こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはカジミール・マレーヴィチという人物をご存知ですか?
20世紀初めのロシア・アヴァンギャルドを代表する画家で、白い画面に黒い正方形をひとつ置いた『黒の正方形』(Black Square)の作者です。マレーヴィチは1910年代なかばに、目に見えるものを描く絵をやめ、色と形そのものを主役にする絵を「シュプレマティスム」と名づけました。
ところが、この画家の生まれた場所や生まれた年の書き方は、所蔵館や百科事典によって少しずつ違います。この記事では、特定の立場に寄せず、各館の表記をそのまま出典つきで並べます。『黒の正方形』にも複数の版があるため、版・年・所蔵館の組み合わせも整理します。
本記事ではそんなカジミール・マレーヴィチの人生と作品についてご紹介します。
コンテンツ
Toggleカジミール・マレーヴィチって?

マレーヴィチの代表作『黒の正方形』です。トレチャコフ美術館が所蔵する1915年の版で、同館の記録では79.5×79.5cmの油彩です(所蔵番号11925)。画面には細かなひび割れが見えます。エルミタージュ美術館は、この版が、先に描いていた別のシュプレマティスムの構図の上に、十分に乾かないまま描かれたため、時間とともにひび割れが広がった、と説明しています。
基本情報
| 本名 | カジミール・セヴェリノヴィチ・マレーヴィチ(Kazimir Severinovich Malevich) |
| 生年月日(没年月日) | 1878年2月23日(旧暦2月11日)〜1935年5月15日(ブリタニカ百科事典の表記。トレチャコフ美術館、ロシア美術館、テートは生年を1879年としています。下の表を参照) |
| 国籍・出身 | 所蔵館によって表記が分かれます。下の表に出典つきで並べました。各館は、キーウ(Kyiv/Kiev)の近く、または市内に生まれたと記しています。没したのはレニングラード(現サンクトペテルブルク)です |
| 学歴 | キーウで素描を学び、モスクワのストロガノフ学校、モスクワ絵画・彫刻・建築学校で学んだ(ブリタニカ)。エルミタージュ美術館は、1904〜05年にモスクワ絵画・彫刻・建築学校の外部生だったと記しています |
| 分野 | 絵画、美術理論の著述 |
| 傾向 | 印象派、象徴主義、フォーヴィスム(野獣派)の影響を受けた初期から、キュビスム・未来派の影響を受けた作風を経て、シュプレマティスムへ。晩年は具象画へ戻りました |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 師として名前が確認できた人物は、今回の出典の範囲では記録なし。協働者として、音楽家ミハイル・マチューシン、詩人アレクセイ・クルチョーヌィフ、詩人ヴェリミール・フレーブニコフ(オペラ『太陽の征服』の制作。テートの記載) |
国籍と出身地の書き方が、館によって違います
マレーヴィチの出身地について、各館はキーウ(Kyiv/Kiev)の近く、または市内と書いています。その後、モスクワ、ペトログラード、レニングラードで活動しました。この記事では、次のとおり、7つの館と百科事典の書き方をそのまま並べます。どれが正しい、と決めることはしません。
| 出典 | 生年 | 出身・国籍の書き方(原文) |
| ニューヨーク近代美術館(MoMA) | 1878 | Russian, born Ukraine |
| グッゲンハイム美術館 | 1878 | b. 1878, near Kiev, Russia (now Kyiv, Ukraine) |
| シカゴ美術館 | 1878 | Born Kyiv (formerly Russian Empire, now Ukraine) |
| ブリタニカ百科事典 | 1878 | near Kyiv, Russian Empire [now in Ukraine]。parents of Polish origin |
| テート | 1879 | 作家ページは生年を1879年と表示。Tate Etc. 掲載の論考:in 1879, in Kiev, to a Polish family |
| トレチャコフ美術館 | 1879 | 作品ページは生没年を1879年、1935年と表示。出身地の記載はなし |
| ロシア美術館 | 1879 | 作品ページ:1879, Киев(1879年、キーウ)。没年と没地は 1935, Ленинград |
| エルミタージュ美術館 | 1878/1879 | 作品ページは生年を1878年と表示。2020年の展覧会紹介は生年を1879年とし、born into a Polish family not far from Kiev in Ukraine |
表を読み比べると、「当時の国名」と「現在の国名」のどちらを先に書くか、またポーランド系という家の出自に触れるかどうかが、館ごとに違うことが分かります。生まれた年も、1878年とする館と1879年とする館に分かれます。テートの論考は、「新しい情報によれば」1878年ではなく1879年生まれだと書いています。エルミタージュ美術館は、2002年のニュースと作品ページでは1878年、2020年の展覧会紹介では1879年と書いており、同じ館のなかでも表記がそろっていません。作品を多く所蔵するトレチャコフ美術館、ロシア美術館、アムステルダム市立美術館(ステデライク)の論考は1879年、米国の3館とブリタニカ百科事典は1878年です。
https://euphoric-arts.com/art-2/piet-mondrian/
経歴と作品
画家になるまで(〜1910年ごろ)
ブリタニカ百科事典によれば、マレーヴィチはキーウで素描を学んだのち、モスクワのストロガノフ学校とモスクワ絵画・彫刻・建築学校で学びました。初期の作品は、印象派、象徴主義、フォーヴィスムの影響を受けたものだったと、同じ項目は説明しています。
育ちについては、グッゲンハイム美術館の解説(コーネリア・ラウフ)が、マレーヴィチはつつましい環境の出身で、正規の美術教育を受けられなかった分を、田舎で過ごした子ども時代の鮮やかな記憶が補っていたことが、本人の自伝的な記述から読み取れる、と述べています。
テートの展覧会紹介は、初期のマレーヴィチの絵として、ロシアの風景、農作業をする人々、宗教的な場面をあげています。テートの論考(アレクサンドラ・シャツキフ)は、マレーヴィチが前衛の画家として姿を現すのは、30歳を超えた1910年になってからだと書いています。
農民を円筒で描く(1912〜1913年)
次の2点は、1912年から13年にかけて描かれた作品です。どちらの画面でも、人物は円筒や円錐に近い形に置き換えられています。グッゲンハイム美術館の解説(コーネリア・ラウフ)は、同館の所蔵作を、ロシアで新しく生まれた様式「キュボ・フューチャリズム(Cubo-Futurism)」の例として挙げ、この時期は、抽象とシュプレマティスムへ向かう旅の、重要な途中経過とみられてきた、と述べています。
『Woman with Pails: Dynamic Arrangement』(1912〜13年)

MoMAの所蔵する、80.3cm四方の油彩です。制作年は、MoMAの記録で「1912〜13年(裏面に1912年と記入)」とされています。題名は「桶を持つ女性:動的な配置」という意味です。画面を見ると、人物も桶も、灰色から白への濃淡がついた円筒や円錐に近い形に置き換えられ、いくつもの面が重なっています。ところどころに黄色やだいだい色の面が差し込まれています。
『Morning in the Village after Snowstorm』(1912年)

グッゲンハイム美術館の所蔵する、80cm四方の油彩です(所蔵番号52.1327)。題名は「吹雪のあとの村の朝」という意味です。雪の積もった村の道を、赤やピンクの衣をまとった二人の人物が、こちらに背を向けて歩いています。家々も木々も、角のある面と丸みのある面の組み合わせで描かれ、青と赤の対比が雪の白を引き立てます。
グッゲンハイムの解説は、この絵の人物を、マレーヴィチが以前に描いた「ネオ・プリミティヴ」と呼ばれる農民像の延長と見たうえで、描き方はフェルナン・レジェの作品に頼っているように見える、と述べています。マレーヴィチは1912年2月にモスクワで開かれた展覧会、あるいは複製を通してレジェを知りえた、という書き方です。また同じ解説は、十月革命の直前に農民を描き続けた選択は、偶然ではなかったはずだ、と読んでいます。これは解説者ラウフの読み方です。
理性を手放す(1913〜1914年)
1913年、マレーヴィチは、音楽家のミハイル・マチューシン、詩人のアレクセイ・クルチョーヌィフと組み、未来派のオペラ『太陽の征服』(Victory over the Sun)の制作に加わりました。エルミタージュ美術館は、マレーヴィチがこの上演の舞台美術と、のちの台本の出版の挿絵に携わるなかで、白い地に黒い正方形をはじめて描き、それを「あらゆる可能性の芽」と呼んだ、と説明しています。テートも、正方形が最初に現れたのは1913年で、このオペラの舞台の幕のデザインだったと書いています。
テートによると、このオペラでは、登場人物が太陽をつかまえ、時間を壊して、理性を廃止しようとします。台本には、クルチョーヌィフの意味を持たない音の言葉「ザーウミ」が使われていました。テートの学芸員アキム・ボルヒャルト=フメは、この経験から、マレーヴィチが色と形だけでできた新しい絵画の言葉を、驚くほどの速さで作り出した、と述べています。
テートの論考(シャツキフ)によると、マレーヴィチは1914年2月の討論で、自分は「理性を捨てた」と宣言しました。その考えにもとづく絵を、論考は「アロジカル(論理に従わない)・フェヴラリスム」と呼んでいます。
『An Englishman in Moscow』(1914年)
ステデライクが所蔵する1914年の油彩です(所蔵番号A 7656)。題名は「モスクワのイギリス人」という意味です。この作品は、権利の確認が取れた図版が見つからなかったため、文章だけで紹介します。画面は同館の作品ページで見ることができます。
ステデライクの論考(ジョン・ボウルト)は、この絵に描かれたものとして、銃剣、ろうそく、魚、のこぎり、教会、さじ、はしご、はさみを数えあげています。それらは、シルクハットをかぶった人物の顔と上半身の上に、ばらまかれるように重ねられています。画面には「競馬協会(Racing society)」と「部分日食(Partial eclipse)」という言葉が書き込まれている、とボウルトは指摘しています。
ボウルトは、人物の襟と紫の上着とシルクハットから、これをプロテスタントの主教とみています。そして、1912年1〜2月に英国議会の代表団がサンクトペテルブルクとモスクワを訪れた出来事と結びつける読み方を、そう考えたくなる、という言い方で示しています。代表団に加わっていた4人の主教のうち誰なのかは、確実には特定できない、とも書いています。ボウルト自身が、この読みはおおよそのものにすぎず、誤りかもしれない、と断っています。
テートの論考(シャツキフ)は、1914年の作品に書き込まれた「部分日食」の言葉と、1915年の『黒の正方形』を、ひと続きの流れとして読んでいます。シャツキフは、『黒の正方形』を、長い時間をかけて熟してきた「皆既日食」にあたる一枚だと表現しています。これはシャツキフの読み方で、テートという館の見解として書かれたものではありません。
1915年、シュプレマティスムの誕生
1915年12月、ペトログラード(サンクトペテルブルクの当時の名)で「最後の未来派絵画展 0,10(ゼロ・テン)」が開かれました。トレチャコフ美術館は、開幕を1915年12月19日とし、ロシア・アヴァンギャルドの画家14人が参加したと説明しています。シカゴ美術館の記録では、会期は1915年12月19日から翌年1月19日まで、会場はドブィチナ画廊です。
出品点数は資料によって違います。トレチャコフ美術館とロシア美術館は、どちらもマレーヴィチがこの展覧会に39点を出したと書いています。テートの用語解説は、抽象画35点としています。テートは、この展覧会をシュプレマティスムの絵画が実際に展示された最初の機会とし、目録に載ったマレーヴィチの作品の先頭に、白地に黒い正方形が挙げられていた、と説明しています。トレチャコフ美術館によると、目録に載った当初の題は「四角形」でした。
テートの説明では、『黒の正方形』は、部屋の隅の高い位置に、壁と壁をまたぐように掛けられました。伝統的なロシアの家庭で、聖人のイコンを掛ける場所にあたります。テートは、この類似はペトログラードの人々にも伝わっていた、と書いています。展覧会の題の数字について、テートは、マレーヴィチがこの絵を、ゼロから始まる新しい時代のしるしと位置づけたため、と説明しています。
『黒の正方形』(1915年)
冒頭に掲げた図版が、1915年のトレチャコフ美術館の版です。マレーヴィチは、1927年の著書『無対象の世界』(The Non-Objective World)で、1913年に、現実の世界の重荷から芸術を必死に解き放とうとして、正方形の形に逃げ込んだ、と書いています(テートが引用)。エルミタージュ美術館は、この絵が、マレーヴィチの考えた「形のゼロ」、すべての始まりであり終わりであるものを体現していた、と説明しています。
制作年にも注意が必要です。エルミタージュ美術館は、マレーヴィチが一貫して「1913年に描いた」と主張したと書いています。テートは、最初の版は1913年と記されているが、描かれたのはおそらく1915年だと見ている、と説明します。エルミタージュ美術館は、マレーヴィチにとっては、画布に描いた時期よりも、正方形という着想が生まれた時期を記録するほうが大事だったようで、正方形の再制作のすべてに1913年の日付を入れた、と説明しています。ステデライクが公開しているリンダ・S・ボールスマの論考は、シュプレマティスムと『黒の正方形』は1915年のどこかの時点で生まれたものだとし、作品の日付が前倒しにされたのは事実だ、と書いています。ボールスマは、それはマレーヴィチの業績の大きさを少しも損なうものではなく、むしろ、彼の野心や、ほかの芸術家との競い合いを物語る、とも述べています。
テートは、マレーヴィチがこの作品を最初のシュプレマティスムの絵だと宣言したものの、X線で調べると、下から多色のシュプレマティスムの構図が見つかっている、とも説明しています。所蔵するトレチャコフ美術館は、2015年に行った総合的な調査で、絵具の層の下から、幾何学形をいくつも組み合わせた構図が2つ見つかり、『黒の正方形』はその上に描かれていた、と発表しています。
『Painterly Realism of a Football Player』(1915年夏〜秋)

シカゴ美術館が所蔵する油彩です(所蔵番号2011.1。同館の記録で、もとの寸法は71×44.5cm)。題名は「サッカー選手の絵画的リアリズム:四次元の色の塊」という意味です。同館の記録では、制作は1915年の夏から秋で、「0,10」展にこの題名で出品されています(目録番号40)。画面の上には紫の平行四辺形、下には黒い四角、黄色の台形、青い棒、小さな赤い短冊と緑の円が浮かんでいます。
シカゴ美術館の解説は、マレーヴィチが、白く質感のある背景の上に色のついた幾何学形を置き、絵画に新しい種類の「リアリズム」を想像するよう、見る人に求めたと述べています。また、題名にある「四次元」という空間の比喩を使ったこと、額縁をつけずに展示したこと、決まった向きを定めなかったこと、をあげています。同館の展示記録では、1920年のモスクワと1927年のワルシャワで、この絵が逆の向きで掛けられた様子を写した写真が、出典として挙げられています。同館の解説は、1921年のマレーヴィチの言葉として、地球には下も上も、遠近も、重さもない、という趣旨の発言を紹介しています。
『Suprematist Composition: Airplane Flying』(1915年)

MoMAの所蔵する、58.1×48.3cmの油彩です(所蔵番号248.1935)。制作年はMoMAの記録で「1915年(裏面に1914年と記入)」とされています。題名は「シュプレマティスムの構図:飛行する飛行機」という意味です。黄色の長方形が斜めに連なり、その下に、青みがかった黒の大きな長方形が重なります。赤や青の細い棒が、まわりを横切っています。
ステデライクの論考(ジョン・ボウルト)は、マレーヴィチがこうした抽象の作品にも、「飛行する飛行機」や、ロシア美術館の1915年の『Red Square』(赤の正方形)の副題「二次元の農民」のように、現実の世界を思わせる題名をつけたことに注目しています。ボウルトは、それが冗談なのか、主題を基本的な幾何学の構造まで減らした結果なのかを問いとして残したうえで、マレーヴィチは、最も形式的な作品からも、現実への言葉や視覚的なつながりを手放したがらなかったことは確かだ、と述べています。
『黒の正方形』は何枚あるのか
『黒の正方形』には、マレーヴィチ自身が描いた版が複数あります。エルミタージュ美術館、トレチャコフ美術館、テートは、いずれも4つの版があると説明しています。ただし、館の説明どうしで食い違う点もあります。版・年・所蔵館の組み合わせを、出典ごとに整理しました。
| 版 | 年(出典の表記) | 所蔵 | 分かっていること |
| 第1の版 | 1915年(トレチャコフ美術館の作品ページ)。テートは、作品には1913年の日付があると説明 | トレチャコフ美術館(所蔵番号11925) | 79.5×79.5cm。1929年に絵画文化美術館から同館に入った(同館)。別の構図の上に描かれ、ひび割れが生じた(エルミタージュ美術館) |
| 第2の版 | 1923年ごろ(ロシア美術館の作品ページ、エルミタージュ美術館)。トレチャコフ美術館は1924年春の制作と説明 | ロシア美術館(所蔵番号Ж-9484) | 106×106cm。『黒の円』『黒の十字』とともに、ヴェネツィアの国際展に出すために描かれた。エルミタージュ美術館は、弟子たちとともに作ったと説明。ロシア美術館は、現地では結局展示されなかったと書いている |
| 第3の版 | 1929年 | トレチャコフ美術館 | トレチャコフ美術館での個展のために描かれた(同館)。エルミタージュ美術館は、1915年の版がひどく割れていたため、その代わりとして描かれたと説明 |
| 第4の版 | エルミタージュ美術館の作品ページは、制作年の欄を「1913 / circa 1932」(1913年/1932年ごろ)とし、解説文では1930〜1932年の版と書く。トレチャコフ美術館は1930年代初めと説明 | エルミタージュ美術館(所蔵番号ГЭ-10620) | 53.5×53.5cm。1932年にロシア美術館で開かれた展覧会のために描かれ、裏面にあらためて1913年と記した、と同館は説明 |
第3の版に寸法を入れていないのは、資料どうしで食い違うためです。エルミタージュ美術館の解説は、第4の版より前の3つの版を、順に一辺が79.5cm、106cm、85cmと書いています。一方、トレチャコフ美術館の分館の発表は、1929年の版が1915年の版にもっとも近く、大きさもほぼ一致すると書いています。トレチャコフ美術館は、後年の版は1915年の原作と大きさや比率が違い、マレーヴィチは正確に写すことを目指していなかった、とも説明しています。
動き出す形、そして白へ(1915〜1918年)
『Dynamic Suprematism』(1915年または1916年)

テートが所蔵する、80.3×80cmの油彩です(所蔵番号T02319、1978年に購入)。制作年は、テートの記録で「1915年または1916年」です。題名は「動的なシュプレマティスム」という意味です。テートの解説は、はっきりした幾何学形が、白い背景の上で空間に動かされている作品の群のひとつだ、と説明しています。画面の中央には大きな淡い灰色の三角形があり、そのまわりに、黒や青、黄色の小さな面や細い線が、さまざまな向きで浮かんでいます。
『Suprematist Painting』(1916〜17年)

MoMAの所蔵する、97.8×66.4cmの油彩です(所蔵番号819.1935)。制作年はMoMAの記録で「1916〜17年」です。画面の上には緑の棒、中ほどには淡いピンクの斜めの帯と灰色の円、その下にピンクの四角、いちばん下には黒い縦の棒と灰色の半円形があります。色の数は少なく、どれも輪郭がくっきりしているのに、画面全体がふわりと浮いているように見えます。
テートの論考(シャツキフ)によると、1917年の終わりごろから、画面の要素がいっそう動的になります。鋭い縁が白い地に食い込み、色の濃さが薄れるにつれて、図と背景の境がなくなっていきます。マレーヴィチは、この過程を「溶解(dissolution)」と呼びました。
『白の上の白』(1918年)

MoMAの所蔵する、79.4cm四方の油彩です(所蔵番号817.1935)。MoMAの題は『Suprematist Composition: White on White』で、日本では『白の上の白』の名で紹介されてきました。わずかに青みのある白い正方形が、やや黄みのある白い画面の右上寄りに、少し傾いて置かれています。白と白の違いはごく小さく、正方形の輪郭をたどって初めて形が見えてきます。
ブリタニカ百科事典は、この作品を、マレーヴィチのシュプレマティスムの理論を論理的な結論まで進めたものと説明しています。テートの論考(シャツキフ)は、『黒の正方形』と同じく、この作品も、すでにあった別の絵の上に描かれたと書いています。シャツキフは、白い地の上の白い正方形を、作者が「白い世界秩序」へ移ったことの印と読んでいます。これも、シャツキフの読み方のひとつです。
教える人、書く人(1919〜1927年)
革命後のマレーヴィチは、描くだけでなく、教え、書く人になりました。テートの論考(シャツキフ)によると、1919年から22年のヴィテブスク時代には、いつもポケットに小さな望遠鏡を携え、星空を観察していました。1920年12月15日に出た『Suprematism: 34 Drawings』の序文では、人類が宇宙へ進む未来を書き、ロシア語で「仲間・同行者」を意味する「スプートニク」という言葉を、人工の天体という意味で使っています。
1920年3月25日には、モスクワで最初の個展が開かれました(テートの論考。シカゴ美術館の展覧会記録でも、同日付の個展が確認できます)。シャツキフによれば、この個展は、白の上の白の作品を経て、何も描かれていない画布で終わっていました。
レニングラードでは、国立芸術文化研究所で、マレーヴィチの指導のもと、美術の様式を分析する22枚の図表が作られました。ステデライクの論考(ボールスマ)によると、この図表は1927年3月のワルシャワとベルリンへの旅で使うために作られ、そのうちの一枚は、マレーヴィチが、シュプレマティスムとテオ・ファン・ドゥースブルフの構成のあいだに、つながりを見ていたことをはっきり示しています。ニューヨーク近代美術館も、1924〜27年の『Analytical Chart』(分析図表)を5点所蔵しています(所蔵番号820.1935〜824.1935)。
ドゥースブルフは、オランダの前衛芸術のグループ「デ・ステイル」の創設者で、中心人物でした。ボールスマによれば、二人は会ったことがなく、少なくとも1919年までは、お互いの作品の複製も見ていませんでした。同じ論考には、1925年にエル・リシツキーが、ピート・モンドリアンの解決を、西ヨーロッパ絵画の発展の最終的な到達点だと評した脚注も紹介されています。モンドリアンについては、こちらの徹底解説もあわせてご覧ください。
1927年、マレーヴィチはポーランドとドイツを訪れました。ステデライクの論考(ボールスマ)は、これをマレーヴィチのただ一度の国外への旅と書いています。シカゴ美術館の展覧会記録によると、ワルシャワでの個展は3月20〜27日、ベルリンの「大ベルリン美術展」の特別展示は5月7日〜9月30日です。同じ論考には、1927年4月7日にデッサウのバウハウスの前で撮られた写真が載っています。ボールスマは、マレーヴィチがスターリン体制のもとで前衛芸術に迫る脅威を意識しながら、それまでの仕事をドイツに残して帰国した、と書いています。この年、理論をまとめた『無対象の世界』(Die gegenstandslose Welt)がドイツ語で出ています(ブリタニカ、テート)。
具象への回帰と最期(1928〜1935年)
1929年、マレーヴィチは、トレチャコフ美術館での個展のために、あらためて『黒の正方形』を描きました(トレチャコフ美術館、エルミタージュ美術館)。一方で、テートは、1924年からのスターリンの台頭と社会主義リアリズムの導入によって、マレーヴィチのキャリアは行き詰まり、亡くなるまでの最後の数年間は、具象の絵を描いた、と説明しています。
テートは、マレーヴィチが晩年の具象の絵の多くに、小さな黒い正方形を署名のように描き込んだことを紹介しています。トレチャコフ美術館も、晩年の作品には署名の代わりに黒い正方形が置かれたと説明しています。テートの学芸員ボルヒャルト=フメは、同館の動画で、晩年の作品は単なる悔い改めではなく、自分は『黒の正方形』の発明者であり、そのことを悔いはしない、と言おうとしているかのようだ、と語っています。これはボルヒャルト=フメの解釈です。
マレーヴィチは、1935年5月15日にレニングラードで亡くなりました(ブリタニカ)。テートの論考(シャツキフ)は、亡くなる前の1年は、重い病のために制作ができなかった、と書いています。テートによると、葬儀では、遺体を運ぶ車の前面に黒い正方形が掲げられ、会葬者は黒い正方形の旗を手にしていました。棺の上にも、黒い正方形の旗が付けられました。トレチャコフ美術館は、墓には弟子のニコライ・スエチンが、黒い正方形のついた白い立方体の碑を立てた、と伝えています。
没後、作品が戻ってくるまで
テートによれば、マレーヴィチの死から数か月のうちに、その作品は公の場から姿を消しました。それでも作品は、いくつもの経路で、いまの所蔵館にたどりつきました。出典で確認できた範囲を、表にまとめます。
| 所蔵館 | 経緯(出典の記載) |
| ニューヨーク近代美術館(MoMA) | 『Airplane Flying』『White on White』『Suprematist Painting』など、所蔵番号に「1935」がつく作品は、MoMAの記録で収蔵日が1935年9月または11月とされています。クレジットラインには、1935年の収蔵が1999年に、マレーヴィチの遺族との合意で確認された旨が書かれています |
| アムステルダム市立美術館(ステデライク) | 1958年に、1927年の大ベルリン美術展に残された絵画、素描、教材用の図表、手稿を収蔵(同館の論考)。作品の記録には、2008年にマレーヴィチの遺族との合意で所有権が認められた、と記されています。1998年からは、ニコライ・ハルジーエフの収集品も預かっています |
| エルミタージュ美術館 | 『黒の正方形』(第4の版)は、没後に作者の妻の手に渡り、妻が1991年に亡くなった後は姪が相続。1993年に銀行へ贈られ、2002年にロシア文化省が先買権を行使して購入し、エルミタージュ美術館に収めました(同館のニュース) |
| シカゴ美術館 | 『Painterly Realism of a Football Player』は、作者の没後、遺族に受け継がれ、2011年1月に同館が購入(同館の記録) |
ステデライクは、1989年に、ロシア美術館(レニングラード)とトレチャコフ美術館(モスクワ)と共同で大規模なマレーヴィチ回顧展を開いています。2013〜14年には、ステデライク、テート・モダン、ボンのドイツ連邦共和国美術展示館が、回顧展を開きました。ステデライクは、ハルジーエフ・コレクションの大部分がこの回顧展の対象になったと説明しています。テートの発表では、2014年のテート・モダンの展覧会は、30年ぶりの回顧展であり、英国で開かれた最初の回顧展です。
その影響について、テートの論考(シャツキフ)は、単純で単独の形をもつシュプレマティスムの絵が、20世紀後半のミニマリズムの先触れとして見られてきたこと、白の上の白の作品が、イヴ・クラインの単色の作品と響き合うことを挙げています。また、1924年ごろの手帳に「音楽の目標は沈黙」という書き込みがあり、1952年に沈黙の曲『4分33秒』を作ったジョン・ケージが、この考えを見事に実現した、と書いています。いずれも、シャツキフの見方です。
まとめ
いかがだったでしょうか。カジミール・マレーヴィチの人生と作品を、所蔵館などの公式情報をもとにたどってきました。
農民を円筒の形で描いた時代、理性を手放した1914年、そして1915年の『黒の正方形』から、『白の上の白』へ。マレーヴィチの絵は、見えるものから離れて、色と形そのものへ進んでいきました。晩年には具象の絵へ戻り、その画面にも小さな黒い正方形を署名のように置きました。
生まれた場所の書き方や、生まれた年が、館によって違うことも、この記事で見てきました。『黒の正方形』も、版・年・所蔵館の組み合わせを確かめないと、どの作品の話なのか分からなくなります。分からないところは分からないまま、出典を添えて並べることが、この人物にはいちばん誠実な向き合い方かもしれません。機会があれば、ぜひ実物の前で、黒い面のひび割れや、白い地の筆跡まで、ゆっくり眺めてみてください。
Euphoric " " の視点
マレーヴィチは、白い地に黒い正方形をはじめて描いたとき、それを「あらゆる可能性の芽」と呼んだといいます。
のちに正方形を再制作するたびに、彼は1913年の日付を入れました。画布に描いた時期よりも、着想が生まれた時期を記録するほうが大事だったようだ、と説明されています。
ヴィテブスク時代には、いつもポケットに小さな望遠鏡を携え、星空を観察していたそうです。
何を作ったかと同じくらい、いつ思いついたかを大切にする。マレーヴィチの姿勢は、着想そのものを仕事の中心に置く考え方があることを教えてくれるのかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。







