こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはマリウス・プティパという人物をご存知ですか?
マリウス・プティパ(Marius Petipa)は、フランスのマルセイユに生まれ、ロシアのサンクトペテルブルクで半世紀以上にわたって活躍した舞踊家・振付家です。『眠れる森の美女』『ライモンダ』『ドン・キホーテ』『ラ・バヤデール』など、いまも世界中のバレエ団が上演する作品を数多く手がけました。
ブリタニカ国際大百科事典は、プティパが60以上のバレエを創作し、その構成と様式が後世のバレエに大きな影響を与えたと記しています。劇場で目にする古典バレエの多くは、プティパの舞台を土台にしています。
本記事ではそんなマリウス・プティパの人生と作品についてご紹介します。初演の年や劇場は、作品を受け継ぐマリインスキー劇場の公式記録と百科事典で確認したものだけを、表と図解にまとめています。
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マリウス・プティパは、1818年3月11日にフランスのマルセイユで生まれ、1910年7月14日(ロシアの旧暦では7月1日)に、当時のロシア帝国のグルズフで亡くなりました。92歳でした。
舞踊家の一家に生まれ、父のもとでバレエを学んだのち、フランスやスペインで舞踊手として活躍しました。1847年にサンクトペテルブルクの帝室劇場に招かれてからは、生涯をロシアで過ごしています。ロシアでは「ペチパ」とロシア語読みで呼ばれることもあります(百科事典マイペディア)。
日本語では「マリウスプティパ」「マリウス プティパ」と、中黒を入れずに書かれることもあります。いずれも同じプティパを指しています。
基本情報
| 本名 | マリウス・プティパ(Marius Petipa)。ロシアではマリウス・イワノヴィチ・ペチパと呼ばれた |
| 生年月日(没年月日) | 1818年3月11日〜1910年7月14日(ロシア旧暦7月1日) |
| 国籍・出身 | フランス・マルセイユ生まれ。晩年はロシアに帰化(世界大百科事典) |
| 学歴 | 父ジャン・プティパに舞踊を学ぶ |
| 分野 | 舞踊家、振付家、帝室劇場の首席バレエマスター |
| 代表作 | 『ファラオの娘』(1862年)、『ドン・キホーテ』(1869年)、『ラ・バヤデール』(1877年)、『眠れる森の美女』(1890年)、『白鳥の湖』(1895年、レフ・イワノフと共同)、『ライモンダ』(1898年) |
| 主な活動の場 | サンクトペテルブルクの帝室劇場(ボリショイ〔石の〕劇場、マリインスキー劇場) |
経歴と作品
マルセイユに生まれ、父のもとで踊りを学ぶ(1818年〜1830年代)
プティパの父ジャンは、長くブリュッセルで活動したバレエマスターでした。ブリタニカ百科事典によると、マリウスと兄のリュシアンは、この父から最初の手ほどきを受けています。兄のリュシアンはのちにパリ・オペラ座の第一舞踊手となり、百科事典マイペディアは「当時パリのオペラ座随一のダンスール・ノーブル」と紹介しています。
初舞台については、資料によって記述が異なります。フランスの百科事典ユニヴェルサリスは、ブリュッセルのモネ劇場で、ピエール・ガルデルのバレエ『ラ・ダンソマニ(ダンス狂い)』に出演したのが最初の舞台で、1832年のことだと記しています。一方、プティパの研究団体ペティパ・ソサエティは、5歳のときに父の演出した別のバレエに小さな役で出たのが最初だとしています。いずれにしても、幼いころから父の舞台の中で育ったことは共通しています。
『ラ・ダンソマニ』は、プティパの初舞台の作品として名前が挙がることの多い題名です。舞踊家の家に生まれたプティパにとって、劇場は子どものころから身近な場所でした。
フランス、スペインで踊った舞踊手時代(1830年代末〜1847年)
ブリタニカ百科事典によると、プティパはフランス西部のナントでデビューしたのち、ベルギーやフランスなど各地で踊りました。その後スペインと契約し、のちにロシアで上演するバレエの題材をそこで集めています。ユニヴェルサリスは、ボルドーやマドリードで第一舞踊手を務めたと記しています。
この時代のプティパは、振付家というより舞踊手でした。ブリタニカ百科事典は、プティパが優れたパントマイム(身ぶりで物語を伝える演技)の演じ手として評判を得て、当時の傑出した舞踊手のひとりになったと書いています。のちに振付家として物語のある大作をつくるとき、この演技の経験が生きることになります。
サンクトペテルブルクへ 『パキータ』での初舞台(1847年)
1847年、プティパはロシア帝国の首都サンクトペテルブルクの帝室劇場に招かれます。ブリタニカ国際大百科事典によると、父とともに招かれ、首席舞踊手となりました。ブリタニカ百科事典は、プティパがこの年に『パキータ』で初めて舞台に立ったと記しています。

『パキータ』(ロシア初演1847年/プティパの追加1881年)
『パキータ』は、もともとパリで生まれたバレエです。マリインスキー劇場の公式サイトによると、このパリの話題作がサンクトペテルブルクの舞台に来たのが1847年でした。そして1881年、プティパはこの作品に、始めから終わりまでひとつの大きな「グラン・パ」(主役と群舞が踊り継ぐ大がかりな踊りの場面)だけでできた幕を付け加えます。初演は1881年1月27日、マリインスキー劇場でした。
同じ公式サイトは、この場面に帝室劇場時代の名残があると説明しています。踊り手たちの跳躍のきらめきは、客席のボックス席の貴婦人たちが身につけたダイヤモンドの輝きと競い合っていた、と表現しているほどです。踊り手の登場の順番が、群舞(コール・ド・バレエ)、コリフェ(群舞の中の小さな役)、ソリスト、そしてプリマ・バレリーナという、バレエ団の序列そのものになっているのです。作品の全幕がのちに上演されなくなってからも、この「グラン・パ」は独立した演目として踊り継がれています。
振付家としての出世作『ファラオの娘』(1858〜1862年)
舞踊手として活躍しながら、プティパは振付にも取り組みます。ブリタニカ百科事典によると、最初のオリジナル作品は1858年の『摂政時代の結婚』です。そして最初の大成功が、1862年の『ファラオの娘』でした。
振付家としての肩書きを得た年は、資料によって書き方が異なります。ユニヴェルサリスは、1859年にジュール・ペローの後任としてバレエマスターに任命されたと記し、ブリタニカ百科事典は1862年に振付家になったと記しています。舞踊手から振付家へ、仕事の中心が少しずつ移っていった時期だと考えられます。
『ファラオの娘』(1862年)
マリインスキー劇場の公式サイトによると、『ファラオの娘』は1862年1月18日にボリショイ(石の)劇場で初演されました。音楽はチェーザレ・プーニ、台本はジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュとプティパで、テオフィル・ゴーティエの小説『ミイラ物語』をもとにしています。
物語は、エジプトのピラミッドで眠りに落ちたイギリス人の旅行者が、夢の中で古代エジプトの王女アスピシアと出会うというものです。王宮の場面、狩りの場面、ナイル川の底の場面と、場所を次々に変えながら大勢の踊り手が登場します。ブリタニカ国際大百科事典は、プティパがこの大作の振付で大成功を収めたと記し、その7年後の1869年に首席振付家に就任したとしています。
マリインスキー劇場は2023年3月24日に、この作品の復元上演を行いました。上演時間は3時間30分におよびます。公式サイトによると、振付の復元には、ハーバード大学の演劇コレクションが所蔵するニコライ・セルゲーエフの舞踊譜が使われています。舞踊譜については、記事の後半でご紹介します。
首席バレエマスターとして(1869年〜)
1869年、プティパは帝室劇場の首席バレエマスター(振付と上演の責任者)に就任します。ブリタニカ百科事典、ブリタニカ国際大百科事典、百科事典マイペディアがいずれもこの年を記しています。ここから30年あまり、プティパはサンクトペテルブルクのバレエの中心に立ち続けました。

『ドン・キホーテ』(1869年)
マリインスキー劇場の公式サイトによると、プティパ振付の『ドン・キホーテ』は、1869年12月14日にモスクワのボリショイ劇場で初演されました。音楽はルートヴィヒ・ミンクス、台本はセルバンテスの小説をもとにプティパが書いています。サンクトペテルブルクの舞台には1871年から登場しました。
スペインを舞台にしたこの作品には、スペインで踊った若いころの経験が生きていると考えられます。ブリタニカ百科事典が、スペインで「のちにロシアで上演するバレエの題材を集めた」と記していることとも重なります。
公式サイトは、現在の『ドン・キホーテ』を、バレエのレパートリーの中で最も多彩な踊りを含む作品のひとつと紹介しています。主役バジルを踊ってきたダンサーたちの工夫がヴァリエーションに取り入れられてきたため、彼らも主役の共同の振付者といえる、という説明もあります。
現在よく上演される『ドン・キホーテ』は、1900年にアレクサンドル・ゴールスキーがプティパの作品をもとにつくり直した版が土台です。公式サイトは、ゴールスキーがプティパの作品によく見られた左右対称の群舞を、生き生きとした広場の群衆に変えたと説明しています。それでも、いまの舞台にはプティパの振付のなごりが残っているとしています。
『ラ・バヤデール』(1877年)
『ラ・バヤデール』(『バヤデルカ』とも)は、1877年1月23日にサンクトペテルブルクのボリショイ劇場で初演されました。音楽はミンクス、台本はプティパとセルゲイ・フデコフです(マリインスキー劇場公式サイト、百科事典マイペディア)。
公式サイトによると、プティパはこの作品を、名手として知られたバレリーナ、エカテリーナ・ヴァゼムの記念公演のためにつくりました。物語の柱は、インドの高貴な戦士と寺院の舞姫の恋です。異国の色彩を見せ場にしながら、プティパは踊りによって物語に深みと陰影を与えたと、公式サイトは説明しています。宮殿の祝宴の華やかな踊り、身ぶりで物語を進める場面、そして古典的な踊りで見せる幻想の場面「影の王国」。公式サイトはこの「影の王国」を、プティパの才能が完璧に最も近づいた傑作と評しています。
同じ公式サイトは、20世紀に入ってこの作品から一幕がまるごと削られたことにも触れています。古典バレエの作品は、上演されるたびに少しずつ形を変えながら受け継がれてきたことが分かります。
『ジゼル』(パリ初演1841年/プティパ版1884年)
『ジゼル』は1841年6月28日にパリで初演されたロマンティック・バレエです。マリインスキー劇場の公式サイトによると、サンクトペテルブルクでは1842年に初演され、プティパによる改訂版が1884年2月5日に上演されました。公式サイトは、プティパがこの作品の踊りを自分の好みに合わせて改め、現在の上演もプティパ版であると記しています。
興味深いのは、パリでの初演で主役アルブレヒトを踊ったのが、兄のリュシアン・プティパだったことです(アメリカン・バレエ・シアター公式サイトの初演記録)。兄が初演で踊った作品を、弟が40年あまりのちに改訂し、それが現在まで残っています。
マリインスキー劇場の公式サイトは、20世紀の初めにサンクトペテルブルクのダンサーたちがディアギレフのバレエ団でこの作品をパリで踊り、すでにこの名作の栄光を忘れかけていたパリの観客を再び魅了したとも記しています。パリで生まれ、ロシアで磨かれた作品が、再びパリに戻ったことになります。
帝室劇場という舞台装置
プティパの作品は、ひとりの振付家の力だけで生まれたものではありません。ユニヴェルサリスは、プティパがダンサーのレフ・イワノフや、舞台美術家たちと協力して作品をつくったと記しています。主な踊り手として、マチルダ・クシェシンスカヤ、ピエリーナ・レニャーニ、パーヴェル・ゲルトらの名前を挙げています。
当時の帝室劇場には、舞台の衣装を着た踊り手を撮影する写真室もありました。下の写真は、台紙に「帝室劇場写真室」と刷られた1896年のもので、国立バフルーシン中央演劇博物館が所蔵しています。大がかりな作品を上演し、記録まで残す組織があったことが、プティパの大作を支えていました。

チャイコフスキーとの協働(1890〜1895年)
プティパの仕事の中でも特に名高いのが、作曲家ピョートル・チャイコフスキーとの協働です。ブリタニカ百科事典は、プティパがチャイコフスキーと『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』で協働し、『くるみ割り人形』の振付は助手のレフ・イワノフが担ったと記しています。
『眠れる森の美女』(1890年)
マリインスキー劇場の公式サイトによると、『眠れる森の美女』は1890年1月3日にマリインスキー劇場で初演されました。音楽はチャイコフスキー、台本は帝室劇場の総裁イワン・フセヴォロシスキーとプティパで、シャルル・ペローの童話をもとにしています。
この作品を発案したのはフセヴォロシスキーでした。公式サイトは、チャイコフスキーとプティパの出会いを仕掛けたのがフセヴォロシスキーであり、フランスの童話をバレエにするという考えも、台本も、そして衣装のデザインも、フセヴォロシスキーによるものだと説明しています。公式サイトは、フセヴォロシスキーをこの作品の「共同の創り手」と呼んでいます。
同じ公式サイトは、チャイコフスキーの音楽が、振付家の細かな計画に沿って作曲されたことを紹介しています。小節の数や音の性格まで、プティパがあらかじめ指示していたのです。そのうえで公式サイトは、この作品がパントマイム、群衆の場面、古典的な踊りの型を均整のとれた割合で組み合わせた「グランド・バレエ」の模範となり、19世紀のバレエの頂点になったと評しています。
公式サイトはさらに、この作品が20世紀のバレエの新しい試みにも刺激を与えたと記しています。『眠れる森の美女』に魅了された美術家アレクサンドル・ブノワらが、過去の時代や遠い文化の雰囲気をまとった作品をつくり、作品に再現されたルイ14世時代のフランスの空気が、のちの芸術運動「芸術世界」の様式化への扉を開いたというのです。
百科事典マイペディアは、プティパの作舞と演出の様式が今日でもクラシック・バレエの規範とされていると記しています。『眠れる森の美女』は、その規範を最もよく表す作品のひとつです。
『白鳥の湖』(プティパとイワノフの版 1895年)
『白鳥の湖』は、1877年にモスクワのボリショイ劇場で別の振付家の手で初演されましたが、公式サイトによると、そのときはすぐには評価されませんでした。1894年、マリインスキー劇場の演奏会でレフ・イワノフが白鳥の場面を発表し、これを見たプティパが帝室劇場での上演を決めます。
プティパとイワノフの振付による『白鳥の湖』は、1895年1月15日にマリインスキー劇場で初演されました。公式サイトは、フランス人のプティパ、ロシア人のイワノフ、音楽を改訂したイタリア人のリッカルド・ドリゴ、そして主役を踊ったピエリーナ・レニャーニを、この作品の「伝説」をつくった人々として挙げています。多くの振付家が、現在もドリゴの版の音楽に沿って上演しているといいます。

晩年の大作『ライモンダ』と引退(1898年〜)
『ライモンダ』(1898年)
マリインスキー劇場の公式サイトによると、『ライモンダ』は1898年1月7日にマリインスキー劇場で初演されました。音楽はアレクサンドル・グラズノフ、台本はリディア・パシコワとプティパで、中世の騎士の伝説をもとにしています。公式サイトは、プティパがこの作品を80歳を迎える年につくったと記しています。
物語は、中世の城で誕生日の祝宴を迎える令嬢ライモンダと、騎士ジャン・ド・ブリエンヌの婚礼までを描きます。公式サイトは、この作品がプティパの長い経歴の最良の要素を集めたものだと評しています。主役のバレリーナは5つのヴァリエーション(ひとりで踊る見せ場)を踊り、幕ごとに異なる表情を見せます。若々しさ、夢見るような歌心、晴れやかな華やかさ、そしてピアノ独奏に合わせた瞑想的な踊りです。公式サイトは、この役を古典バレエの中で最も難しい役のひとつとしています。
公式サイトは、この作品の対立を、ライモンダが暮らす穏やかで気高い中世の城の世界と、サラセンの首長アブデラフマンの情熱的な世界との対比として説明しています。プティパは、アブデラフマンの一行には気性の激しいキャラクター・ダンス(民族舞踊をもとにした踊り)を、ライモンダの世界には古典的な踊りを当てることで、音楽の対比を踊りの対比に置きかえました。
グラズノフにとっては、これが初めてのバレエ音楽でした。公式サイトは、のちの作品も『ライモンダ』の名声を超えることはなく、この作品がグラズノフの最も有名な作品として残っていると記しています。プティパはその後もグラズノフと組み、ユニヴェルサリスによると1900年に一幕のバレエ『四季』を発表しています。
プティパが首席バレエマスターを退いた年は、資料によって1903年(世界大百科事典)、1904年(ブリタニカ国際大百科事典)と分かれます。いずれにしても、1847年に招かれてから半世紀以上、プティパはサンクトペテルブルクの舞台で仕事を続けました。
マリウス・プティパの作品年表
本文で取り上げた作品を、マリインスキー劇場の公式サイトに記された初演日でまとめました。日付は公式サイトの表記どおりです。
| 作品 | 初演 | 音楽 | 初演の劇場 |
|---|---|---|---|
| 『ファラオの娘』 | 1862年1月18日 | チェーザレ・プーニ | ボリショイ(石の)劇場(サンクトペテルブルク) |
| 『ドン・キホーテ』 | 1869年12月14日 | ルートヴィヒ・ミンクス | ボリショイ劇場(モスクワ) |
| 『ラ・バヤデール』 | 1877年1月23日 | ルートヴィヒ・ミンクス | ボリショイ劇場(サンクトペテルブルク) |
| 『パキータ』第3幕の追加 | 1881年1月27日 | ルートヴィヒ・ミンクス | マリインスキー劇場 |
| 『ジゼル』プティパ版 | 1884年2月5日 | アドルフ・アダン | ボリショイ(石の)劇場 |
| 『眠れる森の美女』 | 1890年1月3日 | ピョートル・チャイコフスキー | マリインスキー劇場 |
| 『白鳥の湖』プティパとイワノフの版 | 1895年1月15日 | ピョートル・チャイコフスキー | マリインスキー劇場 |
| 『ライモンダ』 | 1898年1月7日 | アレクサンドル・グラズノフ | マリインスキー劇場 |
※ロシアでは1918年まで旧暦(ユリウス暦)が使われていました。上の初演日は当時の暦による日付と考えられ、現在の暦(新暦)に直すと、19世紀の日付では12日後にあたります。
プティパのバレエを形づくった仕組み
プティパの大作には、共通する組み立て方があります。ブリタニカ国際大百科事典は、プティパの作品について、多くの幕からなりコール・ド・バレエ(群舞)を豊富に登場させる大作が多く、「一晩に1作上演の原則」を確立したと記しています。一つの物語を、一晩かけて見せる形です。
ユニヴェルサリスは、プティパのパ・ド・ドゥ(男女2人の踊り)、ソリストのヴァリエーション、群舞の展開が、練り上げられた古典の技術の上に成り立っていると書いています。マリインスキー劇場の公式サイトが『眠れる森の美女』について説明した、パントマイム、群衆の場面、古典的な踊りの組み合わせも、この組み立て方の一部です。
ブリタニカ百科事典は、プティパが「綿密に練った詳細な計画」にもとづいて作品をつくり、それがロシアにおける近代の古典バレエの土台になったと記しています。作曲家に小節の数まで指示したという『眠れる森の美女』のエピソードは、まさにその計画性を示すものです。

舞踊譜が伝えるプティパの振付
振付は、絵画や楽譜のように紙の上に残すことが難しい芸術です。プティパの作品が100年以上たっても上演され続けている理由のひとつに、帝室劇場で書き残された舞踊譜があります。
先にご紹介したとおり、マリインスキー劇場は2023年の『ファラオの娘』の復元で、ハーバード大学の演劇コレクションにあるニコライ・セルゲーエフの舞踊譜を使ったと公式サイトに記しています。上演されなくなっていた作品でも、記録が残っていれば舞台によみがえらせることができるのです。
アメリカン・バレエ・シアターの公式サイトも、2015年3月3日に世界初演された『眠れる森の美女』の振付を「マリウス・プティパ」とし、アレクセイ・ラトマンスキーが上演の構成と追加の振付を担ったと記しています。プティパの名前は、いまも世界の劇場のプログラムに振付家として記され続けています。

まとめ
いかがだったでしょうか。今回は、クラシック・バレエの規範をつくった振付家マリウス・プティパをご紹介しました。
マルセイユの舞踊家の家に生まれ、フランスやスペインで踊ったプティパは、1847年にサンクトペテルブルクへ渡り、1869年に帝室劇場の首席バレエマスターになりました。『ファラオの娘』『ドン・キホーテ』『ラ・バヤデール』、そしてチャイコフスキーと組んだ『眠れる森の美女』、80歳を迎える年の『ライモンダ』まで、60を超えるバレエを生み出しています。
パントマイム、群舞、主役の踊りを一つの大きな物語に組み立てる方法は、いまも世界中のバレエ団の舞台に生きています。劇場で古典バレエを見るときは、プティパが設計した「組み立て」にもぜひ注目してみてください。
Euphoric " " の視点
プティパは、パントマイム、群舞、主役の踊りを一つの大きな物語に組み立てる方法で、今も世界中で上演されるバレエの形をつくりました。チャイコフスキーとの仕事では、小節の数や音の性格まで、あらかじめ作曲家に指示していたといいます。
その作品が19世紀から現在まで受け継がれてきた背景には、舞踊譜という記録の存在があります。踊りは上演が終われば消えてしまう芸術ですが、記録が残っていれば舞台によみがえらせることができます。一人の振付家の構想と、それを書き留め、伝えてきた人々の仕事が重なって、名作は今日の観客のもとに届いているのです。
作品に触れるには
プティパの作品は、マリインスキー劇場をはじめ世界各地のバレエ団のレパートリーとして上演されています。上演の予定は時期によって変わるため、最新の情報は各劇場の公式サイトをご確認ください。







