こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんはキース・ヘリングという人物をご存知ですか?
1980年代のニューヨークで活躍したアメリカの美術家です。太く弾む輪郭線で描かれた人や犬、赤ちゃんの絵を、Tシャツやポスターなどの身近な形でも目にしたことがある方は多いのではないでしょうか。ただ、あの明るい絵は、美術館の外、つまり地下鉄の駅や街角の壁から広がったものです。
ヘリングは、絵を「見に行くもの」から「通りがかりに出会うもの」へ広げようとした人でした。本記事ではそんなキース・ヘリングの人生と作品についてご紹介します。ヘリングの作品は現在も著作権で保護されています。本記事では、キース・ヘリング財団の公式ページで公開されている画像を、解説のために出典を明記して引用し、図解や表、公式動画とあわせてご紹介します。
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Toggleキース・ヘリングって?
キース・ヘリングは、1958年にアメリカのペンシルベニア州で生まれ、1990年に31歳で亡くなった美術家です。活動した期間は1980年代の約10年間と短いものでした。それでも、キース・ヘリング財団の公式サイトによると、生前に開かれた個展とグループ展は100を超えます。世界中の都市で壁画や公共の作品も手がけ、1982年から1989年のあいだに50点以上の公共作品を残しました。
作品の見た目は、とても分かりやすいものです。ただ、そこに込められた考えは、実はとても一貫しています。見方のコツは、次の3つに整理できます。

1つ目は、線の力です。財団の公式サイトは、ヘリングが「線の優位(the primacy of the line)」にもとづく独自の表現へと進んだと説明しています。2つ目は、見る人のいる場所へ出ていくことです。財団によると、ヘリングは「真に公共的な芸術」をつくることを目指しました。3つ目は、子どもたちを含む多くの人と一緒につくることです。この3つを頭に置くと、次の節からの歩みがぐっと読みやすくなります。
基本情報
| 本名 | キース・ヘリング(Keith Haring) |
| 生年月日(没年月日) | 1958年5月4日(1990年2月16日、31歳で没) |
| 国籍・出身 | アメリカ・ペンシルベニア州レディング生まれ。近くのカッツタウンで育つ |
| 学歴 | ピッツバーグのアイヴィー・スクール・オブ・プロフェッショナル・アートに2学期在籍後に退学。1978年にニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ(SVA)に入学 |
| 分野 | 美術家(絵画、素描、壁画などの公共美術、商品やポスターのデザイン) |
| 傾向 | 1980年代ニューヨークのストリート文化から生まれた、線を中心にしたグラフィックな表現 |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 師事した人物は記録なし。影響を受けた人物として、財団はジャン・デュビュッフェ、ピエール・アレシンスキー、ウィリアム・バロウズ、ブライオン・ガイシン、ロバート・ヘンライ、クリスト、アンディ・ウォーホルを挙げる |
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経歴と作品
ヘリングの人生は、「絵を描く少年時代」「ニューヨークでの出会い」「地下鉄での実験」「世界へ広がる壁画とポップショップ」「日本とのつながり」「財団と美術館に受け継がれたもの」という流れで読むと追いやすくなります。まず、全体の年表を見てみましょう。
| 1958年 | 5月4日、ペンシルベニア州レディングに生まれる |
| 1976年 | 高校を卒業し、ピッツバーグの商業美術の学校に入る |
| 1978年 | ピッツバーグで個展。のちにニューヨークへ移り、SVAに入学 |
| 1980年 | ニューヨークの地下鉄で、チョークによる「サブウェイ・ドローイング」を始める |
| 1981年 | ニューヨークで初の個展(ウエストベス・ペインターズ・スペース) |
| 1982年 | トニー・シャフラジ画廊で個展。ドクメンタ7に参加 |
| 1983年 | 初来日。ホイットニー・バイエニアルに出品 |
| 1984年 | ヴェネチア・ビエンナーレに出品。世界各地で壁画の制作を始める |
| 1985年 | パリ・ビエンナーレに出品。レオ・キャステリ画廊で個展 |
| 1986年 | ソーホーにポップショップを開店 |
| 1987年 | 東京の多摩市で約500人の子どもたちと壁画を制作 |
| 1988年 | 青山にポップショップ東京を開店 |
| 1989年 | キース・ヘリング財団を設立。ピサで『Tuttomondo』を描く |
| 1990年 | 2月16日、31歳で亡くなる |
漫画と手描きに親しんだ少年時代(1958〜1978)
ヘリングは1958年5月4日に生まれ、近くのカッツタウンで育ちました。財団の公式サイトによると、絵を描くことが好きになったのはとても早く、基本的な漫画の描き方を父親から、そして身のまわりの大衆文化から学んだそうです。例として挙げられているのが、ドクター・スースとウォルト・ディズニーです。
1976年に高校を卒業すると、ピッツバーグのアイヴィー・スクール・オブ・プロフェッショナル・アートに入学しました。商業美術の学校です。ところが、商業的なグラフィックの仕事にはほとんど興味が持てないと気づき、2学期で退学しています。それでもピッツバーグにいるあいだ、ヘリングは自分で勉強と制作を続け、1978年にはピッツバーグ・アーツ・アンド・クラフツ・センターで個展を開きました。
この時期から、ヘリングが「学校で習う美術」より「自分で見つけた表現」を大事にしていたことが分かります。のちに地下鉄の駅でチョークを握る姿は、突然始まったわけではなく、この自習の延長にあったのだと考えます。
ニューヨークでの出会いとクラブ57(1978〜1980)
同じ1978年、ヘリングはニューヨークに移り、SVAに入学します。財団の公式サイトは、当時のニューヨークには、ギャラリーや美術館の仕組みの外側で育つ活気あるオルタナティブな美術の共同体があった、と伝えています。場所は、ダウンタウンの路上、地下鉄、クラブ、かつてのダンスホールでした。
ここでヘリングは、ケニー・シャーフ、ジャン=ミシェル・バスキアといった美術家、そしてミュージシャン、パフォーマンス・アーティスト、グラフィティの書き手たちと友人になります。そして、クラブ57などの場で展覧会やパフォーマンスを企画したり、参加したりするようになりました。美術館の展示室ではなく、人が集まる場所そのものが発表の場だったのです。
この時期に影響を受けた人物は、財団の公式サイトに具体的に挙がっています。ジャン・デュビュッフェ、ピエール・アレシンスキー、ウィリアム・バロウズ、ブライオン・ガイシン、そして画家ロバート・ヘンライが書いた『The Art Spirit』です。同書は芸術家の根本的な独立を説いた本だと、財団は説明しています。さらに、クリストの『Running Fence』が持つ公共的で参加型の性格や、アンディ・ウォーホルの、芸術と生活を結びつけるやり方にも惹かれ、ヘリングは「真に公共的な芸術」をつくることを自分の仕事にしようと決めた、とされています。
学生時代のヘリングは、パフォーマンス、ビデオ、インスタレーション、コラージュも試しました。それでも、財団によれば、素描にかける強い意志は変わりませんでした。線で語るという姿勢が、すでにこのころから軸になっていたといえます。
地下鉄が「実験室」だった(1980〜1985)
ヘリングの名前を広めたのが、サブウェイ・ドローイングです。財団の公式サイトによると、1980年、ヘリングは地下鉄の駅で、黒いつや消しの紙で覆われた、使われていない広告板に気づきました。そこに白いチョークで絵を描きはじめたのです。

『サブウェイ・ドローイング』(1980〜1985)
1980年から1985年のあいだに、ヘリングは数百点の公開ドローイングを描きました。リズミカルな線でどんどん描き、1日に最大で40点も手がけることがあったそうです。この流れるような絵は、ニューヨークの通勤客におなじみになりました。作業中のヘリングに、足を止めて話しかける人もいたと財団は伝えています。
地下鉄は、ヘリング自身の言葉でいえば「実験室(laboratory)」でした。自分のアイデアを試し、単純な線を試す場所だったのです。ここで磨かれた線が、のちの壁画や商品のデザインにもつながっていったと考えます。
テート・リヴァプールが2019年に開いたヘリング展の公式プレスリリースは、この展覧会を、ヘリングの活動がもつ「パフォーマンス」の性格にも光を当てるものと紹介しました。地下鉄でのライブのチョーク・ドローイングが、その例として挙げられています。つまりサブウェイ・ドローイングは、完成した作品であると同時に、描く行為そのものが人に見られる出来事でもありました。
なお、地下鉄での制作の始まりは、ブリタニカ百科事典では1981年と書かれていますが、財団と中村キース・ヘリング美術館の公式年表は1980年としています。本記事では、ヘリングの活動を管理する財団の記述にそろえて1980年としました。
ヘリングが地下鉄で絵を描いた理由について、テートの公式解説は、ヘリングがグラフィティに刺激を受けたこと、そして、誰もが楽しめるようにアートを開きたかったことを挙げています。同じ解説では、ヘリング自身が、気後れせずにアートを体験できるようにしたかった、触れて、感じて、動かせるアートにしたかった、という趣旨を語っています。ここで大切なのは、ヘリングが「落書きの真似」をしたかったのではない、という点です。ブリタニカは、ヘリングは都市のグラフィティの書き手が使う「タギング」の手法をほとんど共有しておらず、むしろ新しい公共的で日常的な看板のような可能性に引かれていた、と整理しています。
画廊と国際展へ(1981〜1985)
地下鉄での評判は、展覧会の機会にもつながりました。1981年、ニューヨークで最初の個展がウエストベス・ペインターズ・スペースで開かれます。1982年にはソーホーのトニー・シャフラジ画廊で個展を開き、財団の公式サイトによると、これは大きな人気を集め高い評価を受けました。同じ時期に、ドイツ・カッセルのドクメンタ7、サンパウロ・ビエンナーレ、ホイットニー・ビエンナーレといった国際的な大型展にも参加しています。

中村キース・ヘリング美術館の年表によると、1984年にはヴェネチア・ビエンナーレに出品し、オーストラリアやブラジルなど世界各地で壁画の制作を始めました。パラダイス・ガラージでの個展もこの年です。1985年にはパリ・ビエンナーレに出品し、レオ・キャステリ画廊で個展を開いています。
ここで注目したいのは、ヘリングが画廊で評価されても、地下鉄での活動をやめなかったことです。財団は、1980年から1985年のあいだ、地下鉄のドローイングを続けたと説明しています。画廊での個展と、通りがかりの人が見る駅の絵は、ヘリングにとって対立するものではなく、同じ考えの両面だったのではないでしょうか。
画廊の枠に収まらない活動の広がりについて、テートの2019年のプレスリリースは次のように伝えています。展覧会では、1982年の「ブラックライト」のインスタレーションが、蛍光の作品を紫外線で照らし、ヒップホップの音楽とともに紹介されています。また、ヘリングは写真家のツン・クォン・チーと協働し、その制作の様子を記録してもらっています。ヴィヴィアン・ウエストウッドやマルコム・マクラレンのためのセットやデザインも手がけました。

壁画、子どもたち、ポップショップ(1986〜1989)
1986年前後から、ヘリングの活動は一段と大きく広がります。財団の公式サイトによると、ヘリングは1982年から1989年のあいだに50点を超える公共作品を、世界の数十の都市でつくりました。その多くは、慈善団体、病院、保育施設、孤児院のために制作されています。地下鉄から始まった「誰もが目にする場所で描く」という姿勢が、壁画という形で広がっていったのです。

ここでは、よく知られた公共の取り組みをいくつか見ていきます。画像を引用できたものはあわせて掲載し、所在や背景を中心にご紹介します。
『Crack is Wack』(1986)
ニューヨークのイースト・ハーレムには、ヘリングが1986年に描いた壁画『Crack is Wack』が残っています。ニューヨークLGBTQ歴史的場所プロジェクトによると、場所はハーレム・リヴァー・ドライブ沿いの、セカンド・アベニューとイースト128丁目の角にあるハンドボール・コートの壁で、現在の版は1986年10月3日に公園局の局長の依頼で描き直されたものです。
自由の女神100周年の壁画と子どもたち(1986)
財団の公式サイトは、1986年の自由の女神100周年のために壁画を制作し、そのとき900人の子どもたちと一緒に作業したと伝えています。ヘリングが子どもたちとの共同制作を大切にしていたことが、数字からも伝わります。
子どもとの活動は、このときだけではありません。財団によると、ヘリングは、ニューヨーク、アムステルダム、ロンドン、東京、ボルドーの学校や美術館で、子ども向けの絵のワークショップも開きました。また、ブリタニカは、ヘリングが壁画をリオデジャネイロ、ベルリン、メルボルン、シカゴ、アトランタなどで描き、多くの場合、大勢の子どもたちに手伝ってもらったと説明しています。
ネッケル小児病院とベルリンの壁
財団の公式サイトは、他の公共プロジェクトとして、1987年にフランス・パリのネッケル小児病院の外壁に描いた壁画を挙げています。また、ベルリンの壁の西側にも壁画を描きました。壁が崩れる3年前のことだと財団は説明しています。
『Tuttomondo』(1989)
イタリアのピサには、ヘリングが1989年に描いた壁画『Tuttomondo』があります。トスカーナ州の公式観光サイト「Visit Tuscany」によると、サンタントニオ・アバーテ教会の司祭館の外壁に描かれ、壁の面積は180平方メートル、30の人物像が登場し、テーマは世界の調和と平和です。

ヘリングが亡くなる前年の作品で、街の屋外にあるため、通りがかりの人が目にできます。この点は、地下鉄の絵と同じ「通りがかりの芸術」だと考えます。
ポップショップ(1986〜)
1986年4月、ヘリングはソーホーに「ポップショップ」を開きました。財団の公式サイトによると、ヘリングの絵がついたTシャツ、おもちゃ、ポスター、バッジ、マグネットなどを売る店です。店内は、白地に黒の抽象的な壁画ですべて塗られていました。ヘリングはこの店を自分の作品の延長だと考え、多くの人が低価格で作品に触れられるようにすることを目的にしていたそうです。

この店は、美術界の多くの人から批判も受けました。それでもヘリングは、できるだけ多くの人に作品を届けたいという考えを貫き、友人やファン、そしてアンディ・ウォーホルから強い支持を受けたと財団は伝えています。
私は、このポップショップをめぐる議論は、いまの感覚で読み返してもおもしろいと考えます。作品を商品にすることを「芸術の価値を下げる」と見る人もいれば、「届く範囲を広げる」と見る人もいるからです。ヘリングは、はっきり後者の立場に立ちました。ウォーホルが芸術と生活を結びつけたことを、ヘリングは自分なりに店という形にしたといえるのかもしれません。
ほかにも、財団の公式サイトによると、1980年代前半の公共プロジェクトとして、タイムズスクエアの電光掲示板「スペクタカラー」のためのアニメーション、劇場やクラブの舞台装置、スウォッチの腕時計のデザイン、アブソルート・ウォッカの広告キャンペーンなどがあります。ヘリングは、マドンナ、グレイス・ジョーンズ、ビル・T・ジョーンズ、ウィリアム・バロウズ、ティモシー・リアリー、ジェニー・ホルツァー、オノ・ヨーコ、アンディ・ウォーホルなど、さまざまな分野の人と共同制作をしています。
| 『サブウェイ・ドローイング』 | 1980〜1985年 | ニューヨークの地下鉄の駅。白いチョークで、使われていない広告板に描く |
| 自由の女神100周年の壁画 | 1986年 | 900人の子どもたちと制作 |
| ネッケル小児病院の壁画 | 1987年 | フランス・パリの病院の外壁 |
| 多摩市の壁画 | 1987年 | パルテノン多摩で約500人の子どもたちと制作 |
| 『Tuttomondo』 | 1989年 | イタリア・ピサ。面積180平方メートル、30の人物像 |
日本とヘリング(1983〜)
ヘリングは、日本とも深いつながりを持った美術家でした。中村キース・ヘリング美術館の公式サイトによると、1983年に初めて来日し、展覧会やワークショップを開き、自分のショップの2号店として「ポップショップ東京」も開いています。

同館の年表では、1987年に多摩市の複合文化施設パルテノン多摩で約500人の子どもたちと壁画を制作し、1988年に青山にポップショップ東京を開いたことが記されています。ブリタニカも、1988年に東京店を開いたと書いています。
次の節では、ヘリングの作品を専門に紹介する山梨の美術館を見ていきます。
財団と、遺されたもの(1989〜)
1989年、ヘリングはキース・ヘリング財団を設立しました。財団の公式サイトによると、設立の目的は、エイズ関連の団体と子どもたちのための活動に資金と画像を提供すること、そして展覧会、出版、ライセンスを通じてヘリングの作品の受け手を広げることです。ヘリングは1990年2月16日に31歳で亡くなりました。
亡くなったあとも、ヘリングの作品は世界の主要な美術館のコレクションや展覧会で見ることができます。2019年には、テート・リヴァプールが、イギリスで初めての本格的なヘリング展を開きました。同館のプレスリリースによると、85点を超える作品を集め、その多くは英国で初公開でした。
中村キース・ヘリング美術館
日本には、ヘリングの作品だけを専門に紹介する美術館があります。山梨県北杜市の中村キース・ヘリング美術館です。同館の公式サイトによると、ヘリングの作品を専門に紹介する世界で唯一の美術館とされています。

創設者は、コレクターの中村和男です。同館の公式サイトによると、1946年に山梨県甲府市に生まれ、薬の開発に携わったあと、臨床研究の会社を創業しました。1987年からヘリング作品の蒐集を始め、ヘリングの芸術とメッセージを広く共有すべきだという信念のもと、2007年に小淵沢町(現在の北杜市)に美術館を創設しています。
建築は、建築家で東京藝術大学名誉教授の北川原温が設計しました。館のテーマは「闇から希望へ」です。1980年代の混沌としたニューヨークで活動したヘリングの作品のメッセージを体感できるよう設計された、と公式サイトは説明しています。2015年春のリニューアルでは、自由の展示室とミュージアムシアター(中庭)が増築されました。
コレクションは、約300点の作品と、記録写真や映像、生前につくられたグッズなど700点以上の資料です。スタイリストのパトリシア・フィールドが半世紀にわたって集めたコレクションからは、主要作品約190点が収蔵されています。
この美術館は、作品を見せるだけの場所にとどまりません。公式サイトのミッションには、HIV・エイズに関する正しい知識の発信や、LGBTQ+に関する情報発信、子どもたちのためのプログラム、環境、平和といった活動が並びます。2009年から続く国際児童絵画コンクールには、これまでに世界約50の国と地域から約14,000点が寄せられ、2023年に第15回を迎えたこのコンクールは「メセナアワード2022」で優秀賞を受けました。
2026年10月時点では、「ケニー・シャーフ&キース・ヘリング:K!K!」が2026年6月6日から2027年5月16日まで開催中と、公式サイトに載っています。ヘリングと同じころニューヨークで活動した友人、ケニー・シャーフとの展示です。
館の公式YouTubeチャンネルでは、展示の映像が公開されています。作品の様子は、まず動画でご覧ください。
同館は、毎年8月を中心に、ヘリングの作品を通して平和を考える活動も行っています。2024年には子どもたちが主体のワークブック『キース・ヘリングと平和をえがこう』を刊行し、2025年には戦後80年にあわせて広島ゲートパークで3日間のイベントを開きました。その広島でのワークショップの様子は、次の動画で紹介されています。
ヘリングの絵をどう見るか
ここまでの歩みを踏まえて、ヘリングの絵を見るときの視点を、書き手の考えとして3つ挙げます。
1つ目は、「簡単に見えること」を、軽く見ないことです。テートは、ヘリングの視覚言語を「見かけは単純(deceptively simple)」と表現しています。誰でも一目で分かる形は、実は、長いあいだ線を試した結果だと考えられます。地下鉄を「実験室」と呼んだヘリング自身の言葉が、それを裏づけているように思います。
2つ目は、モチーフの意味を決めつけないことです。テートは、ヘリングの代表的なモチーフとして、輝く赤ちゃん(radiant baby)や吠える犬(barking dog)、空飛ぶ円盤を挙げています。一方で、テートは、ヘリングの作品の多くが同時代の社会的・政治的な出来事に応えたものだとも説明しています。モチーフを1つの意味に決めてしまうより、描かれた時期や場所とあわせて読むほうが、ヘリングの意図に近づけると考えます。
3つ目は、場所とセットで見ることです。ヘリングの作品は、地下鉄の駅、街の壁、病院、商店と、置かれた場所と切り離せません。作品の画像だけを見るより、どこにあったのか、誰が見たのかを知るほうが、ヘリングの考えに近づけます。ピサの『Tuttomondo』のように、いまも屋外で見られる作品があるのも、その意味では大きいと思います。
まとめ
いかがだったでしょうか。キース・ヘリングは、1958年に生まれ、1978年にニューヨークへ出て、1980年から地下鉄の黒い広告板にチョークで絵を描きはじめた美術家です。画廊や国際展で評価されてからも、壁画、子どもたちとのワークショップ、ポップショップへと、見る人のいる場所へ出ていく姿勢を変えませんでした。
日本とも、1983年の初来日、1987年の多摩市での壁画、1988年のポップショップ東京、そして2007年に開館した中村キース・ヘリング美術館と、深いつながりがあります。ヘリングの作品は著作権で保護されているため、本記事で引用した画像はごく一部です。美術館の公式サイトや動画で、ぜひ実際の線に触れてみてください。
Euphoric " " の視点
ヘリングは地下鉄を「実験室(laboratory)」と呼びました。自分のアイデアを試し、単純な線を試す場所だったといいます。1980年から1985年のあいだに描いた公開ドローイングは数百点で、1日に最大で40点も手がけることがあったそうです。
その実験の場は、ニューヨークの通勤客におなじみの駅でした。作業中のヘリングに、足を止めて話しかける人もいたと財団は伝えています。テート・リヴァプールのプレスリリースも、地下鉄でのライブのチョーク・ドローイングを、活動がもつ「パフォーマンス」の性格の例に挙げました。
試作は、仕上がるまで人に見せないもの、と考えがちかもしれません。けれどもヘリングの歩みからは、試している途中を人の前に置くことで、線が磨かれ、見る人との関係も同時に育っていく、という見方が得られると考えます。途中を見せる場を一つ持つことは、次の仕事への入口にもなるかもしれません。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。






