文化財に指定されました。

藤島はこの絵にイタリアの思い出を重ねて強い愛着を持ち、手放すことを拒んで、生涯アトリエに置いていたといいます。同館の創設者・石橋正二郎は藤島と親しく交友し、画家が保管していたイタリア時代の作品15点を一括して譲り受けました。アーティゾン美術館は、美術館の創設を考えていた正二郎に、老画家から愛蔵品が託されたのだと紹介しています。

同じ時期に描かれた『チョチャラ』(1908〜09年)も、アーティゾン美術館が所蔵しています。文化庁の解説は、留学中に制作された作品として『黒扇』とともにこの『チョチャラ』を挙げています。

帰国、そして女性像の模索(1910〜1920年代)

1910年に帰国した藤島は、白馬会展に滞欧作27点を発表し、東京美術学校の教授に進みました。小学館の『日本大百科全書』によれば、以後三十余年にわたり、西洋画科の学生の指導に尽くしています。

教育の場は美術学校だけではありませんでした。1912年には岡田三郎助とともに本郷洋画研究所を設立し、1913年からは川端絵画研究所の洋画部でも教えています。鹿児島市立美術館の解説によれば、のちに画家となる有島生馬も、イタリア留学の前に藤島から1年ほど絵の指導を受けました。

1911年に白馬会が解散したあと、藤島は文部省の美術展覧会(文展)、続く帝国美術院展覧会(帝展)の重鎮として活躍します。1914年、文展の改革を求める画家たちが在野の団体・二科会を結成しますが、改革派を支持しながらも、藤島は文展にとどまりました。

『うつつ』(1913年)

藤島武二『うつつ』(1913年)。模様の入った着物を着た若い女性が、クッションに頬を寄せてもたれ、まどろむようにこちらを見ている油彩画
藤島武二『うつつ』(1913年)油彩・キャンバス、64.0×52.0cm、東京国立近代美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Arts & Culture、パブリックドメイン)

帰国後に日本で初めて描いた作品が『うつつ』です。1913年の第7回文展に出品し、三等賞を受けました。

所蔵する東京国立近代美術館の解説には、藤島自身の言葉が引かれています。「夢幻的な心境を描いてみたまでであって、若い女がクッションに凭(もた)れて憩んでいるポーズで、日本の古代の刺繍をした綸子(りんず)の着物をつけている。窓辺に軟かな光線を浴びて、うっとりとしている姿に興味をもった」(「足跡を辿りて」)。

同館は、しどけない女性の姿とまどろむような眼差しはかつての耽美的な情趣と共通する一方で、留学中の剛直な筆致はやわらかく平明なものになり、それがその後の藤島の作品を特色づけていくと解説しています。また、この作品は、のちの『東洋振り』や『芳蕙』へと続く、女性像に「東洋的な典型的美」を求めた一連の作品の出発点になったともいえる、と位置づけています。

『匂い』(1915年)

藤島武二『匂い』(1915年)。花模様の桃色の中国服を着た女性が、テーブルに頬杖をつき、香水の小瓶を前に座る。左には花を挿した花瓶
藤島武二『匂い』(1915年)油彩・キャンバス、69.5×76.0cm、東京国立近代美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Arts & Culture、パブリックドメイン)

1915年の第9回文展に出品した『匂い』では、桃色の中国服をまとった女性が、テーブルに頬杖をついて座っています。卓上には小さな瓶、左には花を挿した背の高い花瓶が置かれています。

東京国立近代美術館は、藤島の画業を、繊細さと装飾性を兼ね備えた浪漫主義的な前期と、造形性に重きを置いた明快で力強い後期とに大きく分けられるとし、この作品をその間の移行期にあたるものと説明しています。チャイナドレスをまとい、香を楽しむ女性には浪漫主義的な優美さがまだ見られますが、筆づかいや色はより単純になり、女性の腕や左端の花瓶がつくる画面の構成の堅さに、造形への関心の強さがうかがえるといいます。

藤島はこのあと、しばらく自分の画風を模索する時期を過ごします。『世界大百科事典』によれば、転機となったのは1924年の第5回帝展に出した『東洋振り』でした。この作品で躍進のきっかけをつかみ、藤島は装飾性を高めた独自の人物画を確立します。1926年には『芳蕙(ほうけい)』を発表しました。1924年には帝国美術院の会員にも選ばれています。

「サンプリシテ」と風景画への転身(1929〜1932年)

60代に入ると、藤島は風景画にのめり込んでいきます。三重県立美術館の解説によれば、晩年の藤島は、昭和天皇の御学問所を飾る油彩画と、宮中の花蔭亭を飾る壁画という二つの制作依頼を受けて、風景画に集中的に取り組みました。理想の風景を求めて日本各地から東アジアにまで旅を続け、数多くの風景画を残しています。アーティゾン美術館によれば、藤島はたびたび「サンプリシテ」というフランス語を好んで口にしました。「単純化」という意味です。

1930年5月、藤島は雑誌『美術新論』に回顧録「足跡を辿りて」を発表し、その終わりのほうで次のように書いています。「絵画芸術では単純化(サンプリシテ)ということは最も大事なことと信ずる。複雑なものを簡約する」。そして、今後は風景でも人物でも「一切の余贅なるものを省略し、省略して最後の描かざるべからざるもののみを描いていきたいと思う」と続けました。

『淡路島遠望』(1929年)

藤島武二『淡路島遠望』(1929年)。手前の斜面に洋館や家並みと木々が並び、その向こうに穏やかな海と、横に長く伸びる淡路島が見える
藤島武二『淡路島遠望』(1929年)油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project、パブリックドメイン)

風景画家としての出発点となったのが、62歳で描いた『淡路島遠望』です。所蔵するアーティゾン美術館の解説によれば、神戸の別荘地として古くから好まれた舞子から、淡路島を望んだ作品です。神戸と淡路島を隔てる明石海峡がいちばん狭くなる場所で、現在は明石海峡大橋がかかっています。

手前の南向きの斜面には、洋館をふくむ数軒の家が、畑や木々とともにバランスよく並んでいます。沖へ広がる海は、波のない凪というより、簡潔に、平たく描かれています。対岸の淡路島は、空と海を分けるように横に長く伸びています。同館は、藤島が60代に入って、風景画家としての情熱で各地の風景を描くようになり、この作品がその新しい創作の出発点だったと解説しています。

『屋島よりの遠望』(1932年)

藤島武二『屋島よりの遠望』(1932年)。淡い桃色の空の下、青緑の海の向こうに島影が横たわり、海上に白い帆船が一艘浮かぶ。手前の岸辺には家並み
藤島武二『屋島よりの遠望』(1932年)油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン。旧・石橋美術館の公式サイトを出典とする画像)

「サンプリシテ」の言葉を発表した2年後、1932年の夏に描かれたのが『屋島よりの遠望』です。屋島は、香川県の高松市街の東で、瀬戸内海へ南から北へ突き出た台地状の半島です。アーティゾン美術館の学芸員の解説によれば、藤島はその頂上に近い旅館に約1か月滞在し、「スケッチを大小三十四、五枚ほど描いた」と記しています。朝は早く起きて、平家物語の舞台となった古戦場の入江、壇ノ浦をはさんで真東にある五剣山にのぼる朝日を描きました。日中は、直射日光で「色彩も乏しくなり、最も平凡な景色に見える」として、昼寝をとっていたようです。そして夕方には、西側の女木島や高松市街のほうを向いて、落日や黄昏を好んで描いています。この作品は、その夕方の側の代表作です。

ただし藤島は、目の前の光景をそのまま写したわけではありません。手前には屋島の断崖があり、海辺近くには集落や工場が数多くあったようですが、藤島はそれらを整理してリズムをつくりました。女木島の向こうに見えていたほかの島々や中国地方の山々も、「絵になるには景物が多すぎて煩わしさが多かった」として、大胆に省いています。学芸員は、画面に残った工場の煙突一本や一艘だけ浮かぶ帆船は、画面のアクセントとしてちょうどよい位置に残したものだろうと見ています。こうして全体を省略し、整理することで、霞のなかで迎え始めた黄昏を、あるいは時間とともに移りゆく地球の姿を、象徴的に描き出したというのが学芸員の読み解きです。

同じ1932年には、三重県の各地を旅して『大王岬に打ち寄せる怒濤』も描きました。所蔵する三重県立美術館の解説によれば、うごめく波は勢いのある大胆な筆さばきで、岩山は幾何学的な色面で表されています。ほぼ同じ構図と寸法の油彩画が、ひろしま美術館にも所蔵されています。

日の出を追い続けた10年(1928〜1938年)

晩年の藤島が10年をかけて取り組んだのが、「日の出」という主題です。アーティゾン美術館の解説によれば、1928年、藤島は昭和天皇の学問所を飾る油彩画の制作を依頼されました。天皇の即位を祝うために、藤島は自ら「日の出」を主題に決めます。

そこから藤島は、日の出を求めて、北は本州の蔵王から、南は当時日本の統治下にあった台湾まで旅を重ねました。海からのぼる太陽も、山並みの上にのぼる太陽も描いています。鹿児島市立美術館も、藤島が日本を象徴する旭日を主題に決め、10年余り理想の日の出を求めて国内外を取材したと解説しています。この探求は、内モンゴルの砂漠で見た太陽を題材にした『旭日照六合』で完成しました。

鹿児島市立美術館が所蔵する『鳥羽の日の出』(1931年)も、この取材の旅から生まれた作品です。三重県の朝熊(あさま)山から鳥羽をのぞむ海の日の出を描いたもので、同館は、取材先で描いた習作をもとにしたと考えられ、簡潔な構図と力強い筆致に藤島の画風が表れていると解説しています。

『東海旭光』(1932年)

藤島武二『東海旭光』(1932年)。燃えるような橙色の雲が広がる空の下、水平線から赤い太陽がのぞき、緑がかった海に帆船が一艘浮かぶ
藤島武二『東海旭光』(1932年)油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館/出典:Wikimedia Commons(Google Art Project、パブリックドメイン)

この10年のあいだに、藤島は「日の出」の名作を数多く残しました。1932年の『東海旭光』もその一つです。橙色に燃える雲が空いっぱいに広がり、水平線から赤い太陽が顔をのぞかせています。

アーティゾン美術館は、この作品が帆船を除けば海と空だけでできていて、きわめて簡潔で明快な色面によって組み立てられていると解説しています。そこには、藤島が目指した「単純化」がよく表れている、というのが同館の見方です。

1938年には、第2回文展に『耕到天』を出品しました。『世界大百科事典』はこれを晩年の傑作としています。文化庁の解説も、晩年の力強い風景画や装飾性の高い作品の例として『耕到天』を挙げています。現在は岡山県倉敷市の大原美術館が所蔵しています。

文化勲章と晩年(1934〜1943年)

藤島は1934年に帝室技芸員となり、1937年には第1回の文化勲章を受けました。同じ年、帝国芸術院の会員にもなっています。『ブリタニカ国際大百科事典』は、藤島が本来の装飾性を鋭い筆致のなかに融和させて風景画と人物画を制作し、後進に大きな影響を与えたとまとめています。

1943年3月19日、藤島武二は東京で亡くなりました。

石橋正二郎が譲り受けた作品は、現在の石橋財団アーティゾン美術館に受け継がれています。生誕150年にあたる2017年には、記念の展覧会が東京の練馬区立美術館で開かれ、生地の鹿児島市立美術館、藤島が愛した港町・神戸の神戸市立小磯記念美術館へと巡回しました。アーティゾン美術館では、2027年6月19日から9月20日まで、展覧会「藤島武二 創造の軌跡」が予定されています(2026年11月時点)。

藤島武二の代表作

本記事で取り上げた作品を中心に、藤島武二の代表作と所蔵先をまとめます。所蔵は、各館の公式情報と文化遺産オンラインによります。

制作年作品名所蔵
1902年『天平の面影』(重要文化財)石橋財団アーティゾン美術館
1908〜09年『黒扇』(重要文化財)石橋財団アーティゾン美術館
1908〜09年『チョチャラ』石橋財団アーティゾン美術館
1913年『うつつ』東京国立近代美術館
1915年『匂い』東京国立近代美術館
1924年『東洋振り』石橋財団アーティゾン美術館
1929年『淡路島遠望』石橋財団アーティゾン美術館
1932年『屋島よりの遠望』石橋財団アーティゾン美術館
1932年『東海旭光』石橋財団アーティゾン美術館
1932年『大王岬に打ち寄せる怒濤』三重県立美術館
1938年『耕到天』大原美術館

まとめ

いかがだったでしょうか。藤島武二の人生と作品をご紹介しました。

鹿児島に生まれた藤島は、日本画から出発し、20代で洋画に転じました。黒田清輝に見いだされて東京美術学校の助教授となり、『明星』の表紙や『天平の面影』で明治の浪漫主義を代表する画家になります。4年間のパリとローマへの留学では『黒扇』などの傑作を描き、画風を大きく変えました。

帰国後は『うつつ』『匂い』から『東洋振り』へと、東洋的な美しさをたたえた女性像を追い求め、60代からは風景画に新しい道を開きます。「サンプリシテ(単純化)」を合言葉に、余分なものを省いた『屋島よりの遠望』や、海と空だけで組み立てた『東海旭光』へとたどり着きました。

藤島の作品の多くは、東京・京橋のアーティゾン美術館で見ることができます。生まれ故郷の鹿児島市立美術館も、黒田清輝、藤島武二、和田英作をはじめとする郷土の作家の作品を、系譜として収蔵しています。前期の繊細な装飾性と、後期の大胆な省略。その両方を見比べてみると、一人の画家が何を描き、何を描かないと決めたのかが見えてくるはずです。

Euphoric " " の視点

藤島武二が風景画家として新しい創作に踏み出したのは、62歳で描いた『淡路島遠望』からでした。浪漫主義の画家として名を上げ、留学で画風を変え、女性像を追い求めたあとのことです。

その翌年、藤島は回顧録に「絵画芸術では単純化(サンプリシテ)ということは最も大事なことと信ずる」と書き、余分なものを省略して、最後に描かなければならないものだけを描きたいと続けました。屋島では、絵になるには景物が多すぎるとして、島々や山々を大胆に省いています。

何を描くかより、何を描かないかを決める。その判断には、それまでに多くを描いてきた経験が欠かせなかったのかもしれません。積み重ねてきた人ほど、思い切って手放せるものがあると、藤島の晩年の海と空は教えてくれます。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

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